大人に楯突く子供の歌、思春期特有の全能感の歌みたいな見方をしている人が多いけどMVとか歌いかたと照らし合わせるとちがくない?という
むしろ社会の息苦しさに気づいてしまった少女の悲劇性の歌だと思う
社会の息苦しさに気づく程度の賢さはあるのに社会を変えるほどの力はなく、見て見ぬふりをしてしたたかに生きる力もないままもがいた末力尽きる
主人公を囲むのがレーザーだというのも象徴的で、見えなければ無害だが気づいてしまえば視界にちらついて不愉快。糸と違って実体がないから振り払おうともがいても無意味。ルールもマナーもそういうものだ
途中で主人公が力無く座り込む描写も主人公最強ソングなら不要だ
やり玉にあげられている「私が俗に言う天才です」もこの場面を踏まえた文脈からすると心が折れかけているのを奮い立たせるための言葉ではないかと感じる
最後には撃ち殺されてしまうわけだし、結局彼女は社会に打ち勝てていない
そもそも大人を馬鹿にするだけ曲にしては全体を通してあまりにも余裕がない
もっと余裕ぶっこいて煽ればいいのに
言ってること自体は間違ってないし、社会で生きる上でそれが通るかは別として言われればまあそれなりにうぐぐ…となるだろう
それを笑ってやれば良い
必死こいて怒鳴るよりよっぽど優位にたてるし、周りをこき下ろして悦に入るだけならそれで十分じゃないか
ざっくり過去作を聞いた限りだと、その気になればそういう曲も作れる人のように思える
でもそうじゃない
彼女はただ自分を誇示したくて大人を笑っているのではないからだ
もしかしたら序盤はそうだったのかもしれないがラスサビは違う
大人がとうに諦めた壁を許せずにボロボロになりながら体当たりを繰り返している
自分を奮い立たせ、必死で己の強さと周りの愚かさを声を枯らして空に叫んでいる
でもどんなにがなって、煽って、怒鳴ってもそこにあるのはレーザーだけで、彼女を苦しめる人間はビルの外で悠々と銃を構えていることだろう
叫びは結局誰にも響かないし、まあ今のTwitterの様相を見る限り滑稽だと笑われるのが関の山
ラスサビにはそういう、強い言葉の裏に潜む悲壮感がちゃんとある気がする
経済や流行を把握するのにも空いたグラスに酒を注ぐのにも違和感を覚えないという人はいて、それはある種の強さだし
あるいは違和感を感じつつ生活のためにそれらをこなせるというのもまた強さで
そのどちらも持ち得なかった、ひねくれたようでどの大人より愚直な少女の末路の歌だと思うし作り手も歌い手もそれを自覚的にやってるんじゃないかと思う
補足
もちろん解釈は自由だしあまりにも合う人がいないので驚いたな、というだけの話でなにかを否定する意図はないです
うっせぇわとうっせぇわを好きな少年少女をを笑い者にする奴らは許せないが