はてなキーワード: 歴史的とは
anond:20191109191407で紹介されているやつな。機械翻訳にかけたあと適当に修正しただけなので誤訳勘弁。
大正ロマン(大正浪漫)。日本の大正時代 (1912〜1926)をロマン化した(romanticized)視点で表現する風潮のこと。
(中略)
本来、大正ロマンは韓国で特に批判される要素がなかった。しかし、2016年の『アイドルマスター ミリオンライブ!』右翼議論の後に、大正ロマンが間違っているという主張が一部のオタクの間で提起され、急速に伝播されて、いくつかのインターネットコミュニティを中心に大きな議論を呼ぶようになった。
韓半島の歴史的には、大正ロマンの前半は、日本植民地時代の武断統治期、あるいは文化統治期初期に該当していた時期で、躊躇なく野望を曝け出した民族抹殺統治期よりは相対的に良いが、知ってのとおり制服を着た日本の憲兵/巡査が韓半島で悪名を轟かせていたので、大正時代をひたすら肯定的にのみ見ることには無理がある。軍服だけ除けばどうかという人もいるが、明治以降の西洋化は日本政府と軍隊が主導して民間に広がったものであり、また大正ロマンにおいて日本軍と制服は概ね必須要素だ。それが無ければぎこちなく感じられる。少なくともマントを羽織った学ランは出なければならない。
これらの背景には、日韓両国の時代を眺める視点の違いがいくつかあるが、韓国は帝国主義時代の日本全体を否定的に見る傾向があり、日本は軍部が政権を掌握した昭和時代以前の帝国主義については一面的に否定的な評価をしない。そのために、日本のメディアでは「あの頃のように帝国主義に戻って大きく強く豊かな日本を作ろう」といった極端なメッセージを含んでおらず、単に「ユニークで美しい時代だった」という意味しかなくとも、周辺国では拒否感を覚える場合がある。
本来、韓国で大正ロマンは批判される要素ではなく、いくつかのインターネットコミュニティを除けば、大正ロマンの批判はない。特に植民地支配を擁護する要素がないのであれば、韓国の一般人にとって大正時代は何の変哲もない時代であるだけだ。ポン・ジュノ監督は、鈴木清順の大正ロマン3部作のブルーレイBOXを購入したとインタビューで述べたが、誰も問題にしなかった。日本へのパッケージツアーで大正ロマンのコンセプトカフェに行くこともあるし、大正ロマンを題材にした日本の文学作品が流通することもある。そもそも韓国でもこのようなものが存在することを知らない人が大半である。
韓国でもその時代を扱った作品を見ると、大正ロマンの必須要素がすべて登場する場合が多い。大正ロマンの説得力のある描写とされている要素が、日帝時代、特に1920〜30年代を舞台にした作品でも、同様に美化されて描写される。主に日本植民地時代を時代背景にした作品の中で、日本の悪行や独立運動のような重い素材ではなく、恋愛や芸術などの軽い素材を扱った作品で、このような要素が著しく現れる。パク・チャヌクの『お嬢さん(映画)』の衣装監督は、最初から大正時代の反物を探して駆け回った。しかし、これをもって、その時代を美化したと批判する人はいない。これは、韓国でも三・一運動後から太平洋戦争以前の時期までは、文化統治と経済の好況という流れがあったからだ。
実際、韓国オタクのなかでも、大正ロマンの批判をする風潮は、あまり古くからあるわけではない。2000年代後半、さらに2010年代初頭までは、韓国オタクたちも大正ロマンは良いという話を公然とした。この時期に、韓国でよく挙げられた代表的な作品としては『るろうに剣心』がある。ツイッターなどを検索すればログが残っているので確認可能である。大正ロマンが問題視され始めたのは2010年代中盤だと言うことができ、この時期に起きた事件は、2016年1月の舞台『あんさんぶるスターズ!』 右翼議論である。正確に何をきっかけに突然大正ロマンがタブーになったかはわからないが、概ね韓国の成長と民族主義化、日本の右傾化が原因と思われる。
とりあえず、昔からタブー視されてきた日本帝国と日本の軍服要素に対する批判が、大正ロマン全体に対する批判に拡張されたものと思われる。大正ロマンに批判的ではないコミュニティでも、日本軍の要素については批判的な態度をとる場合がほとんどである。
また、『ヘタリア』(ウェブコミック) 、『進撃の巨人』(作者がプライベートにおいて自分の政治的・歴史的な見解を発言した)などの後に、「避難所ドットコム」などの女性向けのコミュニティで、右翼的な要素が徹底的に検閲された影響もある。おりしも2010年代中盤に入って際立ったコミュニティの先鋭化も少なからぬ影響を及ぼした。現在は、男性の多いコミュニティでは日本軍服など軍国主義要素は批判しても大正ロマンに対しては問題を感じない人々が大半だが、ツイッターおよび女性の多いコミュニティでは大正ロマンは軍国主義の美化および戦争の美化と同一視して、徹底的に排斥しなければならない要素として扱われている。
(後略)
結構前からある問題だが、日本人と韓国人の価値観の違いが顕著に現れている事例だと思う。
日本人からすれば、大正浪漫という言葉は大正時代の文化でしかなく、外国の情勢などは全く考慮しないのに対して、韓国側は大正時代に受けた迫害を反省せず浪漫として侵略の歴史を賞賛していると考えているようだ。
大正浪漫という言葉の意味を韓国人が取り違えている事例については、もっと勉強してほしいという一言で済むのだが、その意味を知った上で歴史的反省がないと主張する韓国人がいる。
ここに私は違和感を感じるのだ。
歴史の反省というものは、個人の価値観に植え付けるものではない。加害国の国民は永遠に反省を背負って過ごすことが償いだということではないということだ。
反省というものは、政治的な制度に反映させるべきものである。ドイツでいえば、恐ろしい政権が生まれたことを反省して形式的法治主義から実質的法治主義へと制度を変えた。日本も知っての通り、敗戦後、戦争の反省から平和憲法が制定された。
人の考え方は変化するものであるが、その中でも直ぐには変わることのない制度というものがある。
「コーヒー」と表現される飲み物は、実は種類がとてもたくさんあると感じている。
コーヒーにまつわる議論が尽きないのも、自分にあったコーヒーがわからないのも、
大抵の場合は対象がきちんとフォーカスできていないからだ、と言いたい。
「お茶」は緑茶、紅茶、ほうじ茶などの大まかに味のイメージが湧く名前があり、広く認知されて使い分けされているように思う。
抹茶・玉露・深蒸し茶などと、抽出方法、品質、加工の種類などでも名称が変わったりして多少は混乱するが、それでもその飲み物がどういう味なのか大まかな共通認識があるのではなかろうか。
一方コーヒーの場合、缶コーヒー、コーヒー牛乳、インスタントコーヒー、レギュラーコーヒーなどをすべて「コーヒー」と言いがちだが、それぞれ別のジャンルの飲み物なので話が合わない。
またレギュラーコーヒー以外は、ベースのコーヒー自体は味の傾向がほとんど同じで、深く焙煎した香りと苦味を特徴としていることが多いため、「コーヒー」の中では狭い範囲の飲み物だ。これを「コーヒー」と認識している人も多かろう。
実際の「コーヒー」には深煎りも浅煎りもあるし、エスプレッソもドリップもある。品種や産地、加工方法などで分類することもあるし、加糖やミルク、クリーム等で調味することもある。それぞれ全然違う味・香りの飲み物になるのだけど、「コーヒー」と呼ばれちゃう。
「ワイン」と言って赤ワインと白ワイン、スパークリングワインなどを一緒くたに語ることはあまりないのに、コーヒーではそれが起きているのではなかろうか。
言葉は文化的・歴史的にどのようにその対象と触れ合ってきたかが影響するし、地理的な差も大きいので仕方ないのだけど、なんだかなぁ・・
サトシがポケモンの格好を真似をしたとき、顔を黒く塗っていたヤツか。
https://anond.hatelabo.jp/20191105010524 の記事を書いた増田です。
たくさんの方に読んでもらえて驚きました。ちょいと遅いですが追記です。
一度は途中投稿してしまい恥ずかしくて投稿を消そうと躍起になったのですが、編集方法を教えてくれた優しい人がいたので頑張って続きを書かねばという気持ちになれました。
恥ずかしがらずに最後まで書いてよかったです。
わりに笑わせるつもりで書いたのに泣いたとおっしゃる方がいたことに驚きました。
みんなゲーム大好きなんだな。
いくつか返信が必要そうなブコメがあったので追記させていただきます。
釣ってしまったならごめん。
主目的は(トップブコメにあるように)ゲームのナラティブ性について語りたかったんだ。
元増田に対して「ゲーム」がその後、業界にまで入ろうとした強い動機付けを起こさせてるんだぜっていう本文の補強のつもりだったんだけど、
入った会社はクーロンズゲートやコンシューマーとは関連の弱いところだったからそれを書くと主軸がぶれるし内容が個人的なものになりすぎると思ったんで省いてしまった。
そこからめくるめく是空(クーロンズゲートを作ったところ)のスタッフになった話でもかけたらよかったんだけど、
私が就活をする頃には当時のスタッフはみなゲーム開発から離れてしまっていた。
とはいえクーロンズゲートが発売して1~2年くらいはスタッフが公式サイトのチャットによくログインしていて、私とよく話をしてくれた。(古き良きインターネッツ)
当時のハンドルを書けば誰か私を覚えていてくれる人がいるんじゃないかと期待してしまうが、きっと覚えてもらえてないだろう。
■妄人増田
シテ…コロシテ……
■「○○が信じられない」みたいな人はわかる気がないので無駄
そうだろうか?
理解する気はないけど、ほんとに少しでも私を説得できるならしてみろよという気持ちを感じた。
みんなが楽しんでるものを理解できないつらさってあるとおもう。
■CSゲーマーがソシャゲのことを「ゲームじゃない」と思いがちな理由のひとつかもなと思った
そう思う人がいるなら残念だ。
プレイヤーがアクションを起こすことで微々たることでも自分だけの世界(もしくは思い入れというもの)が構築されるのであればそれはゲームだと個人的には思う。
でもあえて言うならソシャゲ黎明期のころ、ほとんどのソシャゲ会社がゲームが好きだからではなくお金が儲かるから参入した所が多かったのが残念に思う。
ゲームのゲの字も通過してきていない、それこそ時間の無駄と思ってるデザイナーが
なんとなく居場所を求めてたどり着いた先のソシャゲ会社で怒鳴り散らしているを見てきたけど、とても下に就きたいとは思わなかったな。
特に、内心ユーザーを馬鹿・金づるだと思ってる開発者の下にはね。
終わりの見えない泥沼化になっており本当に残念だ。
九龍城塞をはじめ、香港は歴史的にずっと領土争い自治権争いの先端にいる。気の毒だ。
香港はそこに住んでいる人たちのものだ。どうかなるべく怪我人が出ませんように……。
■兄です。
オトンの補聴器の金を出してくれ。
クーロンズゲートはアドベンチャーゲーム(公式)だよ
あと、やはりというかクーロンズゲートを知っている人がほんとに少なくて笑いました。
そうかぁ。残念。
もはやあれをプレイできる環境にいる人も少ないと思うので、プレイ実況を探してみてください。
本当は実際にやってほしいけどね。プレイすることでアレを「構築」してしまったメタ的な絶望感を知ってほしい。
おっとこれ以上はネタバレか。
今の部屋に越してきて半年
また部屋の中で鍵を無くした
鍵を開けてちゃんと入ったはずなのに、いざ出ようとすると鍵がない
17回目のような『開けた後に廊下に落とした』パターンではない
29回目の『開けた感覚が錯覚で、そもそも鍵は会社にある』でもない
物の影、財布の中、浴槽の蓋の上
部屋を三回ひっくり返してそんな恐れが頭をよぎる
これだけ探したのだから、もう喪失したくらいしか可能性はないのだ
そう思った矢先、鍵は見つかった
玄関先の鍵置き場に何食わぬ顔で鎮座していたのだ
とんだトリックじゃねーか!!
そう思いながら玄関に倒れ込む、汚れるなんてかまやしなかった
かくして自室の中の小戦争は過去からの私が歴史的な3勝目を上げて試合終了となったのであった
いややっぱり鍵置き場に鍵があるのっておかしくない?
少し長くなるが議論を聞く余地がありそうな書きぶりだったのでよかったら読んでほしい。
私は高校生までこの方と同じような状況と考えだった。
何時間もやる連中の気が知れない。
映画が好き。
私の兄は子供の頃からゲームが大好きな人だった。兄弟のお年玉を共有財産として使ってしまう人で、私が無欲だったのをいいことに私のお年玉を自分のお年玉と合算してゲームを買ってしまう人だった。
(いま思えば兄への不信感はこの時から始まり以後数十年続いているのだけどそれはまた別の話)
自分はそれこそゲームなんてまるでなんの興味も関心もなかったし、シューティングゲームだのRPGだの、そういったゲームを兄が夢中になってやるのを、冷めた目で見ていた。
ためしにやってみなよと言われていくつかやってみたものの、ぷよぷよはどうしても半魚人に勝てないし、星のカービィはかわいいキャラクターの動きを見るのは楽しいが見てるとボタンがうまく押せないし、
ファイナルファンタジーはお話があったので兄がプレイしているのを後ろで読むのは好きだったが戦闘やレベル上げが始まるとくそ面白くなくて見なくなり、そうなるといつの間にかシナリオが進んでいて結局話についていけなかった。やるにはやるが面白いと思ったことがなく、ゲームをクリアする達成感なんて得られたことはなかった。
とにかく、ゲームは男の子が好きなもの。女子によさはわからない。そういう割りきりをしていた。
初めて自主的にゲームを買ったのは高校生の頃だった。新聞の一面広告。
クーロンズゲートというゲームだった。主人公らしきサラリーマンの実写の顔部分がライターかなにかであぶってあり、焼けて穴が開いている。
1997年2月27日の新聞。クーロンズゲートが明日発売されるという全面広告がある pic.twitter.com/hDwVHpxADp— ぴざろぼ (@pizarobot) June 2, 2013
写真の背景になっている香港、特に九龍城塞のこともこのとき初めて知った。
それまで自分は新しくてきれいな場所やモノが好きだった。おさがりのカバンや勉強机は嫌いだったし小汚い祖母の家は嫌いだった。
建物も街も新しいほうがいい。
だけどそのゲームのデザインは「臭くて異臭を放つグロテスクで暗く汚い街」を全面に見せていた。いわゆるデカダンスとかそういう美学と初めて会ったのがこのゲームだった。
汚い街でもゲームなら歩ける。
今思えば、サラリーマンの顔が焼け落ちていたのも主人公はあくまでプレイヤーといいたくてそう言ったデザインだったんだろう。実際ゲームは主人公の姿かたちの明言は一切なく、始終一人称視点で進むものだった。
ぞわぞわした気持ちで、気が付いたら予約購入していた。よくわからないものに高校生が一万円弱の出費(初回特装版)。どんな話なんだろう、これはどこだろう、とにかくこれが何なのか知りたかった。
どうやらこのゲームをするのにプレイステーションが必要らしかった。
当時は人気商品でなかなか入荷しなかった。
ゲームソフトはその後たしかすぐ手元に届いた気がするが、プレステ本体を手に入れるのにはそれから半年前後かかった気がする。
この値段ですといわれたものを言い値で買うのは初めての経験だった。
本は中古屋で買っていたし、映画はなるべく安くなる日を選んでいた、バイトもしていない高校生が万単位のものをポンポンと。今思えばケチの私が、異常だった。あれはなんだったんだろう?
今思えば妙な突き動かされ方だった。
実際初めてプレイしたゲームにはいろいろ苦労したが、私はそのゲームを何とか一年半かけてクリアした。
世の中ではこのゲームを香港返還前にプレイし終わるのが目標みたいに騒がれていたが、コントローラーを握るのがほとんど始めてみたいな私には無理な相談だ。とにかく自分のペースでやった。
なぜこんなに時間がかかったのかというと、それは主に敵の出るダンジョンが怖かったからだ。
よくyoutubeにホラーゲーム実況チャンネルが軒を連ねているが、見るのとやるのでは怖さが違う。自分でやりたくない人が実況動画を見るのだなと思った。
ひたすら人気のないダンジョンをたった一人だけで、進む怖さ。
私はその時はゲームをプレイしているわけではなく、そこに、本当に、自分が風水師として香港を歩き回っていたように感じた。
クエストをこなすと人に感謝された。たまには、「余計なことを」と感謝されなかった。
高校生が実感したことのない大義と任務と達成感がそこにあった。中毒になった。
新しい街に踏み込むと、探索にわくわくした。
やり始めて数時間は町並みに圧倒されつづけ、その後数時間は不気味なキャラクターたちのセリフに魅了され、シナリオが半分も進んだころには再びぞわぞわした得体の知れなさに震えた。
これはもしかしてマスターピースともいえるとんでもない名作を手にしたのではないか?という興奮だった。
実際には、世間の評価は厳しく、「一部のマニアックなものが好きな人にカルト的人気を誇った」作品という扱いだったが。
あとから調べれば調べるほど、台詞や要素がすべてオカルト的、文学的、歴史的な裏打ちがあり、ゲームの攻略本には荒俣宏が何ページもコメンタリーを載せていた。
今のゲーム業界で当たり前になっているオープンワールド(自分で自由に散策できる世界)がはやるのはこういうことなんだろうと思う。
画面の向こうの世界へは肉体の隔たりがあるはずなのだが、脳は単純で勘違いをする、ここにいると。
ゲームをクリアした後も、あの世界、あの自分の立場や仲間たちが恋しくて「香港に帰りたい」と何度か思った。
実際、啓徳空港が閉鎖するとニュースで聞いて、いてもたってもいられなくなり、初めてバイトをして、一人で旅行会社を見つけて香港へ行った。
写真を、フィルムで15本とって帰った。現像に出すと全部で三万はした。
これでしばらくはホームシックにならずに済むかも、とすら思った。
高校生活は退屈で何にも覚えていないが、香港で孤独に活躍し世界を守ったことは覚えている。
少なくとも、私は、ゲームは疑似体験そのものの楽しさだと思っている。
ゲームメイカーが作った世界でもう一つの自分の可能性を体験する。
風水師の自分、どこかの国の王族である自分、アンドロイドの自分、人間以外の何かである自分……。
PS4のCMのコピーが「できないことができるって最高だ」だったんだけど、これを見たときニヤリとしてしまった。
わかるわかる。そういうゲームをやった後って、夢の中でも飛び始めるんだよね。自分がね。
「デトロイト」をすると、何度も人の命を自分が預かるシチュエーションに陥る。
選択肢を求められると、自分がどんな人間なのかを考えさせられる。そしてその結果を見ることができる……。
不思議なのはゲームと分かっていても、人を犠牲にしたり殺す選択肢を選ぶときは心が痛むことだ。
「ファイナルファンタジー15」をしたときは突然できた「昔からの友達」と、一緒にキャンプして初めて訪れる街を散策して、楽しかった。
「CALL of DUTY4:MODERN WARFARE」でうまく敵を倒したとき上官から「beautiful!」と褒められて本気で照れてしまった。
誰かの選択を客観視して、共感したり、理解しようとしたりする。
ゲームが映画と違うとすれば、映画は途中で寝落ちしたとき、しょせん他人の人生だから目が覚めた時にすでに登場人物は決断し、エンドロールが流れているが
ゲームは起きたときまだ問題は目の前にあり、「さあどうする」と選択を迫ってくることだ。
自分が一体どんな決断をしてどんな装備を選んで進んだかを、ほかの人と話したり、ほかの人のプレイ実況動画を見ることで比較して楽しむ遊びも残されている。
「デトロイト」や今度発売される「デス・ストランディング」はCG技術の向上でほとんど実写と見まがうばかりだ。
一本の映画を見ている気分になるし、プレイするとうっかり自己体験と混同しかけるほどだ。
デトロイトをプレイしたときは私はしばらく現実に戻ってくるのに苦労した。
登場人物に実際の俳優がモデルにされることもあるし、シナリオを映画の脚本家が手掛けることも今では珍しくもない。
俳優にとっても映画とゲームの内容は変わらなくなってきているのかもしれない。
『DEATH STRANDING』TGS2019 ノーカット プレイ映像 (9月14日のステージイベントより) https://youtu.be/D10J89jgZHc
シューティングやRPG、アクションその他のジャンルに関しては省かせてもらったが、
そちらが好きな方の意見も読みたいのでぜひ誰か書いてほしい。
モンスターハンターなどヒット作だと、会社で別部署の初対面の人と突然ゲーム仲間になれたこともある。
就業終わり応接室や居酒屋で同じゲームをプレイする共有体験は本や映画以外ではスポーツ位しか思い浮かばない。
eスポーツというくらいだから、スポーツに近いのかもしれない。
https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0187779
70歳を超えた父が最近どうも物忘れが激しいのでマインクラフトをプレゼントした。
モノ作りが好きな父には、モンハン(狩り)より、木を切って家を作るようなゲームが好きだろうと踏んだからだ。
予測は大当たりで、父は寝食を忘れてはまってしまい、母が食事で読んでもなかなか来ないといって、ゲームを与えた私が変わりに怒られてしまった。
半年後に実家に戻ったら、父はゲームの中でそれはそれはでかい光輝くピラミッドを作っていて肝が冷えた。
自分の墓かよ。
順序逆じゃね? 社会構築主義の話が出てきたのって,アンチフェミの人が社会構築主義を攻撃したからじゃん?
むしろなんで社会構築主義の話が出てくるのか文系の俺が知りたい.
これはそうなんだよね.それは社会的に構築されたものに過ぎない! で,それの何が悪いの? まったくもってそのとおり.
社会構築主義が出てくるのは,あるものが「本質的であり自然である」と看做されていることに対するカウンターだ.
たとえば,民族.民族主義者は民族を「古くから連綿と続く人間集団」であるかのように主張する.でも歴史学は,「民族」という概念が発生したのは近代であること,それ以前にはそんな統一されたアイデンティティは存在しなかったこと,「古くから続く」という幻想が最近になって作られたものであること,を明らかにしてきた.
もしくは,ジェンダー.性別役割分業を支持する人は,男と女は好みから何から根本的に違っていて,分業は自然なものだと論じる.それに対してフェミニストは,「女は赤を好む」のような固定観念は最近になって生まれたこと,かつては男女のなすべき仕事が異なっていたこと,そういったことを論証してきた.
そういう仕事の理論的な根拠が社会構築主義なんだよね.人間社会にあるもので「本質的」だったり「自然」だったりするものなどない.どれも社会のなかで形作られそれが「本質的」であるかのように見えているだけで,実際には何一つ「自然」ではない.
だからまあ,構築されたもので何が悪い? と言われればおしまいなんですよ.
それでおしまいにならないのは,「本質的」という言説が世の中に溢れているから.
「同性愛を嫌うのは当然」と主張する人がいる.実際には多様な性愛の有り様のなかで同性どうしの性行為が悪魔化され抑圧されてきたのはごく最近の話に過ぎないのに.「悠久の日本の歴史を讃えよ」と真顔で言う人がいる.統一された「日本」という観念も民族という理念もごく最近生まれたに過ぎないのに.「女が家事育児を担当するのは自然」とのたまう人がいる.それは様々な家族形態のなかでたまたま現在定着しているモデルに過ぎないのに.
さらにいえば,学者が本質的だと仮定して用いている概念もまた構築されたものでありうる.1世紀前の学者は「民族」が実在すると思っていて,世界の様々な「民族」の歴史をたどることが学問なんだと信じていた.でも現在は,その「民族」という概念は構築されたものであるとして,かつての歴史学は批判を受ける羽目になっている.構築主義はそうやって世界の認識をアップデートしていく営みなんだよね.
もちろんこういう言明にも理論的隘路はあって,それはまあとっくにゼロ年代頭に指摘されていることなので詳しくは色々読んでみてほしいのだけれど,最近の学者は構築主義を前提としてでもそれじゃ何も言ったことにはならないよねとかこの部分おかしいんじゃないのとかじゃあこれをもとに何が言えるかとかそういう議論をしているので,社会構築主義はおかしい! とちゃぶ台返しされても,華麗にスルーするしかないじゃん? それが社会構築主義に基づくパラダイムの欠点を暴き出し世界認識を一変させるものなら喜んで飛びつくけど,現状そういうちゃんとした議論が出てきてるようには見えないわけで.悪いけど社会構築主義に基づいた方がより厳密な研究ができるしやってて面白いんですわ.
そーなんだよね.はっきり言うとこの件社会構築主義とか微塵も関係ないですよ.普通に自由とか権利とか公共とかの話をすべきところでしょ.そして自由とか権利とか公共とかの話をするなら持ち出すべきは社会構築主義じゃなくて政治哲学とか法哲学とかそういう分野でしょう.
俺はあのポスターを公共空間にあっても問題ないと擁護するしバッシングはバカバカしいと思うのだが,それと社会構築主義の是非はまるっきり別の話で,なんで社会構築主義が目の敵にされるのかはマジで理解不能.
ただ「男がおっぱい好きなのは自然の摂理」とか言い出すと「え? 江戸時代の春画はおっぱいをすごい雑に扱っていたけど? そもそも何がエロいかという認識あるいは羞恥心は自然なものではなく社会的に構築されていて,たとえば日本でパンチラが恥ずかしがられるようになったのも20世紀以降の話で,そこから考えると現代日本の男性がおっぱいに関心を示すのは……」みたいな社会構築主義に基づく反論が飛んでくるから気をつけてな! オタクが美少女に萌えるのも腐女子がBLを愛でるのも同性愛が「禁断」と看做されるのも胸の大きい絵が性的と思われるのも全部社会的に構築されたことだからそこんとこ夜露死苦! あと「公共」概念が歴史的に帯びているヨーロッパ中心主義的なバイアスに気づかないのは鈍感すぎると思います先生!
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???
これ日本の二次オタに限った話じゃないっぽいんだけど、ああいうオタクと呼ばれる人種って権威的なものが全然通用しないんだよね
「弁護士」とか「大学教授」とか「ジャーナリスト」とか「人権活動家」とか、そういう肩書が全く通用しない
それどころか逆に相手を茶化してくることもある
特に二次元オタクは歴史的に「被差別階級」だったがゆえに、我こそはか弱き者達の味方でございというツラしてる人たちの本質を本能的に知ってるんだと思う
だからお互いに相容れないんだろうね
立候補は無しで、選ばれた国民は絶対に皇帝をやらなければいけない。
日本国皇帝は、ただ災害時などに国民を慰撫するだけの存在である。
外国には派遣されないし、褒賞などを渡す権限もない(そのあたりの公務は行政に分散する)。
任期は十年としておこう。
どうせ宮廷行事なんて昔から変わりまくってるだろうが、とりあえずそういうのは歴史的資料として保存する。
そしてその保存庫の管理者として元・天皇の増田徳仁さんを配置する。
神性を剥ぎ取ってしまおう。
こうすることで日本の伝統などという戯事をほざく人間はいなくなり
いな〜い。
可愛い皇帝ちゃんを引きずり下ろして薄汚れたジジイを担ぎ出す国民などいるか?
いな〜い。
完全なる国家が完成するというわけだ。
天皇陛下にも人権をと言うことなら、天皇制を廃し、天皇を辞めるのも陛下の意思決定次第なのかと思うけど、千年単位で続く事柄の取り返しのつかない決断は、一個人の判断に任せるにはあまりに荷が重い。
だけど幸いにも日本は言論の自由が保障されてるので、特にネットの普及した現代では国民が陛下に対しこうした“お手紙”を書くことも自由だろうと思う。
こうした声を普及して、いつでも辞めやすい環境を作りつつ、陛下の“お気持ち”を尊重する、それで良いんじゃないかと思った。
辞めるとしたら、天皇と言う個人ではなく存在に対して世界がこの人権感覚になるまでの2000年ほど、これまでこの国のことをありがとうございました。と、心から思えそう。
歴史的には戦争もあったけど、2000年と言うのを鑑みるとそれだけには捉えられない、と言うかとてもじゃないけど計り知れないし、その代の天皇個人も何とも言えないと思う。
体制が崩壊したときに天皇が必要になる可能性がある、という話。
支配体制が入れ替わるときに天皇の権威を確保してた方が勝ちということにするというのが日本の歴史のルールだ。
ほとんどは単なる形式ではあるが幕府と名の付くものは天皇から権力を借りているという体裁をとってる。
現代の日本でも内閣総理大臣は「天皇が」任命することになっているのは憲法にも書いている通りだ。
日本政府が日本を支配する歴史的正当性の根拠は天皇の権威なの。
それと同時に日本国の主権者は国民であるとする近代国家の仕組みと折り合いをつけて、今の日本国の体制においては天皇は象徴に過ぎないと言っている。
もともとドラマの続編であるが映画を前提に作られている企画だ。
内容は真摯で、深夜枠も頷ける。派手さはない。人の心をえぐる青年の不運な青春を描いている。
青年は地味でコネもなく営業で頑張る新人サラリーマンだ。都会の荒波に負けて負けてそれでもがんばる男である。
多分おっさんが見たら泣く。
主演は池松壮亮、ヒロインに蒼井優、脇役に井浦新や柄本時生、松山ケンイチなどが出ている。
この5人のうち1人でもいれば国は助成金を出すのではないか…という高い評価を得ている賞レースおなじみの面々だ。
さらに監督は真利子哲也という若手でとんがった作品を誠実にとる監督で、平成30年度の新進芸術家海外派遣制度もうけている。
真利子の映画「ディストラクション・ベイビーズ」は国内外で新人賞をとっている注目株だ。
お金は大事であるが、芸術文化振興基金助成金で出る金はそんなに高くない。せいぜい広告1本か2本打つくらいの金額だ。
別になくたってこれだけのキャストと監督と原作があれば作品に金を出す人は居るだろう。
しかし国は、ピエール瀧一人の罪で、これだけのキャストと監督と原作の1クール&映画分の努力を認めないと「後出し」した。
大体社会貢献云々の項目が芸術文化振興基金助成金対象作品に適応されたのも驚きだ。
選ばれる映画は大体喫煙しているし人が銃で死ぬし違法行為もあったりなんか結構アウトローだったりする(偏見)。
そもそもこんな前例あっただろうか。突然改正って、誰が作って誰が決めたのか。誰にそんな権限があるのか。
単純にお馬鹿だ。あいトレとは違う。こんな一流クリエーターたちを集めておいて表現を規制するような行動をしてしまった。
映画業界、役者業界含め表現規制には相当敏感だ。戦中に彼らが苦しい思いをした歴史的背景も大きい。
役者業界が声を上げたらどうなるのかその辺も考えられなかったんだろうか。
本当に、考え無しである。蒼井優が家で愚痴って山ちゃんが聴取率高いラジオで不満をぶちまける展開、誰でも考えられるだろうに。
助成金が出る映画は外れが出ないのだが、今後の映画に関してはもう分からない。
この件によってもう「芸術文化振興基金助成金」というクレジットの信用を失ったのだ。
金に困ってない映画はもう申請しなくていいよ。宮本は今からでもクラウドファンディングだせ。