はてなキーワード: 歴史的とは
結局、そこんところに大衆が理解できるようなまともな答えを出したアート関係者はいないからな
アートの最先端は歴史的に見ても、常に大衆には理解が得られなかった
まあアート界隈のポリティカルコレクトと言っても良いが、
そもそも、なんで最先端アートを公金で保護してあげないといけないの?
というと誰も答えられない
ついでに、確かにピカソとかゴッホとか発表当時は大衆に理解されなかった芸術家はいっぱいいるけど、
その陰には、当時も今も箸にも棒にもかからないかからない3流アーティストが山のようにいるわけだが、
そういう人にはお金出してあげなきゃならんのなんで?という問題にも答えられない
男として生まれて育ち、社会の中で生きていく中で、男としての「性的役割」についての社会的期待を感じない男がいるだろうか? ようするに「男らしく」という呪いを負担に思ったことがない人は、本当にいるだろうか?
……
男性は「男のクセに」と言われたりセクハラを受けることで就業先が限定されたり業務に支障が出たりすることが、女性に比べてどの程度あるだろうか。
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/09261100/?all=1&page=1
歴史的に、男性が社会の中で有利なポジションを占め、男性向けに社会をデザインしてきた結果として、この社会では男に対して「分際」という言葉が使われない。それは事実かもしれない。「○○の分際で」とか「○○のくせに」といった言葉は優位から劣位に対して投げかけられる言葉なので、そもそも用例として少ない、とは言えるかもしれない。
だがそれでも、「男らしさ」のような呪いが、個人に拭いがたい違和感を与える現象は常に存在するし、見過ごしてはならない、という視点を失ってはいけないと思う。
たとえば自分は、絵を描くのが好きだった。右手を奪われたら生きていけないだろう…と思っていた若い頃、それでも「男として生きていく中で、いわれ無き暴力に立ち向かうことが『男として』期待されることがあるだろう」という事実に直面して深く考え込まされたことがある。つまり「右手の拳をふるうこと」が求められる(ふるわなければ「男なのに!」という批判にさらされる)可能性である。ちなみに、拳というのは、素人が強めにふるうとかなり痛めやすい。もし後遺症が残れば、柔らかく繊細な線を引いたりすることは大変難しくなるだろう。
同年代の女性の方々が「いわれ無き暴力への不安と恐怖」に曝されていただろうその同じときに、同じ若い年頃の男性である自分は「いわれ無き暴力に立ち向かうことを社会的に要請される」結果として、「命にも等しい右の拳を致命的に失う恐怖」に怯えていたのだ。男性であるというただそれだけの理由によって。
私は、前者の不安が後者より軽いという見方にはもちろん与しない。同じ理由で、後者の不安を前者より軽く見るという見方にも与したりはしない。少なくとも、それは私にとって、以後数十年にわたってひたすら拳を鍛え続けるという行動に繋がった程度には、人生の中で重い出来事だったのだから。私は社会が期待する「男性」像を認めつつ、自分の期待する自己像を失わないために、「殴り方」と「殴った程度では壊れない拳」を身に付けざるを得なかったわけだ。
〈ジェンダーが人を苦しめることがある〉という知見を、こうして私は得ることになった。(もちろん「絵を描くなんて男らしくない!」という批判にも日々さらされていたわけだが、そういう「他者から直接に投げかけられる言葉」というのには鈍感になれば済む話なので、大した問題ではなかった。)
これまで「男」に蹂躙されたくない、という思いで、この社会の下でひたすら自己を物理的、社会的に鍛えあげた女性の方々に、私は深い同調と共感と敬意を表する。同様に、私は、社会の要請する「性的役割」を理解しつつ、それとは無関係な「自己」を保全するため、懸命に拳を鍛え続けるという行為に没頭した自分の思いに対しても、ある切なさと同情心と称賛を送りたいと思う。それは、社会が要請する「男性像」から「私自身」を守るために、どうしても必要だった。それを私は一応やりとげたと思っている。そして、可能なら、こんなくだらないことを、自分より年若い世代の人々が感じたり考えたりしなくなると社会は少しだけ住みよくなるだろうと思っている。私にとってフェミニズムというのは、そういうことだ。
もちろん、年を取れば、自分が「社会的に期待される性的役割」を演じることで得られる果実があることも知る。「男らしい」男性が「男らしさ」を発揮することで社会的によい立場や評価を得る(そしてその逆もまた)、という風景は、誰もが一度ならず目にしていることだろう。それどころか、むしろ「正しいこと」と考える人だって世の中には多いだろう。意識してそうする人もいれば、単に経験的にそうする人もいる。だが、一度このこと、すなわち「ジェンダーは人を苦しめることがあり、それに苦しむ人がいる以上は、ジェンダーを肯定して受益する人は〈搾取者〉である」ことに気付いてしまえば、残念ながら自分はもう「期待される性的役割」を果たして受益する側には回れない。フェミニズムに同調するか否かというのは、ただ単に、このような〈気付き〉にあると個人的には思っている。
少し話しがそれたが、「フェミニスト」を自称する人が、最初の記事のように、男性が自己の性的役割に苦しまされることなど「どの程度あるだろうか」(いや、ないだろう)といった反語的な言い回しで、その被害を「大したことねえだろう」というような片付け方をするのは、大変に筋が悪いことだと思う。性的役割に苦しまされることに、性差などない。個人の苦しみを簡単に計量することなどできない。そういう視点を見失っては、フェミニズムを唱える大義自体が失われてしまう。
フェミニズムと自称する女性中心主義的主張をツイッターなどで見かけるのは、もはや日常になった。それどころか、私の思う「まともなフェミニスト」を見かけることの方が大変少なくなった、という方が適切かもしれない。ただ、確実に言えるのは、そういう「ジイ」的主張は、物事を解決に導くことがないということだ。それは「示威」であり「自慰」的である。見たところ威勢がよくて気持ちいいかもしれないが、仲間内にだけ通じる耳障りのいい言葉であり、自分と異なる他者との対話から未来を開こうとする言葉ではない。もちろん、「お前のこの書き込みだって、カウンターに利用されれば、充分分断的に働くぞ」というご批判もあろう(それはなるほど事実かもしれない)。だが、少なくとも私のこの言葉は、最初の記事を書いたライター、それに同調する方々に向けて書いた言葉である。私はここまで、あなた方を無駄に傷付けるための言葉は使わなかったと思っている。そうでなく、あなた方が何かを考える際のとっかかりになれば幸いだと思っている。私の言葉は、あなた方に向けて開かれている。
つまり、「あなた、私のような男性フェミニストに対しても、その主張をするの?」ってことだ。一度考えてもらいたい。
たとえ、この社会で生きていくために一見無意味な(たとえば自分の拳を痛めつけるような)作業が必要だ、としても、少なくとも「私は社会に傷付けられたが、私は誰かを傷付けるようなやり方で自分を守ることはしなかった」と、自分が死ぬ時に自分に言うことができるというのは、割と大切なことだと思っている。あなたに同じことを強制するつもりはないが、あなたがどう考えるのかは聞いてみたいと思う。
艦これは、あらゆる海戦における日本海軍の戦没艦をほぼほぼ実装しているのだが、ご存知信濃の他にも、何故か実装されない艦がある。
それはセント・ジョージ岬沖海戦の戦没艦である、大波・巻波・夕霧である。
この海戦は、当時最新技術だったレーダーを用いた米艦隊の新戦術により、日本艦隊が一方的に沈められた海戦の1つで、その意味では本作のテーマである「悲しく沈んでいった艦の慰霊・鎮魂」にふさわしい艦として、本来なら最優先で実装してもおかしくない話である。
実際、類似の海戦だったビラ・スタンモーア夜戦組(村雨・峯雲)とベラ湾夜戦組(嵐・萩風・江風)は、とっくの昔に実装済みだったりする。
さらに、これら一連の海戦は、日本海軍のお家芸だった夜戦において、実際第一次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦・クラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦と、さんざん苦汁を嘗め続けてきた米海軍が、ようやくそのハンデを克服したという意味でも、極めて重要な歴史的意義があると言っていい。
これは本作が重視する史実という観点からも、絶対に無視できないと思うのだ。
https://note.mu/satonao310/n/nd7256bae4a27
ラグビーが好きだからってサッカーを貶めて良いという話ではないというのは一旦おいておいて、このさとなおという人にはそもそもラグビーについての理解に不備がある。ブクマでもその手の指摘はすくないし、ちょっといい機会なので書く。
まず前提として、十数年前より以前のラグビーには「審判を欺ければ反則をしても良い」みたいな空気が確かにあった。古い試合を見れば、ラックができたときに審判から見にくい位置で敵選手を思いっきり踏みつけるハーフや、タックル後などで寝た状態から走り出す敵選手にこっそり足払いをかける選手、審判の見えない位置でアメフトかのようにボールを持たない選手を妨害する選手 etc... ダーティなプレイはいくらでも見れる。(ちなみに、めったに無いけどサッカーのシミュレーションみたいな"痛くないの痛がって見せる選手"は今でもいる(たいてい後で批判される)。)
もちろん当時からクリーンな選手もいただろうが、当時は「ダーティプレイもラグビーにおける駆け引き」という主張も当たり前に言われていた。さとなおという人の言う「フェアプレイしないと危険だから」というのは正しい側面もちょっとはあると思うが、今のラグビーのクリーンさは、危険度のようなラグビーというスポーツの本質から生まれたものではない(もしそうなら自然発生的なものなので、30年前だろうが40年前だろうが、大なり小なりクリーンだったはずだ)。今のラグビーがクリーンなのは、コミッション側が「クリーンでフェアで安全なラグビー」を目指して、ルールを変え、レフェリーの役割を変え、選手の意識を変え、と努力を続けてきた結果だ。そのためにTMO(ビデオ判定)が導入され、主審が後ろで起きる不正を監視できるようにすべての審判(TMO含む)がTMO審議を要求できるようにし、危険なプレイはより厳しく判定され、罰せられるようにルールが変更されていった。その際には「流れが悪くなる」とか「駆け引き要素が減る」とか「ペナルティが増えてゲームが荒れる」など批判もあり、実際に批判通りな部分もあるが、コミッション側はそれらよりもフェアネスや安全性を優先してその方針を曲げなかった。(例えば、相手の足を持ち上げて上半身から地面に落とす俗に言う"スピアタックル"は過去には見た目も派手だし"素晴らしいタックル"としてある意味もてはやされていたが、場合によっては頭から地面に落ちて危険なため十数年前に明確に反則になった。これなんかは見栄えよりも安全性を撮った例としてわかりやすい)。その結果として、ラグビーはアンフェアなプレイが見逃されないスポーツになり、反則を取られたくない選手たちはクリーンなプレイをするようになった。というのが歴史的な経緯だ。(私見だが、このような流れはここ20年ほどのもので、2000年代はまだダーティプレーをTMOに指摘されてカードを貰う選手がそこそこいたように思う)
で、表題の件だが、結論から言うと、ラグビー選手はレフェリーに"黙って"従わない(高校ラグビーとかは別として)。今やってるワールドカップの試合をよく見てもらうとわかるが、選手(日本だとキャプテンのリーチとか)が、直近の判定などについてレフェリー声をかけて、レフェリーがそれに対して説明するような状況がしばしばある。具体的には「さっきから敵がスクラムを故意に壊してないか?」とか「さっきのは誰のどういう反則なんだ」というよう感じでレフェリーに説明を要求するシチュエーションだ。これは、ラグビーのルールに「ボールがラックやモールで"長く"停滞する」とか、「故意にスクラムやモールを崩す」などの審判の時間感覚や主観で判定が変わる要素があって、個人個人のレフェリーにばらつきがあるためだ。ここの判定基準がブラックボックスになると選手側のフラストレーションはめちゃくちゃ大きくなる上にアンフェアにもなりかねないため、選手が納得がいかないときには説明を要求できるというシステムがあることで、「なるほどこのレフェリーはそういう基準なのか」と理解し、その枠の中でプレイすることで「クリーンなラグビー」ができるようになるわけだ(なので、よくキャプテンなどがこの手の説明を受けると、後でその選手はチームとその返答を共有する。試合でそのへんも気をつけて見たら面白いかもしれない)。ラグビーにおいてはレフェリーの権限が大きいからこそ、レフェリーと選手のコミュニケーションが重要であり、レフェリーと選手の間の上下関係は絶対的なものになりすぎてはいけないというのが現在のラグビーの考え方になっているんだと思う。
個人的な気持ちとして、現在のラグビーがクリーンであるという状況が、コミッション側とそれを受け入れた選手側の努力によって作り上げられたものであることはとても尊いことだと思う。
(誤解を避けたいの点をいくつか最後に言っておくと、曖昧な判定を避けるためにルールを変えたりして基準を明確にしたりもしているので、レフェリーの裁量はそこまで極端に大きいわけじゃなくて、大部分のプレーはレフェリーに確認するまでもない。また、抗議は良くてもプレー中のセルフジャッジやレフェリーへの暴言、しつこすぎる抗議は罰せられる)
歴史的背景...アホやろ、お前。
「女々しい」って言葉「女とはこういうもの」というステレオタイプがないと発生しない言葉なわけで、
だから何?って程度の話なんだけど、地球上で大半の国、法治国家じゃん。
歴史的に、力があった国々が「法」ってものを発明したからなんだろうけど。
でも、法治国家以外の国家が、(法治じゃなかったら国家と言わないかな?部族か?)が科学技術を発展させることは可能だったんだろうか?
概ね幸せだが、法という制度が万能じゃない、というか設計コンセプトとして間違ってるような気もする。
例えば、僕が誰かを傷つけたとする。
なんかの不注意で追突でもしたとしよう。
法で、僕が賠償の責任があると言われても、払うかどうかは、それ以前に結局僕に賠償額を払える能力があるかどうかによる。
払わなかったら、僕が刑務所、となったところで、被害者はなんの得もない。
法が規定する責任があるから払うとか、そういう問題じゃないと思う。法の役割が、人をむやみに傷つけないようにしましょうっていう啓蒙程度の役割なら、儒家がいうような徳治だって十分だ。
被害者救済のための高度なシステム、事故被害者のための基金を作って、その原資の調達のために徴税して、ということをするためには法律という仕組みが都合がよいけれど、加害者を叩いてもなんの意味がない。
被害者救済のコストならとにかく、刑務所のコストを市民が分担するってどうなんだろう?
弱者救済の仕組みというのは、最大のものはいわゆる社会保険なんだろうけど、これはホント資本主義経済との相性が悪い。
払った額より貰う額が少ない年金、10割負担で窓口で払う医療費より月々の健康保険料が高い、となると、払わない方が徳じゃね?
となるわけで。
その辺のガス抜きのために、本当の弱者のためだけに、みたいなことを言い出すと、余分なコストをかけて6300ページのpdfが作られるわけで。