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はてなキーワード: 歴史的とは

2019-12-11

anond:20191211001619

男色空海が広めたとされている。平安時代僧侶男色フィーバーだった。

同性しかまらない状況だと同性愛が広がることが歴史的証明されている。

2019-12-08

anond:20191208233835

この辺とかなにゆってるか全然わからん

「また、ブッダとは歴史上に現れた釈迦だけに限らず、過去にも現れたことがあるし、未来にも現れるだろうという考えはすでに大乗仏教以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土阿弥陀如来東方浄瑠璃世界阿閦如来薬師如来などがある。また、歴史存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。三法印などすべての宗派共通する教義も多々ある。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99

紙の本ってなにがそんなに良いんだろう

紙の本に対してノスタルジックな想いを持ってる人って結構いるみたいだけどイマイチよくわからん感情

歴史的建造物とかああいうのが好きな人なのかな。

フェミニズムによる表象批判問題点

小宮友根氏による「炎上繰り返すポスターCM…「性的女性表象」の何が問題なのか」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864?page=2

のこの部分、

このように、「表象を作る」という行為に目を向けると、そこでどのような女性観が前提にされているのか、その行為は他の行為出来事とどんな関係にあるのかといったことが考えられるようになります表象は誰かが作り、その意味特定歴史的社会的文脈のもとで理解されるものなのですから表象の「悪さ」について考えるときにも私たちはそのような視点もつ必要があるのです。

もちろん特定表象がどのような文脈のもとで理解されるべきかは議論対象となりうる事柄ですが、差別的女性観を前提にしたものを作れば、女性差別の歴史と現状に照らしてその表象理解される可能性が出てくるのは当然のことでしょう。

分かりにくい書き方をしているが、よく読めば「女性の置かれた歴史的社会的文脈(前段)の前では、個々の作品文脈(後段)など議論に値しない」という本意しか読み取れない。

女性の置かれた歴史的社会的文脈」、「個々の作品文脈理解」の両方を俎上に載せずして、その作品が「差別的女性観を前提にしたものであるかどうか、判定できるわけがない。

他者の「差別的女性観」を読み取るという、最大限のフェアネスが求められる議論を、「女性には"累積的な抑圧経験"があって、絵柄だけでもそんな風に理解されることもあるから、注意して」と締めるから、「お気持ち」だと揶揄されるんだよ。

「個々の表現について、様々な観点から多面的に『差別的女性観』の存否を問う」以外に、表象批判議論はあり得ない。

2019-12-07

デジカメ時代になってからキヤノンに、

真に新しい(画期的な)モノは無し!!

な~にが”究極の引き算をした“か。

昔のトイカメラと一緒じゃん!

作品はともあれ、ホンマに市販品は新規性もそれに伴う歴史的意義も大したことないモノばっかりやな

(相変わらず業務ビデオデッキみてーな、門外漢が触ってもワクワクの欠片もないデザインしやがってよぉ)

anond:20191205200411

時事ネタは「当時の世代」というくくりで成立する内輪ネタ一種なんだから

後世の人がその輪に混ざるのは至難の業だろう

当時の流行を知ることのできる歴史的資料として楽しむくらいがよいと思う

2019-12-05

女の方が劣っているのは事実だと思う女の話

正直、女叩きするような男は嫌いだし、大抵の男性人格的にあまりよろしくないと思っている。そんな彼らに、女は能力的に劣ると言われがちだ。それは非常に悔しい。だが実際、それは当たっていると思う。

そもそも力が劣っている。歴史的差別されてきたのも、女が男に負けたからとも言える。

女は共感能力が高いとされているが、使える仕事は限られている。

だが男はどうだろう。論理的思考力も、空間認知力も長けているとされている。

しかも体も大きく、肉体的にも一般的な女より強く、性的にも攻める側、能動的な構造をしている。

果たして出産ができなければ、女に何の価値があるのか。

自分は女だが、出産しかできない女に劣等感がある。生まれ性別だけで、負けなのだ。それが非常に悔しい。

彼らは女に勝っているが、それは所詮運が良かっただけでしかないし、それを理由相手を虐げていいことにはならないにも関わらず、性的侮辱男性加害者犯罪行為、女叩きなどが沢山あるからだ。

だが、能力差がこれほどまでにある時点で、男女平等なんて無理だろう。

女に生まれた時点で、被支配なのだ

それは悔しいが、女が諦めるべき事実なのだろうなとも思う。

女を見下す発言否認するだけでは何も変わらない。

認めた上で、劣っている部分を磨くのか、得意分野で食えるような道を探すのか、男を避けるのか、迎合するのか。それらを選ぶべきだろう。

これは、心の中で反発して、劣等感で苦しくなる、自分への戒めで書いている

2019-12-04

宇〇って名字の人はやんごとなき人って扱いなんか?

草冠姓(菅さんとか)も由緒正しかったりするんだけど、なんかそういう歴史的な奴があるんやろか。

2019-11-28

宇宙世紀観光地

人類がめちゃめちゃ繁栄して外宇宙に飛び出しいろんな惑星開拓して住むようになったら、絶対地球は一大観光地になる

なんせ間違いなく人類発祥の地なわけで、相当なありがたみがある 宇宙は広いか純粋な美しさで言えば地球なんて大したことはなかろうが、それでも歴史的価値がある

月に作られたレストラン地球を見ながら食事みたいなプランが人気になったりするかもしれない

少子化結婚しないやつが悪いって言ってる奴いるけどさ

だいたい統計だと男でも7割女は8割が結婚してるじゃないか

江戸時代なんてもっと未婚率高かったというじゃねえの。

それだけ結婚してたらいいだろ。7割8割で何とかしなよ。

俺はデメリットだらけの結婚なんて愚行絶対しないと思ってるが、

別にそうじゃない優秀な男が7割いるならそれでいいじゃないか

そいつらが3人でも4人でも作ればいい。

どこぞの国の総理大臣結婚しててもガキがいないとか

結婚しても離婚率は高くそれ以上に離婚率以上の仮面夫婦率があるとか俺の知ったことじゃない。

俺は作らないか結婚してる奴がその分作ればいいんだよ。それだけだ。

だいたい表題みたいなあほなこと言ってる連中って、

そもそも皆が結婚してた社会の方が歴史的に見れば例外で異常だってこと分かってないだろ。

2019-11-26

anond:20191126174030

横だけどフェミニズムもその歴史的なところまではまともだったと思うんだわ

歴史的には弱者女性であり、女性こそが弱者だった。参政権どころか人権のものがなかったからね。

ただ現代はそれと同じか?違うだろう。

殆どもう男と女が同じところまで来ていて、かなり最後の一歩ぐらいのところまできてる。

うそろそろ女性弱者という段階ではなくなってきていて、強い男・強い女・弱い女・弱い男の段階まで来てると思う。

anond:20191126173814

歴史的女性弱者だったから。というのが理由だろう。おまえのお母さんは参政権がなかったし、おまえのお母さんがおまえのお祖父さんにレイプされたらどうなるか? 「娘の癖にお父さんを訴えるのは罪だな」ってことで有罪になっていた。

2019-11-24

著名なチェスプレイヤー黒人が全くいないのは何故だぜ?

歴史的チェスの強いのがロシア東欧勢でそもそも黒人が少ない国だというのは分かるんだが、じゃあ米英仏とかの黒人がそこそこ多い先進国はどうなってるんだよ?

ラグビーW杯日本大成功したり野球メジャーリーグロンドン試合をやったりするこのご時勢、チェス界は黒人差別を即刻やめるべきだと思うっ…

2019-11-22

anond:20191122102909

ソースもクソも歴史的事実だが…

それは別として黒人って中世ではイスラム帝国奴隷になって近代では欧米奴隷になって現代では中国草刈り場になってるのヤバくない?奴隷になるため神が作った人種と言われても信じそうになるわ

2019-11-19

ドラクエウォーク勢だがポケゴー厨から煽りが酷い

ドラクエwalkをしている。

近所は勿論、たまに遠出してもドラクエは楽しめるのがいい。ポケモンGoでは期間限定祭り以外は大した面白みもなく、歩く量も倍以上違う。

だけど最近ポケモンGoの仲間が妙にドラクエdisる。なんでも、ポケストを申請できるようになったことが理由らしい。

DQはポケストも作れないかオワコン

「ポケストで埋め尽くせば実質ドラクエ以上」

もう酷い。

そのポケストやジムイングレスからの借り物だよと。しかポケモンにはイングレスであった設定もない。ただでさえ他人リアル土地を間借りしているのに、他のゲーム概念自分のもののようにパクるとか。

DQはそういうのがなくても楽しめるようにしているだけなのに、煽られる意味がわからない。むしろ機械的に配置したからこそ、お土産スポット等の差別可がはかれている。地域差をなくして誰でも何処でも遊べるから、歩くことに集中できるし遠出も苦にならない。

ポケストは集まっていればいいだけだし。歴史的かどうかもどうでもいい。数が正義。都会でしかやる意味がない。

それに作れるっていっても、ポータル的に利用するわけでもなく、相変わらずアイテムとるだけの存在じゃないか

ポケモンGo自体は好きだけど、端末何個も使う爺やこういう他人の褌で相撲を取る馬鹿にはうんざりする。

2019-11-18

なんでショタキャラは短パンや半ズボンが多いのか

歴史的な経緯を含め自由記述しなさい。(25黄色スター

anond:20191118032259

子どものころ心霊特集テレビでやりまくっていたのを見ていた世代

最近の子どもとでは霊に対するイメージって結構違ってるんじゃないだろうか

宗教でも幽霊はないことにされがちだし、ここでいわれている幽霊って歴史的に見たら非常に短い期間だけのムーブメントなのかも

はてな〜って法治国家って言葉が好きだよな

法治国家って歴史的文脈だとあんまり良い印象ないんだよね。

そりゃ戦後理解なら違うんだろうけど、それでもね〜…

とくに今の政治を語る文脈で使うのはより一層に意味が変わりそうで…

言葉だけ使ってるんじゃないよね?

2019-11-17

吉良上野介の話

最初

吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)

三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。

 

 

吉良上野介は名君?

忠臣蔵で悪役として扱われている吉良上野介

近年「実は吉良上野介地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。

歴史秘話みたいな感じでテレビでも取り上げられるので、

吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。

 

 

で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると

案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。

 

 

恥ずかしながら私もそうで、

三河地方っていうのは知っていたのだけれど

漠然と、今の西尾市だろうと思っていると、

年配の西尾市出身の人から変な顔をされた。

 

地元歴史的経緯 

この辺には歴史的な経緯があるそうで、

そもそも三河に持っていた吉良上野介領地というのは

幡豆郡吉良庄の中のうち、八か村が飛び地の形であった。

いっても吉良は旗本なんで、そんなに領地は大きくない。

吉良は赤穂事件の後、三河領地没収されて

その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社旗本領地なんかに吸収されて

明治からは村の統廃合が続く。

(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような) 

 

 

その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町合併して吉良町生まれる。

(余談だが吉良には雲母の意があったという)

吉良町の中に、かつての吉良上野介領地も含まれてた感じ。

  

そして平成23年にこの吉良町西尾市編入合併される。

  

もともと西尾市には西尾藩というのがあったわけで、

歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで

古くから西尾市の人に「吉良上野介地元」と言われると変な顔をされたわけだ。

 

 

もう少し西尾市の人に話を聞いてみると、

んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、

吉良上野介時代に、西尾藩には土井利意という名君がいて

西尾藩領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので

大二重堤防を作って、これを防いだという逸話があるという。

 

 

こういう歴史上の逸話は、どこまで本当かどうかはワカランが

こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩地域の人にとっては、

吉良上野介地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。

 

 

名君の作り方

ただ近年、西尾市教育委員会とかが、

積極的に「黄金堤」などを吉良上野介の治績として

吉良上野介地域の名君として賞賛する教育西尾市の全域で行っているとのこと。

 

それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。 

(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)

 

調べてみると、

吉良上野介黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。

そもそも吉良上野介の治績を裏付ける文献や史料は無く、

どうも大正時代に作られた怪しい逸話が元になっているらしい。

 

 

残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で

しろ周辺とトラブルを起こしていたりしてる。

 

 

どうも旧吉良町との同化政策の一環として、

近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。

 

 

実際に吉良上野介が名君であったかどうかはともかく、

消えてしまった「吉良町」という名前を、

なんとか別の形で残そうという人の思いかも知れないね

 

でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて

教育を利用して子供達に広げるのはどうなのかなぁと。

 

 

また吉良上野介と同時代に、その地域

地震被害の救済に尽力したり色々と善政をおこなった土井利意や

堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブル調停もしている)

なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、

「らしい」という話しかない吉良上野介けが地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、

なんだかなぁって思ったりする。

 

 

吉良の赤馬

吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。

愛知県ホームページにも、

吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸天保年間に子ども玩具として作ったのが始まりです」

とある

しかしこの記述は、よく読むとあやしい

天保年間というのは、1831年から1845年までの間だ。

いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。

三河領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。

 

 

まり天保年間というのは、130年ぐらい後の話になるわけで

「領内の村に住んでいた村人」と言っても、

その時には吉良領は跡形もなくなっている。

昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。

 

 

実際の記録では吉良上野介三河領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。

直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、

まだなんとなくわかる気がするのだけれど、

百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、

わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。

天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。

  

  

調べると、さらに興味深い話が出てきて、

吉良の赤馬は近年になって愛好家から要望で、

商品に「白馬」と「殿様」というのが加わったという。

この時点では「白馬」なのね。

もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、

突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ

  

まりそもそも赤馬と吉良上野介関係なく、

「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。

 

 

もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、

色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、

愛知県をはじめとした自治体がそういうのに乗っかって、

曖昧根拠のまま紹介するのはどうなんだろうね。

実際、どうなんだろう?

このエントリーは「吉良上野介地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、

からといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。

(西尾藩領民洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)

 

  

んで、赤穂浪士研究している団体の中には、

「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。

 

吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。

 

 

それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。

少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して

へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。 

 

 

たぶんメディアとかでは広がらない話。

もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、

中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。

 

 

実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが

例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、

そこには話題性も何も無いわけだ。

 

 

この点は、なかなか興味深くて、  

「誤った情報」と「正しい情報」っていうのを比べてみても

必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、

広がりやすさには非対称性が生まれてる。

 

たぶん「地元では吉良上野介は名君」って話は

このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。

 

とか思ってたら、wikiかにもわりと詳しく書いてあったわ。

 

残念ながら大学非常勤講師報酬額が安いのは「侮辱」ではない

侮辱的な報酬額の大学講師仕事依頼がやってきた。その額なんと月2.7万円

https://cpplover.blogspot.com/2019/11/blog-post_17.html

https://ezoeryou.github.io/blog/article/2019-11-17-insulting-job-offer.html

(元記事の人はわかってて書いているのだと思うが、一応業界事情を補足しておく。)

仕事の量と質に見合った金額ではないという主張には同意するが、実際問題として大学非常勤講師報酬給与相場は、ここで言われている額からかけ離れたものではない(月2.7万は安い方だとは思うが)。それゆえ、オファーした側は特別侮辱的」な額を提示しているわけではないし、失礼な依頼だとも思ってないだろう。

なぜ非常勤講師給与報酬額が(常識的感覚からすれば)極端に少ないかは、制度歴史的な経緯で説明されることが多い。本来非常勤講師は、自校の教員だけではカバーできないような幅広い教育学生が受けられるように、主に他校の専任教員を招待して講義してもらうという制度だったようだ。招待される教員自身所属する大学から十分な給与をもらっており、また自分のところの大学でも同じように他校の教員非常勤講師をお願いするという関係上、わずかな額面であってもオファーを受けたのだろう。そうやって制度が回っていた時代があった。

しか現在では事情が違っている。いまでは他大学専任教員よりもむしろ、いわゆるポスドク専任の職を得るまでのつなぎとして非常勤講師をすることが多い。専任になれなければ、そのまま一生非常勤講師の掛け持ちをして生活したり、可能なら別の職種に就いたりする。

別の定職がないかぎり安い額面だと当然辛いのだが、非常勤講師のなり手が減ることはない。なぜかと言うと、専任教員に応募するための要件として「大学での教育歴」が求められるのが普通からだ。要するに、専任教員を目指すポスドクが足元を見られて買い叩かれる構造になっている。

そういうわけで、待遇が悪くても供給量が減らず、結果として給与報酬も上がらない。この問題アカデミア業界関係者全員が理解しているだろうが、供給から、つまりポスドク万年非常勤講師の側から変えていくのは難しいだろう(個人的な考えでは、どれだけ足元を見られようとも酷い条件の仕事はすべて断れと思うが)。オファーを引き受ける人間が「まともでない」わけでも「山師」なわけでもない。わかりやす搾取構造が出来上がっているのだ。

非常勤講師待遇の悪さの責任大学運営側にある。だが、財政難理由に何も改善しようとしていないのがほとんどの大学の現状だろう。少子化文科省の悪政が言い訳として持ち出されるのが通例だが、例えば、非常勤講師に比べれば圧倒的に高給取りである常勤教員給与退職金カットして非常勤講師給与報酬に充てるといった対策検討されることはまずない。多少の良識があれば、財政難は極端な待遇格差があることの正当な理由にはならないということがわかるはずだが、大半の常勤教員理事はこの問題について見て見ぬふりをしている。

ついでに言えば、ある大学専任教員が別の大学非常勤講師をやるというケースはいまだに少なくない。ポスドクと違ってどういう動機で引き受けているのかわからないが、純粋供給量を押し上げているという意味でこの買い叩き構造実質的寄与している。「労働力不当廉売」としてまず非難すべきは、ポスドク万年非常勤講師ではなくこちらだろう。

2019-11-14

anond:20191114190742

もともと統一教会自民党は仲が良い

冷戦時代反共防波堤という役目が韓国にあったから、保守派議員親韓派が多かった

必然的統一教会布教にも寛容だった

そういう歴史的背景を勉強した方が良いよ

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件2

(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。

論文日本語文法事象を中心に扱っており、その記述分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語目的語自動詞他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧パラダイムによる言語研究標準的使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。

日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念のものの再検討を迫るという点で、本論文日本語研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論憶測ではなく、万葉集源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。

論文共時的言語事例と通時的言語事例とを並行的に分析し、日本語言語現象全般個別現象の解明を目指した統合研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点提供している点で、学術価値は高いと判断される。

よって、本論文博士人間環境学)の学位論文として価値あるものと認める。

また、平成26年11月26日論文内容とそれに関連した事項について試問を行った結果、合格と認めた。

まさにお墨付きだ。

最後ちょっと真面目な話。『認知言語類型原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこ自体問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判したことで将来不利益を被ることがあってはならない。

それにしても、どうして『認知言語類型原理』は『日本語主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語主語はいらない』は大手出版から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型原理』は学術専門出版から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-11-13

anond:20191113194220

歴史的にみても魔王軍はだいたいホワイト

バビル2世のヨミも部下思いだし。

anond:20191113093950

ほんそれ

日本国民の半分以上がネトウヨ並の知能しか無いって事実を受け入れて、そのネトウヨ並の知能の国民すら騙せない野党体たらくこそが問題

日本国民の知能がそんなに高くないのは歴史的にも明らか。

というか世界中探しても一般市民まで知能が高い国なんてないんじゃないか

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