はてなキーワード: 木々とは
最近の私は、通勤中にフロントガラスの向こうに見える、雪を被り始めた日光連山のことが大好きだ。宇都宮は、この夏にライトレールが走り始めて、時代の最先端を謳う街だけれど、中心部から少し離れたら畑や田んぼが広がり、その向こうには山がよく見える。よく澄んだ晴れた日に、山の色と形がくっきりと現れているのも好きだし、やや曇った日に、冷たい空気の向こう側で薄ぼんやりと広がる山並みも、これはこれで素敵だなと思っている。
遠くから山を眺めるのも好きだけど、近づいてみるのも、また良い。紅葉の最終シーズンを迎える栃木では、山に近づくと、赤、橙、黄色に葉を色づかせた木々があちらこちらに散らばっている。先週は、宇都宮から那珂川町の方まで行ってきたが、山間を走れば走るほど、ああ良い季節だなと思った。日が落ちるのが早くなって、山は16時には夕陽に照らされるわけだけど、より一層赤みを増した紅葉もまた綺麗。車を降りて、そんな景色を楽しんでいるうちに足元が冷え始めて、それで冬の気配を感じるのも、好きな時間だ。
毎日の早起きは億劫だし、仕事も大変だけど、こういう「ときめき」のチャージをこまめにすることで、人生ってなんか、なんとなく愛おしいなと思い、どうにか過ごしている。
普段は都会と呼べる場所で暮らしているが、常に何かに急かされているように感じる。
行き交う車、人がすし詰めとなった電車、道を歩く人の群れ。仕事では8時間以上パソコンの前に座り、仕事の関係者とのやり取りをメールやメッセージツールで延々と続ける。
仕事が終われば終わったで、SNSや動画サイトでぼんやりと情報を見つめ続ける。就寝しようとベッドに横になっても、気がつけばスマホを触って取り留めなく情報を探している。
脳が、心が落ち着く暇がない。
プライベートの時間にパソコンやスマホを触るのは自業自得ではある。だがそれもストレスからの逃避行動だ。情報に触れすぎて疲弊したストレスで情報を眺め続ける。スマホ中毒、PC中毒と呼ばれる症状なのだろうが、冷静に考えてみると末期感が半端ない。まるで泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚のようだ。
そんな風に家ですら心が安まらないので、街から離れ自然の近くまで来た。
少し長めの休みを取って。
寂れた温泉街は良い。人も車も少なく、営業している店も少ない。刺激が少なく、やることもない。精々が温泉に入るか、散歩をするくらいだ。
沸き立つ源泉の湯気や、しとしとと降る雨粒を眺めていると、どれだけ心が疲弊していたかに改めて気付く。
ずっとこうしていたい。働くことに、普通の人として生きていくことに疲れた。
そういった生き方もあるのだろう。臆病過ぎて、今の生活から離れることが出来ないけれど。
他の人達はどう耐えているのだろう。苦しくないのだろうか。凄いなぁ。
こんなゆったりとした時間を子供の頃にも過ごした覚えがあるな、と記憶を掘り返してみると思い当たる思い出があった。
あれだ、正月の祖父母の家で、こたつに入りながら面白くもない正月番組を見ていた時の時間の流れかたと似ている。当時は退屈で仕方が無かった時間を、こんなにも貴重に思うようなるなんて。随分と歳を取ったものである。
街路樹あるじゃん。あれほんとなくなればいいと思ってる。木だけじゃなく植え込みもなくなってほしいと思ってる。以下理由。
2.根が歩道路面を隆起させることにより転倒による怪我や事故リスクが上がる。
...
経験談で恐縮だが以前歩道を徒歩で通行中に後方から接近してきたクソチャリに死ぬほどベルを鳴らされた挙げ句に舌打ちされたことがある。その歩道は一定間隔に植込みがあるのだがクソチャリが接近してきたときはちょうど植込みがあり歩道の幅が1メートル程度に狭くなるところだった。追い越したいクソチャリと避ける道理はない歩行者(自分)による状況においてクソチャリが前述のベル攻撃をしてきた。
まあ、クソチャリが道交法(正確にはわからんが察してくれ)違反してベル鳴らすマナー違反が悪いのだろうが、それよりなにより歩道の幅を減らすほどの植込みがなければいいんじゃね?とも思うわけよ。
頭の足りねえクソチャリは掃いて捨てるほどいるわけだし、脳みそツルツルなクソチャリにイチから教育していくなんて時間と予算がいくらあっても足りないなかで、とりあえず歩行者の安全を脅かす遠因でもある植込みを無くせば(同様に街路樹も)少しは安全になるんじゃないかと思うわけで。
あとさー車の運転でも街路樹邪魔でクソほど危ない目にあうことあるじゃん。よく見ろとか言われてもそもそも物理的に見えないものをどうしろ。
1.景観、美観
2.植木屋が儲かる
ぐらいしかなくね?これ市民にメリットある?安全を犠牲にするほどのメリットなの?
まあ、100歩譲って都心(都内ではない)のような木々のない所にはあってもいいよ。よくないが、まあいい。
だが、少し視線を上げれば雄大な、木々が生い茂る山々が見えるような地方の歩道に街路樹や植え込みは必要なのかと問いたい。いらねーよ。
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<追記>
なるほど日陰ねー。たしかに信号待ちのときに日陰があると便利だ。でもそれは交通安全を犠牲にするほど重要なものか???ちなみに俺は今年の夏から日傘を導入したがあれほどいいもんはないと実感した。永久に日陰がついてきてくれる。マジおすすめ。
緑化はCO2の吸収源として有効と言っているけど、それって歩道に植えなきゃだめなん?まあ排ガス発生源(車)の真横に植えるのが効果的に思えるけど地球規模で考えるとどっかの土地にまとめてドカッと植えたほうが効果ありそうじゃない?それとももはや道路脇にしか植えられないほど土地が無いの?むしろ工場の緑化をもっと厳しくブチかましてやれ。マイカー通勤とか舐めんな。
書いていて思ったけど道路脇ってことは人やモノの活動圏内ど真ん中であって手入れも管理もやりやすいってのもあるのか。は~よく出来てる。植えてハイ終わり!じゃそれはそれでなにやってんの?になるしな。
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あまりに邪魔なので市に文句言おうと色々調べたら国道に生えてる街路樹は国が管理で、市道町道は自治体管理で、自治体の中でももっと小さい区分(◯丁目自治会とかそういうやつ)で管理している場合もあって何がなんだかわからん。
霊山「妙見山」にあるしおき場(処刑場)は、大阪では有名な心霊スポットだ。
しおき場のすぐ手前には、これまた心霊スポットである「野間トンネル」がある。
一気に2つも心霊スポットを巡れるのだからお得だ、という妙な損得勘定を持ちながら、車を進めていった。
野間トンネルは長さ10mもない、トンネルとも言えない規模だった。
車のヘッドライトが照らすコンクリートの白さが不気味で、穴の先はライトで照らしても真っ暗だった。
時速20kmで、のろのろと入っていく。
入った先は、雰囲気が全く違っていた。
ここに入るまででも、狭い山道、街頭がほとんどない暗さ、廃墟のような家が不気味で、雰囲気は十二分にあった。
特に「しおき場」に入るために「わざわざ」入った妙見山からは特に暗く、これから心霊スポットに入るんだ、という気持ちを高めてくれていた。
トンネルの先は、真っ暗だった。
風に吹かれ、杉だろうか、月明かりに照らされた木々の葉が揺れている。
それだけだが、その静けさ、雰囲気はまるで時間が止まったようだった。
まだ夜の7時なのに、深夜の2時を過ぎているとしか思えなかった。
野間トンネルに入って、20~30mほど進んだだろうか、「目的地へ到着しました」とナビが教えてくれた。
だが周囲には何もなかった。
その先の道は狭く、お寺に続いているようだ。
お寺に用はない。引き返してみることにした。
もっと注意深く、何があるかを観察せねばならなかった。
隣の妻から、息を吞む声が聞こえた。
「違う違う、たぶんここじゃない」
妻の声は上ずっていた。
「この先?」
「うん」
少し進むと、脇道が見えた。
「ここや」
俺がそれだけ言うと、2人とも黙ってしまった。
ここに到着する前は、外に出て探検しようと思っていた。
だが、とてもできなかった。
しおき場は、戦国時代、2つの家の諍いを収めるために、豊臣秀吉の名で「両家から農民を10名差し出して、斬首する」ことから始まった場所だ。
そんな場所に、面白半分で車を停めて中に入ることは、その霊を冒涜しているような気になったのだ。
今更な話だった。
だが今なら、たまたま通りがかった、道に迷った体で帰れるのではないかと思った。
ようやく窓を開けたのは、山を降り、コンビニが見えた時だ。
緊張が抜けたせいか、頭が痛かった。
妻と2人、車の中で寝た。
これは先週の出来事だ。
あれからずっと、しおき場のことを考えている。
その真っ白な威容、ぽっかりと空いた真っ黒な穴。
その先は異世界のようだった。
今でも鳥肌がたつ。
妻もあの光景が忘れられないのだという。
妻は「しおき場の中を調べなかったから、よけいに怖いのかもしれない」と言う。
それもあると思う。
だが、それだけでもないような気がした。
こうした心霊スポットに耐性がないせいだろうか、非日常に浮かれているのだろうか。
この客の中には、また同じ山に、同じ企業のツアーで参加した者がいたらしい。
それに比べるとお子様もいいところだが。
また行こうと思う。
これはボイロ実況を除いたpart1動画の一ヶ月以内の再生数順なんだけど(約ボイロ一件まざっちゃってる)
数千が5人続き、以降は千再生も行かない。500再生したらすごいレベルだ
高再生も固定ファンがついてる古くからの人ばかりではなく人が人に集っている
実況動画限らずの現象だがジャンルごとに数人の内容関係なく再生される人とその他の底辺が沢山なのが現状だ
よいものができるには沢山の(下手な)人が必要とは言われるが、ニコニコのクリエイターはもはやよじ登れるピラミッドではなく10000or10という画鋲の中で暮らしている
この細すぎる糸を登るにはお釈迦様の助けでもなければできないだろう
もちろん、一世を風靡し終わった衰退ジャンルを見て言っているといわれてもしかたないしyoutubeのほうが優れているというわけでもないむしろニコニコのほうが一覧性が高いからこういったジャンルは死んでるが人だけが生きている状況が可視化されているわけだ
コメントが流れることや視聴者との一体感などといったニコニコの特徴は全体の特徴ではなくごく一部の高再生動画という狭あい地にぎゅうぎゅうに詰まっている人だけが感じるものだ
そして誰もがどうにもできないわけなのだが、それにしても逆転の目すらないのは辛い
多少底辺のほかより抜きん出ても、ジャンルではなく人に集っている既存の人気動画が上位を占めているので露出の機会もない
まさに育ちきった木々に阻まれ下草が育つことができない森林のような状況だ
そこに手を入れる間伐のような役割を持つ広告やおすすめ順なども機能してるとは言いがたい
視聴者が、そしてクリエイターができることはひたすらにそのときどきの覇権、いや古いか人気ジャンルに適応してイナゴのように遊牧することだ
新ジャンルに適応できなかった人間は枯れかけた井戸の中で、そして頭上のたっぷり貯水したダムを眺めながら朽ちていくしかないのである
ショルダーバッグにお水850リットルとローソンのねじりパンとカレーパンを携えいざ出陣
もうね
そらそうだわ一段毎に片足スクワットするようなもんだしな
数段上がるたびにモンハンのスタミナ切れハンターみたいにゼェゼェ止まんの
俺の横をご老人がスイスイ…でもないけどゆっくり追い抜いていくの
屈☆辱
でもまあなんとか山頂に辿り着いたの
先客が数グループ
見事にいい席取られてんの
淑女と家族持ちは景観いい席でキャッキャキャッキャと優雅なランチ
弱男の俺は隅のベンチでカレーパン
フッ
帰りは砂利でツルッツル
危なくてしゃーない
いっぺんスト2ベガの強下Kのスライディングみたいになりそうになって超ビビったの
小幅で足元確認しながらチマチマ降りてくの
その横を仕事デキそうなオッサンがスイスイ追い抜いて下山してくの
KUTSU☆JYOKU
お前ら低山とて靴はちゃんとしたもん履いて行けよ
あとリュックorナップザックにしとけ
山を舐めるなッッッ
そんな日曜午前であった
じゃあの☆
何の学科か分からないが、何かを調べる授業があり、何故かその調べ物をする場所がとんでもない傾斜の坂の上の山の中にある。
傾斜が凄まじく、自分は途中まで自転車に乗って登っていたのだが進む事すらできなくなり、あまりのことに笑いながら自転車を諦めて脇の空き地に横たえて置いて坂道に縋り付くように四つん這いになりながら道を登り始めた。路側帯の白線が何故か普通に帯のように紐のようになっていて握れるので、それに掴まりながら登山のようにアスファルトの道を登っていく。他にも同じ様に山の上に向かっている生徒があり、状況のとんでもなさに苦笑して笑い合いながら目的地に着いた。
山の中腹にある開けた空き地は周囲を木々に囲まれ短い下草が青々と茂っていて、そこに図工室にあるような作業台や角椅子が整然と並んでいる。細部をよく覚えていないが、本類、資料?文献?は卓上に置いてあったのかもしれない。本棚は無かった気がする。そこで多くの生徒、教師が角椅子に座り何かを調べたり読んだりしている。
男女の教員、1人はふくよかで豊かな癖毛をした落ち着いた服装の長髪の中年の女性、1人は顔色が極めて悪い、短髪で目をひん剥いたようなギョロ目をした和装の男性。で、何故か自分はその男性の向かい側で古書を見ていて、その古書は神社の御由緒のような、神社に伝わる書物の由来が記載された目録のようなものだった。読んでいるうちに、その神社の建立当初、帝から賜った宸翰が今に伝わっていると書かれており、へぇええ〜!!!と顔を上げると、夢なので唐突に、目の前の教職の男性の脇に60代くらいの落ち着きのある痩せた神主さんが居て、「持ってきましょうか」と言う。は???凄すぎる、見て良いのか、やべー!!と心中で慌てふためきながら大人しく待っているうちに、夢なので唐突に周囲に人は居なくなり、その作業机には自分と教職の白服の男性、少し向こうにふくよかな女性の教員だけが居て、何故か神主さんが神社に贈られた上等の和菓子をあけて自分と男性教職員に出してくれる。
そのひとつをようく覚えていて、それは艶々ぴかぴかとした光沢のある、一つ一つの粒がしっかりとしている黒豆のような茹で小豆?あんこ?に覆われたぼたもち/おはぎで、実際存在するのかと検索してみるとそのような物は見つけられなかったのだが、自分が見つけられなかっただけでどこかには存在するのかもしれない、それを美味しく食べた。あまりの旨さにまた感動して目を見開きながら顔を上げて目の前の男性教職員を見ると、わかるぞと言うように相手はうなずき、「本物は内側が7層になっているんですよ」と教えてくれて、こんな小さい和菓子の内側に何が7層も入っているのか気になって仕方がなかった。
夢なので唐突なのだが、我々の机の横手には、自分達が登ってきたはずのアスファルトの急斜面は無く、けばけばしくない、ぼろくもない、使い込まれた年代物の神楽殿があった。開け放たれたそこには、奥の方に木札のような、30センチ程の高さの有りそうな折紙に包まれた書状がいくつか重ねて立て掛けられていた。あまり恭しい扱いとは言えないように見えたが、粗雑に扱われているようでもなかった。そのうちのいくつかを今から読むのだろうか?神主さんが紙を開いて書面を出してくれたあたりで目が覚めた。
艶々の黒豆に覆われたあのぼたもち様のなにかが気になって仕方がないが、ぼたもちではなく生菓子かもしれない。
国の極秘プロジェクトの最先端原子力技術研究所みたいな施設に招かれた。
施設の中の黒塗りの自動扉の向こうには、サッカーのフィールドくらいあるどでかい重力制御装置があり、そこで実験を行うのだとボスから説明を受ける。
自分はその時とんでもなく眠くて、説明中もずっとウトウトしていた。
普段は茶目っ気のある小太りのボスに「大丈夫か?気分が悪いなら休め」と言われた。厳重な顔で、怒りと呆れが入り混じったような声色だった。やる気がないなら帰れ、役立たず、とでも言われた気分になった。自分は「いえ大丈夫です」と答えた。
我々は宇宙服のような衣服に着替え始めた。これは一人で着脱可能なモデルだった。
しかしここでも眠気には抗えなかった。留め具を全てしっかり固定するように、と言われたが、その手順を半分以上聞いておらず、全然できなかった。自分の留め具はまだ半分以上残っていた。他の3人はすでに準備完了といった感じで、ボスと雑談をしていた。
このまま行ったら流石に怒られるよな…と思ってやめた。もう間に合わないだろうと思った。
そして気がつけば周りに人がいなくなっていた。すでに実験はスタートしたようだ。ああどうしよう、と思った。
仕方なく、実験中の扉の前でウロウロしていた。ここは長さ100m幅4m程の広々とした廊下で、扉の向かいは全面ガラス張りになっており、緑の木々たちを眺めることができた。
すると突然揺れが起こった。世界の終わりのような巨大な揺れだった。警報がけたたましく鳴り出した。
「実験が失敗したんだ!」自分は嬉しいような悲しいような気持ちになった。同時に死を覚悟した。
きっとこの実験扉の向こうでは崩壊が始まっているのだろう。もはや逃れることはできない。
揺れが徐々に激しくなった。
天井が崩落して押しつぶされるのだろうか、扉の向こうの熱線に焼かれて消えるのだろうか、そんなことを考えていたら、全身が首からどろっと溶けるような感覚に襲われ、目の前が真っ暗になった。(起床)
5年ぶりに裸になりたくなった。
Playa de la Mar Bella。ビーチ全体ではなく、限られたエリアがヌーディストビーチ。ちゃんと看板でこの先が全裸ゾーンって書いてある。
カタルーニャ広場停車場(Pl Catalunya - Portal de l'Àngel)からH16のバスでPg. Calvell - Rambla del Poblenou停車場まで。徒歩の時間も込みで30分
バス停からは公園を横切って移動する。なんか途中にドッグランもあった。ビーチそのものは公園からは高台というか小山で遮られている。
小山を向けて海に向かって右側にまず行ったんだけれど、さっそく小山の上で全裸で仁王立ちしているおじいさんがいた。
でも、その時点ですごくトイレに行きたかった。で、近くの海の家的な店で聞いたんだけれど、トイレはお客さん専用だとのこと。
しょうがないので、近くにトイレはないかと小山の左側の店に行った。そしたらそこにトイレがあった。
用を足してあたりを見回す。一応ヌーディストビーチなので裸でシャワーを浴びている人もちらほらいたんだけれども、それよりは筋肉質のビキニパンツの好青年のほうが多かった。こっち側はゲイビーチらしい。皆さん概してマナーがいい。健全な出会いの場という印象だ。
こっち側の海の家の名前は「Be Gay」で、おそらく「ゲイであれ」と「陽気にやろうぜ」の掛詞だ。シャワー付近には裸の女性もいたが、着衣の人が多かったのでここで裸になるのはためらわれた。
さっきはトイレに行きたくて状況がよくわからなかった反対側はどういう雰囲気かと思って、戻ってのぞいてみると、こっちのほうが普通に裸になっている人が多い。ただしシャワーはない。ほとんどが男性で男湯っぽい雰囲気だけれど、カップルが数組いて、父と幼児が海辺で戯れていた。男女比は大体10対1くらいで、以前訪れたウイーンの混浴サウナとはだいぶ雰囲気が違う。それにウイーンのほうが夫婦連れが多かった。
私はここで素っ裸になった。ウイーンとは違って遮るものがないし、着替える場所もないのでちょっと緊張したけれど、えいやと脱ぐ。まずは上半身裸で太陽を浴びて、それから下半身も脱ぐ。パンツと下着を同時に脱ぐ。お尻丸出し。やっぱり全身を太陽にあてると気持ちがいい。
ところで、バルセロナのビーチでは普通にトップレスの女性がいる。二人連れの女性がなんだか楽しそうにしていた。ヌーディストエリアの隣なので、それこそ全裸中年男性がたくさんいるのだけれど、まったく気にしていない。私がヌーディスト的な世界に憧れるのは、相手のことをじろじろ見たりせず、自然な姿をありのまま受け入れているからだ。相手だけが着衣、私が裸(あるいは逆)というプレイに結構興味はあるけれども、ここで感じる解放感とはまったくの別物だ。
何となくだけれど、ビキニパンツのトップレスってなんかユーモラスだ。ジーンズのトップレスのほうがセクシーだ。なんでだろ? ティーバックの水着もなんかお尻丸出しでなんだかセクシーよりも面白衣装って感じちゃう。服って脱ぎすぎて裸っぽくなるととユーモラスになっちゃう。そういえばここで見かけたおっぱいの大きなすっぽんぽんの中年女性、きれいだったけれども、バルセロナ市内で見かけたへそ出しファッションのほうがよっぽどエッチな印象だった。
へそ出しと言ってもブラトップみたいなもあるし、タンクトップみたいなのもあったし、おへそまわりだけ出ていて、その周りのお腹をレースで覆うタイプのもある。
ボディスーツっていう、ハイレグレオタードみたなトップスにジーンズみたいな恰好の女性も見たけれど、腰の素肌が出ているだけなのに、すっぽんぽんよりもなんだかエッチだった。十代もいたし、ぽっちゃりした人もいた。誰も気にしていないのがいい。さすがにパンツが見えそうなミニスカートにはびっくりしたけどね。
で、何でそう感じるか。たぶん素っ裸になると、身体にはどこにも境目がなくてひとつながりで美しいって感じるんだけれども、中途半端に隠すとかえって暴いて見たくなるというか、えっちな部分が強調されちゃうんだろうな。
さて、裸で太陽を浴びてうとうとしていると、水売りのおじさんが通るのが見える。アジア人は私だけだった。アフリカ系の男性が数人いた。でも誰も気にしない。バルセロナは日本人観光客が多いけれども、ここは私だけ。無名のままでいられるって素敵。よそ者の気楽さ。
十分に太陽を浴びた私は、ほかの泳いでいる人たちに続いて、素っ裸で海に飛び込んだ。頭まで潜ったり、波に乗ったり、大股を広げて背中で浮いたりした。すっぽんぽんで太陽を浴びると気持ちがいいし、何物も遮るものがない海に一糸まとわぬ姿で飛び込むと、なんだかいろいろな汚れが流れ去っていく感じがした。これは木々に囲まれたウイーンの混浴サウナでは味わえない感覚だ。途中で急に深くなっていて、一瞬足を取られたのには焦ったけれどね。海に飛び込んで、休んで。また飛び込んでを繰り返す。
で、すごく開放感があったんだけど、ウイーンのほうがマナーが良かったかな。おっちゃんがおちんちん一往復だけいじってたし。単に皮に砂が入ったからかもしれないけど。あと、小山の茂みの中でごそごそやっている人がいた。邪魔したら悪いからよく観察しなかったけど、あれはなんだったんだろう。きっと気にするのは無粋。
あと、ウイーンと違ったのは、こっちは陰毛処理していない人がほとんどだった。ヌーディストだから自然派なのかな?
そうそう、それに、財布も浜辺に置いてある。だからウイーンのほうが安心して裸になれたかな。持ってきたのは現金ちょっとだけだったけど、服も財布も盗まれたらどうしようもない。
でも、やっぱり海にはいろんなものを押し流す力がある。何か聖なる洗礼を受けたというか、生まれ変わった感じがする。何も恐れるものがない気持ちになる。これから生きていくこともいつかは死ぬことも、自然と一体になった私は恐れることはないと。水着で邪魔されず、海水が私の全身を撫でる。頭からつま先まで。無限に広がる温泉のような素晴らしさ。それはとてもやさしくてあたたかい。来世とはこんな感じではないか。個我が消えて宇宙に包まれているのはきっとこんな安心感だ。そんな宗教的な気持ちまでも出てくる。裸になるって神聖。
とはいえ、十分も泳いでいたら普通にオーシャンビューの温泉で構わない気もしてきた。このあたりで私の全裸徘徊願望は収まってきたらしい。温泉では髪の毛を水につけたり、泳いだりはできないんだけれどね。でも、なんだかこうやって心から裸になるのは、信頼できる人の前でだけのほうがいい気がしてきた。
気が済んで、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。やり残したことを終えると、すっきりすると同時に、なぜあんなにこだわっていたのかがわからなくなる。
罪悪感とは少し違う。やる必要はなくなったかなという気持ち。もう少ししたら気分も落ち着いてくるだろう。これは再確認だ。これは自分にはもういらない要素だということの。別に外で裸にならなくても、普通に暮らしていけるという感じ。
やりたいことをすべてやってしまったという感覚が、おそらく次のステップに必要なんだ。
現に、帰宅してからは、以前は家では裸で運動していたのに、旅行から帰ったら普通に着た方がいいなって感じられるようになった。
なお、小山の右側と左側をつなぐ浜辺は人がぎっしりだった。歩いていくのがためらわれるくらい。たぶん8月のハイシーズンなのと、潮が満ちてきていたからだと思う。
バルセロナはこの時期は日没が21時だ。私がカタルーニャ広場を出たのが18時で、ビーチに着いたのが18時半くらい、脱いだのが19時、だいたい20時ちょっと前くらいまですっぽんぽんで過ごしてすっきりして帰った。服を着た人のいるところまで裸で歩いてシャワーを浴びる気にはならなかったから、軽くタオルで身体をふいてホテルでシャワーを浴びてご飯食べて寝た。
すまん、言い方が漠然としすぎててどこのことだかわからない。なので当てずっぽうでレスしてみる。これをきっかけに何か思い出すかもしれないしな!
ただはじめに言っておくと海外にはオカルトハントとして手を出していないので(同様の地が日本にあるとかでない限り)行ったことがないはずだ。
・カナダの反重力地帯とやらがあるそうだが(今調べた)、ここも行ったことはないものの、ちょうど来月カナダに行くので時間が取れれば行ってみたいな。
・カリフォルニアにあるミステリースポットとやらがそれっぽい(これも今調べた)。興味は掻き立てられるが、単なるアミューズメントではないかという印象が湧いた。行くにしてももう少し詳細に調べてからだな。
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
…
夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
…
神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
…
この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
…
風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
…
で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
…
いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
…
正しいかは知らない。
…
何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
好きなこと、嫌いなこと。
この国についての意見
ということで、スゴイというか、日本は実は
実は本当に悪い国なんです。
ゴミ箱がない。
ああ
いつもこういう一般的なことを
を聞いたり、そうだなぁと思ったりする。
でも、それは大したことではないと気づく。
巨大な遊び場のような感じがする。
ローガン・ポールのような意味ではなく、好きなことを好きなだけ
ているわけではなく
経験することができる。
飽きることはないだろう。
もう1年ここにいるけど、すぐに飽きるとは思わない。
子供が生まれるので、あとどれくらい体験できる時間があるのかわからない。
そして、1年経っても、まだ信じられないような感動があることがうれしいです。
1年経った今でも、信じられないほど新鮮に感じられます。
1年経っても新鮮で、日本の良さを
を楽しむことができます。
これは私だけの話かもしれませんが
東京はとても賑やかです。
とても賑やかで、何度も何度も
私が誰なのか
みんな自分のことをやっている
それはとても [ __ ]いい気分だ
今までは私をじっと見ていたのに誰も
ってな感じで、冗談です。
人前でも気にならないし
他の人が何をしてるかなんて気にしない
ファンと話すのが好きなんだ。
いつも嬉しいんだけど
自分のことをやりたいのに
いつも
そうだ、じゃあ次は日本の悪いところだ。
それは「円錐」です。
日本には円錐が多すぎるのです。
一度見たら忘れられない。
自販機が一人につき5台もあるそうです。
一人当たり5台はあるそうです。いや、その逆です。
人よりもコーンの方が多いんです。
こんなにたくさんのコーンがあるのか、知りたい。
背の高いのもあるし、小さいのもある
セクシーなもの......そういうのが好きなんだ......ただ、わからないのは
コーンを弾く人は、私がただ通り抜けると思ってるんだ
"よかった""コーンがある
そうでなければ、私は何をしようとしているのかわからなかった
アイテムが手に入ることがある。
と思うことがある。
と思っていたら、竹のようなものが出てきて
これは一体何なんだろう?
と思っていたら
これはコーンだ。
どこにでもある
私の後をついてきているような気がする
このことを話せてよかったと思う
私は一人で、喜んで呼びかける
コーンはもう十分だ。
母が来てくれたんだ
非公式な合体だ なぜなら俺は
他のグッズを持ってないんだ。
てくれたチームは本当に
いい仕事をしてくれた。
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この色ではないのですが......。
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というわけで、興味のある方はチェックしてみてください。
私は日本が好きです。
日本が悪いと言う人がたくさんいた。
本当に悪かったんだ。
というのも、今、この理由をすべて挙げなければならない。
みんな「アレ」「コレ」と言うので
日本がどうのこうのと言うので、私はそれを伝えなければならない。
特にみんなが言っていたのは、年寄りは外国人を嫌うということだ。
嫌いなんだそうだ。
ご近所さんに挨拶しようと思ったのですが、そのご近所さんの中には少し
を紹介しようとしたとき、私は怖かった。
恐ろしくて......こんな話を聞いたんだ。
何をされるんだろう?
と歓迎されました。
外国人を嫌う人がいるのは確かです。
外国人が嫌いな人もいるだろうし、そういうのは
もし、いつもネガティブな期待を抱いているのなら、人生に悪い影響を与えるような気がする。
期待するのであれば......人は微笑むものだ
微笑み返すかもしれない
笑顔で返す
ありがとうと言われることもあるし、そうでないこともある。
それはそれでいいのですが、とにかく私が言いたいのは
はとても親切でフレンドリーだ。
少なくとも、そして外国人に対してもそうだ。
ディズニーランドで迷子になった子供か何かのように思われているような気がする。
私はただ道を尋ねただけです。
30分も歩かせる必要はなかった。
30分も歩かせる必要はなかった。
他の人たちが応援してくれる。
って叫んでくれるんだ。
って声をかけてくれるんです。
素晴らしいことだと思うし、もしあなたが小さい頃
人と話すのは素晴らしいことだと思う。
私はそういう瞬間が大好きです。
その瞬間が好きです。
でも、もちろん、「お前は外国人だからわからない」と言われることもある。
外国人なんだし......。
ということもあります。
と言われることもありますが、それはそれでいいんです。
私は1年間ここに住んでいますが、日本語が流暢ではありません。
日本語が流暢に話せない
この知識を試してみよう。
を試してみよう。
入ってみよう......きっと危険だ......。
初めてお店に入ったら
彼らはこう言います。
なんだ
なんだ
という感じです。
必ずしも教科書で教わった通りにはならない
初めて言語を学ぶ人なら誰でも同じだと思う。
でも、漢字のことはもういいや。
漢字がメインになるのは勘弁してくれ[ __ ]。
っているのですが、その難しさを
日本語がどれほど大変な言語であるかは、少なくとも私自身は理解していないと思う。
というのも、学べば学ぶほど
を知ることになるからです。
ということで、「悪い」としました。
のですが、人と接すれば接するほど
人と接すれば接するほど、新しいスキルが身につくような気がします。
初めて電話をかけました。
という感じです。
できるようになった。
見知らぬ人との会話でも、まだ何かある。
って感じです。
突然理解できるようになる。
ゲームもできる。
ゲームもできる。
でも、それはとてもチャレンジングなこと。
今となってはいいことだと思うのですが......。
今となっては、「やってよかった」と思っています。
でも、まだまだ
長い [ __ ]道のりを歩まなければならない
ということで、このままではダメだと思う。
していたのですが、それはそれでいいんです。
少し毒があったような気もします。
を考えていた。
新婚旅行で
人生には他にもいろいろなことがある。
を発見できる。
サーフィンを楽しむことができる。
ずっと好きだったんだけど、やっと
できるようになり、とても [ __ ]素晴らしいです。
私は新しいことを学ぶのが大好きです。
新しいことを学ぶのが大好きです。
を学ぶのが大好きです。
どこでもできることなのですが、それが
これは一番厄介なことかもしれません。
ルールがあるんです。
というのも、日本の良いところはたくさんあるのですが
日本の良いところは、良いところではないのですが、日本がうまくいっている理由の多くは
は常に時間通りに動く。
多かれ少なかれ、そうなっているものです。
ることがあります。
ルに従うのは問題ない。
その理由を理解している限りは、ルールに従うことに問題はない。
他人を思いやることです。
自分のことだけでなく、他の人のことも考える。
そうすることで、より快適に過ごすことができます。
は、コビトのために
分娩室に2時間以上いることは許されません。
2時間以上いることができないのです。
ルールがあるのです。
このことを家族や友人に話すと
家族や友人に話すと、いつも
なぜ彼らに聞かないんだ?
と言われる。
きっとどこかにあるはずだ。
この国で過ごせば過ごすほど
頭で考えても意味がない。
自分が優れているように見せたいとは思わない。
とか、「私には理解できないから、私が上だ」みたいなことは言いたくない。
でも、やっぱり悔しいんです。
本当にイライラするんだ。
というのも、ルール6には理由があり、たとえその理由が自分にはわからないとしても、通常はある種の実用性のために存在するものだからです。
理解できないんだ
っているような気がします。
一日のうち、どんなときでも起こりうる。
一日のうち、どんなときでもいいんです。たとえば自転車に乗っているとき。
っているとき。
風が顔に当たって、なんだか
その瞬間は、まるで自分が生きているような
まるで夢を見ているような気分になる。
犬の散歩をしていても
富士山がくっきりと見える。
海全体がピンク色に染まっていく。
海全体がピンク色に染まっていく。
夢の中にいるような感覚になる。
自分を信じられなくなる。
という気持ちになる。
素晴らしいことです。
幸せな日々
彼のことを話すのは本当に馬鹿げてる
彼のことを話すのは本当に馬鹿げている。
ないのだから。
そのような瞬間がより多く訪れるような気がする。
よくあることだと思う。
イギリスや他の国でも幸せではなかったわけではないけれど、一般的に考えて
優先順位が変わりましたし
変な意味で良い方向に変わったと思う。
その多くは、私自身や私の置かれた状況特有のものだと思います。
その多くは、私自身や私の置かれた状況にもよるのですが、私は
もうあまり働かなくていいんだ。
自由を手に入れることができました。
をする機会もあります。
日本での厳しい労働観のような悪い部分とは無縁で、自由を手に入れることができました。
私は特に、「自分は認められていない」と感じているのだと思います。
それは、私がここで多くのことを楽しんでいる理由でもあります。
日本が好きな理由の多くは、少なくとも私にとっては非常に特殊なものです。
を楽しむ理由の多くは、少なくとも私にとっては特別なものであり、人々が日本を好きな理由は
理由は人それぞれ。
を派遣しようとするのは間違っていると思うし、必ずしも
しかし、私は
しかし、最終的には素晴らしい場所だと思うし、ぜひ行くべきだと思う。
誰もがここで生活することを楽しめるわけではないとも思う。
それが私の大きなアステリックスです。
るべきだと思う。
も幸せだった。
幸せな瞬間に立ち会えることが多くなった。
それはとてもありがたいことです。
ということで、この辺で終わりにしたいと思います。
父が祖父から譲り受けた駐車場を管理していたりするので、「不動産経営」にまったく馴染みがないわけではないので、増田の苦労は多少だが共感できる。いわゆる「自分の資産の価値を下げかねない存在」になんてもちろん貸したくないよね。
って思いながら読んでて、「そういえば自分がいくつか賃貸契約を結ぶ中で、大家さんもいろいろだなと思ったりすることがあるな」と思いだしたので書いてみてもいいだろうか。
【1】
初めて一人暮らし用の賃貸契約を交わしたのは東京と千葉の境目ぐらいの場所。
大家さん宅の敷地を一部改装した感じで、大家さんの住まいのスグ隣。4階建てで12部屋ぐらい。
内見に行くときは大家さんの家をピンポンして鍵をもらうスタイルだった。
そのときに私の顔は見えるだろうから、こういうスタイルなら増田みたいに契約書出した人の見た目は知れるだろうなと思う。
1Kで2口キッチン、風呂トイレ別、クローゼットは押し入れクラスの広さ。
ベランダから大家さんのお庭の四季折々の木々が見えるのが気持ちよかった。
あまりに条件がいいので「何故こんなに安いのか」と仲介の営業さんに聞いたら「儲ける気がないんじゃないか」と言っていた笑。
確かに、2年住んだがすごくいいご夫婦でよかった。よく庭の手入れをしている様子を洗濯干しながら眺めていた。
出て行く時いろいろ間違えて、2週間ほど廊下に洗濯機置きっ放しにさせてくれないかと頼んだら快諾してくれたしね。良い人すぎる。。
強いて言うなら、隣の一人暮らしのおっさんが最初はただ親切なおっさんだったんだけど、だんだん親切が過ぎて家を出たときに同時に向こうも玄関から出てきたりしたのが若干気持ち悪かった。ナゾのオススメ本とか食べたことがないような食べものを「ぜひ」と時々くれた。
反対の隣の若いご夫婦+お子さんはある平日の早朝から「いるんでしょ?」とナゾのスーツの男がドンドン扉たたいてて怖かった。
それ1回きりしか出くわしてないけど、そのご家族はいつのまにかいなくなってた。
大家さんは良い人だったけど、もうちょっと儲ける気持ちや疑う気持ちがあってもいいかもしれない。
【2】
吉祥寺で部屋を借りようとしたときは全体的に入居条件が厳しかった。
人気エリアはそれでも人が集まるんだなあと思った覚えがある。
その中で印象に残っているのは「安定した収入のある親以外は保証人として受け付けない」物件。
ネットで見て気になったと仲介業者に見せたら「そこは大家さんがちょっと変わってる」とすぐ返ってきたので有名なのだろう笑。
当時、20代後半だった私は親がもう60代後半で働いていない(まあそもそも父親はちゃんと働いた試しがないのだけれど)ので無理だった。
学生が住む感じの印象の間取りではなかったけど、若い人しか住めないようにしてるんだろうなと思って別の物件を契約した。
【3】
若い人しか住めないナゾの限定条件で特に香ばしかったのが、妹が初めて一人暮らしをするからと一緒に不動産屋についていったときのアレだ。
間取りを見るとイイ感じに安くて、まあまあ広い。理想ではないけれど、妹の給料でもなんとかやってけそうな範囲ではなかなか好条件。
うんうん、入居条件が「20代の女性のみ」なので妹もあてはまる。
女性のみ、まあわかるわかる。女性専用マンションとかむしろ私も入りたいものね。
乗り気になっていたら仲介の営業さんが「ここはご家族でいろんなマンションをもっているんですが、ちょっと大家さんが変わってて、お会いしたら必ず挨拶をしなければいけない」みたいなことを言っていた。なるほど、礼儀正しさが求められるわけか。我々は実家のマンションの管理人さんに元気よく挨拶するタイプの姉妹なので問題なしだ。と、とりあえず内見に行ってみる。
川沿いだけの立派なマンションだった。対象の部屋はまだ入居中なので中は見ていない。
なんか、1階の駐車場スペースに大家さんがバイクで来たときに停めるためのナゾのスペースがあった。
そりゃ大家さんだもん。うんうん、物件を見に来るときもあるよね。
20代の女性のみ、大家さんが来ると必ず挨拶しなければいけない、大家さん(家族の息子にあたる40代だか50代)はバイクでしょっちゅうマンションに来て掃除とかしてる、変に安い。なぜその条件でこんなデッカイ駐車場スペースがあるのか。
が、総合点としてお姉ちゃんレーダーが言葉にできない警告音を出していたのでそこはやめさせた。
もちろん何の問題もないかもしれないけれど、営業のなんかこう「…」な含みを得た案内の仕方もやめた方がいいだろうと思う材料になった。
仲介業者の話す「大家さんが変わっている」は、向こうもあんまり積極的に連絡取りたくないタイプなのかもしれない。
もちろん、大家さん側の出している条件に見合わない客を弾くためにそう話すこともあるのだろうけれど。
都心部だと、最近はほとんど管理会社に面倒な客の対応も含めてすべて任せているところが多いから、大家さんの人物像が垣間見える瞬間もほとんどない。だからこそ、ときどきこうやってふと何かが見えると「世の中っておもしろいなあ」って思う。
ちなみに冒頭で話した私の父も、ときどきヘンテコな顧客にあたって辟易している。
車庫証明をやたらなくす若い女の子とか。やべーなと思ってたら1ヶ月もたたずにすぐ解約して消えていった。
なんか怪しいものに使われてんじゃないのか。