はてなキーワード: 十倍とは
世の中のサラリーマンには二種類いる。サラリーマンの才能があるんでサラリーマンやってる人と、他の才能(例えば経営者の才能)がないんで消去法的選択でサラリーマンやってるひとだ。後者は、別にサラリーマンの才能があるとは限らない。そして多くの場合中小企業や役所でうだつの上がらない仕事をしてる。つまり実は多数派だ。
経営者にも二種類いて、経営者の才能があるんで経営者やってる人と、経営者以外の才能がない(他人の指示に従うとか才能が必要なのだ)ので経営者やってる人だ。経営者っていうと随分大げさだけど、フリーランスとか、中小零細企業の社長なんかはたいていこのタイプなのだ。ワンマンで馬力はあるが組織に合わせるのが苦手な人たちだ。
「世の中不景気でブラックでまじうんこ経営者死ね」って労働者の立場から投げつけるWeb記事読むけど、多くの場合それ才能のないサラリーマンが世界を呪詛してるわけだよな。でも正直チョットまっただぜ。才能のない(ほかにやれることないんで仕方なくやってる)経営者だっているんだよ。そんな呪いを向けられても困る。お前らだって「超有能なサラリーマンが今の八十倍生産性あれば日本は救われるのに」って言われても困っるだろ? 経営者は思ってるぜ。「まじ労働者うんこの群れ。犬の方がよっぽど賢いぜ」って。だからあんまり殺意向けるな。日本死ねとかいったってどうせ自分も含まれてるんだから。
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2016/03/16/072339
この方に同情するし応援もするが、「責任を背負いたくない」社長を責めるのは気持ち悪い。
だってみんな背負いたくないでしょ? 事実この記事書いた人も会社経営をして正社員をたくさん雇って他人を助けようなんて、かけらも思ってないでしょ。そういうのは能力がある人の役割だって? だとすれば、派遣を雇用するこの会社の社長は、正社員を抱える能力がなくて、派遣を呼ぶ能力しかないんだよ。そして正社員を雇用できる人間しか社長をやる資格はないというのならば、日本の失業率は、おそらく今の数十倍になる。
人間には幸不幸がある。身体障碍とか事故なんかは代表的だけど、それだけじゃなくて、生活の中でのイベントや、産まれや、才能などで、人生うまくいかないってことはある。そういうのは社会が助けるべきだよ。安易に自己責任とか言って切断すべきじゃない。でも、その社会に住めるのは、そういう社会を作れるのは、その能力の有無はさておき他人のそういう救助要請にこたえようと思う、そして救助できない他人を責めない参加者だよ。
いま、社会を改革するために、低所得層/富裕層ってカテゴリで国民を分けて、富裕層からお金を搾り取るべきだって論がある(たかが年収1000万円のこの社長は富裕層ですらないと思うけれど)。すごく大雑把に言うと、URLの記事もそのジャンルだ。でも、そういう論の先鋭化って、事態を何ら解決しないと思うよ。ただ単に富裕層が資金を移動するとか分散するとかの防衛策をすすめるだけだよ。だって攻撃されたら守るでしょ。政治的な用語でいうと「分断」で、この分断が起きるとまずいなんてことは(少なくとも社会学の授業的には)常識だった。いまその常識を忘れたように、マスコミや政治が富裕層たたきをしているのは、ポピュリズムでしかないよ。叩けば叩くほど自己責任論が蔓延するだけだ。
年収200万円の人は400万円を叩き、400万円の人は800万円の人を叩き、800万円の人は都内土地持ちを叩き、都内土地持ちの人はそれでも幼稚園に入れないと行政を叩き、資産10億の人は収入管理会社に資産を移して社会から透明化する。
結局さ、世界中の人間は、みんな、嵐の暗い海の中で、泳いでいる状況なんだよ。苦しいし泣き言も言いたくなるよね。でも、そのなかで「あいつの背中にしがみつけ!」ってしがみつかれたら、どんなパワフルな人間だって、おぼれて死ぬよ。他人に殺されたくはないでしょ? 記事でいえば、ある民間人の社長に、鳴き声を上げる民間女性の人生を救済する義務はない。救済しようとしたら破滅するでしょ。年収1000万あるんだから社員十人に100万ずつ分け与えろとか山賊の言い分だよ。だからしがみついてきそうな人に「自己責任で泳いでくれ」っていうんだよ。「助けたくないんじゃなくて、殺されたくない」んだ。
国の福祉や制度設計は、そういった「民間で背負おうとすると、背負った荷物に殺されてしまう」ような案件に対して作られてる。でも、それにだって限界はあるって理解すべきだ。これは政権がどこの誰だろうが全く関係ない。だって「嵐の暗い海の中で泳いでいるみんなが持ち寄った寸志」である税金がその予算的な源泉なんだから、その社会全体が救える以上のものは、やっぱり救えないんだよ。
非正規社員とはいえ、雇用を作ってる社長は、その分だけ社会に貢献はしてるはずだ(パワハラとかはこの際ノイズなので横に置く)。非正規雇用なので、社会保険とかを払ってないというのはあるかもしれないが、雇用を作るってのは賃金を支払ってるわけで、その分被雇用者は所得税も消費税も支払う人間になる。消費者として社会で居場所ができるってことだ。
そういう他人を責めて、しがみつけなかったことを恨む参加者の存在が、この社会に「自己責任」って言葉を蔓延させているんだよ。残念だけど、この記事の方向性は「自己責任という言葉を増殖させる風潮」そのものだ。
ここ数年、起業がブームだ。過去に何度か起業の経験がある身として、起業に興味がある人や実際に起業をした人向けに、IT系の社長の仕事を紹介したいと思う。
社長の一番大切な仕事は「会社を潰さないこと」だと思っている。それにダイレクトに繋がるのが資金。金を集めるのは社長の大切な仕事だ。昔、自分はこれを他人任せにしていたせいで、会社が危機的な状況になっても全然気づいていなかった。
金の集め方は色々ある。一番わかりやすいのは、別の企業相手に仕事をしてその対価を得るやり方で、受託開発に向いている。仕事をすれば金をもらえる、というスタイルはサラリーマン出身の人にはわかりやすいし、学生にもイメージしやすいと思う。フリーランスみたいな起業をする人はたいていこのやり方だ。デメリットとしては、常に営業を続け、決して仕事を切らしてはいけない。仕事がなくなり蓄えがなくなれば倒産だ。このような会社の場合、技術力もさることながら、営業力(個人の場合はコミュ力)が大切になる。比較的起業しやすい形態だろう。
次にわかりやすいのはサービスを提供し、そのサービス上で売上をたてるやり方だ。最近流行の、スマホアプリやWebサービスの起業を考える人は大体これだろう。ユーザーから直接金を取ってもいいし、広告やアフィリエイトを貼ってもいいし、別の企業と提携して売上を立ててもいい。サービスさえ上手く回れば色々な方法がある。自分たちのサービスから売上を立てるのは夢があるが、この場合「ユーザーを集める」というのが一番むずかしい。普通のサラリーマンを経験しただけだと、広告の打ち方一つ取っても慣れていない人がほとんどだろう。サービスを立ち上げるだけなら技術者なら簡単だが、継続して上手く運営するには技術力よりマーケティングや広報などの経験や才能が大切になることが多い。サービスをベースとした起業は難しいが、上手く行っているかどうかを数字で判断しやすいのがメリットではある。
どのようなやり方でも継続的に利益があがればいいのだが、そうはいかない時もある。一切収入がなかったとしても、社員の給料や事務所代など、いわゆる固定費と呼ばれる支出は容赦なく襲ってくる。そういう時にも会社を回すお金を集めるのが社長の仕事である。そういう時は融資、いわゆる借金を考えよう。銀行が貸してくれるならそれでよし、ダメな場合でも政府系の支援プログラムなどを頼ることが出来るかもしれない。将来返済が辛くない条件にこだわるにこしたことはないが、目の前の危機を乗り越える方が大切だ。一番気をつけなければいけないのは、融資にはそこそこ時間がかかるので、調達中に資金ショートしないようにしなければいけない。本当にヤバくなる前に検討を始めるのが良いだろう。
最後に、投資を受けるやり方も一応説明しておきたい。融資とは違って、(一般的には)株を渡すことによってお金を得るやり方だ。このやり方は、投資家が将来的にその株が出資金の何十倍もの高値で売れることを期待してお金を入れるやり方になる。投資を受ける判断をした以上、必ず投資家にその株を現金化させるチャンス(一般的にexitと呼ばれる)を用意しなければいけない縛りが出るのがポイントだ。これで数千万円の資金を調達して、しばらく収入なしでサービスを作る、というのが最近流行りの起業のやり方である。投資については色々な話があるが、投資を受けて成功する会社は5%にも満たない(多分1%にも満たない)という事実と、投資を受けて運営する会社は当然投資家が株主に入るので、経営に口出しされることを覚悟しなければいけない、という2点だけはしっかり認識しておく必要がある。個人的に、社長が一番大変な起業がこれだと思う。自分は1社きちんとexitまで持っていったが、正直他人にはおすすめしない。
社長の次に大切な仕事は、人を集めることだ。一人で会社を起業することも出来るが、それは一般的にはいわゆるフリーランスという分類になり、あまり起業とはいわない。社長は人を集めないといけない。
やはり知り合いと起業するのがいいだろう。できればある程度長い付き合いのある知り合いがいい。考え方が似通っていて、自分に隠し事をしない、できれば自分とは全然違うメンタリティを持っている、そういうパートナーがいればベストだろう。共同経営者として迎え入れるのが望ましいと思う。あまり付き合いの長くない人と起業をするのはおすすめしないが、自分に技術の素養がない場合、どうしても技術者は必要だろうから、そういう場合は仕方ないかもしれない。個人的には、そういう状況になるなら起業しないほうがいいと思うが。
起業のパートナーで一つだけ重要なポイントを挙げておくと、会社が失敗した時に友情が将来にわたって破壊される可能性を認識しておくほうがいい。相手の全く想像もしていなかった側面を見ることになるかもしれないし、ぶっちゃけた話、金のトラブルは友情はおろか血縁ですらあっという間に破壊する。会社が失敗すれば絶対に友情が壊れる、ということは全然ないのだが、その可能性があるということだけは知っておいたほうがいい。
ある程度会社が回ってきたら、従業員を雇って会社を拡大するのも社長の重要な務めだ。初期はやはり知り合いを頼るのがいい。技術者なら特に知り合いを頼るべきだ。人数が少ない会社に無能が入ってくると大惨事になる。人数が少ない会社に無能が入ってくると大惨事になる(2回目)。特に30人以下の会社では、その人間が即戦力か、今の会社が必要としているか、将来的に成長のポテンシャルがあるか、自社の雰囲気に合うか、などの採用基準すべてに合致した人のみを採用すべきだ。採用の失敗は本当にでかいダメージになる。自分は会社規模が10人以下の時に信頼していた共同経営者に何人かの採用を任せたところ、結果的に大失敗で、たくさんの人が傷ついた。採用には、必ず自分が最終的な判断をし、責任を持つようにしよう。少し大げさな言い方だけれど、社長は今までの社員と新しい社員、その両方の人生に責任を持つことになるのだから。
社長は辛い。トラブルは常にやってくる。仕事が入ってこない、重要な人が辞める、仕事が約束通りに達成出来ない、先方からの入金が遅れる、取引先が倒産する、よくわからない訴訟を受ける、社員同士で大きなトラブルが起こる、などなど、予想もしない悪い出来事が次々に起こる。胃に穴をあけてはじめて本物の社長だ、と投資家に言われたことがあるけど、あながち間違っていないと思う。そんなときに、決してトラブルを顔に出してはいけない。会社が順調な時もダメなときも、いつもにこやかに笑っていよう。
社長が「辛い」ということを漏らしてプラスになることはほとんどない。社長が辛そうだと、社員に動揺が走る。社内に動揺が走るのがプラスになることはまずない。社長が笑っているだけでそれが回避できるなら、それはもう社長の仕事だ。社員は、社長が仕事をしていなくてもそんなに気にしないが、社長が経営に詰まっているのは敏感に察知する。どんなに辛くても、それは会社の中に持ち込まないようにし、いつも「大丈夫だ問題ない」という態度を取るようにしよう。社長がツイッターで「辛い」「忙しい」とほざくのは論外だ。
もちろん社長が本気で大丈夫だと思ってはいけない。トラブルは回避しないといけない。社長がトラブルの対処に失敗すると会社に深刻なダメージを与える。危機に目をつぶるのではなく、しっかりと対処しないといけない。そして、あらゆるトラブルは最終的に自分が引き受ける覚悟を持とう。社員から「こいつはいつも働いてないから、困ったら仕事を投げつけてやれ」と思われれば最高だろう。
必要なときには社員に相談しなければいけない。自分で何でも出来るならずっとソロでやるべきだが、実際は自分ひとりで出来ることには限度がある。社員に頼るのもとても大切なことだ。最終的に自分が全部処理するという大前提を忘れてはいけないが、社員を無駄に不安にさせず、最終的に社長がなんとかするだろう、という安心感は与えなければいけない。トラブルでヒステリックになるなんて論外だ。
もっとも、リストラなど、本当にどうしようもなく社員に痛みを与えなければいけないタイミングというのは存在する。リストラをするのは涙がでるほど辛いが、すべては自分が蒔いた種だ。「株主に社員を切れと言われたから」などの言い訳は、たとえ事実であっても絶対にしてはいけない。社員に痛みを強いると決めた以上、最後まで責任をもって断行し、その責任をかぶり、その後により良い未来を持ってくるために全力を尽くすようにしよう。
会社がうまく行っている時、社長は仕事をしないくらいがちょうどいい。営業したり、コードを書いたり、勉強会に行ったり、人と会ったり、そういう活動はもちろん良いと思うが、例えば社長が一番仕事をしているエンジニアであるとか、社長が一番営業で案件を取ってくるとか、そのような状況はあまりよろしくない。今まで書いたように、何かトラブルがあれば社長には一気に重たく辛い仕事が降ってくる。そうなると社長はコードを書けないし、営業にも行けない。社長の能力に頼る会社はますますマズい状況になってしまう。なので、社長は仕事をしないくらいがちょうどいい。会社がうまく回っているなら、普段は毎日六本木に飲みに行って騒いでいても一向に構わない。「俺はこんなに大変なんだ」と社員に漏らす社長は、色々な意味でろくでもない。会社を安定させ、成長させ、何かあった時にすぐに会社に戻り、全力でトラブルを排する、それが社長の仕事である。
ライトノベルとかライト文芸とか広く大衆小説の凄さっていうのは、個人で作れて制作予算が低いことに集約されるんだよ。
作るのにあたって初期投資が非常に少なくて済む。商業印刷するにしたって数百万程度で済むし、なろうに連載するなら(作者の人件費以外)ほぼノーコストだ。
商業出版にしたってその作者の人件費は印税という形で出版後の割合報酬ということになってる。
なんだそんなの常識だろ? という人がいるかもしれないけれど、アニメだってゲームだって映画だってそんなことはないわけだよね。「放映中止になったんでギャラ払いません」なんてないわけだ。
この初期コストの低さというのが、メディアミックスの原作生成にむいているんだよ。
テンプレという言葉は今現在否定的な意味で用いられることが多いけれど、それって「創作者たるものは独自性を追求すべきだ」であるとか「読者である我々により大きなメリット(新鮮な読書体験)を与えるべきだ」みたいな、突き詰めると根拠があいまいで言いがかりに近い否定要素なんだよね。
でもそれじゃなんでテンプレがこんなにあるかっていうと、創作者レベルでいえばある程度創作の指針を借用できるからってのももちろんあるんだけど、業界レベルでいうと「初期条件をわずかに変えた実験を大量並列でやることに価値があるから」なんだよ。この実験可能ていう価値観ってのは研究者になら判りやすいと思う。
その実験が商業的に、つまり、メディアミックス原作を探査するうえで有用があるからこの状況があるんだ。
もし小説を作るのにかかるお金が現在の十倍もあれば、こんな実験は原価割れするので絶対に行われなかった。
実験コストが高いのならば、実験の施行回数を絞らざるを得ない。そこでは「作品Aと0.1%違う作品Bを作って反応差異を計測する」なんてのよりも、もっと距離のあるBの実験の方が優先される。マンガは、この状況にある。
つまり、なろうという環境でなんであんなにテンプレが謳歌されているかといえば、もちろんそれが作者に負担を書けないっていうのもあるんだけど、なろう連載はラノベ出版よりもさらにお金がかからないので、実験環境として優秀だっていうのがあるんだよ。実験コストが(それこそ素人の思い付き労力以外消費しないほど)低いから、ほとんど差異がないような作品が並行して連載される。
なにをもってメディアが豊饒なのか否かというかにはいろんな見地があるとおもうけれど、個人がわずかなコストで実験可能だ、という意味で、小説ジャンルは「豊穣」なんだよ。
★★★★☆
3巻6話。
六等星を見て小さいというピノコ。
BJは、じっさいは一等星よりも大きいかもしれないということと、六等星のような人間が世の中にはいくらでもいると言って、その例を語り出す。
ある大病院に院長をやってもおかしくないベテランの医者がいた。
しかし影が薄いことから他の者からはいないも同然に扱われていたため、院長選挙でも候補者にもされずに無視されていた。
あるとき医者が帰る途中で事故に遭遇し、迅速かつ適切な処置を即座に行う。
通りがかったBJがその技術を絶賛し、なぜ地位を望まないのかとたずねるが、医者は欲が優先してはおしまいだと答える。
その後、院長選に出馬していた医者が全員収賄で逮捕されてしまったタイミングで、病院に重症の患者が運ばれてくる。
病院からBJに手術の依頼がくるが、件の医者にやってもらえばいい、もしくは5千万だといって体よく断る。
病院のスタッフはようやく医者に頼み、そこで初めて、医者のスキルと本当に院長にふさわしい人間が誰かということについて認識を改めるのだった。
BJが見も知らぬ他人の医者の技術を率直に絶賛するのがすげー珍しく思った。
あとは医者が欲を優先しちゃおしまいだって言われて何も返さないBJがなんか面白かった。
それが最後にようやく伝わるラストのカタルシスは言わずもがな、
んで、BJも六等星だけど、ピノコが自分はそれを隣でわかっていてあげるというシーンがマジサイコーだった。
花火みてはしゃぐピノコと興奮して漏らしたピノコがめっちゃかわいかった。
一等星は あのでかい星だ
六等星は ほとんど目に 見えないくらい かすかな星の ことだ
だがな ちっちゃな星に 見えるけど あれは遠くに あるからだよ
じっさいは 一等星よりも もっと何十倍も 大きな星かも しれないんだ
………………
………………
いまごろ 病院の連中は 目がさめてるぜ
新院長を だれに するかって ことをね
れも そのかわい うちは にくまえちゃったじゃないのよさ
おまえには わからないんだよ………
先生って損よね… いつれも ひといぼっちで 人にきやわえて……
ね 先生 あのずーっと はなえて ひといぼっちで 光ってゆのが 先生よのね
ねー そいれ あの 先生の横れ くっついて ちっちゃーく光ってゆのは ピノコなのよのね
ピノコ愛してる
古和医院
六等星
二度死んだ少年
焼け焦げた人形
アリの足
えらばれたマスク
友よいずこ
めぐり会い
白いライオン
シャチの詩
二つの愛
幸運な男
その子を殺すな!
閉ざされた三人
ある教師と生徒
万引き犬
奇胎
からだが石に…
「○○ニーでマジイキすると日常生活に戻れなくなるのでおすすめしない」といった内容の記事シリーズが、少し前に界隈を賑わせた。我々オナニスト協会としても斯様な知見が広く世に伝わることを悦ばしく思うが、先人の執筆者たちはやや書き急ぎ過ぎていた印象を受ける。つまりは『マジイキ』の定義論がなおざりにされたままだったのだ。そこで本稿では、我々オナニストにとってマジイキとはどういう状態であるのかを明確に定義しておきたい。
「マジイキした」と述べるためには、下記の3つの要件を満たさなければならない。
マジイキとは最低でもオーガズム(絶頂期)が30秒以上持続する状態を指す。男性は一般的に射精時にオーガズムに達するが、射精そのものの持続時間が10秒にも満たず、射精後は不応期(俗にいう賢者モード)に移行してしまう。ゆえに上記要件がある以上、射精及び男性器の使用によってマジイキするのは不可能である。
アナニーないしサイニー開発の背景には、オルガスムの持続時間向上の意図がある。またユメニ―では「夢見状態における体感時間」と「現実空間における体感時間」との差異を利用して、主観的により長くの快感持続を得ることを目的としており、これもマジイキ指向のひとつであると解釈できる。
(注釈)アナニーでは肛門を用い、サイニーでは催眠音声を用いる。ユメニ―では明晰夢を応用する。この他に、乳首を用いたチクニ―、瞑想を用いたメイニーなどが存在する。また、はてな匿名ダイアリーなど文章を書くときの陶酔感のみをもって絶頂する手法を増田アノニーと呼ぶ。
マジイキでは、複数回の絶頂体験を獲得することを目的とする。通常、男性であればオルガスムは射精時の1回のみであるが、マジイキオナニーは原則として射精を伴わないため複数回の絶頂を得ることができる。
例えばアナニーにおいては、下部骨盤筋群の筋収縮を人工的に引き起こし、オルガスム時の不随意運動を擬似的再現することによって、何度でも絶頂することができる。サイニーにおいては催眠音声を用いて、大脳辺縁系そのものをコントロール化におき強制的な絶頂を与える。催眠音声のなかでは「100回の絶え間ない絶頂を体感させる」商品なども出回っており、マジイキニストの精神と肉体の限界が試される。
余談だが増田アノニーにおいては、ブクマをひとつ獲得するごとに1回絶頂することができる。
そもそも論として、射精によって得られる快楽などたかが知れている。もしも射精が無上の快楽体験であるとするならば、男性の麻薬中毒者やアルコール中毒者は存在し得ない道理で、世の中はもっと平和だったに違いない。すなわち射精によってマジイキするのは不可能であり、射精時の絶頂は所詮はドラッグ以下のものであると推定される。
社会を脅かす危険ドラッグ撲滅のためにも合法的なマジイキノウハウの普及が待たれるのであり、そしてマジイキ時に得られる快楽は確実に、射精時の10倍を上回るものであることを保証する。つまり、マジイキの真価は、快楽の持続性と連続性に加えて、快楽自体の大きさにある。
例えばアナニーにおいては女性的オーガズムの再現によって射精を上回る快楽性を手にし、サイニーにおいては催眠によって性感帯の感度を何十倍にも上げる。ユメニ―では「現実」という認識のリミッターを外すことで非常識的な次元を超えた快楽を手にすることができる。また、増田アノニーも言ってみれば「自己催眠」の延長線上にあり、人間が本来持ち合わせている「承認欲求」と「自己陶酔感」を性的快楽に変換している。
マジイキニストのなかには「まだ射精で消耗してるの?」などと自己優越感に浸って煽る者も存在するが、我々協会としては全人類は等しく(老若男女、人種門出を問わず)マジイキの権利を有していると信じているし、またこの権利は何人にも侵せない、不可侵で神聖なものである。
科学の発展したこんにちの世の中でも、野蛮な性犯罪が後を絶たず、心の底から嘆かわしく思う。もしも人類みんながマジイキの正しい手法を知り、自らを慰めることができるようになれば、このような性欲が他者攻撃へと転ずる卑劣で悲惨な事件は防げるのではないか。また薬物やアルコール、あるいはギャンブルへの依存も防げるのではないか。無論、それが理想論に過ぎないことを知っていても、私は「マジイキ」が世界を平和にすることを願ってやまない。
http://anond.hatelabo.jp/20151223021454
http://anond.hatelabo.jp/20151226132550
http://anond.hatelabo.jp/20151224204014
2chまとめサイト文化が隆盛を極めた時期、私は高校生で、流行りのそれらを暇つぶしに読んでいた。
そのうち、2chの一部住人達はどうやら女性という存在を毛嫌いしていることに気が付いた。
正確に言うと女体は好きだがその中身が大嫌いらしい。そういう空気が当たり前のように共有されている。
特におかしなことをしていない女性にも、「女だから」という理由で下衆な勘繰りをして叩く。
時には下衆な勘繰りすらもなく、「女だから」のみを理由に叩く時もある。
自ら選んだわけではなく変えることのできない属性をひたすら攻撃対象にされている。
別に叩かれている人は私ではない。しかし、仮に私がこの人達の目に留まる場所で何かをすれば
それがどんな行動であれ性別を理由に何かしら文句を言われ、笑われ、醜い言葉をぶつけられるであろうという想像はついた。
これが世の男性の総意ではないということは当時からわかっていたつもりだったが、身近な男友達がいなかった私は心の底で
「もしかして、これが世の中のほとんどの男性の本音なのでは?」と疑うようになった。
それから、女性が叩かれていそうな記事が目に入れば進んで読みに行くようになった。
嫌な気持ちになるのをわかっていてそうしたのは、稀に記事に混ざる女叩きの流れに否定的なコメントを読みたかったからだ。
あまりにも無根拠すぎたり限度を超えた暴言には、「そんなことはない」「いくらなんでも女を目の敵にしすぎ」という否定意見が書かれることがあった。
まとめ内に一つ二つあるそれらや、ブログのコメント欄に書かれる記事の流れに否定的な意見を読んで、
ネット住民の誰もがこの「女にならいくらでも暴言を吐いていい」空気に同調しているわけではないということを確認したかった。
しかしわずかな否定意見を確認するためにその数倍数十倍もの女性に向けられた暴言を読んだ結果、私の心は少しずつ歪んでいった。
最終的にはたまたま目に付いたものを見に行くだけに留まらず、そういう記事を乗せていそうなところを探したりまとめられる前の2chのスレッドまで読みに行ったりした。
それらの記事を読むたびに、心にじわじわ毒みたいなものが広がっていくのがわかっていながら、やめられなかった。精神的な自傷のようになっていた。
女叩きと無縁な場所はネット上にたくさんあったが、まとめ記事のような女叩きが行われている場所そのものに対して直接「おかしい」と意見を言う人達は少なかった。
いても、それを一つの場所でまとめて観測することはできなかった。
女性に対する理不尽な暴言が書き連ねられたまとめ記事に付いたはてブのブクマコメントは
無根拠な女叩きに否定的なものが多勢を占め、それらの意見にたくさんのスターが付けられていた。
しかも否定的なコメントを付けている人の中には男性であろう人がたくさん居た。女性だけが女性への暴言に反論しているのではない場所だった。
私の辿り着いた中で、そういった空気のある場所ははてなだけだった。そしてその空気に救われた。この場を借りてお礼を言いたい。
はてなとの出会いもあり、私の女叩き記事漁りは徐々に落ち着いた。
今は2chまとめブログを読むことはほとんど無くなったが、女が女というだけで理不尽に叩かれていそうな記事のタイトルが目に入るとつい読みにいってしまったりする。
記事を読んでも当時のように大きく心を揺さぶられることはなくなったし、読みながら自分の心にざくざくナイフを突き立てて自傷しているような気持ちにもならない。
しかし一度付いた歪み、それも思春期の頃に付いた歪みは簡単に直らないらしく、
私は男性から女性扱いされることと好意を寄せられることに拒否反応を持つ人間に育ってしまった。
頭では全ての男性が女性を見下しているわけがないということはとっくにわかっているのだが、いまだに心の底では男性を信じられていない。
とっくに高校を卒業して社会人をやっている今になっても直る気配がなく、一生独り身の覚悟を決めている。
進路を決める前の時点でこの思考に毒されていたため、一人で生きていけそうな人生設計を立てられたのが不幸中の幸いかもしれない。
以上までが前置きで本題は以下。
私は今回ののうりんポスターの件や碧志摩メグの件で寄せられた批判はオタク叩きの意図や、まして男叩きの意図で出てきたものではないと思っている。一部の極端な人を除いて。
しかし今回の件とは別の、女性差別批判やセクハラ批判の文脈では男性を一くくりにして「悪」「加害者」のカテゴリに入れる意見を目にすることがある。結構ある。
一つ具体例を上げると、少し前の話になってしまうが
女性が男性を食べる世界 - Togetterまとめ: http://togetter.com/li/892195
このTogetterの中に出てくる例え話は、設定としては面白いと思う。単純に性別を逆転しただけでは伝わらないという気持ちも痛いほどわかる。
しかしこの世界に出てくる「女性」はほぼ「男性の気持ちを考えず自分の欲望を押し付けてくる下衆」しかいない。
つまり「現実世界の男性はほぼ女性の気持ちを考えず自分の欲望を押し付けてくる下衆しかいない」と言っているのと等しいことになる。
恐らく男性に理解してもらう為に書かれた例え話なのにも関わらず。
こんな風に男性を一まとめに「悪」「加害者」にカテゴライズする人は、今まで男性に不愉快な思いをさせられた経験があるんだろう。
でも、自分が女性であるという理由で受けた不愉快な思いをそのまま男性という性別を持つ別の人に投げ返したって、それはただの八つ当たりで、嫌な思いをする人が増えるだけだ。
自分に不快な思いをさせた人間を批判したいならきちんと範囲を狭めて、誤爆のないようにしてほしい。
セクハラをされたなら「私にセクハラをしてきたあいつ殺す」でいい。
同じ行為をしている人間を牽制したいなら「馴れ馴れしく下の名前にちゃん付けで呼んできやがる上司死ね」くらい具体的に書いてほしい。
もちろん女から男だけではなく男から女への批判も同じようにしてほしい。わざわざ性別なんていう人類の半分が当てはまる範囲まで広げる必要はない。
広範囲な批判が傷付けるのは大抵本当に批判されるべき人間の方ではなく、何もしていない無関係で自己評価の低い人間だ。
2chで暴言を書き散らす人達は、あえて広範囲に悪意をばらまくことで無関係の人間ごと傷付けてやろうと思っている人が多そうだが
(そしてそれに見事に引っかかってしまったのが私なわけだが)
そういう意図を持たない人は、自分の言葉が無意味に人を傷付けていないかどうか考えてから発言してほしいのです。特に真面目に議論を交わすような場では。
以前、「特定の個人を叩くより性別に範囲を広げることで暴言の効果は薄まっている。
こっちの方が人を傷付ける可能性が低い」と言っている人が居たが、そんなことはないと思う。
自分では変えようのない属性で括られて身に覚えのないことで叩かれ続けるだけで、想像以上に人の心はダメージを受ける。
あなたがサンドバッグにして殴っているそれは、殴っている側には性別という大きな括りまで広げた時点で
ただの概念になったように見えているかもしれないが、中にはきちんと人がいる。
性別に限ったことではなく、批判を属性に広げて無関係の人を巻き込むのをやめてほしい。
あなたが批判したい特定の個人がいるなら、その人にだけ的を絞ってほしい。
そして自分の属性が一まとめで叩かれているのを見た人は、無関係な物ごとひっくるめて真に受けすぎないでほしい。
高校時代という貴重な思春期を下らないことに浪費してしまった人間からのお願いです。
長くなったので要約。
かなり昔にちょっと心理学を習っていて、そこで「返報性の原理」という言葉を知った。
一応簡単に説明すると「恩を売っておくとそれを申し訳ないと思う相手から必ずお返しが来る」という人の心理のことだ。
営業とかでもまずこちら側から相手に対して何かを「してあげた」と思わせる行動をすると、あとから自分のためになる行動をしてくれるようになるんだというふうに教えられた。
ところが社会人になってみると返報性の原理どころかこっちが何をしてあげても全く気にしないというか、むしろこちらはしてもらって当然でお礼を言うのも嫌だというような人間が非常に多いことに気がついた。
ビジネスの教科書にあるような「最初は試供品を無料で差し上げ、次に購入をよびかける」「もともと安いものを悩む演技をして値下げして売り、あとから高いものを売る」みたいな方法も全く通じない人が実に多い。
職場の人間関係においても、心理学の教科書にあるような「私がやっておきますね」という態度をとることで周囲に仕事を頼みやすくなるということも全くなく、それどころか前もやったんだから次もお前がやれという態度をとってくる人が多く、ああ社会では自分が先に損をするということは次も損をさせられることなんだと思った。
返報性の原理なんて心理学は遠い昔のことで今はそんなもの存在しないんだと思っていた。
少し前までは。
でもつい最近思ったのは、そういう返報性の原理が通じない人たちってそもそも自分が周囲の人に比べて絶対的に「損をしてる」って思ってるんだろうなっていうふうなことだ。
俺自身だって総資産が数百億以上という人から1万円くらいを「いいよいいよ、気にしないで」とか言われてもらっても、「相手に悪い。絶対あとでお返ししよう」とか思わないだろう。
俺は今まで職場でもお客さんでも、相手と自分は対等な関係だから返報性の原理みたいな心理学が当てはまるもんだと思っていただけなんだ。
今目の前にいる人のほとんどは、生まれながらに「自分はなんか損してて、相手はきっと自分よりも何十倍も得してる。だから相手からの親切なんて踏みつけても全然かまわない」と思ってるだけなんだ。
そうでも思わないとやっていけないような気がしてこんなことを書いた。
今日は命日。
こんなことを書いているいまも鼓動が早くなる。
匿名でないと書けないことだ
あれから1年だ
きっちり1年
ガラッと世界は変わった
なにもかも。
勝手に死にやがって
ああ
思い出す
蓋をしていたあの一週間
一番壮絶だった一週間だ。
まぁいいさ。
全部が現実離れで、どこか他のだれかの記憶を追体験しているみたいだ。
気がつけば一人になっていて
実感は正直今でもなくて
極端な話、
彼女に振られたことの方が心に残っている。
それはきっと
そっちの方が身近で
覚えていない
きっと二年前の大晦日だ
その時はそんなこと思いもせず
なんなら
そんな思いを持って生きている人だとは思わなかった。
でも実際に俺が振られて
ちょっとわかる気がした。
バカだよな本当に
何も知らないひとは
「その人の分まで生きて」
という
ふざけんなよ
勝手に消えた奴の尻拭いをなんで俺が
って今更こんなところでいっても仕方ないや。
いままで書けなかったけど
こうして
1年経つとかけるようになっている
少しだけ
ほんの少しだけ心に整理ができたんだろう。
まだ
骨を見ても
墓を見ても
信じられない
というか
信じていない
まだ生きている
そんな気がしている
まだまだ会いたいし、話したいこともたくさんある
兄弟で話をしているのを見ると苦しくなるし
羨ましくなる
そしてなにより
親が不憫でならない
本当に俺の何十倍も苦しんでいるんだろう
父の強さを
母の強さを
この目で見た
もちろん弱さも見たけど
それ以上に
俺は
俺たちを生んだ二人の強さをみた。
俺は代わりにならないし
代わりに生きるつもりもない
でも
それでも
親に対してはしっかりと
俺たちで向き合っていくんだ。
それだけは思う。誓う、生きて行く。
もちろん辛いこともあるし
俺はまだその辛いことから抜け出したような
抜け出し切れていないような
そんな微妙な感じだ。
でも
それでも
俺は今日も生きて行く
自分で終着駅を作るつもりもないし
決められるつもりもない
ただ
ただひたすら前を向こうとしていく
前は見れなくても
前に足を一歩でも踏み出していきたい。
墓にでも中指立てたら
恨んで出てくるのかな
親に向かって冗談でいったけど
割と本気。
まだまだ終わらないし
一生終わらない
辛いけど
それもまた人生だ
そう思うしかないんだよ
振られたこともそうだ
経験として
生きよう。
きっともっと
今(25歳)は全く見なくなってしまったが、中学生の時は寝る間も惜しんで深夜アニメを見ていた。
後にも先にも睡眠時間を削ってまで何かに没頭したのは深夜アニメと受験勉強ぐらいだ。
周りに深夜アニメを見てる奴が多くて、家も学校もアキバに近かったから土日はいつも自分家や友達の家でアニメを見たり
ゲームをしてはアキバに行ってショップ巡りをしていた。しかし、その生活も中学卒業と同時に終わった。
親の勧めで進学校に進学したからだ。中学の友達の大半は近場の公立高校に進学してのんびり過ごしているようだったが
自分は元々あまり勉強が得意ではなかったから勉強についていくのに必死でそれまで通り中学の友達とアニメを見たりショップ巡りを
している余裕がなかった。夏休みも親の田舎に帰ったり、予備校の夏期講習に出るため中学の友達と遊ぶことはかった。
いつの間にか友達から誘われることもなくなっていた。1年また1年と過ぎてあっという間に高校3年になり頭の中は受験のことでいっぱいだった。
年が明け、程なくして入試を迎えた。友達からの遊びの誘いを断り続けて勉強に専念した所為か、無事第一志望の大学に受かって受験は終わった。
受験は終わったが、友達から連絡が来ることも自分から連絡をすることもなく完全に疎遠になっていた。
大学に入ってからも勉強やサークル、バイト、恋愛で忙しかったし、大学の友達とも上手くやっていたから改めて中学の友達と遊ぶこともなかった。
そうこうしている内に4年間はあっという間に過ぎた。あんまり就活にやる気が出なかったがどうにか内定を貰えて就職した。
それから1年また1年と経過して今に至る。仕事にも慣れて余裕が出来た。先日、実家にある中学生の時に買った本とかCDを処分しようと思って整理を始めた。
本当は良くないんだけど、ただ捨てるだけじゃもったいないし、残しておいたほうがいい物もあるだろうと思って読みつつ、聴きつつ整理をしていた。
当たり前だがどれも10年以上前のものだからどれを読んでも何を聴いても懐かしい。
聴いているうちに自分が中学生の時に友達と集まってアニメを見たりゲームをしていたこと、アキバのショップ巡りをしていたことを思い出した。
別に今の今まで記憶から抜け落ちていたわけではない。でも、無我夢中で勉強した高校時代、いろいろなことに熱中した大学時代、
仕事は大変だけど楽しい部分もあって友達も彼女も居て幸せな今の自分よりも数倍、
数十倍は楽しかったであろうどうあがいてももう一生戻ることも取り戻すことも出来ない過去の自分がいることに気づきなんとも言えない寂寥感に襲われた。
俺は自分自身が医者で、治らないものを治ると謳う(またはそのように錯覚させる)代替医療は、本当に嫌いなんだけども。
効果的な治療法がない状態で、苦痛緩和などの可能なことはしているなら、慰みに無害な何とかエキスを飲むくらいのことは、目くじら立てるべきじゃないとも思っている。
川島なお美さんについては、細かいことはよく知らないが報道を見る限り、その目くじら立てるべきじゃない条件が揃っているように思うので、とやかく言う気にならない。
以前、この辺の心理を増田にちょろちょろ書いたんで、張り直しとく。自己顕示欲丸出しでアレだけど、できれば色んな人に読んでもらいたいんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20140717143416
※ 後から出てきた情報見ると、やるべき治療もやってなかったのかもしれないと思えてきた。その場合はまた話が違う。
ただ、彼女が民間療法で本当に癌が消えると信じていたかは、分からないと思う。闘病する心構えができるまでの「つなぎ」だったかもしれない。
悪性度の高い病気だと言われて呆然としている状態で、さらにすぐ手術を即断できる人は多くない。いきなり敵に襲われて、咄嗟に崖を飛び降りるか判断を迫られるようなものだ。
そうするためには、知識に加えて普段からこのような状況に対する心理的シミュレーションが必要だが、彼女ほどの女優なら忙しくてそれどころではないだろう。
加えて、俺のような無名人に比べて有名人には、善意悪意両面から怪しい民間医療が寄ってきやすいのだと思う。
それを振り払うのに必要な労力は、きっと俺が費やすのの何十倍もあるのではないだろうか。
「癌が治る」と謳う民間療法は全く以て滅びてほしいが、実際にそれを全て排除するのは本当に大変で難しいことで、簡単に「そんなのに騙されるなよ!」なんて言えないのだ。
だからこそ、普段からトンデモのやり口、トンデモの何が悪いのか、ブログなどで啓蒙している先生方には頭が下がります。これだって本当に大変なことだから。
結局、この先生は大学からいなくなりました。僕との因果関係は謎ですが、大学に訴えかけ「なんで修士ごときでこんなに苦労する必要があるのか。僕が卒業できないなら他の修士論文はほとんど無効にできます。例えば○○さんの修士論文は、この論文のほとんどパクりです。他の論文も明確にどの論文のパクリかを合理的に説明できます。」という説明をしました。
散々苦しめられたのもあり、普通の修士よりは何倍も何十倍も論文を読み、何度も何度も読み込みました。
僕のevernoteには今でも修士当時で1000近くの論文があり、そのすべてを思い出すことができます。
今となってはどうでもいいことですし、そこで読み込んだ論文や追試は今でも役に立っていてお金を得ることができています、
この事件は僕の人生を大幅にネジ曲げはしましたが、今ではそれがカテとなっています。
一つ腹が立つのは、その人の研究室のメンバー紹介の経歴が定期的に更新されており「私(教授)の指導がよかったからこれだけ出世しているんだ」みたいな感じになっているところです・・・・・
というわけで高知県に来ました。
ほんとまだ来たばっかりなので、これからどんな人と出会い、どんな出来事に遭遇し、自分には何ができて、実際に何をしていくのだろう。
今は正直、不安の方が圧倒的に大きいです。
奥さん名義で滞在型農園に居座りながら家賃を浮かせ、アウトランダーに乗りながら提灯記事を書く師匠みたいに、彼女(未来の妻)と将来の子どもひとりくらいと一緒に本当に豊かな生活を手に入れるために、
そして大好きな文章を書く事を生業にしながら、周りの人にも喜んでもらえる生活を送りたいと思っていたのです。それが叶うなら泥水でもすする覚悟は、もうできているつもりでした。
でも少し考えてみたら、泥水をガブ飲みしても栄養にならないし、お腹を壊すかもしれないので飲むとしてもちょっとですね。なんかスポーツドリンク片手にハンストやってた、アホな若者みたいなこと言っちゃいました。
高知県は「高知家」というフレーズを全面に出し、みんな家族だよ!っていうオープンで包容力のある方々ばかりだと、師匠は教えてくれました。でも、それって半分くらいウソだって師匠は知ってますよね。田舎は考えが保守的で、つまらないくせに威張ってばかりいる人が多いから、若い人がみんな出て行っちゃうんですよね。
酒ばっかり呑んで、大して働かないのに酔っぱらって宴会ばっかりやって、勢いでヤっちゃうから結婚も離婚も多い土地になんて、師匠は深入りできるわけないですよね。
若い人がどんどん出ていくのを止めたり、いちど出て行った人に戻ってもらったりする度量もなしに、出て行く人は裏切り者扱いする。都会からの若者をニコニコして迎えてくれているけど、内心はどれだけ高知と自分にカネをもたらしてくれるのかと考えている人ばかりじゃないですか。
油断してると、地方創生の名の下に国から補助金を引っ張ってくる口実みたいのに使われるんじゃないですか、我々みたいな人間は。師匠は、裏ではそういうところからお金をもらってないですよね。もしもらってるなら、ちゃんとクレジットするか、口止め料としてアシスタントの僕にもちゃんと分けてくださいよ。
この地で頑張れば、絶対ライターとして生きていけるようになると信じる、なんて書いちゃいましたけど、信じると口で言うだけなら誰にでもできます。でもちょっと考えてみれば、できるわけないですよ。だって高知には佐賀にもましてカネないし、僕らが食べていけるだけのフィーを払えるクライアントなんてない。
・今やってる活動や仕事をもっと周りの人に魅力的に伝えていきたい
・高知の素敵なスポット、グルメ、お店、人々を発信していきたい
のはやまやまですけど、魅力的な仕事もスポットも、グルメやお店、人々だって高知にはホント数えるほどしかない。取材先も読者も、都会の方が数十倍、数百倍は多いですわ。なんなら大阪でコピー機の飛び込み営業やるついでに、ランチグルメブログでも書いてた方がネタ切れに困らないかも。
それに、僕だって霞を食べて生きていくわけにもいかない。でも、カネのない彼らに「提灯ブログ1本5万円にまけときますから!」なんて言ったらドン引きされますよね。
もし彼らが渋々出してくれたとしても、カネのために提灯記事を書き続け、それで白々しく「みんなも高知に移住しに来なよ!」なんていう生活続けたら、大好きな文章書きも苦痛になりませんかね。師匠のアシスタント代だって、時間で割ったら最低賃金未満じゃないですか。いくら下積みだって、業務委託だからってそりゃないでしょ。「もう1人増やそうかな」とか、いい気なもんだ。
そもそも「文章書くのが好き」なんて、胸を張って他人に言えるようなことでもないですよね。誰にだって書けるし読める日本語を書くだけなのに、低スキルでもライターと名乗ればクリエイティブな仕事に就いたみたいな感じになるじゃないですか。
しょうもない炎上でも、PV取れたら誤って広告踏んじゃうやつもいるしラッキーみたいなのって、ほんとにアートなんですかね。…まあ確かにアートかもしれませんけど。
でも毎日ハードな仕事をしながら奥さんと3人の男の子を育てつつ、プロブロガーでもないのに楽しくて役に立って、ときには世の中の悪を糺す文章を大量に書いている投資家で企業経営者のやまもといちろうさんの方が、僕にはカッコイイと思えるし、やっぱりブログの内容もエキサイティングで面白いですよ。
やまもとさんはどうか知らないけど、中途半端な覚悟で「書くのが好き」と自称する人の文章って、往々にしてつまらないんじゃないでしょうか。もし読者だったら、書くのがよほど得意な人か、好き嫌いを越えて読者に誠実に書く人の文章が読みたいんじゃないでしょうか。
それ以外の「下手の横好き」みたいな人は、チラシのウラに書いてから、こっそり丸めて捨てた方が、自分を甘やかさなくていいのかもしれません。
なんかライター宣言が最低な逃げに思えてきました。ということで、「彼女を泣かせるなよ。俺のところで下積みした方が、早くカネ取れるようになるぜ」というような熱い言葉で目を覚まさせてくれる方がいらっしゃいましたら、ご連絡お待ちしております。
まあ師匠も、僕の生活を保証してくれるなんてひとことも言ってないんですが。
宜しくお願い致します。
選挙カーで名前を連呼した方が、票が多く入るようになるらしい。
民衆はまだまだ愚かだから、有効な手段として使おう、というのはまだ判る。
安全保障関連法案に関して、国会前のデモを観たけど、煽り方が低レベルだった。
もはや、有効な手段にすらなっていない、内向きで、残念な煽り方だった。
別にお題目なんだから、判りやすくキャッチーな造語で良いと思う。
(内閣も「平和安全法制」って呼んでるし、まあ五十歩百歩だろう)
ただ、次がない。
スローガンとしてはアリだろう。つかみはオッケーだ。
最初は理解できていなくて当たり前だ。不安とか不満とか、漠然としたことでも行動するのは立派だ。
そこから、隣の国とどう揉めてて、誰と揉めてて、この法案は誰が後ろにいて、どういう法案なのか。
その理解を促すヒトが居ない。
公正中立とは言わなくても、ゴリゴリに偏向した洗脳するような教育ですら出来ていない。
次がない。単発。2chの大規模オフと同じ。せっかく集めて何もしない。夏休みの思い出レベル。
人が集まることには意味がある。
数が揃って不満の声を上げることはプレッシャーになるし、過去、デモは世界を変えてきた。
キング牧師のかの有名な演説、「I Have a Dream」は、人種差別撤廃を求めるデモでの出来事だ(ワシントン大行進)
失業率に抗議するデモから、政権への批判のデモ、数百人のデモが数千人となり、結果政権が転覆したことすらある(ジャスミン革命)
ただし、運動が盛り上がった結果人数が増えることに意味があるのであって、逆ではない。
成績が良い家庭に本がたくさんあるからといって、自宅の本の数を水増ししても賢くはならない。
ジャスミン革命と呼ばれる事になったチュニジアで起こったデモは、最初はごく少数の規模で始まった。
インターネットでゆるく連携しながら、着実に考え方を広げ、数百名のデモに警官隊が出る騒ぎになっている。
ワシントン記念塔広場を完全に埋め尽くしたワシントン大行進の記録映像は衝撃的だ。
そのテレビの放映は、公民権運動が、一部の黒人だけのものではないアメリカの問題だと雄弁に物語った。
アメリカ国民誰もが当事者であると突きつけたあの映像に残るデモには「20万人」以上が集まったと言われている。
3万人が集まった運動は、チュニジアの政府転覆に繋がるデモの、数十倍の規模だ。
だが、主催者発表の累計35万人という数字は、ワシントン大行進の映像を観た後では、ひどく滑稽だ。
60年安保の参加者だって居ただろう。岸打倒のデモで30万人(警察発表で13万人)だぞ。バカにされたとは思わんのか。
なぜ、わざわざ自らを貶めるような発表をするのか。誰も止めないのか。
最初に言っとくと、俺は安倍さんは嫌いだ。昔っから嫌いだった。
個人としての安倍さんはまだ嫌いだ。だが、安倍晋三内閣総理大臣は、失敗も多いが無難に外交をこなしてる。
安倍内閣も国民をバカ扱いしてるのかもしれんが、テレビや新聞のコントロールは現政権のほうが上だ。
海外の報道までコントロールできているかは判らんが、概ね好意的な声が大きい。
結果を出すのに嘘も方便でやるのであれば、現政権には勝てない。
だから、テレビや新聞に勝てるような煽り方をしないといけない。
所詮は意向に基づいたデータの取捨選択だ。陣営が違うだけで科学者ですらタマにはやってる。
情緒で煽った後に、データを並べて、理路を広げて、説得していくフェーズに移らないといけない。
いつまでもシュプレヒコールを上げるだけじゃ、バカ扱いされてるんじゃなくて単なる馬鹿だ。
憲法学者が反対しているのはなぜか。自衛隊にも反対しているのはなぜか。
軍隊を持たないことを理想とするのか、折衷案として自衛軍は許容するのか。
警察なら良いのか、災害派遣ならどうなのか、海上保安庁はどう扱うのか。
海外からどう言われてもどんな理由でも軍隊は国の外に出さないのか。
全てに答えを出せなくても良いが、せめて想定問答を議論する会合くらいは持てないのか。
キッカケや、最初の入口としては、良いと思う。
そのキッカケから、何を学ぶのか。どう動くのか。それが全く見えない。
情理を尽くせば外交でもうまくいくという主張も、一つの主張だとは思う。
安倍首相を説得するのの数百倍は、朴槿恵大統領を説得するの大変だぞ。
たぶん、オバマ大統領を説得するのは数千倍、アメリカ合衆国を説得するのは数億倍大変だ。
それに比べたら、日弁連と学者の会とSEALDsとミュージシャンに声かけて回って、Youtubeに講義を載せてCSに冠番組作って、次のニコニコ超会議を乗っ取るくらい大したことないだろう。
それが出来そうもないと感じるなら、たぶんもっとスタートラインを下げて、地道に始めるべきだと思う。
モンストのイベントですら、炎天下の中5万人以上集まったんだぞ。資金力でも動員数でも必死さでも負けている。
意義が違うというならその意義をスローガンから掘り下げて広げてくれ。