ライトノベルとかライト文芸とか広く大衆小説の凄さっていうのは、個人で作れて制作予算が低いことに集約されるんだよ。
作るのにあたって初期投資が非常に少なくて済む。商業印刷するにしたって数百万程度で済むし、なろうに連載するなら(作者の人件費以外)ほぼノーコストだ。
商業出版にしたってその作者の人件費は印税という形で出版後の割合報酬ということになってる。
なんだそんなの常識だろ? という人がいるかもしれないけれど、アニメだってゲームだって映画だってそんなことはないわけだよね。「放映中止になったんでギャラ払いません」なんてないわけだ。
この初期コストの低さというのが、メディアミックスの原作生成にむいているんだよ。
テンプレという言葉は今現在否定的な意味で用いられることが多いけれど、それって「創作者たるものは独自性を追求すべきだ」であるとか「読者である我々により大きなメリット(新鮮な読書体験)を与えるべきだ」みたいな、突き詰めると根拠があいまいで言いがかりに近い否定要素なんだよね。
でもそれじゃなんでテンプレがこんなにあるかっていうと、創作者レベルでいえばある程度創作の指針を借用できるからってのももちろんあるんだけど、業界レベルでいうと「初期条件をわずかに変えた実験を大量並列でやることに価値があるから」なんだよ。この実験可能ていう価値観ってのは研究者になら判りやすいと思う。
その実験が商業的に、つまり、メディアミックス原作を探査するうえで有用があるからこの状況があるんだ。
もし小説を作るのにかかるお金が現在の十倍もあれば、こんな実験は原価割れするので絶対に行われなかった。
実験コストが高いのならば、実験の施行回数を絞らざるを得ない。そこでは「作品Aと0.1%違う作品Bを作って反応差異を計測する」なんてのよりも、もっと距離のあるBの実験の方が優先される。マンガは、この状況にある。
つまり、なろうという環境でなんであんなにテンプレが謳歌されているかといえば、もちろんそれが作者に負担を書けないっていうのもあるんだけど、なろう連載はラノベ出版よりもさらにお金がかからないので、実験環境として優秀だっていうのがあるんだよ。実験コストが(それこそ素人の思い付き労力以外消費しないほど)低いから、ほとんど差異がないような作品が並行して連載される。
なにをもってメディアが豊饒なのか否かというかにはいろんな見地があるとおもうけれど、個人がわずかなコストで実験可能だ、という意味で、小説ジャンルは「豊穣」なんだよ。
なるほど ラノベによくある文章形式のタイトルも実験内容を説明していると考えると納得がいくな 「凸レンズで写した画像が反転している件」 「熱した銅の質量が増えているんだが」 ...
なろうがどうだか知らないけど、小説は今のようにWikipediaをちょろっと検索して書いちゃうようなもんじゃなかったからね。 資料だって大量に積み上げられるから、それに掛かる費用も...