2021-08-08

情報過多・選択可能時代既存マスメディアの多くは力不足

インターネット交流する前は、そもそも情報」にアクセスできる人間が少なかったし、情報の扱いに慣れた人間も多くはいなかった。報道機関は、スタンスとともにそれにそれに沿った報道をなしていれば、あとは思想の近い人間がそれを読み、近しい人間の間で広めるだけであった。

インターネットが広まるにつれて、情報を扱える人が増えていった。報道機関でなくとも、情報を広めることができる人も増えたり、情報に触れる機会が増えるにつれて、その読み方にこなれた人間も増えていった。

SNS全盛に当たっては、そもそもが皆が発信側に回ったと言っていい。もちろん、皆が発信をしているわけではないし、発信している人間がみなうまく発信しているわけではないけれど。

しかしながら、90年代の前半―インターネットが登場する前―と今では、そもそも情報の総量が違うし、人一人あたりが扱える情報の量も変わってきた。

既存メディアは、特に大手テレビ局新聞社は、それに気づいているだろうが、やり方が変わったとは思えない。せいぜい新しいチャンネルとしてインターネットSNSを使うことはあっても、その使い方は既存の使い方―思想が近い人が読んだり、あるいは思想を近くさせるためのものである

もちろん、各社の間にも情報の扱いの上手下手はある。いくつかの軸があると思うが、私が思う二つをあげてみたい。一つは「主張の強さ」である

たとえば顕著なのは、文春と新潮ではないかなと思っていたりする。「文春報」と呼ばれるような比較的大きなうねりを生むような報道には、インターネットでの拡散が大きな役割を負っているように見える。これは文春の編集部が、インターネットフィットした情報発信の仕方で、インターネット受けのする情報を発信しているからだ。

一方で、新潮はそこが弱い。スタンスを強く持ちすぎているように見える。特にコロナに当たっての報道などはその傾向が強く、西浦先生に対して強く当たってみたり、いまいち受けの悪そうな人の主張を拾ってきてはインターネット(の一部)を失望させている。

正直な話、文春の報道には、主張が見られない(もちろんすべてに対してではない)。彼らは淡々としているのだ。淡々と受けるものを発信しているのだ。いや、彼らなりにあるのはわかるが、それを周到に隠して見せている。これが、彼らのインターネットウケるためのテクニックなのだ

もう一つ軸として思うことは、「ソースへのアクセス可能か否か」だ。

ニュースには情報源を秘匿しなければいけないような報道も多いが、そういうものはここでは含めない。たとえば、画期的論文が発表された、あるいはなんらかの組織から調査結果が出た、といったものには、明示可能ソースがあるはずで、そういったものについての報道である

最近では、論文を元にした報道については、そのソースへのリンクを貼る新聞社サイトも増えてきたように思う。一方で、どこの調査かわからない表現で、なんらかの調査結果について報道している記事もまだまだ大量にある。

そもそもラジオTVなどは、そういったものについてのソースを明示しようと思っても、なかなか難しい。この点、媒体としてインターネット時代には合いにくい部分はあるのではないかと思う。

みたいなことを適当に書いていたのですが、この文章ソースはないという。それに私自身、別にメディア論とか勉強したりしたことがあるわけではないので、参考になる書物などがあれば、教えていただきたいです。現場からは以上です。

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