2015-10-06

松永寛和「ライトノベルの著者近影論」

本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。

著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割果たしている。

我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。

その知識、記憶テクストを統括する人格存在を暗示する。

著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能果たしてきた。

しかし、ライトノベルの著者近影は現在近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。

その変遷には作品作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。

収集したサンプルは以下の通りに分類した。

1、顔が鮮明に映っている。

2、サングラスや手、帽子などにより風貌を隠している。

3、自分身の回りのモノの写真

4、イラストを使用している。

これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。

一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。

けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。

その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。

現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。

メディア論重要批評家であるヴァルター・ベンヤミン肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。

近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。

しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。

ライトノベルは著者を特別主体としてではなく、どこにでもいる、大衆に埋没するような存在として提示している。

http://amjls.web.fc2.com/PDF2015/P06-25_123.pdf

  • 「著者近影がない」というパターンも含めるべきでは? 「作家性を強調しない」とは言えても「大衆に埋没するような存在として提示している」は飛躍しすぎでは?

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