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はてなキーワード: 属人的とは

2021-08-30

anond:20210830135148

なんか半分分かる気がするw

属人的仕事がなくなるから、その人が辞めても大丈夫なように自動的IT化が促進される

2021-08-24

コンプラ白雪姫

 むかしむかし、とっても美しい(※注1)けれど、心の美しさについては評価が分かれることもある、王のパートナーの方(※注2)がいました。王のパートナーの方は魔法(※注3)のカガミを持っていて、いつも魔法カガミにたずねます

カガミカガミよ、この世で一番美しい(※注1)のは誰?」

 王のパートナーの方は、カガミがいつもの様に、

ルッキズムのような形で受けとられるのは本意ではなく、あくま主観的な一意見として申し上げるということを前提といたしますが、あなたが一番美しい(※注1)です」

と、答えるのを待ちました。しかカガミは、

あなたの(※注4)娘、レインボーパーソン(※注5)です」

と、答えたのです。

 王のパートナーの方は、レインボーパーソンの2度目の保護者(※注6)です。王のパートナーの方は強い遺憾の意を表して、レインボーパーソンをある特定職業の方(※注7)に処理を委託しようと(※注8)しました。でも心の優しいある特定職業の方はレインボーパーソンをそっと森の中に隠し(※注9)て、王のパートナーの方にはレインボーパーソンを適切に処理したとうそ(※注10)をついたのです。

  

  

  

 レインボーパーソン(※注5)は、山間部に在住の七名の方(※注11)たちと暮らす事になりました。そして山間部に在住の七名の方たちとシナジーを生み出して、サステナブルグローバル社会アジェンダとするオポチュニティコミットしたり、ごはんを作ったりして(※注12)毎日を楽しく過ごしました。

レインボーパーソン、わたしたち仕事に行っている間、誰も家に入れちゃいけない(※注13)よ。あの見方によっては威圧感があると評価する声もある王のパートナーの方(※注2)に、ここが知られてしまうからね」

と、いつも山間部に在住の七名の方たちは言うのでした。

  

  

  

 ところがある日、「カガミカガミよ、この世で一番美しい(※注1)のはだれ?」

と、王のパートナーの方(※注2)がカガミに聞くと、

「山を越えたその向こう、山間部に在住の七名の方(※注11)たちの家にいるレインボーパーソン(※注5)です」

と、答えたのです。

「なんですって!! あのある特定職業の方(※注7)、裏切った(※注10)ね! よし、こうなれば」

 自分レインボーパーソンを処理しよう(※注8)と考えた王のパートナーの方は、小売業の方(※注14)のご高齢の方(※注15)に化ける(※注3)と、毒のある赤色果実のようなもの(※注16)を手に七つの山を越えて山間部に在住の七名の方の家に行きました。そして、窓を叩いて言いました。

「美しい(※注1)娘さんに、おくり物だよ」(※注17)

「まあ、何てきれいな赤色果実のようなもの。ご高齢の方、ありがとう

  

  

  

 けれど、その赤色果実のようなもの一口(※注18)かじるなりレインボーパーソン(※注5)はバタリと倒れ(※注9)て、二度と目を開きませんでした。

 レインボーパーソンが目を開かない(※注8)事を知った山間部に在住の七名の方(※注11)たちは悲しみ、せめて美しい(※注1)レインボーパーソンがいつでも(※注19)見られる様にと、ガラスのひつぎの中にレインボーパーソンを寝かせて森の中に置き(※注9)ました。

 そしてある日、1人の王位継承権のある若年の方(※注20)が森で、レインボーパーソンのひつぎを見つけたのです。

「何てきれい(※注1)なパーソン(※注5)なんだ。まるで眠っているようだ(※注21)」

 王位継承権のある若年の方は思わず、ひつぎの中のレインボーパーソンに挨拶しました。(※注22)

 すると挨拶(※注22)したはずみで、毒のある赤色果実のようなもの(※注16)のかけらがレインボーパーソンののどから飛び出したのです。(※注3)

 目を開けたレインボーパーソンは、

わたしは、どこにいるのでしょうか?」(※注23)

と、王位継承権のある若年の方に尋ねました。

「ずっと、わたしと一緒にいることも選択肢にありますが、すべてを自由あなた選択すること、そしてそれを実現する社会こそが我々全員の目標です。パーソン」(※注24)王位継承権のある若年の方と結婚(※注25)したレインボーパーソンは、ずっと幸せ暮らしました。(※注19)

  

  

おしまい

  

  

底本:「白雪姫 グリム童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>」 令和3年8月24日閲覧

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/04/23.htm

  

  

  

(※注1:これはあくま主観的な語り手個人としての感想で、画一化された「美」の基準強制するものではありません)

(※注2:「おきさき」は王の属人的表現であり、またジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、一部表現修正しています

(※注3:当時の価値観科学技術立脚した記述であることをご了承ください)

(※注4:あくま戸籍上の関係示唆するもので、個人人格その他が親族の所有物であるという意図はありません)

(※注5:「白雪姫」との呼称については「雪のような白=美しい」という比喩人種差別であること、また多様性SDGsへの賛同を表す我々のステートメントのために、一部表現修正しています。また、「姫」という表現ジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、性別限定しない表現修正しています

(※注6:本作においては※注4同様、あくま戸籍上の関係示唆するもので、個人人格その他が親族の所有物であるという意図はありません。また、「お母さん」という表現についても、ジェンダーロールの固定化および女性職場進出に対して差別的役割を抱かせないため、一部表現を変更しています

(※注7:文脈上、「猟師」への職業差別に繋がる恐れのある表現のため、具体的な職業名を伏せる形に一部表現修正しています

(※注8:「殺人」「死」などの猟奇的残酷表現を一部修正しました)

(※注9:専門家指導のもと、スタッフ監督下において安全方法実施しました)

(※注10:王のパートナーの方との契約違反する行為ですが、契約内容自体嘱託殺人罪に繋がる恐れのある行為が含まれるため法律行為の要素に錯誤があるもの判断され、契約行為のもの無効であると考えられます

(※注11:「森に住む七人の小人」は門地および容姿に対する明確な差別表現であり、あまり不適切であるため、一部表現修正しています

(※注12:「小人たちが山に働きに行っている間、掃除洗濯や針仕事をしたり、ごはんを作ったりして」はジェンダーロールを固定化する非常に前時代的な価値観押し付けものであり、また小人に対する職業イメージ差別表現でもあるため、現代的な表現に一部修正を行っています

(※注13:特定人物人種および主義主張信条および団体等を排外する意図はありません)

(※注14:「物売り」は行商の方、小売業の方にたいする差別的表現のため、一部表現修正しています

(※注15:「おばあさん」は高齢者への差別的表現、およびジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、一部表現修正しています

(※注16:「毒リンゴ」はリンゴ農家の方などへの風評被害防止の為、具体的な果物名を伏せる形に一部表現修正しています

(※注17:この場合、姿を変えているものの継母から娘に食品を与えたにすぎないため、果物の価額は不明ですが令和3年4月1日現在法令等においては贈与税課税対象にはあたらない財産(下記出典より「例外2:夫婦や親子、兄弟姉妹などの扶養義務から生活費教育費に充てるために取得した財産で、通常必要と認められるもの」)と考えられます

出典:国税庁HP「No.4405 贈与税がかからない場合https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4405.htm 令和3年8月24日閲覧)

(※注18:およそ5〜10gと推定されます。内容には個人差があり、若干変動しますことをご了承ください)

(※注19:令和3年8月24日現在記載となります。今後サービス内容は予告なく変更される場合があります

(※注20:「王子」は王の属人的表現であり、またジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、この場合意図されて表現されているか不明ですが王位継承権を持ちながらも立太子礼を受けていない方と想定し、一部表現修正しています

(※注21:個人感想です。内容には個人差があります

(※注22:「ひつぎの中の白雪姫キスしました」との表現については、見ず知らずの女性に対して昏睡状態にあることを理由性的行為を迫る大変卑劣犯行であり、準強姦罪に問われる可能性があります。あまり不適切であるため、一部表現修正しています

(※注23:「わたしは、どこにいるのかしら?」は語尾等の特徴から性別識別させる性差別表現であるため、中立的表現修正しています

(※注24:「ずっと、わたしと一緒にいるのですよ。姫」は個人権利を著しく侵害する絶対にあってはならない行為であり、ジェンダーロールの固定化および女性職場進出に対して差別的役割を抱かせないため、一部表現を変更しています

(※注25:この場合各自治体等におけるパートナーシップ条例等に基づくものも含めて「すべての他人を除外した2人の人物合法的連合」を意味し、法的な届出による効力を伴う契約の有無を問わないものします)

2021-07-30

借金玉氏、はじめて知ってTwitter見てみたけど主張は読めるが同じ話を延々繰り返してて怖い。深夜だからかな?

今まで誹謗中傷をたくさん受けてきたという悲しい前提があって?いまは

「金が出来たから金でしばく方法が出来るようになったぞ」

「金が無いけど捨て身でしばく方法もあって(したくないけど)その手札もチラチラさせっぞこういう方法もあるかんな?(したくないけどなーする奴居るかもってことはお前ら知っとけよー)」

(金でしばく方法をできればしたくないのは金がないほとんどの障碍者が出来ない方法から)


金も地位も手に入れることができた。顧問弁護士も手に入れた」

「俺障碍者


って話をなんかしてらっしゃる

論争論客どっちの何が正しいのかなんかよーわからんけど素人が何かの意見に突っ込むと逆の刀で返されそうなのでここは「見」にまわろう。


彼は発達障害者底辺からネット上の文筆業で成功をおさめたようで、当時から追っかけていた人にとってはかなりシンパシーを感じることができる人物に見える。実際苦労されたんだろうね。経歴は異例で恵まれてるとは思うけど。

でも、今から氏を知ろうとすると弱者(発達障害者)の立場強者(成功者)の立場を同時に振り回しているように見えるのだわな。

弱者であり強者でもある、というのはありえるんだけれど。

そこらへんは個人的シンパシーを感じないというか、嫉妬かなんかか好きになれない。

これは俺の好き嫌いなんだと思うけれど、最近似たような感情を抱いたことを思い出したのね。

大坂なおみさんなんだけど。

過去にもいろいろ主張してきた彼女記者会見ボイコットしてからいろいろ論争が起きていた中で、彼女うつ(英文文意がわからないので病とは確定してないんでしたっけ)と公表したんだよね。たしか

それまでは偉大なプロプレイヤー提言として眺めていたんだけど、この公表で俺の中で借金玉氏と同じように弱者(うつ病)であり強者(偉大なプロプレイヤー)になったんだよね。だから気持ちがスッと引いてしまってたぶん気分的にはアンチよりになったんだろうね。それからまり嫌わないために見ないようにしてる。

立場ある人の勇気ある提言は大いに歓迎すべきでいろいろな立場から賛否両論わき出ればいいと思うけれど、脳に障害なりうつ病なりある人に強い否定はしにくいよね。これが俺の優しさなのかはわからないけど99.9割違うよな。

勝手な印象すぎて申し訳ないけど地位と脳や精神に関する病を見ると「ガードされて有利」な格ゲーキャラ並みの理不尽な「強さ」を感じてしまうのだわな。相手病気で苦しんでるのにまさに理不尽思い込みですわな。

どっちの要素でも支援者はわんさか得られる属性なのにどっちも持ってるなんて虎に翼、最強すぎて嫌っちゃうのです。

(今、車イス乗車拒否うんぬんの人も思い出したけどあれは単純に初見時は高圧的で嫌いだったな)


じゃあ立場ある人は病を公表することも出来ずただ耐えなければならないのか!

っと考えてみると、とても困る。困るといっても俺は差別主義者?なので出来れば耐えてくれって思っててでもそんなの通らないから俺が黙って見てほんのり嫌うわけだ。今回のように。

うーん、せめて議論に持ち出さず、でも属人的ものから切り離せず……できればひとつ議論にはどちらかの属性だけで挑んで欲しい、のかな?俺、馬鹿から簡単なのがいい。激しくやり合える人とは激しくやり合い、やさしく寄り添うべき人には寄り添う単純なのがいい。です。はい。たぶん。俺の馬鹿ゆえの触り方がわからないアンタッチャブルさも嫌いを加速させてると思う。



何を嫌っているかもうちょっと自問してみると、目的達成への近さが気に入らないと思うんだよね。

彼や彼女のゴールは単純化するとおそらくネットリンチ者や記者?なりに勝利?することなんだろうけど、地位のある人の行動は成功やすいし、困難を抱えている人の行動も支援され成功やすい。両者が合わさるととても成功やすい。

俺は成功やすものには妬みから反感を持つので、たとえばオリンピック甲子園なら実力が下のものが上位のものに勝つ下克上応援ちゃう

国会なら野党が反対したりねじれ国会に持ち込んでも結局再可決で与党法案が成立しやすいだろってほんのりさめた目で見ちゃう

そんな俺でも世間にそれなりに折り合いをつけて生きているので、地位や金がある人は病を使って倍率ドンさらに倍って界王拳を使わないでくれって感じ。そんな彼らに噛み付けるみんなは俺には出来ないすごいバランス感覚議論ができる方々だから内容は別として噛み付くことは応援してるって感じ。かしこ

2021-07-21

anond:20210720104404

故事属人的にすると再現性という性質がなくなる

再現についての存在可能性を考慮することが予防と投資になるが

同時に偏見差別という異なるベクトルの同じ行為が発生する

なしにしてええんか?

ありとして、あるべき場所定義して共存していくんか?

なしでええんなら それでもまあええけど

イジメられた人間たまたまいじめられるべくして存在したというだけで

その人がいじめられる原因や理由が確定したとしてもそれが実際にイジメに発展するかは

可能性や再現性存在自体を無にすると そのイジメられる人間次第ということになる

犯人犯行も しそうなやつがいたとして するかどうかはしてからでなければならなくなる

怪しいというだけで調査をすることは差別になるし 統計的に発生しそうだとみるのは偏見になる

それでいいなら べつにいいけど

2021-06-24

anond:20210624181559

ロックアップ期間が終わるまで、申し訳そうな顔をしながら真面目に頑張っているフリを続ければいい。

まあこれだよね。

サービスのものがよっぽど浸透しててブランド価値があるとかすでに属人的でない組織が出来上がってるとかじゃない限りロックアップ終わって中心人物が抜けたらもう何も残らない。

代表役員が皆株売っ払って抜けた後も残る価値があるかどうかだよなあ。

2021-06-15

anond:20210614194406

あったって。

堅実な生活大事だとか、夢が破れた者のあわれな末路とか、そういうのを描いた漫画もたくさんあったって。

それを読まなかった。選択しなかった。

身の丈と、不相応な夢を見て、選択した。そうしてそれを果たすことが出来なかった極めて属人的な話で、たぶんやり直しても同じミス増田さんはするんだろうし、大仰に資本主義とか持ち出されても……

2021-06-03

みいちゃんが言っても何も変わらなかったのに、なおみが言ったら一発で見なす機会ってことにするのか。

どこが弱者ケアだよ。

発言力のある選手が言ったらあわてて対応するのか。

属人的ですねえ。

2021-05-17

anond:20210516225443

誰々が、という属人的ものではなく「科学コミュニティ賛同してるから」というもう少し広い範囲グループ単位の話じゃないか

コペルニクスが言ってるから地動説が正しい」よりも「教会学者たちが言ってるから天動説が正しい」のほうが科学リテラシーがある態度といえる

さらにもう少しいけば「コペルニクスガリレオもその他も言ってるから地動説が正しい」に態度を変化させることがリテラシーとなる

2021-04-30

anond:20210429213658

弱者男性が「自分個人」や「男性固有」の苦しみを語る事を求められる理由簡単

「それは、お前個人問題男性固有の問題であって、フェミニズム対象じゃない」と切断処理出来るから問題の焦点を相手に向ける事で、フェミニズムの抱える矛盾フェミニストの言行不一致、といった難題から目を背けさせることができるからだよ。

そう。これは詭弁

男性の中の弱者をどう扱うか、と問われても、サクッと整理された知見を答えられない程度の学問体系なんですよ。「お気持ち」と変わらない、属人的な回答しか出てこないようなレベルの浅い学問なんです。だから詭弁で逃げるしかないんです。

2021-04-09

anond:20210409005230

そんな属人的な物が本気で解決になってるとしたら相当アホです。

そりゃそういう方法解決してるやつもいるけど、それはそいつが相当運が良かったり、コミュ力が以上に高かったり、特殊コミュニティ所属していたりそういう一般的では無いものです。

お前にとってはそうなんだろうな。お前にとっては。

で終わり。

2021-04-02

シンエヴァ感想とか評価を色々見てたんだけど、ほとんどが「庵野が~」っていうある種"私小説"としてしか捉えていないように思えた。

庵野監督人生をなぞるようにして、シンエヴァひいてはエヴァという作品全体を理解しようとするのは、あまりにも面白くない。

というか、もしそういう風にして理解するならば、そもそもエヴァというアニメーション作品でやる必要がないと俺は思う。それは、ドキュメンタリー作品として構成すべきことだ。

なので、「何故エヴァなのか」という観点が、エヴァをわざわざ"私小説"としてしか捉えない人に抜け落ちているんじゃないか

もちろん、エヴァ庵野監督私的経験を含みこんで作られているということは当然である。けど、それは一要素にすぎないのであって、エヴァ全体がそれに終始するわけではないだろう。

というか、何故にそこまで属人的な要素にばかり終始して、スクリーンに映ったものだけでアレコレ言いたくならないのかが不思議だ。わからんわからんでええけど。

2021-03-24

自発的サービス残業する人の心理

おじさんはなぜ進んでサービス残業をするのか、不思議でたまらない。

前提として、私はSES企業の下っ端で、SIerに常駐している。

今いるチームで、自発的サービス残業が行われている。

チームリーダーは「あとは帰ってやります」とか「〇〇計画書は土日でやっときます」とか平気で言うし、

自社の上司作業時間の欄に「9:00~18:00」って書いた業務終了メールを22時に出している。

残業するのは仕方ないとしても、わざわざそれをないことにするのはなんのメリットがあるのか。

もらえる残業代をもらわないのは単純に損だし、嘘をつくのは気分が悪いし周りの印象も悪い。

実際私はこの件でおじさんたちへの信用が少し落ちている。

特に自社(SES)の場合、稼働時間一定ラインを超えたらその分元請けから支払われる額も増えるんだから

残業をないことにするのは自社にとっても不利益なはず。

残業をつけても残業代をもらえないような酷い環境ではない(と思っている)し、

残業をつけるなと強く言われるような環境でもない。

実際チームリーダーも私には「残業ちゃんとつけてくださいね」と言ってくる。あんたが言うなと。

ちなみに私はほとんど残業はしていない。

レガシー属人的プロジェクトなので、昔からいるおじさんにしかできない作業ほとんどだから

これはこれで問題なんだけど、今回のテーマからずれるので触れないでおく。

おじさん、これを読んでいたら理由を教えてくれ。

不動産屋はIT化を待っている

こんなにもIT化が進んでなくて、情報産業なのに属人的で、最終的には心理戦ですべてが決まる、この不動産業界のIT化を進めたい。特に売買仲介世界

中の人たちは決して拒否はしていないし、特に若い世代営業たちはIT化による成約率上昇を期待しているのにいっこうに進まない。

だいたいIT打ち出してる不動産屋が出てきても結局広告に力入れてるだけで中身は変わらない。

公開されてる価格相場データってなんであんなにずれてるんだ。

だいたい客観的にその物件価値スペックを表す指標が隠されすぎている。

戸建てならしょうがいかもしれないけど、マンションなら、分譲時点で設備のグレードや機能管理体制や修繕計画データでまとめてどこかに登録されてればいいのに。ついでに重説も。

業界団体もっとがんばるべきなのか。

2021-03-21

属人的問題すり替え人格否定するのやめない?

構造的な差別問題として取り扱うの、いいと思うよ。社会学者先生ありがとうって感じ。でも、権力者批判とかまではしてもらわなくていいかなって。権力者はまだわかるけど、男性批判とし始めたら、もう構造差別問題じゃないよね。人格異常者の問題だよね。

よしんば全ての問題男性のせいだったとして、なぜ男性差別するようなってしまうのかを分析して、解決策を提案してほしいよね。

差別主義者を糾弾することは根本的な解決にはならないし、かえってヘイトを溜めてると思うんだよね。だから差別主義者を糾弾する以外の差別の解消方法を考えて欲しいんだ。

2021-03-18

anond:20210318172355

さえぼー嫌いだけど流石にテラケイよりはマシやな。(属人的議論

2021-03-05

職場崩壊しそう

地方のツヨツヨ企業勤め。なんで強いかって言ったらその地域インフラに直結する仕事から。うちの仕事を二四時間でも止めたら本気で付近住民生活が危うい。なので潰れることはまずない、という意味で強い。

でもどう考えても崩壊しそうなんですよね。人材不足ですから人海戦術で乗り切るのが普通な業界ですし、属人的仕事も多い。何より高齢化が著しくて変化に対応できないのに新しい人は入ってこない。古くさい仕事からね。

で、そんなこんなで鬱病の人が出てしまった。俺の先輩だし同じ係だし。そして俺の係には係長と俺しか正規職員がいない状態。こんなのもう無理でしょ。機器メンテナンスとか打合せとか色々あるし、ここに監視作業も入る。これを二人では絶対に回せない。なので再任用の人を引っ張りましたよ。いえーい。それでも回せないとは思うけど。

どうしようこれ。本気で副業転職するかな。元々地元離れる口実に受けた会社だし、住んでる場所にも未練はあまりないんだが。安定していることしか取り柄ないからな。再発防止しないと次の患者も出かねないし。来年には上の人がごっそり辞めちゃうし、もうどうするんだろう。

2021-02-14

カーリング五輪出場権はなぜチーム単位なの?

今日カーリング日本選手権が行われて、男子コンサドーレ五輪日本代表に選ばれた。

女子日本選手権では確定せず上位2チームで代表決定戦が行われるらしい)

 

不思議に思ったのは、なぜカーリングは、ふだんリーグ戦を戦っているチームがそのまま五輪代表になるの? ということ。

 

ほら、サッカーしろ野球しろラグビーしろW杯五輪を戦う時はそれ用に選抜チームを組むじゃない?

あっちのチームから一人、こっちのチームからも一人、という感じで借りてきて、日本代表チームを作るよね。

次のWBCソフトバンクの皆さんが出てね、とか、フロンターレW杯に出てね、とはならない。

どうしてこれをカーリングもやらないの?

投げる人はあのチームから、掃く人はこのチームから、みたいに選抜してチームを作るのではダメなの?

 

もちろん現実にそうなっていないからにはなにか合理的理由があるはずだけど、自分には想像することしかできない。

カーリングはほかの競技に比べてチームワークとか個と個の(ある種属人的な)つながりが重要だったりするのかな、とか。

代表チームを組織して運営維持する体力が競技団体にないのかな、とか。

所属チームと代表チームをかけもちするのが難しい事情カーリングにはあるのかな、とか。

 

理由をご存知の方がいましたら教えて下さい。

あと、カーリングと同じように既存のチームのまま(日本代表チームを新規組織することなく)代表を選出する競技がほかにもあったら教えて下さい。

2021-02-12

話題独身税たっぷり触れてます。【移民と置き換わり、消滅しゆく日本人への「逆説の少子化対策」】

https://yt3079.hatenablog.com/

日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける

日本人移民人口比逆転は時間問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」

出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる) 

◎約90年で人口が半減するスピードしか子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機非常事態。それなのに対策は後手後手

→例えば、ウイルス蔓延現在進行形悪化スピードが早く、人権制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化ダメージ時間スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。

◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続政府自治体対策対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策効果が出ていないのが現実

→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援保育所いくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区出生率は全国平均以下)

出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。

独身低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在戦時中よりもはるかに低い出生率日本を含む先進国生活多様化しており、コスト要因の結婚必要性優先順位の低下により、低所得者から結婚回避するようになった。

◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策重要

→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援関係なく、子供を作っている。問題出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚個人自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。

動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身増税実質的独身税)」

→早婚に金銭メリットが生じて、相手理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。

少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやす育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来負担の大きい子作りに対し、反発のない対策効果も期待できないはず(作用反作用法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手倫理モラル負担回避正当化すれば、将来世代は先細りの一方。

目的少子化解消)は手段人権問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨社会になっても、子供を作らない自由意思尊重大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき) 

★本稿のポイント

少子化対策の「思い込み=(人権モラル少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にの人権モラル我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合日本人に訪れる悲惨運命とそれを回避するための、効果を優先した対策提案解説する。

〜〜〜〜〜〜

近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事日本社会政治問題意識を投げかけたいと思います

問題解決するより、発見する方が困難です。個人組織も、自ら気づかない潜在的問題により、傾いていきます少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府少子化対策関連予算先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。

現状の少子化対策育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性政策しかとられておらず、改善兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府実質的移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人移民の混在する国になっていますさらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツ海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります公用語中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。

そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児個人権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策必要であると考えますしかしそういった対策は、個人自由意志に反する可能性のある対策であり、モラル倫理観の問題で実行に大きな障壁がありますしかし、動機付けの対策有効性があって少子化改善される可能性があっても、現代人のモラル人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います

少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラル現代人の自由権利理由放棄してもいいのか。現代人のモラル価値観はその人種の存続や持続性以上に重要価値観なのかーー。

このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります現在出尽くしている対策論点とは違った観点と具体的な対策提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います

【要点・トピック

現状の少子高齢化改善しないまま、実質的移民外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人外国由来の国民住民人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間問題。不可逆になる前に手を打つべき。

政府自治体育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論けが必要国民自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化構成要素である未婚率の高まり少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策方針を「大幅に変えないと」今後もさら日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。

モラル倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラル人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。

続きは以下にて

https://yt3079.hatenablog.com/

ーー第一部//「現日本人が少数派になる日」ーー

第一章・日本人が少数派になる日

◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか

政権関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題対応するため、政府経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的移民国連定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさら推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法施行された。彼ら外国人高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民高齢化問題も出てくる。

このまま、日本人人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人外国人比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。

出生率数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口ゼロになるか」の確定年数を導ける指数内戦中のシリアアフガン北朝鮮より先行きが危ない少子化日本

出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口ゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しかまれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代就職氷河期世代不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである

この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。

内戦シリアアフガン独裁政権下の北朝鮮はいずれも出生率が2を上回る。いくら内戦政治不安経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。

◆現日本人外国人実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋日本人消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人過半数割れ

移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。

2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニック黒人アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さら2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人出生率が2を切り続けて増えず、白人人口ゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックアジア系流入がその穴を埋めているためであるアメリカ出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民出生率が高いためである現在アメリカ多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人ヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。

日本は今のPermalink | 記事への反応(1) | 02:50

2021-02-09

必要とされたい

事務員をしていると、タスクをこなす人間としてはいいかもしれないけど "自分"という個人必要とされていない気がしている。

 

属人的仕事がしたいな。

でも、セールスは嫌や。あんなん、自分が頑張ってもダメな時はダメだし、頑張ってなくても 良い時はいいやん。

2021-02-07

勝手に削除から考える文芸時評論理

 『文學界2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界公式アカウント反論ツイートをした。

 のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。

https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/

 まず騒動時系列を把握しよう。

 最初荒木氏の①【訂正のお願い】ツイート2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明ツイートを行なっている。

 ④『マガジン航』への掲載は翌日である

 では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。

 1. 問題の3行を含む原稿を『文學界』が受け取る。

 2. 『文學界』が「批評としてあまり乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。

 3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。

 4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実SNS等で吹聴する』」と返答する。

 6. 削除された状態刊行される。

 7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。

 以上である

 さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである

 先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。

 1. (略)

 2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。

 3. (略)

 4. 『文學界』が「削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。

 6. 「削除された」状態刊行される。

 7. (略)

 『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。

 荒木氏の立場としては、編集部意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。

 つまり問題はこういうことだ。

 「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?

 一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しか命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである

 では荒木氏のツイート時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。

 言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである

 これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。

 荒木氏を擁護しうるとしたら、以下の主張が妥当である場合だ。

 「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかにである。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。

 ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である

 本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評倫理から考えてみよう。

 荒木氏は「削除されなかった」場合作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。

そもそも作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家樋口恭介がしたとおりウェブ反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。

 ちょうど1年前の『文學界新人小説月評に対し、作家樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。

 樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈そもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷から不適切であったと謝罪撤回を得ることに成功している。非常に健全批評的やりとりだった。

 ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示たこの事例との比較から、「反論余地を与えない表現批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。

 荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己責任もつところの私自身にとっての大切な創造であるということだ」と述べる。結論はこうだ。

私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。

 荒木氏の論理では創造なのは「(無)感動」である解釈のものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である

 だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身から反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくそ規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。

 月評の制限字数わずであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。

 解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。

 ある意味当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。

 テキスト論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。

追記2021年2月8日

 反応をいただいたのでいくらか補います

 まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き問題はないが、合理的ではなかった」というものです。

 仮に削除せずに全文ママ掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます

 あるいはもし仮に改稿・削除提案荒木自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木自身SNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。

 それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。

 無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。

 ただし荒木自身批評を書こうとしているので(「「批評言葉」かどうかを編集部判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります

 よって、時評の存在意義や読者の需要コメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。

 最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いていますコメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます

2021-02-01

anond:20210131185208

これ研究者オタクに置き換えても成立しちゃうから、まあネット上でやり返してるつもりなんだろうなとは思う。

>・オタク人格が気に食わない

>・オタク思想が気に食わない

>・オタクTwitter上の発言が酷い

>としても、そうした属人的事情創作物まりアニメマンガとは分けて考えるべきだ。仮にオタク人格破綻者が多かったとしても、オタク文化自体問題ではない。

お互いに自重し合うのが平和への道なんやな。

2021-01-31

anond:20210131232628

社会学社会学会という学問にあって権威を有する集団の体質の問題であれば、一部とはいえ、そこは属人的ではないと思います

追記🐈追記😸社会学へのバッシングが凄まじい

https://togetter.com/li/1660066#comment

コメント欄があまりにもひどい。「社会学学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾しか言いようもない。

社会学学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか

心理学系の論文再現性検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問科学手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。

研究者人格が気に食わない

研究者思想が気に食わない

研究者Twitter上の発言が酷い

としても、そうした属人的事情学問まり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体問題ではない(雇用である大学側としては問題かもしれないが)。

社会学査読システムが酷い

これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。

が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも査読システムがひどい」自体エビデンスがなく定性的主観的意見であるからだ。この方向性批判するのならば、社会学査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。

『個々の論文に関しての評価には、査読必要』という前提条件から査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理破綻している。

社会学には自浄作用がない

自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉抽象的すぎる。

ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学個人発言問題社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。

もし社会学非科学であったとしても、社会学構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会研究することは絶対必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)

追記

書き捨てのつもりで投稿したのだが、ひとつ

n4b 社会学一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者スタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場批判的にデータと向き合うんだけど

これはもうご個人的な意見に過ぎないけど、研究者研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。

研究者人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的意見を持つようになる。

社会学者も(会ったことないから知らんが)社会問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギー動機になるのも、結果的特定イデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。

それに、研究者自身思想はなくとも研究者研究資金必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業研究者企業営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。

タバコ会社タバコを無害を示す研究資金援助したり、石油会社気候変動とCO2排出量の関係否定する論文資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。

でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。

フェアな立場批判的にデータと向き合う

研究者として本当に重要なことであるし、特定イデオロギーに肩入れし、恣意的データを示す研究者研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。

研究者イデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データ批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。

自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学科学たらしめるのは論文ではくて、論文評価する人間存在だろう。

※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。

※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。

※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないか社会学という学問の在り方について批判肯定もしたくない。

追記

伝わらない文章申し訳ない。

babelap 追記イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ

どの分野においてもイデオロギー科学は切り離しようがない。社会学のような実社会対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想から、この論文ゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。

研究結果、研究で得たデータイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法検証再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。


自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナ危険性」だとか「〇〇な活動コロナ感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的意見エビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知大衆バッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見から、こいつが言ってることだから判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナ新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)

日本社会学クローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問裾野を広げ、日本社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。

(また余談が長くなったので終わる)

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