はてなキーワード: 選抜チームとは
今日カーリングの日本選手権が行われて、男子はコンサドーレが五輪日本代表に選ばれた。
(女子は日本選手権では確定せず上位2チームで代表決定戦が行われるらしい)
不思議に思ったのは、なぜカーリングは、ふだんリーグ戦を戦っているチームがそのまま五輪代表になるの? ということ。
ほら、サッカーにしろ野球にしろラグビーにしろ、W杯や五輪を戦う時はそれ用に選抜チームを組むじゃない?
あっちのチームから一人、こっちのチームからも一人、という感じで借りてきて、日本代表チームを作るよね。
次のWBCはソフトバンクの皆さんが出てね、とか、フロンターレがW杯に出てね、とはならない。
どうしてこれをカーリングもやらないの?
投げる人はあのチームから、掃く人はこのチームから、みたいに選抜してチームを作るのではダメなの?
もちろん現実にそうなっていないからにはなにか合理的な理由があるはずだけど、自分には想像することしかできない。
カーリングはほかの競技に比べてチームワークとか個と個の(ある種属人的な)つながりが重要だったりするのかな、とか。
代表チームを組織して運営維持する体力が競技団体にないのかな、とか。
所属チームと代表チームをかけもちするのが難しい事情がカーリングにはあるのかな、とか。
理由をご存知の方がいましたら教えて下さい。
あと、カーリングと同じように既存のチームのまま(日本代表チームを新規に組織することなく)代表を選出する競技がほかにもあったら教えて下さい。
兄もサッカーをしていたため、早い時期からボールは友達だった。
テクニックが凄かった訳ではないがボール持つ相手へのディフェンス、奪取がうまかった。そして何よりサッカーが好きだった。
小学校からは近所のクラブチームに入り高学年からは付近のチームから選抜されたチームに入った。この選抜チームが私のサッカーへの思いを変えた。
とても厳しいチームだった。練習前のリフティング、ヘディングのみのリフティングで一定距離を踏破しないと練習には参加できず晒し者となった。(すぐに出来るようなレベルに達するが)
試合の内容が悪いと激しい叱責を受けた。特に同学年のエース3人はしばしば殴られ蹴られていた。
「お前らのためにやっているんだ」と何故か泣きながら殴る監督に説教を受けながら、
心の中では全く泣く気はなかったがその場に合わせて泣いていた。
私の記憶が正しければ、このころの私はとにかく穏便なプレーに徹していた。
とにかくミスをしないように、無難なプレーを頑張って行っていた。
サッカーはもはや好きかどうか分からなかった。練習前はいつもお腹が痛かった。
泊まりがけの遠征試合はよくあったが、泊まり先のご飯は完食しないといけない決まりだったが、普段は食べれる量の食事もなぜか食が進まず、食べれない時はトイレに行って吐いて食べていた。
6年生の最後の試合大会はチームの実力とは程遠い箇所で敗退した。
全く悲しくなかったがみんな泣いていたので形だけ泣いた。(悔しくはあったが)
最早ドロップする形ではなくチームを抜けれることに安堵していた。
中学もそのまま延長でチームがあったが断り中学の部活で程々にプレーしていた。
卒業後の数年後くらいに聞いた風の噂ではもう暴力は行われていないそうだ。
私は現在30代だが、それ以上の年代でスポーツをおこなっていた人からすれば、
こんなことは良くあることだった。とりわけ私のメンタルが弱かっただけで、別にみんなは辛かったわけではないかもしれないとも思う。
同学年のエースはプロ入りしたものの活躍できず、数年で引退していた。
もっとみんながサッカーを好きになる方向で育成を行っていたら結果は違うのではなかったのかとも思っていた。
だが、この文を書いている時に調べると◯歳下に現在のJリーグトップ選手がいることがわかった。だとすると一概に悪い育成とも言えない。
(ただ、ここが肝だとも思う。暴力を伴う指導でも、結果は出ている。このトップ選手が殴られながら育成されたは知らないが。
だが、そんなことをしなくても結果は出ていると思う。みんなとってもサッカー旨かった。そこからそういった選手が出るのは当然だし、
練習量から考えればもっといてもおかしくない。データがある訳でもないので、なんとも言えないけれど。)
言いたいのは、恐怖と暴力で律しようとする指導は絶対にやめてほしい。
https://twitter.com/c_ssk/status/970995446662377473
"「ショイプ・オブ・ウォーター」を見たアセクシャルの友達が「(恋愛映画なのに)理解できたの?」って言われた話が本当につらくて、今これを書くだけでちょっと泣きそうなんだけど、こういうことを問われるのは常にマイノリティだけなんだよね。お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!"
https://twitter.com/c_ssk/status/970995641299042305
"シスヘテロ恋愛ものを見て感動した非シスヘテロは「わかるの?」と問われたり、「わかんないでしょ」と決めつけられることさえあるのに、シスヘテロの観客がLGBTの話に感動したら「これはLGBTの映画じゃない」とか言い出す。いい加減にしろよ。物語を剥奪するな。"
チキささの「アセクシャルの友達」が文字通り「理解できたの?」と言われたのかどうかは不明だが、そのアセクシャルの友達と「理解できたの?」発言の人とは一定の信頼関係があったことは予想できるし(日ごろからアセクシャルであることを誰彼構わず触れ回ってるなら別だが)、真相は「デル・トロといえども恋愛至上主義からは自由ではないんだねぇ」「アセクシャルならこの残念さよくわかるよね」という発言にアセクシャル側が同意を求められ、たまたまデル・トロ好きだったから(日頃の主張も忘れ)不快になった、という程度の話なのではないか。
そもそも、ある物語が住む地域も人種も宗教も違う人々をも感動させるのはそこになんらかの普遍的な要素があるからで、「内観」という、人間が情動を理解する唯一の手段を働かせるという意味での共感性があるからである。かつての権威づけされた芸術作品には貧困層などは排除されており、その作者やその作品の同時代人たちが考える「人間の基本的な条件」が現在よりよほど狭く設定されていたことが普遍の描き方に反映してしまっていた。しかし、現代では大衆化されさまざまなマイノリティ性を含んでもなお、そこに普遍を描くことができ、物語製作は豊かなになってきている。
つまり、「人間なら異性に惚れるのは当たり前だよね」と条件づけられていた「普遍」は、現代の人々が同性愛者の存在を広く認知し尊重するようになったことにより「同性に惚れるのだって人間だよ」というように拡張してきているのである。
ここで「物語からマイノリティを排除するな」という訴えは要するに、「普遍」を描く際の人間の条件からマイノリティを排除するなということであり、「現代社会はアセクシャルを排除している」という訴えは、ほとんど全ての創作物が謳いあげる「普遍」に性愛要素が含まれることを撃っているのである。その意義は大きい。「行け!稲中卓球部」で誤解から卓球の選抜チームに入った前野が、実際には卓球の実力も熱意もないため、卓球の話ばかりする選抜チームの中で退屈さと疎外感から唐突に「サメの話しようぜ」と言い出す滑稽な場面があるが、アセクシャルにとっては行く先どこもに恋愛の選抜チームが結成されている状況であり逃げ場がなく、前野とは違うのである。
ここで「シェイプ・オブ・ウォーター」に戻ると、そもそも恋愛映画であるが登場するのは半魚人である。繰り返すが、人間には情動を理解する手がかりが自分自身にしかないため、動物だけが登場する作品においてさえ、動物は人間が化けたように子の死を嘆き、群れからはぐれれば孤独を感じるように描写される。これは「動物性の剥奪だ」と非難する事すらできるだろう。動物のことはわからないのだから勝手に当てはめるなとも言えるだろう。2008年のディズニー映画「WALL-E」は、荒廃した惑星でただ一体動くロボットが主人公だが、その主人公は物語中で「女性の」ロボットと出会い、彼女との性愛関係を志向するようになる。遠い未来のロボットであってもヘテロセクシャルなのか! と当時ディズニーの物語製作には大いに落胆させられたものである。
「シェイプ・オブ・ウォーター」も物語構造の核としてシスヘテロ恋愛でしかなくこの種の批判は免れない。アセクシャルの友人が批判的コメントを求められることはありそうなことだ。
チキささは「お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!」と言うが、半魚人と付き合ったことなくても、自身のシスヘテ恋愛経験を拡張して半魚人と付き合うことまで理解してしまえるのが「普遍」だし、そこに同時にアセクシャルを排除したシスヘテ至上主義の傲慢もあるのである。
たまたまチキささとそのアセクシャルの友人がデル・トロ贔屓なのかもしれないが(おそらく「パシフィック・リム」においてベケットとマコが最後にキスしなかったことを評価しているクチだろう)、「シェイプ・オブ・ウォーター」は批判するべき作品である。
そもそも「アセクシャルならヘテロ作品わからないでしょ?」なんていう見解は圧倒的少数であり、アセクシャルが戦い、苦悩しているのは「やっぱりヘテロ恋愛には感動しちゃうよね。人を好きになること、これは人類不変の原理なんだよ」というような理路である。実際にそんなリプがついている。こんな藁人形叩きに近いツイートが大きな共感を得ているのは、シスヘテ至上主義の側がこのツイートに「救われている」からである。チキささは無能なアライであることを自覚するべきだ。