はてなキーワード: 属人的とは
せいもあるというよりほぼ確実にそれのせいかと。
自分を殴るっていうのが文字通りなら、普通に育てばそこまで極端に自己否定ってのはそうそうないし。
まず悪いことや失敗があってもすぐダメな自分とか、属人的に判断しない。
やり方や行動で間違った部分があるよね、あるいは運が悪かったと冷静にとらえるようにする。
殴りたくなるような否定感情が起きても、流されず落ち着く方法、殴る以外の無害な対処を身につける。
https://anond.hatelabo.jp/20221016140905
2040 年前後、高度成長が一段落して成熟化した経済と喧伝される時節であっても
「バイデン老師は中国に於ける半導体産業興隆の父である」と大陸の業界関係者に
所謂、産業政策の観点からは 4 nm 以降の製造プロセス、製造や検査等の装置、
シリコンを代替可能な新素材の基礎研究に至るまで、純国産化を躊躇する理由が
arm や RISC-V の後継規格による SoC が HPC 、データセンタ、消費者向け端末等を
某社が PS3 Cell ブロードバンドエンジンで実現しようとしたことを具現化されますなぁ。
産業界と政治、官僚機構の回転ドア故の属人的な要素が悪い方向へ働き
ネガティブフィードバックを止められないといったところが、内実なのかもしれませんが
根拠のない皮算用 w で単年度 ¥ 8,000 億、20 年、短期的な成果を訴求せずに
右翼と左翼の争いも、フェミとオタクの争いも、全部誰が言うかで賛成反対してて、属人的すぎ。
フェミニストでも、ラディカルフェミニストやTERFと距離を置いてるような学者は論理的だし、山田太郎はちゃんとヲタコンテンツ以外の表現の自由も守ろうとしている
ツイフェミ≒ラディフェミは論理が存在しないし、赤松もヲタコンテンツ以外に興味がない。オタクはフェミをお気持ちと揶揄するが、俺から言わせれば赤松もツイフェミも同じお気持ち野郎。
結局みんな人に興味がありすぎるから誰それが言ったで賛成、反対に回ってしまう。
その点アスペは人に興味がないし、論理の矛盾によく気がつくから法律考えるの向いてる。性格ドクズの底辺弱者も救ってやんよ。政治はアスペがやるべき。
最近画像生成AIが熱い、使ったことは無いけど記事や生成された画像は見ている、すごいよね
これ次は動画になるわけじゃん、つまりAIからAVに進化する、ワクワクしかない
でもさ、仮想AVになるのも時間の問題だよね、ようするに生身のAV女優を必要としない世界
モデリングや声、モーションキャプチャーだけ使う、
処女のままトップAV女優で新作毎日リリース、みたいな娘もでてくる
みたいな世界になる
さらにその先は自作AVの時代になる、どんな顔やスタイルが好きか、プレイ内容、シチュエーション
属人的なツボや責めどころが学習され次のプレイにフィードバックされる、素敵すぎる
そんな世界が来るのは10年後、15年後だろう、ワクワクしか無い
男の性欲が機械で消化され生身の女が用無し
今の世界は女がヤラせてやる力関係だけど、需給逆転で価値観も変わる。
もちろん女用の機械快楽も進化するだろうが、パートナーを求める目的が男女で違う。
男は快楽さえあれば完結するが、女は精神的、経済的な安定を求める
少子化は加速する
少子化対策で規制され性欲パンパンの若者が暴走、テロ、政変、ワクワクしかない
腎虚の特効薬持ってる製薬会社の株でも仕込んどくか、どこだよしらねぇ
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。
■ジム・ケラーって、CPU設計で実際どんなことをしてるのか?
日本語のネット界隈だと、ジム・ケラーでCPUを作っているような属人的な説明しかない。
ジム・ケラーのインタビューを読んでも、実際のところ、どういう設計作業をしているのか回答はない。
2点目は、実際、現代的なCPUを作るのにどういう作業をしているのか。
CPUの作り方について書籍はいくつかあるのは知っているが、オレオレCPUであり、市場での設計とは違ってるだろうというのは想像できる。
ジム・ケラーがRTLを書くかというと、そんなことは無い気がする。
アーキテクチャ図レベルだと属人的なことにはならない気がする。
現代のCPUは、いかにメモリーとのデータのやり取りを隠蔽するかは大事だが、こちらもジム・ケラーがするか?というとどうなのだろう。
セルライブラリの電流値と動作速度を見ながら、どこまでクロックを上げ許容電流値に収めるかをチューニングするのか?anond:20220622143458
日本語のネット界隈だと、ジム・ケラーでCPUを作っているような属人的な説明しかない。
ジム・ケラーのインタビューを読んでも、実際のところ、どういう設計作業をしているのか回答はない。
2点目は、実際、現代的なCPUを作るのにどういう作業をしているのか。
CPUの作り方について書籍はいくつかあるのは知っているが、オレオレCPUであり、市場での設計とは違ってるだろうというのは想像できる。
ジム・ケラーがRTLを書くかというと、そんなことは無い気がする。
アーキテクチャ図レベルだと属人的なことにはならない気がする。
現代のCPUは、いかにメモリーとのデータのやり取りを隠蔽するかは大事だが、こちらもジム・ケラーがするか?というとどうなのだろう。
国語の試験で点が取れないやつの特徴に「文章中に書いていないことを勝手に作り出す」があるそうだが、その典型だな。
Vtuberの可能性を閉じてしまった企業でもあると思う。バーチャルであるが故の人を超える可能性は、中の人ありきのペルソナタレントにしてしまった時点で消えてしまった。面白い人に時間を使うだけのサービスになった。
それに対して君が「かみ砕いた」ものが以下のとおり
「VTuberという語の可能性が閉じてしまった」というのは、詳しく言うとこうだ。
「今のVTuberのあり方に引っ張られて方向が定まってしまった。VTuberって言われたら、誰もが2Dのアバターをまず思い浮かべるだろ?もちろんそれ以外も思い浮かべるが、2Dのアバターを思い浮かべる確率は格段に高くなる。それはつまり、人の発想の幅がある程度狭まって方向がついてしまったということだ」
比較して見てもらえれば一目瞭然だが君はもともとのブコメの解釈を大きく間違えている。
元のブコメが「Vtuberの可能性を閉じてしまった」と表現しているのは「アバターと演じる人間が不可分の関係になってしまった結果Vtuberは属人的な魅力がメインのコンテンツになってしまった」
ということであってもっと単純に言うならそもそもブコメ書いてある通り
「バーチャルであるが故の人を超える可能性が消えた」ということだ
ここまではっきりと書いてあるものに解釈の余地などあるだろうか?
少なくとも君が言うような「Vtuberと聞いたら2Dアバターを思い浮かべるようになった」ということではないことは明らかだ。
そもそも元のブコメには2Dどころかアバターについての話は一切触れていない。
ましてや「2Dのアバターを思い浮かべる確率が高くなり、人の発想の幅がある程度狭まって方向がついてしまった」などという主張は元のブコメのどこからも読み取れない。
君は文章に書いていない内容を勝手に自分の頭で作り出している。この解釈の仕方は国語の試験なら0点だ。
当然の話だが君の頭の中で勝手に作られた解釈に基づいて反論されてた所でこちらには議論のしようもない。
くどいようだがもう一度言おう
元のブコメで主張されている「Vtuberの可能性」とは「人を超える可能性」のことであり
「Vtuberと聞いたときに思い浮かべるイメージが固定されてしまった」という話は元のブコメではしていない。
なんなら他のブコメもしていないし、反論している増田もしていないし、もちろん俺もしていない。
君だ。唐突に表れて2Dアバターの話をしてるのは君だけだ。誰だ君はちくわ大明神か。
これは以前に書いた内容の繰り返しになるが、そもそも書いてある文章の内容についてどうこう言うまでもなく「~しまった」とか「○○なだけ」と3度もネガティブな表現を使っている時点で
「否定してない」と評するのは無理があるだろう。文章の書き方でどう受け取られるのか、どう受け取るのか考えるのは文章表現の基本のキだ。
少なくとも俺は「閉じてしまった」「消えてしまった」「面白い人に時間を使うだけ」という表現を繰り返しているこの文がにじさんじに否定的でないとは受け取れない。
君の反論の多くがそもそも前提となる文章読解の時点で大きく食い違ってるし、そもそも俺の文章ですら正しく読めていない。
そんなことは一言も言っていない。もう一度言うが書いていないことを勝手に自分の頭で作るな。
前提の文章も正しく読めていないうえ、俺の文章ですら理解の怪しい所がある以上
議論がかみ合わないのも当然のことで、これ以上個別に反論したところで意味がないだろう。
君自身も全行に懇切丁寧に回答する必要はないといっているわけだし。
ただそれでも指摘したい点がまだある。
以下の俺の文章についてだ
多少なら調べればわかるレベルの話をそれもせずに書き込んでいるという話と
インターネットの匿名の人間が実際に何をしてるのかわからんというのを同列に扱って
ブーメラン乙とか言ってるのもさすがに恥ずかしすぎるぞ
「AとBを同列に語るな」という文章に対して「A」だけ切り取って反論しているのは呆れてしまう。
君は当初元ブコメも一部切り取って「否定していない」と主張していたが
君自身が文章の切り取りを批判しておいて度々このような行為を繰り返しているのは、誠実さの欠如なのか単に読解能力に原因があるのかはもう俺には分からない。
こんなところから話を始めないといけないのは脱力してしまうが、ここまで話がかみ合わないないようでは反論も何もないので仕方ない。
さすがにここまでレベルが低いとため息が出る。
管理職と後任が言うには、異動した前任の残したVBAの使い方がわからないこと(前任の引き継ぎ資料の不備)が原因という。
一方で前任の主張はこうだ。
「残業ゼロを達成したが評価されてないし、マニュアルを用意するするほどの時間的余裕は与えられていないのだから、管理職としてはマクロを不要と思っているのではないか。」
「マクロはマニュアル通りの手順を再現しているだけ。嫌なら手作業でやるなり、自分で作ればいい。」
管理職のディスコミュニケーション、不適切な人事評価による部下からの信頼低下が原因と思われる。
しかし、組織としては前任の引き継ぎ不足を責める状況に向かっている。
あまり高度な属人的なマクロを作られるのも困るが、ある程度、こういうことができる社員は増やして活用していくのが良いようにも思う。
ここで前任を処分すれば、今後はマクロを作らないとか、作っても隠匿して手作業でやってるふりをしたりとか、あるいは退職したりとか、そういう方向に働きそうな心配もある。
本当にそれでいいのか?
家事育児に協力しすぎた結果、妻が社会人的に無能になってしまったかもしれない。
なんか、子育て周りの増田記事があふれてて、ちょっと書きたくなった。
若干、年齢周りをぼやかしてるので、年数換算がおかしくなってるところがあるかも。
私も妻も40代。結婚もうすぐ20年。子どもは二人で下の子は中学生。
妻はもともと手に職系の仕事をしていて、僕と結婚前後は会社に勤めていた。ただ、この時期、景気や雇用環境の悪さもあって、正社員にはなれず契約や派遣の形態のほうが多く、収入は安定していなかった。
そんな感じだったこともあり、妻は妊娠を機にいったん仕事を辞めて家庭に入ることにした。
産前産後の体調があまり優れておらず、疲れやすくなっていたこともあり、おそらくこの判断は間違ってなかったと思われた。
子どもも保育園に入れるのではなく、幼稚園に入れて専業主婦として暮らすことに。とはいえ、別にお受験などに夫婦ともども興味はなく、学校はふつうの公立小学校だが。
下の子も小学校に入ってしばらくたち、ある程度余裕ができたため、妻は仕事の復帰に向けて準備を始めた。
最初は、復帰に向けた慣らしと新たなスキル取得のためにアルバイト的に仕事に入り、数年前に正社員登用に向けて就職活動をはじめ、エージェントも使って、いったん正社員登用もある契約の形で入社した。
しかし、最初のところで人間関係があわず、パワハラ的なことに遭遇し、1年程度、僕に毎日1時間程度の愚痴を言いながら働いた結果、仕事を辞めて転職することに。
ところが、次のところも上と人間関係の折り合いがつかず(どうも、間に10年くらいブランクがあるので、いわゆる年下上司になっているようだった)やはり、数か月、僕に愚痴を毎日1時間半程度吐き続けて、最終的に退職した。
そこから、さらに都合3社ほどに就職したものの、全部退職。しかも、就職からやめるまでにスパンが徐々に短くなっていて、一番直近は、試用期間が終わったところで、先方と話し合って退職してしまった。
おそらく、ここまでの間に私が彼女から聞き続けた愚痴はLINEで原稿用紙100枚分、ヒアリング時間で累計3か月分くらいになるのではないだろうか。まあ、それはどうでもいい話だが。
いずれも、基本的には人間関係の折り合い、特に上司や先輩との折り合いがつかないというパターンのようだ。これには、致し方ないところもある。彼女が出産前に仕事をしていた時代は、派遣や契約ばかりだった(団塊の世代でつっかえていて、人余りになっていた)のが、その後10数年の間に雇用環境が変わり、その期間に粘って仕事を続けていた人は正社員になり業務の中で上になっていった。つまり、今、正社員でいる人たちはサバイバーであり、スキル的にも10年以上磨き続けてきた人なのだから、ブランクがある妻とは仕事の仕方や仕事に対する認識に差が生じることもある。その一方で年齢は妻と同等か少し若いくらいがほとんどなので、上も妻も関係をうまく作るのが難しかったのかもしれない。業界に関する掲示板などを見ると、職人的な人が多く、パワハラに近いことをまかり通りやすい職場もあるらしい。
そういう意味で、妻は引きが悪かった、もしくは職場を見る目がなかったのかもと思い、毎度、愚痴を聞きながら(最長で2時間半となっていた)応援していたのだが、ある時、たまたま、妻の担当エージェントと話をする機会があった(妻の不在時に自宅に電話がかかってきた)かなり色々苦労もかけているので、申し訳ないと思いつつ、彼に軽く聞いてみた
「色々ご迷惑をおかけしておりますが、正直、なんでいつもこんなにトラブルに巻き込まれやすいんでしょうね、時期が悪いみたいなのもあるんですかね」
そうしたら、彼の返答が僕の想定外すぎるものだった。それは、社会人経験の長い自分からすると、あ、これ、職場での関係悪くなるわ、自分の職場にこういう人がいたら、ちょっと厳しいわ、というものだった。
彼の返答をそのまま書くわけにもいかないので、箇条書きで要点を書くと
・謝罪ができない
といったことがあるらしい。常に全部が発露するわけではないが、いずれか複数が発露することで、職場内でトラブルが生じるらしい。
その結果、妻の転職回数がどんどんと増えていくらしい。逆に言えば、エージェントさん本当に苦労かけてたんですね、よく妻に付き合って新しい仕事を持ってきてくれてましたね。俺だったらもう紹介できないと言って、数年前に見限ってましたわ。申し訳ない。
ただ、妻は出産前の仕事の仕方はこんな感じではなかったように思う。その時代の仕事仲間とは今も付き合いがあって、電話したり、コロナ前なら外で飲み会をしたり、今ならリモート飲みをしたりしている。ところが、出産後の職場では、まったくそういう友人はできていないようなのだ。多少付き合いがあるのは、仕事で直接の利害関係のない部署のみ。
で、なんとなく、思ったのは、育児中の僕の彼女への協力の仕方が悪かったせいで、そういう風になっていったのではないだろうかと思うのだ。
妻の愚痴の中には、明らかに上司に対してなめてかかってるところがあった。例えば「○○さんは、ずっとこの仕事しかやってきてないから、狭い世界しかしらなくて人への当たり方がきつすぎる」とか「××さんは独身だから、子どもがいる人が都合を振り回されることがわからない」とか…
あ、書いてみるとひどいなこれ。で、これをさすがに直接は言わないものの、そう見える態度や言い回しですることで、上長との関係が悪化することが少なくなかったようだ。
でも、こういうのを「そういう属人的な属性で否定するのは良くないと思う」とたしなめられなかった自分がいる。なんとなく妻のストレス発散を愚痴をきいてやることで解消できるなら、それでいいと思って聞き役に徹していた。
そもそも、妻がいわばママ友や隣近所くらいの世界で暮らさせず、もう少し早めに社会復帰させた方がよかったのではと思わなくもない。また、妻はステレオタイプへの偏見がどうも強いようで、「■■は□□でないといけない(orで当たり前)」みたいな言動をよくやるタイプで、子どもも最近(というかこの数年)辟易して疎ましく思うことがあったようなので、子どもとの関係もやや悪化気味なのもよくない。
例えば、有休のとり方は職場によって違う。2週間前に申請しないとならないところ、比較的緩く取れるところ、人員のメンバー調整は各人でやってから申告するところ、上長が調整するところ、、、 それを妻は割と緊急の用事とか体調不良とかで、他者に配慮なく消費するらしい。子どもの何とかとか理由をつけて。そのほか、仕事上のこまごまとしたルールに割とルーズだったらしい。
その辺も僕が割と家事・育児ができるのと、有休が仕事上取りやすい、リモートワークで調整がつけやすいといったことが増えたので、彼女が体調が悪かったり、仕事が忙しかったりしたときに僕が変わって家事や育児をやってしまっていたので、その辺の他者への配慮の仕方を忘れさせてしまったのかもしれない。(その割には、彼女、PTAとか全部断りに断りまくってたんだが)
これは10年程度のブランクがあったのでしかたないかもしれない。
職種を特定されたくないので、すごくぼかして書くと、AからDを作る場合、A→B→C→Dの手順が多いんだけど、Bはしなくても良くてA→C→Dのところも普通にある。Bは正確性を期すためには必要くらいの感じだが、やるとコストがあがるし、B→Cのロスが出るのでやらないところが多い。でも、職場によってはBをやらないとならなくて、Bをやってエビデンスを残すことが求められてるところもある。逆にBをやってはいけないと決めているところもある。
妻はこういうのを割と無視して、経験ノウハウとかに準じてやってしまうらしい。その結果、A→B→C→Dのところでは、Bが無いと怒られるのに、なんで、そんないらないものをやるんですかと逆切れしたりするらしい。そして、業界的に10年進んでいるのに、その間のスキルアップが追いついておらず、なんか、仕事のやり方が雑であまりよくならないみたいな評価になってしまうらしい。
これも、何気に自分の家事サポートの仕方に問題があったようにも思う。妻は割と説明書とかを読まないで使いながら覚えるタイプなので、新しい電化製品とかは僕がまず説明書を読みながら使い方を覚えて、それを妻に手取り足取り教えるみたいなやり方が多かった。それでも、覚えてくるとどこか使い方が適当になってくる。けれど、まあ、後で僕が戻したり治したりすればいいかというので、僕としてはそれについてどうこう言ったりしなかった。細かい話だが、シャンプーとリンスが切れたときに、両方を詰め替えたら、間違えてあべこべにいれてしまったので、僕が後から上にマジックでシャンプーのところにリンス、リンスのところにシャンプーと書いたこともある。こういう間違いをやっても、妻はあまり気にしない。逆に指摘すると、自分は忙しいんだとか自分はわかるからいいんだみたいな怒り方をする。なので、いつからか僕の方で間違いを指摘することはなくなって、淡々と治すようになっていった。
もしかしたら、これが一番よくないかもしれない。妻は仕事でわからないことがあると、人を呼びつけて尋ねるらしい。それを聞いて、正直、僕は引いた。おもわず、なんで?と声に出てしまった。
どうやら、手元で操作しながらわからないことが出たなら、そのまま教わりたいかららしいのだが、別の人は別の人で作業してるんですよね、それをなんで呼びつけるんですか? そりゃ、いくらやさしい先輩や上長でも何度もされたらむかつくわ。で、逆に先輩や上長が妻を呼びつけると明らかに「○○の作業を中断してるんですが…」みたいな不満を言ったり、言わなくても顔に出すらしい。ああ、ダメだわ。それ。
でも、それ、実は心当たりがあるんだ。産前産後の体調が芳しくなかったので、なんとなくその時期、妻が自分のところから動かないで、○○をして、××をとってみたいなお願いを聞いて僕から動き回るみたいなことをやっていたのが、今も続いているんだ。例えば、寝室のベッドにいて、居間にある何とかを持ってきてと言うのも、僕を寝室に呼びつけてお願いする感じ。僕がごはんを作ったときには、妻のところに呼びに行くけど、妻がご飯を作ったら、大声で出来たよーというだけで、その声が聞こえたのかどうかは特に気にしない感じ。子どもに対しても同じで、子どもの部屋にいって、何をしろとオーダーせずに呼びつけてオーダーする。たぶん、これが癖になってるんだろうなあ。良くない。
・謝罪ができない
そして、なんとなくわかってたんだけど、やっぱりかというのがこれ。自分に否があるときも彼女の場合、1割謝罪9割弁解みたいな感じなのだが、それが職場でもそうらしい。社会人の場合、逆のほうがいいんだよなあ。家庭だったらまあ、それでも何とかならなくもないんだが、そろそろ、子どもたちの信頼もさがってきてるから、どうにかしたい。
上記の要因を見ていくと、なんとなくこの10年程度の家庭での育て方みたいなのが、悪く表に出てきてるきがするんです。とはいえ、これを僕が普通に指摘するの妻は聞き入れなさそうなんだよなあ。
なにせ、妻の口癖は「増田くんは、私の業界の慣習やルールはわからないだろうから」なんだよ。なので、最初のころはいくつかそういう要因はないのかと尋ねてみたんだけど、聞く耳なかったんだよな。
はあ、どうしようかねえ。
とある研修の講師を担当することになり昨年の資料を確認しているのだが、あまりにも内容がひどくて頭を抱えている。
まず、思想が偏っている。熱い思いが詰まっているのはわかるが、平均値からはズレている。個人の感想を披露されても困るだろう。
それから、文章が独特で主張がわかりづらい。我慢強く推測して「こういう意味だろうか?」と光が見えた瞬間スッと消えていくような悪文。辞書にない言葉を合成するのもやめてほしい。
作成者が毎年同じ講義を担当するのであれば正直知ったこっちゃないのだが、毎年変わることが前提になっている状況での属人的な資料は最悪だと思う。
全部作り直したいところだけど、それでは角が立つのでなんとかソフトランディングを、そのためには意味を理解しなければ、とか気を遣っている間に疲弊。なんだこの仕事。
私がジャンルと言っているのは、そのジャンルの作品数が増えることである。(質問わず)
ジャンルに関わるクリエイターが多くなり、作品数が増えることそれがジャンルの繁栄である。
富、名声、地位という代表的なものを、クリエイター個人個人が手に入れることが出来ることがクリエイターの繁栄である。
この二つを双方といったのは、ある時のジャンルの繁栄とクリエイターの繁栄は対立関係にあるからだ。
ジャンルがある程度育っている場合は、ジャンルとクリエイターは対立関係になく、協力関係に近くなるが
クリエイターによる革命的な創造によって、ジャンルとして発生する可能性を秘めている時点は、対立的である。
つまり属人的であるとき、ジャンルがまだクリエイター個人のものであるときは、それをジャンルとして扱われること、非属人化されることに拒絶反応が出るだろう。
その時にはまだ、作風として、クリエイターのアイデンティティとして機能するのだ。
例えば、アニメというジャンルは誰かのものではないが、アニメ作品となれば、誰かのものになる。
まだアニメ作品は集団で作られるので、ジャンルとして扱われるのだろう。
芸人を見るとわかりやすい。彼らの漫才やコントはアイデンティティを確保する。
これを真似れば、パクリとして扱われるだろう。
しかし、こういった状態は、ジャンルの繁栄としては悪いと言える。
誰もジャンルに関われず、似た作品を作ることは、集団、本人などしか作ることが出来ないだろう。
どのように行うかというと、抽象化になる。
もし、この抽象化を、全体へ還元せずに作風、アイデンティティに還元するなら意味はない。
より大きなものへと、広げていき、出来れば属人化されていないところまで広げられれば良いだろう。
しかし、完全な対立関係ではなく、ジャンルを使用するもののところにもクリエイターがいなければ、そのジャンル終わってしまうだろう。
その時点では、ジャンルを使用するものたちのクリエイターの質は低い状態が望ましい、なぜかというと、さらなる分裂は避けたいからだ。
そして、ジャンルが繁栄し、数が増えたとき、それはアイデンティティではなく、より大きなものになるのだ。
こう考えたときに、一時的な対立関係を経ずにはできないかと考える。
・凄腕クリエイター
・抽象化を行う物書きたち(評論家や、批評家がこれにあたるのではないか、その中でも全体へ還元することを良しとする人、グループでなければならない)
・物書きを支持する人たち(未成熟クリエイターや柔軟な考え方ができる視聴者も含む)
・投稿場所(サイト、未成熟なジャンルが埋もれないような場所、すみわけができるような場所)
しかし一次的な対立を回避することが可能になって、より包括的な繁栄が可能になる。
つまり凄腕クリエイターが創造し、それを即非属人化し、ジャンル化し、ジャンルの繁栄に対してクリエイターにインセンティブが発生するようにできるだろう。
決してバカにするわけではないが、
飲食といってもピンキリで、一流料亭とチェーンのバイトでは天と地ほど違う。
しかし全体的な母集団として非常に民度が低いことは間違いない。
今までで一番驚いたのは、タイムカードを切って、いきなり賄いを3人分くらい食らう女子大生がいたことである。
他の10人くらいいるバイトの目の前でである。(まかないは業務後に余ったものを食うのがルール)
店長のお気に入りらしく、「ごめん、ごはん今日少ないかもな」とか言っているのが気持ち悪かった。
無言で3人分がっついているのも気色が悪かった。
このように、奇妙な人間が奇妙な集団として存在しても許されていて、
かつ、小集団で独裁化しやすい業界が飲食業である(非常に低レベルな世界だが)。
学習を重ねなかった人間の集まりであり、回復しようのない民度の低さがある。
「いやこれは変だろう」という発想になれない。戦前の農村部のようなものである。
教養にともなう宗教的知識もないため、共産主義的な、属人的・独裁的な退廃した世界が生じやすい。
「コミュニケーション能力は大事」とよくいわれるが、優れたリーダーがいる場合は不要だと気づいた。
リーダーがポンコツだった場合、部下の心が離れて行動に統率がなくなる。
その場合に、「業務とは別の」コミュニケーションが必要になる。
しかしそれは本質的に業務ではない、周縁コミュニケーションなのである。
たとえばだが業務範囲があいまいになるので、部下同士で確認しあう必要がある。
業務ルールが設定されていないので、属人的なルールの発生を許してしまう。
一方、統率が取れた組織は、整然業務をと行うためコミュニケーションは寡少となり、成果だけ増える傾向がある。
統率がとれない、つまりポンコツが手違いでリーダーになってしまった場合、人を動かす自信がないから、ルールを設定できない。
その結果、属人的な周縁のコミュニケーションが増え雑多な労力と時間が増える傾向がある。
つまりリーダーの器でない人間が年功序列でそうなってしまった場合、全員が不幸になるのである。
ポンコツがいる会社を辞めて優秀な人たちの集まる会社に転職して知ったことである。
もちろんそいつは前の会社の中でもベストにポンコツだったことは考慮する必要があるが。