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はてなキーワード: クラス替えとは

2022-02-25

男子ってあいさつしないよなanond:20220225123346

クラス替えでも入学式でも女子挨拶するのに。


近所の奥さんやオバちゃん挨拶するのに。

2021-12-30

ネットブート概要と端末を一元管理するメリット

ビジネス教育現場において、ときには1000台以上のパソコン端末を管理しなくてはならないケースがあります。この際、各端末を一元管理するために用いられるのが「ネットワークブート(=ネットブート)」です。

今回は、大学専門学校などの教育現場にも採用されることが多い一元管理システムネットワークブート」の概要と導入するメリットについて紹介します。

ネットワークブートNetwork Boot)とは

通常、コンピューター使用するためにはWindowsmacOSなどのオペレーティングシステムOS)を各端末に導入する必要があります。これに対して、情報処理ほとんどをサーバーで行い、ユーザー操作する端末自体の処理を必要最小限にする運用方法を「シンクライアント」といいます。「ネットワークブート」はシンクライアント方式の1種であり、構築したネットワークを通じて、サーバーからOSなどの情報を取得して起動するシステムのことです。原則ログイン情報を打ち込むだけでネットワーク内のどの端末からでも、アプリファイルなどの環境再現できるため、パソコン教室に設置するデスクトップパソコンなど不特定多数が使う環境に適しており、教育機関採用されやす理由の1つです。

ネットブートNet Boot)

ネットワークブートと同じ意味で使われることが多い「ネットブートNet Boot)」ですが、厳密にはネットブートmacOS機能の1つで、macOS Serverからの指示によって構築したネットワーク上のMacを起動・操作するシステムのことです。

この機能によって遠隔からソフトウェアインストールなども行えます

デスクトップ仮想化(VDI)型

ネットワークブート型と比較されることが多いシンクライアント方式の1つです。仮想環境作成したデスクトップ環境ネットワーク環境下の各端末に転送して操作する方法で、ネットワークブート型よりもカスタマイズ性が高いことが特長です。また、ネットワークブート型よりも少ないリソース運用可能である一方、サーバー上で処理しなければならないのでサーバーの負荷やライセンス料が増大する傾向があります

教育機関での利用においては、基本的に生徒は全員同じ環境で授業を受けたり、作業したりする可能性が高いため、VDI型の高いカスタマイズ性は必要ないケースが多く、ネットワークブート型が採用されることが多いです。

ネットワークブートメリット

シンクライアントソリューションであるネットワークブート」は、データなどをサーバー側で一元管理できるので、活用することでセキュリティ面や管理効率化などに大きなメリットを得られます

パフォーマンスが高い

端末側のCPUメモリで実行するので、導入したiMacなどの性能を十分に活用できますネットワーク環境PC台数が増えても、高速ブート可能なので高いパフォーマンスが期待できます

アプリケーションや周辺機器制限がない

インストールするアプリケーションや端末側で利用する周辺機器に、原則制限がなく使い勝手が良いのもネットワークブートメリットです。「ローカルディスクがないPC」という感覚で利用できます

管理が容易

詳細は導入先やシステムによって異なりますが、ネットワークブート運用管理システムを組み合わせて一元管理することで、各端末の状態簡単に把握できるほか、ログ採取サーバー設定・更新自動反映などが可能になります。これにより、少数の担当者でも運用管理が容易になるでしょう。

セキュリティの向上

近年、ネットブートが注目されている理由の1つが、セキュリティ性が高いことが挙げられます。各端末のデータサーバー管理するため、ユーザーが利用する端末にはデータは残りません。このため、データ流出などを未然に防ぐことができます

これらのメリットに加えて、教育現場ではクラス替えなどがあって従来とは違う端末を生徒が使うケースでも問題なく、同じ環境で利用することができるほか、必要台数分の有料アプリケーションなどを購入すれば良いので、全生徒分のライセンス料などを払わなくて良いといった特長もあります

ネットブート環境の構築は信頼性の高い業者

ネットブート環境を構築するためには、導入先の独自システムとの連携や構築方法をしっかりと把握して仕様書にまとめる必要があります。規模によっては検討から運用供給まで1~2年かかるケースもあるので、ネットブート環境の構築の豊富な実績と経験がある業者選びが重要になります三谷商事は1000台以上の大規模ネットブートを構築するなど、教育機関への導入実績を長年にわたって積み重ねています大学高等専門学校への導入事例をまとめているので興味のある方は確認してください。

※関連ページ:導入事例

 https://www.mitani-edu.jp/case

ニコイチだった女の失恋について

今朝の電車で泣きながらをスマホを見つめる女を見た方。

最近はそんなにまじまじと他人の様子を伺う人なんて少ないとは思いますが、

もしも驚かしたり、心配させてしまっていたらごめんなさい。

大きな失恋したことにあの時初めて気づいたんです。

職場では、病欠明けの同僚に声をかけましたし、ベテランさんに年内の仕事の内容も報告できました。

いつもより多少饒舌だったかもしれませんが、普通に過ごせました。

ここから先はよくある失恋した人間独白になりますが、読みたい人はどうぞ読んでいってください。

高校の時、ずっと一緒にいる二人組っていませんでしたか

ひとつグループに入ってはいるけど、その中でも特別仲がいい二人組。

私、それの片割れだったんです。

で、今回の失恋相手っていうのがその相方なんですよ。

の子とは高校出会ってどういう経緯があったかはもうすっかり忘れてしまいましたけど、

間違いなくお互いにお互いが一番仲のいい友達になりました。

クラス替えで別々になってもどうやっていたのかずっと一緒にいた記憶があります

大学も同じところの同じ学科に行きました。

サークルも同じところに入って、私が一人でいると彼女休みなのかと必ず聞かれました。

就職はさすがに別の会社でしたけど、新入社員の頃には同じものにどハマりしていたので毎週のようにあっては一日中遊んでいました。

今はというと昔のようにしょっちゅう遊ぶことはなくなりましたが、近所でそれぞれ一人暮らしをしています

私の方が後に一人暮らしを始めたので、彼女引っ越し祝いのケーキを買ってきてくれました。

私のリクエストチョコケーキだったんですけど、箱を開けてみたら抹茶ケーキでした。

絶対に好きな味のはずだからこっちにした!絶対こっちが美味しいと思う!と熱弁されました。

かにものすごく好きな味でした。抹茶だけでなく黒ゴマペーストが入っていてラズベリーソースもいいアクセントで。

彼女からプレゼントは大抵私の思考を読んだかのように正確なんです。

……こうして書き出してみるとやっぱり普通よりは仲がいいですよね。

失恋とは書きましたが、彼女恋愛感情を抱いたことはないんです。

私はヘテロですし。

でも彼女恋人ができるとその度に静かにひどく嫉妬しています

彼女はどちらかといえば恋人を優先するタイプなんですよ。

少し前に「友達彼氏嫉妬するのは、ぽっと出の男が大事友達を奪っていくから」みたいなツイートを見ました。

ああこのしんどい気持ちってそういうことだったんだなと少し納得ができた気がしていました。

でね、昨日なんですけどその子が遊びにきたんです。

仕事終わりにどっちかの家にふらっと行ってだらだら喋るというのが最近の遊び方になっているんです。

昨日はその子が「お土産を渡したいから」と来てたんです。

クリスマス旅行に行ったんですって。

少し前に婚活出会って付き合い始めたと言っていた男性と。

私は彼女旅行なんでしばらく行ってないななんて考えながら話を聞いていました。

じきに話題は変わっていき私が最近卵焼き器を買った話から実際に作ってみようということになりました。

お互いの家にある賞味期限が危ない卵を持ち寄って、どうやって作るんだ油を入れすぎじゃないかちゃんと通ってるのかとかわいわい言いながら作りました

卵焼きは素材の味が生かされていて改善余地ありといったできでしたが、綺麗な層になっていて見た目は大成功でした。

年末に新しい思い出ができたわー」と笑いながら二人で食べました。

でも、彼女が帰った後猛烈なむなしさに襲われて、食器も洗わないまま寝ました。

今日の朝起きて少しはマシになっていましたが、釈然としないまま出勤しました。

ずっとずっと考えていたのは彼女結婚についてで、今付き合っている人と結婚するんだろうかとか結婚したらもっと遊べなくなるなとか。

でも彼女はそれで幸せになろうとしているのだから、それを止める権利はないし。

彼女は奪われるんじゃなくて、自らその道を選ぶんだよな。

じゃあなんでこんなに悲しい気分なんだろうなと思っていました。

ほとんどの人が昨日には仕事納めだったのか、ガラガラ電車椅子に座った時に

昨日の卵焼きが頭に浮かんだんです。

ただ小さいフライパンで小さい卵焼きを一個作っただけだったのに、心の底から楽しくて。

私は彼女とこういう幸せを一生かけて積み上げていきたかったんだなと気づいたんです。

もちろん友達でもそんなことこれからもたくさんできるとわかっているんです。

でも彼女結婚を望んでいるし、子どもが好きで欲しいと思っているとこも知っているんです。

他の既婚の友達を見ればわかります彼女の望みが叶えばどうなるかなんて。

叶わなければいいなんて、少し頭をかすめたけど本気では思いません。

幸せになって欲しいなとは本気で思います

これって失恋って言葉できっとあってますよね?

そんな訳で私は年の瀬電車でさめざめと泣いていたのです。

こうして文字にしてかなり頭がクリアになった気がします。

こんなバラバラ文章最後まで読んでくれた人がいたらありがとうございます

そういえば貰ったお土産オランジェットでした。

オレンジの皮をチョコレートで包んだお菓子

私これ嫌いなんですよね。

おわり

2021-11-28

スキップローファー読んで死にそう

Kindleで一巻無料だったら読んでみたんだけど、なんかもうこんな高校生活したかったっていうコンプ刺されまくりしんどい。つらい。

先に書いておくけど漫画内容自体はすごくいい。

自分高校入学時、カースト底辺のブスで、あんなふうに陽キャ隠キャまざって映画見たりカフェ行ったりカラオケ行ったりとかなかった。平日も土日も、同級生遊んだ記憶ほとんどない。部活動入ったあとかろうじて友人ができてなんとかなったけど、最初クラス内での人間関係構築は全然うまくできなくて、クラス替えまでの一年間非常にしんどかった。

漫画、生々しすぎてしんどいクラストップの美男美女はわりと分け隔てないんだよね、ブスや隠キャにも。そのすぐ下あたりの、顔は普通だけどおしゃれで気が強い子たち、あの層はあからさまに馬鹿にしたり無視してきたり。

漫画漫画から、隠キャ女子クラス一の美女友達になったり、芋女子がクラス一のイケメンに好かれたりするけどさ、現実はそうはならないじゃん。なんかあっったりまえのことなのに、久しぶりに漫画読んだのもあって妙にダメージを受けてしまった。

大人になった今の生活いくらよくなっても、思春期の頃のコンプレックスが忘れられない。

何度も書くが漫画めっちゃよかったです。続きも買うと思う。おすすめ

2021-11-22

自分人生の振り返り

から転勤族だった

幼稚園でも小学校でも周りと馴染めず馴染む前に引越しを繰り返した

先生相談したら泣きわめいて虐めてきた生徒に叱ってくれた

田舎生活が長かったせいか「訛りが酷くて何話してるかわからないww」と影で言われたのは覚えてる

中学に入っても虐められた

エイリアン」と酷いあだ名をつけられた

中学校はその県の公立の中ではかなり頭が良く進学校へ進む人が多かったせいか、成績が悪かったこともいじめの原因だったかもしれない

いつも陰口ばかり言われて、除け者扱いにされて本当に辛かった

虐めてきたやつの本名を書きたいぐらい

だが2年生になってクラス替えがあってから私と仲良くしてくれる友達(というのも失礼な話だが)が増えて、ようやく周りと馴染むことができた

中2、中3、高校大学全てが楽しかった

こうして楽しく過ごせたのは周りのおかげ

いじめられて引きこもりになる気持ちもわかるし、私と仲良かった小学生友達中学の時もっと酷いいじめを受けて精神科に今通ってる

心を酷いやつらに破壊される前に逃げるのは本当に大事

2021-11-07

知らない同級生行方不明になった

高校時代の友人から連絡があった。かつて自分と同じクラスだった同級生行方不明になっているらしい。

自分にはまったく心当たりが無かった。同級生所在についてではなく、そんな同級生自分クラスにいたという話に。通っていた高校は元女子校で、自分入学する少し前に共学化したのでクラスにいる男子生徒は自分も含め数人しかおらず、3年間クラス替えも無かった。だからどんなに印象が薄かったとしても忘れるはずがない。

教えられたその同級生名前Facebook検索したところ、それらしき人はいた。年齢が同じで学校学科も同じ。普通に毎日近況を更新していた。行方不明という感じでもない。

意味が分からない。

2021-09-24

辛いことがあったとき解決方法

「苦しいことを考えなくて済むように気分転換する」、みたいな「とりあえず忘れる」方式では全然解決しなくて、結局は原因がある人や環境強制的バイバイしないと解決できないんだよね…。

ということが経験でわかってきた。

嫌な原因の真っただ中にいる状態で「気の持ちようでどうにかなる」と言われても絶対無理

学校だったらクラス替え卒業、転校、会社だったら異動、転勤、転職みたいに今いるところから逃げないと解決しないから、逃げる決意を持つことが重要だと思う。

2021-07-19

anond:20210719234210

そういうとこもあるんやろな

俺の場合地元公立中学地元公立高校進学コース(3年間クラス替えなし)だったが、中学ではイジメ普通にあったが高校では全くなかったな、不思議

クラスヒエラルキートップムードメイカー自分を下げて笑い取る奴だったからかもしれんな

2021-07-16

初恋が終わった話

好きだと気づいたのはクラス替えの後だった。

小学5年生でクラス替えをした時、アヤトくんとクラスが離れ離れになってひどく落ち込んだ。

そこでわたしはアヤトくんのことが好きだったんだと自覚した。

特にかかわりのないまま夏を迎え、校外学習に行く準備が始まった。もう10年以上も前のことなので記憶曖昧だが、なぜかご飯時間に私の班だけがアヤトくんのクラスと合同でグループを組むことになって、たまたまアヤトくんと同じグループになれた。

一緒にカレーを作ってる写真卒アルに載っているので卒業後もたまに見返したりしてた。

放課後に通っていた書道教室が一緒だったので、たまに書道教室で会うことが密かな楽しみだった。

5年生の時はそれくらいしか思い出はなく、ひっそりと思いを抱えたまま6年生になった。

6年生になると、またアヤトくんと同じクラスになれた。毎日楽しくて、勉強なんか身に入らずアヤトくんだけをみていたし、2日間会えなくなるから金曜日が大嫌いだった。

告白も何も出来ないまま時間けが過ぎていった。

そもそも、付き合うことの意味も分かっていなかったわたしは、気持ちをどこに向ければいいのかもよく分かっていなかった。

それでもアヤトくんの優しさに触れる度に好きでどうしようもなくなっていた。

私は漢字ドリル計算ドリルを進めるのが好きだったのでみんなより早く1周して、勝手に2周目を進めていた。そんな時、アヤトくんも同じく2周目に進んでいることが分かって、なんとなく、どっちが先に2周目終わるか勝負ね!なんて言って幼いながらも接点を増やしていった。

ほとんど同じくらいのペースで2周目がおわって、私たちドリル3周目を迎えた。もはやドリルへの執着ではなくアヤトくんへの執着だった。

3周目がおわるころに、担任が私とアヤトくんの異常なスピードに気づいて、クラスメイトの前で褒めてくれた。どっちが先に3週目終わるかな?と先生が言ってくれて、先に終わったら金ピカのシールをくれると言った。金ピカのシールなんて別に興味がなかったけど私とアヤトくんだけの特別勝負が公になって嬉し恥ずかしの気分だった。

もうすぐ3周目がおわるころ、アヤトくんはなぜかスピードを落としてしまった。そして私は先に3周目を終えて金ピカのシールをもらった。

何も言ってなかったけどアヤトくんはわざと負けてくれたんだと思う。その優しさでまた心がぎゅっとなった。

アヤトくんはこんなに優しいから、結構人気な男の子だった。クラスメイトの中には他にもアヤトくんのことを好きな子がいた。

の子は、3年生の時に理科でアヤトくんが作ったモーターカーを間違えて踏んで壊してしまったらしい。小学生にとって、自分作品を壊されたら阿鼻叫喚してもおかしくないが、彼は笑って許してくれたらしい。それで好きになってしまったと話を聞いた時、私もまた好きが大きくなってしまった。

そうこうして卒業の時期を迎えた。中学も同じなので特別寂しさはなかったが、アヤトくんと1番近くで話せたのはこの時期が最後だった。

3月11日卒業式が間近に迫った寒い日だった。

帰る準備をしてる頃、視界が揺れた。

人生で初めて経験した大地震だった。

花瓶も、窓ガラスもわれ、ガタガタと物音が落ちる音とみんなの叫び声が響いてこわくてこわくて仕方なかった。

揺れが落ち着いてグラウンド避難する時、怖くて立ち上がれなかった私に、アヤトくんは手を差し伸べてくれて一緒に歩いてくれた。

この日がアヤトくんの一番近くに居れた日だった。

卒業して、中学生になった。

サッカー少年だったアヤトくんはなぜか帰宅部になっていた。帰宅部の怖そうな友達とつるむようになったアヤトくんをみてなぜか寂しくなった。

ほんとはアヤトくんめちゃくちゃサッカー上手いのに、なんでってずっと思ってたけど聞く勇気はなかった。

クラスも遠くて接点もなかった。しばらくして放課後にアヤトくんのクラスに用があって行ったら、アヤトくんは髪を伸ばしてチャラくなっていた。そしてリュックにはピンクのよく分からないキャラクターキーホルダーを着けていた。その隣に全く同じキーホルダーを着けている女の子がいて心臓がばくばくした。

一瞬で彼女だと悟った。

中学から一緒になった、出会ってそんなに時間もたってない子にいとも簡単に取られてしまうことを初めて学んだ。思いの長さは強さじゃないんだと知ってどん底に落ちた。

この彼女は私とアヤトくんがドリル競争を繰り広げてたことなんてなんも知らないのに、もう彼女になれてるんだ、ってよく分からない嫉妬をした。

結局アヤトくんへの気持ちを諦められないまま中2になった。アヤトくんは彼女と別れたらしい。

それでも自分から告白する勇気はなかった。

ずっと好きだと思いながら何も言えず、冬になった。

バレンタインを渡そうとして渡せなくてゴミ箱に捨てたのも確か中2の冬だった気がする。

同じ頃、修学旅行で隣の部屋で恋バナしてるからおいでと言われてるんるんで向かうと、ギャル女の子がベッドの上で楽しそうに話をしていた。

「それでー、ちゅープリ撮ったの!」

そう言ってギャルは顔を赤くしていた。

キスなんてしたことない私は、ギャル大人に見えて仕方なかった。その後まもなくしてちゅープリを見せてもらうとアヤトくんが映っていた。

その後の記憶はほぼない。帰りのバスは心が虚無だった。もうあの頃のアヤトくんはいないんだとわかって、それなのに自分はあの頃で止まっているのが悲しかった。

中3になると塾が忙しくなって、次第にアヤトくんのことを考える時間はほぼ無くなっていった。

アヤトくんの志望校すらも知らなかった。

でも、6年生の時にあれだけドリル一生懸命やってたんだから勉強は嫌いじゃないだろうしそれなりの高校に行くんだろうなあと思っていた。

卒業間近に、アヤトくんが市内のバカ高に進むと知って、ああそうか、と思った。

もう何もかも変わってしまったんだと思った。

高校に入って、私は別の人を好きになった。

アヤトくんのことはもう頭の片隅にもなかった。

時は経って、

18歳になるころ、アヤトくんはデキ婚した。

大学には行かず、就職して養っていくらしい。

もうずっと別の世界人間になっていた。

アヤトくんがパパか。そう思ったものの羨ましいの感情特になかった。

私は都内大学に通い、それなりに自分生活を楽しんでいた。成人式でアヤトくんに再会すると「俺の事覚えてないよね〜?」と声をかけられた。いや、覚えてるよ!と話して、今私は大学に行ってるよ、と話したら別の世界にいる人を見るような目で「すげ〜な!しっかりしてるんだな」と言われた。

それからまた時が経った。

アヤトくんは離婚したらしい。

ふーんくらいにしか思っていなかったが、意外なところでまた再開する。

出会いがなくマッチングアプリインストールして適当スワイプしていると、アヤトくんがいた。

同い年なはずなのにすっかりおじさんになったアヤトくんの姿があった。

子供もいるし結婚歴もあるのに、結婚歴も子供がいることも隠したプロフィールになっていて心底引いた。

わたしはこんなおじさんが好きだったんだと思うとどうしようも無い気持ちにおいやられた。

2021-07-10

キレる男の方が女に安心感を与えるのかも知れない

俺が子供の頃はとにかくキレやすかった。

クラス替えとか習い事とか新しいコミュニティに入って少しするとキレることがよくあった。

キレた理由はよく覚えてないが、とにかくキレて泣いて暴れたりした。

ちなみに俺はどっちかと言えば陽気なタイプで虐められていたとかは無い。

今思い返してみるとキレた後の方が、周りの人と打ち解けることが多かったと思う。

特に女子が話しかけてくるようになった、気を使われてるとかではなく冗談を言ったり友好的になったというか…

こっから先は俺の勝手解釈だけど、俺がキレたことで

・「キレて出てきたこつの本音がこれか」と本心理解してもらえた。

・「こいつがキレるとこうなるのか」という感情の底に対する理解が生まれた事で安心した。

・「公然とキレたこいつなら自分ヒステリーへの理解者になる」という保険を得た。

みたいな事になったんだと思う。

世間的にはキレる男サイテーみたいなのはあったりするけど、それは完璧な男をを求めた場合の減点要素であって

現実の不完全な人間同士の関係では、むしろ適度にキレる奴のほうが良いんだろうね。

オタクとか基本キレないから何考えてるか分からんもの

2021-05-22

学生の時のクラス替え発表ってどういう風だった?

もうン十年前のことで、びっくりする程綺麗に忘れてしまった……

マンガとかでよくある貼り出し方式ではなかったことは覚えてるのだが…

呼び出し方式だったような…成績みたいに小さく切った紙で配られたような……

増田たちはどうだった?

2021-04-28

狂気が足りなかった母

https://topisyu.hatenablog.com/entry/2021/04/28/073000

さんざん学校見学説明会文化祭連れてったけど、うちの子ダメだったな。

①晴れた日に、②子ども趣味・特技に強い学校説明会文化祭に連れてったよ?

でも彼の趣味学校外でやることだし、自分のペースでやりたいから、学校内でみんなとやる意味を見出せないようだった。

地元公立中のボロ校舎にも入ったことあるけど、私立きれいな校舎とか設備とかどうでもいいって感じだった。

クラスメイトと違う中学行きたいって動機で始めたけど、学年上がってクラス替えあってそんな気もなくなったみたい。

から受験させるの諦めた。私が。「憧れの志望校」もないのにハード勉強乗りきれんわ。

6年進学時に意向確認したら、趣味止める気ないし、止めてまで勉強したくないっていうし。

受験しなくても高校受験あるし、あんたは公立で内申取るの大変そうだけど覚悟あんの?って聞いたけど、まあピンとこないわね。

夫も私も私立一貫校出身で、一貫校の良さ有利さは身にしみて実感してるから、まあホント諦めきれんとこあったけど仕方ない。

今はとりあえず楽しそうに公立通ってるが、どうなることかねー。

2021-04-25

不登校が長期化する家ってあるよね

いじめとかが分かりやすいけど、いじめけが原因だと長期化しないんだよな。

転校とかクラス替えであっさり解決する。

 

けど長期化する家って不登校きっかけにその家の問題露出するわけ。

夫婦関係、親子関係問題

見過ごしてきた問題

それまではギリギリバランスで成り立ってたモノが崩れるんだよね。

問題はずっと以前からあって不登校はそれが最初に表面化しただけでしょ。

から不登校だけ何とかしようとしても無理な話なんだよな。

本質家庭内にあるわけだからね。

 

不登校ひきこもりが長期化したときって子供だけに問題があるわけじゃないよ。

それ家族問題が、不登校ひきこもりって形で出てるだけだからね。

何とかしたかったら閉塞した家庭に第三者を入れて問題点を整理したほうがいいだろうな。

まあそれが難しいか問題なんだけどね。

2021-04-23

子供の頃の双子兄弟は、今どこで何をしているんだろうか。

ふと、生まれ故郷の事を思い出し、最近コロナとかで帰れていないかグーグルマップ散歩してみたんだ。

小学校の頃に仲の良かった双子がいた。一緒に遊んだゲームをしたり。

二人とも見分けがつかないくらそっくり

低学年の頃は良く遊んでいたんだけれど、クラス替えなんかで友達も変化したこともあって高学年になると疎遠になっていた。

中学生の頃かな。片方がいじめに遭っていた。そして不登校になった。

つの間にかもう片方も不登校で結局中学校卒業式には二人とも現れなかった。

両方おとなしい性格で、成績優秀でもスポーツが得意でもないいわゆる陰キャ的な雰囲気だったが、いじめとはそんな些細なことから始まる。

何処に進学したのか、それ以降は音沙汰もない。

高校ぐらいの時に自転車に乗る双子の片方を見たのが最後だ。

ぼさぼさ頭で肩まで髪が伸び、グレーのスウェット上下を着ていた。なぜか記憶に残っている一場面。

声もかけずにただすれ違っただけだった。こちらの事に気が付いていたのかは分からない。

グーグルマップ散歩子供の頃に良く遊びに出かけていた双子の家の前まで行ってみると、荒れ果てた家だけが残されていた。

撮影日は2013年12月

表札も外され庭には枯草だらけ。プロパンのガス管が外されていたこから空家になっているんだろう。

子供の頃の双子兄弟は、今どこで何をしているんだろうか。

ふと思い出したことを書き残しておこうと思う。

2021-04-05

anond:20210405162222

本当に大変でしたね。お疲れさまでした。

つーか、一人に押し付けるのは完全に学校側の怠慢だろう。3年クラス替えないなら、せめて1月ローテとかにしろ

高校車椅子生徒の補助係をしていた話

JR車椅子乗車拒否記事を見て、内容的にはあまり関係ないが思うことがあった。

私が入学した高校の1年生のクラス、出席番号後ろの子車椅子ユーザーだった。先生からはその子身体障害についての説明と、高校生活での関わり方をクラス全員に話された。

の子にはヘルパーさんが付いており着替えやトイレの補助はヘルパーさんがしてくれる。だか常にヘルパーさんがいる訳ではなく、移動教室などは生徒が手伝う必要があった。

入学して1週間後、クラス内のグループもある程度できた頃、先生に移動教室の補助を手伝うよう言われた。出席番号が前後で授業で関わることも多かったからだろう。グループ友達2人も着いてきてくれて、4人で話しながら移動教室へと向かった。

それから自然ヘルパーさんのいない時の手伝い=私となった。最初のうちは嫌でもなく、むしろ他の生徒とは違う選ばれた私、のように愚かに優越感を抱いたりしていた。しかし、それも1ヶ月、2ヶ月、半年と続いていくと次第に疲れというか面倒くささが湧いてくるようになった。初めは一緒に居てくれた友達も、「先行っとくね」と言うようになった。移動教室にはエレベーターを使うのだが、東棟の奥にしかないため移動に時間がかかるのだ。予習や課題を授業前に慌ててするタイプ友達にとっては煩わしい時間だっただろう。もちろん私だってそういった時間が欲しかったが、他の子に頼もうにも厄介者押し付けるようで気まずかった。その子は私以外にあまり話す人がいなかったのも一因ではあるが。

担任との面談の機会も何回かあったが、その子の補助係については何も触れられなかった。大変だね、ともいつもありがとう、とも。逆にそう言う事でその子差別している事になると思ったのだろうか。そういえば担任は、健常者が障害者を補うことが当たり前になって欲しいと入学当初語っていた。私がその子の補助をすることを、喜んでまでとはいかないが、まさか嫌がっては無いだろうと思っていたのだろう。面談で補助係嫌です。疲れました。と言えたらよかった。言えなかった。言ったら差別になるから?不親切不道徳?わからないけど、他者から評価は悪くなるだろうという事は悪い頭なりに理解していた。別の日に、周りの子に手伝い大変だね、と言われたことがあった。そこでもそうなの!本当はやりたくないのに押し付けられてるの!と言ってはいけないこともわかっていた。愚痴る事すら憚られた。相手社会的弱者でこっちは強者から

私の高校は3年間クラス替えが無かったので、結局私の補助係は3年続いた。

文化祭で、3年生は体育館で出し物をするという伝統があった。私たちクラスダンスがしたいという話になった。しかし、出し物は全員参加のため、ダンスだと車椅子の子が参加出来ないという事で却下され、結局舞台劇をする事になった。

これには本人も申し訳なさそうにしていた。決してその子存在が悪いんじゃない。けれど、結果としてその子クラス足枷になってしまった。

だって移動教室の前に購買に駆け込んでパンを買いたかった。友達とだらだら話しながら歩きたかった。小テスト勉強をしたかった。高校のこともその子のことも嫌いではないが、どうしても私は3年間"貧乏くじ"を引かされたような気がしてならない。きっとその"貧乏くじ"を引くのは誰でもよかった。健常者なら。それが今の社会である

最近社会が"差別"に非常に敏感になっていると感じる。障害差別性差別人種差別etc 弱者側に目を向けるのはいい事だと思う。差別を無くそうとするのも。けれど、その差別に敏感になるあまり、"強者側"の権利が虐げられるのはどうなんだろうか。

(自分の書いた文を読んで思ったが、1番差別に囚われてたのは私かもしれない。思い切って補助係を断ってもよかったのかも。てへ)

追記 4/6

沢山の反応があってびっくりしてます。私は障害者の否定差別がしたいわけじゃないです。ただ高校でこの様な経験があって、障害者の存在を疎ましく感じてしまたことも事実で、これ以上このような出来事が増えないといいなと思っています綺麗事じゃない、経験した人にしかからないことを伝えたくて書きました。今思うと高校かなりクソだな。学校のあり方社会のあり方個々人の意識を変えてかなくちゃならないよね〜〜

一つ訂正すると、その子は一応自分でも車椅子は漕げました。けど万一こけた時とかの為に誰かが傍にいる必要があったんです。坂道や段差もあるし。実際その子が漕ぐのと私が押すのは半々くらいだったかな、これについては私の書き方が悪かったです。その子が漕いでる時は周りからしたらよくある友達同士の移動中の風景に見えたかもね。。。

2021-03-21

学校

席替えしょっちゅうあるのにクラス替えが年に1回、学年が上がる時にしかないのってなんでやろな。

月1くらいでクラス替えしたエエやん。

2021-03-08

小学生の時にいじめられた経験を振り返ってみると

俺が通った小学校は誰も彼もが、学年をこえていじめいじめられるがある超荒れたところだった。

そしに赴任してきた、熱血教師ではないがいじめ偏見を許さなタイプ教師が隣のクラス担任になって学級崩壊を止めようとあれこれ言ったり対策したところで、学年関係なくスクールカーストがあるような学校通用する筈がなかった。

ある時学年の保護者向けの月報で、この学校には互いを認め合う力が弱いように感じます。人を認めるのは親と子が認め合うことからまります。もう一度親子や家族関係を考えてみて下さい。子は大人を見て成長します。と、今でいう多様性みたいなことを書いたら、PTA

私たち問題があるというのか!!」

激怒しちゃって、その先生を囲んでの話し合いと言う名の吊し上げをした。

子も子なら親も親だけど、今だって子の問題の根源には親の態度や振る舞いがあると指摘したら狂う親は沢山いると思う。

あと小さいネタ2つ。

俺を増田菌!呼んで、寄らない触らない、俺に暴力を振るうのには上履きや靴で蹴ったりボールを投げつけたりしてくるのが、コロナ対策にすごく几帳面なことに反映されてるなと去年感じた。

あと、入学式転校生が来たりクラス替えがあった時とか俺がいじめられてることを知らない奴が出た時。

前々からいじめてる奴がそういう奴に凄くフランク

「やあ!君も増田を殺そう友の会に入らないかい?」

と呼びかけて、言われた側は最初はキョトンとしてるけど、呼んだ奴が親切とか優しくしていくにつれて俺に侮蔑するような目で見て最後には蹴り飛ばすようになるの、あれは完全にカルト洗脳の手口だわ。

2021-02-19

インターネットはいじめっ子アピールが多くてうんざりする

小学一年生の頃、いじめをうけた。まぁ無視されたり指さされて笑われたり帰り道に蹴られたりしたぐらい。

母親に言い出せずどんどん内向的になって、結局祖母にバレて母親学校へ殴り込み、みたいな感じでモメにモメて引っ越しと転校になったが、

中学生になる際にその小学校の子らと中学が同じになって、当時のクラスメイトたちと再会した。

が、その時僕はいじめられなかった。

僕がいじめられた理由は多分なんかのきっかけで教室内で「いじめてもいいやつ」になってしまったのであって、

特にひどく僕が誰かを傷つけたとか貶めたとかいうことではなかったのだろうなと思う。教師も一緒になって僕を笑い者にしていたので、あの教室内においてそういう係の時期だったのだ。いじめられ係である

中学で再会した元クラスメイトたちはいじめをする子も残っていればいじめなんてダメだよという子もおり、いじめられる側になっている子もおり(というのは僕の主観だが。毎日挨拶代わりに後頭部を叩かれるのはいじめだと思う。叩き合うならまぁわかるが、一方的毎日叩かれるのはいじめじゃないか?)、人は変わるもんだなぁというのといじめられるやつってくじびきっぽいなぁと変に関心した。

僕は逃げ出した側だが、逃げなかったいじめられっ子たちは中学3年間いじめられて過ごしていた。クラス替えいじめられっ子じゃなくなった子もいたが、まぁたいていどこのクラスにも1人か2人、『多少殴ったり罵倒してもいい子』がいて、曖昧に笑ったりしながらすごしていた。

社会に出ても感覚はあまり変わらず、だいたい1グループに1人くらいバカにされたり叩かれたりしてもいい人がいて、率先してそれをやってみせるボス?というか主導者みたいなのがいて、その周りの人は忌避したりしつつも曖昧にそのいじめられ係の人を下に置くので、僕も曖昧に笑ったり、いじめられ係にされそうになったらグループを移動するなりしてのらりくらりやってきた。

幸いコロナリモートになったので、あんまりそういうシーンを見ず済む生活に移行できており安心していたのだが、インターネットを見ていてもやっぱりいじめられ係は存在するのだなと思う。

現実でのいじめられ係と違って、インターネットいじめられ係は1ヶ月位で変わる。誰それがいらんことを言ったとか、誰それがあくどいことをしたとかで、ガチ犯罪者(というと変な感じだが)がいじめられ係になるのはあんまりなくて、うっかり失言した人とかが『あいつは前々から最低だった』みたいなテンションでまさに燃え上がるかのようにいじめられ係になる。

いや、失言したのは当人なので、まっとうに怒られるのは怒られるべきだとは思うのだ。ただ、そんな全日本学級委員長選抜東京大会みたいにお説教係が列を為して順繰り同じような説教を送る必要はなかろうし(最初の5人くらいに同じように叱られれば十分ではないか)、全米罵倒チャンピオンカップみたいに侮蔑をぶつけにいかんでもよかろうに。

Clubhouseで小木さんがいじめられ係に着任して物議を醸したりしているが、いじめ係になった人らも幼少時は男子からの失礼な言動からかいによっていじめられ係を担当していた時期もあるのだろうし、

彼女らが今回やったいじめ(のように僕からは見える振る舞い)は怒られたほうが良いとは思うが、それは別にインターネットユーザーで囲んで叩くようなことをする必要もない。別に僕も彼女らに対して言うこともない。

僕がいじめられ係だったときはいじめ係を怒らなきゃいけない教師まで一緒くたになってしまったので教師に親が怒りに行く結果になったが、

本当は教師が怒ってストップしてくれればそれでよくて、僕だっていじめの子らが学区中の大人から怒られていたら流石に「そこまでひどいことはされてない」とか言い出したと思う。

ただ、いじめられ係に新しく着任した担当者を見つけると「自分はこのいじめられ係に対してはいじめ係です」と表明するためにいじめに加担してみせる必要があると思っている人は結構いるらしく、

新規いじめられ係を見つけやすくなった今の世の中はどこそこでそういう表明が行われている。

いじめを助けるのも大変なので、助けてやれとは思わんものの、いじめ係でもいじめられ係でもありませんとそっぽ向いておいてくれるだけでも、いじめられ係としては少し助かるんだけどなぁと思った金曜の夜でした。

2020-10-27

anond:20201026003439

増田の思う恵まれ環境で私は生まれ

23区外ではあるものの、東京都内実家がある。

大手中学受験塾に通って中学受験をして某難関中高に進学、その後某地方国立大学医学部に進学した。

自分実家のある東京都郊外→中高のある山手線の内側→大学のある地方都市と移ってきて、増田の感じているような格差を多少は感じてきた。地方都市は、23区外はあまりにも軽視されていると憤りを感じたこともあった。もちろん増田はそういった格差を私とは比較にならないぐらいずっと切実に感じていると思う。増田気持ちが分かると言うことはとても私にはできない。

私は恵まれ環境で得たものは多かったが、失ったものも多かったと思っている。

通っていた中学受験塾はスパルタ指導で、問題が解けないと講師が物を投げたり大声で怒鳴り散らすことは日常茶飯事。おまけにクラス替えの熾烈な競争に晒されて精神を病んでしまう人がたくさんいた。

かくいう私の弟も中学受験塾に通って、講師からも親からも怒鳴られながら一生懸命勉強したにもかかわらず中学受験に失敗してしまい、それ以来自己肯定感を完全に失ってしまっている。母親所謂ママ友からマウントを取られたり、良かれと思ってした中学受験で弟が完全に自己肯定感を失ってしまたことへの自責の念から精神的に不調になってしまった。その後更年期に入ったこともあって未だに本調子とはいえない。

中高の同級生には親から教育虐待のようなことをされている人が相当数いて、宿題をやらなくて頭から牛乳をかけられた、問題集を引き裂かれたなどという凄惨な話をよく聞いた。自傷癖がある人、不登校になってしまう人、摂食障害の人も少なくなかった。

私自身、自分は恵まれ環境で育ったのに地方国立大学医学部しか入れなかった価値のない無能人間だという思い込みに囚われている。一時期精神的に不安定になってしまたこともあった。

まれるということは十字架を背負うことでもある。

人の2倍恵まれ人間は人の2倍優れた人間になってようやく一人前である

それに、そこまで辛い思いをしながら勉強しても、テストで良い点をとっても、神になれるわけでもなく、結局みんな生まれて生きてただ死んでいく。

1つものを得ると必ず1つものを失う。恵まれ人間というのは同じぐらい失っているのではないかと私は思う。

2020-10-24

これって?

洗濯物は溜めて家の床に山のよう溜まる

公共料金は滞納して当然で電気ガス水道は止められてからコンビニへ支払いにいく

確定申告医療控除は基本放置

GOTOキャンペーンの予約自体が面倒なので旅行食事行きたくない

メールLINE放置して山のように未読がある

財布の中にくしゃくしゃのレシートと小銭でパンパンである

漫画を買うも同じ巻数の漫画を買ってしま

会話が独特だと言われる

学生時代クラス替え初見の人に支援学級の人かと思っていたと言われる

約束事、締め切り提出を守れない

試験は何時間も取り組むが点数が悪い、不良の方が自分より良い点を取ってたりする

通帳の残高は確認しない

部屋は散らかっている

これが増田普通だよな?

2020-10-14

過敏性腸症候群死ぬほど辛い

高校二年のクラス替え過敏性腸症候群になった。

お腹が空いてないのにお腹がぎゅう〜〜〜という。

中高生にとって腹鳴は致命的に恥ずかしいことなので、朝ご飯を増やしたりこっそり飴をなめたがどうも空腹が原因ではないと気がつき、病院へ行った。

その時は薬もすぐ効いたし、クラスメイトとの相性もよく緊張がほぐれて2ヶ月程度でだいぶよくなった。

社会人になって数年、20代後半の時に思いっきり再発した。

当時婚約破棄仕事ストレスで、片耳が聞こえないやら胃液吐くやら声が出ないやらとにかく色々大変だったが、それらは段々と良くなり今は聴力もばっちりだ。

が、その時過敏性腸症候群が再発して以来、慢性的に腸を患うようになってしまった。

とにかくストレスを感じようものならすぐに腸に出る。

寝不足でも腸に出る。なんか生き物でも住んでるのか?ってぐらい下腹部から変な音が出る。

音声収録のある仕事なのでスタジオにこもる日に症状出たらめちゃくちゃ最悪だ。

耳鳴りするほどの静かな空間で、腹がぎゅーぎゅーいうのだ。ちなみにお腹減ってないというより食べると鳴るので飲み物以外は口にできない。空腹感はないが音がえぐい

大音量で長時間鳴った時、まわりのひとが気遣って飴とかジュースくれた時の恥ずかしさわかる?まじで嫁入り前の女的には死ぬほど恥ずかしかった、消えてしまたかった。

ちがう、お腹が空いてるわけじゃないんだ。しかもいつ鳴るか分からないし、お腹に力いれようと腸だから音が止まらないんだ。

ついでにガスめっちゃたまってるけど、おならなんてできないし、我慢すればするほどどんどん腹鳴はひどくなり、お腹が張ってただただ苦しい。

というかおならの量がえぐい空気飲んでる、呑気症って医者には言われたけど別に早食いでもないし噛み締め癖もない。

なんなの?兵器なの?ってぐらいおならでる。ちなみに嫁入り前の女だ。やばい超えてやばい

いちいちトイレに行く暇ない時だってある。むしろガス出るたびにトイレいってたら10分に1回トイレ行く羽目になる。

特にこの2−3年、ずーーーーーっっと症状があるのだ。

お腹調子悪いだけ。でもそれが365日24時間×2−3年は地獄だ。

付き合ってた人にも大げさなwって笑われた。一度静寂のスタジオ会議室で止まらない腹鳴に悩まされればいい。マジで

もちろん便通も2週間以上調子いい時なんてない。

数週間〜数ヶ月単位便秘下痢を繰り返し、言い方汚いがなんか糞切れ悪いし、腸内環境最悪マンなのでついでにカンジダにもかかりやすい。

もう何千錠と乳酸菌飲んだ気がするが全部異空間に消えてる気がする。

こんなにお腹の音とおならうんこに悩まされる乙女ってなんなん?ついでにげっぷもえぐい

食事の後とか無限げっぷなんだけど?

QOLだだ下がりでたまに死にたくなる。

色々薬も試した。ストレッチ筋トレもやったし、低FODMAP食もためした。小麦粉意図的に避けてる。

大好きなパンパスタにんにくネギ我慢してる。コーラ振って炭酸抜いて飲んでるバカいる?私だよ!

好きな人といい雰囲気になってベッドインした時、ムーディな雰囲気の中お腹ぎゅ〜〜〜っていう恥はやばいぞ。苦笑されたら死にたくなるぞ。

そんなわけでここ数年映画館プラネタリウムは怖くて行ってない。

去年転職したけど今の職場めちゃくちゃ静かで、お腹調子悪い時は朝から晩まで地獄。一回爆音おなら出てしまって、窓から飛び降りようかな〜?って思った。

週に何度かは食後にお腹ぎゅーぎゅーいってるので、昼休み後はトイレいきがちでみなさんごめんなさい。

今日もまた朝からおならまくりーの便通わるすぎーのでふと生きてるのが辛くなったので吐き出した。

2020-10-07

天才が見たい 1/2

幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケートファミリーコンピュータ。皆覚えている。

幼稚園の頃には、既に自分他者とは異なる存在であることを認識していた。

幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。

ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園落ち葉拾いをして、その落ち葉ちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデ落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手バイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。

作ったちぎり絵先生に見せた時、「これは・・・バイク・・・・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明必要だな」と何故かひとり勝手確信し、画用紙に黒のクレヨン物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。

「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。

俺のちぎり絵物語幼稚園話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。

発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。

その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。


区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。

両親は平凡だった。見合い結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。

ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。

俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校地元公立のほうが良いように思えた。

幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バス苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間為人を把握して対応方法ほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立ゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。


両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校地元公立小学校入学することになった。

小学校に入っても、特に自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。

この頃になると、自分状態客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。

俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。

言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。

何より、公立小学校毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。

「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間コミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。

ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息けが荒い小学生だったと思う。


─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。

─────日本一大学東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。


そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃であるいかにも小学生摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対京都大学に入ろう」と思った。

そこから俺は色々と京都大学情報収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校先生などに尋ねたりしていたが、小学生調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。

しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないもの・・・模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。

日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。

だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。

看守は

給付型の奨学金制度などもある」

経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」

増田君には質の高い教育を受ける権利がある」

などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。

この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているか私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。


当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。


そうして地元公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試偏差値が出るからである

そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベル高校が無理なら、こりゃ京大東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。

悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く

「成績がいいのに何故」

「塾はお金がかかる」

「家でも勉強はできる」

などなど、様々な言葉で塾に通うことを拒否された。

小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。

また、塾が無理なら定性的定量的評価可能代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。

結局、中学3年の春から、塾に行く事を許してくれた。

半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。

そんな母を尻目に意気揚々進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるか勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。

その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつ教室に雨後のタケノコのようにポコポコ存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。

毎日がただ楽しかった。自分天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃん数字が、成績がついてきてくれた。

幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。


高校公立北野高校というところに入った。維新橋下弁護士とか、日本マクドナルド創業者藤田田ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家岡田あーみんとかが通っていた高校である

本当は東大寺学園に行きたかった。学力模試偏差値は足りていたと思う。赤本自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校絶対公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。

中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金申請手続きを自分自身で済ませた。

北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強必要であると思ったからだ。

俺は詐欺師丸出しの口調で「高校学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費予備校に回してほしい。予備校バイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。

この頃になると、奨学金申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。

自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。

俺が小学生中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。

家計ほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。

高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。

昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。


しかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。

大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。

大学合格したこときっかけに、京都に引っ越す事にした。

ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。

大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。


後編に続く

anond:20201007170042

2020-09-08

社交辞令かわいい

かわいいと思ってた、とよく言われる。

中・高・大、入学式だったりクラス替えだったり節目のタイミングで必ず言われてきた。しかしながら自分は俗に言うかわいい顔にカテゴライズされる顔ではなく、かわいいと言わせる雰囲気を持った人間であることに生きづらさを感じている。

かわいいと言われることは素直に嬉しい。スキンケアも化粧もヘアセットも好きで、ニキビ毛穴の手入れはもちろんコンプレックスを隠すための化粧の研究PC診断骨格診断など自分をよく見せるための労力とお金は人並み以上に費やしている思う。何が言いたいかというとかわいいと言われてもいいでしょう?って開き直れる程度には日頃から頑張っているつもりなのである

その頑張りは実ってかわいいと言われているわけだが実のところ顔はかわいくないのである新垣結衣、twiceのナヨン、aiko結構な頻度で言われる芸能人だがもう信憑性がない。この3人だけで顔が全然異なる。個人的にはaikoに似てると思うけどaikoに似てる一般女はかわいくない。aikoかわいい、歌も割と聴く

愛嬌と素直さと計算高い性格がうまく融合し、人に害を与えないよう努め、そこそこ自由に振る舞いながらも適当ぶりっ子していればかわいい称号はもらえる。

問題かわいいと言ってくる人間への対応だ。かわいいと言ってくる人間にもパターンがある。

シンプルに私の顔が好み。

メイクが好きな女の子

社交辞令

④下心

①と②はいい、すごく嬉しい。話しかけてくれる時に目がキラキラしてる気がする。優しくしてくれるから私も極力優しく接したい。④は論外だけど分かりやすいし対処やすいか別にいい。③が難しすぎる。

場を繋いだり盛り上げるための社交辞令シンプルでいい。向けられたかわいいに対して否定しようが肯定しようが取り留めのない会話として流れていく。

最悪なのはマジでミリも思ってなさそうな卑屈そうな人間が言ってくる社交辞令としてのかわいいだ。肯定しても地獄否定しても地獄、なんて答えりゃいいのよこれ。もう私も嫌になってきたか暴言混じりに愚痴を吐くんだけれど、大抵肌荒れもある眉毛も整ってない化粧が下手くそで後ろに一本、いい値段のマイナーブランドで全身固めた勝気な女ばかりだ。もうめっちゃダルいかわいいと言いながらジロジロ品定めしてすごい形相でマウントを取っていく。一本!一本やるから黙ってくれもう。何が書きたかたかも分からなくなってきたしなんかすっきりしてきたのでここでもう終わることにする。飽きた。とにかく努力してる分かわいいって評価されるのは妥当だと思うしうるさい女はどこにでもいるけど大概ブスだから問題なしっていうことよ。

2020-08-29

から告白ってキモくねえ?

4回告白されてると、思う。

全く気持ち悪いと思わないって人は読んでほしい。

まず、名前がわからない。

ラブレター名前が書いてないとかそうゆうんじゃなくて。背後で好きな人名前連呼するわけだ。高校教室で。

「私は(名前)がすき」

きもかった。これを1年ほどやられる。クラス替えの度に3回。

「私、あきらちゃおっかなーーーー。全然しかけてくれないんだもん」と言われて寒気がした。なぜ、好きでもない女のために頑張らなければいけないのか。それなら、自分名前いいましょうね。

つぎ、体をさわってくる

着替えを覗いてきた子だ。ことあるごとに体をすり寄せてきた女の子だ。彼女偏差値の高い大学にいった。同窓会であうと、私の体をさわってきた。「幼稚園生の頃を思い出すな。」聞いて。卒業アルバムの寄せ書きに書かれていた。その時の文章と全く同じ。底知れない恐怖を感じた。私は彼女に寄せ書きを頼んでいない。それから同窓会が終わる一時間半見つめ続けられた。

それは告白じゃないのでは?

私のカウント的には0回である

しかし、別々の女性から4回。気持ちの悪いアプローチをされた。だから女性にとってはこれが告白になるんだろう。

気持ち悪くない告白は、まず名前を知る。やたら体を触ってこない。その状態世間話をして、何となく仲良くなって交際を申し込む。この当たり前を私に押し付けから嫌われる。

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