はてなキーワード: イコールとは
大人になるとアイデンティティーの8割がどういう仕事をしているかになってくる。赤の他人から見れば100%といって良い。たとえば山田太郎君が料理人であるとしたら山田太郎君ほとんどイコールで料理人と見られる
ホリエモンであれば実業家、ダウンタウンであればお笑い芸人となる
社会にどのように参画しているかはその個人を100%定義するものではないということをみんな忘れすぎじゃないのかと感じる
個人は社会人である前からすでに個人であり個人の興味から仕事になる人もいれば興味のないことを仕事にしている人もいるわけで
興味のないことを仕事にしている個人をどのような仕事をしているかで定義するということはその人の本質からはまったくかけはなれているどころか本人はその仕事に興味がないのだから社会人としてその人を見ている限りその人のことを永遠に理解することなどできないだろう
というかほとんどの人間が仕事なんて金のために嫌々やっているものなのだから社会人=個人という視点を持ち続けるかぎりは絶対に他人と本当に仲良くはなれない。学生生活にくらべ社会生活では友人関係を構築するのが比較的難しいのはほとんどこの視点によるところがおおきいと感じる。
もっと人は人を見るときには社会でのアイデンティティーよりもその人がどんな異性が好きなのか、どんなことで怒り悲しむのか、どんな本を読むのか、どんな音楽が好きなのかなど個人を見つめるべきであると思う
だから僕はホリエモンや損正義にぜんぜん興味が湧かない。彼らはリベラルでどんなものでもビジネスであれば認めるだろうしどんな音楽でも「クソだ」なんて言わないだろうし企業のトップにいる以上は軽率に好悪をならべたてるような発言はしないしできないからだ。
この「想定イコール」概念って人を分類して学問にしようって頃からあるけど、系統があるからってすべて一緒ってことはないだろ。
善人は24時間365日絶えず善人なのかって言われたらそうでもないだろ。割合的に善意のある行動をする可能性が高いだけでその恩恵に与れない人もいるだろ。
ロリコンで他人の娘は犯すのに自分の娘だけは純粋で自由に生きてほしいとか言うやつもいるんじゃないのか?
犯罪者だって、自分の家族も犠牲にしようというやつから自分の家族だけは勘弁してくれという人もいるんじゃないのか?
イカが好きだと言ったらずっとイカばっかりおかずにしてくるみたいに、一旦好きだといったら全部埋め尽くしてやろう、これ好きなんだろって押し付けはちょっとうざい。
それが好きだと聞いたから、それをお預けにする理由を毎回毎度考えてくるのはその逆にみえる。
自分で行動せざるをえないようにお預けを続けて、行動させるように仕向けているのは、実際にはそういう犯罪なりが発生してほしいという望みなのか。
正義のためには悪が活躍しなければならないという思考によるものだとしたら問題だ。
自分の旦那に関して考えてみて、自分の通った学校と同じ女子生徒には全員恋愛になる可能性があったのか、同じ部活同じ趣味同じ髪型の人間に告白する可能性があったのか。
同じ時間、同じ物を、と考えるとすべて手作りでオリジナル創作の服、髪、行動、そしてそのタイミングでしか発生しえない事柄について欲求を出してもらえないと意味なくないか。
付き合い始めた時点のその時のそれにだけ欲求が高まったのなら、続いている夫婦生活はもう賞味期限切れなのか毎日恋を芽生えさせるための何かを継続して発生させているのかどちらかでないとすでに破綻しているはずだろ。
思い出と思い込みが現実の何割を示しているのかわからんが、人をなにかで分類するような考えで縛る視野の狭さでみれば意味のわからん不安な世界もあるだろうが、それだけ狭い視野は両手で塞ぎきれるだろうからみないようにしておけばいいんじゃないのか。
血液型A型だから科学者になってノーベル賞が取れる几帳面さがあるってのか?身長160センチだから空手では絶対に勝つことができないのか?
親が歌舞伎役者だから子供もそうなれるのか、またそうでなければ歌舞伎はできないしするものではないのか?
そんなに血統が大事なら人間にも血統書つけろよって思う。どうせ3代前も書けないんだろ。どこでどう生まれたか自分でもわかってないやつが他人の行動をよく予測できるもんだよな。
出来てない。
こんなもんを書く奴も正当化しようと頑張る奴も要するに頭が悪い
設定のガバつきへの突っ込みに「想像力の多寡」を持ち出したのはオマエ。
>以上と言うことは大佐でもいいはずだ。
言い訳になってねーぞ。
「大佐以上」って言っておいて大佐だと破綻するなら単に設定がアウトじゃねーか。
何を開き直ってるんだバカ。
そんなラノベ読書暦みたいなもので誇られても笑っちゃうからやめてくれ。
けどそういう設定も何もない。ただ「ぐんのえらいひと」というだけのイメージ。
ただのバカじゃんこれ。
肝心のとこでそうやって逃げを打つぐらいなら最初から逃げてろよ。
だから、その大佐だか少将だかの謎がキモって書き方してねーだろ。
大佐の設定がおかしいのは「何か最大のウエイトの設定を秘めてるから」じゃなくて
で、質問を繰り返すけど
http://anond.hatelabo.jp/20151019213445
「努力が足りないのだ」と叱責する者が多いが、まるで見当違いだ。あなたは全然悪くない。ユーモアのつもりであなたを責め、戯れ言に興じる小物たちの言葉など聞く必要はない。
なぜ魔法少女になれないのか。
なぜならそれは、魔法少女になった人間がこの世に存在しないからだ。あなたに絡んでくる者、あるいはあなた自身も、その残酷な事実を受け入れられない。いや、分かっていても分からないふりをして、虚構の世界と夢を守ったフリをして気取っているのだ。しかし、前例がないからといって、イコール魔法少女になることが不可能なわけではない。
あなたがこの世界で最初の魔法少女になればいいのだ。最初の魔法少女なのだから、自分自身がルールなのだ。ただし、「俺は魔法少女だ!」と高らかに宣言したとき、そこにいる観衆の大半が「こいつは本物だわ」と納得しなければならない(もちろん、他者を納得させる必要はないという論もある。しかしここでは取り上げない)。つまり、俺ルールを作り上げてもいいが、他者をも納得させる妥協点を探る必要がある。「魔法」とは何なのか。「少女」とは何なのか。その言葉が規定する可能性をどこまでも掘り下げ、2つの概念を矛盾なく結合させる点を探る。そしてそのプロセスを雄弁に語る必要がある。
困難な作業になる。しかし、不可能ではない。もし行き詰まるようなら、著名なテキストサイトの管理人やネタブロガーを見習うのがいいだろう。
「いや、そんな理屈をこね回してネタで魔法少女になりたいわけじゃないんだよ!」
その気持ちもわかる。だが、あなたの知っている魔法少女もそうやって出来たものではないとどうして言えようか。演出やエフェクトが描き出す「魔法少女感」の裏に、必ず、どうしたら「魔法」で「少女」に「見えるのか」という生みの苦しみがあったはずだ。そうしたネタ出しの初期の姿は歪で陳腐なものだったかもしれない。
何かを生み出す時には、つねに柔軟な発想が求められ、そうして出来たものを貫き通すことが説得力を生む。たとえばあなたの知っている魔法少女の中に、魔法は使わない物理攻撃型の少女はいないだろうか。しかしあなたは彼女を「魔法少女だ」と認識している。あるいは、もはや少女とは言えない体格の魔法少女もいるかもしれない。でも受け入れているだろう。それはどういうことだろうか? 契約をしたから? 体や装備が魔法体だから? 本当にそうだろうか? そういう説明をされる前から、あなたはコンテクストで「この子たちは魔法少女」と確信していたのではないか?
このことは、表現を受け取る側の人間も、相当に柔軟になりうるという事を示している。それは人間の美しいあり方でもある。柔軟になるだけのコンテクストを共有していない人間からみれば、その発信者も受信者も「宗教くさい」と蔑視されることもあるだろう。しかし、そのような美しくない眼差しを考慮する必要はない。あなたと、受け手が信じてさえいれば、そこには何だって降臨し得るのだ。実際、あなたは創作上の魔法少女という存在を、彼女らが与えてくれた感動と社会的ムーブメントを、虚像だとは思っていないだろう。そこに「ある」と信じることで物は生み出され、定義される。それは儚くも尊い、人間の壮大な営みの一部だ。魔法少女なんてものはその極致のようなもの。それに素直に憧れることができたなら、もう一歩先に進む人がいてもいいはずだ。
……ここまでの内容を消化し昇華するだけでも、魔法少女になれる可能性は十分あるだろう。だが依然として困難を感じている人も多いことと思う。それは、「魔法」というものに対して説得力を出すことが難しいためだ。
あらかじめ潰しておくと、「少女(見た目)」についてはどうとでもなる。仮に、あなたが男性だったとしても、いまは「男の娘」なんて言葉があるくらいに、男子が女子と見られるためのノウハウや文化の蓄積がある。あなたが青少年とはかけ離れた年齢だったとしても、歳をごまかすテクニックはそれ以上に長年の蓄積がある。なんなら手術という手もある。その上、それらが完璧でなくても、受け手の柔軟さを上手に喚起してやれば受け入れられるはずだ。あとは自分自身が自らの姿を受け容れるだけの精神性を築き上げればすむ。
だが魔法はすこし性質が異なる。魔法というものはこの世に存在していない。いや、ありふれていないと言ったほうが正しい。馴染みのない概念は、当然ながら受け入れるのが難しくなる。創作上の魔法を受け入れているのは、「これは創作だから」というモード切替スイッチが人々の頭についているからだ。とはいえ、現実世界にも「魔人」「魔法使い」と称されるような人間は存在する。スポーツ選手などが思い浮かぶだろう。しかし彼らは「魔」や「魔法を使える」存在ではなく、同じ人類だ。比喩的表現。つまり、同じ時代に生きている人類とは思えないほどの所業をやってのけることが「魔法」なのだ。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉を引用するまでもなく、我々は魔法という言葉に魔法性を過剰に感じすぎているせいで、自ら「魔法」の枠を狭めがちなのだ。創作上の魔法は、ファンタジーと分類されることが多いが、細かい原理を説明していないだけの超科学が常識的に利用されている世界と捉えれば、SFと同列である。
とは言ったものの、我々のような凡人が、人々の目を欺くような超科学、最先端技術を操れるわけではなかろう。習得しやすいのはマジックような技巧の類だ。現実世界ではマジシャンが一番「魔法使い」の称号に近いところにいる。なので、順当に考えれば、「マジック少女」から「魔法少女」に昇華させる線が現実的に思える――ところがここで問題が起こる。我々の知っている魔法少女は、マジック少女のすごい版ではないのだ。人のために働く、助ける、守る、攻撃する、あるいは駆けつける、着替える、契約する、それらのタイミングで魔法が行使されるのが普通だ。なのでベースの行動をそのあたりに設定する必要がある。その際の「普通のやり方」を「魔法みたいにすごいやり方」に変えることが、魔法少女の必要条件だといえるだろう。ただ、これだけでは、「早着替えをマジックと映像技術で魅せるパフォーマー」程度どまりだろう。
魔法少女たるには、「魔法」的存在である事の他にもう一つ欠かせない要素がある。ヒロイックであることだ。すなわち、何かの使命をおびている。何かを背負って、何かに突き動かされている。別に世界を救うレベルでなくもいい。ご当地ゆるキャラ並の小さな使命感でもいいから、何がしかのパッションが滲み出る象徴的なキャラだと認識されなければならない。
さて、私の陳腐な魔法少女論はここまで。あとは「自分の頭で考えよう」。長年夢見てきたあなたの中には、きっと何らかの「魔法」の種火と、小さな使命感の欠片があることだろう。あと生まれ持った体と。それらの調理法を考えるだけの話だ。理想の魔法少女像との乖離は、きっとあとから埋まってくる。最後に叱咤の一言で締めくくろうと思う。
「努力が足りないのだ」
鎌倉の町で最も醜悪な歴史遺物は、鎌倉駅西口にあるウォーナー博士への感謝碑だろう。
連合軍は文化財保存に留意して、京都や鎌倉などの古都への爆撃を控えた ― 今もってこれを信じている人は多いが、具体的にそれを進言したのがウォーナー博士だとされている。この「都市伝説」は、吉田守男氏の研究によって事実ではないことが既に明らかにされている。
京都や鎌倉が大規模空襲に遭わなかったのは(必ずしも空襲が無かったわけではなかった)、原爆投下予定地として残されていたり、軍事施設がないため空襲候補リストの下位にランクされていたためであった。
なぜそのような都市伝説が広がったのか。直接的には1945年11月11日の朝日新聞の記事に由来している。朝日新聞はこの記事をどういう根拠で書いたのだろうか。
GHQによる対日工作の一環と見るのが文脈的には妥当だが、そうではないのだとしても連合軍は積極的には否定も肯定もしなかった。鎌倉だけではなく奈良など全国にあるウォーナー顕彰碑は日本側の有力者が建立に尽力している。鎌倉の碑については吉田茂元首相も関与したようだ。
ウォーナー博士自身は繰り返しそのような事実はない、自分はそういうことには関わっていないと明言していたが、「謙虚な人柄」と解釈されてその言い分は無視されてしまったようだ。
GHQの思惑は別にして、この伝説が日本側で相応に受け入れられたのは、二つの要因が重なっているように思われる。
ひとつには「東洋のスイス」を理想像とする戦後の社会主義左翼の「非武装中立論」に合致していたこと。軍備ではなく文化に力を入れれば、襲ってくる野蛮人などいないという、非現実的なある種の選民思想である。スイスでさえ行っていない非武装中立という絵空事を強化する例として、文化の力、というものが過剰に喧伝されたものである。
もう一つの要因は、京都や奈良、鎌倉に在住する人々の選民思想を刺激したことだと考える。
文化財があるから鎌倉を爆撃してはいけないという考えは逆に言えば文化財など無い、貧民が住む沿岸の工業地帯などは爆撃されても構わないという考えと紙一重であるし、人によってはほとんどイコールであった。とにかく連合軍は無差別に何百万人という非戦闘員を虐殺したのである。その事実を前にして、自分たちの居住区は文化財があったから爆撃されなかった、ありがとう、と言ってしまえる神経が醜悪でないのだとしたら、いったい何が醜悪なのか。
この意味において私はあの碑をこのうえなく醜悪なものだ、というのである。
あれは我が国の、文化人と呼ばれる人たちの程度の低さ、無責任体質、奢り切った選民思想の結晶そのものである。それらは軍部の上層部にあってはこの国をいったんは滅ぼす要因になったが、それは軍部のみにあったのではなかった。
徹底してものを考えない、いや、徹底してものを考えるという行為をポーズにして自らの装飾にすることにしか関心のない「指導者層」は左翼の中にも、むしろ左翼の中に顕著に存在するものだった。
ウォーナー博士はそう言う人々とはまるで違う、知的に誠実な人だったので、顕彰碑は彼に対する侮辱であるし、我々にとっては恥そのものである。
だが、だからこそ、あの碑は我々の愚かさ、傲慢さの証拠として残しておくべきである。鎌倉と言う町の、底音部に流れる奇怪さが具現化したものとして。
今はもうサービス終了してしまったあるMMOで、あるプレイヤーに告白された。
男だと思われていたらしい。
そのMMOは文字チャットが主流で、音声チャットは一部の廃人プレイヤーが使ってるぐらいだった。文字しかなければ、性別は偽りやすい。
とはいえ、自分はネナベをやるつもりは毛頭なく、なんならサブキャラは女性だった。もともとネットゲームデビューはPSO(DC)で、あの作品は性別もキャラ性能の一部だったので、必然、「使いたい性能で性別が決まる」文化であり、中でも凝り性の人々は、使用キャラによって口調を変えるぐらいのことはやっていた。
使用キャラはプレイヤー自身のアバターではない。けれど、女性キャラが「俺」と言ったり、男性キャラが「あたし」と言っていると、口調とビジュアルがなんとなくそぐわない感じがする、だから操作キャラに合わせる形で喋り方のほうを変えてしまう。
そんなスタイルに慣れ親しんでいたせいで、男性キャラを操作している時は男性として違和感がないように、女性キャラを操作している時もまた違和感がないように、喋る癖がついていた。
漫画の顔と吹き出しの組み合わせを考えるようなものなんだと思ってた。その「吹き出し」のイメージも、きっとPSOのせいだ。
そしたら、男性キャラでプレイしている時に知り合った人から、見事に勘違いされてしまっていた。中身の性別を隠してはいなかったけど、狩りやらに出かける時にわざわざ「中身は女なんですよ」なんて言わない。そのまま何度かパーティーを組んで遊んでいるうちに、惚れられていたらしい。
あまり人が来ないエリアに呼び出されて、好きだと言われた。中身が好きだと。
大慌てで中身は女だと説明したが納得してもらえるには時間がかかった。結局、ふだんの自分の口調で喋るように修正し(これが私にはつらかった。ドラゴンボールの悟空の吹き出しに「あたしも宿題やってないよー><」と書き込むような辛さなのだ)、なんとか受け入れてもらった。
彼女にとっては、操作キャラはアバターで、当然プレイヤーとキャラクターの性別は同一、ということだったんだろう。
そのMMOも女性キャラ比率が高く、その中には当然、多くの男性プレイヤーが含まれていたと思うのだが……もちろんその逆だって。
今思い返すだけでも、異性キャラを使っていたプレイヤーを両手で足りないほど思い出せる。
私のようなスタイルのプレイヤーにとって、文字チャットはキャラクターの見た目に合わせて内容を変えるものだ。
その口調も、時には考え方すらも、自分自身とイコールではない。
誰もがそうしているとは言わない。けれど、自分の多数の操作キャラの間に人間関係すら構築し、例えば兄と妹をそれぞれにキャラメイクする遊び方だって確かにある。そして私は今でもPSO2で、男性キャラと女性キャラそれぞれをちまちまと育成している。
もうチャットに明け暮れるほど遊べてはいなくて、フレンドも作らない万年ソロだけれども、もしもチャットする機会があったなら、それぞれに口調は違ってしまうと思う。
実践が出来ないところ(一例を出せばネット)は「真実が馬鹿にされる場所」だ。
例えば格闘技。強いパンチを打つ技術というものは基本的には体幹を素早く回転させる能力とイコールである、なんて言う人が出てきたとする。途端に叩かれる。「知ったかぶってんじゃねーよ」「(どこかの格闘技blogのURLをはって)←反論(ソースあり)。はい論破」みたいな。でも実はその技術論を書いた人はボクシング日本チャンピオン。つまり前述の書き込みは技術的な裏打ちはきちんとあるものだった。しかし、知ったかに見えて叩かれる。
格闘技全般については、技術論を匿名で口に出した時点で馬鹿にされる、叩かれる。
目の前で見られない技術論、肩書のない技術論は、全て信ぴょう性が無い事にされ、馬鹿にされる。
特にエロに関する技術論は、大体馬鹿にされる(それも、はてなに関してはその傾向が「非常に」強い)。
ネットだけではない。例えばバーなどで、格闘技の理論あるいはエロの上手さなどを語ったら、途端に馬鹿にされる。特にボクサーは身体が細いため、見た目格闘技をやってるように見えないので、誰にも信頼されない。具志堅さんなんて今やギャグタレント要因だけど、あの人っぽい人が飲み屋でボクシング技術論を偉そうにぶってるのを見て、素直にその技術論に耳を傾ける人がいるだろうか。
格闘技とエロを一緒にするな、なんてクソバカな反論が来そうな文章を書いてしまったが、というかそういう反論を書くクソバカが集まるのがはてなだが、実践的なものは全て該当すると思っているし、飲み屋で語りやすいのがその2つだと思っているし、まぁここまで書いてもそういう反論は来るだろうな。はてなだし。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
とある親戚は今なおテレビっ子で、その人は私が反応しない部分でもテレビを観てよく笑うほどゲラなのだが、少なくともその親戚にとってテレビは面白いのだ。
当然、ここで個人のケースを挙げることにさして意味はないことは重々理解している。
少なくとも近年のデータを見るだけなら、観る人が減っているのは確かだろう。
まあ、テレビを観る人が減っていることが面白くないこととイコールかは断言しかねるが。
これまでも、さまざまな要因が挙げられてきた。
色々説はあるが、コンテンツの多様化というのが主な要因とされている。
それで終わらせてもいいが、せっかくだからそれっぽいことを答えようじゃないか。
さて、肝心のテレビが面白くないかどうかだが、そのものの内容が面白いかどうか判断することはとても難しい。
個人の感受性によるところも大きいし、数多ある番組を一括りにして語るわけにもいかない。
ただ、「テレビを観ている人が少なくなってきている」という論調なら多少は語りやすくなるか。
まあテレビを観ていない事をファッションとしつつ議論に参加する人間もいるが、そのパターンは置いておこう。
さまざまだが、番組の視聴率を時間ごとに区切り、その番組で視聴率が高かったときの映像を観て分析するというのが基本だろう。
そして、そのときの映像に含まれた要素が、「最も視聴率のとれる可能性のある要素」だということだ(と作り手は考えている)。
面白くない番組の要素として既視感のある、クリエティブさに欠けた演出などを槍玉に挙げられるが、作り手にとっては合理的理由なわけだな。
ただ、このやり方の致命的な弱点は、今ある分母の中の、分子しか考慮していない点だ。
分子を増やすか減らさないようにするだけのやり方では、分母を増やすことは難しいだろう。
こうしてテレビを観る人のための番組を作り、テレビを観ない人はますます観なくなるわけだ。
それは一見すれば間違っていない構図だが、受け手がついてきてくれたコンテンツではなくなりつつあるのだから先細りする。
この現状に対しての大雑把なアンサーは「テレビを面白いと思っていない人が、面白いと思う番組作りをすること」だ。
スープカレーの札幌での大成功の原因を考えてみると、あれが札幌におけるカフェブームだったんじゃないかと思う。
オシャレっぽい店でオシャレぽいものを食べる。
それがスープカレーだった。
札幌の物価水準からすると、一食あたりの単価として高いと思う。
そのぶん、ボリュームを出して、薄利多売よりは客あたりの粗利を追求した。
加えて、スープカレーの店舗が札幌中心部ではなく、郊外にあることも多かった。
最近の郊外型喫茶店、つまり星乃珈琲、コメダ珈琲に代表されるような、暇で小金を持った層に時間をたっぷり潰すような場所を提供するような店と構造的には似てたかもしれない。
コーヒーのマグが大きく、豆菓子や朝ならトーストがついてて満腹は得られる。
原価を考えると、コーヒーを倍のサイズにしたって、トーストをつけたって、値段をほとんど上げる必要なんかなく、むしろ長居されることだけが問題なのだが、それを郊外に店舗を置くことでクリア。
それと同じことを、やってたと思う。
居心地のいい空間を求める層と、オシャレフードを欲する層を取り込んで、満腹感を与えてリピーターにする。
でも、それを都心でやろうとするとけっこうきつい。
値段はボッてるとは思わない。
世界中のほとんどの国では、出汁も発酵調味料も使わず、具材を水で煮込んで塩と香辛料を入れただけで料理として成立する。
具材から出る出汁と、それに合わせた香辛料の組み合わせで料理が成立するわけだが、料理の基本技法であるにも関わらず、日本においてこの技術は半分途絶えてる。
出汁取りは別の材料を使い、そこに発酵調味料で味を決める。香辛料はあってもなくても構わないアクセントでしかない。
一言でいうと、スープカレーはスープ料理としては未熟な部分がある。
具材は別に調理して乗せるだけであり、具材から出るエキスは考慮したわけではない。
メニューの違いはトッピングの違いであり、スープの違いではない。
それをやると死ぬほど金がかかるので仕方がないのだが。
スパイスについても未熟なところはあった。
巷のカレー屋では、○○種類のスパイスとか書いてあって、どうもスパイスの数が多いほど上等かと勘違いしてる場合が多い。
店側がそうおもってるのか、客がそう思ってるからそんな書き方をしているのか。
スープカレーはそれがひどくて、20種類以上は当たり前、30種類とか40種類とかを売りにしている。
複雑さと美味しさはイコールではないはずなく、むしろ味をボケさせ、またコストに跳ね返ってくるわけだが。
殆どの店で、シーフードカレーとチキンカレーで、スパイスの構成がガラリと変わったりはしない。
アクセントとなる部分は変わるが、ベースはスープに合わせてつくられている。
スープカレーは悪くはない、悪くはないのだが、食材の旨味を活かしきれず、出汁取り用の食材の大量投入の力技で旨味を、スパイスの大量投入、多種投入で複雑さをプッシュしすぎている。
食材を殺しているとは言わないが、もっと安いコストで同じかそれ以上のものを作ることは可能である。
総括すると、札幌近郊と都内の客層、地価等、外部環境の違いにより、札幌で取り込んでいた客層を都内では取り込むことができなかったこと。
スープ料理としての未熟さが、美味しさ以上のコストを生んでいる。
スープカレーだけではないが、カレー屋、あるいはインド料理店の評価は食べログにおいてはかなり甘いと思う。
イタリアン、フレンチは辛辣なレビューもあるが、カレーについては好意的な書き込みしか目立たない。
食べログが街の評判とは思っていないが、いまだカレーというジャンルはボーナスステージであるといえる。
今でこれだと、たぶん10年後には消えてる。
追い出し部屋の話題になる度に、「悪く言うけど必要だから」みたいなこという人いるんだけど、そうじゃないんだよね。
一定以上の規模の会社になると、雇用イコール地域社会への貢献、みたいな人を雇うことそのものがエライみたいなことになる。
そうすると、当たり前なんだけど、少数の有能が、多数の無能を働かせる職場になる。
馬鹿でもできるように仕事を分解して機械的な作業に落とし込んで、作業をさせる。
無能な働き者が一番困るって言うけど、無能な怠け者が大多数で、その無能な怠け者を使って組織が回せてナンボ。
そもそも、筆者は、終身雇用がちゃんと維持されている組織で、“追い出し部屋”的な要素がまったく存在しない組織はありえないと思っています。どんな組織であれ、雇用調整の要は必ず生じます。であれば、人を解雇できない以上、追い込んで自発的に辞めさせるための仕組みが必ず必要だからです。
たぶん、この人も経営層と同じ目線で仕事してるんだろうなと思う。
有能な働き者しか居ない企業って、地域社会への雇用貢献を一切してない、言わば資本主義社会の上澄みだけ使う社会への寄生企業だよね。
つまり、追い出し部屋が必要だって叫ぶコンサルは、たぶん、人を雇うことが企業の社会的な責任だって認識がない。
もちろん無能な怠け者とか馬鹿とか言ったけど、それは仕事の上のことだから、人格とは別だよ?
だからこそ、働きたくないでゴザル頭も使いたくないでゴザルって人達が、仕事は仕事として、酷いことにならないように法律の縛りがあるわけだし。
だから、追い出し部屋とか作っちゃ駄目だし、必要だからってうそぶくコンサルは無能で、社会の敵みたいな会社になっちゃうから聞いちゃダメよ。
hitodie いつも分からんのだが、解雇できなくても降格させて新卒並みの給料にすれば辞めてくれるし辞めなくても大したコストにならんだろうと思うが、降格も法律で縛られてるの??
労組の専従でもボンヤリしてると知らないので無理も無いんだけど、縛られてるよ。
正確に言うと、降格は別にすりゃいいんだけど、給与はガッツリ減らせない。
雇用者が一方的に給料の切り下げをするのは、法的にNG。(高裁の判例が出てる)
10%っていうのは、なんかやらかした社員を罰するために減給する幅が法律で決まってて、日給の半分&月給10%超えはダメ。
制裁でも10%なんだから、普通の理由で10%越えるときには社員の理解が必要だろうって事。
管理職なんかは別になるんだけど、面倒なので不祥事の時も減給じゃなくて自主返上ってなってるはずよ。
(さっきの高裁の判例って、給料下げないと会社潰れる!みたいな時の話なので、普通に下げるとかまず無理だね)
よく大手企業が超絶な赤字決算でも社員のボーナスがカットされないとかって話題になるけど、上記のが理由ね。
ボーナスも含めて生活賃金扱いになるので、それも含めて10%超え給与削減は裁判沙汰になったら負けるから。
日本企業の賃金カーブが緩やかであんまり上がらないのは、下げられないようにしっかり縛られてるから。
もちろん功罪あるんだけど、そうじゃない給与体系も組めるし、法律的な枠組みも有る。
その上で正社員でちゃんと給料払うから来てねって言っといて、一方的に給与下げたり追い出し部屋に追い込んだりするのは、経営者が無能な以上に無責任だと思うな。
速攻400万DLとかリセマラ推奨ゲーなんだから伸びて当たり前だろとか思ってたスターライトステージを触ってみて、学びがあったので残しておく。
最初にびっくりしたのがこれ。画面奥から降ってくるボールに合わせて叩くだけなら音ゲーと一緒なんだけど
音ゲーと明確に違うのが「曲の流れガン無視」のシーケンス(譜面)。
わかりやすいメロやボーカルが難しくないリズムなんだから、それ叩かせればいいところを裏拍から急に表拍叩かせたりしてる。
曲と一体になって演奏する感じのまだ残ってる音ゲーとは別の物だった。
その代わり、ヲタ芸打ちやコールに近い譜面が「特に低難易度に集中」してるので音ゲーを求める人は低難易度やらなくていいんじゃないか
・音ゲーは高難易度化(高度な演奏とはイコールじゃない)がひどくなっていて(太鼓○達人でさえそうだ)、音ゲーだと先入観を持たれない為にリズムゲーを謳った?
・某クライアントが並べる「わかりやすい曲」っていう単語はつまり、ゲーム用に尺ぶった切っても使い物になって、
曲そのもののメロやリズムをなぞらなくてもコールやヲタ芸を譜面化すれば物になるような「雑な使い方」に都合のいいものって事だった
好き勝手いじり回すのはn次創作でやってくれる分には弁えてれば黙認するけど、1次の現場で好き勝手されるのは我慢できねーよ。
いや年頃の成熟し始めた娘に性的なものを感じないというのは逆におかしいだろ常識的に考えて。
成熟するってことはひとりの人間として出来上がってくるってことなんだぜ?
「性的」という形容は、出来上がった人間の肉体に我々が感じるクオリアのうちで特に性交可能性に強く結びついたものをあらわしたものだが、要するにからだが仕上がってくればだいたい誰だって「性的な感じ」というやつを帯びるもんだということだ。
で、性的な感じがするってことは(少なくとも肉体のレベルでは)一個の存在として確立してるってことで、イコール自分の価値観で好き勝手に扱っていい相手ではないと認識するってことにつながるわけだ。
敬意を払うべきところでは敬意を払い、尊重すべきところは尊重し、そして自律的に動く生き物同士がトラブルなくやっていくためにお互い最低限踏まえていなければならない礼儀ってものを示してやらなければならない、そういう相手になったんだと認識する契機になる。
「赤ちゃんだったら何もできないから何でも一緒にやってお世話してやらなきゃいけないかもしれないが、お前はもう大人になり始めているんだから、大人としての振る舞いも学んでいかなきゃならないぞ。そのためにはこういう時はこのようにするのだ」というのを教えてやらにゃならない。
身体の成熟はその端緒にして目安になりうる。
しかし年頃の我が子相手にそれを感じなかったというのは傍目には相当ヤバイぞ。子どもに対する支配欲強すぎでしかも無自覚ってことになる。何より「性的な成熟」というのを短絡的に「(自分と)性交可能になること」としか捉えていないのがキモすぎる。
「性別を超えた親子愛」を信じるのに娘の裸が必要だという時点で、お前の言ってることは必然的に娘との性交の可能性を前提に置いてしまう。性交を前提に置いた上で、性交を否定してみせることで愛を証明するという理屈だからだ。
いくら「エロスな目でなんか見てませんよ!見てないから平気でお風呂も入れるんですよ!」と主張したところで、「自分は娘を裸にして一緒に風呂に入ることができるしそれを止めるつもりがない」という時点で、娘に対する考え方そのものは性的虐待者と紙一重ってわけだ。傍目にはな。
キツネは子どもが成熟すると親がキバをむいて巣穴から叩き出すという。しかし本物の外敵や侵入者相手にするように、子を噛み殺しまでする親ギツネはいない。大人のキツネとして生きていくのを、親が促してやるにすぎない。やり口は荒っぽいとはいえ野生動物でもやってることだ。それをお前はお前のファンタジーのためにしなかったわけで、娘さんがちゃんと育ってるから良かったものの…という感想を外野が抱くのは止めようがないわな。
https://twitter.com/lunar0/status/641130016193941504
こういう話もあるみたいだな。
某週刊少年漫画ジャンルで乱発されている商業ベースの版権元無許諾のアンソロジー(※海賊版アンソロ、違法商業アンソロなどとも)の現状について周知し、今後、問題点を認識しないまま無許諾アンソロジーに寄稿する同人作家が出ないよう、また購入する人に対し注意喚起を行いたい。
※アンソロジー本がすべて違法なわけではありません。 書店に並んでいる商業アンソロジー本の中には公式が監修して正式に出版されるものがあります。「(版権者)監修」や(c)マーク、正式タイトルやロゴの使用などで判別可能です。これらの本を買ったり、執筆する事は公式に認められた立派なファン活動です。
(9/8追記:(c)マークはあくまでも著作権者を示すマークであり使用許可とイコールではないのですが、商業アンソロ本で「(c)マークでわざわざ著作権者を示しているのに非公式」というのはかなり特殊なケースと思われるのでこのように書いておきます。)
そのため
→版権元が「作品のイメージを損なう」「利益を損なう」と判断し措置をとる可能性がある。実際過去に権利者からの警告・注意・提訴が行われたことがある(→ヘタリア、十二国記、ガンダム、トライガン、ときメモ等)。その場合の措置対象が無許可商業アンソロにとどまるとは限らない。
このような事態を招かないよう、寄稿者、購入者だけでなく、二次創作に関わる者が無許可商業アンソロの問題点を認識し、行動を自重していくことが必要ではないでしょうか。
言うまでもないことですが、個人による二次創作活動は「個人の趣味を逸脱しない範囲で」黙認されているにすぎません。
個人が対価を取って同人誌を頒布するのは、印刷代・イベント参加料などのファン交流に伴う経費をファン間で立て替えているのであり営利行為とみなさないという風習で見逃されているだけです。しかし企業に原稿を渡し対価として稿料を受け取る行為はその範疇には含まれないという事が理解できない方はいないでしょう。
当然、二次創作を公に認めていない公式が動けばこれら全ては違法となります。公式の二次創作に対する見解を問う事はなんの解決にもなりません。(→芳文社や小学館などの二次創作禁止(?)ガイドラインの真相について、出版社の中の人が解説してくれました。)
しばしば誤解している人がいますが、二次創作物は無料公開・配布であっても原作の著作権を侵害していることがほとんどです。したがってこの記事では、二次創作活動自体の内容、是非を問う事はしません。
著作権者の許可を得ずに発行されている商業アンソロジーです。問題点をご理解いただいたうえで、購入するかどうかご判断ください。
無許可の商業アンソロが刊行されるのは、当たり前ですが、購入者がいて儲かるからです。
購入者一人ひとりが問題の一端を担っているという事を理解したうえで行動していただけるよう、願っています。
無許可の商業アンソロは寄稿される原稿がなくては成立しません。加えて、影響力の大きな描き手が無許可商業アンソロに寄稿し、堂々と宣伝していることから、二次創作への知識が不十分な層がアンソロについて誤った知識を持ちつつあります。
しかし、実際は寄稿する作家の多くが「いけないことと知りながら」寄稿しているように見受けられます。その理由は個別にあるでしょうが、ほとんどは「みんなやっているから大丈夫」「商業誌に載ることはステータス」というような安易な考えのもとに行われているようです。寄稿する方々は、寄稿・執筆することで、結果的に上記のような重大な問題をはらんだ無許可商業アンソロに協力している状態です。今一度、自分の行為について考えていただければと思います。
また、同人サークルに執筆・寄稿依頼があった場合、依頼内容が版権公式であるか否かを確認することをお勧めします。
私個人は、以上のような理由から無許可商業アンソロを拒否しますが、この記事を読まれた方がどのように判断され、行動されるかを強制するものではありません。
二次創作同人にはさまざまな問題があり、無許可商業アンソロだけを槍玉に挙げるのは間違っており、正当性がないという意見もあるでしょう。
しかし、上記に挙げた問題点を「問題ではない」と言う方は少ないと感じています。何が問題かぴんとこない方は、ぜひこの機会に調べてみてください。「同人誌 著作権」「コミケ 著作権」などと検索すれば、いろいろなページが出てきます。勿論、この記事を含め、必要な情報を取捨選択し、判断を下すのはあなた自身です。
ヘタリアの無許可商業出版物に関する幻冬舎の謹告:http://www.gentosha-comics.net/hetalia/2010/05/oshirase3.html
ときめきメモリアル・アダルトアニメ映画化事件のwikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%82%81%E3%81%8D%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (経緯最終段落にアンソロ提訴の言及あり)
十二国記の無許可商業アンソロに対する講談社の謹告(アーカイブ):http://web.archive.org/web/20090623021846/http://shop.kodansha.jp/bc/books/junikokki/kinkoku.html
トライガン無許可商業アンソロに対する原作者のコメント(アーカイブ):https://web.archive.org/web/19991005041701/http://www.din.or.jp/~nightow/EFefnow.html (9/9追記)
統括するにはまだ早いと思うのだけど覚書。
【1】一連の騒動について
【2】デザイン的に見てどう思うか
【3】佐野氏に同情できるか
【1】一連の騒動について
サノケンのエンブレム取り下げまでの一連の事件を振り返ってグーグル会長が書いたエリック・シュミット『第五の権力』を思い出したので書いておく。
まず第五の権力とは何か。
行政、司法、立法の3つの権力に対して今まで報道を第四の権力となぞらえていた。それを本書でエリックは第五の権力のことを、全世界の人がオンラインでつながったことで手にする力と言っていて、つまりインターネットをもった我々のことで、有体にいえば『炎上』のことである。
で、サノケンの炎上だけど、これまでの炎上と明確に一つ違う点があることを留意しておきたいと思う。
海外のデザイナーやフォトグラファーらとニュースを通じてオンライン上で繋がり、情報が次々と提供され、外堀を着々と埋められてしまって国はもう言い逃れできなくなってしまった。
恥の文化がある日本人にとって、海外のリアクションはすごく耳が痛かっただろうなと思う。
で第五の権力、つまり『炎上』についてまだまだ日本で過小評価されているような気がする。
佐々木俊尚氏に限っては、いまだにネット民の自制が必要みたいなナイーブな話をしているし、茂木健一郎氏は、権威者層に対する下位層による妬み、対立みたいな話になっている。
いやいや、デザイナー・広告業界からのタレコミが多かったと思うけどな。政府関係者の中にもサノケンのエンブレムが気に入らなかった人は大勢いたんじゃないかなと思うし。
ていうか、妬みの力だけで国は動かないし、動かせるわけがない。もし妬みで国を変えられるのなら、Gakut何人必要なんだよって話だよね。
トートバックの事案、過去のデザインの掘り出し、原案の意匠の発表と、無視できない事案が重なってエンブレムが取り下げになった。
もしかしたらデザイン業界ではコピペ(盗用)・改変(剽窃)は、慣例的に、普通に行われていたのかもしれない。
でも、もうそれは許されることではなくなった。
どうでもいいけど、茂木氏がクオリア(死語)的にデザインが受け付けないと語った時にはこれはギャグなのかなと思った。
【2】デザイン的に見て
素人目に佐野エンブレムのデザイン的に悪いところを個人的に挙げておく。
1:デザインが堅苦しい。
スポーツの躍動感がない。
祭典のイメージがない等
2:パラリンピックの白黒反転ロゴが、『T』に見えず、『U』に見えること
佐野的にはパラリンピックは『=』(イコール、平等)をイメージしたらしいがパラリンピック関係者は、それを
聞いてどう思っただろうね?
まだ『U』でUNITE(結合)とした方が良かったのではないか。せっかく26文字作ったんだからさ。
3アルファベットイニシャルが、日本人にはそもそも受け付けないものであること。
なんでTOKYOのTなんだろうね?
たぶんあれは原案を元に作成されたもので、意匠変更を経て発表できなくなったものなんだろうなと推測。
素人目には、ここまで悪いところを挙げられる。
あとプロと素人の境界は職務に対して『批判的』になれるかである。
批判的になれないのは『商売人』であって、『プロフェッショナル』ではない。
【3】佐野氏に同情できるか
はっきり言って、どうでもいい。
同情は彼の仲間が(同情)するべきことで、無関係の我々がすることではない、よね?
著作権を軽視してトレパクすることは、他人の住所を勝手にネットに書き込みすることに等しい犯罪であることを認識してほしい。
とりあえずインターネットウィルスによる情報漏えいと同クラスの対策を取らないと自社、取引先の企業価値を大きく毀損する結果になるとだけ忠告しておく。
TPPによって著作権侵害の非親告による摘発が可能になればさらにこの流れは加速するはずだ。
むしろ、このことによってオリジナルのクリエイターの権利が守られることを望みたい。
そういえばトートバックの件でで剽窃したと思われる猫のデザインはいつになったら取り下げてくれるのだろうと思っている。
佐野デザインと名前を付けている以上、名前に大きく責任を持つべきだと思う。
盗用されて被害を受けているデザイナー、フォトグラファー、クリエイターが実際にいることを忘れちゃいけないと思う。
クリエイトすることによって飯を食っている人たちであることを忘れちゃいけない。
佐野氏より、五輪提携企業より先に、こちらに対して、まずどう補償していくのかが今後のこのサノケン事件の焦点になるのかなと思っている。
才能があるのに無名で売れないクリエイターってたくさんいるんだからさ、これを機に還元される流れになってほしいな。
以上です。
フォトグラファーだけど、この考えには反対。
反対というよりは、理想論だけどもうそんなことを守ることが不可能な時代になってきていると思うということ。
デザインと同じく、相手に対して理解や勉強を求めるのは、それはお門違いな問題だと思うんだ。
広告全てが常にオープンに展開されていくわけではなく、実にクローズドな世界で実に即日的に消費されていくことのほうが多いわけだから、コスト激化の時代において利害関係が希薄なインターネットの向こう側の写真を使うことに躊躇しないデザイナーは多いと思う。
毎日のように投函される地元店舗のチラシを見てみればそれが日常だということがすぐに分かるはずだ。
それら全てをチェックして、それら全てに対してロイヤリティを請求するなんてできるわけがない。
例えば、一点もので展示会を開けるような写真芸術家であればその作品一つ一つに対してのコピーライトを守ることがイコール写真家の価値を守ることになるとは思う。
でも、自分レベルのフォトグラファーであれば、それよりも一つでも多くの作品が消費されて、より世の中に出て行くことのほうが重要だと思っている。
以前、本城直季の真似をしたミニチュア写真が世の中に溢れかえった時がある。
あのブームは、彼の写真をいいと賛同したからこそ、皆が模倣して色々な作品がさらに生み出された好例だと思うんだ。
模倣と盗作は当然異なるものではあるけど、それならあの時に全員が全員彼に対する敬意を持っていたかというとそれは別だ。
それによって彼が自分の作品が次々に蹂躙されている!と思ったかというと、それも別なはずだ。
おそらく彼はすでに次の作品を見据えていただろうし、ある意味ではブームの火付け役としての余裕もあったのかもしれない。
まだまだ一点ものの作品だけが評価されるようなレベルではな自分にとってみれば、生み出した作品の価値を頑なに守っていくことに縛られるくらいなら、さっさと価値を捨てて次の作品作りに突き進んでいくことのほうが重要だと思うんだ。
むしろお金を払ってでも、一人でも多くの人間の目に触れさせたいって思ってるくらいだ。
それでいつか技術も評価も実績も伴った時、その時代にあった考え方で自分のコピーライトを守ればいいんじゃないかな。
あなたがどれほどのフォトグラファーかもわからないし、あなたの考えを否定したいというわけではなくて、これからの時代の版権は自分くらいでは守られないことを前提に考えていかなくてはやっていけないということを言いたかっただけ。
佐野氏を擁護するわけではないけど、彼の審美眼とそれまでの作品を認めてきた世の中が確かなら、彼に選ばれた、彼の生み出したものと同等のコンセプトと完成度があったってことは自分の評価に置き換えていいと思うのだけどね。
だが冷静になれ。
まずは自分でファックしてみるんだ。
手じゃなくてもいいぞ。
今や便利な道具がいっぱいある。
次に、ぶちまけた精子と、今日のコース入ったら払うはずだった札束を並べてみよう。
自分で抜くだけで財布のお金が風俗行った時より2万円多いよな。
抜く前に見る二万円と、抜いたあとに見る二万円。
どちらがいとおしく見える?
後者だろう。
だって風俗行ったらファックするのにお小遣いくれとか言ってもっと取られるんだから。
それでもファックしたいなら中学生のように朝も抜いてから仕事行け。
朝ファックすると雑念が無くなって女の子に優しくなれるぞ。
女の子は優しい男が好きって言うだろ。
イコール 朝抜いていくやつは女にもてるってことだわ。
※注意
「ファックして」