はてなキーワード: 絵コンテとは
ああいうの難しいというか、面倒くさいよなぁ、と思ったり
雑想ノートみたいなのちまちま描いて、
緻密な設定は後で役立つこともあるので、案外バカにできない
それより、大人になってみると面倒くさいというのが先に立つ気がする
士郎正宗の殺陣とか、エロ一枚絵描きになる前は、空間認識力はスゴいと思う
読者が気にしない領域まで、損得で考えれば無駄になってしまうんだけど、
いちいち考えてるのが偉いというか、
よく考えられたカンフー映画の格闘シーンを漫画なり絵コンテなり動画で描く感じ
主に面倒くさいから
イマジナリーラインぐらいは考えるけど
あと、絵コンテだと簡単に描けてしまう、というのがあると思ってて、
例えば、「ここでコルドバが180度回頭するやろ」
今はCGがあるから楽だけど、下請けイジメにしか思えないところもある気がする
というか、あれって佐藤元さんなんだっけ
今になって観てみると、CGにはない歪みというか、
なんか生き物っぽく、クジラとかそんな感じに思えてきて、
CGのような硬さを感じないのが逆に新鮮に思えたり
(ゲームは無理だけど
シンエヴァみたいに、プリビズとか元に手で描けば、
頭悩ませる必要もないし、寧ろ楽な気もするんだよなぁ
まあ、労力が格段に増えるだろうけど
手描きの良さってのも再考したい気がする
↓
↓
摩砂雪とか貞本がいなくなったばかりではなく、
『男の戦い』や『最後のシ者』など旧作で重要な話は 薩川昭夫 脚本、SF要素は磯だがそれらもいなくなった
▼供養の設定資料
もう20年以上前の某アニメで作った脚本回の設定。地下施設の詳細が決まってなかったのでセントラルドグマとか名称や細部を私が設定していった。他にも中盤は私が作ったセリフや展開が結構使用されているが結局全部ノーギャラ。
https://twitter.com/isomitsuo/status/823830687400636416?s=21
Aパート→絵コンテなし、さらに作られては壊されめちゃくちゃに
Cパート→時間とスタッフ足りなかったからブラッシュアップしきれなかった
Dパート→とりあえず締め切りに間に合うように作った
anond:20210817104620 anond:20210817083054 anond:20210817032145
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。
ファーストガンダムのカイ・シデンとミハルのエピソード(大西洋、血に染めて)について、富野由悠季と安彦良和が自分たちで作った絵コンテで泣いてたっていう「ちょっといい話」エピソードがあるけど、子供向けアニメの時代的水準を考慮するにしても、キャラの成長というか肉付けのために不幸な女の子を犠牲にした作劇って感じがして、どうにも白けるんだよなあ。そのあとZ(フォウ)とかZZ(プル)とかどんどん安易かつ露骨になってって。
富野も安彦良和もそれなりに自覚はあるだろうけど、受け手はむしろ「アニメで戦争は悲しいということを学んだ!」とか本気(なのか?)で言ってたりして、で、それを富野や安彦良和は「いやそういうことではなくて」と思いつつも、結局そういう客層にスポンサードされているという構図。
最近、ある作品の二次創作でSSを書き始めたので、感想を書きます。いい大人ですが、今年に入って初めてpixivを見たようなずぶの素人です。
◯書いてよかったこと
作品そのものを読み込むのはもちろん、いろいろなレビューや派生する記事なんかを読んでアイデアを探すことで、新しい発見や解釈をたくさん知ることができた。絵コンテ集とかも買って、設定を学ぶのも楽しい。
・こんな素人の書く文でも読んでくださる人がいて、いいねを押してもらえること
村上春樹が昔、書くことは癒やしと言っていてなんじゃそりゃと思ってたんだけど、今ではそれがちょっとわかる。書いている間は嫌なことが忘れられるし、興奮状態なのがわかった。快感さえある。みんなやりたがるのがよくわかる。あと、自分の書く文が最高に面白く感じる。面白いなーと思って何回も読み返しちゃう。客観的に見られない。
◯書かない方がよかったこと
これはほんと不思議。最初は題材が被ったりしたら嫌だなって思うくらいだったのに、そのうち一番大好きだった書き手の人の作品すら読めなくなってしまった。たぶん、素人のくせに負けたくないような気持ちが出てきたんだと思う。あほらしいと思う。元々負けず嫌いなところが全然なくて負けても気にならない人間だったので、こういう気持ちは今まで感じたことがなかった。これはこれで面白いなとも思う。
・同じく、他の人の考察を読むのがつらくなった
考察というか、クソデカ感情をぶつけてる系のツイートを読むのがつらい。解釈は人それぞれなのが当たり前なのだが、この作品は公式にすら自CPの解釈違いについて文句を言う面倒な人がいて、そういう人は私の書いたものを見て何を思うのかなって考えたら、なんか離れたくなった。
書かない方がよかったことの二つは、私がこの作品にハマった直後に大いに楽しんだものだし、二次を書く動機にもなったものなので、マイナス感情が出て残念に思っている。むしろ全然大して活動もしてないのに、関係ない人に勝手な気持ちを抱いてしまっている自分をアホくさく思ってる。
前のように素直に楽しんでいた頃に戻りたい。修業が足りないのだと思って、もっと書くしかないのかな。承認欲求や独占欲が爆発してるだけのような気もするので、逆効果なような気もするけど。むしろ自分だけの一次創作をした方がいいのかもしれない。
まとめサイトだからとはいえ、スレ1つに丸々あさり氏の名前が出ないのはどうよ…
自分はリアルタイムでテレビのエヴァ観てたけど、やっぱり最初の使徒観て思ったんだよ
あさりさん?!って
自分は宇宙家族カールビンソンのときはあまり読んでなくて、
でも知ってたというかキャプテンが置いてあれば読んでたぐらいで、
どちらかというとワッハマンとかるくるくの方が読んでる方だと思うのだけど、
ガイナックスがエヴァとかいうアニメをやると雑誌で読んで観ることにしたら、
のっけからテレビであさり氏が描きそうな巨大なクリーチャーが暴れてて、
なんか形状が違うけどウルトラマンとしか思えない青いのと戦ってる
巨大だし、猫背だし、バッテリー?とはいえ活動時間が制限されてるとかカラータイマーだし、
使徒の名前はともかく、最初のと、あと短冊みたいな両手で切るのがあさり氏だった気がする
ウルトラマンだって脚本や怪獣のデザインに多人数で関わっていたはずで、
そうすると自分の頭にない意外なアイディアが他人の頭からもたらされる訳で、
これがよりいっそう作品をカオスにするというか、良い意味で統一感がなくなるというか
もう現場の人たちは単に宮崎駿氏の望んだ映像を実現するための装置に過ぎなくなってしまって、
思うんだけど、これを成立させてるのは宮崎駿が映画作品だけを手がけているからで、
ドライに仕事として考えると、書店で普通に入手できる宮崎駿氏の絵コンテはスゴいけど、悪い見本のようにも思う
あれはできすぎているし、士郎正宗氏が宮崎駿氏の絵コンテを参考に作ったM66はあれはあれで面白いのだけど、
あれもチームワークで作ったアニメというより、士郎正宗の脳内を再現したアニメになってる
色々なスタッフの色々な意見が混ざることで生み出されたものではない
多くの意見を取り入れるべきか、責任者が独断と偏見でガンガン決めて進めるべきか、は場合によるが、
映画やOVAでは独裁者は破綻しないというか、破綻したらその一本が消えるだけだ
しかし、ウルトラマンのような作品を週単位で継続するとしたら、独裁者一人の脳内ではやっていけない
寧ろ独裁者の頭にないアイディアで怪獣が作られ、設定へのアイディアもあり、
そういう良い意味で統一感がないことで良い意味でカオス、悪くいえばいきあたりばったりになることで観ている側もハラハラする
次週どうなる?!というのは、実は漫画家も編集も考えてなかったりさえするw
できるだけアシスタントなしで他人を介在させずに漫画を描こうとしてしまったようなことを言っていた気がする
このへんにコミュ症っぽさがある
疾走日記で、吾妻ひでお氏はアシスタントとからアイディアを貰うと現金を渡していたと思う
悲しい話だが、一人でギャグ漫画を描いていると煮詰まってしまうのだろう、
漫画家が疾走や自○してしまうことも意外とギャグ漫画の方が多いのではないだろうか、とさえ思う
調子が良いときはいくつもアイディアが泉が湧き出るように思いつくかも知れないが、
調子が悪くなることを予期しておくなら、アシスタントや編集からアイディアを貰うことで自分の頭を休ませるのも大事に思う
これはどんな仕事にも通じる、マラソンみたいな仕事なら寧ろ他人の助けなしでは成り立たないからだ
そういう人は、自分もそうだが、やはり小さい仕事しかできないということなのだろう
大きくて長距離マラソンのような仕事はできないと諦めるのも大事なように思った
考えてみれば、庵野氏はあんまりガンダムは持ち上げないんだよなあ
イデオンは持ち上げてたけど、ガンダムは微妙というか、学生時代のあんな動画を描いているのに…
アニメ監督って映画の監督とまったく仕事が違ってくるわけだけど、
庵野氏や富野氏からすれば、使徒とかモビルスーツのデザインとか一体一体にはあんまり執着はないんだろうなあ
あるならウルトラマンだけどウルトラマンさえ登場しなくてもいい、そんな作品が作りたいと言っていたけど、
自分はどうしてもウルトラマンや怪獣を描くレベルから考えてしまうのだけど、そういうもんなんだろうなあ
だから、クリーチャーやロボットのデザインを複数で雑多に持ち込むことで寧ろ作品をカオスにすることで現実味を増すというか
あと、鬼頭莫宏氏も新しいエヴァでは使徒デザインに関わってたのかな
なるたる繋がりとかなんだろうか
エヴァがクリーチャーデザイナー総出演みたいになるのも面白いというか、週単位で構成しやすい物語ってこういうもんなんだよなあ
原作が何なのかも知らなかったが1話冒頭の手描きライブシーンに釣られて最後まで見てしまった
男アイドル物なのに女アイドルがいるのかと思ったが男の娘だったし、男の娘だけど声優は女なのかと思ったら男だった
村瀬歩は声の幅が広すぎる
調べたところ原作はソシャゲだが初代の音ゲーは去年サービス終了しており、2代目のポチポチゲーは去年の10月を最後に新規イベント・ガチャが来ておらずそれ以降は復刻ガチャのみで延命されているという、すでに死んでいると言ってしまってもいいようなコンテンツだった
全体的なストーリーは新人アイドルが3か月でCDを3000枚売るなど非現実的ではあれど、手描きライブに釣られただけの自分が最後まで見れる程度の面白さはあった
原作主人公の女キャラはあまり絡んでこなかったが原作では一体何をしていたのだろうか
キャラクターに関しては人数が多いので掘り下げきれていないというのもあるが、正直なところ死ぬのもやむなしという感じだった
心ちゃんの出番がやけに多かったのが気になる
心ちゃんはアイドルに対してとてもストイックで真面目に取り組んでいたが、アイドルは全員そうあるべきなので、心ちゃん以外のキャラにもそういう描写を入れた方が良かったと思う
肝心の手描きライブは主人公グループ、心ちゃん率いる男の娘グループ、主人公が憧れている先輩グループ、そして最終回の全員参加ライブ(1話のライブのフルバージョン)のみだった
PAから知らない会社に制作が変更になるということで雰囲気の変化や作画の劣化が不安だったが、監督・キャラデザ・脚本などは続投で作画もPAの人が参加しており劣化は一切なく完全に杞憂だった
競馬についてはディープインパクトが強くてオグリキャップがすごい、あと武豊という人がいるぐらいの知識しかないが、1期同様王道スポ根として十分楽しめた
1期がスペちゃんとスズカメインだったのに対して2期はテイオーとマックイーンを中心にライスシャワーやツインターボにもしっかりスポットが当たり群像劇感が強くなったが、散らかった印象にはならず綺麗にまとまっていてとても良かった
2期とソシャゲでウマ娘を好きになった人にもぜひ1期を見てもらいたい
端的に言うと腐女子向けアニメなのだが、そういう要素抜きで今期一番面白かった
Freeの人工呼吸未遂やユーリの指輪のような直接的なBLシーンはなく、愛抱夢もギャグとして見れる
レキとランガはブロマンスの原義である「四六時中一緒にスケートボードをしているような関係」(出典:Wikipedia)そのままで、ジョーとチェリーが一番BL感があったが、今挙げたような腐女子をターゲットにしているであろう非BLアニメの中では一番BLから遠かったと思う
ちなみに自分のBL耐性はユーリを指輪のシーンで耐えられず切ったりだかいちがギャグとしても駄目だった程度
スケボーシーンはもちろん日常シーンも同じように力が入っていてボンズの作画力と内海紘子のこだわりを感じた
総集編があったが作画には万策感が表れておらず、総集編の内容も作中の設定と状況を活用しており、ミヤの出番を補っていて良かったと思う
でも万策しないのが一番良いし、ミヤの出番が少ないことに変わりはない
Freeの内海紘子とプリプリの大河内一楼と聞いてラストが不安だったが、特に大きな問題はなく綺麗にまとまっていた
毎回安定した面白さだった
最後にクロの過去話が来て綺麗な構成だったので原作からエピソードを入れ替えているのかと思ったら原作打ち切り(ポップコーンまで)→作者が1話をTwitterに載せてバズる→アニメ化&原作のみでは尺が足りないのでアニメ用に作者が追加エピソード描き下ろし&それをウェブ連載という異色の経歴を持つ作品だった
そのためアニメでカットされたエピソードは1本のみ、一部エピソード入れ替えがあったようだがかなり理想的なアニメ化だったと思う
ネタさえ思い付けばいくらでも続けられるタイプの作品でメインキャラの掘り下げもまだまだできそうだったので打ち切りなのは驚いたが、まともなアニメ化がされてそのおかげである程度正式な完結もでき、この世の打ち切り漫画の中でもかなり恵まれた作品になったのではないだろうか
こっちでも村瀬歩が女みたいな声を出していたが、アイチュウの心ちゃんとは違うタイプの声で、声優には詳しくないがすごいと思った
制作変更で作画は全体的に良くなったと思うがキャラデザはたいして良くならなかった
ニ乃はがらっと印象が変わり1期より好きになった
一花はこのあとフォローが入るのだろう
最初からゴールが提示されている作品なのでこの調子で最後までアニメ化してほしい
ポスト鬼滅と話題だが、男児に限って言えば鬼滅は幼稚園児~小学校中学年、呪術は小学校高学年~と住み分けできていると思う
オレンジの3DCGは相変わらず素晴らしく、しっかり芝居させているのが良い
ただギャグシーンもデフォルメができないので相変わらず苦手そう
YOASOBIは雰囲気が合っていて良かった
本編?前作?を知らないので回を重ねるごとに分からなくなっていったが、それでもまあまあ面白かった
沙都子はそんなに勉強したくないのか
ガラケーに時代を感じた、そこは改変しても問題なかったのではないだろうか
原作は結構長いようだがアニメは1クールということでおそらくカット祭りだったのだろうが違和感はなかった
シリーズ構成から原作者が失踪したあたり、内部で余程のことがあったのだろう
1期は未視聴だが2期放送前に1期範囲の原作が無料公開されていたのでそれを読んで2期に挑んだ
呪術などのように派手なアクションはないが堅実な作画でストーリーも面白かった
東映が深夜アニメを作るのは珍しいのではないかと思い調べたら正解するカドも東映だった
3期もあるとのことで期待
野島伸司のことは世代ではないのでよく知らないが、どういう作風なのかは理解できた
同じく実写畑の人が脚本を担当したグレプリと比較すると、グレプリはいつも通りに作った脚本にアニメ的要素を追加したのに対して、ワンエグはアニメ的要素を軸に脚本を作っていったという印象(実際どう作ったのかは知らない)
基本的に百合風味だが終盤のアカと裏アカについてはBLを感じた
SK∞同様万策尽きたわりには目立った作画崩壊はなし、ただしスケジュールはかなりギリギリだった模様
背動ありのアクションが見れて良かった
公式サイトの野島伸司のコメントに“いつからかドラマにも「コンプライアンス」が侵食して”とあったが、コンプライアンス的にドラマではできなくてアニメではできることというのはリカちゃんのおもらしぐらいしか心当たりがない
ただドラマでは役者が顔を出して演技する必要があるので確かにパパ活やレイプ・堕胎は役者探しも含めて扱いにくそう
パプリカのオマージュがあるらしいのでパプリカも近いうちに見ようと思う
6月の特別編が本来の最終回と思われるのでまたそのときに感想を書こうと思うが、その頃には本編の内容を忘れていそうである
1月に見に行った
作画は良かった
煉獄さんと猗窩座が戦っているところを遠くから炭治郎が見ている場面や、森に逃げていく猗窩座に向かって炭治郎が叫ぶ場面が、本当は真面目な場面なのだと思うが絵コンテのせいでギャグっぽく感じた
もともとシリアスとギャグの境界が曖昧な作品なのでもしかしたらそれらの場面も原作からそういう雰囲気だったのかもしれないが、どちらもシリアス真っ最中の場面なのでギャグっぽさを感じないようにしてほしかった
正直どのギャグシーンよりも魘夢が裸で無限列車と一体化しているのが一番面白かった
上映スケジュールの都合でIMAXで見たが普段そんなに映画館に行かないこともありIMAXのすごさはよく分からなかった
映画と言えばシンエヴァも公開されたが、恥ずかしながらTVシリーズしか視聴していないので今のところ行く予定はない
Kの頃から盗用の話は聞いていた
プレイタの傷にも盗用があると話題だがこちらは東京BABYLONのように原作がある作品ではないからか今のところ無視している模様
もう来年以降の企画も動いていると思うが今後はどうなるのだろうか
画面の独自性は面白いのでちゃんと更生してまたアニメを作ってほしい
のんのんびよりとゆるキャンは1期(のんのんは2期も)を見ていたので見るつもりでいたが1話を見ていまいち面白さを感じられず切ってしまった
前回少し触れたWAVEはSK∞とぶつかったこともあってかやはり放送しても話題にならなかったが、3月に始まったソシャゲが長期メンテしていたり作中で主要キャラが死んだらしかったりと死屍累々
朝の子供向け枠でひっそり放送と思いきやこんなことになって担当者は大変そう
情報のない制作だがアクションが描ける監督に問題無さそうな副監督とシリーズ構成とキャスト陣、そしてかっこいい音楽がついているので期待
はたらく魔王さまの2期は楽しみだがキャラデザが変わったので他の部分も不安
そしてアノス様2期が本当に嬉しい
今回は順調にアニメが消化できており、今もましろのおとを見ながらこれを書いている
巨神兵が口からビームを吹いて爆発するシーンについてあらためて考えてみる。
とかそういう言い方をしているとかいう話あるじゃない。
例のプロフェッショナルとかで、庵野さんは自分の頭のイメージを超えるもの作りたいんだ、って苦闘していたけれど、宮崎さんはそうではないと。
宮崎さんのアニメは、宮崎さんの宮崎さんにより宮崎さんのためのアニメであると。
そういうことを本当に言っているのかどうかはよくわからないし、
でも、もしそうだとしたらナウシカで巨神兵がカーっと火を吹いてバーンって爆発するところ、
あれをあのまま採用されたことって、あらためて考えるとすごいことだよね。
宮崎さん自身の中になかったイメージだったはずなのに、あれをそのまま使ったというのはすごいことだよね。
庵野さんが描いたゴミクズみたいなクシャナは直したわけだけど、その他はそのまま使われたんだから。
でも待てよ。この考え方はあっているのか?
あのカーーーっとビームを吐いて、ほんの刹那の間をおいて、バーーーンっと爆発するっていうのは、どっちのイメージなんだ。
しょーがない、買うか。
勉強というと昔々はガリ勉みたいな蔑称があるように差別の対象だった
要は、勉強ができない人たちの理屈からすれば、おまえは勉強ができるように一人だけ努力してズルいぞ、という妬み、ルサンチマンである
勉強はともかく、受験勉強にかぎって言うなら、これは「単なる」突破すべきハードルとも考えられる
つまり、資格を取得する試験のための勉強と同じであって、勉強ができない人たちに分かりやすく例えるなら、
自動車運転免許の取得のための実技や筆記のための勉強と同じである
ヤンキーやDQNは名前通りクルマやバイクが好きなので運転免許取得に例えるのが適切だろう
運転免許取得にしろ、100mを10秒で走るにはにしろ、ここでアプローチは大きく2つに分かれるように思う
そして、ほとんどの人が努力と要領の良さどちらかではなく、その人なりの混合比を持っていると考えられるわけだが、どちらかに偏ってはいるかもしれない
努力というのはひたすら練習の繰り返しであり、根性であったり、好きこそもののだったり、それを支えるモチベーション維持の工夫なども含んでいる
実際はある所まで比例したり、途中で伸び悩んだり、落ちてったり、そこからまた比例するなりの繰り返しである
努力アプローチのいいところは手ごたえを感じるというところだろうか
そして、要領の良さは、その努力の方向を決めるときにも発揮されるものでもあるわけだが、
運転免許のような資格取得にしろ、受験勉強にしろ、例えば過去問から傾向と対策を分析し、ギャンブル的にヤマをはったりもする方向性である
当然、ヤマが外れた場合は無残な結果になるわけだが、そこもギャンブルと同じである
外したらそれを挽回して余りあるものに再度賭けるとか、数撃ちゃ当たるの精神が大事である
だから、努力の人は絶対にこの大学に入りたいとか、せめて理系に入りたいとか、そういう考えがありがちであるが、
要領の良い人はそうではなく、別に大学はどこでもいいけど、この偏差値レベルは越えていたいとか、この要素さえ満たせば就職に有利だから、
しかし、上述したように、実際は努力と要領の混合比が異なるだけで、誰もがどちらの要素も持っているのである
志望校を選ぶときもキャリアにしろ、夢みたいなものと打算が入り混じったことを考えているはずであるし、それが普通である
夢しかない人も危ういし、逆に打算しかない人というのも危ういというか、人としても面白味にかけるし、本人も人生がつまらないと思い始めると思う
生まれてずっと打算を繰り返してきた人が、どこかで一世一代の博打に出ることが必要になるのも人生である
何が言いたかったか脱線してしまったが、受験勉強ができる、という結果から逆算するなら、
その人は努力ができる人なのか、もしくは要領がいい人、ということだと思う
アスリートであるなら、水泳バカみたいな天才が野球やテニスができるとはかぎらない
水泳だけは努力で優れることができたが、集団競技はまるで駄目かもしれない
しかし、要領がいい人は、
要領がいい人は何をやってもそれなりの点数を叩き出すのである
要は、その対象にこだわりがあるわけでもなく、しかしながら、その対象からそれなりの点数を楽に叩き出すにはどうするか、
そういったソーシャルハックのようなことが好きな人なわけである
だから、受験勉強ができる=ガリ勉=仕事ができない人、みたいなヤンキーやDQNの発想は間違っていて、
要領が良ければ、寧ろヤンキーやDQNでも東大に入れるし、大学を卒業した後も社会で何をやってもそれなりの点数を叩き出すのである
エヴァで言うなら、庵野氏は世渡りが上手い、貞元氏は世渡りが下手、みたいな話をどこかで読んだが、
どんな業種であれ、場所であれ、そういうことは往々にしてあるのである
天才的にメカや爆発のようなエフェクトが描けても、宮崎駿氏に言われるまでもなく、
俺って人物が描けるってわけでもないなあ、みたいに思ったかはどうかは本人ではないので分からないが、
あっさりと演出へ転向し、そこから絵コンテや監督に方向転換するのは、絵を極めたい、みたいな職人的発想とはまた異なるものである
他人をうまく動かす、というのも誰でもできるものでもない、適性みたいなものがあるように思う
そして、自分はどちらかといえば努力の人であり、要領は極めて悪く、よって努力の方向をよく間違えるのである
映像がすご〜いとかやっと完結したから〜とか、そういうのはまぁ金かかって作ってるからいいとしてこんな観てて全然理解ができない映画に絶賛の声が集ってるのキモすぎて引くんだけどなんでこんなに評価されてるの!?!?
途中で映像がアニメじゃなくて絵コンテになってるのも「うわこんなことやっちゃう俺俺俺〜!!!!!」みたいなの丸出しで気持ち悪!!!としか思えなかったんだけど…
あとセット組の中で戦うみたいなやつも「うわこんな演出しちゃう俺俺俺〜!!!」みたいな…キモ…
てかそもそも全貌を理解したかったら考察読んで2回目行った方がいい(ドヤァ)みたいなムーブもなんなんですか!?プロならバカでも1発で100%楽しめるもの作ってくれよ な〜にが「エヴァンゲリオンって、こうだから笑」だよ!考えてることが人に伝わんなかったら意味なくない?だって10年以上かけてんだよこの作品!?10年以上かけて作り上げて出てきたの『結果よくわからない』これなの嫌じゃないの!?そんなことないの?そんなこと思うこっちがダメなの?めっちゃくちゃキモ…マジでキツい…
最後シンジくんの声優が変わったのも「オキニの俳優出しちゃう俺俺俺〜!」みたいなかんじで超キモーーーーー!!!!!
いいなーーー!!!!!その歳までに最高に評価される作品と地位と権力を身につけるともはや何やってもいいみたいなの超いいなーーー!!!!!!こんな斜に構えた作品出してもファンついてきてくれるの超いいなーー!!!!!!!!
こんなこと言ってるけど、単純に自分はエヴァンゲリオン視聴層に選ばれなかっただけなんだよな…さよなら…すべてのエヴァンゲリオン…
早稲田大学の庵野氏のインタビューでゲームの開発費高騰に関する指摘があったけど、
2000年時点で見抜いていたのは流石というか、
ただ、庵野氏はコンピュータ業界の知識に疎いというか、そりゃ門外漢なんだから当たり前だろ、というのも見え隠れして、
御大宮崎駿ほどではないにしても、意外とコンピュータに否定的なんだなあ、と思ったり…
2000年だからPS2とか書かれてるけど、まだまだ技術的には先があるというか、寧ろまだまだフロンティアだった時代だと思う
庵野氏はPS2の性能が高すぎて最大限に活かせるゲームが登場しない云々みたいに思われてたみたいだけど、
あと、こういうことを感じるのは老害判定にも含まれると思うんだけど、
いずれにせよ、PS2でゲーム開発がしづらかったのはソニーがまともな開発環境を提供しなかったからだと思ってる
PS2の性能がスゴいみたいな宣伝は実際はかなりハッタリだったと思う
デモで溶鉱炉の火花みたいなのとか、アヒルちゃんが一杯の風呂で物理シミュによる衝突判定とフレネル反射を実演してたと思うけど、
実際はああいうものが比較的楽にできるような環境ではなく、あのデモだけでいっぱいいっぱいだったとさえ思う
なんかあの時期のソニーはPS1が成功したからなのか、独自ハード開発に一辺倒だったように思う
で、独自ハードは開発するけど、ゲーム開発者とか使う側のツールは疎かになっていった
時期的にもIntelのような世界一より技術的に先行しようという狙いが強すぎて、それはそれで成果や功績になっただろうけど、
久夛良木氏が描いたCellで変わるライフスタイルみたいな図は今見ても噴飯もので、
優れたCPUやGPUが人間の生活を豊かにする、みたいに言われても、は?という感しかないんだけど、
今になっても思うけど、あれは後付けの理由であって、
本音はソニーがCPU開発で世界のトップに先んじて成果を出したかっただけなんだろうと思ったり
ゲームの技術的にはこれからはリアルタイムレイトレーシングとかなんだろうけど、
まあ、ゲームの開発費が高騰してる割に回収はショボくて、大規模ゲーム開発って高リスクでしかないというのはそのとおり
コナミが小島組をリストラするのもさもありなんで、基本負け戦というのがつらすぎる
庵野氏が日本映画もとっくに駄目というのも正しくて、まあ、何をもって駄目と定義するかによるわけだけど、
ハリウッドとまともに勝負しようというのは駄目で、少ない予算で国内の客だけを相手にしてペイするのが理想なぐらいになってる
日本の映画がアメリカでショックを与えるほどだった時期もあったとは思う
確認しないで書くけど、モノクロの初代ゴジラはアメリカでもセンセーショナルだったと思う
アメリカでは当時は巨大な恐竜とかレイ・ハリーハウゼンのストップモーションモデルアニメが常識だったわけだけど、
日本のゴジラは着ぐるみであるためスムーズに動き、着ぐるみであるものの背景となるミニチュアや特撮技術がリアルさを補強した
ゴジラが吐く放射能火炎で水飴で作られた送電線が発光して溶けるなど、今見ても面白い
日本はアメリカのように金はなかったが、貧乏人が逆転の発想と創意工夫で勝ってしまった感がある
もちろん、日本が特撮で優位になったのは長続きはせず、段々と特撮自体が幼稚というか注目されなくなっていき、
それがスター・ウォーズのようなモーションコントロールカメラとか、
ジュラシック・パークのようなCG技術で圧倒的にアメリカに追い抜かれて、今に至るといった感じがある
思いつくままにだらだら書いたが、あのインタビューで庵野氏がちゃんと逆算しているのは流石だなあと思った
そういえば、「負債」というものを経営者は肯定的に、技術者は否定的に考えがちという話もどこかで読んだけどそのとおりで、
簿記にあるように「負債」があるのは寧ろ経営として健全というか、そもそも借金ゼロが成立する業態はITぐらいで、
そもそも、銀行から金が借りられるというのは、それだけ信用されている、
これまで経営が安定している、成長しているというのを示せる会社だからこそ借金ができるわけで、
町工場とかで借金ゼロ経営なんてありえない、旋盤やフライス盤を現金で一括で買うのは馬鹿げてると思うし、農業のトラクターとかもそう
庵野氏が自分と同じ技量がある人は下に当然いる前提で考えてるし、
その下の人たちも庵野氏と同じように演出とか監督寄りのコースを考えないと、一生現役で原画コースとかになるわけだけど、
御大宮崎駿は監督というか、演出、絵コンテ、レイアウト、原画、動画、全部現役でこなしてる化け物なので、
彼のような人生モデルを参考にしたら若くして過労死で死ぬわけで、
やっぱり庵野氏は生き方がうまい、貞本氏は生き方が下手というのは言い得て妙なのかもしれない
でも、インタビューに答えてた時期の心境にもよるのだろうけど、
もう駄目だよね、と言いつつもCGでエヴァをリビルドすることに戻ってきたわけで、
まあ、誰だって神様ではないので、先のことは分からない、正しい予言ができるわけではないわけだけど、
まあ、否定的な予想というのは、現在ある手駒だけを見て考えてるからであって、
そこに僅かな希望を抱きながら生きていくというのもありなのだよなあと思ったり
つまり、生きてりゃそのうち良いことあるよ、と意味としては変わらんというか同じなんだけど、
もしかしたら庵野氏の予想を外れて、日本映画なり、大作ゲームの開発費高騰なりだって、
近い未来か、遠い未来か、ビジネスというゲームのルールを変える何かが現れるかもしれないわけで、
まあ、低い確率だろうけど、
エヴァが、おたく達へのメッセージとして結局、「普通にしてさえいればいいんだよ」ということしか言えなかったのが悲しい。そりゃ俺も、きっとほとんどの大人も、他に何も思いつかないわけで、だからこそおたくは、どうしようも無くおたくな訳だけど。
「あんまり拗らせずに、ただ普通にしていればいい。普通にしていれば、普通の力学がはたらいて、普通に周りの助けを借りて、あるべき所に収まることが出来る。心配しなくても、あなたの出番、あなたにしか出来ない仕事というものも絶対にやって来る。それも、誰の目にも、もちろん、あなたの目にも明白な形で、やって来る。」っていうメッセージは、悩み一般をテーマにした物語の結末としてはよくあるし、実際、ほとんどの”元・拗らせてた”大人は、そういう結論を通って、まともになったんだと思う。
もうそういう結論でしかエヴァを終わりに出来なかったって言うのも分かるし、庵野が新劇場版を始めた意図は全然違うところなのかもしれないけど、やっぱり26年おたくを待たせておいて、最後の最後でいつもの「納得感」をフルスクリーンで叩きつける、っていうのもどうなんだろう。
アスカのケンスケとのあれこれだって、おたくを舐めているとしか思えない。アスカがケンスケと過ごして居心地良いのは納得できるけど、ある一つの言葉がアスカを救ったような描き方をするのは辞めて欲しい。エヴァは「人を劇的に救う、核心的な一言」みたいな安いドラマのアンチテーゼではなかったのか。
安易な「この世界の片隅に」みたいな場面も、本当にエヴァでやる必要があったのか?どんな状況でもしたたかに暮らす人々の力(に触れたアヤナミ)でしか、シンジを立ち直らせることは出来なかったのか?エヴァは「人をやがて救うのは、時の流れと日々の暮らし」みたいな、安いドラマのアンチテーゼではなかったのか?
庵野、結局お前さえ結論を出せなかったせいで、おたくたちは今でも、どこで聞いてきた言葉なのだろうか、”他者の痛み”がどうだとか言ってエヴァを語っているぞ。おい見ろよ、「ガフの扉」だとか「ゴルゴダ・オブジェクト」だとかの話は凄く厳密に考察できるのに、心の問題になるといきなり、曖昧な言葉でなんとなく語ることしか出来ないおたくのありさまを。心の問題は、「絵コンテにはこう書いてある」だとか、「ウルトラマンのオマージュだ」だとか、とにかく情報を集めていけば解明できるような事じゃなく、おたく自身がその”他者の痛み”とやらにしっかり向き合って、「普通に」自分の心を見つめ直していかなければいけないのに、おたくはそれが分からないんだよ。そもそもシンジだって、そういう面倒臭い奴として描かれていたのに、結局、じゃあそんなシンジが(そしておたくが)どうすれば救われるか、庵野、お前にも、結局分からなくて、急遽シンジを一定時間黙らせて、それから別人格にシンジをやらせることにしたんだろ。それであんなに、シンジの心の動きが追えないような造りになってしまったんだろ。庵野。あんまりじゃないか、庵野。ほとんど前田真宏が作ったって言うのは本当なのか、庵野。本当にあれで、シンジをシンジのまま救うことがないままで、いいのか庵野。
タイトルは半分釣り。劇場版シン・エヴァンゲリオンの感想をいくつか書く。
・一番印象的だったのは、シンジを支え、見守るのは、旧来の命令や強制しかしないオトナ達ではなくて、セカンドインパクト後に生まれた、かつての同世代の若い世代だったという事だ。
農村部の描写は、安野モヨコのマンガ・アニメの「大きなカブ(株)」と重なると思うけど、今、庵野秀明を支えているのはエヴァを見てた若い世代なんじゃないかなと思った。現在向精神薬を飲んでいる自分としては、動けないシンジの代わりに、アヤナミレイ(仮)(そっくりさん)が農村で人間性を取り戻していく過程がリアルに感じられた部分。シンジの回復とそっくりさんの消滅もそういう事かなと。
・裏宇宙でのゲンドウとシンジの描写が、急に安っぽい特撮のような背景になるのは、あそこで物語の位相が庵野秀明の内面描写に移ったからかな、と思った。今回、絵コンテを使わずにプレビズでレイアウトを決めてた辺りも、庵野秀明がパンツを下ろして内面を語る為には、従来のアニメ描写の仕方ではなく、実写映画(というかドキュメンタリー)の手法を使いたかったんじゃないかな。
だから終盤のキャラを見送るシンジは、プロデューサーの立場で、25年に渡って苦労をかけてきた各キャラをねぎらう立場だったんじゃないかな。元々は24年前のEoE(旧劇場版)で消費されてしまう筈だったキャラ達は、その後もスタッフ・キャスト・観客の中で生き続けてきたから、それを演じてきた(という体で)各キャストに見せ場と居場所を最後に与えたような気がする。それがこの作品が卒業式のように感じられた理由かもしれない。
・マリエンドは、個人的にはもうEoEと貞本版マンガでアスカエンドはバッドエンドもグッドエンドも見てしまったので、第3の終わり方としてよかったと思う。
・個人的に残念だなと思う点を上げれば、いくつかの戦闘シーンは大雑把に見えたこと。物量と情報量を上げればものすごい物が見えるわけではなく、逆に大味になってしまった気がする。
でも最初のTV版から見続けて26年経って、こんな作品を見られて本当によかったと思う。エヴァンゲリオンという作品とシンジとアスカとレイとカオルは、アニメの歴史に刻まれたと思うし、今後も神話にはならなかったとしても伝説にはなるんじゃないのかな
漫画読んでないから詳しく知らないんだけど、マリは冬月先生のとこの学生さんだったらしいけど、じゃあなんで一人だけ老けてないの?
エヴァに乗ってると老けないみたいな設定?だったけど、マリがエヴァに乗ったのってQの最初の方で加持さんと一緒にいたところが初めてじゃないの?時間軸が違ったの?
それともエヴァパイロットだから老けないって言う設定とは別の設定があるの?最初からカオルくんみたいに人間じゃなかったってこと?
魂の移動くらいはスナック感覚でやる作品なんで、若返ったんじゃなくマリもその要領で新しいボディに魂を移して、今の個体では破で初めて搭乗したと思われる
カオルくんはループしてるみたいな話だったような気がするけどループしてるってどういうこと…?
Qで死んだカオルくんとは別のカオルくんも色んなところで死んで、また月みたいなところの棺桶から同じ姿で生えてきて、死んだあとの時間軸にカオルくんとして登場してくるってこと?
色んなエヴァンゲリオン作品(TV・旧映画・新映画・漫画、etc)を生きてきて全ての記憶を持ってるくらいの解釈でいいかと
冬月先生は何がしたかったの?自分のとこの学生がヤバい道に進んで取り返しがつかなそうだから一蓮托生で最後に刺し違える気持ちだったってこと?
シンの冬月先生は個人的な野心は特になく、教え子の選択を見届ける教育者としての生を全うしたように見える
超雑に言えばエンジョイ勢
マリがエヴァをたくさん食べて、シンジくんを迎えに来たときにエヴァの姿が色々切り替わってたけどあれはどう言う意味があったの?
絵コンテのモノクロの世界に還りかけたシンジくんを迎えに行って世界に色彩を取り戻したのがマリ
アスカのシーンで、回想しながら沢山のアスカの写真が一枚ずつ消えてったのに、レイの説明の時には一枚しか写真が残らなかったのに、アスカの時には最後に2枚残ってたのはなんでなの?
惣流と式波で2枚?じゃあ惣流ってどこで何してんの?出てこなかったよね?
惣流と式波は別のキャラなので、惣流はそもそも新劇には存在しない(はず)
惣流は人間の両親がいるが、式波はデザインベイビーだから両親といえる人間がいない
おそらく綾波型クローンと式波形クローンはアプローチも完成度も違う
式波は生存競争させて完成度を高めたライオン方式、綾波型は数撃ちゃ当たるマンボウ方式かと
2枚残ってたのは見逃した
破で体を使徒に乗っ取られかけて一命を取り留めはしたけど左目は人間に戻せなかった
村を囲んでた棒のミニ版を左目に埋め込んで完全に使徒化するのをなんとか抑えてた
加持さんがサードインパクトを止めたって言う話だったけどどうやって止めたの?なんか私が見てないだけでウィレ?ができるまでの映画とかアニメとか設定とかがあったの?
なんかみんな満足とか不満足とか判断できるくらいには理解できてるみたいだし、アラサーアラフォーのオタクの共通言語的な雰囲気の作品みたいだし見てみるか〜って今年になってから見た私みたいなにわか知識では全然理解できないシーンばっかりだったけど、多分、シンジくんはお父さんと和解?できて、中学生の頃の初恋みたいなものにもケリがつけられて、自分が不幸にした世界でも頑張って生きてる同級生を見て立ち直る決心をして、ハッピーエンド的な感じで大団円ってことで良いんだよね…?
これはただの予想だけど今更エヴァンゲリオンというブランドの商売を止めるとも思えないんで、今後はガンダムみたいに庵野秀明が総監督からは退いた形で、マリという人間やアスカの14年間や加持のサード強制停止とかをスピンオフで補完していくのかなと思ってる