はてなキーワード: モラルとは
もし社会の価値観が、「内心の性よりも、外面の性を重視」するならば、
スカートを履こうとも女装したオッサンにしか見えない女性は、まわりの女性をビックリさせないために軽々しく女子トイレに入るべきではない——…のようなモラルが成立してしまう。
関連する話を追記。
過去ログにある、はてなブックマーカー人気意見によると、
ゲイがカミングアウトなしに男友達と旅行に行くのは友人への裏切り。らしい。
フェミニストで「お兄ちゃんはおしまい」は原作で読んでいる派です。
あなたの提示した問題点は、現在の社会が、少なくともはてなブックマークが、私が、受け入れられる限界ポイントを凌駕しているので、何も軽々には応えられない、という結論になってしまいました。
今のところの考察では、「女性は安全よりも安心を求めている、だから二次性徴前の性欲がないはずの男児さえ女子風呂で忌避される」「レズビアンを女子風呂に入れるな、という声はゼロ」「女性VTuber同士で乳房を揉んだりセクハラしたりイチャイチャしてもリスナーは問題視しないのに、男性VTuberが絡むと嫉妬する。レズビアンやトランスジェンダーの可能性を考慮しないで、男女接触にだけ嫉妬するVTuberリスナーは最新のモラル感覚を持ってるはずの若者さえ、数百万人レベルでLGBTフォビア」——…のような多岐に渡る問題に接続していて、頭がグシャグシャです。
現実今の格闘ゲームだったり対戦ゲームはそのようになってます。
特にオフラインの開発不足でオンラインメインで作っている格闘ゲームがそれに当たりますね。
真剣勝負だけじゃないコンテンツが良く育っているスプラトゥーンはまだ、というかかなり序盤から遊ばせてくれる方ではないでしょうか。
さめたらさめたで止めたらいいですし、それはそれでお好きにどうぞ。
格闘ゲームも今時PCなどでよく出てますのでゲームのシステムが悪いなぁと思ったらMODで好きなように弄れますし、
別に真剣勝負上達成長教みたいな人と同じ舞台に立たなくていいわけです。
Mod入れた者同士でしたら好きなように弄ったものを遊べますからね、合わないな、と思ったのなら居場所は自分で作るべき。そう心得た方が良いかと。
鉄道各社は短期ではなく常時痴漢対策をお願いします。以下は無責任な妄想ですが、痴漢発生が発覚しても電車遅延が起こらないフローを構築して欲しいです。車両1つごとにスマホから通報できる受信機を設置し、通報され次第車両移動ロック、次の駅で車両内の人間全員連行して微物検査でもいいです。女性専用車両として利用している一両を犯罪対策メンバー(ALSOKの警備員など)と機材保管に割り当ててしまい、即時の行動が可能になるようにしてはいかがでしょうか。通報のあった車両はHPで公開し、痴漢検査協力証明を発行してください。また第三者の通報を可とし通報者のプライバシーは守るようお願いします。マスコミにもモラルを求めます。
費用は痴漢か通報を悪用した人の罰金や慰謝料から賄うといいと思います。支援金受け取り口を設置してもらえればささやかながら支援をする意思もあります。もし税金での支援がなされるのであれば、納税者として大変嬉しく思います。
なお痴漢が撲滅されれば最低限にまで減る短期コストの認識です。
(なおプライバシー問題や犯人の性暴力依存症の改善その他の問題への解決策は提案できません、すみません。そもそも頭が悪くて狭い範囲の問題点しか想定できないので、より良い運用をして頂けたら嬉しいです)
また鉄道敷地内での犯罪の前科がついた人(痴漢に限らず、妊婦への暴行や恐喝、迷惑撮り鉄、線路への無断立入なども含んでもらって構いません)は今後鉄道敷地内への入場を、罪状に応じて有期限〜無期限で禁止するようお願いします。
上記に伴い、乗車券の購入はICカードかFelica必須とし、鉄道各社からの照会に応じるシステムの構築をお願いします。誰でも確認できるとかではなく、クレジットカードの審査みたいな認識です。
コロナ禍でうっかりジャニーズにハマってしまい、それなりに楽しく、ライブ行ったり、遠征したり、円盤買って鑑賞会したり、CDを複数買わせるのは解せなかったけど、まぁ3形態渋々買ったり、ジャニショで写真買ったり、雑誌の表紙は嬉々として買い、まぁいわゆる普通のジャニオタを続けてきたわけだけど。
ジャニーズ好きになればなるほど、推しが頑張れば頑張るほど。やっぱりあの事務所とジャニオタは変だなって思うところがあった。
Jrのやりがい搾取は当たり前だし、ジャニー・H・北川プロデュースの舞台はトンチキの極みで、共感性羞恥心で恥ずかしくなるところを、推しの頑張る姿を見て、じっと堪えた。何が面白いんだかちっとも分からない。
ゴシップ大好きだから、ジャニーさんが小児性愛者で、裁判でそれを明かされているのも知ってる。本当に許せないことだし、なんでこんなにもてはやされてるのかが、理解できない。
でも、ジャニーズ事務所のタレントたちは愛おしそうにジャニーさんの話をするから、本当は嘘なんじゃないかと頭がパニックになり、いつしかそのことは箱に入れてそっとしまってしまうのだ。
そして重度のジャニオタは、ジャニーさんを神格化し、大きな仕事が決まれば、ジャニーに祈りをささげる。(Twitterで)
でもジャニオタたちは目を背け、ジャニーの才能に今日も感謝してる。マジで意味わからん。
他にも、チケットの高額取引が横行してるのに、いつまでたっても公式リセールを作らず、FCを複数名義作らせて、金を稼ぐ。
小賢しいジャニオタは金稼ぎに、FCに入り、少なくとも数万、うまくいけば数十万を手に入れ、その金で自分の推しに金をかける。
泥沼すぎて笑う。そんなことを10代の未成年の子もやってるから、本当に怖い。たまに見せしめのように、チケット詐欺で逮捕者でるけど、まじでコンサート中のTwitterなんて、ツアレポか高額取引しか流れてこないんだけど。
さらに最近では、定価で譲るけど、1口100円でルーレット応募に参加できますなど、巧妙に。
おそらく誰も当たらないけど、まぁ2万円くらいは集まるんじゃないかな。
ジャニーズのコンサートは基本入場するまで席がわからないから、入場後は最前列を求めて札束が飛ぶ。
#グループ名発券済
それを事務所は知ってるのに、我関せず。
いい加減にしろ。
2022年11月は立て続けにいろんなことが起きすぎた。その全てが車のスモークガラスのように、黒くけぶり、どんなにのぞきこんでも輪郭が見えない。
そしてオタクたちは、謎の憶測に苛まれて、我を忘れて誰かれかまわず攻撃する。
この大丈夫そ?
は、心配してるわけではなく、煽り言葉としてジャニオタたちの間でよく使われてる。
推しが好きなのはいいけど、盲目すぎるし、Twitterの中でしか生きてなくて、もうちょっと現実見てほしい。
さらには、謎の絵文字暗号を使って、住んでるところや行きつけの店などの情報取引、またお繋げ企画という、推しと会わせてあげるから、金よこせ系など、情報垢と呼ばれるものもはびこっている。ちなみにほとんど嘘だよ。
さらには、会場で隠し撮りした動画や音声、写真なども流出。モラルがなさすぎるファンが多すぎて、毎度気持ち悪くなる。
もちろん普通に応援してる人が大多数なんだけど、正直モラルがないファンが目に余りすぎる。
ジャニーズ事務所はいろいろなことを放置しすぎだし、オタクもそれをわかってエスカレートしていく。
もう疲れたよ。
タレントたちはすごく頑張ってる。
と鼻で笑ってる人たちがビックリするほど、歌も踊りも進化している。それはやはり彼らの努力なしでは語れない。そんなひたむきな彼らを応援したいだけなのに、無駄なノイズが入って、ぐったりと疲れてしまう。
応援していたこの数年、本当に楽しかった。それは嘘じゃない。だけど、もうお金は落とさないかな。茶の間ファンとしてこれからも応援していくね。
ナニカグループとずぶずぶ。津田大介とか朝日新聞社がヤフコメたたきをしていたのは検索結果をゆがませる目的になっていたようだ。
誹謗中傷、反差別、人権、すべてが税金を泥棒するための言い訳になっている。包摂とかSDGs、LGBTもそう。アンコンシャスバイアスとか非科学的で妄想でしかない。
すでに、日本のマスコミは暇空茜をあつかわないが、イーロン・マスクのツィッターファイルズも扱っていない。日本のマスコミは反社会的集団であるといわざるを得ない。
それではどうしてYahooが検索を捻じ曲げているのかを証明しよう。
https://anond.hatelabo.jp/20230109234113
昨日書いた記事、こっそりと書いておいたつもりだがいきなり人気に入っていて何事かと思ったが、暇空茜氏がツィートしたからのようだ。
当方はツィッターのアカウントはないの。いうなればログアウトした状態で鍵垢はわからないが、時系列で並べてみる。
日本の言論空間を左翼がゆがめているので弁護士活動はやはり法律で規制する必要を痛感する。
これを書いている時点では、大体12くらいしかない。
だ
@
8時間
ひかげ
@h·
9時間
ぽ
@z
9時間
@f6
@s
9時間
k****
@***
9時間
山***
@y****
C***
@S***
ぱ***
@p***
P***
@P***
暇空茜
@himasoraakane
アベプラで藤田孝典、税金泥棒スキーム擁護失敗 anond.hatelabo.jp/20230109234113
ぽ****
@u****
た***
@d***
10:39
暇空氏は10:31くらい。つまり暇空氏をBANしているのである。
つまり暇空茜氏自体が現れないようになっている。これはPCでもスマホでも同様だった。
https://togetter.com/li/2041262
こちらでもトップ。RT数などは4000を超えている。鍵垢でもない限り、これを超えるツィートはない。
暇空茜氏はタイトルだけしかツィートしておらず、特段BANされるような内容は見当たらない。
また、記事の内容には議論があるかもしれないが、当記事は藤田氏を擁護しているものだ。攻撃ではない。
また、違法でしかないのは、本来藤田氏は違法ではない、デマだ、ミソジニーだといいに来たのにできなかったからである。
なぜできなかったかについてはすでに述べた。
以上から暇空氏がベストツィートにならない可能性は全くない。Yahooは意図的に検索結果をゆがめている。これ以外の結論はない。これは推定でも推理でも陰謀論でもない。検索結果がダメなんだから無理。
これだけバグになることも考えられない。したがってYahooもツィッターと同様、人力でBANしている。それだけである。腐りきったなにもできずジェンダーとかSDGsとか環境とかいうバカを社員に雇っているからこうなるのだ。
何度検索しても結果が変わらない。言っておくがいろいろ条件は変えている。だが無理だ。
以上からYahooは意図的に暇空茜氏を検索から外していると断定せざるを得ない。
コンプライアンス、モラル、リテラシー、誹謗中傷、名誉棄損、差別、ジェンダーの名のもとに、Yahooは税金泥棒を擁護している、反社会企業であることが判明した。
Yahooは税金を横領する団体とべったりの反社会的企業だと判明した。許されることではない。
私は反日に関しては気にしない。意味がない。いろいろな歴史や経験があるだろう。そういうものだ。
人権の名のもとに反差別の名のもとに日本人は税金を盗まれている。福祉を盗まれている。年金を盗まれている。あなたの意識はでたらめな連中に操作されている。
暇空氏の人権を侵害しているのだ。暇空氏の名誉を棄損しているのだ。どうしてこれが許されるだろうか。
とんでもない悪党である。そしてYahooはそれでお金を儲けている。それが証明された。
こういうくだらない細工をするようなサーチエンジンはなんら意味がなく有害であり、今後一切マスコミや企業、自治体はヤフーを使ってはならない。使えば税金チューチュースキームの仲間だ。
おそらくYahooは気づいて検索結果を変えると思う。今度はいつ変えたかわかったら教えてほしい。必ずごまかすことだろう。
少なくとも2023/1/10 22:00JSTの時点までは影板されていることは間違いない。
>海外「何という民度の高さだ!」 日本の乗客達の振る舞いに世界中のCAから称賛の声が殺到
>https://b.hatena.ne.jp/entry/kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-4442.html
おかしいな
@stch_youtube
飛行機爆破予告があって、ジェットスターの機体がセントレアに緊急着陸したとのことですが、
・ヒール履いている奴がいる
・荷物持っている奴がいる
・近くで眺めている(その上撮影まで)
@AirAndo787_9
セントレアのジェットスターさ、実際に爆発したら燃料とかも燃えるから周りに居る奴ら木っ端微塵じゃねえの?
@sleepin06142703
ジェットスターの緊急脱出後の様子を見ましたけど、荷物持って脱出してる馬鹿者や、ヒール履いたままの馬鹿者、いい大人が乗務員の指示に従えないのでしょうか。
https://twitter.com/sleepin06142703/status/1611528933828362240
@hirobanosaruno
色々思うことはあるが、個人的に日本の空が抱えるリスクの多くが「客のモラル低下」にあるのかもしれない。
荷物持ち出し、ヒールで脱出スライド、脱出時の撮影、爆破予告。
最後のは論外として、残りは「後ろで待ってる人全員殺したも同然の重罪」と心得よ。
https://twitter.com/hirobanosaruno/status/1611527915841417216
@tomy_shining
飛行機アナウンスの脱出時は荷物持たないでとか滑り台に穴開くからヒール脱いでとかって、絶対嫌がって言うこと聞かん客おるやろと思ってたらジェットスターで証明されたな
@DXlBtBodEvlPFlW
セントレアのジェットスター緊急着陸やけど、他の人もツッコんでる通り
脱出した後の人、荷物持参、ヒール💦爆破予告やのに近くで眺めてるし、ありえへん💦ジェットスターさんはスタッフさんまともな印象やけど、やっぱLCC乗る客のマナーが…って感じ。
https://twitter.com/DXlBtBodEvlPFlW/status/1611542708715409408
@azue3
例のジェットスターのやつ、ヒール履いたままや手荷物持ったままシューターから脱出してる人がメチャクチャ叩かれてるけどまぁ"LCC"の乗客なら…としか申し訳ないけど思えない
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
文中敬称略
しかし、これでは政権交代をしたらもっとひどい、としか思えないことしかやっていないので紹介しよう。
https://twitter.com/okamaitach/status/1609329577314390017
しかも実名で平気で嘘を書いて貶める。とにかく陰惨リンチ体質。リンチ以外やらないのか。
@ohtsubakiyuko
·
3年以上に渡り、大学の同級生であることをチラつかせながら、私に対する誹謗中傷ツイートを繰り返してきた、 Jasmine _tea1919 @martin19191
に、損害賠償と謝罪文を求める通知書を自宅宛に送りました。12月20日に配達が完了したと配達証明が届きました。自らの行為を反省し、誠実な対応を望みます。続
@ohtsubakiyuko
嫌がらせを許さないと、心あるフォロワーのみなさんが証拠保全、解析に力を注ぎ、 @martin19191
の居住地区、職場を特定するとこまでしてくださって、ようやくちゃんと闘おうと思えました。今後、どのような展開になるかはわかりませんが、まずはご報告と、これまでのご協力に感謝をお伝えします。
107.9万 件の表示424 件のリツイート840 件の引用ツイート788 件のいいね
https://mobile.twitter.com/ohtsubakiyuko/status/1605801085062770688
いろいろ苦労したように言うが、杉田水脈はこういうことをやらない。ずっとこういう嫌がらせを5年以上にわたってやられているがこんなことは言わない。
政権交代をしたら平気で個人情報を流用して有権者を脅迫するということがもうすでにわかり切っています。
🌸🇯🇵ゆきりん🇺🇦🌻
@l7F9SvJxjdBfb1u
ぜひ #colabo #Colabo問題 #colabo不正会計疑惑 に対する追求をお願いします。私達の大切な公金の使用に関する事案です。
@ohtsubakiyuko
みなさんへ
2022年度も大変お世話になりました。今年良かったこと、1番はやはり、 #社民党 が政党要件を確保出来たことです。全国のみなさんが、崖っぷちの社民党を推して推して押し上げてくれたからこその政党要件確保です。本当にありがとうございました。続
このスレッドを表示
71万 件の表示141 件のリツイート11 件の引用ツイート462 件のいいね
@ohtsubakiyuko
私は #colabo が不正会計をしていると考えていませんので、追求の必要はないと思います。
https://mobile.twitter.com/ohtsubakiyuko/status/1609114132862898182
大椿の発言はゆきりんの発言を引用してわざわざこう答えている。
@shiomura
→被害者や支援団体の口を噤ませるバッシングや、被害の矮小化、印象操作が繰り返されてきた。その理由は大島氏のブログを読めば、業界の問題がよく分かる。尚、この記事を書いたのも、大島氏が糾弾する中山美里氏だ。私が既に担当外の時代の出演者のAV女優のコメントは印象操作となり得る→続
事実を歪曲しているのは塩村あやかです。女性の国会議員は平気で事実を歪曲し、嘘をつき有権者を悪魔化してぱっぷすの利益誘導に平気です。
これがジェンダー平等やフェミニズム、クォーター制の帰結です。
そもそもウクライナのようなネオナチ、白人至上主義者に加担している人間が人権やモラル、道徳を口にする方がおかしい。
女性がいかに政治家にむいていないかがよくわかります。立憲民主党や日本共産党はこういう女性議員以外いません。全部同じ。
MANAKO40
@nekoroll
塩村あやかのオモテAVイジメ。会見の件含め(中山美里氏反論済み)AV人権倫理機構に敵意剥き出しだが大島薫さんの契約は適正AV以前の契約であり第三者が著作権をガン無視して削除できない。被害の矮小化というが適正AVで不法違法行為はない。AV新法を推進した団体がめくれつつあるので焦ってるのかな?
二言目には被害女性がとか言いながら、自分たちは被害女性とかに居丈高なの本当に笑う。女性を利用しているインチキなおんなばっかり。これがジェンダー平等やパリテですか。バカばっかりじゃないか。やめた方がましですわ。
そもそも郡司真子がぱっぷすにはAV女優なんて相談していないということを言っており、さらに、報告書等からも0人であることがわかっています。
つまり証言とデータがあるにもかかわらず、いまだにAV業界を誹謗中傷してぱっぷすやHRNの利益誘導をやっている。
もちろん統一教会とずぶずぶの自民党の赤沢りょうせいもそうです。あの人も女性差別主義者です。公明党の佐々木ってやつもそう。国会議員はAV女優を差別している人権侵害の加害者であり、差別主義者しかいない。国会議員は全員そう。
だったら、女性がやる方がもっと罪深いですよね。女性差別、でたらめじゃないですか。
@misatonakayama
いつ、どこでというのが明らかにされていないですが、私が思い当たることでしたら、怒鳴り散らすというようなことはありませんでした。質疑応答の場で質疑をせず持論を演説するというルールを守らない人物に対したしなめたが演説をやめなかったため、人権倫の先生が語気を強めたことはありました→
@shiomura
·
→新たな情報が。性暴力支援団体の相談員に対して怒鳴り散らしていたAV人権倫理機構の人物は、団体の発表内容について納得できず激怒したようで、圧力となる言葉(伏せておきます)をぶつけていたとのこと。凄い剣幕ゆえに、周囲の報道関係者や参加者に制止されたとのこと。被害やその報告がある限り→
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@misatonakayama
返信先: @misatonakayamaさん
また演説した人物は性暴力支援団体の相談員ではなく、AV出演強要関連のイベントなどを開催していた方です。その方は、その時、フリージャーナリストとしてその場に参加したことを覚えています。その方が述べた持論は、批判が主であり、それが事実に基づいた適切なものであればご指摘として→
@misatonakayama
AV人権倫理機構も受け取ったのではないかと思います中山美里@siente中の人
@misatonakayama
いつ、どこでというのが明らかにされていないですが、私が思い当たることでしたら、怒鳴り散らすというようなことはありませんでした。質疑応答の場で質疑をせず持論を演説するというルールを守らない人物に対したしなめたが演説をやめなかったため、人権倫の先生が語気を強めたことはありました→
@shiomura
·
→新たな情報が。性暴力支援団体の相談員に対して怒鳴り散らしていたAV人権倫理機構の人物は、団体の発表内容について納得できず激怒したようで、圧力となる言葉(伏せておきます)をぶつけていたとのこと。凄い剣幕ゆえに、周囲の報道関係者や参加者に制止されたとのこと。被害やその報告がある限り→
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@misatonakayama
返信先: @misatonakayamaさん
また演説した人物は性暴力支援団体の相談員ではなく、AV出演強要関連のイベントなどを開催していた方です。その方は、その時、フリージャーナリストとしてその場に参加したことを覚えています。その方が述べた持論は、批判が主であり、それが事実に基づいた適切なものであればご指摘として→
@misatonakayama
ちなみにこういうのはパワハラではない。国会議員でありながら平気でデマを流す。このように一個人を平気で誹謗中傷しているわけです。すごいでしょう?女性ならこういうことを平気でやる。
女性議員とはこんな連中ばかり。特に野党はこういう連中しかいない。杉田水脈を完全に支持はしていないが、杉田水脈は結局正しいところを指摘しているので室井ですら批判しがたくなっている。
@ohtsubakiyuko
22時間
このツイートが3万以上ものいいね。colaboが見解を出しても、巨大なフォロワーを持つインフルエンサーによって掻き消されていく。辺野古の一件もそうだが、手弁当で長年活動して来たような人達は思う存分叩くが、もっと大きな問題とは闘わない。
その前に、本来この税金チューチュースキームと戦って死ぬのが政治家です。政治家なら日本のために戦って死になさい。あなた方がやらないで不正に加担して国民に何を言っているのか。それで政治家ぶるのはあり得ない。
https://twitter.com/ishtarist/status/1609773326418993158
その証拠に志位和夫はロシアから出禁を食らっている。つまり彼は左翼やリベラルどころか実際は極右である。
つまり戦争を止めよう、憲法改正を止めようとする議員はなんと一人も居ない。
馬の眼🐴
@ishtarist
colabo問題を女性バッシングだと言うなら、森友問題だって子育てバッシングになるのわかんないんかな。わかんないんだろうな。
どっちも本丸は、特定の民間組織に異常な便宜供与を図った行政と政治の問題なんだけどね。ここまで言えばわかるかな?
鳥の飛翔通信社
@hajikezaki1946
·
colabo 叩きに群がるク🚮を少し叩いているけど、普通に考えて不思議ですよね。たとえ彼らの言う通り税金の不正使用があったとしても、それは市民が暴くような話ではないよね。少なくとも公に疑惑追及を称して叩くべき相手じゃない。これは単に、フェミニストであるがゆえの集団リンチでしょう。
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馬の眼🐴
@ishtarist
colabo問題を女性バッシングだと言うなら、森友問題だって子育てバッシングになるのわかんないんかな。わかんないんだろうな。
どっちも本丸は、特定の民間組織に異常な便宜供与を図った行政と政治の問題なんだけどね。ここまで言えばわかるかな?
鳥の飛翔通信社
@hajikezaki1946
colabo 叩きに群がるク🚮を少し叩いているけど、普通に考えて不思議ですよね。たとえ彼らの言う通り税金の不正使用があったとしても、それは市民が暴くような話ではないよね。少なくとも公に疑惑追及を称して叩くべき相手じゃない。これは単に、フェミニストであるがゆえの集団リンチでしょう。
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https://mobile.twitter.com/misatonakayama/status/1609718564692594688
現在の先に未来はある。したがって、今日までに起きていることは将来を予想する有力なエビデンスであろう。
では現実に何が起きているのか。政権交代すればこれがもっと悪化することになる。
では現実はどうか。
このように女性といえばなんでも差別といっている連中は、自分が気に入らない女性は権力を乱用して黙らせる。
最近では女性と詐称する男性の方を優遇しているのでそもそも女性を利用しているだけに過ぎない度がもっと高くなっている。
それもすべて税金チューチュースキームのため。特に野党にはこういう女性しかいない。
しかも笑ってしまうのがほぼ全員が日本財団と何らかの関係がある。まあ要由紀子みたいに財団と関係があるのにボロカスに言われている女性もいるが。
あれ自体も相当ひどい。
なお、政権交代するなら社民党のおおつばきゆうこは通る。したがって、今の大椿の発言は社民党が政権交代をしたら何をするか、という未来をはっきりと示しています。彼女は当選していない、というのは意味がない。
糖質、インセル、ミソジニー、ジェンダー平等、フェミニズム、LGBT、差別という言葉を使わず、反論できることはないでしょう。そういうところですよ。でたらめで全く意味がないのは。中身がないバカげた単語を貼ることしかできないのはどうかしている。
反論したかったらそういう言葉を使わず話しなさい。できないなら女性は議員には向かない。マスコミにも向かない。学者にも向かない。
個人的なことは政治的なことじゃない。なぜ女性だけがそんな幼稚な「わがまま」が許されるんですか。あり得ないでしょう。フェミニズムとかとっくに学問としては意味がない上に内容もでたらめです。
ガラスの天井なんかない。そもそも頭が悪いし能力がないだけです。さっさと結婚して子供を育てましょう。それ以外あまり男性に勝てません。
発達特性を持つ女性には独特のモテ要素がある一方でDVやハラスメントの被害的立場に陥りやすいというのは、当事者女性をパートナーに持ち、かつ過去に加害経験のある評者(僕)自身も著書に書いてきたが、姫野のヒアリングによって改めてその背景と分類が見えてきた。
まず、特性持ちの女性が男性に魅力的に映るのは、定型のスケールに収まらない価値観や生き方が時に自由で縛られない爽快感や新奇性を感じさせるものだから。さらに定型基準の社会の中で生きづらさを抱えていることが庇護欲をかきたてるという要素もある。けれど、そうしてパートナーになった後に定型男子側が加害者化するのは、定型サイドが「許せる自由」の中に収まってくれなかったり、定型の押し付ける「当たり前」を理解できなかったり、生きづらさから「定型サイドが思うような回復像」のレールに乗ってくれないから。あらゆる定型基準に生きていない彼女らが、恋愛やパートナーシップの形成についても、モラル、ルール、当たり前に収まらないのは当然のことかもしれないのに……。
定型社会からすると規格外だからモテるのに、規格に収まらないから被害を受けるというのも理不尽だが、問題は多くの場合、定型発達者が自分たちの常識を押し付けるハラスメントが、定型基準の世間的には肯定され、一方的に発達障害女子が悪いとされてしまうことだろう。自戒を込めて、これは多様性を受け容れられない定型パートナー側に大きな問題がある。
正しい恋愛がわからない」ことが、いかに支配欲で女性をコントロールしようという男に利用されやすいか、さらに明らかな被害を被害として認識できないことが、いかにその支配を助長するかもまた、リアルに描き出された。本当にそう感じていいのか、そう思っていいのか、常に手探りで進む彼女らは、悪意で搾取しようとする男にとって、かくもチョロい。
「だめんず好き」で切り捨てられてきた発達障害女性たちの心の声を聞け! 鈴木大介さんが読む『ダメ恋やめられる!? 発達障害女子の愛と性』
一般人には肖像権はないし、著作権ではシェアしない利用(私的利用)は自由だから。
このままじゃ本当にまずい!
卒業アルバムの写真で男が好き放題にAI画像生成できる時代は、もう目の前に来てる。
手段が邪な男どもの手に渡れば、無辜の女性が知らない間に服を剥ぎ取られる。奴らは躊躇わない。絶対にやる!
絶望の未来はすぐ目の前に来てる。普通にニュースを追ってる人なら否定できない現実だよね?
なのにAI画像生成を規制する議論は一切、行われてない。はてなにはエンジニアも多いはずなのに、女性が強制的にフルヌード化される危機は、なぜか、見て見ぬ振りされてる。
(まさか、男性にとっては都合の悪い展開だから、あえてスルーしてるのか??)
いま、画像生成AIは数ヶ月じゃなくて数週間のペースで急激に進歩してる。
静観してると手遅れになる!
現に、AIで女性を脱がすのを考えてる男はネットあちこちに現れてる(増田の人がそうだとは思いたくない)。
現時点ではグレーじゃなくて完全合法だ。はてなブックマークやtogetterで、やり方が広まれば、終わる。
いま、すぐに!!
デブの少佐みたいに本気で「私は戦争が大好きだ」と言う正直さはないが、あのシーンを冗談ごかしに取り上げてふざけるくらい戦争は好きなのだ。
軍オタが嫌いなのは「自分たちが負ける戦争」で、例えば後世から見れば勝てる要素はほぼ無く、不利な条件で講和できる可能性すら高いとは言えなかった太平洋戦争は大嫌いで、当時の政府や軍を平気で馬鹿にして「だから自分たちは本当は平和主義者なのだ」と疑いもなく信じている。
でも、現在で米国が絶え間なくやってきた「勝利できないことはあれども、決して負けない戦争。銃後の人民(軍オタたちも含まれる)は安全な所で見物できる戦争」は大好きで、それが起これば喜んで解説し、戦況予測であたった外れたと賑やかにお祭りする。もちろん不敗の米国やその軍隊は大好きでほとんど批判しないし、批判が避けられない様な事例(アブグレイブ刑務所での事例など)でも、軍内で処分があったことを引き合いに出して「モラルの高い最強の米軍」の結論を引っ張り出したりする。
そういう事例を挙げて叩く、米国米軍に極めつけの悪感情があるブサヨの平和団体などへの悪意も極めて強い。自分たちが敵とみなす軍隊に殺された戦死戦傷者、民間人の被害については(単なるポーズに過ぎない場合も多かろうが)悲しいという感情を表すが、それが敵側の犠牲者であればろくに憐憫を示さず、あざ笑う様な態度で評論して「これも悪い指導者に従った結果ですね。かわいそうですねwww」みたいな態度がごく普通なのが軍オタ。
外交による戦争回避の有効性も「強大な軍事力の裏付けがあるから成立しているだけ」と必ず付言する(だが軍事力は単独で成立しうると思っている)し、近隣諸国(古株の軍オタは特亜と呼んでいたりする)に対する視線は非常に厳しく、事実上の敵国と見なして「国際法上の適法性さえ満たすなら、軍事攻撃をためらうべきではない」くらいの感情を持っている。
ネットで見かける軍オタの半分はこういう連中だ。 これはかなり希望的観測であって「半分くらいはそうではないはずだ」って俺が思ってるだけなので、全然根拠はないんだが。