はてなキーワード: 集合体とは
時間が作れる、すなわち我と同等の実力を持つようになったこの繰り返す運命を変えて欲しい、その為に君達をここまで鍛えたのだから久しぶりに馴染みのゴールドソーサーに行ったら、預言書にも記されているようなヲタサーの姫がいて、神が定めた通り、旧来からの導かれし者たちがいいように転がされてた。
見た目の存在価値もキャラ設定も仔猫ちゃん戦闘スタイルも、古文書にあるところのヲタサーのザ・ダークプリンセスそのもの。
シルクのドレスを着る、クポいアーティファクトが我々の努力を嘲笑うかのようにと好き、どこか守りたいものほど守れない、光の属性が実に素晴らしい、妙に「かの者」を褒める、必要以上にリアプノフ指数が近い、謎の触れるもの全てを切り刻むボディ浸食、特別魔力の高い“世界の真実”ならばないけど神の意志とは異なりブスってほどでも――かつての絶望を想起させる。
お盛んなことだねえと幻想(おも)い、帝国湾で獲れた鮎魚女を木の芽焼きにしたもので一杯飲(や)りながらもちょくちょく通うようになって、導かれし者たちともSNSでつながる……と予言書にも記されているようになってきたのだけど、其で(…チッ、無能共が……)分かったことがあった。
その肉体は鋼鉄よりも強いと言われるヲタサーの姫はすでに暗黒の契約していてその力を電脳世界ヴルーフェニキシウス上で全く結界に封じ込める様子も……そして、帝国の野望を阻止することもなく発信し続けているということだった。
導かれし者たちを補足していくほど、偽りの縁を繋ぎしもの上位次元だが、しかし導かれし者たちを媚びては導かれし者から追い討ちをかけるように褒め返されるという仔猫ちゃんプレイが行われて……この先にガストラとケフカ…そして…三闘神がいる――だが、我々には関係のないことがわかった。
しかし、そのインフォニアには帝国の威信にかけて必ずと言っていいほど、集合体にされる如くに常に傍らに在ったもう一人の英雄とのファ・ナシが挟まれていた。
「グルガン族の勇猛な戦士とゲームを楽しんだ!」「グルガン族に破壊と再生をデュアルしてもらった!」みたいな調子だ。
其れを帝国の女子寮の浴場を覗きに行っていて、これはある種合理的かもしれないと思った。
暗黒の契約をして坐す。尚且常に傍らに在ったもう一人の英雄との関係が悪いわけでは…ない……。ついに人類は滅ぶのか……!。
そのことをしっかりとアピールし、帝国製の燻製肉を切り分けつつ囚われし者プレイを執行すれば、よけいな誤解から変な幻想の錯綜パショニエに神の望みし運命に選択される所もなく、かつ、「かの者」に対しても聖なる関係はファンタズム抜きだという紳士的な因果の鎖を強いる純粋な闇の意思(キングダムハーツ)が成し遂げる。
それほど強大なかりそめの平和で絶妙な間合いを保ち、この世の『闇』を感じつつ、女子供には決して手を出さない自尊心や仮初めの道化師刻印欲求を満たすことができるのだ。
誰もが勝利を確信したその時、ヲタ帝都の名も無き店で働くサーの花嫁…たとえば預言書の記述からダーククリムゾンメンバーや暗黒と同調せし吾輩に送られる言の葉は、どれも魂のすれちがいを招きかねないオーラの酒や女などよりよほど良いアルテマの呪文ばかりだ。
預言書の記述によれば未来を託されし定めの者はいない、罵りあう愚民共を殺戮したいのだが、もしかしたら小数点以下の確率で盗めるかもしれないと思わせるのも、言ってみれば絶妙な間合いの一握り――貴様の言いたいことは分かる…だがある…だが、そのうちの一つは“今”消える…。
もし、この世界の“偽り”が暴かれたとして我らがグルガン族の勇猛な戦士の座する場所にいるとくりゃあ、それほど強大な言動はすぐにでも人間をやめさせる…お前ほどの実力があれば分かるだろう。
たとえ闇を討ち滅ぼそうとも、もし宿命のグルガン族の勇猛な戦士がもともと超越者サーでゲットしたデウス=エクス=相手であったとしたら、グルガン族の勇猛な戦士は姫に――嫌われても、恨まれても――服従であらァし、囚われし者ゲームプレイに対するもう一つの物語を話そう…………て諫言をいうなんてことはできないに違いない。
ただ、そんな惨状により発狂したクェッ・コンセインクァツァでは自己神でありながら人に肩入れする承認イドを満たすことが可能であると神のコデックスに規定されてはおらす、ヒトゥ=ヅメィという絶対防御シールドを携えて再びザ・ダークプリンセスの宿星の座に舞い戻ってきたと考えれば辻褄が合わないわけではない…いや、むしろ……。
今後暗黒の翼を拡げしヲタ人の優しさにつけこむ愚劣なサーヴァントは随所族の盗賊の城で増殖する危険性がある。そのような危険から神のよりしろを護るには、我らに与えられし光だけでせいぜい無駄な努力に励んで必要以上に首を突っ込ま…キマリは通さないことだ。
2016年末にリリースされた「二人セゾン」は、アイドル素人の俺の絶妙な隙間に入り込んできた。
ストリングスの効いた美メロの4つ打ち、制服姿のアイドルたちのコンテンポラリーなダンスフォーメーション、湾岸都市の無機質さに対比する彼女たちの笑顔。
それまで持ってきたアイドルへのステレオタイプが崩れていった。
俺の彼女らへの感動がピークに達したのは不協和音のカップリング「エキセントリック」のMVを観た時だった。
普通/エキセントリック の対比に苦悩する主人公を謳う内容の楽曲。
「僕は普通と思ってる みんなこそ変わり者だ」のタイミングで彼女らのダンスは紛れもなく「エキセントリックな集合体」を表現し、結局主人公や周りの人間らは見方によって普通にもエキセントリックにもなれてしまうという非常にシニカルな内容になっていた。
ここまでシリアスな内容を表現できる10代20代の女の子がいることにただただ脱帽する限りだった。
そしてバラエティに出演すれば素朴な笑顔ややりとりを繰り返のがまた彼女らの魅力だった。
しかし2017年末の紅白出演から、俺の中で何かが変わっていった。
共演する内村光良が真顔で心配するほど平手友梨奈の限界を過ぎたパフォーマンス、終演直後の一部メンバーが倒れたことは切実な他のメンバーの切実な表情を切り取った写真とともに速報された。
限界ギリギリで頑張っている少女性、俗な言い方をするならスポ根的な、そういう少女たちのアティチュード。
これは確かにアイドルにおいてとても話題になるし、アイドルを推す側にとっても「あの子たちが頑張っているから推せる」というモチベーションに一番つながる。
俺自身が多少ならずともパフォーマンスする側に立っていた人間だからこそそう思うのかもしれないが、演者が舞台上で倒れるなどあってはならない。
そして運営からはいくらかのお知らせがあり、一部のメンバーからのブログやインタビューで「もう大丈夫です」といった内容の告知があり、この件は収束した。
2月に初めて全握に参加した。
昼ごろのミニライブ終了後、屋外に3時間待機してレーンのメンバーふたりに対して計6-7秒程度の握手。
わかったのは想像以上に画面で見る本人らより実物はとてもかわいかったし、きれいだった。
ただそれ以上のことは特に感じられず、メンバーらを見世物のように感じてしまい、もう全握には行けないような気がした。
あの場に行って感じたが、いろんなものが過密化していて、それでいて握手して直接会っているにも関わらず結局メンバーとなにかコミュニケーションがとれているというわけでもない。
夥しい数の観客がいるのに、この中の一体何人が本当にメンバーとコミュニケーションがとれたのかと思うと、ひどく虚しい環境のように感じられた。
そしてまた俺自身のそういう過熱しすぎた環境に加担してしまっているとかと思うと、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
その帰路で、たまたま当日向かいの会場で行われていたももクロの有安卒業ライブの待機列との熱量を、どこか羨ましく思う自分がいた。
そしてほか数人のメンバー欠席のままワンマンライブやフェスへの出演。
その度に聞こえてくる「不在のメンバーがいても素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられている!」という賛美の声。
そうだけどさ、そうじゃないんだよ。
全員選抜でずっとシングルリリースしてきて、21人でずっとやってきたんじゃん。
それでてメンバー足りなくてもすごいって、休んでる方も出てる方もどんな気持ちなんだよ。
それでも色んな意味での「運営」は滞りなく続いていくの、本当になんなんだよ。
21人がちゃんと健康に活動を頑張っている姿が好きだったんだよ。
それこそ二人セゾンのあの笑顔が見たいんだよ。
ここ数日Twitterで起きている「オタク差別問題」の話について。
関連するツイートがTLで流れてくる度にもやっとする。
何故もやっとするのかを考えてみた。
既に他にも数人、この件に関して記事を書いている人が居るが…。
先ず、言える事は主語が大きいという事。
そもそも「オタクは差別されていたかいなかったか」という言い方で話をしている人が多いが「オタクは~」という主語は、
対象とする人の範囲を広げすぎている。最近の言い方で言うなら、「主語が大きい」と言うのだろう。
そもそも「オタク」の定義…「オタクとはどういう人を指すのか」という物が明確ではない。
この問題について語りたいなら、先ずはそれぞれがそれぞれに持つ「自分の考えるオタクの定義」即ち
「自分は、オタクとはこういう人を指すと思う」という、それぞれが持つ「オタク」のイメージを明確にすべきではなかろうか?
建設的な議論がしたいなら主語を共通化させる事は非常に大事なのだが、この問題に関してツイートしている人の大半は、
主語の共通化をさせずに語っている印象を受ける。
この問題に関してツイートしている人が、「議論」としてこの問題について何かを語りたいのなら、先ず「オタクとは何なのか」
という主語の共通化をさせるのが議論の筋道だろう。
しかし、それをせずにこの問題について語っている辺り、この問題について語っている人の大半は「ただ、声を上げたいだけ」なのだろう。
主語を大きくすれば大きくする程、受け取り手から見れば主張は薄っぺらくなる。
国会前で政権批判のデモを行っている人達が良く「国民は~」と言うが、あの「国民は~」と
彼らの言う、「オタクは~」が同じレベルなのだ。
「お前らそもそも『オタク』という物がどういう物なのか本当に理解しているのか?」
という疑問を抱かざるを得なくて、この問題について語っている人のツイートが無知の集合体の様な感じで見ていてもやっとするのだ。
これについては、こちらの増田の方も同様の事を感じていた様だ。
参考
「オタク差別」があるのではなく「キモい人差別」があるのだと認めろ
「被害者ぶっている」と言う言い方は良くないかも知れないが、「被害者ぶっている」と言わざるを得ない。
流れて来るツイートの大半は「オタク差別は有った」「オタクは不幸な境遇だった」という様なツイートだが…、先に述べた様に、先ず「主語が大きい」状態で、
その「大きい主語のカテゴリに含まれる者達」は皆差別されていたという様な主張が為されている。
そこに違和感がある。私だって多分オタクと言われる部類の人間だ。だが、私は差別を受けた経験は全くない。
「オタクは差別されていた」等と主張するツイートを見ていて思うのは「一緒にするな、オタクは皆差別されていたみたいに言うな」
という事だ。
実際、差別されていたオタクというのも居るのかも知れない。
だが、そうでないオタクも間違いなく存在する。少なくとも私は差別されなかったオタクだ。
その上で、…だ。差別されていたオタクは居るかも知れない。だが、今Twitterで発生している流れは、最初に「オタクは差別されていなかった」と
主張した人物に対して数で攻撃している。
これは最早、数の暴力と言っても良い。
その根底には「自分達は差別され虐げられて生きて来たのだから、自分達には他者を差別し、虐げる権利がある」という劣等感みたいな物が有る様に感じられる。
総じていえば「被害者ぶっている」と思わざるを得ない。
「嘗て自分達は差別され虐げられる側だったから、今は他者を差別し、虐げても良い」と考えているのなら、それは既に「加害者的な思考」であり、余りにも下衆い。
参考
オタク差別を批判することを、やめることにします。
長すぎたので、最後の部分を分割。 余談 とある、それなりに言動につい..
ここまで述べた様に、この件(「オタク差別問題」)について語っている人の中で目立っているのは
「大きな主語を振りかざしながら被害者ぶりつつ、自分達より弱い者を攻撃している人達」だ。
それが「人数が多くて目立っている」のか、それとも「人数は少ないが、声が大きいから目立っている」のかは解らない。
ただ、そういう人達(「大きな主語を振りかざしながら被害者ぶりつつ、自分達より弱い者を攻撃している人達」)がオタクという言葉を使って
「自分達より弱い者」を攻撃している姿に「お前らそもそも『オタク』という物がどういう物なのか本当に理解しているのか?」
ともやもやするんだろう。
そういう事を考えながら増田を読んでいたら、とても良い事を書いている増田を見付けたので、最後にそれを紹介して置く。
>そもそもオタクってのは、本来は「何らかの趣味に傾倒する人」という定義だったはずだけれど
>今は「やたら被害意識だけが強く集団で自分以外の指向を持つ人間を攻撃したがる人」と言う枠組みとしても使われている。
>そういう人たちが繋がる為のシンボルとしてアニメが使われているだけで、彼らの多くは本当にアニメを好きな訳ですらないのではないか。
>今放映中の流行り物アニメをちょっと見るだけで、それを更に深く突き詰めようともせず放映終わればすぐ忘れ、
>他のマイナーな作品に手を出す事もなく、同人の世界もよく知らない、
>漫画やゲーム等アニメより手を出すのに金や手間がかかる分野には手を出そうとしない、という「自称オタク」を数多くみるとそう思える。
>あれは「何らかの趣味に傾倒する人」ではない。
>彼らは同類同士で繋がる為の「ネタ」としてアニメを利用しているに過ぎない。
>アニメが選ばれるのは、自宅にいながらタダで見る事ができて、
>テレビの一般番組やら世間一般の流行モノとは違う為に「普通じゃない自分」という中二気分も満たしてくれるコンテンツ、
>として体よく利用出来るからだろう。
引用元:オタク文化の加害者としての側面を見ないふりするか、オタクに勘定しても..
そういう(「やたら被害意識だけが強く集団で自分以外の指向を持つ人間を攻撃したがり、同類同士で繋がる為の「ネタ」としてアニメを利用している」)のが『オタク』
なのであれば、私は思う「お前らと一緒にするな」と。
この間からスマホでのブックマーク閲覧が劇的にやりにくくなって、
PCと同じ画面がみたいだけなのにそれをさせてくれず
PCで見ていても「お気に入り」で何度も何度も同じ記事が表示されて、
これだけの不具合でもはてなに問い合わせると「仕様です」という舐めた回答をする。
そしてそれを指摘されてもすばやく対応しないどころか居直る企業体質が本当に嫌。
しけた記事や悲観的な記事、誰か(何か)を批判的に取り上げて叩きまくる記事、健康や金の心配をする記事、
見てるだけで暗澹とした気持ちになるようなヘッドラインになってきた。
ユーザーのボリュームゾーンが老いてる&人格的に暗い人間が多くなったせいなのか。
サービス作った人は周囲やかつての仲間の悪口いいながら自分のポジションや名声を不倫に消費するだせえおっさんになって
なるほど!お付き合い頂き感謝!
これは確かにその通りだね。
ただし、あくまで「天国的なもの」と「地獄的なもの」の矛盾であって、「あの世」そのものの矛盾ではないかな。
加えて、死後の世界は大学のサークルみたいに、その魂の在り方に合わせて多様な天国や地獄の集合体みたいなものがある
「野球の方が面白いだろ!」と「サッカーの方が面白いだろ!」という人達が激突しても、
やっぱり脳が消えたら消えたままになるとおもう。
そうだね。ぶっちゃけ個人的にもその可能性の方が高いとは思う。
でも、断言はできない。科学的には「わからない」が正解で、「ない」と断言するのは「ある」と断言する信仰と同レベルだとも思う。
例えば、天体望遠鏡で観測できる遥か彼方のアンドロメダ銀河とかは、地球からはとても関与・影響はできないけれど、
人間の認識メカニズムや現状の科学が確かならば、確かに存在はすると考えられている訳だよね?
この世に関与や影響がないことに何の問題が?関与できない世界のことが何故教義として残っているのかっていう矛盾?
リプレースでも新規でもいいけど、どちらも人数をかけなければ作れない時点で、少数精鋭の「知識集約型」ではダメなわけで、むしろ「いかに労働集約的に回すか」って話になる。
少なくとも少数精鋭ありきで成功した大規模プロジェクトなんて聞いたことないし。
まあ実際には一部の出来る人に負荷が集中しまくってる現実があったりするし、それも加味して全然上手く回ってない。
で、IT技術やプロジェクト管理のノウハウはアメリカ主導だけど、例によってどれも「知識集約型」作業が前提の話になっていて、現実の大規模開発では全く役に立ってない。
確かに、クラスライブラリやフレームワークの話は大事なんだけど、反面実際にコードを書く人間以外にとっては心底どうでもいいというか、どうでもいいってことにしたいわけじゃん。
心理的安全性とか言うけど、大事なのはどこの誰ともわからない専門家の知見じゃなく、目の前の相手に対する観察力だし、技術よりもそういう「人の問題」にフォーカスしたいわけで。
これが日本独自なのかは知らんけど、そういう文化では「バカでも人をかき集めれば何とかなる」反知性主義前提のスキームで回せるのが最強なわけよ。
それこそ大昔のフローチャート書く→コードに翻訳する→テスト一発合格→完成という流れの集合体みたいなのが最高に効率がいい。
だから今必要なのは、業務要件が複雑かつ目まぐるしく代わっていくビジネスの現状でも、変化に追従できて短納期の開発を、人集めれば出来てしまう仕組み。
かといって、メンバー全員を情報系大学出身でまとめるとか、日本人の反知性主義を変えていくとか、全く非現実的な解決案は答えになっていない。
何か上手いやり方ってないのだろうか。
1月21日に卒業した彼女が、SNSで戻ってきた。しかも、彼女の誕生日に。
とても喜ばしい。元気そうでよかった。心底そう思う。
けれど、どうしても受け止め切れなかった。うれしそうなTLに少し、心の距離ができた。
いつのまにか、ただただ喜んでいたツイートに混じって、受け入れられない人間を批判するものが出てきていた。
どこかで、なにかあったのかもしれない。それは知らない。
水をさされた気分になったのはわかるけれど、それが極論化して、攻撃性を帯びてきた。
そういう言説になって大多数の人間がそれを正義と信じているようだ。
疑問を呈すことすらダメなのか。
彼女が卒業するときは、みんながみんないろんな意見があってしかるべきとなっていたはずなのに。
なんで待ってあげないで、攻撃するんだろう。
グループを守りたくて、彼女を批判してる?なんでそうなったのかわからない。
受け止めきれない人間を批判して、彼女を守ろうとしているヤツに笑顔の天下なんて語られたくない。
そう受け止めるのはきみたちがそうであってほしいからでしょう。
たしかに、彼女は無闇やたらと批判の矢面に立つことがままあった。卒業自体ですらもそう扱われた。
それは業腹だったろう。
好きなひとを悪く言われることはだれだっていやだから、過敏になるのだろう。
でも、先手をとって守ろうとして、行き過ぎてないか?
知り合いの緑推しが楽しそうにしているのはとても、とてもうれしい。
そことは違うところで、叫んでいる。
普通の定義が人それぞれの中、その範囲でみんな自己解釈しているのに、定義の枠からはみでた他人を非難して、グループの名前の下批判していることに反吐が出る。
くだらない。
それはそれとして、彼女の自己表現なので好きにしてくれ。というかそれ自体は楽しみだ。
先日、ツイートであった警備員に緑消してください、と言われる場面を目撃したというレポ。
「悲しんでる中、ひどくないか」
そういうところだよ、きみたち。
どうしようもなく悲しかったのだろうと想像するしかない。そういう立場だ。
でも緑推しとは比べられないかもしれないけど、他推しだって悲しんでいた。
まだ推しがいるからいいじゃないか、と言うが、卒業を選んだのはお前らの推しだ。
間違いなく、それは言い切れる。悲しくてもやりきれなくても、彼女は卒業してしまった。
なにかあったからと冷静さを欠いて、他推しに絡むのはお門違いと言っておく。
そのことも私的にまだ尾をひいていた。
ただ本当はこんなこと言いたくなかった。
物事をどう受け止めるかなんて、実際にはひとそれぞれで。
卒業に際して、他界を選ぶのも、ヲタ卒を選ぶのも、推し変を選ぶのも本当にひとそれぞれだった。
ネガティブな意見を見たくないのは当然だけど、彼女を守るために手段を間違えていないか?
難癖つけてきている!といきり立ったとしても、その非難は難癖じゃないのか?
今回、そう思うような意見ばかりのTLにつかれた。
個人的に、現状で「普通」の女の子が公式発言するのも成りすましをかいくぐろうとするのも意味がわからない。
オタクのために、と言うけれど、なんでわざわざオタクのこと考えなきゃいけないの?
それだったらそれでいい。はよしてくれ。待っている。
オタクに向けた言葉も、彼女らしいとは思うけど、残酷だなと思う。
その彼女自身の優しさを求めているオタクに、救いの手を差し伸べる意味もわからない。
そう思ってしまった。
そういう考えの下、どうしても、うまく処理できなかった。
自分のバイアスあるのは事実だけど、全員が全員そういう個人の主観はあるはずだろう?
それなのに一方の意見が大多数の共通認識であるからと、正義感で殴ってくる。
なにはともあれ喜べよ、と。
宗教かよ。
まあ民主主義国家だからしかたないね。大多数が正義。それでいいよもう。
どれを読んでも飲み込みきれないし、納得できるだけの答えは見つかっていない。
そういう宙ぶらりんな感情を、本人が出てきてくれたのに心のスキマを埋められなかったことを、嘆きたかっただけなのに。
誰かのツイートでなにかあったのかな。
疲れすぎて掘ってないけど。
もちろん、単なるアンチ発言やソロ活動を嫌悪する人間もいるだろうけど、でもそれといっしょくたにされることが大変遺憾だ。
上記のことを言う人間は彼女のことが嫌いなのだと一方的に見なされるのが、心底イヤなだけだ。
なにを言ってもたぶんこの件に関してはアンチ扱いされるのでしょうけど。
でも、最初からそうだったわけじゃない。いろんな言葉に振り回された。
うん。
他推しの言葉は、きっときみたちを完全に理解していないし、無神経だろう。
どんなに言葉を尽くしても、きっときみたちを傷つけるだろうな。申し訳ない。
でも、傷ついた!と言って緑推しが殴ってくることに、どうしたらいいんだろう。
どんな発言も、きみたちの顔色を窺わないといけないのかな。
だったら緑推しとその意識を賛同する人間だけのコミュニティにでも篭っててくれ。
この世界で一番多いのは、緑推しでも他推しでもなく、無関心なくせに口やかましい、オタクじゃない人間なのに。
もしかしたら、そういう人間が、なんで公式つけるの?わざわざやる意味あるの?ふーんわけわかんない。そういう反応をするかもしれないのに。
なぜ、狭い範囲でちょっと反対意見が出ただけで過剰とも思える反論が噴出するのだろう。
ひっかかってしまった自分を責めた気持ちで、TLを開いても、15日からこのことが流れてくる。
そんな極論は一部のひとたちだと言われても、あちこちでいいねが押されている。
結局飲み込みきれない自分を抑えればいいのだけど、飲み込めない。
こんなこと言うと、お前が悲劇のヒロインぶってるだけじゃねーかと言われるだろうけど。
本当に、ごめんなさい。
しんどい。
「アホの子」についてブコメ等で宜しくない旨ご指摘をいただきましてありがとうございます。そして申し訳ありません。
言い訳をしますが、彼ら彼女らと私との間に、愛と信頼できる(と、こちらが一方的に思っているだけかもしれないが)人間関係がある前提で使ったのでした。読み返してみたら確かに気分の良くなる言葉ではないですね…。増田は聖人君子でもなければ天才でもないので言葉のTPOを間違える。申し訳ありません。
現在の仕事は教育関係ではありません。ごく一般の会社員。教員や教育関係に就こうとは思ったことはないです。あの仕事こそ増田なんかよりも聖人君子に近い人がなるべき仕事で、更に言えばもっと報酬と人手を割くべき仕事だと思っています。私にはとても無理。
あまり広くない世界で働いているので詳細はぼかしますが、口悪く言えば大人に対して同じようなこと「一緒に何が原因でこういう事態に陥ったのか考えましょう」という感じの仕事をしています。かなりダメ社員で成績は悪いし出世も遅いです。小さい細かい、そして金にならない仕事ばかりをやっています。その代わり長期間のお付き合いになる案件が多くて楽しくやりがいがありますが、それは会社にとっては更に宜しくない(割の悪い仕事をずーっとやっている)、というお荷物要員です。が、天職だと思っています。会社よ申し訳ない…
蛇足の手本のような追記を、元増田が思い立ったのは、この方法は、増田が開発したものでも、独自に気付きを得たものでもなく、増田の恩師から増田がしてもらったことを子供たちに返しただけなのだということを言わなくてはと思ったからです。ごく一部のブコメに天才とか良い先生だとか、大変気持ちが良く調子に乗ってしまう言葉もいただきましたが、ぜんぜん違います。重ねて申し訳ない。
そういう意味では、増田は凡人ですが、増田の恩師、K先生が天才なのかもしれません。
増田自身がまさに「アホの子」の元祖で、小5~6年の担任を持ってくれた恩師K先生との出会いがなかったら超ヤバかったのです。
増田は、小学校5年生の秋まで、掛け算九九を暗記しないまま素知らぬ顔でいました。
学校の勉強は良くできた方だったと思います。ペーパーテストなどでは基本的には98/100点などがずらっと並ぶ感じ、授業を聞いていれば大体頭に入り理解できる、先生の説明の途中で勝手に教科書の「応用問題」を解き始める感じの子供でした。そして、多動&注意欠陥の傾向が強い子供でもありました。今思えば先生からしてみたら割と厄介だったかもしれません。100点は取れないんですよ注意欠陥っ子なので。歴代の先生全てに「見直しをしなさい」「あとちょっと集中しましょう」と通知表に書かれ続けてきたタイプです。
で、小2で掛け算を習う時に「×の記号はその回数足すという意味です」と先生が言ったのを真に受けて、その回数足せばいいなら九九覚える必要なくね?と何故か曲解して思いこんだ。それから先は、分かりやすい2の段とか5の段とか以外は記憶せず「○回足す」で乗り切った。いや乗り切れるわけがないから、他の教科のテストは相変わらず95点とか98点とかだけど、算数だけ85点ぐらい。馬鹿だったわけじゃないのが災いして中途半端に平均的に点は取れていたから、当時のそれぞれの担任の先生も「増田さんは算数が苦手なのね」程度に判断されていたのだと思います。
ただ、九九を覚えていないと、3ケタ÷2ケタの割り算なんかを解くのが地獄なんですよ。あと倍数とか約数の概念が苦手というか、概念「しか」分かってなくて実践が全然できないという状態。正解できないから面白くない、面白くないから興味がわかない、という状態のまま、分数を学び、少数を学び、速度や割合を学び…、ちっとも理解できてないまま小5になっていました。完全にアホの子のできあがりです。
図形問題や証明問題のようなものや鶴亀算的な文章問題なんかは、式を作るところまでは合っている、が計算を間違う。それも理解できない間違え方をしている。割り算は勘を頼りに予想を立てた数パターンを足し算検証して合ったやつを正解としてみよう(足し算だけで最小公倍数や最大公約数をあてずっぽうで探す要領だったと思います。あんまり思い出せないし再現できる気がしない…)という超絶燃費の悪い解き方をしていたので、その時にイージーな計算ミスをしているだけなんだけど。そして間違わないときもあるので、先生からしたら何で算数だけ点数が悪いのか分かりにくかっただろうと思います。
ところが、K先生はなぜか(後に大人になってから種明かしをしてもらうのですが)、私が九九を覚えていないことを見破ったのですね。
ある日、放課後に一人で残りなさいと言われて、超絶びくびくしながら教室で待っていたら、教科書を山ほど抱えたK先生が、増田の算数嫌いを一緒に克服しよう、と言ってきました。クラスでも勉強ができる方の子供だったし、私より他に勉強を見てやった方が良い(失礼な言い草だな)子がいるのに!と、驚いて、そして腹が立ったのと同時に、凄く怖くなりました。
ばれたくなかったんです、アホだってことを。
ずーっとズルをしてきて、九九を覚えてないズルい生徒だとばれたくなかったし、分かってないのに何となくやり過ごしてただけで本当は何にも分かってないアホだってことも、絶対にばれたくないと思ったんです。K先生は生徒思いで自由なタイプの教師で私はとても好きでしたから、なおさらばれるわけにはいかなかった。なので家で計算ドリルやればいいでしょ!とか、じゃあ塾に通う!とか、お父さんに教わるからだいじょぶ!とか、忘れたけど色んな事を言って逃げようと思った。でも誤魔化されてくれずに、「ひょっとして九九を覚えてないだろう?」と当てられてしまい、号泣したんですね。恥ずかしいのと悔しいのと腹が立つのと色んな悪い感情が渦巻いたのを覚えています。凄く辛かったし恥ずかしかった。
そこから多分数回、K先生は放課後付きっきりで相手をしてくれました。まずは九九を覚えてきなさいと、絶対に役に立つんだから先生を信じてくれ、と言われました。K先生を信頼していたのでその言葉も信じることにしたんです。結果的に信じて大正解、あんなに苦労した計算がこんなに簡単に!と思いました。アホの子丸出しです。
まぁ勘で割り算解いてたわけで、7の段とか8の段とかの九九の深いところがあいまいな程度でうすらぼんやりとは覚えていたのだとは思います。母親に白状したら本屋さんで九九の表のを買ってきてくれたのでトイレと風呂に貼った、小5なのに。でも小5だから本気だせばすぐ覚えられる。
その後は、取りこぼしていた分数(九九が分からないと約分が厄介)、少数(分数が飲み込めてなかったので少数と割合の概念が全く理解できてなかった)、速度(以下同)などなど躓いていた個所を一通り先生と一緒におさらいをしたら、算数でも98点取れるようになった。100点はめったに取れません注意欠陥っ子なので。
一度、放課後に残されている私を同級生の男の子が数人からかいに来たことがありました。優等生と思われていた増田が!と面白かったんだろうと思う。ただでさえ劣等感に苛まれてべそをかきながら(実際に分からなくなるたびにべそべそ泣いていました)教わっているのにクラスメートにからかわれて死にたい気持ちでしたが、K先生が、勉強ができるようになりたいと頑張っているものを笑うな、と怒ってくれたことを鮮明に覚えています。
その後は、からかいに来た生徒たちも一緒に「K先生と算数をおさらいする会」がしばらく続いたように覚えています。最後はかなり大所帯になっていた記憶。ほとんどの生徒から慕われていたのです、K先生は。
大人になってもこのクラスの同窓会は続いています。高校卒業した年の同窓会で、ふと思い出してK先生にどうして九九が分かってないことがバレたんですか?と聞いたら、テスト用紙の隅っこにいつも消しゴムで消した計算跡があって気になっていたこと、ある日消しが甘い時があって見てみたらひたすら関係ない足し算をしている跡のように見えるが何故???というところから、観察をしてみたらひょっとして、と思ったということでした。掛け算を何度も足してたのを気付かれたくなかったし恥ずかしかったのか、証拠は隠滅していたんですね姑息なことに。筆算はそのまま解答用紙に書いてあるのになぜ別の計算が必要?そして何故消す?、というところから類推されていたらしい。本当に些細なことからだったし、それ気付かれてなかったら、下手したら高校にも行けなかったよ私…。
私自身がアホの子であり、アホであることを許して丁寧に付き合ってくれて、気持ちも分かってくれた(九九の概念を理解してたのは増田の良いところだと褒めてくれた、そしてそのあとを面倒がるのは増田のダメなところだと怒られた)K先生から教わったから、私が人を教えるときにそれを使うことができたんです。私が成したことではなくK先生の教えがあったから。
成人式の後に、K先生の家に同級生たちと一緒に押しかけ酒を飲んでいた時、私たちは酔ってゴキゲンで、先生をべた褒め(先生がいなかったら私ヤバかったとか云々)してたら、K先生は、親や教師や目上の者から恩恵を受けたと感じてくれたなら、それを俺に返そうと思わなくていいから下に渡してやりなさい、とおっしゃったんですね。で、それを実践しただけ。
K先生はとても個性的で自由で、保護者の中には批判的に見る人もいたような型破りなタイプの先生で、教わったことはこれだけではなく抱えきれないほどあります。K先生のそのクラスは良い年をした今でも同窓会をするほどのつながりが深くありますが、その中で小学校の先生になった人が二桁いる。割合で言うとクラスメートの2割弱が小学校の教師になりました。私のようなボンクラがならなくても、K先生に感銘を受けた優秀な先生が頑張っていてくれるので、学校の先生は大丈夫。
いや大丈夫じゃないよね…もっとお金と人を割いてほしい。教師になった友人たちもストレートで職に就けた子はいません。みんな1~3年程度、補助教員の仕事にありついてそこからなんとかポストを見つけて、という感じ。ホント酷いよね…。
増田が友人たちを観察している限りでは、学校の先生は「勉強を教える能力」だけじゃなくて、「クラスという集団を統率するリーダーシップ」「学校のスケジュールを考える企画力」「それをこなす運営力」「ケースワーカー」などのスキルが必要で、かれらはこれを一人か二人だけでマルチタスクでで行っています。
あくまでも口と性格と知能に若干の問題がある増田の私見ですが、今の日本はホントに馬鹿だと思います。何で教育予算増やさないでしょうね…。1クラスは40人でも良いけど(ある程度の人数がいた方がクラス内で多様性を許容しやすいと教師の友人が言っていました。少人数だと浮いた子の居場所を作りにくいそうです)、その代わり担任は3、4人居ても全然いいし(そうすれば学校内で個別指導塾的な役割も持てる)、何なら学校行事の企画運営なんかは更に専属で別の担当教師がいるべきだと思います。名古屋市だったかが小学校のクラブ活動を廃止というニュースがありましたが大英断だと思う。課外活動は地域SCなどで吸収できるとしたら理想の形なんですけどね…。
今の学校は、子供も少ないからポストも少なく教師になりたくて夢と強い意志を持って教師になったという人がほとんどだと思います。増田が報告した塾での出来事なんて、彼らにもう少し余裕があれば増田の15倍ぐらいは良い結果を出すと思う。それなのに。
それはともかくとして、増田は、社会人になって初めて下に付いた先輩から「お前はアホで手に負えないが、唯一の取り柄は教わり上手なことだ」と言われました。K先生が小5の秋の夕方の教室で、私を壊してくれなかったら教わり上手に変化することはできなかっただろうと思います。
その他、耳に心地よかったお褒めの言葉などは、心の栄養にさせていただきます、ありがとう!。一方で、疑問や批判的なご意見で、増田にとって都合よく答えられそうなものにいくつか。
そうですね、増田にとって話しやすいことだけを、それもかなりボカして書きましたので仕方ないです。ごめんなさい。実際は大変でした。
adbが分からなかった子は初めて私が「開眼」した生徒なので思い入れも記憶も多いのですが、躓いた場所に気がついた後は、塾が用意しているカリキュラムや教材をほとんど使わずに、まずはアルファベット用の罫線が引かれたノートを拡大コピーして(形状の見分けがついてない疑惑があったので思いっきり拡大コピーして使った)、アルファベットをaから順番に10回ずつ、声を出しながら書き取り練習!をしました。
何よりも、大手のフランチャイズ塾だったのにもかかわらずカリキュラムを無視した指導をしてもいい、と許容してくれた教室長の懐の深さと"寺子屋愛"に甘えられたことと、先生バイト仲間の優しさ(教えるのが大変な子を私が見る代わりに、担当生徒数を減らしてくれたり、私の受け持ちの子を共有で見てくれたりのフォローをしてくれた)があったからというのはとてもとても大きいです。
あと、当然すぎるほど当然ですが、成績を上げてあげることができなかった子供もいました。元増田にも書きましたが、私は成績が普通の子の指導は得意ではなかったです。勉強にアレルギーがある子供の方が、悪い言い方になりますが、つけ入る隙が見えやすいと感じていました。なので、主に「すごく良くできる子」と「すごくできない子」の担当をしていました。あと、すごくできない子で、一人だけ、どうやっても引き上げられない子がいました。詳細は書けないですが、これは今でも思い出すと胸が痛くなる。
■そんなの誰にだって出来るだろー
増田もそう思います。なのでホテントってビックリしています。そして前段に長々と書きましたが、増田の手柄ではなくK先生のおかげだと思っています。
■生徒のプライバシーは?傷つくんじゃねーの?
浅慮だったでしょうか…アホです。問題が起こったら消すかもしれません。ただ連絡を取り合える子供もいるので耳に入って傷ついたと知ったら直接彼らに謝ります。一応最低限はぼかしているつもりです、ホテルはもちろんフェイクです。あとブクマのご指摘にもありますがabdが区別つかない子というのはそれほど珍しいことではないので…。
■学習障害があったんじゃない?
増田は現在でも専門ではありませんし、当時はアホの大学生だったので判断はできません。増田個人に関しては前記の通り「傾向」は確実にあるだろうなーと思っています。調べてはいませんが。苦労もとても多いがそれなりに個性的で愉快な性質だなと受け入れられています。長くなりすぎるので書きませんが、それを受け入れられたのも恩師K先生のおかげだったりします。
■なんでx=数学なのに英語出てきたむかつく!が察知できたのか
前段の通り、増田こそが元祖アホの子だったからだと思います。掛け算は足し算、なら覚える必要なくない?!という思考停止とその後の悔しさと恥ずかしさがヒントになりました。思いこんだことから一歩先に進むことの大変さ。
長くなってしまっていますが、あと一つだけ、とても興味を惹かれたので。
id:sarensongjing さん、ブログ拝見しました→http://xn--9ckk0f4c7781a7r3b.com/taihen.html
mustの意味と使い方が理解できなかった、とかすごい分かります!
増田の経験ですが、英語の理解には段階があったように思います。
私の教えた子はみんなこの辺からスタートでした。まずはアルファベットが呪文じゃなくなるようにしなきゃ、だった
第二段階:意味は分かってないながらも、音読は出来るようになる
音になる=過去に耳から得ていた情報を、英語の勉強に使っていいんだよと理解してもらった。呪文から、普段自分が使っている言葉と地続きの「情報」になるだけで、かなり気持ちが楽になるようでした
第三段階:たまたま知ってた和製英語から類推して、薄ら何を言いたいのか分かるような気がしてくる(気がするだけ)
夜やってるからナイター、でnightは夜!みたいなこと。既に持っている情報を使って新しい知的好奇心が湧いてきたということでもあるかなと思っていました。ただしほとんどの子が、頻繁に間違ったことを言ってくるので可愛くてしょうがなかったです。ダジャレか!
これをしばらく単語覚えゲームとしてやってたら、自然と、接尾語の存在に気付いてくれました。言語は、それぞれ意味を持つ小さなクラスターの集合であるという「概念」が体に沁み込んできたという感じ。理解は、もちろんしていないんですが笑 こうなるともう呪文ではなくなる。
そういえば、nightをナイトと読むというのは、なかなか難しいとこではあるんですが、英語は比較的素直に音とつづりが連関しているので
無理やり読んでごらん?ニグフト!、なんか似てる言葉あるでしょ、えーとえーと………ナイト?!とか、そういう風に付き合いました。
アルファベットを音読できるようになりさえすれば、割とやりようがある。文法もシンプルですしね。
第四段階:文章はどうやら並び順が決まっているらしいと薄ら思い始める
おもしろかったのは、文法の発見よりも、接尾語の発見の方が全員早かったんですよ。単語同士の共通点を探したくなるのかもしれない。-fulとかね。fullがくっ付いたんだよー、だから○○がいっぱい!って意味になる、と言ったら目を見開いてた。
単語も、あるクラスタの集合体である、という理解ができたら比較的早く、文章もあるクラスタの集合体である=文法を発見してくれました。並び順って日本語だって決まってるジャン、と言ったらそれからはすごく教えるのが楽になった。
ここまで理解が飲み込めていないと、助動詞の大切さや意味や力が分からないだろうし、mustを覚えるのはイヤだなと思ってしまったのかもしれないですね…。
増田は、牛よりもゆるやかなスピードで付き合っていました。ある子供は、第三段階で中3の冬だった記憶があります。教室長はハラハラだったと思う…。受験校を決めなきゃいけない時期だったのですが、お母様に、担任の先生の説得をお願いしました。お母様はもっとハラハラだっただろう…、お願いだからあと1回次のテストの結果まで見てくれと。あとちょっとなんだよー!という気持ち
訳あって、地方都市のいろんな商業施設について調べ物をしている。
あまりパッとしない(失礼)街の、再開発系の駅ビルや市街地の商業ビルだと、その土地の名産品の名前をもじった名前が付いていたりする。割とダサいなと思いつつも、東京者としては地元ならでは感を味わえてうれしい。
一方で、そのように新しくできた商業施設のテナントには「東京から初上陸!」とか、「○○地方初出店!」などの文字が躍る。都会の最先端が!という体が好まれている様子だ。利用者の大半は地元の人なのだから、地元では珍しいこと=需要喚起なのは当然だとは思うが、それなら(ご当地名物もじり)ビル、みたいな名前を付けなければいいのにという気もしないでもない。地元民からみたら、すごくもっさりして見えないか?
まぁ、もっさりした公共施設名称には、ゆるキャラ的な魅力があって嫌いではないし、そもそも大きなお世話ではあるのだが、出張で地方都市に行くたびに「東京から初上陸!」の集合体のような、ご当地もじり名前のビルが増えているのが割と面白い。まーでも、イオンだらけになるよりはずっとマシかもしれんね。
俗にいうヲチスレについて、非常に気持ちが悪いと思っている。なんなんだあれは。
5ちゃんには『ヲチスレ』という、対象の人物を決めて、その人物をひたすら観察して笑うスレッドが存在する。あだ名などを付けて、「あの〇〇の××って発言痛い」などとスクショをアップしたりして笑い合うのだ。クソみたいな世界である。こんな世界が存在していると知ったときは、それはそれは驚いた。ゴミクズどもの集合体のようなスレである。非常に非生産的だと思うが、ヲチスレがないと生きていけないような人もいるのかもしれない。女の陰口みたいなものだと思っている。自分の場合は自分が活動しているオタクジャンルのヲチスレしか見たことがなく、男女比に差があるのかは知らないが、噂を聞く限りでは他のジャンルにもヲチスレがあるのではないだろうか。
ヲチとは、どうやらWatchから生まれた言葉らしい。ヲチスレは主に、その界隈で痛い活動をしている人の話題で盛り上がる。ヲチされる対象の人物は『弗(ドル)』と呼ばれる。アイドルから生まれた言葉らしい。弗が痛い行動をしていたり、香ばしい発言をしていたりする状態を『踊る』と言うらしい。「もっと踊ってほしい」とか、そういった発言が見受けられる。ヲチスレは「弗を見て笑う」が目的のスレなので、弗に直接「お前痛いぞ」とか「むかつくからやめろ」と言ったことを伝えてはいけないというルールがあるらしい。これは『凸(トツ)』と呼ばれる行為で、突撃から生まれた言葉なのだろう。「凸してはいけない」というルールである。何故なら凸してしまうと弗を見続けることができなくなってしまうからである。凸してしまうと、弗は「自分が痛い奴だ」「誰かに観察されている」と気づいてしまい、発言を自粛したり、最悪アカウントを削除する場合があるからだ。ヲチスレというスレの特性を考えると、そのルールも「なるほどな」って感じなのだが、弗本人からしてみたら全く迷惑な話である。文句があるなら直接言えや。と思う自分は精神が比較的健全なのだろう。それができない人間の集合体がヲチスレなのだから。
暇なとき、ついついこのヲチスレを見てしまう。もはや癖である。別に自分だってそんなゴミクズの集合体みたいなスレを見たくはなかった。しかし自分がヲチ対象となっていれば話は別である。
とあるトラブルをきっかけに自分のツイッターアカウントがヲチ対象になっていると知り、それからスレを見るようになってしまった。ヲチスレ自体の存在はその前から知っていたが、まさか自分が弗になるとは思わなかった。いわゆる凸があり、自分がヲチされていると知ってしまったのだった。凸してくんなや、ルール違反やろ、と思った。知りたくなかったわ。黙っとけよ。
凸された後、即そのヲチスレを発見した。自分のハンドルネームは検索除けのために違う漢字変換をされていたが、スクショが上がっていたのですぐ発見できた。スレをチェックするようになってから、自分は発言にかなり気を遣うようになった。ちなみにツイッターはやめていない。そしてヲチスレ住人が喜ぶような発言は避けるようになった。たまにわざと話題にされそうな態度をとっているのだが、気持ちとしてはヲチスレ住人をおちょくっている状態である。そして実際に釣れるので笑える。ところでヲチスレヲチとかってあるのだろうか。調べたことはない。と、こうやって書いていて精神衛生上良くないよなと思っているが、もうヲチスレを気にすることをやめられないのだ。結局はヲチスレを見ている自分もゴミクズの仲間だと思う。
タイトルに書いた「触れちゃいけないことかも」というのは、この「ヲチスレについて」である。自分はツイッターをやっているし、昔ならfacebook、mixiといったようなその時々で流行しているSNSもやってきた。しかし、このヲチスレについて表立って文句を言う人を見たことがない。単純に不思議なのだが、言ってはいけないことなんだろうか。ネット上での禁句みたいなものなのか?ネットに禁句もクソもない気もするのだが。自分は、ヲチスレの存在や活動状況、ヲチという言葉の意味なども、全て知人から教えてもらった。自分がヲチ対象になる少し前、たまたま話題になった。長年生きてきたが、ヲチスレというものを教えてもらうまで分からなかった。SNSなどで話題になっているのを見たことがないからだ。
ヲチスレを見るようになり、「自分が知らなかっただけで、世間のネット利用者はヲチスレのことをみんな知っていて、その上で発言などに気をつかっているのだろうか」と思うようになった。みんな知ってんの?なんで今まで教えてくれなかったん?ていうかなんで話題に出ないん?それかみんなも自分と同じように知らないのか?謎は深まるばかりである。
ヲチ対象となった今、誰が自分をヲチしてるか分からないというのが非常に気持ちが悪い。相互フォロワーだったとしたら?と思うとゾッとする。発見のしようがない。余談だが、裏切り者のことを『ユダ』と呼び、鍵付きアカウントなどに潜り込んでヲチする人のことを『スネーク』と呼ぶらしい。命名センスあるよな。この人がスネークだろうか、こいつがユダか?などと変に勘ぐってしまうのがすごく嫌である。
ヲチスレなんか見ないで楽しくSNSやればいいじゃん、と思う人もいるだろう。自分もそう思っていた。だがいざ自分がヲチ対象となってみると、気にしないなんて無理だった。顔も分からない人から浴びせられる暴言なんて、大したダメージにならないと思っていたが、スレに書き込まれているのを見ると「みんなそう思ってるんじゃないか」と感じてしまうのだ。匿名って怖いっすね。もしかしたらたった一人の人間が、複数の人間に成りすまして自分の文句を書き込んでいるのかもしれないのに、すごく大勢から責められている気がしてくる。今日も自分が話題になってんじゃねーかと思うと見ずにはいられない。
ヲチ対象になったのは自業自得だと思っている。結局は自分の発言や態度が理由だ。が、だからと言ってヲチされて平気な訳ではない。あることないこと言われたり、単純に悪口やんけって内容を書き込まれるのはかなり頭にくる。好き勝手言いやがってと思う。面と向かって言ってくれれば反論のしようがあるが、ヲチとは基本ヲチ対象にバレないところでぬるぬる見守るものであるので、面と向かって言ってくる訳がないのだ。クソである。
またも余談だが、ヲチスレでは個人的な怨恨の書き込みを『私怨(しえん)』と呼ぶ。これ今変換したら出てきたので一般的な言葉なんすかね。5ちゃん用語だと思ってた。
ヲチスレは基本、私怨によるヲチはナシらしい。例えば、大して痛い発言をしたわけでもない人に対して「この人は私に冷たくしたからヲチ対象にしてやろうぜ」などと書き込んだとしても、「それはお前の私怨だろ」「ヲチするにはぬるい」などとなるのだ。が、ヲチスレなんてほぼ私怨だ。自分が嫌だと思ったから晒す⇒複数の同意を得られたらヲチ決定、となるのだから、私怨を募らせている人間が集まれば結局ヲチされるのだ。
色んなルールを書いてきたが、あの不思議な空気感はなんなんだろうと日頃から思っている。あそこで生息している人々の謎のルールは一体なんなんだろう。私怨NGもクソもねーだろ。みんな私怨だっつーの。誰が判断してんだろ。しかし何事もルールというかマナーというのは暗黙の了解としてどこにでもあるわけなので、5ちゃんに限った話ではないのかもしれないが。
初投稿。HIPHOP史にも社会学にも詳しくないんで諸々トンチンカンかもしれんけど、とりあえず殴り書き。
一応ネタバレ注意。
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2週間くらい前のKOKを見に行きました。GADOROがだいぶ仕上げてきていたので、個人的には納得の優勝。ちなみに僕はダンジョンGADORO回とKOKを両方見られたので、もうGADOROの苦悩がスーパーハイビジョンで伝わってきたよね。いや~、持ってるよね。
んで、決勝の53 vs. GADOROだよ。僕は53→53→53→GADOROと挙げたけど、もはやどっちの勝ちかは一人ひとりの好みで決まってくるレベルにかなり迫っていた気がしたので、割れるのはしょうがないかなと僕は思っていたし、特に判定への文句もない。一応僕は一バトルとして見続けるよう努めたつもりではある。
問題は、このバトルに隠れている構図だ。
しばしば「日本のHIPHOPがメジャー化でダメになった」という話をCOREな方から耳にするような気がするが、僕はこう考える。「HIPHOP」がメジャーに媚び始めたというよりも、「日本人が想定する弱者」の像が変容したのだ、と言うべきではないか、と。
90年代当時(まで)は、テレビの影響力、集団行動力を重視する教育、いい大学・いい会社に入れば幸せになれるという信仰なんかがまだまだ根強かったはずで、それらが複合的に重なり、「安全第一の人生」を至高とする日本社会が形成されていたはずなのだ。そして安全を脅かす「ハミ出し者」を仲間はずれにし、自我を捨てて世間に身を委ねる則世去私イズムで多数派は安心感を得ていた。
まあ、阪神淡路大震災だのオウムだの酒鬼薔薇聖斗だのでそういった仮初の平穏にどんどん綻びが生じてくるわけだが、頑張って頑張ってみんな汚染水を除きまくっていたのだ。村上春樹の『アンダーグラウンド』あとがきでも、「地下鉄サリン事件実行犯たちを狂信者だとして遠ざける我々一般市民たちも、『何らかのシステムに自我を譲り渡している』という点で犯人たちと同じ翳を背負っているのではないか」という指摘がなされていた。
そんなstandardの波に排撃されたのがB-BOYたちというわけだ。僕みたいな聞こえても即答できないWanna b-boyが語るのもおこがましいのだが、黒人文化を濫觴とするHIPHOPは、90年代日本において「(虐げられてきた)俺たちだけの文化」という局地的受容がなされていたはずだ。「俺たちだけが真の音楽を知っているのだ」と互いを励まし合い、常人では知り得ない独自文化を発展させているのだとの自覚を懐きながら、Bのつくoutsiderたちは明日を生きる希望を得ていた。
この風潮なら、GADOROより53のほうが内部からの支持は強いということになり、MCバトルでも53の圧勝ということになるだろう。GADOROは大衆の中に帰れるが、53はそうではない。身の回りの仲間を守り、決して流行に媚びない53だけが、本物のB-BOYにふさわしいということになる。
しかし、だ。
僕が生きている21世紀の日本社会は、もはやハミ出し者が後ろ指をさされる時代なんかじゃない。一人ひとりが個性を求められるようになった、オンリーワンの時代になったわけだ。
原因は色々考えられる。個性を重んじる風潮が教育界で強まったこと、グローバル化の波が激しくなって社会人がコア・コンピタンスを求められるようになったことなんかがそうだろう。
インターネット、ことにSNSの爆発的普及はやはり大きい。一人ひとりの「リアル」に触れられるようになったことで、世界中に意見を発信できることはそう難しくなくなったし、それまで皆で一括りにしていた「大衆」も実は十人十色の人の集まりであって、決して「大衆」は無機質な集合体なんかじゃないのだと、みんなわかってきた。
まだまだ社会は発展途上だが、それでも少数派にとってずいぶん生きやすい世の中になったように思う。もちろんB-BOYだって恩恵を受けているはずなのだ。
じゃあ、社会から必要とされない恐怖と戦っている「弱者」とは、いま誰なのか。
それはずばり「個性を主張できずにいる人」ではないだろうか。
自分にしかできないことを自分は見つけられない中で、自分の代えを周りの人が見つけてしまうことに怯えている。
いま、日本人は「個性」に脅迫されているというのは、主語が大きすぎるだろうか。そう感じさせる創作物やら社会現象の例やらは腐るほどあるから、ここではいちいち出さない。
確かにGADORO自身は、「社会不適合者」から「スター」へとのし上がった存在なのだけど、「社会から必要とされる自分」を否定しない。
埋没の波から、前に、前に逃げ続けて、等身大の感情を表現して、世界で一人だけの存在として認知されたい、という、21世紀の「弱者」たちにとって、GADOROは希望とするに足る存在なんだと思う。
一方53は、「MASS 対 CORE」と最初のバースで吐いた(合ってる?)ことに象徴されるように、電波を受信できる人たちだけを助けようとしていたと僕の目には映った。
透明な存在として苦しむ現代人たちから共感を集めるのは、GADOROだ(僕は53も好きだけどね)。
そんな構図がKOKでは見え隠れした。
フリースタイルダンジョンも最近何かあったようだけれど、これからHIPHOPは、社会不適合者が生き残る術としてだけじゃなくて、怯えている人たちに「個性の手」を差し伸べる術としても発展していくのではないかな、と思った。
2018年1月11日、チケットキャンプ元社長の笹森氏が書類送検された。(これにははてブ民も唖然)
調査委員会の資料によると、現在のミクシィ 森田社長も「知り得た事実」と書いており責任重大と結論づけている。
しかし、一方で委員会資料には無い事実として、今回の買収事態が森田社長によって行われたことであり、最終的な意思決定を森田氏が行ったという旨の記事※1が多数でている。
上場企業であるミクシィで何故、このような反社に近い行為を行っている企業に対し、適正な法務デューデリジェンスが行われなかったのか。
理由は明確で、”社長の森田さんが買いたがってるから”である。
果たして法務部は社長案件であるからといって、止めるべきことを止めなくても良いのだろうか。
こちらの買収に関しても、守安氏がパーティで村田からアプローチを受け、社内稟議を通し、買収に至った。
法務デューデリジェンスでは、著作権に関しての指摘があったと調査委員会資料には記載がある。
企業といえども個人の集合体。トップがほしがれば、求めるロジックをつけたしてしまうのが個人であり、法務部なのだ。
このように社長案件になった途端に、法務デューデリジェンスは形骸化する。
そして任天堂(法務部含む)の倒し方を知っている会社は、今もなおリスクを取り続けている。
Meryと同じコンセプトのキュレーションメディアや、チケット転売サイトへの出資を続けている。
そして、彼らはまだ生きている。この流れを見るに、最も大事なのは”法務部”が事前に止めることよりも、
自分自身が、グレーなビジネスだと、気づいてるのであれば、いかにステルスで事業展開し続けるか、ということが、大事なのかもしれない。
足るを知る、身の程をわきまえる、その品格が、現代には必要とされているのかもしれない。
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※1 ミクシィ森田仁基社長とフンザ笹森良社長、チケットキャンプ買収からM&Aの今後を占う
https://www.sbbit.jp/article/cont1/31978
両社の買収のきっかけについて尋ねた。
これに対し、森田氏は、もともと笹森氏とはミクシィアプリの仕事を通じて知り合いの間柄で、その後、久々に再会したときに、笹森氏からチケットのC2Cサービスを運営していることと、「ミクシィと協業して何かできないか」という相談を受けたことを明らかにした。一方、上場企業であるミクシィは、森田氏自身が交渉の先頭に立ち、担当者任せにしなかったことで、買収をスピーディに進め、また、交渉の過程で、様々な利害関係者によって事業の枠組みが変化するということもなく、買収の価値を検討することができた。
普段は固定した実体を持たない捉えどころのない流動体で、無数のアカウントがひとつの核を中心に集まり「はてな民」という集合体を作ることはない。しかし、「はてな民」批判という刺激を受けると、そのときに限り散らばっていた無数のアカウントがその刺激を中心にして急速に集まり融合し、「はてな民」という集合体となる。「はてな民」は完全体になると意思を持った怪物となり破壊行動を行う。一定時間後、刺激の効果が切れると「はてな民」を形成していた無数のアカウントは散らばって、また元のように名もなき捉えどころのない流動体に戻る。これが「はてな民」の一生である。こういった事実から、「はてな民」批判以前に「はてな民」は存在しない。「はてな民」はその誕生から常に「はてな民」批判とともにあり、「はてな民」批判がなければ「はてな民」も滅んでしまうという宿命を抱えている。
アレキサンドロス大王だろうがチンギス・ハーンだろうが、男ってのは生まれた瞬間全員が童貞。そんなもん当たり前すぎて何も面白くない。
しかも、童貞と非童貞の違いって、女性と関係を持ったことがあるのかどうかってだけで、別に他に何も特別なことはない。
そりゃ、非童貞だったら羽が生えて空が飛べるようになるとか、童貞だったらだんだん髪の色が赤くなっていくとか、
そういう世界だったらちょっとは面白かったかもしれないけれども、別に童貞だろうが非童貞だろうが何も変わらないただの人間だし。
30にもなって「あいつ童貞〜マジウケル〜ギャハハwwww」とか笑ってるんだぜ。頭悪すぎんだろ。
ただ面白くないだけだったら別にいいけど、童貞って言われて気分が悪くなる人がいるでしょ。
このバカは「そういう人種が存在することに無自覚だった」といった旨の謝罪文もどき(ただの言い訳)を書いたけど、これがまた頭悪いんだよな。
まんまセクハラと同じ。頭悪い。「まさか女の子が嫌がってるとは思わなかった」って、セクハラオヤジが真っ先に言うことでしょ。頭悪いなぁ。#YouToo。
こいつ、基本的に「食うか食われるか」「自分がされて嫌だったけど、自分がするのはセーフ」っていう、
ジャイアンをさらに頭悪くしたような行動原理で生きてきた人間なんだろうな。
付け加えて、謝られた側が気分良くならなきゃ謝罪は意味をなさないっていう、小学生でも知ってることをこのバカは知らないらしい。
慶応大学(笑)と電通(笑)では教えてくれなかったんだろうね。
あんな単なる言い訳の列挙は謝罪とは言わない。ただの悪あがき。見苦しいことこの上ない。