はてなキーワード: 無機物とは
この半年間を振り返るため、入社から感じたこと、考えたこと、驚いたことを記録しておく。
また、化学メーカーへの就職を予定する人、考えてる人への参考になればと。
ただし、あくまで自分個人の感想であり、かつ弊社以外の会社をよく知らないので、偏った内容になっていることは注意されたい。
・社員数1500~2000人程度(単独)の化学メーカー勤務(研究開発職)
日系メーカーでは多くの企業が実施すると言われる現場研修(海外では普通ないらしい)。
弊社では高卒・大卒・院卒(博士含む)全ての新入社員が現場研修を受ける必要がある。
ちなみに大卒以上は研修課題が与えられ、それを研修最後に発表する。特に技術職配属者は、プラント工程改善などの本格的な課題が与えられる。
Twitterなどでは、研究開発につく(特に博士卒)の新入社員を長期間現場研修させることへの批判が時々ある。
その一方で「現場を知らなければ良い研究開発もできない」との反論もある。
ただしこれは、自分の研修先プラントの方々が非常に熱心に指導してくれたというのが大きい。
というのも、各プラント間で研修生の扱いが全く異なるからである。
極端な例だと、「何もすることないからひたすらTOIECの勉強してた」「ずっと寝てた」なんていう人もいた。
そんな放置プレイをするくらいなら、早めに本配属先に回したほうが実入りが良いだろうとは思う。
また、上述した研修課題であるが、これも各プラント間で内容に大きく差があり、「言われるままに化工計算するだけだった」という同期もいた。
ただし、それと同時に彼らは冷静な目で大卒・院卒社員(特に技術系社員)を見極めている。
何故ならば、研究開発・生産技術職の工程設計ミスで一番割を食うのは彼らだから。
あんまり関係ないが、現場研修中に支給される交替勤務手当・深夜勤務手当は地味に美味しかった。
意図的なのかそうでないかは別として、入社直後でお金がギリギリという人にはありがたい。
工場敷地内にある研究所へと配属となった。メーカーの工場は多くの場合土地が安い地方にある。同敷地内なので、当然自分も地方勤務である。
地方勤務を嫌がる人も多いが(同じ研究所に配属になった同期にもいる)、仕事の進め易さから見れば、歩いてすぐプラントへ行ける現勤務地は便利。
製品開発・改良は工場との連携が必須である。試験用に製品を納入してもらったり、分析依頼されたサンプルのやり取りもある。
今の時代はテレビ会議なんかもあるが、やはり対面で打ち合わせしたほうがやりやすい。
化学系の学生に声を大にして言いたいのは「化学メーカー就職したいなら免許は取っておけ」である(仕事しながらだと取得が非常に面倒だから)。
仮に最初の配属先が車がほぼいらない土地であっても、転勤で地方勤務になる可能性はある。
大学時代は有機化合物を研究対象としていたが、主に無機物を扱うテーマを与えられた。
研究テーマにこだわりがある人からすると、自分の専攻から遠いテーマに従事することに対し、抵抗感を抱くかもしれない。
ただし、修士卒なら自分の専攻の研究に携わったのはたかだか3年である。博士卒なら6年だが、会社員生活はそれより長い場合がほとんど。
専攻そのものの知識というよりも、大学での研究を通して身につけた論理的思考力、課題解決力が求められている(そのような趣旨のことを上司から言われた)。
そもそも、こだわりを無制限に貫いても問題ないのはアカデミックの世界くらいではないかと思う(近年ではアカデミックでも怪しいけれど)。
自分の興味の範囲を広く持ち、色んなことに対して「面白そうだ」と感じられるようなメンタルを持つことが大事だと感じた。
配属後数ヶ月で別テーマに回された、なんて例も過去にはあったらしい。やっぱ割り切りが必要。
意外と泥臭い手作業が多い。例えば、廃液タンクからドラム缶に廃棄物を抜く作業が手作業だったりする。
もちろん危険な廃棄物の場合は保護具完全着装である。危険ではなくとも保護メガネ・保護手袋は必須。
研修中少しだけプラント操作をさせてもらった。全然うまく行かなかった。
化学プラントは、反応液から原料を回収して反応装置に再度導入するなど、複雑に繋がっている。
なので、一箇所のパラメータを操作するだけで複数箇所のパラメータが変動してしまう。
地方都市なので、帰宅時タクシーが必須なのが大きい気がする(電車もバスも深夜には走らない)。
社風にもよるだろうけど。
一番びっくりしたこと。カラクリは流しが下水に繋がっておらず、工場排水を処理する排水ピットに繋がっているから。
家賃が圧倒的に安いので貯金が貯まる。朝食夕食も注文すれば格安で食べられる。
特に新入社員は極力残業させないようにとのお達しがあるらしく、自分の累計残業時間はまだ2時間である。
2年目以降の研究員も、基本的に残業は少なくしようという方針があり、事実実行されている。
ただし、どこの会社にもあると思うが、PCの電源を落として(PCログで出退勤を管理している)サビ残するような部署もある。
加えて、ある程度昇格すると研究開発職は裁量労働制となるため、上司たちは遅くまで残っている人もちょくちょくいる。
今やっている実験は非常に地味だが、大学でやっていたこととぜんぜん違う分野であるのが逆に新鮮で、仕事はとても楽しい。
多分年次を重ねてタスクが増え、責任が重くなったりするとまた違う気持ちになるんだろうけど。
部署間での連絡・情報共有がおろそかだな、と感じることが非常に多い。
その結果、やっていた作業が全て意味のないものになったり、計画段階からやり直しになる、なんて例も散見される。
…でも、自分がそういう立場になったときにちゃんと連携が取れるのか、っていうと自信はないので、やっぱり難しい問題なんだと思う。
現場の社員たち(殆どが工業高校卒)は電気・機械系出身者が多い。もちろん工業化学系出身の人もいるが、特別多いわけではない。
なので課題に取り組む際、自分の考えをどう伝えるかということに非常に苦心した。
ただし、前提知識が乏しい人への説明をするスキルは鍛えられた。
あと、夜勤はやっぱり眠い。自分は昼間寝るのに全く苦労しなかったが、いくら寝てもやっぱり深夜は眠かった。
やらなくてもわかるようなことであっても「でも予想と違うかもしれないから、一応やっといて」と仕事を振られる。
もちろん本当に予想と違う結果になることはあるけど…。先輩が「正直バカらしいなあ」と言いながら実験をしていたのが印象的。
依頼する側からしたら「ついでにそれもやっといて」と言いたくなるのはわかるけど。
ただ、常に自分を疑うのは研究職として大事なことだと思うので、できる限りやったほうが良いのは確か。
偉そうに色々書いたが、まだ社会人になって間もないのでまだまだ経験不足。
じゃなくて遺族の人からも苦言出ることもあるし
ウマ娘プリティーダービーといえば、春にテレビアニメが放送され話題になったサイゲームス社のビッグタイトルである。
趣旨は、「実在の競走馬に擬人化した美少女」を育成し「トゥインクル・シリーズ」と呼ばれるレースでの勝利を目指すというもの。
本来はスマートフォン向けのゲームアプリ(今冬リリース予定)であるが、これに先行する形で各種メディア展開が行われている。
以下ではこの「ウマ娘」が孕んでいる問題点について考察してみようと思う。
AnimeJapan 2016においてプロモーションアニメや声優18人で歌う楽曲を披露するなど、大々的に企画発表されたウマ娘。
サイゲームスのコミックアプリ”サイコミ”にて漫画連載を開始し、CD発売を行うなどアプリのリリースに先駆けてメディア展開が行われた。
2016-11-30 789枚 ウマ娘 プリティーダービー STARTING GATE 01
2017-01-11 669枚 ウマ娘 プリティーダービー STARTING GATE 02
2017-01-25 574枚 ウマ娘 プリティーダービー STARTING GATE 03
2017-02-22 604枚 ウマ娘 プリティーダービー STARTING GATE 04
2017-04-05 835枚 ウマ娘 プリティーダービー STARTING GATE 05
http://anisonsinger.blogspot.com/2017/10/umamusume.html
いわゆる爆死である。
本来キャラクターCDとは、ラブライブやアイドルマスターのように作品やキャラクター人気を掘り下げてから発売するものだろう。
また「声優が微妙」「曲がダメ」「キャラに魅力を感じない」なども当時から言われていた。
「アニメ放送で盛り上がったらCDも売れるだろう」と思われるかもしれないが、以下がアニメ期間中に発売されたCDの売上である。
……。
CDが爆死したウマ娘だが、アニメBDの初動売上は15,596枚とヒットしている。
だが、本ブルーレイディスクには、サイゲが展開する「グランブルーファンタジー」の超レアアイテムが特典としてついてくるのである。
普通に課金するよりもウマ娘BDを買ったほうがコスパ良くアイテムを得られるため、グラブルユーザーが飛びついたのである。
(それでも5万円くらいかかるのだが…)
この特典商法から、ウマ娘の窮状が窺い知れる。ヒットさせなければならない。少なくとも、ヒットしているように見せなければならない。
こういった新規コンテンツを成功させるには『盛り上がってる感』を作り上げることが重要なのはもはや常識だが、ウマ娘は最初の段階でズッコケた。
競走馬の擬人化というイロモノ感のインパクトを人気作として昇華させられず今に至っている。
当初のリリース予定は2017年春。しかし現在は2018年末頃のリリースを予定しており、実に一年半も遅れている。
開発が遅れるにしても、せめてテレビアニメと時期を合わせたかっただろう。
いったいなぜこれほど開発が遅れているのか。それは、
ウマ娘の企画は、「艦これ」が流行している時期に立ち上がったもの。
おそらく艦これの影響で、何かの擬人化という着想を得たものと推察する。
しかし、艦これとは違って題材が無機物ではなく「生き物」である。
馬自体もまた馬主も存命のものが多いため、繊細な扱いを要し、開発が難航している側面が強い。
具体例を列挙すると…
そして…
https://umamusume.jp/news/detail.php?id=news-0106
おそらく権利者からのクレームがあり、二次創作界隈の性表現に釘を刺したのだろう。だがそもそも…
名馬の美少女化というだけでも競馬ファンから白眼視される代物なのに、こうも製作が難航し、もし「クソゲー」となってしまったら、
題材のイメージダウンにもなりかねない。
更に、こんな記事もある。
話題の『ウマ娘』は「頭のおかしいアニメを作ってくれ」というオーダーから誕生
https://www.inside-games.jp/article/2016/03/26/97267.html
「競走馬の擬人化」という着想から誤っていたのではないか思えてくる。
サイゲームスは別業界とのコラボに目をつけることのリスクを軽視していたと思う。
美少女化するにしても、FGOのように対象が歴史上の存在であれば、こういった面倒事はなかっただろう。すでに死んでいるのだから。
3Dスキャンスタジオ、モーションキャプチャスタジオを設立したことで話題になった。
現状、この新スタジオはウマ娘のために存在するといっても過言ではない。
開発へのやる気、最高のゲームを作ろうという向上心は立派だが、これもまたウマ娘が退けない理由となってはいないか。
https://www.youtube.com/watch?v=PTEMokbC6cg
なかなかリリースできないウマ娘の為に各所からリソースを集約してるのではないかと噂されている。
というのも、プリコネ・グラブル・デレステといったサイゲのメインコンテンツの「手抜き」が目立っているためだ。
これら3アプリのユーザーからは今年に入って不満の声が噴出している。
特に、今年に入ってからのデレステの迷走ぶりに関しては、「手抜き」の域を超え、一部のユーザーから「サイゲはデレステを終わらせようとしている」とまで囁かれている。
デレステに関してはサイゲームスの自社コンテンツではないため、パブリッシャーのバンナムとの関係から「利益折半や開発の不自由さ故に疎まれているのではないか…」などと憶測を呼んでいる。
では、なぜこんな邪推がされているのか。私は、運営が隠れてるためだと思う。
例えばデレステにおいて、情報の発信は主にTwitter公式アカウントで「千川ちひろの発言」という体で行われている。ニコ生等で声優が告知をすることもあるが、デレステの運営陣に関してはまるで表に出てこない。
ウマ娘は競馬ファンもターゲットに見据えているとはいえ、あくまでメインターゲットはデレステ・グラブル等のユーザー層だろう。
彼らから「ウマ娘にリソースを傾注しているせいで…」という怨嗟の声が上がっているのだから、
せめて先述の噂を否定するくらいのことはしなければ、ウマ娘は誰からも見向かれないコンテンツになってしまうのではないか。
サイゲームスはウマ娘に社運をかけている。傍目に見ると不良債権化しているコンテンツだが、だからこそヒットさせねばならない。
アニメの出来は佳作といったところで、イロモノ作品としては十二分に頑張ったと私は思う。
また公開されているMVやコミュ部分についても、非常に精細なモデリングでキャラクターの魅力が表現できている。
現場の苦悩は制作の難航からも窺い知れるが、そんな中でも懸命にウマ娘のリリースに努めているのがひしひしと伝わってくる。
だが……
ここが最大の問題点だと私は思う。
この温度差をなくすために開発陣は腐心しているのだろうが、ますます温度差が広がってはいないか。
いわゆるコンコルド効果なのかもしれない。
大金を投じたのだから今更引き下がれない…という意識からいつまでも損切りができず、泥沼にハマってしまっている。
そのように感じられる。
ウマ娘はユーザーに熱を帯びさせることができるのか。それとも開発陣が冷めていくのか。
いずれの形で両者の温度差が埋まっていくか注目したい。
愚痴というか呪というか晴れることのない胸の内を整理させてほしい。
それまでも観劇していたが、演目を楽しんでいるだけで他の舞台や映画の趣味と変わらずに見れる時に見る。その程度だった。それが1年ちょっと前にAllforOneという公演がはじまりよくわからないまま惹きつけられ複数回見るファンになった。組ファンになりスカステに加入しぐんぐん知識を蓄えて地方ツアーも複数回見た。本拠地の小箱公演はチケットが取れないので行けなかったけれど、ポスターは素敵だなと思った。
2月からの本公演は芝居はともかくショーが熱かった。まだ終わって数か月なのに、万が一タイムマシンが発明される瞬間まで長生きしていたら預金も年金もねじこんであの時間に帰りたいと思うくらいに重症ではある。
AllforOneも鳳凰伝もBADDYも、真ん中のふたりが大好きだった。
群衆芝居でも真ん中にすっと立ち、努力の跡が芸事の極みとして上塗りされて洗練されたたまきさんと
孤高の存在のようでいて、血が通って暖かく、時に激しく、あふれる涙をたまきさんにぬぐわれて笑うちゃぴさんが
書いてて泣くくらい今も大好きだ。
有難いことに1月からその事情は発表され、演目も発表になり、製作会見もあり、こちらが冷静になる時間は存分にあった。ただ冷静になるのと実際その時が近づくのは人間が出来てないせいもあって乖離しがちではあるが。
今は組子にもたくさん好きな子がいるので、組ファンとしてトップコンビを愛せることのありがたさを漢字で書いて丸めて飲み込みたいくらいではある。有難い。そう、有難い。
難しいことなのだ。トップコンビが大好きというのは。宝塚という組織の人事と自分の好みが合致するというのは並大抵のことではないのだ。
特に、路線と言われる分野にあまりひかれない自分のようなファンにとっては。
じわじわと、そうじゃないのかなと噂されていたとおり、組内からの抜擢となった。
自分が関与できることではないので、比較的冷静に受け止めつつも軽く貧血になったりもして、この件に関する大喜利を見て笑って心を落ち着かせたりしつつ、あぁでもしんどいな。というのが今も晴れない心の底の本音である。
ごめん。
なんか、ごめん。
応援するとか組ファンとか自称しといて一度の人事で打ちのめされるとか100年以上続く宝塚舐めてんのか、ってなる。うん。
なので、ごめん。
AllforOneでは、複数回見るうちに姪っ子ーズの中で面白い顔芸の子がいるなぁっていう程度でまぁ面白がって見ることもあった。
小箱公演は見てないのでわからないけど、特に気にすることもなかった。
因みにそれ以前の公演については全然把握していなかった。
もちろん新人公演というのがあることも1年前に知ったくらいなので見ていない。
2月からの本公演の芝居で、彼女の役はアイドル的アスリートだった。演出の指示なんだろうが相当アホっぽくて見ているのがつらかった。なのに子供ができて引退を決意するところではじっとり重い雰囲気芝居で、あれ?二重人格???え?なんか怖い。とうっすら思った。別に見なくても芝居は進むので見ないことにした。相手役のまないくんが見れないのは非常に残念だったしなるべくかぶらないところで見るように心がけたけれどほぼ見ていなかった。他に見るべきところもあったので仕方ないと思っていた。
ショーでは、悪役チームの二大美女であった。こちらもほかに見るところがあったのであまり見なかった。ショーは本当に観客それぞれで見ている視点が違いすぎるそれもまた面白いみたいな感じだったので、気にしないようにした。だが実はちょっと気にしていた。
なんかしんどい。
けど、好きな人もいるしわざわざ言い立てることでもない。心に仕舞った。
梅雨時に、季節柄というか雨をモチーフにしたミュージカル公演があった。
退団を発表しているちゃぴさん(現娘トップ)は本拠地小箱で主演をされるので、たまきさんを単独で見るのははじめてになる。
(スカステや映像ではちゃぴさん以外の娘役と組んでるものもたくさん見た)
相手役が、ちょっとしんどいなと思っていた彼女だったので内心ドキドキしていた。
予想は悪い意味で的中した。
真ん中が見れなかった。
彼女に思いを寄せるたまきさんが信じられなかった。笑。
複数回見ても、何も変わらず、たまきさんを見れないのがしんどいな。。。ということに気づきつつも、相手役を脚立に見立ててみたりするのもしんどかった。脚立って。無機物。
ひたすら彼女じゃありませんようにと願った。できることならあの子がいいという対抗馬も特に掲げず、彼女じゃなければ誰でもいいと思った。
脚立再び。
別組の子でもいいし、路線じゃない子だっていい、なんだっていいから彼女じゃありませんようにという非常に失礼で勝手なことを思う自分が嫌で疲れた。
しんどいと思いながら見ていると、自分自身がしんどくなってくる。
だったら見なきゃいいじゃん。正論です。
真ん中で輝く(んだろう)彼女を見て「うちのナンバーワンですよ!かわいいでしょ!」って言える日が来るのだろうか。
今んとこ難しい。
でもいつかなってるかもしれない。
その日にこのエントリーを思い出して笑えるといい。
前向きになるには一度吐き出さないとならない、面倒なファンで申し訳ない。1年目だから一喜一憂の高低差についていけてないのか、いやたぶん宝塚のファンに向いてないんだよねってことはうっすら自分でも気づいている。
舞台に出ているそれが全て。
その舞台を見てムリだったらたぶん全部ムリ。
(戻っちゃった)
ショック療法でたくさん見たら慣れるかと思って
おめでとう!なツイをいろいろ見てみたけど、ニュースに使われてるおとめの写真の耳たぶが気になり過ぎてもうダメだと気付いた。
やっと気づいた。
目指すは解脱。これっきゃナイ☆
恋愛も性行為も、一人でやるオナニーではなく、無機物のオナホに突っ込むのではなく、人格を持った相手があってやる行為は、理想としては立場が対等であるべきじゃないかなあ、ということです
だから、腕力、金の力、口車による言いくるめなどで相手を従わせるのは恥ずべきだと述べているわけです
実際には、腕力財力その他にすぐれた男性と、若い女性がその手の要素関係なしに純粋に相思相愛ラブラブというのもあるのでしょうけれど、そんなドラマみたいな話、当事者になったことも見たことないから俺は知らないw
ただ、世の成人男性はとかく、腕力、金の力、口車などで優位にいることを、自分自身の男性的魅力と錯覚しやすい
立場が上の上司とかによるパワハラ・セクハラ問題とか、まさにそんな感じ
自分はそういうのが、まさに同じ成人男性として醜くて許し難いから、そういうのには自覚的にありたいと述べているわけで、女の側の感情は知らん、というかよくわからん
なんなんですかね??
本が売れない絵描きに限って、キャラをケモノ化したり無機物にしたりロゴ自作したりして、グッズ作ってサークル参加する。
そりゃ、漫画描くよりイラスト一枚描いてグッズ出すほうが楽ちんでいいわな。
某ジャンルなんて、可愛いイラストのアイコンだから見に行ってみたら、新刊はなしでほぼグッズばかり。
絵描き名乗るのやめてほしいし、ツイッタのフォロワ同士では「かわいい~」「絶対買う~~」の応酬。
グッズなんて売れて嬉しい??漫画で本出しても売れないから、それっぽく見えるロゴ作ってグッズ出して、売れた~はわわ~~どうしよう~~って、嬉しい??
小説書きはそうでもないけど、絵描きは売れないととたんにグッズに走る。
グッズなんて公式が出すし、同人グッズ使ってる女なんてクッソダサイ以外の何物でもないのに、なんで作るの?そんな時間あるなら一枚でも絵描けば?
同性愛は変態特殊性癖ではなく単なる政敵少数者と認定されたけどロリコンは相変わらず変態特殊性癖認定されているからだよね。
ノンセクアセクはもとより。
よくLGBTは擁護されるのになんでロリコンは有罪なんだ!って言われてるけど、同性愛との共通点は繁殖不可能な組み合わせであるという点だけか。
カードキャプターさくらに小学生と恋愛してる教師いるけどたしかにあれはなんというか応援したくなるし変態特殊性癖感はない。
でもあれって小学生の彼女が大人になったら終わる恋愛ってわけでもなさそうだし根本的な小児性愛者ってわけじゃないのか。
自分はド直球にノンケストレートでフッツーの王道繁殖行為で大満足できる生きやすいセクシュアルに生まれたが、金輪際成人異性とみだらな行為をすると犯罪です!ガキか同性のみ可!とか言われたら困るよ。絶望するかもしれない。法をおかしたくなるかも。出家するしかない。
変態特殊性癖のみなさんは生まれた瞬間か後天的か知らんけどそうだと自覚を持った瞬間から一生合法的に恋愛ができない、快感行為に及べない&及んだら前科っていう絶望的状況なことには同情して余りある。
昔なんかのテレビで見たな無機物性愛者みたいな人。彼氏はエッフェル塔だっていう人がいた。あれは奇異の目で見られるけどまあ脱いだりしない限りは犯罪ではないな。
日本は知らんけど海外で牛や馬とファックスして捕まった人はいたな。
苦労するな。
幸せって人それぞれなんだなほんとに。
ノンセク最強じゃね?
わたしの一挙手一投足が誰かに不快感与えてないか心配で、わたしの書いたものがあまりに不快でジャンルの人たちに嫌われてやしないか心配で……。気になりすぎてツイッターの2次創作用に作った公開のアカウント、鍵掛けたり外したりしてしまう。ただの被害妄想と自己否定ってことは分かってるけどやめられない。
無言=否定と受け取ってしまう。わたし個人的には嬉しい?というかマシ?なのは「好かれる>嫌われる>いてもいなくても同じ」という感じ。好かれたら嬉しいけど、好かれないなら嫌われたい。いっそあなたの書くものが不快ですって言ってきてほしい。いてもいなくても同じ空気より、マシ。たとえマイナスの感情でも誰かには見てもらえたんだからそれでいいや……って、思えちゃう。
反対に、全然知らない人からいいねをもらえたらするとすごく嬉しくなる。相互さんだから……フォローしてるから……で見てあげてるんじゃない、検索やタグからわたしを見つけて、何かしら反応をしたいと思ってくれたのかな……と舞い上がる。
誰にも見てもらえなくてもわたしが気に入ってるから良し!って言える人はすごい。わたしは一時的にできても、後々寝る前とかに自己嫌悪とかがぶわーっと来て消したくなる。これ治せるものなのかなあ……。
嬉しいも悲しいも一定の基準値内では変動するけど、大喜びしたり、その大喜びした反動でドン底気分になることもない。今日はすこぶる体調が良くてバリバリ仕事/勉強が捗る!なこともないけど体調不良でゲロゲロしたり些細な頭痛に悩まされることもない。極論、無機物が羨ましいに落ち着いてしまう。
昨日は結局朝起きれず迷惑かけた。自分が悪いのになんか、いろいろ、自分が子供っぽすぎてつくづく嫌気が差す。いつまでも成長できない周回遅れだと思う。
自己肯定感増長して毎日ある程度幸せになれる薬が欲しい。世間ではそういうのは危ない薬になるんですけどね。幸せ錠剤とか欲しいね。
ぐったりしてしまう。
何もする気力が起きないし、朝も起き上がれなかった。今日が祝日でよかった。ずーっと頭がぼーっと痛い。いっそのことガンガン痛ければ病院に行くなり薬を飲むなりしようと思えるし、そうしても許されるんだろうけど、ちょっとぼーっと痛いだけだと、まあいいやってなってしまう。わたしが我慢してればいつか終わるし。
この、かなり痛いことなら助けを求めれるけどちょっと針が指先に刺さったぐらいの痛みなら自分が痛ければいいやみたいに思うの、あまり良くないことらしいと最近知った。
もちろん一々小さいことでギャンギャン泣くのは赤ちゃんみたいだから、多少の忍耐は必要なんだろうけど。なんか、もっと他人に頼ってもいいらしい、みたいな。
ふと、小学校の給食の時間を思い出した。もともとクラス内で影がうすいタイプな上、窓際一番後ろという一番目立たない席になった年があった。案の定、今まで以上にわたしは空気だった。
確かその時だったと思うが、わたしの給食が一皿だけ配膳されなかったことがある。その時も気づいたけど、まあ大して人に言って持ってきてもらうほど食べたいわけでもないし、無いなら無いでいいやと思って何も言わなかった。いただきますを言う前になって、当番の子が一皿余ったけど誰が無い?ってクラスのみんなに聞いて、言おうとしたけどまあいいやってなって言えなかった。結局その給食をもらったのか何も言わないままだったのかは、今となってはあんまり覚えがないことだけど。
無いなら無いでいいや。あって、わたしにもらえる権利があるならもらう。好きにすればいい。
受動的と言えばまだ聞こえはいいけど、ただ甘ったれなだけなのかな?とは思ってる。
いきなり話は変わるけど、やっぱり創作活動きつい。褒められたいが勝つと創作やりにくくなるし一旦距離置いた方がいいって聞いて、距離置いてたけど書きたいのは書きたい。書きたいんだけど、書いてないぼんやりしてる時間にあまりにも自分に何もなさすぎて虚しくなる。才能も無いのに書いてて、必要がないものを書いてて、ってすごく虚しくなる。
眠ってる時間はいい。何も考えなくてもいい。見る夢が大体すごく奇抜だから夢占いなんかをたまにしてみるんだけど、当たってるような当たらないような。
感情の取説が欲しい。取説があっても取説に書いてない感情になったら困るからやっぱり決められたい。ロボットのスイッチみたいに「うれしい」「おこる」「かなしい」「たのしい」って付けて。なんだかよく分からない感情に振り回されるのはもう嫌だ。すっきりしたい。無機物が羨ましい。
ほんとにそんなもんだなあと思う。
今日は久しぶりに美容院に行った。まあ当然髪を切った。ここ数ヶ月鬱で外出もままならないし他人に会いたくないしで出かけなかった上、やっとそれが落ち着いたかと思うと別のごたごたで忙しくて、なかなか自分を気にしてる暇がなかった。
ふと自分の髪がめっちゃ伸びてることに気づいて、気持ち悪くなった。
上手い言い方が見つからないけれど、ああわたしも生物で人間なんだなあと思って、気持ち悪いなあなんて思った。人形は羨ましい。生まれた時からずっとうつくしいままの姿で、物質としての劣化はすれど変化はしない。うつくしい。羨ましい。
ままならないなあ、なんて思う。
美容院のお姉さん、ちゃんと話しかけてくれた。でも自分の生活のことは話せなかった。社会的な生活をしてないことを話せないのがなんだか後ろめたくて。情けないなあ。いろんな方面で。
ところかわって兄の俺は、相変わらず家で世俗にまみれない快適な時を過ごしていた。
俺は重い腰をあげると、しぶしぶ玄関に向かった。
念のため、覗き穴から来訪者を窺う。
思わずため息をついた。
そこから見えたのは弟だったのだ。
やれやれ、どうやら鍵を忘れて出て行ったようだな。
ここで深く考えずにドアを開けてしまったのは、我ながら迂闊だった。
覗き穴ごしからは気づかなかったが、肉眼で至近距離ともなると一目瞭然である。
弟ではなく、弟に変装したドッペルだ。
「バレンタイン……」
そう言うとドッペルは、おずおずと俺の前に箱を差し出した。
やたらと煌びやかなラッピングに対して、箱そのもののデザインはひどくシンプルである。
言葉が少なすぎて確信は持てないが、バレンタインと言っていたのでそういうことなのだろう。
俺はこの箱の中身、ひいては“意味”を考えていた。
答えはすぐに導き出された。
これは弟のチョコばらまき作戦の一つで、俺も候補に入れたってわけだ。
だが、弟の思惑を俺は知っているので、普通に渡しても受け取ってくれるはずがない。
そこでドッペルを介した。
俺は見分けがつくので、ドッペルだと気づいてチョコを何の疑いもなく受け取る。
これが罠なのだ。
弟に変装したドッペルは、後に俺にはチョコを渡していないとしらばっくれる。
そうなると、俺の受け取ったチョコは弟から貰ったという扱いにされてしまう。
そして、俺は弟に高いものを買わされる、と。
随分と回りくどい真似をしてきやがる。
だが、所詮ガキの浅知恵だ。
「ドッペル、これを受け取る前に確認しておきたいことがある」
「な、なに?」
「いま、お前は弟の姿に変装しているが、弟ではない。ドッペル、お前が俺にくれるんだよな?」
ただつき返すだけでは弟への報復にはならない。
モノは貰う、だがお返しはしない。
しなくていいように、弟があげたなどという可能性を完全に無くす。
「う、うん」
「よし。念のため、包みにお前の筆跡で書いてもらえないか? 『マスダの兄ちゃんへ、ドッペルより』って」
言ったとおりのことを包みに書いてもらい、俺は粛々と受け取った。
ところ変わって弟のほうでは、タオナケとの熾烈なチョコの押し付け合いが始まっていた。
「欲しいよ。ホワイトデーに何も返さなくていいならな! そういうタオナケこそ、俺から貰っておけばいいじゃないか」
戦いは拮抗していた。
タオナケには超能力があるが、「念じると5回に1回、無機物を破壊できる」というもので使い勝手が悪い。
下手に弟のモノを壊せば、お返しどころではなくなる可能性がある。
弟はドッペルを身代わりに有耶無耶にするとは言っていたものの、あくまでそれは最終手段だ。
それにチョコの押し付け合いごときで、仲間にそんなことはしたくない程度の情はある。
そもそも互いがチョコを欲していない時点で、この勝負は不毛でしかなかったのだが。
そのことをミミセンが指摘するまで、二人の戦いは続いた。
寝てたい。すごく無気力。
友達と話すのは楽しい。美味しいものを食べるのは好き。ゲーセンでゲームはしたい。髪も切りたいしコスメだってほしいし、たまには本でも借りに行きたくなる。
例えば友達と会うことになるとする。三日後に会う約束を取り付けるとする。「○○日に会わない?」「いいね!」みたいな話をしてる時は久々に会える嬉しさや話したいことがあって、わりと楽しい気分になれる。
けれど話し終わってふと携帯を閉じると、なんだか急に面倒に感じてしまう。その後約束の日あたりまではわりといい。
前日の夜になると憂鬱がぶり返す。明日、何着ていこう。朝は早めに起きなきゃなあ。続けて会ってる友人ならこの前会った時と被らない服で行かなきゃとか、なんか、色々考えてしまう。
そして朝起きるといつも通りものすごくだるい。約束ドタキャンして眠りたくなる。憂鬱な気分のまま支度をして、いざ友人に会って話して遊ぶと、楽しい。楽しいんだけれども。楽しいに至るまでが長すぎると感じるようになった。
現状が楽しい/つらいが0として、50のつらいをしたら100の楽しいがあるよと言われても、その50をこなす気力がない。50もつらいをしなきゃいけないなら0のままでいいやって思う。
もう寝てたいなあ。わたしが動かなくても許される世界が欲しい。思考停止してるけど思考停止して無機物になりたい。確かそのうちまた外出を伴う約束があったっけなあ。嫌だなあ。行きたくねえ〜あ〜あ一生寝てたい。それ死んでるじゃん。ガハハ。笑えねえよ。
書くのやめるって言ったばっかだけど、ずるずる引きずってる。
今日もオタクの友人と会って話をして、推しカプの話してたら「ああ〜こういう話書きてえなあ」なんて思ってしまった。どうせ実力もないしまた見てもらえなくて落ち込むだけだし、大体文章力以前の能力がないからまあ諦めるけれど。けれど。褒めてほしいが先に来たら休んだ方がいいって聞いて、今の状態じゃ休んだ方がいいって分かってるけど。けど。
才能やらやる気やら以前にまだ付けてないものがあるから、まだそれからだなって分かってるけど。それも書く環境がないから…とか結局他のせいにしてやれてない。ただただわたしは無気力なのかなと思う。
最近、無気力感がすごくてやばい。朝は起き上がれないし、メイクもめちゃくちゃ時間かかってしまう。そのくせ自分の思った通りの見た目にならないと出かける気にさえならない。
こんなんで社会生活やってけんのかって思うぐらい時間にルーズになってしまった。たった数ヶ月前までは朝は早起きとは言わないが起きれて朝の支度もそこそこ急いでできてたのに。ダメになっちゃったのかなあって思う。自己嫌悪。
ああなんか、つらいこと考えるの嫌になっちゃうなあ。とあるスイーツフェス…?フェスなのかな、そんなにナントカフェスみたいなの行かないからよく分からなくて、あれをなんて呼称で呼べばいいかわかんないけど、とにかくそのスイーツフェス的なのに行きたい。開催期間ギリギリに行けばバイトも始めてるだろうし、うん、行きたい。
友人のツイートがバズった。ここで普通テンプレとしてはFF内の人が「ちょwwお前有名人ww」ってリプ送りつけるところだろうけど、そんな余裕もなかった。ただただ、なんで彼女のツイートは見てもらえてわたしのツイートは見てもらえないんだの一点だけ。すごく汚い嫉妬と僻みだ。我ながら嫌になる。
別段、友人も元々フォロワーが多いわけでもない。ただ絵を描いてるか文章かだけなのか。いや、そうでもないか。単にわたしに面白味がないだけか。
なんか、もう、つらい。誰とも関わりたくない。一人で部屋の中で一日中ぼーっとしてたい。こんなに色々嫌なことを考えてしまうぐらいなら何も考えなくていい無機物になりたいとさえ思う。もう心があることが面倒。この先生きてて楽しい!嬉しい!と思うこともあるのだろうけど、そこに至るまでに嫌な感情を抱えて生きていかなきゃいけないって考えるだけで気が滅入る。
今交流があってツイッターしてる友人全員、なんらかのツイートでバズってる。あーなんかみんな持ってんだなあ、面白さなりオリジナリティなりカリスマ性なり。わけもなく虚しくなってきた。世間のほとんどの人に劣等感感じてしまってる。そんなことないその人にはその人の個性で劣等感なんて感じなくても〜うんたらな話はいい。わたしが勝手に被害妄想してるだけって分かってるから。
勉強全然してないやばいwって言ってた子は勉強しなくても頭が良かったし、そうじゃなきゃ嘘ついてた。
わたし絵そんな上手くないってwって言ってた子は絵のツイートがバズった。
わたし、なんか、すごく空っぽだなあ。誇れるものも、誇れなくても自分で認められるものも、無い。空っぽだ。人からは何ともなくても、自分では認められるものだけでもいいからあってほしい。少なくとも自分では見つけられなかったけど。
散々文章が書けない、文章は陽に当たらない、才能が無いとか嘆いてきたけど、それ以前の問題だったのか。無いものに悩んでも仕方なかった。
空っぽだ。
何に対しても気力がわかない。
今日なんて雨なのも相まってずっと起き上がれなかった。雨だと低気圧や天候が崩れて体調が優れないし、晴れても太陽の光に当たるのがなんだか気力吸い取られる。結局夜が一番生きやすい。そろそろこの生活とおさらばしなければと思うとすごく憂鬱だ。朝がものすごく苦手なのだ。
低血圧だからってのもあるけど、陽の光を浴びることが本当に疲れる。太陽の光浴びるとセロトニンがうんたら〜みたいな話で浴びた方がいいって言ってる人が多いけど、わたしは浴びてる方が疲れる。学生の時の運動会や体育祭の練習、あったじゃないですか。運動する前に、準備運動して、先生の話聞く時間があるじゃないですか。あの時点で気分はもうダウン気味だったんだよな。燦々と降り注ぐ太陽光を浴びてるとだんだん頭がぼーっとしてきて、何も考えれなくなってく。ここで貧血起こして倒れれるぐらい体が弱ければその方が楽だったのかもだけど、変なところで頑丈だからそういうわけにも行かず。
今日は何にも気力がわかなかった。
量を書いてみたらと言われたからとりあえずメモからでも出そうかと思ったけど、真っ白のメモ用紙に向かうと途端に頭も真っ白になる。じゃあ何かインプットしてみようと思って音楽を聴いたり、色々な作品を読もうとしたけど、音楽は流れてっちゃうだけだし文字は入ってこない。鬱になってから脳みその情報の出し入れがとろくなったなぁと感じる。情報が入ってくるのは鈍いし、出すのは苦痛。うーん、やっぱりこの状態で創作活動はきついのかなあ。創作活動をきついと思ったことがなかったから、いまいち掴めない。いつまでも自分の感情をいまいち主観できない。
いやそれ、自分を客観視できていいんじゃない?って?そうでもない。何に対しても主観がごっそり抜けてる感じが、ふとした瞬間付き纏う。半年ぐらい前に曽祖母が亡くなった時だって、何も感情がわかなかった。非情かなあとは思いつつ。いや、どちらかというと「何の感情もわかなかった自分を非情だなあと思ってた」かな。いや、わかんないや、やっぱり。
でも、主観で来なくていい感情だけはやたら打ちのめしに来る。自己嫌悪、鬱、被害妄想…エトセトラ、悪い感情。
なんだかな。感情を勉強中のアンドロイドみたいな表現が似合う気さえする。
思えば一応、本当に一応な一通りの恋愛経験…?はあるつもりでいたけど、どれもなんだか主観の感情が抜けていたり、好きという感情があるだけで満足したり、なんだかどれも薄いのだ。男の人も女の子も2次元キャラも無機物も本も、何もかもひっくるめて好きなんだけど、好き以上の感情がどうも持てない。
要はだいたいのことに感情が薄い上、極端に他人に興味がないから、色恋の話ができなかったんだ。いや、したいのはその話ではなく。
わたしが書かなくても素敵な作品はいっぱいあるし、なんだかいいやーって。悩むことなんてなかったんだなあ。最初から意味も必要もなかったんだなあって。そんなものに全力出しても疲れるだけで何もなかったんだなあって。無気力だ。
わたしが書かなくても誰か他の人が素敵なのを書いてる。メンヘラの定型文じゃないけど、わたしがいなくても世界の歯車は回ってく的なあれで。
そんな感じで創作に諦めが出て愚痴ることも嘆くこともなくなったので、今日の日記を書くまで時間かかりました。本当は感情が薄いのところをもう少し書こうかとも思ったけど長すぎるしただの身の上話だからつまんねーなと思って割愛。
2017/06/26
2016年12月20日、日本のテレビ東京系のテレビ番組「開運!なんでも探偵団」で「衝撃的なニュース」が報じられた。番組始まって以来最大の発見として、世界で4個目となる中国宋時代の陶器「曜変天目茶碗」が発見されたというのだ。番組の中で、日本の著名な美術鑑定家の中島誠之助氏は、「12~13世紀の中国南宋時代に福建省の建窯で焼かれた『曜変天目』に間違いない」と述べ、2500万円の価値があるとした。
「曜変天目茶碗」は中国の宋時代に作られ、その窯は建窯と呼ばれた(歴史的には建陽窯とも呼ばれる)。現在の福建省南平市建陽区水吉鎮にある。この茶碗は釉薬が焼成の過程で流れ落ちて厚く溜まり、一部は凝集して滴を作る。この滴の周囲で特殊な窯変反応が起き、七色に輝く光彩を生じる。その輝きはまるで夢幻かあるいは変化する気象のようで、色鮮やかな霞をまとっており、神秘の小宇宙に輝く星空のようだ。この種の茶碗が焼けるのは極めてまれな偶然によるもので、一説には窯変過程でこのような効果が生じるのは数百万個に一個ほどと言われる。現在世界に存在する完全な「曜変天目茶碗」はわずか3個で、東京の静嘉堂文庫、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館が所蔵し、すべて日本の「国宝」に指定されている。中国には現在「曜変天目茶碗」の陶片が1点あるのみだ。
天目茶碗は宋代に制作され、その生産は元時代の初期まで続いたが、以後は二度と作られていない。中国では明や清の時代に曜変の再現が試みられたが成功しなかった。日本では江戸時代から再現が試みられており、美濃や瀬戸で「白天目」などは生産されたものの、「曜変天目茶碗」の再現には至らなかった。1974年、日本の化学者安藤堅は48歳で、それまで定収入が得られていた仕事を辞め、高級住宅も売却して「曜変天目茶碗」を再現するための研究を始めた。彼は貧困の中で困難な研究を続け、ついに1977年に古代の「曜変天目茶碗」に似た最初の作品を焼くことに成功した。安藤に続いて、日本の陶芸家の林恭助、桶谷寧、長江惣吉や中国の人間国宝(国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人)である孫建興らが曜変に似た作品を作っている。
番組の放送後、徳島県教育委員会はこの茶碗を県文化財に指定するための調査を計画した。
しかしここで、日本の陶芸家や専門の研究者から「曜変天目茶碗である」という番組の鑑定に対して疑問が投げかけられた。愛知県で古くからの窯が多い瀬戸市に住む陶芸家の長江惣吉氏は家業の陶工を継ぐ9代目で、父親の曜変天目研究を継承している。彼は父の業績を引き継ぎ、「曜変天目茶碗」の再現に一定の成功を収めた。1996年以来、中国を28回も訪れて建窯の研究を行っている。中国では中国科学院上海珪酸塩研究所と連携して陶磁器の国際研究会にも参加し、中国の陶磁専門家に友人も多い。中国古陶磁の再現についても意見交換を行っている。その長江氏が番組に異議を唱えたのだ。彼はインターネットで、福建省周辺で作られた「曜変天目茶碗」の複製品を購入し、これが番組の認定した「曜変天目」と出所が同じだと考えている。
「この茶碗には顔料(スピネル顔料)が使われています。この顔料はヨーロッパで18世紀に発明されたもので、曜変天目が作られた宋代(12~13世紀)には存在しません。ですから、こういった顔料が宋代の茶碗に使われることはありえません。この顔料の主な成分は、化学的に製造されたコバルト、クロム、セレン、カドミウムです。これらの元素が多く含まれていれば、例の茶碗を分析すれば各々の顔料部分からこれらを検出できるはずです。これらの元素は完全に天然原料から作られた当時の建盞には全く含まれません。仮にこれらの元素が天然原料に不純物として含まれていたとしても、その量は 0.01% 程度にしかなりません」
「曜変の光彩はオパールのように、見る角度が変わると光彩も変化します。非常に美しく、人を魅了するものです」
「いわゆる「曜変」という言葉の意味は、輝きが変化するということです。(長江氏がネットで購入した茶碗を示しながら)しかしこの茶碗は、単に青・緑・赤の顔料が発色しているだけです。この種の茶碗の場合、釉薬の成分(リン酸)の関係で、顔料釉と白濁釉にわずかな光彩が出るのみです。曜変の明るい光彩とは比べ物になりません。私がネットで買った茶碗を番組の茶碗と比べると、赤色の内側部分がよりはっきりしていて白い部分はありませんが、これは顔料で描くときの方法の違いや白濁釉と顔料の濃淡の違いによるもので、実際のところはどちらも同じですよね?」
長江さんは後で筆者に述べた。
「あの茶碗は中国の福建ではどこでも見られる商品です。「曜変天目茶碗」に似ていると言う人もいるかもしれませんが、これは偽物として作られた物ではなくただの商品で、非常に安い値段で売られています。番組の中でテレビ東京はあの茶碗を宋代に作られた「曜変天目茶碗」だと説明しましたが、これは「鹿を指して馬だと言う」ようなものでしかありません。」
中国陶磁史と中国陶磁考古学の分野で世界的な影響を持つ権威である沖縄県立芸術大学教授の森達也氏も、筆者の取材に対してこう述べた。
筆者がその理由を尋ねると、森達也氏は以下のように述べた。
「1. 日本国内には3個の「曜変天目茶碗」があります。私は杭州で出土した「曜変天目茶碗」の破片も手に取って見たことがあります。「曜変天目茶碗」の外側にはテレビ東京の番組の茶碗のようなはっきりした模様はありません。
2. テレビ東京の番組の茶碗に見られる模様は雲のようですが、これは曜変天目の模様とは全く異なります。本物の「曜変天目茶碗」の模様は白くて丸い斑紋で、その周囲には虹のような色鮮やかな光芒が出ています。
3. テレビ東京の番組で鑑定された「曜変天目茶碗」には、茶碗の底に「供御」という二文字があります。確かに建窯の窯跡では「供御」と書かれた陶片が見つかっていますが、割れていない完全な陶磁器でこの二文字が刻まれたものは世界中で一つも見つかっていません。模倣品でこの二文字を刻んだものは数多く存在します。テレビ東京の茶碗は本物の「曜変天目茶碗」とは全く異なるものですが、最近中国で流行している模倣品とは非常によく似ています。」
「テレビ番組としては劇場的な効果さえあればよく、科学的な研究は要らないのです。あの茶碗が日本の3点の国宝と同じであるなどというのはナンセンスな話ですが、陶磁器科学の研究を行っている人々からすればこれは非常に残念なことです。」
この論争は中国にも広がっている。中華陶磁芸術設計大師の資格を持ち、国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人(日本の人間国宝に相当する)でもある建窯陶磁研究所所長の孫建興氏は、「曜変天目茶碗」を再現し建窯を再び曜変の産地とする事業に40年にわたって取り組んでいる。彼はこれまでに黒釉の天目茶碗や黄(赤・青・金・銀)などの兎毫盞、異毫盞、虹彩(金縷、白点)、鷓鴣斑、鐵銹斑、毫変、国宝油滴、金(銀、虹彩)油滴、黄天目、蓼冷汁、灰被、玳瑁、柿紅、虹彩、金(銀)彩文字、木葉、窯変、曜変天目などの一連の作品を作ってきた。彼が長江惣吉氏に送ったメールで、彼は述べている。
「これは曜変の偽物で、現代に焼かれたものです」
筆者も電話で孫氏と長時間話をした。彼は筆者にこのように述べた。
「テレビ東京で放送された茶碗はせいぜい数年前に作られたものです。」
新聞や雑誌で真贋論争が過熱した後、この「曜変天目茶碗」の所有者は茶碗を奈良大学文学部文化財学科教授の魚島純一氏に渡し、分析を依頼した。魚島教授は蛍光X線装置を用いて茶碗表面の色の部分を分析した。
魚島教授は物質に含まれている元素を検出できる蛍光X線分析装置で、茶碗表面の各色にX線を照射して元素の種類と量を測定した。その結果、アルミニウムなど10種類の元素を検出したが、化学顔料に使われる元素については発色に影響しないほどわずかな量しか検出されなかった。
魚島教授は述べている。
「X線分析の結果、表面のどの色の部分かによらず、検出成分はほぼ同じであった。このことから、茶碗に使われている釉薬は1種類であると考えられ、この分析結果からは茶碗が偽物であることは断定できない。」(《德島新聞》,2017年2月28日)
一方、長江氏は筆者に対して次のように述べた。
「魚島教授は、釉薬の発色に影響するだけの量が検出されなかったため、判断ができないと言っている。であれば、魚島氏は最低限どれだけの量が含まれていれば発色に影響するのかを具体的に言った上で、分析の結果その最低量を下回っていたことを示さなければならない。しかし、魚島教授のデータには下限値の数値も書かれていないし、彼が分析で得た数値も書かれていない。よって彼の判断には根拠がない。」
日本の複数のメディアの報道によれば、その後、茶碗の所有者から茶碗についての資料が提供されないため、徳島県は文化財指定のための調査を中止した。
私自身、「開運!なんでも鑑定団」は好きな番組だ。自分も中国の古陶磁を蒐集しており、骨董の鑑定について10年近く独学で学んでいる。浅学ながら陶磁器の本や文章なども執筆してきた。私は中島誠之助さんの陶磁器鑑定、特に日本の陶磁器鑑定については相当の経験をお持ちで深い造詣を有していると思っている。
だが、中島さんと彼の鑑定についてはともかく一般論として、一人の鑑定士の鑑定範囲が日本だけでなく海外をもカバーして、なおかつ正確であることを求められるというのは、鑑定士にとっては間違いなく一種の冒険と言ってよい。陶磁器は全世界に存在し、最古の陶器は数万年以上の歴史を持っている。一人の鑑定家が古今東西全てについて完全に判定できて一度も間違えないなどということが可能だろうか? 一度間違えればその後も間違いの危険は存在するのだ。
「荘子」で述べられているように、「吾が生や涯(かぎり)有り、而(しか)も知や涯無し。涯有るを以て涯無きに随(したが)うは、殆(あやう)きのみ」(我々の人生は有限である。しかし人間の知は無限だ。有言の身で無限のことを追い求めるのは危うい)なのだ。
このことは、最も権威ある陶磁器研究者であっても忘れてしまうことがある。例えば、1959年、国際的に知られた陶磁研究の専門家で日本陶磁研究の第一人者でもあり、当時日本の文部省の技官として文化財専門審査会委員を務めた小山富士夫氏が、「永仁の壺」と呼ばれた陶器を日本の重要文化財に指定するよう強く推薦したことがあった。これを受けて同年6月27日、文部省は「永仁の壺」を鎌倉時代の古瀬戸作品であるとして重要文化財に指定した。
その後、日本の有名な陶芸家であった加藤唐九郎が海外に渡航した際に、唐九郎の息子である加藤嶺男が「いわゆる「永仁の壺」は自分が作った」と述べた。唐九郎の帰国後、彼はメディアが大騒動になっているのを目の当たりにした。1960年9月23日、唐九郎は「永仁の壺」は1937年に自分が作ったものであることを認めた。(真の作者が誰であったのかについては異なる見解がある。)「永仁の壺」が本物である証拠は、古瀬戸の「松留窯」で発見された陶片が「永仁の壺」の胎釉と一致するという点にあったが、実は「松留窯」自体が加藤唐九郎による捏造で、陶片も彼が偽造したものだった。
このようにして、「永仁の壺」を含む重要文化財3点が指定取り消しとなり、小山富士夫は委員会を辞職した。ゆえに、賢明な鑑定家は誰であれ、古物の鑑定には、異議の申し立てが容易に行えるように、議論の余地を残しておかねばならないのだ。
私は中島氏の鑑定が間違っていたと言っているのではない。第一に、私はこの分野の専門家ではない。この件で私が真贋を判断するのは無意味だ。第二に、厳密にいえば、文物の鑑定とは考古学、歴史学、美学、自然科学にわたる総合的な学問である。全面的に、かつ正確に古代の文物の年代を特定・鑑定する厳密な科学的方法は存在しない。言い換えれば、こういった議論で100%の是非を決める結論を得るのは難しい。
筆者は言いたい:このような重大な鑑定では、もっと広く意見を求めるべきだったのではないか?
確かにテレビ番組では、科学研究の場合のように「この品物が疑わしい」と言うのは難しいことだ。しかし、結論を出すのが難しい文物、特に「鑑定団史上最大の発見」といった結論や、「現存4個目の中国宋代の陶器「曜変天目茶碗」」のような鑑定については、中国建窯の専門家と日本の権威ある専門家の意見を求めるべきではないだろうか。筆者はテレビ東京の番組担当者に、この論争についての意見を求めて何度も電話をかけ、メールを送った。しかしこの原稿を執筆している時点では、彼らからの返答はない。「週刊ポスト」の報道によれば、この件についてのテレビ東京の見解は以下の通りだ。「鑑定は番組独自の見解であり、お答えすることはございません」(《週刊ポスト》,2017年6月23日,146頁)
だが、もしもっと広く意見を集めることができたら、例えば中国で初めて建窯の陶磁器の再現に成功した前述の孫建興氏のような専門家の意見を求めてはどうだろうか? 彼の「曜変天目」に関する研究と実験は非常に深いものだ。彼は考古学、鑑定、科学実験の各方面に非常に造詣が深い。こういった人々の意見には重みがあると言えないだろうか。もしテレビ東京がこのような人々にもっと意見を求めるようにすれば、論争は減るのではないか?
もう一つの問題は、文物の鑑定に自然科学が介入するという話だ。実際、今のところ文物を科学的に鑑定する完璧な方法というのは存在しない。多くの人が挙げる放射性炭素年代測定法は、自然界に存在する炭素14という同位元素を使ってもともと生きていた動植物の年齢を決める放射年代測定法だ。動植物が生きている間は生物の新陳代謝によって生体内の炭素14の量は一定に保たれる。生物が死ぬと体内の炭素14は崩壊して減り続ける。だが磁器・陶器・青銅器などは無機物だ。しかも時代の古い文物の場合、炭素14年代測定では年代の上下の誤差が大きい。一方で、1000年から2000年前という比較的新しい歴史的文物の場合、基本的には炭素14鑑定は使えない。
また、熱ルミネッセンス法と呼ばれる鑑定方法もある。陶磁器が焼かれるときに500℃以上に加熱されると、外部から吸収した輻射エネルギーが放出される。その後、焼成から年月が経つと、年月の長さに応じた量の輻射エネルギーを再吸収していく。熱ルミネッセンス法の原理は、古陶磁の内部に蓄えられているこの輻射エネルギーの量を計ることで年代を測定するものだ。誤差範囲は一般的に±20%程度で、相対的には正確な方だ。
しかしこのような報道もある。
「数年前、北京の二つの有名な博物館がそれぞれ六朝時代の陶器を古物市場で20万元で購入したが、後にそれらがすべて贋作であることが判明した。これらの品は河南省の某博物館の下で作られたアンティーク工芸品であったが、なぜこれらが北京の潘家園旧貨市場に流れたのかは分かっていない。ある古物の専門家が古物市場を訪れ、そこで売られている品物を熱ルミネッセンス法で調べると、約1600年前という測定結果が出た。そこで誰もがそこの品物を買った。買われたことが知られると、同じような品物が古物市場にどんどん出現した。そこで国家文物局がすぐに公安部に通報した。公安部の担当者は、「墓が荒らされて大量の遺物が盗まれる事件が発生している」と説明した。警察が現地に到着すると、地元の住民が自宅で贋作を作る作業をしているのを発見したという。彼らは六朝時代の墳墓から盗掘したレンガを削って粉にしていた。この粉を贋作に使えば、熱ルミネッセンス法にかけても墳墓の中で長年溜め込んだ輻射を出すので贋作を判別できなくなる。また彼らは、こうして作った粉で六朝陶器を偽造するための特別な装置も使っていた。このようにして、熱ルミネッセンス法での検査は失敗してしまうのだ。」 (《鑒定家VS造假者》,新華網,2005年03月15日)
魚島教授が蛍光X線分析を用いた点に関して、森達也教授は私に述べた。
筆者は魚島教授にも、蛍光X線検査について質問を行った。彼は言う。
「私はあくまでも顔料部分の元素を調べる目的でこの装置を用いました。私が調査結果を発表した際に、茶碗が偽物であると考える人たちから非難を受けましたが、私は真贋鑑定をしたわけではありません。」
筆者:
―― それはつまり、あなたの検証結果は、この茶碗には18世紀以降の顔料は使われていない、ということですよね。
魚島教授:
「それは新聞がいい加減に書いていることです。私は18世紀以降云々といったことは言っていません。私はただ、現代のものと考えられるような種類の顔料は検出されなかった、と言っているだけです。」
筆者:
―― 言い換えれば、18世紀以降に発明された化学顔料は使われていなかった、ということですよね?
魚島教授:
「これらの顔料が使われているから茶碗は偽物なのだと主張する人々もいますが、私はただ、そのような顔料は検出されなかった、と言っているだけです。私は陶磁器鑑定の専門家ではありません。あの茶碗が偽物だと主張する人々は、化学顔料の元素が茶碗に含まれているはずだ、と言っています。私は単に、その元素があの茶碗に本当にあるかないかだけを調べたのです。どの時代に作られたものか、という調査をしたのではありません。ただ、あなた方が言っているような元素はありませんでした、と言っただけです。」
筆者は質問した。
―― 例えば、もちろんこれは(例の茶碗のことではなく)仮定の話ですが、誰か現代の人間が、今回指摘されたような元素を含む現代の化学顔料ではなく、昔の顔料を使って茶碗を作ったとしたら、あなたの検証方法では今回と同じような結果が出ますか?
魚島教授:
「その可能性はあります。」
しかしながら、中国では古代の陶磁器を偽造または模造する際に化学釉薬を使うことは多くない。中国の多くの地方には陶磁器の偽造工房があり、こうした工房の多くには専門技術を持った人間がいるわけではない。地元の農民が、数千年間にわたって埋まっていた陶土を掘り出し、古代の方法で焼いているのだ。匿名で語ってくれた、中国で著名な建窯の研究家や考古学者、鑑定家たちが筆者に述べたところでは、現在中国には建窯産品のコピー品工房が1600以上存在する。その多くは偽造品を作りたいわけではなく、単にアンティーク風の品や旅行土産を製造するのが目的だ。もちろん中には偽造品の製造を目的とする人々もいるが、偽造品の製造方法はどこにでもあるような手法だ。科学的な鑑定が困難になるように、古い器の底の部分だけを新しい器に接合したり、古い胎土に新しい釉薬を使ったり、古い胎土に古い釉薬を使ったり、その他いろいろな方法を使っている。
このことは、古物鑑定が文化や歴史年代、改竄や継承といった問題と関わっていることを示している。加えて社会的な影響や国際的な影響も大きい。今回の鑑定やテレビ東京の件は別にしても、日本の博物館や歴史研究部門では、中国の文物を鑑定する際に同じような問題に直面しているはずだ。それゆえ、重大な結論に至るような場合には、我々は注意深くなる必要があり、広く意見を求めるべきなのだ。
張石 略歴:
1985年、中国東北師範大学外国語言文学系研究所卒業、修士号を取得。1988年から1992年まで、中国社会科学院日本研究所助手研究員、 Permalink | 記事への反応(0) | 00:35