はてなキーワード: 無機物とは
その後 何とか案内を引き受けてもらう
マスダくん:近場で紹介するんだったら ここかな
まず やってきたのは駅から直通の「アルブス・オーク」というオフィスビル
――名前の由来とかはあるのかな?
マスダくん:ファンタジー物とかで出てくるオークからじゃないの? アルブスはよく分かんないけど
ミミセンくん:オークは植物の種類で アルブスはラテン語で“白”って意味 つまり白いオークの木をイメージしてるんだろうね
――へえー よく知ってるね
ミミセンくん:いや、入り口の案内板に書いてあったし
実際 辺りを見回してみると オフィスビルにしては随分と植物が多い
タオナケちゃん:名前は分かったけど、白いオークの木をイメージしたなら ビル自体も白くすれば良かったのに
マスダくん:それに何でアルブスとか ラテン語から引っ張ってきたんだ
ミミセンくん:さあ それは案内板にも書いてないね
タオナケちゃん:私の推測だけど 作った人はそこまで考えてないのよ
――えーと あのオブジェは何かな?
シロクロさん:知らん! 知ったところでどうする!
タオナケちゃん:私も分かんないけど そもそも分からないことの方が多くない? ああいうのって
マスダくん:まあ 確かに
結局 謎のままにされるオブジェ
アルブス・オーク内を回っていると 丁度お昼の時間に
――そろそろ お腹が減ってきたね どこか美味い店ない?
ミミセンくん:それはあなたの好みにもよるし その時々によって食べたいものも変わってくるでしょ
マスダくん:オッサン そういう投げやりな質問しか出来ないわけ?
――えーと……じゃあ 君たちがよく利用する店はどこかな
タオナケちゃん:私 逆に聞きたいんだけど それは“この建物内にある店”って意味?
――えー そうです……
マスダくん:だったら「初めての調理場」かな
ミミセンくん:ハンバーガーはもちろん サンドイッチやパスタを取り扱っているのがいいよね
タオナケちゃん:私もよくいくけど ハンバーガーなら押忍バーガーのほうがいいわよ
マスダくん:そうかあ?
――あの それって チェーン店だよ ね
ミミセンくん:下手な自営業やってるとこより 企業努力のほうが遥かに強いよ
――観光で来たんだから どうせなら地元ならではの店がいいかな~って
ミミセンくん:そういうことは最初に言っておいてくれませんか
タオナケちゃん:さっきも言ったけど 後になってから条件を追加したりアレコレ言うのやめてくれない?
マスダくん:ほらな 雑な質問するから こういうことになるんだよオッサン
最近は『LGBTを理解しよう!』とか『LGBTへの誤解をなくそう!』『LGBTにも権利がないとかわいそう』とか、主張するアライ(所謂ノーマルの人)が増えているように思う。そのこと自体は喜ぶべきなんだろうけど、少し心配な部分がある。
自分とは全く関係のない世界、人種の話だと思ってないだろうか、と。
私の話をしようと思う。
私は現在大学に通っている。女のバイセクシュアル。自覚したのは1年程前のこと。
高校時代までに好きになったのは皆男の子だった。だから普通に自分は異性愛者だと思っていた。しかし大学に入ってすぐの頃、唐突に女の子が好きになった。戸惑ったしかなり悩んだけどそのうちに受け入れた。
BLや百合モノだと『男(女)が好きなんじゃなくて君が好きなんだ!』『好きになったのがたまたま男(女)だった』って展開は少なくないと思う。気分的にはそんな感じの状態だった。
さて、つまり何が言いたいかっていうと、LGBTは皆が皆最初からLGBTではないということ。
今異性愛者の人でも同性愛者、両性愛者、になるかもしれないということ。性別のズレに気づくかもしれないということ。
それに限らず、唐突に動物を好きになるかもしれない。無機物を愛すかもしれない。あるいは誰のことも好きではなくなるかもしれない。今(あえてこの言葉を使うが)"普通"だと思っている自分の家族、友人、知人、自分でさえも実は"普通"ではないのかもしれない。私たちはあらゆる可能性を含んでいる。
しかし、そこに『自分には関係ない人たちだけど、可哀そうだから協力しよう』という思いはないだろうか。
もし自分が同性を好きになったら。自分の娘や息子、友人が『同性のパートナーがいる』『自分は"普通"ではない』と言ってきたら。果たして受け入れられるだろうか。自分とは関係ないところでなら受け入れられた。でもいざそれが自分の身に感じられて、受け入れられなかったとしたら。そこの齟齬に苦しんではしまわないだろうか。自分の大切な存在を否定してしまわないだろうか。
ここまで語ってしまったが、恐らく当事者にならない限り身近に感じるなんて無理だと思う。理解できなくて当然なのだから。ただむやみに否定されないだけとてもありがたい。でも、『もしかしたら』という意識は必要だと思うのだ。世の中が多様性を受け入れようとしている今、カミングアウトするハードルは少しずつ下がってきている。これまで秘密を抱えていた誰かや、これまで気づかなかった自分の心が、明日あなたの袖を引いて言うかもしれない。
『私、実は〇〇なの』
それを、否定しないで欲しい。
なるほどねー。
議論すべき内容か否かは兎も角として論点は整理されてたのでわかった。
とはいえ、ここは増田なので致し方ないとしても、元増田はこの記事で自分のスタンスを明らかにしてないよね。
この記事の書きようからするとヴィーガンではないのではないかと思ったんだけど、勘違いかな。
それは兎も角、まず一つ目の論点の苦痛を感じるかどうかということだけど、本当にそれが論点であるなら、屠殺の手法にフォーカスが向くはずであって、現在の運動の方向とは必ずしも同一ではないよね。
そもそも先進国の屠殺場では屠殺される動物に苦痛を与える屠殺方法は用いることができないことになってる。
大脳を持ち自由神経終末のある脊椎動物に限られるのであれば、大脳が苦痛を知覚しないブロックされた状態であれば、当該動物は苦痛を感じていないと結論することができるわけで、既存の屠殺手法を攻撃することはできない筈だよね。
また、家畜におけるアニマルウェルフェアをどう評価するかについては議論がわかれるところだけど、飼育方法は兎も角として産ませ育てることすら否定するのだろうか。
生老病死の四苦を知る仏教的観念なのだろうかね。そんなわけないだろうけど。
植物がどうのっていうのを「稚拙」と論じるのは勝手だけど、日本的な宗教史観に基づいて考えた場合に、逆に植物が苦痛を感じないのだろうかと考えることは自然なことだとは思うのだが。
振り返って、人は植物・動物問わず、生命を食べずに生きることができない(無機物のみで生存することができない)ことに気付けば、命に対して線引きをすることの愚かさに気付けそうなものだが。
だからこそ、感謝をもって食す、食物を大切にするという風に考えを昇華できないところに思考の限界が見える気がするが、これは宗教的なバックボーンの問題なのかもしれず一概に否定することもできない。
Marriage as a long conversation. - When marrying you should ask yourself this question: do you believe you are going to enjoy talking with this woman into your old age? Everything else in a marriage is transitory, but most of the time that you're together will be devoted to conversation.
(Friedrich Nietzsche, Human, All Too Human: A Book for Free Spirits)
一応訳しておくと、
結婚とは長い会話である。結婚するとき、「あなたはこの女と年を取るまで会話を楽しめると思えるだろうか?」と自問しないといけない。結婚のほとんどのことは一時的なものだけれど、一緒にいる時間はほぼ会話に費やすことになる。
子育てをすると話ができるってのがどれだけ大事かと思い知らされる。
生まれたばかりの子供はただ泣くだけ、こっちが予想して動いてあげないといけない。でも、要求も複雑じゃないから、無機物の分類の問題みたいなフローチャートができれば、あとはそれに従って判断すればよいだけ。
年齢が上がって世界が広がると、要求の種類も広がり、フローチャートで対応できる範囲を超える。
それがいわゆるイヤイヤ期だと思う。
外部に対する知覚や認識の弱さと語彙力不足、文章構成力不足が相まって、気持ちがあるのに全く通じないみたいな状態。
イヤイヤ期が終わるのって語彙力とか文章構成力が伸びてきて、それなりに意思疎通ができるようになった状態。
ここまでやると、話し合いの大事さってわかってくる。
察して動けるのは相手の要求が単純だった時までで、相手の要求を理解するには話を聞かないといけないということ。
そして、相手に要求するのにも、相手のわかる言葉で話をしないといけないということ。
どうにもならないこともあるけれど、少なくとも相手が何を考えているのかがわかるだけでも違うよね。
作中ではキャラクターがお互いの良い面を自然と褒め合う関係で描かれていることが多く、見ている側も頬が緩んでしまう展開が多いだろう
話はそれるが、これを読んでいるあなたは普段付き合っている人の、その人の内面すべてが好きだと自信をもって言えるだろうか?
言えるという人もいると思う。しかし大半は"嫌いな面もあるけど付き合っている"という状態だろう。
嫌いな面もある、しかし一緒にいて楽しい面も多い。なので一緒にいる。これもまた一つの良い関係性と言えるのではないだろうか。私はそう思う。
話を戻そう
たつき作品にはこの"嫌いな面もあるけど付き合っている"という関係性が一切ない。
ゆえに"少しでも嫌な面があるとその人の良い面を探そうとしなくなる"という"すぐ嫌い認定する人"にも評価され
そういう人が次々と集まってくる。
それに加え、先ほどたつき作品には"嫌"は存在しないと書いたが、それは作中のキャラクター内限定の話で
全体で見ると"自分達を殺そうとしてくる無機物"という確かな"嫌"は存在していて、そしてそれらは毎回優しいキャラクター達によって排除されている。
つまりは先ほどの"すぐ嫌い認定する人"に加えてさらには"嫌なものは排除すれば良い"という過激思考の人にも噛み合ってしまっている作品となっている。
意図せずとも、そういう人たちを呼び寄せる力がたつき作品には備わってしまっているのである。
もちろん、たつき監督にも作品にも何も罪はない。本当に優しい人達にもたつき作品の良さはしっかり伝わっているし、そのようなコミュニティはとても良いものだと思う。
しかし悲しいことに、たつき監督の理念とは裏腹に、過激派を呼び寄せてしまっている現状がある。
が、制作陣の淡い願望だろう。
ホテルの崩壊(2期の商業的な失敗)程度で死に(消え)やしないかと。
もしくは、
2期を擁護しようと振る舞い、誹謗中傷され心が折れた通期ファン
うみのごきげん
ミライ … ヒト
キュルル … 素のヒト(過去のヒト)?
欲望によって消費する者達が居なければ2期も無かった
作られた作品群
セルリアン
ヒトの思いに反応して姿形を得るもの。
それは常に強く出口を探し求めているが故に、
受け取られるように…。
ビーストとセルリアンの違いは、純粋なファンを経るかどうかか。
海底火山
1期とは別の財源?
もし仮に、
10話制作中時点くらいまでに止んでいたのなら、12話の展開は、
ビーストとセルリアンとの化学反応によって黒オーラが消え(ここまでは描写がある)、
アムールトラはガレキの向こうに消えるのではなく、こちら側に残る…
という展開も予定していたのかもしれない。
最終話のエンディングに1期のオープニングを準備していたこと。
キュルルの願い通りアムールトラをも、ともだちとして対立は溶け、
その歌詞通りに「♪のけものはいない」と歌い上げたかった故だろう。
その現状を前に安易なハッピーエンド描く事ははあまりにも空々しく、
現実をそのまま反映するかのように、アムールトラはガレキの向こうに
そのまま残さざるを得ないと判断したのではなかろうか。
敗北を、厳しい現実を素直に認め、残酷なこの世界の姿をありのままに、
その通りに提示された訳だ。まさに鏡として。
(ヒトの造りしモノ)
人の作った道具=無機物+人の思い(弱い)
書かれた絵 =無機物+人の思い(強い)
もう終わってから3か月も経つというのに、FGOの昨年の10月のイベントである「神秘の国のoniland ~鬼の王とカムイの黄金~」を許せない。
オニランドは、エリザベート・バートリを侮辱した最低のシナリオだ。
出来ることなら、あれに関わったスタッフ全員をグーでぶん殴りたいほどである。
3か月たって冷静になった今、あの「神秘の国のoniland ~鬼の王とカムイの黄金~」というシナリオのどこがひどかったか、冷静に書き連ねてみたいと思う。
①ハロウィンである必要も、エリザベートが出てくる必要もなかった。
舞台の内容自体も遊園地であり、鬼がメインのテーマパークであり、ハロウィンである必要性が皆無である。
また、ハロウィンであったとしても、もともとエリザベートはハロウィンと何の関係もないサーヴァント。
FGOで勝手にハロウィンはエリザベートの担当と決めつけた結果、ハロウィン=エリザベートという図式が出来上がってしまっただけなのである。
むしろ、永遠の美を求めて殺人鬼となった結果、反英霊となった彼女は、永遠を求めず、老い朽ちていくものを良しとする日本文化とはすこぶる相性が悪い。
オニランドはエリザベートを出す必要がないどころか、エリザベートを登場させてはいけないイベントだったのである。
エリザベートは元々、下の画像のように美しい少女のキャラクターだ。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1744644.jpg
生前、美しさ、若さを保つために数百の少女を殺害し血を啜った彼女は反英霊として歴史に名を残し、FGOの召喚システムによって召喚されることとなる。
エリザベートにとっては、美しくあることが最大の優先事項である。
自分が生前、奪った数多の命に報いるためにもエリザはその在り方を曲げない。
ジル元帥やカール大帝に洗脳されかかったときにも、決してエリザは屈しなかった。
それがオニランドでは、アインツベルンの黄金というたかが無機物に誘惑されて、自ら下の画像のような醜い姿になるのである。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1744643.jpg
オニランドのシナリオライターが、キャラクターの生きざまをまともに把握できないほど馬鹿だから、このようなシナリオの都合でエリザのキャラクターが捻じ曲げられたのである。
③シナリオライターが茨木童子を贔屓したくて、エリザを踏み台にしたことが見え見え。
これはオニランドをプレイした人なら、ほとんどが感じてるであろう。
シナリオライターが茨木童子を気に入っていて、茨木の見せ場を作るためだけにシナリオを考えた。
シナリオライターの表現力がゴミすぎて、その贔屓を隠せていないのである。
あのとってつけたようなエピローグも、エリザのフォローは全くなく、ぼっちのエリザについていてあげる茨木優しいね!したいだけのシナリオライターのエゴが丸見えだ。
ここに出てくる「あまくない砂糖の話」が気になって視聴してみた。
で、砂糖の歴史の話を見てる時に、砂糖は食した人を中毒にする事で自己の存在を増やそうとしているように見えた。
生命でも無いのに増えようとするその力はまるでウィルスの様ではないか。
ウィルスは自分のコピーを他社の細胞を介して生成するが、砂糖は摂取した人間を介して自分を劇的に増やしている。
より複雑な物をコントロールしている時点で砂糖はウィルスよりも高度な存在に思える。
ここでも小麦が人類を支配しているかのように描かれているが、実際に穀物に含まれるデンプン(砂糖)の影響も大きいのでは無いだろうか。
デンプンが糖に分解できなければここまで人類を支配することは出来なかったのではないか。
他にも中毒になるといえば麻薬だが、こちらも同様に人間を介して自己の存在を増やそうとしている。
こちらは摂取した時の人体への様々な影響が目に見えて分かるため減らす圧力がかかり思うように増やすことが出来ていないようだ。
最初の記事にもあるように、砂糖もその悪性が判明してきて徐々に排除される傾向にあるが、やはり我々は0カロリーの変な甘味のコーラよりも普通のコーラが飲みたいのである。
また悪であるとはいえ脳にはブドウ糖が必要で完全に糖を断つ事は敵わないので安易な砂糖へのヘイト活動は慎むべきであると考える。
宇宙は鉄に収斂していくそうだが、実は砂糖と鉄による有機物対無機物の覇権争いがあるのでは無いだろうか。
我々としてはどちらを応援するか悩ましい所ではあるが、是非とも身近で(宇宙的には)マイナーな砂糖に頑張ってほしい物である。
絵の練習をする時好きなキャラを描く人が基本的に多いが、私はその好きなキャラが描けない。
理由としては、私にとって好きなキャラは基本的に自分よりも上の存在。大げさな言い方をすると「聖なる存在」に値するような立場になる。
そのため、自分のような幼稚園児が書いたような絵で描くなんて失礼千万、何しろ自分の好きなキャラを自分で汚してしまうのが恐ろしすぎて描けない。
かといって、好きでもなければ嫌いでもないキャラはそもそも興味なくて見向きすらする気が無い。だからどちらにしろキャラの絵を元に練習する事が出来ない。
これ多分一生キャラクターの絵描けないか、もしくは上手くならないだろうな。もはや一種の呪いを自分自身にかけているようなもんだな。
優しい言葉を受け取れない。
ツイッターでたまに愚痴を吐くことがある。そういう時って大体壁打ちというか、とにかく吐き出したくて、無機物に向かって話してる感じ。
そんな時に、相互さんからDMやリプを頂く時がある。励ましのお言葉だったり、元気づけるお言葉だったり。壁打ちだと思ってたものに反応を頂けば、素直に嬉しく思う。それは本当。
でも、受け取れない。なんだか受け取っていいのか分からなくなる。受け取ろうとすると、自分が自惚れてるみたいで気持ち悪くなる。
「ありがとうございます!」って返事は返すけど、一言も胸に響いてない。頂いた言葉は大事にスクショとかしちゃうけど、頂いた事実だけを噛み締めて、言葉は正直受け取れてない。
書きながら自分が情けなくなってる。私が悲劇のヒロインを演じたいだけなのかもしれない。それに水を指すなよって思ってるのかもしれない。分からない。優しい言葉ってどう受け取ればいいの。
自惚れるのが怖いし、優しくされるのが怖い。有難いけど逃げたくなる。優しい言葉を読む度に申し訳なくて、私なんかがすみませんって思う。有難さより申し訳なさが先に来る。申し訳ないなら受け取ればいいのに、なんだかそれが出来ない。出来ない理由が分からない。