はてなキーワード: 担保とは
どこにでも居丈高な人というのは居るものですが、それが上司だと始末に負えない。
確認すると「こう指示してるんだからこうしろよ」だとか高圧的な態度で対応する。
君がそういう対応をすることで、作業者が委縮して質問しなくなる。
作業の正確性を担保するために質問して怒られるのであれば、曖昧なまま作業を進めてうまくいくことに賭けるたほうが良いことになってしまう。
成果物の品質が悪いとぷりぷりしているが、一番品質を下げてる要因は自分自身だぞ。
このような人は部下からの進言は聞き入れないし、部下としても進言すれば藪蛇で査定さげられると思うのだから進言もしない。
その結果、このような高圧的な上司は増えつづけるし、社会で害を与え続ける。
きっと、いつか誰かが彼らを打ち倒すであろう。
それは今ではないし私でもない。
お前が言ってる通り大企業と個人を比べるのは全く関係がないし意味のない話なので、そんなのを持ち出して「軽蔑する」だの何だの言い出してるのは何とかしてこちらに難癖をつけたいというだけでしょう
それでもあえて答えるならその組織の制度・環境の不備をいち生徒やいち従業員が担保する必要はないです、それはハンディキャップをもつ人が社会進出をする手助けにはなりません
もちろん無理のない範囲で手助けをしたり、お前のように差別的な発想・言動をしないというのは前提の話です
その上で、障がい者が声をあげやすい社会にする、またそうでない人がその声に連帯する社会になるよう行動するのは社会の成員として当然求められる(求められている)んじゃないですかね
罷り間違っても「お前の訴えは道徳的ではない/非常識だ」などと糾弾することではありません
まぁ、「俺はやりたくないからお前らがやれよ」というような話をする人間に軽蔑されようが尊敬されようが全くどうでもいい話ですね
ブクマカさんさぁ……元儂田は「これがアニメキャラや更に漫画キャラだと、(作画能力にもよるが)ちょっと難しいところがあって、変更の程度によってはそのキャラの同一性を担保する「記号」にゆらぎが生じかねないだが」って書いてるじゃーん!
いつ、元儂田がアニメキャラは衣装を変えないと言ったよ。アニメキャラはVtuberより難しいところがある(Vtuberの方がしやすいところがある)んじゃないかってのが、本題だよ。
アニメキャラの着替えでも海に行って水着や正月の振り袖はイベントに関係したものだし、普段着の変化は一定のキャラクター性を維持する方向でまとめられているでしょ(と受け取っている)。
いつもゴスロリのアニメヒロインはジャージ姿で屋外を歩き回ったりはしない。話のわかるヤツだ。 けどVtuberはヤバイ。そんなの気にしない。着替えしまくり。10万人の前に生で出てくるような格好じゃない格好で出てくる。ヤバすぎ。
というと反例をあげられそうだが(よくしらないけど時崎狂三ちゃん?)、2つの姿の間の移動は生来のキャラクター性のうちであるのに対してVtuberは後天的に獲得していない?)
アニメキャラなら失恋して断髪するような「イメチェン」と呼ばれる「不可逆的な変化」の壁を超えて、Vtuberは「可逆的」に外見のイメージを大きく変えたり変えなかったりする。
そう考えているのだが、ソースを集めて語るには自分の力量が足らないのも認める……
コンボイの増田さんを読んでで思ったけれど、Vtuberにとってのガワは搭乗ロボットの方が感覚的に近かったりするかもしれないな。
シチュエーションに合わせて向いたメカに乗るVもいれば(鷹宮リオン、ベルモンド・バンデラス…他には?)、新型機に完全に乗り換えるVもいる(例、成瀬鳴・北上双葉…他には?)、特殊条件下でしか出てこないガワもある(ロリ委員長・アイドル八重沢なとり?…他には?)
障害者のことを想定していないお前の「通常」だの「常識」だのという安易な物言いを皮肉ってるだけで、お前の現実主義者気取りの「理想はー現実はー」なんて差別的な価値観を内包した言説に納得することはないですよ
差別的な扱いを受けて移動の自由を担保されない人がいるのが現実です
それが企業で言う法令遵守やCSRであり、国家なら人権を守るための義務だからですね
単純に言って意味不明です、謎の足し算を出してきて気でも狂ったんですか?
まぁリソースが無限ではないという、いち利用者には関係のない謎の話をしてるんでしょうが
リニア新設などという国家的実験をしようとしてるのだから鉄道事業全体に身銭がないなんて話はありえない話なので、そもそもバリアフリー化に十分なリソースを割いてない(割く気がない)というだけの話でしょう、1を40にすれば済むだけの話です
40にするのはどうするんだ!とか言うのでしょうけど、何度も言うけど知ったことではありません
利用者はその方法が適切でなければ(運賃2倍)批判するだけで、適切であれば受け入れるだけです
じゃあ何で言ったの?w
馬鹿なの?w
へえ、それで
なんですね
あなたは当事者意識どころか現実に意識がないんじゃないですかねw
お前がそれっぽいことをいくら言ったところで、障害者差別の意識を消せないヘイターで、障害者を尊重しようとする人も気に食わないだけの迷惑野郎でしかないんだよ
学生時代、件の「あえぎエディタ.xls」におそらく触ったことがあるのだ。
学部生と院生が共同で利用できる談話室で、そこにはPCが一台だけ置いてあった。
PCルームのコンピュータの方が機種が新しかったためか、はたまたそこに一台しかないために起こる遠慮のせいか、ほぼ独占していたように記憶している。
ある日、気まぐれに隠しファイルを検索すると、諸先輩方が残した過去問データに混ざって「エディタ.xls」があるのを発見したのだ。
文章を入力すると、その緊張度合いが「絶頂度」という値で算出される不思議なツールだった。
これを卒論に応用できないかと思い、試行錯誤したものだが、式を見ても音声的要素の数値化と計算処理の妥当性を担保する理論を自力で復元できなかったため、諦めざるを得なかった。
どういう理屈で作り上げたのか、テキスト化してくれなかった制作者を恨んだものだ。
1点目は、増田が指摘していたように「多くの作品で、最後に向かうほど「絶頂度」が高まっていく」ことだ。
2点目は、「1点目の傾向は短~中編に顕著で、長編になると当てはまらないものが増える」ことである。
例えば、太宰の「駈込み訴え」は典型的な「最後に向かうこと「絶頂度」が高まっていく」作品だ。頭から250越えの高い値をマークしていながら、「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」で最高潮に達する傑作である。(最後の数値は伏せる。太宰は「羅生門」より高くても低くても何か言いそうだ。)
しかし同じ太宰でも長編小説の「人間失格」はエピローグの値が全体的に低いのだ。(ただし「神様みたいないい子でした」で跳ね上がる。)
この、長編における末尾の値の落ち着きについて何か述べたかったのだが、前述の経緯で諦めたため、そこから先のより突っ込んだ分析はしていない。
それにしても、算出される値に「絶頂度」と名付けるとは、不思議な趣味だと思ったが、こうしてツール作成の経緯と本来の名前が判明したことで合点がいった。
あえぎ声か。すると私が気にしていた「末尾の値の落ち着き」はさしずめピロートークだったのだな。
しばしば、その生涯を持つ子の親御さんから猛反発を受けるんです。
これは遺伝子治療の研究での倫理問題としてよく話題になりますが、
一夫多妻制では遺伝子の多様性が担保できないし、夫婦にお金を支援しても出生率に影響をほとんど与えないことは既にわかっている
他にいい方法があるならそれでも良いと思うが
「議席あてがえ論」の重大性に気付いてる者もいれば、相も変わらず教科書通りの問答をしようとする愚か者も多い。
議席とは人権である(正確には、そこに懸ってる人権がある)ということから目を逸らしてる奴はこの際論外として、
もう一点指摘をしておこう。
男女平等を信条とする俺には全く関係ない話だが、ブコメやらフェミニストには「女性の人権」とやらを殊更重要視する差別主義者がいるようだ。
そういった連中に向けてのヒントだが、「議席あてがえ」論は女性の人権すら奪うということを肝に銘じておけ。
それともまたお決まりの、「名誉男性」と言って切り捨てるのだろうかね?
plagmaticjam あてがえがあらそえに見えてきた
「権利の主張」が実現したら即、「加害」なので実現する前に批判する。「暴力的」?俺は字を打ってるだけだ。
あてがわれる議席の裏には立候補者と多くの有権者がおり、議席にはその人たちの意思が込められている。
cleome088 フェミニストは世の中を良くするために「ルール」を変える話をしているが自称弱者男性はルールに乗っかって勝ちたい話しかしてないから。勝つことは大事だけど勝つ人間が固定化したら腐るんだよ。
議席をあてがったら、その分「勝つ人間が固定化」されるだけだろうが。
「議席あてがえ論」は確かに「ルールを変える話」だが、それは「世の中をよくするために」じゃない。「自分たちが勝つため」に過ぎない。
違うとは言わせない。「世の中をよくするため」なら、女性にだけ「議席あてがえ論」を唱えたりはしない。世に遍く有象無象あらゆる属性にあてがうことを言い出すだろうよ。
あと、「女をあてがえ論」も結局は「そういうルールを作れ」=「ルールを変える話」。同じだよ。全く。
oakbow 個人的には今は反対だが、クォータ制は政治の世界に多様性を半ば強制的にもたらすためのものだよ。もちろん女性の権利拡大効果が大きいだろうが恩恵を受けるのは男女とも。女性あてがえとは次元が違うと思う。
1.政治の世界は今も多様性を担保できる機会の平等がある。その現状、選挙で選ばれている以上の「多様性」を無理やりもたらそうとするのはタダのエゴでしかない。
2.男女とも?男性の受ける恩恵とは?フェミニストはいつも「フェミニズムは男性も救う」っていうけど、具体的な話は全くないよね。
mobile_neko いま日本において議論されているのは「政治分野の男女共同参画推進法」を改正して政党が立候補者数の男女比を努力目標ではなくルール化する事だし「議席」をあてがえと主張しているのは非主流派じゃないか?
同じだよ。
各政党の立候補枠はいわば議席予選。そこに出る権利を奪うってのはやはり機会の平等及び参政権を損う。
kagecage 女性を"もの"として見てるんだなぁと悲しくなるな。自分はいちフェミとして弱者男性ももっと性役割に縛られず自由に生きられるようになればいいと願っているよ。
論外。
最初から最後まで俺の増田には「権利」の話しかしていない。本文と関係ない綺麗ごとは自分の増田で書け。
misomico なぜ分断するのか
俺が分断してるんじゃないし、「弱者男性」論が分断するのでもない。
もう分断されてるんだよ。フェミニストによって。
フェミニストが最初に「男性」を主語にしたとき、分断は起こった。
kunitaka 笑う資格は全ての人にある。俺なんかド底辺のドクズやけど、トランプもバイデンもプーチンも習近平も金正恩もメルケルもボリスも皆お笑いの対象やで。バーカ、参ったかw
うん、まぁ、笑えばいいと思うよ。
kutabirehateko だからインセルと弱者男性を一緒くたにするなよ。そしてインセルを批判するのはフェミニストだけだと思うなよ。
論外。
自分にとって都合のいい選別をしてるんじゃないよ。
「インセル」の本義(彼らが名乗った意味)から外れた用法で濫用しすぎなんだよ。
違わない。論外。
反人権派と一緒にするな。
kyo_ju 公選の候補者や非公選役職に占める割合を一定割合(しかも、人口比と同等かより低い割合)まで引き上げよという主張は特権の主張ではないので、"弱者男性にも男性特権を分かち与えよ"な御仁達とは全く同視できない。
そもそも公選の結果に「人口比と同等であるべし」などという要件はない。女性が半分以上の票を握っていて、それで今の結果だ。
ここから「女性だけ」人口比と同等を保証する、というのは「特権」以外の何物でもない。
「同視できない」のは偏見の為せる業ですね。
yuichi0613 自分は男性でフェミニストじゃないけど、多様な社会をつくる以上、意思決定の場に女性を増やすことは賛成で、こういう単純な当てはめは反対かなあ
「多様な社会」と言いつつ、ステレオタイプな「男性」「女性」二元論に支配されてる自覚はあるのだろうか?
「男性は女性の代弁をしえない」(逆も)というのはその典型だ。
論外。
lawikakog 「努力が足りない」とか内容がジェンダーバイアスに塗れていてひどい。格差が広がるほど金持ちがどんどん金持ちになるのと一緒で男性優位になった階級は男性で固定されるんだよ。それを構造的に見直すという取り組み
「努力が足りない」はフェミニストが弱者男性に言い放っていた内容と全く同一。
そして金と違って票は3年/6年ごとに稼ぎなおさなきゃならず、固定はされてない。
そもそも「女性じゃなきゃ」「議席をあてがえ」と言ってる奴が「ジェンダーバイアス」?あんまり笑わせんな。
論外。
unnmo 女性・弱者男性→本人に責はない。女をあてがえ→人権侵害。クオータ制→社会構造的に元来女性側が侵害されてきた参政権の回復手段。「女を〜」論は弱者男性救済案策として低レベルな為クオータ制の鏡像足りえない。
女性の参政権は普通選挙権の実装後、一切侵害されてない。今でも女性は入れたい候補に入れている。
「女をあてがえ」論は「議席をあてがえ」論と同じく、「特定属性への利益の最大化」という点にのみおいては素晴らしくハイレベル。社会全体でみるとクソ。
理由は「特定属性」以外の人権を損ねるから。「議席をあてがえ」論も同じ。両方クソ。
つづく
Vtuberの新衣装披露といえば一つのイベントであり、中の人が喜びファンが祝いスパチャが飛ぶ、ちょっとした祭りである。
これがアニメキャラや更に漫画キャラだと、(作画能力にもよるが)ちょっと難しいところがあって、
変更の程度によってはそのキャラの同一性を担保する「記号」にゆらぎが生じかねないだが、
Vtuberでは中の人が基本的に同一であることで、それが保証されている。
アニメキャラも声優は変わらないと言っても複数のキャラクターを演じることが前提なので、その声優が演じるキャラクターの中でイメージが混じってしまうのは良くない。
もちろん姿が決まりきった「変身」などは可能だが、連続性を保ったまま次々と新しい姿を追求し続けることができるのはVtuberの強みではないか。
作画担当者が求められる能力にも、同じ絵柄で個体を描きわけることよりも、同じ人物のデザインのバリエーションが作れることが求められるなど、違いがありそうだ。
ポケゴーをしているとわかりますが、最近のポケゴーはとにかくイベントを連発して忙しい。毎日のようになにかあるし、だいたいどのイベントも重複している。今はレジェンドシーズンでボル・トル・ランの三種が霊獣フォルムで出現しているし、メガミミロップもでるしサカキとも戦わないといけない。GBLもトレードも日々のタスクも盛りだくさん。やることあるのに重要なポケモン捕まえるにはかなり苦労しないといけない。
それにポケストを撮影しろだとか申請しろだとか、どうでもいいことまで要求してくる。また、フレンド登録枠なるものが増えたが、そんなものより純粋にポケモンを沢山沸かせて欲しいし、イベントごとのバグをマジでなんとかしてください。
そんな自分は複アカをしている。昔は単なる興味本位だったけど、他の人が忙しかったりするときは共有しているし、引退した人のを受け継いでもいる。何よりレイドを効率的にこなさないといけないときには複アカが何より重要だ。ガチの人たちの殆どは複アカや共有をつかっているし、そういう人たちのグループはやはり強くて効率的だ。なにかにつけてお世話になっている。位置偽装も1、2度はしている。
昔と比べ、ポケゴーはとにかく忙しくて生活の合間にちびちびするゲームではなくなってしまいました。ガチになろうとすれば複アカは避けられず、オートキャッチを使わなければ歩きスマホでむしろ危険なくらいだ。だけどこれらって規約違反らしいんだ。昔いたグループではそういうことをいうと注意する人がいた。一度だけ複アカを嫌う人と複垢している人たちでバトルがあったけど、あんなの不毛だよな。だってポケゴーを初期からしている人なら位置偽装も複アカも普通の行為だと思うんだもの。今より忙しくなくてポケモンも少なく、バトルリーグや交換もなかった時期ですら、複アカやボットは当たり前だった。そうした方が楽しいから。このゲームは対戦が主じゃなくて、あくまでも自分のコレクションをするゲーム。いわば歩くことを担保にしたガチャゲー。けれどポケストは偏っているし、いつでも集められるとは限らない。だからみんな位置偽装や複アカをするのは当然だった。
確かに対戦を推している今の環境だと複アカは良くない傾向かもしれない。だけどこう忙しいゲームになるとそんなこと言ってられないんだよ。
そう思っていると最近「ブラック校則」が話題に登っていた。真面目な話、ポケゴーの規約ってブラック校則だなと。なぜなら複アカや共有・位置偽装に関して、なぜそれらが定められているのか一切開示されていない。「現実世界を~」とあるけど、現実世界を複アカで歩くと悪い理由はなんにも書かれていない。位置偽装に至っては、公式が位置偽装ツール販売しているんだから草も生えない。
複アカ批判する人も「規約に書かれているから」以上のことを言わない。理由を聞いてもシドロモドロで意味がないとわかっている。
Nianticはなぜに複アカや共有や位置偽装を禁止しているんだろうか。
【追記】
あほか、と言われたら確かにあほではある。実際に違反をしているのだから。規約だって何らかの理由があってのことだろうし思想や歴史を学べば理解できるのかもしれない。だけど実際問題、ポケGOをしていてもその精神性とか理念とかはあまり感じない。複アカが駄目というのは、校則で言うところのスカートの丈は何センチ等の服装規定に近いと思う。あるいは就活での黒髪・リクルートスーツに近い文化。
それが意味あるならいいけど、そう思わないので破っても構わないんじゃないでしょうか?
それより、そういう規約を注意することがナンセンスかと。だって複アカにしろ位置偽装にしろ、誰にも迷惑かけないんだから。対戦要素においては自粛すればいいだけですし、ジムの蹴り出しは複アカ以前のシステムの欠陥。気をつければ別になんてことないものを、わざわざ注意するところにブラック校則的な要素がある気がします。
【追記2】
ガチ勢の成れの果て。沼に入り込むと視野が狭くなって客観性が失われる典型ですね/ダメな理由は「公平性」。ブラック校則と全く別の話で、それを公認したら全てが成り立たなくなる本質的な話。
ジム蹴り出しにしろ、対戦関連にしろ、複垢の方が不当に有利になっては困るんだよ、運営はそれで金儲けてる。パチンコで2台打ちダメとか腕相撲で両手使うなってのと同じレベルの話だ。2台持つ代わりに課金しろ
みなさんこういうのですが、有利不利を決定づけるのはゲーム性そのもの。位置偽装はある程度の知識や技術に依存しチートという認識は強いけど、複アカ程度で揺らぐならおかしいですよね。
本家のポケモンだって1人1ソフトなんて縛りをしたら売れなくなる。
そもそもブラック校則は「校則の成り立ちや存在意義が不透明であり、現実にそぐわない」ものを意味すると思います。はっきりいえば今のポケGOは複アカが基本です。少なくともガチでやってる人でそうじゃない人はまずいない。今の世の中で、黒髪ではないことがいけないことという認識はありませんよね。子供でも染めているのですから。
黒髪じゃないといやという人は存在するけど、他人の髪にまで文句付ける必要性を感じない。学校という閉鎖的な環境であっても、平等の精神からか髪染めを辞めさせたりするのはナンセンスだと思いませんか?複アカも一緒です。
過度に平等・公平な精神を保とうとして、意味の無い規約で縛る理由がありません。もしも縛りたいのであればシステム的にそうできないようにしないと。でもいくつもアカウント作れていくつも端末持てるようにしているのなら、最初から守られせる気持ちがないってことでしょ?
そんなものをなぜ規約に明記する必要があるのか。百歩譲って書いてあっても、それを周りが咎めたり注意する理由が不明です。
みなさん「位置ゲーで複アカは駄目だろう」といいますね。ではなぜ駄目なのか、はっきり言える人っていますか?例えばテクテクライフ(https://www.tekutekulife.com/terms)では規約に複アカは特に明記されていない。つまり「位置ゲーでは複アカはアカン」という話は成立しない。ポケGOに対戦要素があるからといっても、実際にはジム戦自体をしない人もいるくらいだから、対戦より歩いてポケモンゲットするゲームという認識の方がより強いわけです。コレクションゲーで複アカをどうして規制する必要がある?単にGPSでキャラを動かすだけしか他のガチャゲーと違わない。
それともポケGOには位置ゲーとして何か知られていない要素が存在する?
正直、このあたりをいうと罵倒をする人はいても理由を言える人はいないんですよ。ゲームとしての公平性とか運営が儲からないとか、そういうのは聞き飽きた。「位置ゲーで複アカは駄目でしょう。公平性を欠く」という理由を持っている人がいたら教えて欲しい
今ある多くのコメントは「校則を守らないと不平等になるだろ」「おまえが守らないと運営が大変なんだよ」くらいしか言ってない。それは染めている人を黒髪にしようとしたり、下着を取り替えさせようとするのに近い。黒髪じゃないと駄目な理由くらい言って欲しい。
【追記3】
複アカが基本は言い過ぎですね。確かにサイレントマジョリティはそういう不正をしない人です。王道は規約に沿って遊ぶことでしょう。
ただし、デファクトスタンダードは既に複アカや位置偽装です。そうしないと駄目な環境というのが正しい。王道と基本が一致していないのは残念ではあります。
もともと国有地だった広大な(それも一等地の)鉄道用地が全部一私企業の所有地って状況だけはどうも納得行かない。それらを担保に出して費用捻出するぐらいしても罰あたらんのでは?
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
これの模範解答はもちろん「救うべき」で、理由は人間社会の多様性の担保だとか、ボトムをしっかり保障することで安定社会が構築されるとか、そういう結論になるだろう。
こんな夜には若干邪悪な気持ちになる。如上の話は理想論ですよね。「お勉強」したとおりの「ご回答」ですね、とか言いたくなってしまう。
やる気や能力がなく、何らかの取り組みもしないでtwitterで文句ばかり言っている人間を取り除きたくなる。
もちろん彼ら彼女らを取り除くことはできないし、そうやって人間を仮初めの優秀さで選別していくことの歴史的帰結は理解している。
でも段々社会に余裕がなくなってくると、例えばバイトでどちらか2人の雇用を打ち切らないといけない時に怠惰で能力のない方を切る様な、そんな社会になるような(すでになっているような)気がする。
ここまで書いて思うのだが、これはきっと私自身に余裕がないからだ。
こんな夜はさっさと寝てすっきりして、書いてきたことなんか考えずに自分のできることを自分なりに判断して少しづつでもやっていこうと思う。
あるアメリカの映画を見た。父親に反発して都心に出た息子が、父の死をきっかけに家業を継ぎに田舎に戻ってくる。会社の経営はボロボロ。彼は一発逆転を狙ってトランスジェンダー女性と手を組み新事業を立ち上げ、紆余曲折の末に成功する話だ。
主人公は受け身のお坊ちゃんで、大学卒業後、婚約者が見つけてきた不動産会社に就職しようとしている。しかし、父親の死後は彼女の見つけた仕事も、結婚の約束も反故にして、嫌で捨ててきたはずの家業の再建に奔走する。その上、婚約者に黙って、2人で住んでいるアパートまで新事業の担保にしてしまう。主人公はたまたま知り合ったトランスジェンダー女性からビジネスアイデアをもらい彼女と事業を立ち上げようとするが、従業員にはパワハラ、トランスジェンダー女性にはモラハラをする。案の定婚約者には振られ、従業員もトランスジェンダー女性も離れていく。彼は「俺は世間に認められる男性にはなれない」と悲嘆に暮れるが、献身的な幼馴染の女性の支えや、思い直してくれた従業員たちが戻ってきてくれて、やる気を取り戻す。そして、なんやかんやでトランスジェンダー女性も戻ってきてくれて、事業も成功する。
話としてはシンプル、音楽がいいので楽しめたが、万人にわかりやすいように「多様性」に切り込むと、こんなもんなのか?と思ってしまう。
トランスジェンダー女性は、最初は田舎町では化け物扱いだが、最後には友人もできて楽しそうにしている。でも、彼女が主人公のために尽くした結果が「主人公の成功」「ビジネスパートナーとしての自分の成功」「田舎町での承認」だとすれば、ペイバックがあまりにも小さい。それに比べると、受け身のボンボンだった主人公は、父親を超えてやる!と勝手に一念発起して勝手に自爆して、周りに救われ続けた結果、「ありのままの自分で頑張ったから成功しました!」と言う風である。作品を通して、彼自身の学びや成長はほぼない。おまけに幼馴染の女性は、彼のそういう「男らしさ」に夢中になり、2人はラストで恋人同士になる。あまりにも都合がいい。
「ありのままでいい」「ありのままの自分や他者をただ受け入れて欲しい」というメッセージを、シスヘテロ男性でもわかりやすいようにすると、シスヘテロ男性を脅かさない、ひたすら寛大で理解のあるLGBTQのキャラクターと、主人公が男性性を失わないことをアピールするための女性(事実、幼馴染の女性は主人公に告白された直後「まだ女性が好き?」と確認している)のキャラクターがいるのかもしれない。
今日の映画は1990年代の作品のリメイクなので、まあ価値観が古くても仕方ないのだろう。ただ、今後日本でもそう言う作品が出てくるのであれば、1990年代をそのままなぞるのはやめて欲しい。
カードの持ち主が紛失されてから経過した時間によって対応を変化させたほうが良いと思います
持ち主の方がカードを紛失されてからおよそ1日以内であればATMなど経由であったり発行の金融機関に連絡するのは紛失からの行動経路について最初に連絡をするであろう所に届けを出すのは有用だと思います
しかしカードが紛失から1日以上経過しているものである場合は、ご自身の身の安全の確保のためにも警察を経由したほうが良いと思われます
どんな経緯であなたがそのカードを手にしたかできるだけ早い段階で第三者の確認をもらっておいたほうがよいのと、問題性について減らすことができる責任を担保しやすい方に相談をすることがおよそ重要ではないかと思われるからです
紛失からの時間などおよそ判断のつかない場合は責任の追及に関して追及する側により近いところから当たっていくことをお勧めします
最初に断っておくと当然リボとか年利15%みたいなアホアホ借金は論外だし、返す当てのない借金も論外だよ
ボーナス一括払金利ゼロ円てまじかよ!全然知らなかった。すげーな。こんな美味しい機能完全に見落としてたわ
いや、十分目にしていたけど借金について全然考えてこなかったから完全に意識の網からこぼれ落ちていたんだろう
短期の借入とはいえ数ヶ月も支払いを待ってもらって金利発生ゼロとかうますぎるんだがー
現在の現金よりも未来の現金のほうが価値は低いので(特に今のようなブル相場は)、格安の借金たすかりまんがな〜
昔なんかの本で「利子が低くて借金出来るなら借金にしたほうがお得」だの「支払いは後ろに伸ばせば伸ばすほどお得」みたいな説明読んでピンとこなかったんだけど、最近資産管理していてめっちゃ実感している
未来のお金をワープで持ってきて、レバレッジ効かせて運用するとか、現金がなくても将来大きな収益が見込めるときってのはあって、そういうときに十分金利の低い借金を使えるのはめちゃめちゃフレキシブルに行動が出来る
しかし世の中には返す当てもなく、家族や友人からお金を借りるの恥ずかしいからとかいうバカ丸出しの理由でカードローンつまむバカが居るんだよなぁ。俺の兄弟だよ
どんな思考してたら、破滅街道まっしぐらの無担保借金をなん100万もふくらませるんだよ。資産ゼロの状況で、バランスシートぶっ壊れ借金とか狂ってるの自覚できてるんだろうか。他人の目が気になりすぎてて脳が焼き切れてるんだろうな
借金なんてせいぜい個人だと総資産の30%くらいが限界だろうな、所有資産の50%の借り入れとか自分なら精神が持たないと思う
世の中の人ってよく借金してまで新築プレミアム上乗せの家買えるよな。あれってプレミアム価格のおうちを担保にしてるんだろう。
LTV95%とか言ってるの見かけちゃったけど、お家の値段ちょい下がっただけで担保価格下回って爆発すると思うんだけど、計算できてるんだろうか。
まぁ住宅ローンは金利安いので人生でつまづきさえしなきゃなんとかなってしまうだろうけど、挫折ばっかりの人生を歩んだ人間としては、よくもまぁ自分の人生をそこまで楽観的に生きられるよな〜って思いました
消費税はあらゆる消費にかかる間接税である。それは次のような仕組みで最終消費者が負担することになっている。
(1)原料会社 原料代5000円 消費税500円(A) 計5,500円 原料会社→国 500円納税
これが消費税の仕組みだ。消費者から国に払う1,000円は、そこまでの過程を担当する各事業者が間接的に支払う。これを間接税と言う。
だがちょっと待って欲しい。ここで言う「原料会社」に相当するのは給与を対価として「労働力」を供給している我々も同じではないだろうか?(たとえば「電力」を供給する電力会社は原料会社の一種で、当然消費税を取る。) ならば、我々は給与について1割の消費税を企業に請求するべきではないだろうか? 「いや、給与が1割増えてもそれはまるまる国に納めるだけっしょ」という人、それは考えが浅い。なぜなら、我々は「労働力」を生産するために、商店などから生活必需品(原料)を消費税を払って購入しているからだ。従って、仕組みとしてはこうなる。
(1)商店 生活必需品10万円 消費税1万円(A) 計11万円 商店→国 1万円納税
(2)労働者 労働力販売 20万円 消費税2万円(B) 計22万円 労働者→国 (B)-(A)=1万円納税 *差し引き給与1万円up!
これ見て、「いやいや、(2)と(4)は同じでしょ。現状(2)がないから(4)も1万円払う必要が無いわけで、(2)を入れたら(4)も1万円上がるんだから、1万円給与が上がっても結果オレたちには1円の得もねーよ」と納得してしまう人もいるかもしれない。だがちょっと待ってほしい。
まず、(2)の労働者と(4)の消費者が100%同じだと仮定したら、確かに(2)の段階を入れる制度改正をしても労働者には得はないが1円の損もない。だが、そもそも(2)と(4)は100%同じではない。この世界には給与労働をせずに消費している人々がいるからだ。
この(2)<(4)である現実(みんな、自分が関わっている製品を自分で購入できているか?)を踏まえれば、(2)の段階がないせいで労働者の給与が低く抑えられている現状は、給与を貰わずに(4)の消費をしている人が一方的に得をしている状況とも言い換えることができる。(2)がないせいで(4)の価格が1万円安いのだから、「働かずに金を持ってるヤツがお得に買い物している」状況なわけだ。これは、給与労働者の得るべき所得が不当に不労所得者に流れている、と言わざるを得ず、明らかに不公正だ。ちなみに個人的な見解だが、GOTOなどの政策に覚える忌避感は、どうもこのあたりと関係がありそうな気がする。
そして、給与所得に消費税が上乗せされれば、この不公正は解消され得る。よって、私は「全ての給与には労働力購入に関わる消費税10%を上乗せするべき」だと考える。どうだろうか。
なお、「いやいや、非給与所得者には年金受給者もいる! 彼らの生活が逼迫するだろ」というご指摘もあるかもしれない。だがそれは、年金の本質を貯金と考えているから起きる問題だ。年金の本質は貯金ではなく(でないとあれだけ制度をころころ変えることへの正当性がないし、生涯にわたって支給されたり、死んだとたん打ち切りになって返金がないことと整合しない)社会保障である。そして、社会保障というのは、現役世代の力が十分に担保されていればこそ安定的な運用が期待できるものである。年金を担保するために現役世代に不合理を強いるのは、老人を背負っている若者を老人が鞭で叩いて「ええい!速く走らんか!」と怒鳴っているようなもので、長い目で見ればただの愚策だ。従って、この話で年金受給者のことを持ち出すのは、スジが違う。
まず、Amazon所属ピッチャー第一投のストレス発散投げは許されない。あれはある程度叩かれるべき。恐らくあれはFedexでも怒られる。
ただ、投げ配自体は問題ない、というか置き配はそういうものだという認識を持って今後置き配を頼めばいいだけの話だと思ってる。
頼んだ製品の性能が担保されるのであれば、頼んだ物が上空1万mから投下されても、イチローにレーザービームで200m先からぶん投げられても、別にいいと思う。
だからこの件で置き配は絶対使わない、Amazon使わないって言うのは過剰というか、便利さを捨てる勿体ない行為だと思う。
(てか、これたまたま見つかったのがAmazonの配達員だっただけで他の配達業社が安全とは限らないしね)
置き配は便利だけど、何をされるかわからない。
「何をされるかわからない」ということを前提に置き配を使っていくことが便利さを享受できる考え方だと思う。
正直、中のものが壊れてないのに、投げられて怒る人がいるとしたら、それただのお気持ち問題だよね、とすら思う。
まぁ、あの動画を撮ってた人は多分何度か中身が壊れてた経験があったんだろうけど。
(でも、あのAmazonの梱包を持ってしても投げられたら壊れるようなある程度精密で高価な物を置き配指定する人のセキュリティ意識大丈夫?って心配になるけど)
この件で「もう置き配は使わない」と考えるのではなく、「投げられたら困る物は置き配指定しない」という学びを得る方が便利さを享受できるし、人に期待しすぎない生きやすくなる考え方をしている人だと思う。
大学の多様な在り方をこういった「大学ランキング」といった画一的な指標によって評価するのは大いに問題があります。
同様に、こういった指標が大学運営に影響を与えることを避けるためにこの文章を書きました。
利害関係のある企業による評価を多くの専門家を抱える教育機関が一方的に受け入れる今回の事態を不気味に感じます。
民間企業による指標ではなく、きちんとした調査を行い大学・研究所が協力をし、国もきちんと予算を出し、
大学の多様な魅力を踏まえた模範となるような「大学ランキング」に代わる大学紹介を行うべきです。
※「THE世界大学ランキング日本版2021」についての3つの問い
1.この調査の実施はベネッセが行っているが中立性が担保されているか調査を行ったか。
2.この調査自体に各大学をランキング付けする程の信頼性があるか調査を行ったか。
3.貴大学には教育学部が存在しているが、当調査に関して学内の専門家から意見を聞いたか。
「THE世界大学ランキング日本版2021」を実施したのはベネッセです。
http://between.shinken-ad.co.jp/univ/2020/03/JURshihyo.html
しかし、ビュー数の多いYahoo! Japanのニュースではそれには一切触れられていません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd2428370025a1ef13e92665b18d20dacf01ae17
この記事の引用元の高校生新聞は「株式会社スクールパートナーズ 」が運営しています。
この企業は入試運営支援・入試広報委託サービスが事業に含まれています。
https://www.sclpa.jp/outline.html
要するに、大学入試に関わる企業(ベネッセ)が大学ランキングを作り、
それを同じく大学入試に関わる企業が(スクールパートナーズ)ベネッセの名前を出さず報道しているわけです。
一方で、2019年のベネッセと文科省の大学共通テストにおける癒着疑惑の報道や、
2020年のベネッセID問題の報道を覚えている方も多いはずです。
https://biz-journal.jp/2019/12/post_133401.html
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75062?page=6
さらに、ベネッセはベネッセ海外留学センターで生徒対象の校内セミナー、教員研修を事業として行っています。
ランキングの世界版は国際性が7.5%と低いのに対して、日本版は20%と比率が高く、日本版は国際性を重視している調査だからです。
https://www.benesse-kaigai.com/teachers
日本の“偉い人”は世界の大学ランキングに日本の大学がランク入りすることのみ重要視している傾向があるように思います。
一方で、世界ランキングの実態や、利害関係にある企業がランキングを実施する問題は驚くほど指摘されていません。
例えば、本家の「THE世界大学ランキング」のタイムズ・ハイアー・エデュケーションは2020年8月に海外留学生募集と学生住宅市場に参入しています。
https://thepienews.com/news/the-moves-into-international-student-services/
さて、ベネッセが大学ランキングを実施するのは勝手ですが、それが定着することは避けなければなりません。
大学の多様な在り方をこういったランキングといった画一的な指標によって評価するのは大いに問題があります。
「THE世界大学ランキング日本版2020」ではスコア100の内20%を占める国際性を以下のように定めていました。
例えば、大学の規模が大きければ当然、外国人学生比率は少なくなるでしょうし、
留学生向けに理解しやすい日本語で授業を行うことを重視している大学は評価が低くなるでしょう。
多様な大学の在り方が、この画一的な指標によって多様性を否定する本末転倒になる恐れがあります。
<国際性 20%>
外国語で行われている講座数÷全講座数
さらに、スコアの8%を占める日経HRという企業の「企業人事担当者から見た大学のイメージ調査」です。
『「THE世界大学ランキング日本版」の指標「教育成果」に使われている』ことを売りにして、
以下のサイトで全調査結果を大学向けに22万円で販売しています。
https://career-edu.nikkeihr.co.jp/category05/data.html
<教育成果 16%>
日経HRの「企業人事担当者から見た大学のイメージ調査」のデータを使用(2カ年分データ使用)
THEが世界大学ランキングのために各国の研究者を対象に実施した評判調査の結果から、日本の研究者が日本の大学について評価したデータを抽出。
東京工業大学では以下のように、Web上にページを作り、学生に協力をするよう「お願い」していました。
各大学により、学生協力を「お願い」する方法も違っていたようです。
ちなみに大阪大学では学生向けにメールが一斉送信されたのみで、問い合わせ先はベネッセのみでした。
この調査に関する大阪大学への問い合わせ先は一切記されていませんでした。
「THE 世界大学ランキング(日本版)の学生調査にご協力ください」
https://www.titech.ac.jp/enrolled/news/2020/047746.html
このようなランキングが定着するとこの調査を大学が民間企業に有料でお願いする、
それに付随する調査を法外な値段で買うようになる、という事態につながる恐れがあります。
これは個人的な意見なのですが、入試に限らず、就活も大学と民間企業の在り方に大いに疑問があります。
大学は今一度、民間企業と距離を見直す時期に来ているのではないでしょうか?
こういった卒論だと通らないようなレベルのものに参加してしまった数多くの大学にも責任はあります。
文科省との関係が深いベネッセだったので断れなかったのかもしれません。