あるアメリカの映画を見た。父親に反発して都心に出た息子が、父の死をきっかけに家業を継ぎに田舎に戻ってくる。会社の経営はボロボロ。彼は一発逆転を狙ってトランスジェンダー女性と手を組み新事業を立ち上げ、紆余曲折の末に成功する話だ。
主人公は受け身のお坊ちゃんで、大学卒業後、婚約者が見つけてきた不動産会社に就職しようとしている。しかし、父親の死後は彼女の見つけた仕事も、結婚の約束も反故にして、嫌で捨ててきたはずの家業の再建に奔走する。その上、婚約者に黙って、2人で住んでいるアパートまで新事業の担保にしてしまう。主人公はたまたま知り合ったトランスジェンダー女性からビジネスアイデアをもらい彼女と事業を立ち上げようとするが、従業員にはパワハラ、トランスジェンダー女性にはモラハラをする。案の定婚約者には振られ、従業員もトランスジェンダー女性も離れていく。彼は「俺は世間に認められる男性にはなれない」と悲嘆に暮れるが、献身的な幼馴染の女性の支えや、思い直してくれた従業員たちが戻ってきてくれて、やる気を取り戻す。そして、なんやかんやでトランスジェンダー女性も戻ってきてくれて、事業も成功する。
話としてはシンプル、音楽がいいので楽しめたが、万人にわかりやすいように「多様性」に切り込むと、こんなもんなのか?と思ってしまう。
トランスジェンダー女性は、最初は田舎町では化け物扱いだが、最後には友人もできて楽しそうにしている。でも、彼女が主人公のために尽くした結果が「主人公の成功」「ビジネスパートナーとしての自分の成功」「田舎町での承認」だとすれば、ペイバックがあまりにも小さい。それに比べると、受け身のボンボンだった主人公は、父親を超えてやる!と勝手に一念発起して勝手に自爆して、周りに救われ続けた結果、「ありのままの自分で頑張ったから成功しました!」と言う風である。作品を通して、彼自身の学びや成長はほぼない。おまけに幼馴染の女性は、彼のそういう「男らしさ」に夢中になり、2人はラストで恋人同士になる。あまりにも都合がいい。
「ありのままでいい」「ありのままの自分や他者をただ受け入れて欲しい」というメッセージを、シスヘテロ男性でもわかりやすいようにすると、シスヘテロ男性を脅かさない、ひたすら寛大で理解のあるLGBTQのキャラクターと、主人公が男性性を失わないことをアピールするための女性(事実、幼馴染の女性は主人公に告白された直後「まだ女性が好き?」と確認している)のキャラクターがいるのかもしれない。
今日の映画は1990年代の作品のリメイクなので、まあ価値観が古くても仕方ないのだろう。ただ、今後日本でもそう言う作品が出てくるのであれば、1990年代をそのままなぞるのはやめて欲しい。