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はてなキーワード: 思索とは

2020-08-15

やはり彼

こちらが、なれどわすれした、今何を言おうとしていたんだっけ?と思索しているところに

すみません、とはなしかけてくる(謝罪があるらしい)

など、おかしい。空気が読めていない。

これは周囲が不快になるのもわかるが

精神病院に通わなければ成らないのは、不調を訴えている周囲の女性ではなく

私は彼だと思う(2年間の観察の結論)(解雇等ではなく精神の不調だろう)

2020-08-11

サイゼリヤの午後

私はサイゼリヤの午後がいっとう好きだ。

昼過ぎ時間の流れがゆるやかになった頃に

1人で席につく。

ドリンクバーに行き、氷を3つと炭酸水を注いで、帰りがけに調味料をいくつかとって席にもどる。

このかたちななるまでに何年か試行錯誤した。

席に戻ったら、新しく導入された注文用紙にメニュー番号と数量を書く。いつも頼むメニューは覚えていても番号までは覚えきれずにいつもメニューを開く。と、新しいメニューや組み合わせに気付いて目移りする。

全く、サイゼリヤも罪なことをしてくれる。

店員さんを呼んで、注文をした後暫しまつ。

目線を上げると4人組の男の子たちがいる。

どれが1番腹がふくれるか、今月は小遣いが厳しいけど沢山食べたい、たまにはサラダも、、、

私はもう選べなくなってしまったが、10年くらい前は同じことをしていたなぁと思い頬が緩む。

また目線を移すと、彼らより少し年上の男女がいる。制服を着て、ノート教科書を机いっぱいに広げてミラノ風ドリアメロンソーダをお揃いで飲んでいる。私の方からニコニコペンをはしらせ可愛い女の子しか見えないが、男の子の後ろ姿は心なしか嬉しそうだ。

そんなことを思っているうちに、白のグラスと青豆のサラダが運ばれてくる。

近くに若者がいると自然と背筋を伸ばしてグラスを口に運ぶことができる。

いつかの彼らの見本になれるように食事をすることが私のサイゼリヤでの流儀である

一通り食べ終わり、次の組み合わせを、、と思索していると横にいる遥か人生の先輩の注文に心奪われた。新メニュートッピングを巧みに組み合わせた注文である。きっと赤のグラスがあう。

これはいい知恵をいただいた。早速試させてもらおうとボタンを押す。

先に注文の品が届いた先輩は得意げにスプーンを進める。私は期待に胸を高ならせながら白のグラスを飲み干す。

ちょうどいいタイミング料理と赤のグラスが届く。やっぱり最高の組み合わせだ。

ちらっと横を見ると先輩と目があったので、笑顔で返した。先方も満足げだ。

いつかきた道を眺め思いを馳せながら、いつかいけるかもしれない道を見る。

そんなことをしながら、酒を煽りたくて私は今日もせっせとサイゼリヤに向かうのだ。

2020-07-21

脱コルへの違和感

ここ最近日本の脱コル(韓国の脱コル運動についてはよくわからないため、ここでは日本限定した)への違和感最近高まってきているので、ここで整理する。

声を大にして言いたいが、このエントリを書くのは誰のためでも何の妨害でもなく、私のため、私の思索のためである

1. 「男性化」ではないという主張

脱コルを推進する人達一人称は「俺」。短髪にメンズものファッションしか彼女達はこれは男性化ではなく、機能的な格好・他者に媚びない表現方法を選んだだけであると主張する。しかし、ラディカルフミニズムの文脈における「女性性の徹底的な無力化と破壊」は自明に「男性性の入手と強化する」と同義ではないのか?なぜなら女性ではない男性男性ではない女性、と二項対立で論じてきたのがラディフェミからだ。違うとすれば、女性性を破壊した後には何が残るのか?性のないニュートラル自分

2. 脱コル漫画主人公達、たいてい可愛い

脱コル漫画最近いくつか目にする。韓国で脱コルに取り組んでいる人達が書いた漫画日本語訳である。 

えてして、主人公がそこそこモテかわいい設定なのである

これには少々ずっこけた。

モテて、周りの男性から綺麗、可愛いと称される子なんてごく少数。女子の大半はフツーである(当たり前すぎる話だ)。女性の美しさは男性から消費されるだけだ、要らない、美しくなくていい、美しさを追い求めることは男の奴隷となることなのだ、というラディカルな主張のわりにヒロインモテ可愛い子、というおきまりの設定にハテナが浮かぶ。「走っていく女性」が1番反響を呼んだ漫画だと思うが、そこでは1人の可愛いモテそうな女の子メシアの如く女性達を導き闘う。女性を導くリーダー存在として、女性のうち少数しかいない可愛い子を設定していることは、脱コル漫画として自己矛盾を起こしている。漫画の内容としては「美しくなくていい女性」を追い求めているのに、作者も読者も、ヒロインをつとめるのは可愛いくて美しい女性普通である、というお決まり価値観から抜け出せていない。可愛くなく美しくない女性が大半なのに。可愛い子じゃないと、美しくないと画がもたないから?説得力がないから?だとしたら「全ての女性は美しくなくていい」はどこまで説得力があるのか。「不細工」と自称する女性の脱コル漫画もあることは知っているが、あくまでも体験記。ドラマティックな展開の脱コル漫画を2本ほど読んだがどちらも可愛いモテ女子だった。うーん…

脱コルについてもう少し考えていきたい。

2020-07-19

私は自死遺族だ。

三浦春馬が抱いていた心情について、彼とは何の縁もない私が思索をめぐらせ言及すること自体無意味で、そして罪深いことは重々承知である。取るに足らない下世話な憶測だ。

彼や彼の身内にとっては迷惑千万だろうが、それでも遺された大多数の人間のうちのひとりとしては、考えても無意味なことを、無意味だとわかっていても、あれやこれや考えてしまうことを止められないのだ。

私は自死に賛成も反対もしないし、これから自死する人、既に自死した人を責めもしない。

それでも自死は、当事者にとっても、遺族にとっても、哀しい。

から、できるだけ自分が、そして自分以外の誰かが自発的な死に向かわないようにするにはどうすればいいのか、少しでも手がかりを得たくて、考えてしまうのだと思う。

三浦春馬場合、「順風満帆な実力派人気俳優」としてのパブリックイメージと、起きてしまった事件との落差が人々に強い混乱を与えている。

理屈をつけて納得しようにも、傍目には原因が見当たらず、どうにも事件へと結びつかないのだ。

一般視聴者も、親しい共演者でさえも、彼以外の誰もが「どうして彼が?」と首を傾げている。

彼は仕事に対して真面目に繊細に取り組み、関係者からの評判も非常に良く、子役から始まったキャリアには一切の不祥事がないそうだ。

前日まで自分仕事を淀みなく全うし、死してもなお彼を悪く言う者は一人もいない。

身綺麗で、完璧。不自然なほどに。

命尽きるほど衰弱していたはずなのに、誰にも弱さを悟られることなく、彼は彼を演じ切ったまま終わってしまった、そんな印象すらある。

憶測の域を出ないが、彼は「三浦春馬」を維持することに疲れてしまったのではないだろうか。

周囲が彼の機微に気付けなかったのではなく、彼が周囲に心を許していなかったわけでもなく、ただ彼が、彼自身の最奥部に、誰ひとりとして立ち入らせるつもりがなく、そのまま生涯を終えてしまったのではないか

立ち入らせることをしない、あるいはしたくてもどう頑張ってもできない、そういう人物だったように思えてならないのだ。

遺書があるという。遺書に何が書かれているのか現時点では知らない。けれどおそらく知ってもあまり意味はない。

遺書にある内容も、公表されても構わないと彼が判断した一部の心情に留まっており、きっと本音のすべてが曝け出されてはいないのだろう。

彼が何に苦しんでいたのか?

彼が何を求めていたのか?

真実は彼の中に閉ざされ、二度と開かれることはない。

それは永遠の謎として、遺された者の前に立ちはだかる。

親を喪って数年が経ったある日、遺された私にできることは「永遠の謎と、無意味に向き合い続ける」ただそれだけだと悟った。

別に向き合いたくはない。正直やめたい。向き合い続けたところで得られるものは何もない。

ただただ、寝ても覚めても死ぬまで自動的に謎解きを強制され続ける、これが自死遺族宿命なのだと感じている。

過去に戻って何度やり直しても、心中を明かされることはおそらくないだろう。明かせるような人ならそもそも死を選ばなかった。自死必然だったと認める他ない。

しかしそれは特別なことではなく、相手と死に別れた原因が何であろうと、仮に相手と生き別れていようとも、内面すべてが明らかになる機会などなく、結局他人の考えていることなんて本当のところわからないのだ。

どれだけ言葉を交わしても解消できない圧倒的な断絶、それが可視化されたもの自死なのだろう。

私は三浦春馬とは生前も死後も言葉を交わすことができない。

彼が表現者として遺した素晴らしい創作物への称賛を送りつつ、遺された人たちの哀しみを憂いつつ、これ以上の憶測は野暮だと反省しつつ、私は自分に課せられた謎解きに戻りたいと思う。

2020-07-08

同人女たちを森へ返す流れ、増田の正しい使い方ってなんだよ…って思索にふけることができていい

どうせゴミだめなのに

2020-06-14

西洋版クソデカ羅生門としての『失楽園

不倫じゃなくて)ミルトンの方の失楽園比喩表現にクソデカ要素が詰め込まれているので面白いという話。

かっこいい平井訳を適当抜粋していく(怒られるかな?この長さな大丈夫だろう。あと改行は無視しているのでちゃんと楽しみたい人は買って読むように)

彼[=ベルゼブブ]がそう言い終わるか終わらぬうちに、早くも天使の長[=サタン]は岸辺に向かって歩いていた。天井の火で鍛えられたずっしりと大きく丸い彼の楯は、いかにも重々しく背後に投げかけられていたが、両肩に懸っているその楯の茫々たる円形は、さながら月そっくりであった−−そうだ、例のトスカナの科学者[=ガリレオ]が、斑点だらけの表面に何か新しい陸地か河か山を発見しようと、望遠鏡を通し、夜ともなればフィエゾレの山頂から、というよりヴァルダノから眺めているあの月の球面そっくりであった。

楯の比喩で月!?早くもデカイぞ。

そしてガリレオを出しくるあたりのスケール感も別の意味ででかい学説異端視されて自宅に囚われの身となっているガリレオが遥か遠くの月にを眺めて自由思索を巡らせる、というなかなか情緒ある描写。でも、その天才ガリレオ自由思索の動き回る領域である月、これがただの楯!サタン、あまりデカい。

彼は携えていた槍を(これまた、これに比べれば、巨大な旗艦マスト用にと、ノルウェイ山中から伐り出されるいかなる亭々たる松の大木も、小さな棒切れにしか過ぎなかったが)、杖代わりに用いて身を支えながら、

もつかせぬクソデカ描写が続く。この時代は、西欧諸国帆船で全世界進出した大航海時代の後、軍艦としてよりゴテゴテとしたでっかい船が作られて、各国の主要な戦力として重視されていた頃。その中でも旗艦と言えば大将とかが乗る船で一番デカイ船。それが棒切れになるようなデカイ槍、それをサタンは杖にしちゃうサタン、強そ〜〜。

炎炎たる地面を、かつて紺碧の天上を歩いた時の足取りとは似ても似つかぬ不安な足取りで、歩いていった。円蓋のようにただ火、火、火で掩われた灼熱の世界が、これでもかといわんばかりに、彼の体を苛んだ。にもかかわらず、彼はこれに耐えに耐え、ついに、焔をあげて燃えている火の海岸辺に辿りつき、すっくと立ちはだかり、依然として天使の姿を保っている麾下の軍勢に、大声で呼びかけた。

一面火の灼熱の世界地獄)、きびし〜〜。その中を歩き抜くサタン、つえ〜〜〜。

虚脱したもののように、累々と横たわっている彼らの様子は、亭々と聳えるエルトリアの森がこんもりと樹形をおとす当たり、ヴァロムプローサの流れに散りしく秋の枯葉さながらであった。それとも、−−かつてエジプトの王プシリスに率いられた軍勢が、約束に背き、憎悪かられて、ゴセンに住んでいたイスラエル人を追跡し、結局紅海の怒涛に飲まれしまい、その漂う死骸と破壊された戦車の残骸を、安全に対岸にたどり着いていたイスラエル人が眺めたことがあったが−−その航海の岸辺を荒れ狂う疾風武器としてオリオンが襲ったとき、その一帯に散乱詩流れ漂った菅の葉のようであった、とでもいおうか。意気沮喪した敗残の戦士たちが、火の海を蔽うて幾重にも重なり合い、横たわっている姿はまさしくそのようであった。そして自分たちの無残な変化に、ただ驚愕しているのみであった。

ただのグロッキーな奴らの描写出エジプト記〜〜〜数がすげ〜

サタンは大声で叫んだ。地獄うつろ深淵は、隅々までそれに反響した。「王者よ、権力者よ、勇者よ、今でこそ失われたりといえども、かつてはお前たちのものであった天国の栄華よ!そうだ、天国は失われたといわれなければならぬ、もしこのような恐慌状態永遠の霊を有するお前たちが陥っているとすれば!............目を覚ますのだ!起き上がるのだ!さもなくば、永久に堕ちているがよい!」

もう単にアジとしてかっこいい。「永遠」ないし「永久」(eternal)という時間的クソデカ天丼もある。

彼らはこの声を聞き、恥じ、翼を拡げて飛び立った。

その有り様は不寝番の任務についていた連中が、つい眠り込んでいるところを恐ろしい上官に見つけられ、未だ目を覚ますか覚まさないうちに、慌てふためいて起き上がり、右往左往するのに似ていた。彼らも、自分たちの置かれている窮状を認めないわけではなく、痛烈骨を噛む苦痛を感じていないわけでもなかった。だが、統率者の声に翕然として直ちに従った

すげ〜数のすげ〜奴らをここまで恐れさせるサタンさんまじぱねえっす。

−−その数、実に無数。エジプトを災禍が襲った日、アムラムの子[=モーセ]がその力強い杖を国土四方に向かって揮い、東風の流れに乗った国運のような蝗の大軍を呼び寄せると、その大群は神を冒瀆して憚らぬパロの全領土を黒々と夜の如く蔽いかくし、ナイル河の全域を暗黒に包み込んでしまたことがあるが、その時の蝗の大群と同じぐらい、悪しき天使たちの群れも無数であった。それが、上から、下から四方八方から、吹き出す焔に囲まれながら、地獄の天蓋の下を匆々に飛び回っていた。

はいはい、多い多い。はいはい、焔ね。はいはい、みんな元気元気。まーたモーセ、話がデカイ。でも蝗。

やがて、彼らを統率していた偉大な大帝がその槍を高く掲げ、所定の進行方向を示すかの如く幾度かそれを打ち振ると、それが合図となって、天使軍勢は整然と均衡を保ちつつ硬い硫黄の上に降りたち、あたり一面の平地を埋め尽くす…。この雲霞の如き大群に比べれば、繁殖力豊かな「北国」の冷たい腰からまれた蛮族が、ライン川を超え、打ニュー部側を超え、さらに怒涛のように南下し、はてはジブラルタルの南から灼熱のリビア砂漠地帯にいたるまで展開して行ったときのあの大軍などは、とうていものの数ではなかった。地上に降りたつや否や、直ちに、あらゆる軍団、あらゆる隊から、その司令や隊長が一斉に最高指揮者の立っている場所へと急いで集まってくる。いずれも、人間の姿を遥かに凌ぐ神々しくかつ英雄然たる姿、格好で堂々たる王者の風を示している。かつては天国において、それぞれの王座についていた権力者だったのだ。

はい、みんな大好き、ゲルマン民族大移動いただきました。はい、「ものの数ではなかった」いただきました。

移動も早い、やっぱ天使やとちゃんとしてはるんやねえ。

2020-05-27

anond:20200521175803

学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し

論語為政第二

知識を学んでも自ら思索しなければ真に理解したとは言えず、逆に思考するだけで知識を学ばなければ独善に陥ってしまう。

から同じことが言われてきたのですね。

2020-05-15

祝・矢部復帰 ラジオと私

追記も書きました。ラジオの友たちよ

https://anond.hatelabo.jp/20200517104920

昨日のANNを聞いて、まだまだ岡村さんはぎこちなく、言葉をかなり選んで喋ってる感じではあったけど、先々週のあの居たたまれなさを100としたら、先週は居たたまれなさ70、昨日は30ぐらいまで落ち着いてきたと思う。よかった。

私にとってナイナイオールナイトは、番組開始当初から間断的に聞いてる番組で、ナインティナインにも好意を持っているしそれなりに思い入れもある(リスナーではない。思えばナイナイオールナイトは「リスナー」という言葉意味が他のラジオパーソナリティの言うそれとはかなり濃度が違うものではあって、それが今回の色んな悲劇悲喜劇に繋がったという気もしないでもない)。

深夜ラジオは、深夜だし長い。子ども時代なら深夜に夜更かしして聞くもよし(録音とかはしません、面倒なので)だが、大人になって、仕事があったり家族ができたりするとリアルタイムでは聞けず自然に離れていったりする。だが私は子供じみたオバハンなので、テクノロジーの発展の恩恵を受けて、または、すごい面白いラジオがあるよという噂を聞きつけて、深夜ラジオに戻ってきている。

深夜ラジオを聞きだしたのは小学生デーモン小暮お気に入りだった(クラス男の子に教えてもらった)。たけしのオールナイトもまだやってたと思うんだけど小学生女子には刺激が強すぎたのか好きではなかった。その後いったん色々忙しくなったりして深夜ラジオから離れて、戻ってきたのがナイナイオールナイト。また一旦いろいろ忙しくなって間遠になって、次に本格復帰したのはくりぃむしちゅーオールナイト

ラジオの聞き始めがANNだったせいかもだが、ラジオリスナーの人たちが大好きがちなコサキンは未体験馬鹿力は子供の頃は聞いてない(伊集院さんが朝をやり始めてから逆流して今はたまに聞いてる)。電気ANNはちょうどラジオから離れてた時期なので存在も知らず、極楽とんぼは気が付いたら終わってたから聞いてない。放送室は週末に車で出かけて帰りの深夜に、流れてきてつい聞き入っちゃう感じ。サンデーソングブックはドライブ帰りに渋滞にはまってる時間帯に合致しがち。昼間のラジオはこの数年でデビューという感じ。

くりぃむオールナイトに気づいたのはい大人になってからで、Podcastから見つけた。くりぃむしちゅーオールナイトほんとゲラゲラ笑った。今でも特にゲラゲラ笑ったPodcastデータは残している。デジタルって楽でいい。くりぃむANNPodcastの後期、まだ全く売れてない頃の古坂大魔王ピコ太郎)がクレイジー結婚披露宴構想を機関銃のように喋る回がものすごい好きで、死にたくなるほど落ち込んでても聞きおわるとどうでも良くなるくらい面白かった。あとJUNKシカマンゲラゲラ笑った。シカマンはお題投稿がとにかく面白かった記憶がある。あとPodcast限定だが雨上がり蛍ちゃんの馬になるシリーズも好きだった、馬鹿で。

そんな感じで、熱心な「リスナー」でもないが、ラジオ配信技術と稼ぎ方が多様化してきたことと、あと私はいつも大抵ゲラゲラ笑いたいので、この10数年は、ゆるくラジオとの付き合いを再開している。

Podcastラジオクラウドradiko配信化によって、リアタイで聞かなくても大丈夫になったのがとてもデカい。局側には恐縮ではあるが…、投稿しないしリアタイじゃなくて全然いい。夜は眠いし。主に通勤時間電車の中とか買い物とか、あとジョギングしながらとか、ひたすら風呂掃除してる時とか。配偶者ラジオ趣味あんまりない(こだわりがない)ので、基本は一人でいる時になる。というか、深夜ラジオってそもそも「一人で聞く」ものなのかも。

そして、深夜ラジオポリティカルに色々アレである、というのは、まぁ岡村に限らずある程度はどの番組にもあって、まさに深夜ラジオの魅力でもある。炎上したのは、多分にタイミングが悪かった(世間コロナで暇だったとか、似非運動家に見つかったとか)面もある。一方で。私は矢部氏が卒業して以降の岡村単独ANNを、いつの間にかあんまり聞かなくなっていっていたのだが、その理由の、いつの間にか番組が醸し出すようになっていた「雰囲気」が、なかなかの強い香りになっていったから、というのも、今回の炎上騒動理由として少なくないと思うのだ。

ラジオの聞き方は既に20年近く前から多様化してきている。チャネルが増えたか馬鹿に見つかった、というのは余り筋が良くなくて、番組が醸す「香り」がどんどん強くなり悪目立ちしてきていた、という方が近いかな、と思うのだ。深夜ラジオ芸人が喋ったことをスポーツ紙ニュースにして悪拡散、なんてのは、それこそ昔からあることで、書き起こしサイトが悪いとかtwitter馬鹿拡散するのが悪いとかの説も全然納得できない。この辺は深夜ラジオリスナーなら分かってもらえるのではと思うんだが、芸人たちは頻繁にスポーツ紙記者に怒ったり絡んでキャッキャしたり、「記事にするなら番組パブリシティも入れといてよー!」という定番の落としも定着しているぐらいだ。実際岡村ANNでは以前も、フジテレビ批判ネットを騒がせた時期に「いやなら見るな」と言って炎上した過去もあるが、要するに、何らかの方法で「拡散されてしまった」ことだけが原因ではなくて、やはりあの発言の内容が一定閾値を超えていたことが大きいと思う。馬鹿に見つかったのが悪いわけじゃない。馬鹿だって「うわっ、なにこれ、臭っせえ!」と気づくレベルだった。

岡村さんは無自覚だったんだろう。無自覚が全てにおいて免罪符になるわけでもないが、取り返しのつかない悪業でもない。

現にこの3週間の岡村さんは、「変わらなきゃ…」を寝言のように繰り返して、聞いている私をハラハラさせていた。変わらなくても良いかコントロールできるようになってほしいなぁと思っていた私にとっては、「カウンセラー」役?の矢部氏の復活(昨日のラジオ矢部氏が言うてた、もちろん冗談込みやけど)は本当にうれしいし、少なくとも岡村さん本人が変わりたいから「変わらなあかんですから」とブツブツ言っているんだろう。

「変わる」がどういうことなのかはまだこれからの話なのでどうなるかは分からない。でも「生まれ変わってポリティカルに正しい深夜ラジオを!」とかではないだろう。もしその選択を取るのならラジオから降りることを選ぶんじゃないかなと思うのだ。岡村さんにとってラジオでしゃべることは恐らく大切なことで、一方で、岡村さんに限らずいい大人が完全に変わるのは難しいだろうなとも思うし、そもそも、そんな風に人格が変わる必要もない。

岡村さんの「ああいうとこ」は出し方によっては人を傷つけるナイフになるが、同じ性質は別の方向から見たら、岡村さんの「妙にキマジメなお笑い芸人」という魅力でもある。岡村さんが色々アレな面もあることは古い視聴者としてはよーく知っている。そして岡村さんは妙にキマジメだからこそ、ハードスケジュールの中でエグザイルスマップダンスを完コピしたりして私をしびれさせたりもしてくれるし、「おじさんたちのアニキ」的な役割を自認してラジオでああいう酷い発信をしちゃったりもする。あの発言は妙にキマジメな芸人である岡村さんのキマジメさと妙さがもたらしたのではないか、「おじさんのアニキ」の自認が大きくなりすぎてバランスおかしくなってたから、止まらなかったんだろうなと思っている。残念である

この騒動の後に、4年ぶり?くらいに久しぶりに岡村ANNを聞いて、あれ?そんなんだったっけ?と驚いたのは、スポンサーだ。昔のことは覚えてないんだけど(だんだん聞かなくなってたし)、先々週の岡村謝罪回のスポンサーが、ワンカップ大関高須クリニックエイブル不動産屋)と、その他数社だった。なんていうか男性ホルモン度が高いというか…(ワンカップ大関CM女性ワンカップ大関を飲んでるストーリーだったけど、何ていうか。うーん)。あと昨日の放送ではスポンサー読み上げが無かったんじゃと思う。オールナイトパーソナリティスポンサー読み上げするのが通例だと思ってたので、まぁ番組の立て付けが矢部復活」で変わるし色々あったんかなという気もする。ACラジオCMがいくつか挟まってたから、色々調整が間に合ってないとかあったのかもしれない。

追記ブコメid:sinamon_nekoが指摘しておられるが、矢部氏がスポンサー読みしてたらしい。ごめんね聞き落としてたわ。今日は買い出しをしながら聞いてたから気を取られてたみたい。)

まぁラジオは今とにかくお金が無くて大変だからスポンサーの顔ぶれが変わるのは世の流れだろうとも思う。ANNは今あんまり聞いてなくて、たまにオードリー三四郎聞くぐらいなんだけど、どちらも、ワンカップ高須クリニックスポンサーではない。何ていうか、そういうところにも「香り」が出てきてるところなのかなぁ…と思ったりもしないでもない。別に悪いというわけじゃなくて「中年専」方面に尖ってしまってたのかもなぁ…とか。

今、増田が一番楽しみにしている深夜ラジオハライチのターンだ。

木曜夜中(増田が聞くのは金曜朝の出勤時になる)は、ANN岡村JUNKおぎやはぎという、何ていうか「臭みが強い」ラインナップで普段はどちらもほとんど聞いてないんだけど、ハライチのターンは変で好き。金曜朝は、ハライチのターンの本放送radikoタイムフリーで聞いて、そのあと後撮りのクラウドを聞いてニコニコしながら出勤している(今はリモート中で出勤してないか掃除とかしながら聞いてる)。

少し話は変わるが、三四郎ANNもたまに聞いてどちらに対しても思うんだけど、若い世代は私のような中年とは全然違う世界を生きているなぁと思う。中間地点にいるのがオードリー山ちゃんであの辺の世代分水嶺になっている感じがあるお笑い芸人ラジオ業界岡村とかおぎやは「古い世代」感を感じる。古いから悪いとは言わないが、古いなーと感じる。もっと古いはずの伊集院さんとか爆笑問題は逆に古さは感じない、喋り芸の実力の高さとか爆笑太田思索力の面白さかなぁ…分からないけど。

で、増田が今はまってるハライチのターンのラジオクラウドの、先々週回(5/7)で、岩井が「岡村さんは寅さんだ」と言ってたのが、あーそうかもね成程、と思った。

岩井いわく、寅さん映画で「なんでそんなこと言うの寅さん!」と毎回怒られてしゅんとして「寅さん結婚したら」とか言われてる、箇条書きにすると岡村さんは寅さんだ、と岩井が言えば、澤部が「岡村さんは国民からしたら寅さんみたいなところ(人気者)あるもんね」と返す。「みんなに叱ってもらって、しょうがないなーってなって、寅さんも毎回反省もしてる」、と岩井が説を〆る。まぁ1分も満たない程度のさらっとした言及おしまい

そして、そのあと10分以上は、「澤部は山田洋映画向き」という話になる。そのくだりがすごく面白くて、ハラハラと生々しい関係性が見え隠れして、少し切なくて、そしてかわいいからラジオクラウドハライチのターンを聞いてみてほしいわ。

あとブコメもたくさんついてた太田岡村話以外には、岡村謝罪回の次の月曜の馬鹿力で、ひたすら伊集院さんがやりづらそうだったのが個人的には印象的だった。確かに馬鹿力もかなりの「非モテ文脈における女子いじり」みたいな投稿ネタが多いしなぁーとか思うが、やりづらくて困り当惑し悩んでしま伊集院さんは生身ですごく良かったし、同じようにがんばろうとしてる岡村の生身も、深夜ラジオしか出会えない芸人さんたちの「生身」として愛おしいなとも思うわけです。

あと、今月末5/24日曜の深夜にシカゴマンゴ最終回やるからそれが楽しみ。アンタッチャブルホント面白いから、ばかみたいなんだよ、すごく良いんだ。

2020-05-07

應用醫學叢書 第壹編(A) 性慾の話

一 誤解されたる性慾

性慾とは男女兩性が有する本能である。然るに從來は性慾に關する事は『憚るべき事である』として、是等の事を口にし或は筆にするは、士君子の爲すべき事にあらずとなした。勿論差したる必要もなしに是等の事を漫(みだ)りに喋々(てふ〱)するは恥づべき事であるが、是れを絶對に秘密にするは、從來の解釋に誤った所があるからである

 從來世人は性慾に就いて頗る誤解せる所が多い、而(しか)して此の誤解よりして、『憚るべき事』として、秘密主義に附したのであるしかれども斯(かゝ)る秘密主義は、決して萬全のものではない。若し飽く迄も秘密にして性慾を隠蔽する時は、却(かへ)つて性慾道德並びに生殖器の衛生を等閑(なほざり)にし、不自然に性慾を充たして、濫行となり、荒淫となり、個人的にしては遂に其身(そのみ)を亡ぼすに至り、社會的にしては、其害(そのがい)延(ひい)て風俗を紊(みだ)し、安寧を妨げ且つは國民の體質を劣等ならしむるに至る等、其弊(そのへい)昭々(せう〱)として明(あきら)かである

 故に是等の害を除かん爲には、必ず性慾の研究に俟(ま)たねばならぬ。茲(こゝ)に於て學者は眞摯に性慾を研究し、着實に思索を練りつゝあるのである

2020-05-04

変態として幼稚

単に性欲を暴走させればフェティシズムに行き着くというわけではないんだよ

例えば男性セックスにおける願望のひとつ女性の体内の深くへと挿入することだけど、何も考えずにそれを突き詰めていくと触手が口から飛び出したりする

馬鹿過ぎるだろアレ

内へ内へと入り込みたいのに体外へ飛び出しちゃうんだから本末転倒にも程がある

フェティシズムというのは性欲を深く分析して思索した先にあるんだよ

2020-04-30

anond:20200430140547

なんでせっかく「俺はKKOだが人権があるぞ、有益だ」と言い返せるように道をつけたのに拾えないのか 教養思索の欠如

2020-04-27

anond:20200427083457

そりゃ人間経験したもの以上の発想はできない種別から

そりゃ一部は経験していないことでさえ我が事のように思索できる人も居るだろうよ

2020-04-16

anond:20200416205102

教授質問し放題

同級生議論し放題

思索し放題

社会に出てしまってはそんな機会は無い

2020-04-06

女王からメッセージ

https://youtu.be/2klmuggOElE

The Queen's Coronavirus broadcast: 'We will meet again' - BBC

雑だが全文訳しておいた。

追記20200407:BBC公式がでたので以後こちらを。 https://www.bbc.com/japanese/video-52178074

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ますます困難な時だと考え、みなさんにお話ししています

国内暮らしが混乱しています

いくらかの人々には悲嘆から。多くの人々には経済的困難から

私たちすべての日々の生活に大きな変化がおきています

NHS前線のみなさん、ケアワーカー必須業務につくみなさん。

私たちを支えるため、私心なく家をでて日々の業務を行うみなさんに感謝を述べたいと思います

平常に近づくためのみなさんの激務への感謝は、この国全体に共有されるもの確信しています

愛する人を失った人々は痛みを受けています。家に止っている人々は、このような事態から弱い立場の人々を守っています。みなさんにも感謝を述べたいと思います

私たちは共にこの病に取り組み、そしてここで伝えたいのですが、怯まず団結すれば、この困難を克服できます

数年後、この困難への取り組みをふりかえり、誰もが誇りに感じることを望みます

次代の人々は、この世代英国人はどの世代と比しても強かったと語ることでしょう。

自律心、わずかなユーモアと決意、そして仲間意識は、今なおこの国を特徴付けています

私たちのこの誇りは、過去のものではなく、現在そして未来のものです。

英国ひとつとなり、医療従事者や必須業務従事者を称賛した瞬間は、この国の精神として記憶されることでしょう。そしてこどもたちの描いた虹がそのシンボルとなるのです。

英連邦の国々から、人々が力をよせあい、助け合ううれしいストーリーが伝えられています。人々は食事や薬を届け、安否を確認し、援助のため事業を転換しています

自宅待機はつらいことですが、信仰ある人もそうでない人も、多くの人々が祈り瞑想を通じ、立ち止まって思索を深める機会だと感じています

妹に手伝ってもらい、1940年に初めて放送したことを思い出します。

ここウィンザーから、こどもの一人として安全のために家族を離れ疎開するこどもたちに呼びかけたのです。

今、ふたたび多くの人々が愛する人から引き離される痛みを感じていますしかし今、当時と同じく、深くこれが正しい行いだと知っています

過去にも困難はありましたが、今回は異なります

地球上のすべての国家が、すすんだ科学と、生来助け合いの想いによって、共にこの困難に取り組んでいます

私たち成功します。そしてその成功私たちすべてのものです。

困難はまだ続きますが、こう考えましょう。

よい日は戻ります。また友人と過ごせます。また家族と過ごせます私たちは皆また会うことができます

しかし今は、みなさんに感謝と、心よりの気持ちを送ります

2020-04-01

られる[69][70][71]。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的宗教的思索部門)と呼ばれる[72][73][74][75][76]。

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2020-03-21

anond:20200321022650

エンタメ漫画とは自分体験と切り離して読むものって前提

いやそんな前提どこにも書いてないが

自分と切り離す云々じゃない

楽しむためのものと教訓を読み取ったり哲学的思索にふけったりするためのもので心構えが違うのは普通

そもそも目的が違う

2020-03-13

anond:20200313123405

しろ同じ話を一か月維持するのはアスペやで。

状況が変わったことに対して新たな思索を広げる遊びとかをしてやっと健常者扱いや。

インフルと同じような病気なのに~」系は完全にアスペやな。

2020-02-13

anond:20200207185501

 今更だけれど思ったこと書くね。

 エンタメに飽きたら、世界史勉強をするのがいいんじゃないかな。

 この元増田の言っていることの全部が正しいとは思わないんだけれど(たとえば「海外ドラマはお子様向けを卒業した十二歳向け」みたいな表現ね)、娯楽をある程度摂取するとパターンが見えてきちゃうのは本当だと思うし、たくさんの作品を鑑賞していると、脚本術について詳しくなくても、「この場面で伏線を張っているな」とか、「今このキャラクター物語をたたみに向かってるな」とか、何とはなしに見えてきちゃうよね。

 それに、月9ドラマなんかだと作業しながらでもそれなりに理解できるようにストーリーを作っているので、まどろっこしく感じちゃうのもよくわかる。自分全然見ない。映画なんかも、友達と付き合いで行く以外は、こじらせ芸術映画をたまに見る程度。なんでかっていうと、アート映画脚本術に従っていない、従っていたとしてもあからさまじゃなくて、どういうストーリーになるかほとんど予測がつかない。そこが楽しいから

 で、この増田勉強することにしたみたいだけれど、なんだかんだ言って、教養を得ることに向かうってのは、いい考えなんじゃないかな。

 自分なんかは、世界史をざっくりと勉強してみると楽しかった。ちょっと古い本だけれど、中央公論社から出ている「世界歴史シリーズ全三十巻を、数年前に読んでみた。正確には、学生時代に流し読みをしたものの再読だ。

 世界史を知っておくメリットはいくつかある。ニュースを流し読みしても大体のことが頭に入ることだ。でも、それとは別にそもそもすごく楽しいってのがある。いろんなファンタジーとかゲームとかの元ネタを見つけるとわくわくするし、遠い国の人たちの暮らしを知って空想するだけでも、毎朝の通勤時間が豊かになる。

 それと、このシリーズは、歴史地域ごとに分かれて書かれているので、ある出来事複数の巻で重複して触れられることがある。たとえば、モンゴルによるバグダッド破壊なんかはイスラームの勃興期と遊牧民を扱った巻にそれぞれ出てくるし、トルキスタンで起こったムスリムの反乱は、近代イスラームの巻と清朝末期を扱った巻の両方に出てくる。

 それの何が面白いかっていうと、同じ出来事見方によって評価全然違うってこと。当たり前なんだけれど、ある国では救国の英雄だけれど、別の国では冷酷な侵略者になっていることなんてざらだし、時代が変化することで評価が逆転したり、忘れられていた人に急に光が当たったりする。チンギス・カンモンゴルではヒーローだけれどほかの国では災厄以外の何物でもないし、バッハフェルメールといった人物も、忘れられていた時代があった。この世界史シリーズも著者によってバイアスがかかっていて、そこがかえって読みごたえがあるんだけれど、モンゴル担当した人が個性が強くて、「遊牧民文化は定住民のせいで低く評価されすぎ!」みたいな本を出していて、おかげでモンゴル残酷行為が若干省かれちゃっているのが難点。

 これってまさに芥川龍之介の「藪の中」みたいな感じで、互いの証言矛盾しているから頭を使わないといけなくて、下手な娯楽よりもずっと面白い。いや、自分現在起こっている日本中国韓国との証言の食い違いは、あまりいい気持がしないんだけれど、それがたとえば何百年も昔のことだと、それがとてもロマンチックに感じられる。聖地奪還の情熱燃えていた十字軍も、アラブから見れば「なんか辺鄙なところから蛮族が来たぞ」みたいな印象しかない、みたいな話だ。

 話がそれてしまったけれど、自分が言いたかったのは、頭の中に複数物語を併存させておくことで、自然物事に対して客観的になれるメリットがある、ってこと。しょっちゅう増田表現の自由だとかセクハラだとかいろいろと炎上したりしているけれど、ある人の意見絶対視しなくて済むようになる。Aという視点ではこうだけれど、Bという観点からだとこういう意見が当然出てくるだろうな、ってのが読めてくる。読めてくると、「この人ならこういう反応をするだろうな、この専門家ならこういう発言をするに違いない」ってのがわかってきて、こっちも必要以上に感情的にならなくて済む。元増田は「悪化する大衆メンタリティ」という表現で、そういう荒れがちな場をちょっと下に見ている感じもないではないけれど、議論にすらなっていない議論から距離を取ることができるようになると、余計なストレスを感じなくて済むのは確かだ。

 それに、複数見方ができるようになると、例えばムスリムから世界史を見たらどう見えるだろう? 女性史の観点からならどうだろう? って、多くの人に受けいれられている歴史見方を疑ってかかれるようになるので、やっぱり楽しい

 他にもいろいろメリットがあって、基礎的な知識があると、ほかのことを勉強していてもすごく楽しい古典文学を読んでいてもすごく面白いし、百年前のあの憧れの人と同じ本を手に取っているって興奮できる。文豪たちと同じ詩を読んで感動するのはいものだ。科学医学歴史についてざっくりとでもいいので学ぶと、自分生活は先人のものすごい技術的蓄積の上に成り立ってるんだなって思うし、自然科学の基礎的な素養があると、ぽっと出のインチキ治療法には引っかからなくなる。哲学史について軽く触れるだけでも、学生時代にしたような哲学的思索は、ギリシアインドが二千年前にとっくに通過した場所だってわかってはっとする。女性地位がどう変化したかをたどってみると、「女性は『常に』被害者だった」みたいな極端な意見には大きな疑問符をつけることができる。

 それと、こうやって三十巻ざっと読んで思ったのは、自分歴史観はバイアスがかかっていたんだなってこと。たとえば、ギリシアローマ歴史は一巻にまとまっていて短すぎるって思ったし、中国歴史ももう少し細かいところに触れてほしいって思ったけれど、たとえばムハンマド時代からアッバース朝滅亡までが一巻ってのはちょうどいいって感じられて、これってつまり自分イスラームのことをまだまだ知らないってことだよね、って思えたりして、バランスが悪いなあって。自分の考えは、ちょっと偏っているかもしれないって、疑えるようになるってのもまた、勉強する楽しさの一つだ。

 あと、いろんな知識が増えると、いろんな人が自分よりも前に書かれた本について言及しているのをたくさん見つけることになるんだけれど、この世界がまるで巨大なシェアードワールドみたいな感じがして面白い自分古典を読むのが好きな一番の理由がそれかもしれない。さっき述べた、互いに矛盾するような証言でさえ、この世界がどれほど「作りこまれいるか」、いいかえると複雑なのかを教えてくれているみたいで、興奮する。

 自分通勤時間と昼休みしか読書をしないエンジョイ勢だけれど、こういう勉強ってのは一生やっても飽きない気がしている。娯楽を馬鹿にするわけじゃない。でも、「娯楽の場がぎすぎすして嫌だな」ってときには、ほかに楽しいと思える遊び場を持っておくのは、いいことなんじゃないかな。

2019-12-11

anond:20191211025219

あなた判断を支持する。

改めて考えてみると現代オタクコンテンツ自画自賛ばかりだ。

現代オタクコンテンツは観察と思索に基づいて物語を描くという本筋から外れてエゴを満たすためのプロパガンダ媒体と成り果ててしまった。

そしてテクノロジーの力によって拡散されたそれらエゴエコチャンバーで集積されることでより強大で純度の高い自己欺瞞を構築する。

そんな場に居続けたら、みんなおかしくなってしまう。

(※ちなみに水彩絵具と色鉛筆オタクコンテンツとは不可分ではないので譲る必要はないと思います)

2019-12-10

二人の話

川尻くんと佐野くんはライバル

そうなはず。

でも川尻くんはいつも佐野くんを見るとき、後味悪そうな、気まずそうな顔をして見つめている。

一方佐野くんはいつも、曇りのないキラキラした目で川尻くんを見つめている。

これは本当にライバル関係なんだろうか?

それはポジション評価の時だった。

川尻くんは、メンバー選びの際、昔馴染みだという佐野くんを選ばなかった。

そして、センターで一位でというはるかに高い下駄をはきながら、さらAクラス評価されてる人たちを引っこ抜いて、より高いハンデを積み上げた。

そして、さも平等勝負であるかのように佐野君に言った。

「彼の作り上げるチームを、僕はみてみたいと思った」

しか川尻くんにはそうする権利がある。これをしたことでなにも責められることはない。

しかしだ。

あの平和主義で、人と揉めることを嫌がる川尻くんが、

なぜ古くから馴染みのある人に対して、あんなことしたのか?

馴染みの相手をむしろ取り込もうとするのが川尻君のスタイル

なのに、なぜこんな一方的な戦いを挑んでしまったのか。

今になってみると違和感が付きまとう。

彼にはどうしても佐野君に勝ちたい理由があったのかもしれない。

そして、本当にこれくらいハンデをつけないと、佐野くんには勝てないと思ったのかもしれない。

佐野くんは不思議だ。空気のように踊る。実力は折り紙付き。でもその踊りに自意識はない。

本当にただ、真っ直ぐにダンスが好き。

なぜアイドルに応募してきてしまったんだろう、何か間違えてしまったのかな?

そう人に思わせるような、つかみどころのない性格だ。

一歩、川尻くんはそれだけではない人間に見える。

彼は苦悩している、どうすればダンスで目立てるか、他人とうまくやるにはどうすればいいか

常に思索を巡らせて、ああだこうだ考えるタイプだ。

川尻君は佐野君が持っていないものを持っているが、

佐野君もまた、川尻くんが持っていないものを持っている。

二人の間に何があるのかは、私にはわからない。

誰が見ても川尻君の方が圧勝なのに、川尻くんは佐野くんに嫉妬していたのかもしれない。

川尻くんは、佐野君に、自分舞台上で自分の正しさを証明したくてたまらない、自分がこの舞台覇者であることを誇示せずにはいられない、そういうふうに見えた。

結果、ハンデを堆く積まれ佐野くんのチームは惨敗した。

そりゃそうだ。あまりにもゲームとして成立しなさすぎる。

けれども、佐野くんは恨み言ひとつ言わなかった。涙を流して己の力不足を語った。

「ふざけんな、ずるいぞ川尻

佐野君がそう言って怒ったならば、川尻くんも少しは救われたかもしれない。

けれども佐野君の反応はそれとは違くて、もっとずっと高潔で、ダンスに向き合ういつもの姿勢のそれだった。

多分、川尻君が持っていなくて佐野君が持っているもの、そのものだった。

それ以降、なんだか川尻くんから佐野くんに対する視線は、急速に罪悪感を帯びたものになる。

でも佐野くんは気づかない。川尻くんが自分にそんなことを思ってることに気づかない。悪意を向けれたかもしれないことに気づかない。

いつも下の位置から、真っ直ぐな目で彼を見ている。

悲しいことに、このプロデュース101の舞台では、佐野くんは一度も評価されることはなかった。

川尻くんにとっても、彼がここまで評価されず去ることになったのは、予想外だったかもしれない。

彼の支配するゲームの中で、佐野くんは行き場を失ってしまったのだ。

でも、佐野くんは、去り際に川尻くんにこういった。

「蓮君、ごめんなさい」

何か二人は約束をしたのかもしれない。それはわからない。

しかし、この時の川尻くんの、気まずそうな顔と言ったら、それはなかった。

佐野君のこの真っ直ぐな姿勢は、いつも川尻くんを追い詰め続けてきたのかもしれない、そう感じた。

佐野君のプロデュース101の物語は、ここで幕を閉じた。

おそらく川尻くんはこのゲーム覇者になるだろう。

佐野くんは脱落したが、それはやはり、川尻くんの支配する舞台の彩りになるには、相応しくないからだと思う。

彼にはもっと別の舞台がある。

今は心が折れてるかもしれない、けれども佐野君は、ダンスが誰より好きで、真っ直ぐにダンスだけに向き合うあの姿勢で、きっといつか、また私たちの目の前に現れてくれると信じている。

2019-12-09

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1440599

そもそも駄洒落というのは、誰でも知っている単語から、多くの人が気づかないような関係性を結び付け、その落差を笑いに変えるという、高度にクリエイティブ作業である。神のような天才であれば、無から何かを作り上げることもできるかもしれないが、常人たる我々にとって可能な最大の創造駄洒落と言っても過言ではない。依頼者からお題を指定される職業デザイナーにとって最も重要なのは駄洒落であるという厳然たる事実をこないだの芸大志望増田に誰も教えないというのは全く理解に苦しむ事態だった。そこまでクリエイターに寄らなくても現代ホワイトカラーであれば常に駄洒落力は求められるし最低限入社と同時に駄洒落帳を作ったでしょう。つまりはてなにおいても得られる情報の最高のもの駄洒落である以上、アンテナを高くしたい効率厨はS/Nの高い駄洒落アカウント以外をミュートするものなのだ。ただ、残念ながら戦後駄洒落を下らないことと貶める言説が横行している。これは日本の国力を下げるためにパン食とともに広められたCIA陰謀なのだが、遺憾なことに中高年が既得権益を守るために陰謀に加担し、それを止める奇特な人もいなかったために日本危篤状態となった。政治的なことは個人的なことであり、個として思索を巡らせてみても「駄洒落を言うのは誰じゃ」というのはまさに人としてのレゾンデートルに迫る問いといってよい。駄洒落理解できることが人を人たらしめる条件であるというのは、もはや論証を要しない啓二といえよう。神は罰として多数の言語を分けたとされているが、翻訳家技術の粋により、外国語駄洒落日本語の駄洒落へと生まれ変わった時、その神秘的な経験は神の恩寵と捉えざるを得ない。残念ながら現在これは人に限ったものであり、動物については、限定的言語を解し、心を通じることはできるが、駄洒落理解することはできない。その意味で人は孤独存在である。もちろん宇宙には駄洒落を解する知的生命体が存在する可能性があり、もしそのような相手出会えた時、人は次なる段階へと進化するだろう。当然ながら知的生命体の定義駄洒落を解することであるが、ボイジャーメッセージであるボイジャーに積んだ絵はボインじゃー」は少しハードルが高かった印象が否めない。宇宙人以外で期待できるのは当然AIであるAIが真に駄洒落理解し、アイアイの歌を歌いながらスパルタンXのような笑い声をあげたとき人類機械に霊長の座を明け渡すこととなる。

作者の気持ちを答えよ(10点)

2019-11-26

anond:20191126181321

人生経験に乏しいおいらが思索したところで、なんというか、たいしてアイデアは出てこないからw

anond:20191126181119

なんでおまえの中で思索を掘り下げない?

2019-11-15

君の名は。で思い出したけど

もし男児妊娠している巫女さんがいたとして、胎動のショックをきっかけに男児精神とお母さんの精神が入れ替わった時、どんな感じなんだろう?

母体側がわけも分から混沌とした世界模索的に徘徊し、胎児側はどうすることもできず思索にふけるだけだろうか?

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

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