2020-07-21

脱コルへの違和感

ここ最近日本の脱コル(韓国の脱コル運動についてはよくわからないため、ここでは日本限定した)への違和感最近高まってきているので、ここで整理する。

声を大にして言いたいが、このエントリを書くのは誰のためでも何の妨害でもなく、私のため、私の思索のためである

1. 「男性化」ではないという主張

脱コルを推進する人達一人称は「俺」。短髪にメンズものファッションしか彼女達はこれは男性化ではなく、機能的な格好・他者に媚びない表現方法を選んだだけであると主張する。しかし、ラディカルフミニズムの文脈における「女性性の徹底的な無力化と破壊」は自明に「男性性の入手と強化する」と同義ではないのか?なぜなら女性ではない男性男性ではない女性、と二項対立で論じてきたのがラディフェミからだ。違うとすれば、女性性を破壊した後には何が残るのか?性のないニュートラル自分

2. 脱コル漫画主人公達、たいてい可愛い

脱コル漫画最近いくつか目にする。韓国で脱コルに取り組んでいる人達が書いた漫画日本語訳である。 

えてして、主人公がそこそこモテかわいい設定なのである

これには少々ずっこけた。

モテて、周りの男性から綺麗、可愛いと称される子なんてごく少数。女子の大半はフツーである(当たり前すぎる話だ)。女性の美しさは男性から消費されるだけだ、要らない、美しくなくていい、美しさを追い求めることは男の奴隷となることなのだ、というラディカルな主張のわりにヒロインモテ可愛い子、というおきまりの設定にハテナが浮かぶ。「走っていく女性」が1番反響を呼んだ漫画だと思うが、そこでは1人の可愛いモテそうな女の子メシアの如く女性達を導き闘う。女性を導くリーダー存在として、女性のうち少数しかいない可愛い子を設定していることは、脱コル漫画として自己矛盾を起こしている。漫画の内容としては「美しくなくていい女性」を追い求めているのに、作者も読者も、ヒロインをつとめるのは可愛いくて美しい女性普通である、というお決まり価値観から抜け出せていない。可愛くなく美しくない女性が大半なのに。可愛い子じゃないと、美しくないと画がもたないから?説得力がないから?だとしたら「全ての女性は美しくなくていい」はどこまで説得力があるのか。「不細工」と自称する女性の脱コル漫画もあることは知っているが、あくまでも体験記。ドラマティックな展開の脱コル漫画を2本ほど読んだがどちらも可愛いモテ女子だった。うーん…

脱コルについてもう少し考えていきたい。

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