はてなキーワード: 得体とは
俺はお前さんたちのコメントを見る度に、カッとなる。
俺の鼻は、お前さんたちを人間とは認めないみたいだ。
この世ならざる者のような、得体の知れない刺激臭がする。
口と鼻からは、蜘蛛の糸の如し粘液が大量に放出され、目前のショウジョウバエを捕らえながら、そして死に行く者のように落ちて行く。
俺が一体全体どうして、真剣に鼻水の話を持ち出したか分かるか?
お前さんたちなど、所詮はネチョネチョと纏わり付き、ペチョンペチョンと世界を貶し合い、仕舞いには自由落下の法則によって地面に叩きつけられて昇天する鼻水に過ぎないという事である。
繰り返す。お前さんたちは究極の鼻水だ。
眼球は紅く染まり、鼻からは真っ赤な破壊砲がぽたぽたと過剰に放射されて行く。
もうそろそろ俺は、真っ暗な箱の中で、最後の火災旋風を浴びる事となる。
この世ならざる者のような、得体の知れない刺激臭とはどんなものか。
とくと感じるが良い。
”ある日主人公は陰気な得体の知れない男に「あと五十日ですよ」と声をかけられる。
一緒にいた同僚はそれを見れなかったらしい。
幻覚かと思う主人公は同じ人物に次の日「あと四十九日でございますよ」と言われる。
何がだ、と聞き返す主人公に男は「色々整理があるだろうから教えて上げているのです」と答える。
人間ドックに行って何もなかった事を伝えても、「これは注意ではなく宣告です。医者に事故が防げますか」と答える。
神社や寺に行きお祓いをしてもらうも毎日カウントダウンし、「あと四十日です」と男は現れる。
ヤケになり自殺してしまおうとしても、体が言うことを聞かず、実行できない。
これは本格的に死神だ、と生命保険を増額し、家族の将来のためと蓄えていたお金をつかい海外で豪遊する。
男は海外には現れないが、帰国するとまた現れ、「あと十三日です」と宣告する。
帰国して酒浸りになる主人公を家族は変に思う。問いただされた主人公は死神らしき男に死の宣告をされたと答える。
妻は取り乱し、息子は深刻な顔をする。しかし主人公は死ぬ前にするべきことがある、と立ち直る。
次の日から職場で部長の仕事の引継ぎをはじめ、部長としての心構えなどを部下に伝える。
一方で社長には部下がどのようにごまかしをしているかなどを伝える。後々恨まれるだろうがどうせ死ぬのだ。
いよいよ死神らしき男は「あと四日です」と最後のカウントダウンをはじめる。
主人公は「じたばたしないよ、お前はそれをみたかったんだろうがね」と男に返す。
家族には「私はかつて浮気を何度かした、この間の豪遊でも好きな事をした」
「わたしも浮気をしましたわ」「実は僕はお父さんの財布からお金をくすねたことがある」と死ぬ前の暴露をしあう。
主人公はもうやり残したことはないか、と見返り、友人への借金の証書を焼き捨てる。
睡眠薬を飲み、それでも目が冴えて、ふと時計を見るともう夜中の三時だ。
「自分はもう死んでいるのだろうか」と思うが当然死んでいない。
「第一日目でございます」
どういうことだ、と詰め寄る主人公に男は
「これからどうなさるのか、それが興味の的でして」と返す。
「私は一度も死神だと言った覚えはないですよ。自分はもっとたちの悪い存在でして。
と返す。
「まったく、たちの悪い……」とつぶやき呆然とする主人公を見ながら男はニヤニヤしていた。”
とあるまとめサイトに貼られていたもので、星新一の「あと五十日」という話らしい。
後味の悪い話として貼られていたのだが、私はなんだか胸がスーッとするような思いになった。
もしかしたら、自分の今の境遇によって捉え方が変わるのかもしれない。
できれば感想を聞かせて欲しい。
ソシャゲの大手とそうじゃないところの両方に居たので描く。冷静に比較して、大手じゃないところに正直居たいとは思わなくなりましたとさ。
もうね、何か何まで恵まれてたし効率的だったのよ、大手は。大手に入ると、そうじゃないところではどうあがいてもさっぱり勝てる気がしませんでしたとさ。人一倍やる気に溢れる若造は、さっさと大手に来ないと、やっぱり人生損するよ?と思うのだけどどうなんだろう...?きっと当たり前過ぎて話題にもならないのかな...こんなこと。
ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってからは自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。
そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題がニュースになったり、実況動画のユーチューバーに扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DSを発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。
俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代は任天堂に憧れ、ファミコンとディスクシステムに埋もれて育った。反抗期はメガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターンで遊んだ(結局スーファミもプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。
社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。
興味が無かったわけじゃないけれど、ネットとWebとコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。
仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックなホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなものを勝手に持っていたような気がする。つまり、ゲームを作る側でも無い普通の人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為はクリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。
そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSやWiiで遊ぶようになった。
でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲームが話題になることはなかった。俺自身もWiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラが面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的な感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分が少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚を体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。
我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機やゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチなクリスマスプレゼントだと思う。
その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。
かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである。
すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。
一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。
その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。
12月31日、仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分のIDを登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。
ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……
かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験の歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ。
操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。
正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
なんだこれは。
気持ち良すぎる。楽しすぎる。
気が付くと、がむしゃらにわけもわからずインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。
一体、なんなんだこれは……!!
3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。
なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。
別に、大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分のお年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラで似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲームが現実になるなんて!」とバーチャロンに100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。
とんでもないものを作る人がいる。
そうだ、楽しいゲームをプレイしたときの体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界は過去より進化している。
かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。
だって、フィールドを思い通りに走り回り、リアルな人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。
去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ。
良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だって、ゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。
気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。
信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。
すさまじいゲームバランスと運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤーが前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロとローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂だからできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルなインクでいっぱいで、なぜだか不思議とクリエイティブな気分だった。
ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーションに特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。
普段、仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネットを特別なもの、得体の知れない不穏なものと敬遠する層があり、そういう世界がある。世代間ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアル対ネットの戦い」だとか、「紙媒体とWebメディアの二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。
仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。
しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネットは電気や水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ。
既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルかバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションがスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。
思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね。
対人で対戦できるFPSやTPSだって、オンラインのRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験はそれからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。
でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術や経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃。
SMAPという「かたち」は残った。熱心なファンはそれで満足なんだと思う。そしてグループとして稼ぐお金の大半はそうした熱心なファン、いわゆる「太い客」が落とすお金なのだろうから、それでビジネスとしては特段何も問題はないんだろう、とも思う。
しかし、別に熱心に追いかけているわけではない、漠然と好感を持って眺めていた、いわば浮動票的なファンからするとどうなんだろう。おそらくそういう存在の一人だろう私は、騒動以来SMAPのメンバー、特に木村拓哉のことが平静な目で見られない。CMで見かけるとモヤッとした薄暗い気持ちが湧いてきてしまう。中居や香取もたたずまいが痛々しく映る。彼らのまとっていたタレントとしてのオーラが、何か決定的に毀損してしまったような、そんな感じがしている。その得体のしれない不快感は嵐やTOKIO、その他のジャニーズ所属のタレントを見る目にも、いつか及んでしまいそうだ。なんだかな。
ことの始まりは先週の木曜に、ネットの、2015ベスト・アルバム50とかの記事で、水曜日のラ・カンパネラの「ジパング」がランクインしてるのをみて、アップルミュージックで聴いたんだ。
1位から順にアップルミュージックで探して聴いてたんだけどな。
それがめちゃくちゃかっこよくて、金土と仕事中や、帰りのチャリンコで、家でと、聴きまくったんだ。
ただなんの情報もなく、その「ジパング」ってアルバムを聴きまくってたんだ。
で、今まで知らなかった人の、ひとつのアルバムにこんなにハマったの久しぶりだなー、どんな人達なのかなー、と思って、昨日の寝る前にウィキペディア読んで、ユーチューブで動画をあさったわけ、そしたら、なんか、なんだろうこの気持、「なにこいつ、、、。??」みたいなの。今まで3人ぐらいのグループかと思ってたら一人しかいないし、なんだこのいかにも音楽舐めてますってつらしたかわいこちゃんは。なんだろう、なんか得体のしれない黒い感情、こいつムカつく、みたいな、ムカムカムカがもう溢れかえってきたんだ。今まで「めっちゃかっけぇ、ジパングやべえ!!」って10代みたいに夢中になってたのがウソみたいに、嫌悪感がすごかったわけ。
それで、今までのディスコグラフィー全部聴いて、けちょんけちょんにディスこきまくってやんよ(知り合いに向かって)と思って、今朝は「鬼ヶ島に連れてって」を聴いたわけ、まあ鼻につくつく、やっぱりこいつぁワックの風上にもおけねぇなって感じで出社したんだ。
出社してから、今度は「シネマ・ジャック」を聴いたんだ、その一曲目が「ミツコ」。サビになって、震えが止まらなくなった。3,4年前にDVDで観た映画「恋の罪」が、それは自分にとって「まぁ面白かった」ぐらいの映画だったんだけど、記憶の片隅にもなかった映画のシーンがめちゃくちゃフラッシュバックしてくるわけ、サビで。「やっぱりコムアイちゃん(昨日覚えた)はすごいのかも」って思い直して、アルバム全部聴いて、まぁ他の曲は普通だったんだけど、ミツコが忘れられず、もう今日一日ずーっと「ミツコ」を一曲リピート再生してた。毎回サビになると鳥肌が立つ。どうやったらあんな感じであの歌詞を歌えるんだ。この人「恋の罪」に出てたんじゃないかってぐらい、すごいんだよ。コムアイをけちょんけちょんにディスってやりたいと思ってたのに、今はなんかもう崇拝するような気分、で、改めて「桃太郎」聴くとまたムカッムカッってするみたいな、完全に振り回されてる。
なんかね、音楽の力ってこんなにすごいのか、ってのと同時に、映画の力、素晴らしさみたいなものまで同時に思わせられちゃって、音楽の力すごいですね。。。
まず結論をいうと、まごうことなきスターウォーズだった。それでいてJ.J.らしくエンタメしていた。賛否両論とか駄作とか煽ってるサイトが散見されるが、普通に誰もが見るに値する快作なので、細かいこたあいいから見てくればいいと思う。めっちゃ楽めるから!
以下、雑感。小言が少し多くなってしまっているけど、これ以上のリブートは考えられないぐらいよくできてたと思う。ありがとうJJありがとうディズニー。
・スターウォーズだった!
すごく重要なことだけど、純度の高いスターウォーズだった。こんなのスターウォーズじゃないと感じることはほとんどないと思う。ビジュアルとしても4,5,6の順当な現代版というちゃんと出せたし。ちょっと実写にこだわりすぎてセット感出てるところもあったけど。
・レイとBB8は最高
レイはもうなんというか、最高。新たなヒロイン誕生という感じ。正直うまく表現できないけど、カリスマ感ある。BB8もまたかわいすぎて最高。トレーラーで見たときにはちょっと露骨にかわいくし過ぎだって思ってたけど、劇中だともっともっとかわいかったし、かわいすぎて露骨だとかどうでもよくなった。BB8最高。普通にC3POやR2D2を上回ってた。あと、ポーも凄くよかった。
このハンソロはちょっと旧作とは別人じゃないかと感じるぐらいノリノリで活躍していたし感情豊かに演技していた。
・フィンとレイはどうだろう?
フィンはキャラ造形と元ストームトゥルーパーという設定が正直ちぐはぐだし、ノリがモダンな若者感ありすぎて世界観からも浮いているように感じた。レイはなんか…ちがう。顔が。マスクとったときに軽く笑ってしまった。スリザリン顔という表現は的確で面白い。そしてレイはマスクとるの早すぎない?
全編通して旧作のオマージュ祭りなのはまあいいんだけど、クライマックスが完全にデススター破壊なのはやりすぎ。破壊成功しても「知ってた!」てなってしまうからなあ。だったらせめて、超大爆発とかエンディングで超お祭り騒ぎとかで盛り上げてほしいんだけど、全然そっけない演出のままあのエンディングを迎えるので正直消化不良感はある。いやみんな途方もないことをやり遂げたんじゃん!打ち上げしようよ打ち上げ!もしくは表彰式!
・敵がもっと強大感欲しい
レンの雑魚感自体はまあ意図的なものなんだと思うからいいけど、あの親玉っぽいやつも小物間漂ってたのがなー。というか逆光でデカい宇宙人…てなんか安直じゃない?得体のしれない強大な敵みたいなのが欲しかったなー
この法案を覚えている人、いらっしゃるだろうか? 10年程前、日本で人権委員を設立し、ヘイトスピーチを取り締まろうとした法案だ。
この法案が出た当時、表現の自由の観点からさまざまな批判が行われた。選抜基準が不透明であり、実質的な言論弾圧になりうる。そうした批判が主だったように思える。
当然……と、言うか、なんというか、2ちゃんねるでも、当時山ほどあった個人サイトでも人権擁護法案に反対する運動が起こった。
人権擁護法案反対の同盟(あぁ、「同盟」って単語も懐かしい)も作られた。
そして、その反対運動は、最近の言葉で言えば「カジュアルな差別」とともに行われた。
「実質的な言論弾圧になりうる」という、その一点をきりとれば、至極尤もな主張は「在日や利権を持っているマイノリティだけが得をして、普通の日本人は損をすることになる。それどころか、実質的に、やつらに日本の言論を支配されることになる」という、明らかに間違った被害者意識、と言うか差別的な主張とセットで行われた。
当時、世界各地で、人権委員の設立が行われていた。具体的な事例は、当時は法務省のHPに掲載されていた。現在ならば、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)やエリック・ブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)などで、当時の流れをつかむことができる。
だが、そうした観点から、実際の外国人での人権委員の活動や議論を調べ、紹介するような者はいなかった。
結局、振り返ってみれば、当時の人権擁護法案の反対運動とは、「『他人の自由や尊厳を侵害しない限りは』何を言ってもかまわない」と言う本来の表現の自由ではなく「カジュアルな差別をしたい」と言う欲望を守るための言論だったのだろう。
別段、驚くべきことでは無い。
YAHOOでホロコーストについて検索すると、悪名高き世界史コンテンツが真っ先に出てきた。
中国人は王朝の変わり目に数千万、あるいは億単位で人口が増減し、現在の漢民族は漢民族でもなんでもない得体の知れない雑種と言う、どこから突っ込めば良いのかわからない発言をすることが、「中国史通」の条件だった。
当然、教科書に書かれている、日中戦争ならびに太平洋戦争当時の日本軍の問題行為はすべて中国と朝鮮のでっちあげと主張する連中が、面白い人、そして、「一方の情報を鵜呑みにしない人」の条件だった。
保障された権利を行使する連中を冷笑し、「プロ市民」とあざけり、スイスの民間防衛を引用しながら中国のスパイ呼ばわりすることが、「良識的で政治に関心がある人」の条件だった。人権の保障などあきらめ、あるいは現状で満足し、お国の迷惑にならないことを第一に考え、軍事増強を唱える。それこそが、「知的」な人間と呼ばれるための条件だった。
現在、そうした妄言を垂れ流していた個人HPのほとんどは消滅している。
だが、うっかり信じてしまった連中は残った。おそらく、掲示板に書き込みをしていたヘビーユーザーは氷山の一角で、その何倍ものROM専の人間が、上記、カジュアルな差別で塗れたデマを信じ、「新しい知見」と考えたであろう事は想像に難くない。
やっかいな事に、そうした連中のほとんどは、当時自分が疑問に思った事について、情報の更新を行っていない。ヘイトスピーチ、そして、その規制法案について語るとき、上であげた該当問題の入門書を読むこともせずに、人権擁護法案反対のコピペを唱え続けている連中のなんと多いことか。
挙句、何の根拠も無く「日本は外国と違う。日本においてヘイトスピーチと呼ばれているものは、虐げられた日本人の正義の怒りであり、理由の無い差別ではない」などと恥ずかしげも無く言ってみせる。言っていることとやっている事はネオナチとほとんど変わらないのだが、彼らに言わせれば違うらしい。
ホロコースト否定論は相変わらず上位に出てくるし、トンデモ中国史は倉山満によって、よりおぞましい物に進化を果たした。
そして現在、twitter、togetterには、それらトンデモを真に受けた馬鹿共が今日も元気に、それも大量に発言を投稿し続けている。
だが、忘れてはならない。
彼らを作り上げたのは、10年前のわれわれだ。中公文庫や講談社学術文庫の中国の歴史を読むこともせず、
あるいは、出版されている本を読み、自分が攻撃する相手が具体的にどんな主張をしているのか調べることもせず、
そのくせ、井沢元彦「逆説の日本史」や小林よしのり「戦争論」を読み、新たな知見に目覚めたとか大それた事を考え、検証の手間を惜しんで、自分のHPで全世界に発信してきた私たちだ。
入門書一冊読まないくせに、そのくせ上記の本を読んだだけで満足し、自分は知識欲旺盛な人間だとのぼせ上がり、そのうぬぼれをwebで全世界に公開した、厚顔無恥な私たちだ。
私たちの馬鹿を信じた結果、今の、肥溜めのようなweb界隈がある。それを作ったのは、間違いなく、私たちだ。
かつて、ネットは誰でもメディアと呼ばれた。その文句のとおり、私たちは多くの情報を発信した。
だが、振り返ってみて、10年前の私たちは、後世に胸を張れるような情報を発信してきただろうか。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者、エズラ・ヴォーゲル。
彼は日本の高い経済成長の基盤になったのは、学習意欲と読書習慣であるとしている。
鵜呑みにするわけにはいかない。もちろんその他の要因は様々ある。
さてしかし、現在の日本で高い教育水準を用意するとよいかといえばそうではない。
世界と同一の価値観に染まった人々には一定以上は期待できない。
この文脈でもうわかったと思うが、世界を救うのはきみ達しかいない。
きみ達が、グローバルスタンダードを超えて、ジャパンスタンダードとなった時、
あんなん嘘だろと思う
そりゃ中高生とかなら知らんよ
エロ動画をみてシコッても現実にセックスをしたいとはおもわない
そんな人間にとって現実に自分の身に降りかかるセックスというイベントは恐怖である
20代童貞の初体験は間違いなく処女のそれより恐ろしいものだと言いたい
実際に剣を持って野生の肉食獣と戦うとなったら怖すぎてできない
みたいなもんだろうか
で、まあセックスっていうかマンコは手やオナホに比べると気持ちよくない
様々な工夫が凝らされたオナホや自由自在に調整できる右手にただの肉の穴が勝るはずがない
セックス(マンコ)の気持ちよさというのは精神的な部分に依存しているのだ
その精神的な部分が恐怖に塗りつぶされている童貞にとってセックスが気持ち良いものであるはずがない
俺は6年間の日常のオナニーも含め様々な試行錯誤の結果、かなり調子がいい時ならば膣内で射精できるようになったが
中折せずにセックスを終えれたことはない
まだ20代だというのにだ
コピペで「おい!そこの裸の女邪魔だ!アニメが見えねえだろ!」みたいなのがあった気がするが
現実の女に対する性欲なんてそんなもんになってる
性欲マックスに溜まってる状態で目の前に好きにできる絶世の美女とオナホがあったら間違いなくオナホをとるだろう
だからこそ「童貞は女に飢えていてセックスしたくてたまらなかった」みたいな表現、演出を見ると(その旺盛な性欲…もといセックス欲に対する嫉妬も含め)なんだか腹が立つのだ
http://anond.hatelabo.jp/20151001133903
いうまでもなく意識高く起業したのではないから、就職した初年度に会社からくる初めて見る諸々の給与明細など、送られてくるたびにまた税金があるのかとビクビクしたものだ。
時には貯金について日夜考えすぎて、頭がハゲて、病院嫌いにもかかわらず皮膚科に行き、やる気のない態度の悪い医者にハゲ薬をもらい、治したことも今となっては微笑ましい思い出だ。
もともと自分自身には才能があるとは思わない。だが、就職をしてかつ継続するにあたり
大切だと思ったことを記念に書いておきたい。
■■信念
なぜかというと、クライアントの要望やプロジェクトメンバーの意見など常に相対的で、移ろいやすいからだ。
クライアントAがXがいいといっても、クライアントBはYがいい、クライアントCはZがいいという。
それで重要なのが信念だ。これは唯一己のうちにある絶対的なものだ。
この信念を強くもって、自分の足下に大きな杭として打ち込んでおくのだ。
そうすれば異なる考え・ニーズを前にしてもぶれずに前に進んでいける。
杭をしっかり打ち込んでいないと、進むべきベクトルはぐるぐるまわりで、メンタルがもたないだろう。
あと、この杭がないと困難の中、事業を継続していくことが難しい。
トライアンドエラーを繰り返し、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあり、
正直「もう辞めたい」と100回以上思ったことがあるが、その度に信念に基づいてその言葉を打ち消してきた。
■■人脈
人脈は大切だ。当初人脈を作りにビジネス交流会にも行ったが、結論として分かったのは、これは悪くは無いが、絶対にいく必要のあるものでもないと分かった。
そうすれば磁石のように素晴らしい人格・知性を持った人たちと出会える。
では、どのようにすれば己がよい人脈となれるか?
自分に投資をすることだ。投資といってもなにも高額なお金を投資というのではない。
時間と教養について投資をするのだ。一番ROI効率が高いのは、読書だろう。
とにかく自分の専門分野と隣接する領域について読みあさること。
自分の場合は、就職をして平日は月曜から金曜まで仕事をして、夜はなにもない家に帰って、ずっと読書をしていた。
特に就職をすると起業家と異なり、助けてくれる上司はいるが大半は無能だ。
自分で問題を解決しないといけないので、問題の現状分析・解決法は膨大な読書量による
知識によっていくつか得られるのだ。
このように知識・問題解決能力が身についたら、それを出会うビジネスマンたちにGiveしよう。
とにかく与えること。そこから人脈の輪が広がる。
■■付き合う人
逆に得体の知れない人もかなりやってくることがある。
いったいどのようなビジネスモデルで利益をあげているか、どのような収入で食べているのかよく分からない人。
後になって腑に落ちないそのビジネススキームを振り返ると、やっぱりあの人詐欺師だったんだと分かることもある。
得体の知れない人に出会った場合、その人を見る時、倫理観によって判定するのがよりよいと思う。
参考としては、ベンジャミンフランクリンの13の徳が役に立つだろう
節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲
得体の知れない人の話しを聞いて彼の人となりが、13徳から非常に乖離している場合、
さっさと距離をあけるべきだろう。
実際に私も起業をして、危ないことがいくつかあった。
それは、業界的に非常に有名人でかつメディアにも露出している人がいた。
その人が、私に一緒に日本・東南アジアでビジネスをしないか?と持ちかけてきた。
だが、彼の話をよく聞くと、現地の人を馬鹿にしたり、自分は仕事をしないで稼ぐ、といっていた。
私はこれを聞いて、この人は危ない人だとすぐに分かった。
それよりフランクリンの13徳の方が優れているのだ。そしてこれに照らし合わせて、やばい人と思い、私は彼と距離をあけた。
数年後彼は逮捕された。
自分の判断基準をもち、素晴らしい人と付き合っていきたいものだ。
■■己の人格
なぜかというと、仕事は所詮生身の人間同士によって成り立っているからだ。
そして、この人と一緒に仕事をしたいと思われないと、仕事の継続性がたち消えてしまう。
人は好きな人、好意を持てる人と仕事がしたいのだ。嫌なやつと仕事をしたい人はいないだろう。
メカニズムとしては、人は、大脳辺縁系でその人が好きか嫌いかを判断し、それを大脳新皮質で論理的に意味づけをするのだ。
これはよく知っておいた方がよい。
いくら論理的に正しいことをいっていても、嫌なやつ、人格的に破綻しているやつであれば、他者の大脳辺縁系は嫌いな奴と判断し、
それにともない大脳新皮質で論理的に適当に言葉を組み立ててあなたの意見をリジェクトするだろう。
理想は、崇高な人格をもち、深い知性・教養をもてることだろう。
もちろん私はこの域には達しておらず、死ぬまで目指していきたいと思っている。
以上、就職をして大切だと思ったことをつらつらと書いてみた。
結局のところ、私は運良く、素晴らしい人に恵まれ、多くの人に助けてもらった。
私は、どちらかというと綿密に事業計画書を書いて起業をしたというより情熱に動かされて起業をした。
いうまでもなく緻密に計画を立てて起業をしたのではないから、起業した初年度に役所からくる初めて見る諸々の納付書など、送られてくるたびにまた支払いがあるのかとビクビクしたものだ。
時にはキャッシュフローについて日夜考えすぎて、頭がハゲて、病院嫌いにもかかわらず皮膚科に行き、やる気のない態度の悪い医者にハゲ薬をもらい、治したことも今となっては微笑ましい思い出だ。
もともと自分自身には才能があるとは思わない。だが、起業をしてかつ継続するにあたり
大切だと思ったことを記念に書いておきたい。
■■信念
なぜかというと、クライアントの要望やプロジェクトメンバーの意見など常に相対的で、移ろいやすいからだ。
クライアントAがXがいいといっても、クライアントBはYがいい、クライアントCはZがいいという。
それで重要なのが信念だ。これは唯一己のうちにある絶対的なものだ。
この信念を強くもって、自分の足下に大きな杭として打ち込んでおくのだ。
そうすれば異なる考え・ニーズを前にしてもぶれずに前に進んでいける。
杭をしっかり打ち込んでいないと、進むべきベクトルはぐるぐるまわりで、メンタルがもたないだろう。
あと、この杭がないと困難の中、事業を継続していくことが難しい。
トライアンドエラーを繰り返し、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあり、
正直「もう辞めたい」と100回以上思ったことがあるが、その度に信念に基づいてその言葉を打ち消してきた。
■■人脈
人脈は大切だ。当初人脈を作りにビジネス交流会にも行ったが、結論として分かったのは、これは悪くは無いが、絶対にいく必要のあるものでもないと分かった。
そうすれば磁石のように素晴らしい人格・知性を持った人たちと出会える。
では、どのようにすれば己がよい人脈となれるか?
自分に投資をすることだ。投資といってもなにも高額なお金を投資というのではない。
時間と教養について投資をするのだ。一番ROI効率が高いのは、読書だろう。
とにかく自分の専門分野と隣接する領域について読みあさること。
自分の場合は、起業をして平日は月曜から土曜まで仕事をして、夜はなにもない家に帰って、ずっと読書をしていた。
特に起業をするとサラリーマンと異なり、助けてくれる上司はいないのだ。
自分で問題を解決しないといけないので、問題の現状分析・解決法は膨大な読書量による
知識によっていくつか得られるのだ。
このように知識・問題解決能力が身についたら、それを出会うビジネスマンたちにGiveしよう。
とにかく与えること。そこから人脈の輪が広がる。
■■付き合う人
サラリーマンの時とはことなり、起業をするといろいろな人に出会える反面、
逆に得体の知れない人もかなりやってくることがある。
いったいどのようなビジネスモデルで利益をあげているか、どのような収入で食べているのかよく分からない人。
後になって腑に落ちないそのビジネススキームを振り返ると、やっぱりあの人詐欺師だったんだと分かることもある。
得体の知れない人に出会った場合、その人を見る時、倫理観によって判定するのがよりよいと思う。
参考としては、ベンジャミンフランクリンの13の徳が役に立つだろう
節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲
得体の知れない人の話しを聞いて彼の人となりが、13徳から非常に乖離している場合、
さっさと距離をあけるべきだろう。
実際に私も起業をして、危ないことがいくつかあった。
それは、業界的に非常に有名人でかつメディアにも露出している人がいた。
その人が、私に一緒に日本・東南アジアでビジネスをしないか?と持ちかけてきた。
だが、彼の話をよく聞くと、現地の人を馬鹿にしたり、自分は仕事をしないで稼ぐ、といっていた。
私はこれを聞いて、この人は危ない人だとすぐに分かった。
それよりフランクリンの13徳の方が優れているのだ。そしてこれに照らし合わせて、やばい人と思い、私は彼と距離をあけた。
数年後彼は逮捕された。
自分の判断基準をもち、素晴らしい人と付き合っていきたいものだ。
■■己の人格
なぜかというと、仕事は所詮生身の人間同士によって成り立っているからだ。
そして、この人と一緒に仕事をしたいと思われないと、仕事の継続性がたち消えてしまう。
人は好きな人、好意を持てる人と仕事がしたいのだ。嫌なやつと仕事をしたい人はいないだろう。
メカニズムとしては、人は、大脳辺縁系でその人が好きか嫌いかを判断し、それを大脳新皮質で論理的に意味づけをするのだ。
これはよく知っておいた方がよい。
いくら論理的に正しいことをいっていても、嫌なやつ、人格的に破綻しているやつであれば、他者の大脳辺縁系は嫌いな奴と判断し、
それにともない大脳新皮質で論理的に適当に言葉を組み立ててあなたの意見をリジェクトするだろう。
理想は、崇高な人格をもち、深い知性・教養をもてることだろう。
もちろん私はこの域には達しておらず、死ぬまで目指していきたいと思っている。
以上、起業をして大切だと思ったことをつらつらと書いてみた。
結局のところ、私は運良く、素晴らしい人に恵まれ、多くの人に助けてもらった。
小学校の校舎とか、中学校と高校のときの友達とか、大学で留年しそうになる夢ばっかり見るのは、
実際30になった今でも大人になった感じしないし
結婚でもすれば変わるのかなあ
結婚してない40くらいの人見てると、明らかに幼いもんなあ
平日はほぼ毎日8時から20時くらいまで普通に働いて、土日も午前中は患者さんを見に行って、当直も月3回やって、税金取られる前ですら5万いかないんだぞ。
今日も、子どもに遊んでと泣かれながら当直のバイトに行くわけだ。
いや、別に高い給料が欲しいって言ってるわけじゃないんだよ。まぁくれるならもらうけど。
でもさすがにこれは違うだろうと。
世の中なんか間違ってるよね。
全国の優秀な高校生たち、悪い事は言わないから、安定と収入を求めて医学部に行くのはやめておきなさい。
安定や収入を求めるのであれば、優秀なあなたたちにはもっと別の道がある。
食べられないしお金にもならない”やりがい”という得体の知れないものを求めてやまないドMなあなたはどうぞwelcome。
苦しくも楽しい日々がきっとそこには待っているでしょう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4105393057
代替医療:主流派の医師の大半が受け入れていない治療法(この本の中での定義)。
ホメオパシー※1とか鍼とかハーブとかその他得体の知れない代替医療は数あれど、それらを冷静に論じた研究は意外に少ない。盲目的に信じ込むか、逆に根拠のないたわごとだから皆殺しにすべきとか、ヒステリックな物言いは割とあるのだけど。
この本では、医薬品では実際に行われている二重盲検法を同様に用いて、代替医療各々は効果があるのか、何にどれくらいの効果があるのかというところを冷静に検証している。第一章では、経験ではなく根拠に基づいて医学を発展させてきた歴史を大まかに説明している。二重盲検法について知っている人でも医学史として楽しめること請け合い。壊血病の対策をいち早く発見できたイギリスの躍進とか激アツ。
※1:ある物質が持つエネルギーを水に記憶させることで治療薬を作成する。溶液は百万分の一以上に薄められて有効成分の分子が含まれてないかもしれないけど、希釈されればされるほどエネルギーは増幅されるから大丈夫だよ(大丈夫じゃない)。材料は植物、鉱物、生物など様々。ベルリンの壁を材料にしたものもあるよ。
この本の中では、具体的なエピソードは読んで欲しいので省きますが、多くの代替医療は科学的な検証を経てプラセボと同等の効果しかないという結果が繰り返し提示されます。効果があるものも、検証する立場の人が中立じゃなかったり、認知的なバイアスによるものなんじゃないかという検証がなされます。一時的に悪い状態(風邪とか)が平均への回帰でほっといても治ったのを、代替医療を施したせいだと思ってもらう工夫とか。
作中でも、また世の中にも「プラセボでも効果があるのならそれでいいじゃないか」という意見がしばしば出されます。著者はこれに対し、以下のように反論していました。
・プラセボの効果を最大にするために、医師が意図的に患者を騙すことになる
=水平的な立場ではなくなり、患者の自己決定権を阻害する、不誠実な関係を築くことになる
・医師はプラセボ効果を守るために薬効の真実について口をつぐむことになり、医学の進歩がストップする。製薬企業も金のかかる新薬開発を投げ出して砂糖玉販売に終止するようになってしまう
・代替医療自体に害がなかったとしても、代替医療を選択することで主流派の医療を受ける機会損失となり危険
(予防接種を受けさせない親とか)
▼治験でもプラセボ効果が出やすい分野とかはあるそうです。軽度・中等度のうつとか。でも抗癌剤とかだと明らかにプラセボは駄目なことが多いっぽいので、そっち方面までプラセボでもいいんだの民に駆逐されるとやばそうな。▲
などなど。このあたりがヒステリックじゃなくエレガントに書いてあって感じが良かったです。
アメリカでは代替医療の一つであるホメオパシーが、昔から有力者に好きな人が多いとかでFDA(アメリカ食品医薬品局。医薬品の臨床試験とかする。つよいきびしい)の審査抜きでガバガバ売られてたり、イギリスではチャールズ皇太子が代替医療大好きでその効果の程を知らしめるための機関を作って研究者から批判されたりとか、日本とは違う実情があるみたいです。日本でもやってる人はやってるみたいですけど。
巻末には30種類くらいの代替医療の効果のほどが簡略にまとめてあるので、代替医療概論としてもおすすめ。
▼代替医療についてまとめて学ぶのが初めてだったので興味深かった。「多次元DNA手術はチャネリングのテクニックを用いて、DNAレベルで問題のある配列を取り除き、神のような完璧な配列で置き換える治療法です」とか最高にキてる。▲
呪術がその効力を発するには、以上の条件を満たさなくてはいけない。呪術それ単体で存在するのではなく、呪いにかかったと信じる人がいて、それが呪いにかかったからだと信じる社会があって、呪いをかけた人間がいて、はじめて呪術が成立する。呪いにかかったと思わなければ呪いは成立しない。
以前『医療人類学のレッスン』でも書いたんだけど、プラセボあるいは代替医療が効果を発する状況には、似たような構造があると思う。
代替医療を受ける人が居て、それが効果があるものだとする社会が存在して、そのコミュニティでは権威のある施術者が居て。施術者と患者の関係が非水平的(知ってる人と知らない人、授ける人と助けを乞う人)という構造も似ている。実際には何もないのに、なにかあるように見せかけることができるってほんとに魔法のようだと思う。呪術と代替医療とプラセボの類似性が私の中で熱いので、今後も追いかけていきたい。▲
厳密に言えば幽霊ではないのだけど、他の人には見えないものが見えていた。それを姉に相談したら、それはきっと霊感だよと言われた。だから、それを漠然と霊感だと信じていた。今で言えば共感覚と言われるものかもしれない。だが、そんな言葉も知らない幼少期は、自分には特別な能力が備わってしまったのだと思っていた。
ある程度の年齢を重ねてそんなバカバカしい物を信じているのはおかしいと考えるようになり、見えている自分を否定するようになった。見えていても見えていないふりをするようにしていたのだ。それを続けることによって見えていないと思い込むことは簡単だった。
だけどつい先日、それは再びわたしの前に現れたのだ。白昼の社内、人一人分の影が室内をウロウロとしていた。誰の影かはよく考えないとわからないが影の形やその動き方の特徴をよく見ていると、なんとなくそれが誰の影かがわかってくる。
今日のそれは部長のものだった。それに気づいて部長の机に目をやるが、部長はいつもの様に自分のデスクに座って書類に目を落としていた。
その2日後に部長は急な転勤になった。周囲の人間は入社して間もないわたしの前では一様に事情を話そうとしないが、どうやら会計に不正があったであろうことだけは分かった。
新人のわたしに誠実な態度で丁寧に仕事を教えてくれた人だっただけに、ショックは大きかった。
わたしの両親はわたしが物心がついた頃から自営で雀荘を営んでいた。幸いながら営業が順調だったこともあり母親も深夜まで働いていた。
わたしは小学校が終わると家ではなく両親のお店に直行した。そこでご飯を食べたし漫画も読んだ。暇になれば近くのゲーム屋さんや本屋さんに行っていた。眠くなれば片隅のソファで睡眠をとり、仕事が終わった母親に抱きかかえられながら家に帰った。放課後の大半はそこで過ごしていたのだ。
そんなある日、突然店の中を歩く人の影を見た。はじめは見間違いかと何度も見なおしたが、それは確かにそこにあった。その一部の空間だけが暗く、人の形に動いていたのだ。
それが誰かの影かどうかまで考えなかったが、その日の夜に信用していた従業員がお金を持ち逃げしたという話を、数日後に両親がしていているのを耳に挟んだ。
それからというもの、度々お店の中で人影を見るようになった。大半は誰の影かわからないままだがその影が現れると従業員が金を持ち逃げしたり、お客が金を借りたまま蒸発したりといったことが起こった。
そのことで親にも相談したことがあるが当然とり合ってもらえることはなかった。それどこか、子供が大人の事情に口を挟むんじゃないと強くたしなめられてしまい、それ以降は親に相談することもなかった。5つ年の離れた姉に相談したのはその頃だった。
中学に上がると時折学校でも影が見えることがあった。大抵はその日か数日後に長めのホームルームが開かれた。理由の大半は盗難だ。
クラスにはいじめも当然のようにあったために、このことを友達に話すことをしないまま高校に進んだ。
高校と言っても地元の公立校である。大半は見知った顔だった。その頃には毎日のように色々な影が見えたが、かと言って毎日学校で何かが起こるかというとそんなことはなかった。
そんな時、影の一つが見知った人のものだとわかってしまったことがあった。仲の良い友達の一人だった。本人に何かしら聞いてみようかと散々迷った挙句、気持ち悪るがられるのが嫌であきらめてしまった。
その友達は数日後に学校を退学した。万引というよりも窃盗に近い犯罪だった。
そのことがショックでわたしは影の存在を認めることが怖くなってしまった。友人と話すこともなんとなく避けるようになり、例え誰かと話をしていたとしても足元ばかりを見るようになっていた。当然のようにわたしの周りから人は離れていった。
不思議なことにそうすることで影を見る頻度が減っていくことがわかった。影そのものが減ったのかどうか疑わしく考えていた時に、教室内で音楽プレーヤーの盗難が発生した。沈黙が続くホームルームの中、わたしは一人で嬉しさを噛み殺していた。
それからも色々と試してみたが、どうやら普段から下を向いていればたまに顔を上げた程度では影がみえないことがわかった。くだらない事件は相変わらず周囲で発生していたが、影が見えなくなれば別に気に病むような事にはならなかった。
そうして非科学的なことを悩むこと自体がバカバカしいと思うようになり、とくに意識しなくても影なんてものは見えなくなっていった。そのうち、見えていたことが自分の思い込みだったのではないかと思うようになり、そうしてこの年までそんな話自体も忘れていたのだった。
部長の一件を含めて今になって考えてみれば、どうやら自分に備わっているのはその人の後ろ暗さを見抜く力のようだった。
幼少期から雀荘という特異な環境に身をおいていたことで、何の気なしに人の表情や行動、しぐさなどを見ている間に、その中から誰かから何かを奪おうとしている機微を見抜いていたのかもしれない。
人から何かを奪おうとする人間はそれだけ周囲に対する警戒心が強くなるということなのだろう。この歳になってオカルトな話をするようで恥ずかしいが、その相手から感じ取った漠然とした不安が影として見えていたのかもしれないということだ。
先日、社内の男性に食事に誘われた。部長が転勤になってからわたしの教育を買って出てくれた2つ年上の男性だった。こんなこともあって学生時代に満足に人付き合いもしたことのないわたしは、断る理由もなくなく誘いに乗ってしまった。
ところが、その日になってまた現れたのだ。事務所の室内を落ち着かない様子でウロウロとしている影である。しかも、最悪なことによく見ればその影は食事に誘ってくれた男性のものだった。
誘いを断ろうか寸前まで悩んだ。勤務時間内で何か事件でも起こってくれれば自然と食事もなくなってくれるだろうと淡い期待も抱いていた。しかし何事も無く終業時間を迎え、結局断るタイミングもないまま彼との食事に来てしまった。最悪自分の身の回りのものだけ肌身離さずにいればいい。食事が終われば用事があるなどと理由をつけてすぐにその場を後にすればいいのだ。
心なしか店に案内する彼からも得体のしれぬの緊張が伝わってくるかのようだった。
はじめのうちは仕事はどうか、人間関係は問題ないか、そんな当り障りのない会話をしながら食事を楽しんでいた。そうしてある程度お酒も進んできたところでふと顔を上げると、いまだかつて見たこともないような大きさの色濃い影が彼の後ろに迫っているのが見えた。
一瞬で酔いの覚めたわたしは身の回りの所持品に緊張を張り巡らせた。影の存在以前に、彼の表情が見るからに緊張していくのが分かった。
「こんな人の目がある中でまさか」
次に起こることが予測できない恐怖から逃げ出そうとした時だった。
次の行動を注意深く見つめるわたしに、突然彼は向き直って口を開いた。
「も、、、もしよければ、また食事に来ませんか?というか付き合ってください!」
しばらくの沈黙の後、やっと状況を理解したわたしは大声を出して笑い転げてしまった。
なんと融通の効かない能力なのだろう。彼が奪おうとしていたものはわたしの所持品ではなく、わたしそのものだったのだ。
そんな違いさえ判断できないなんて、なんて愛おしくもぶきっちょな能力なのだろう。
そんなわたしの気持ちなど知る由もなくあっけにとられている彼の手を握りながらわたしは答えた。
「こちらこそ。「こんなわたし」でよかったら。」
彼の表情が緊張から喜びに変わっていくと同時に、大きな影も姿を消していくのがわかった。