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2016-08-18

ネタバレあり)ゴジラ綾波レイである

って思いついた話。


アラサー腐女子です。

夏コミも無事に終了したため「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。

結論から言えば、最高。


父親の影響でそれなりにゴジラにも触れてきた幼少期。

ストーリーを暗記するほどに思い入れはなかったものの、

ゴジラ氏をはじめとする個性の見える怪獣達に親しみを持っていました。

(当時はモスラが可愛くて好きでした)

実家にある小美人ペンダントまだあるかな

(ついでにミニラよりはリトルゴジラ派でした)


更に同時期、我が家でフル稼働していたSSソフトゴジラ 列島震撼」をプレイしていたことにより、

私の中のゴジラ氏はすっかり愛着のあるキャラクターと化していました。

※「ゴジラ 列島震撼」…SS向けに1995年に発売されたRTSであり、自軍であるGフォース兵器を用いて都市部に現れる怪獣殲滅していくゲーム

ちなみに難易度が糞高い。基本、複数怪獣が出てくるステージ怪獣を同士討ちさせることに全力を注ぐプレイ必須


しかし今回の「シン・ゴジラ」、どうやら様相が違う。


世間では蒲田くんだなんだと呼ばれて人気の第二形態、あれ普通に恐ろしかたからね!

しかし早くも二次創作キャラクター化して落とし込まれる様に日本オタクのたくましさを垣間見ました)


恐竜とも水生生物もつかない見た目にエラから露出する赤い中身。

そんな得体のしれない生き物が血を流し、更に大きく進化していく。

最終形態を見たときには絶望しかありませんでした。勝ち目ないじゃん!私アイドル辞める!

今回のゴジラ氏は今までよりも身近な、より現実的な脅威として私達の前に立ちはだかったのです。


さておき、私エヴァも好きなんですね、腐女子的な要素を抜きにしてもすごく。

リアルタイムでは見ていなかったんですが、やはりそこは社会現象

深夜の再放送などで目にする機会が多く、旧劇場版区別のため、あえてこう表現します)の

絶望とも希望ともとれる無常観が強く印象に残っています

TV放送ときから新劇場版が上映される今の間にネットなどの情報網も発達し、

隠されていたメッセージや設定など、語り尽くされている感こそあります

それを置いてなお今も人々の心を捉えて離さな作品だと感じています

私自漫画を描く人間なんですが、エヴァカット割りや間のとり方などの作品に流れるリズム

今でも参考にしています



今回の「シン・ゴジラ」、ネットでも様々な方が仰っていますが、

シーン一つ一つの割り方やBGM、果てはヤシオリ作戦への流れ方など

エヴァノウハウを存分に活かした映画でしたね。

ちゃんとゴジラという枠組みなんですけど、庵野監督作品に落とし込まれている。

見方を変えれば公式の超金のかかった二次創作との解釈もできてしまうんですが、

多くの人を巻き込んだ一流のエンターテインメントであることは間違いありません。

日本映画の到達した「点」を目の当たりにできたことを幸せに思います


上映後に私が感じたのがタイトルにも記載しました、

ゴジラとは綾波レイなのではないか、という妄想、もとい仮説です。


綾波レイと言えばご存知エヴァンゲリオンヒロインであり、

無口で感情に乏しいという日本美少女界のテンプレートを不動のものにしたレジェンド

彼女は劇中で主人公シンジと触れ合うことで人間らしさを見せ、

かと思えば新旧劇場版では世界ヤバイ状態に落としこむお茶目さんです。


彼女は人の望むものに形を変えられる概念だと思うのです。

ミクロな部分で語ると旧劇場版の人がLCLへと変わっていく描写が有名でしょうか。

あの刹那彼女は、人類それぞれの一番想っている相手へと姿を変えました。

綾波レイというキャラクター自我がないように思えます

そのキャラクターシンジはじめ劇中の登場人物、そして庵野監督

果ては我々観客の望みによって変化し、確立されているように感じるのです。


そこが今回「シン・ゴジラ」を観て共通するかも、と思った点。

ゴジラは私が生まれる前から恐怖の象徴として、人類対峙するものとして、

あるいは正義ヒーローとして、そのかたちを様々に変え今も愛され続けています

その我々の望みを吸って息をする、ある種世相を反映するあり方に

私は綾波レイと同じ血が流れていると感じたのです。


彼(彼女)は何にだってなれるし、何だってできます

恐らく今回のゴジラ氏もそうで、あれはきっと我々が望んだ姿なのです。

そしてこれからゴジラ氏は我々の望みによってその姿を変えていく、

そういう生き物なのかなと。

あわよくば、これから作られるゴジラヱヴァ

どんな結末であっても受け止めるのはもちろんなんですが

望みを吸って育ったそこに少しでも希望がありますようにと

なかなか希望の持てない現代社会で揉まれ腐女子は思うんです。


考えが浮かんだときやばい天才だ!と思ったんですが文章にまとめるとそうでもありませんでした。

お付き合いいただきありがとうございます熱量を吐き出す場所がほしかったんです。



最後に、多大な熱量でこの作品を生み出してくれた庵野監督には本当に感謝です。

新作のヱヴァンゲリヲン、ご健在のうちに世に出していただければ嬉しいです。

今回の「シン・ゴジラ」が免罪符…というわけではありませんが

どれだけでも待たせていただきます

2016-08-15

生き残りたい

夏になると思い出す話があるので書く。

小学校中学年のとき平和教育の一環で、近所の戦争体験者のおばあさんの話を聞くという授業があった。暑い暑い体育館で、静まり返って話を聞いた。

その後、クラス全員でおばあさんにお礼と感想を兼ねた手紙を書いて送ったところ、おばあさんから返事があって、それを先生がしばらく教室後ろの黒板に貼り出していた。

おばあさんの手紙最後にはこう書いてあって、とにかく今も忘れられない。

「これから戦争核戦争なのでもう助かりません。戦争はこわいですね」

これを初めて読んだとき、なんて無責任ババアだと思った。

おばあさんはもう老い先短いかもしれないけど、私達にはこれからがある、戦争のなくし方も生き残り方も教えてくれなくてただ怖いですねで終わらせるなんて、無責任ババアだと。

そして私もアラサーになって、身の回りの親しい人間がいろんな理由でどんどん死んでいくようになった。

あの時感じた子供の頃の死への得体の知れない恐怖感も、死んでもいいと思う無鉄砲若さも失って、それを見てると今はとにかく死にたくないと思う。

病気になっても、地震が来ても、日本がまた戦争をしようがしまいが、核兵器火の海に曝されても、私は絶対死にたくない。

まあそんな論理が飛躍した話は置いといても、おばあさんの言うとおり戦争が怖いだけじゃどうにもならないから、なんとかしたいと思って省庁で働いてるけど、色んな個人的感情を持ってたら混乱するばかりでまだ何にもわからない。

ただ、私が何歳になっても、絶対絶対最期まで生き残りたい。私も、親しい人も、それ以外の人もあのおばあさんも全員生き残らせたい。この思いだけはどこかで持ってたい。

プレ・シン・ゴジラとしてのザ・ワールド・イズ・マイン

トシモンの出てこない「ザ・ワールド・イズ・マイン」という感想が一部にはあるけど、

言及されてる記事が少ない気がするのでちらっと書いておきます

パクリがどうとかではなくて、シンの「得体の知れない脅威に向き合う日本」「政治劇」など、

かなり構成要素と配列が似ているのでシンが好きな人は気に入るかもしないので読んで欲しいなと思ったしだい。

ヒグマドン(怪獣)」「トシモン(殺人鬼)」「日本(人類)」という対立軸で描かれているんだけど、

そこからトシモン」を抜くとほぼシン・ゴジラのスジになる。超おすすめ

ただし「ザ・ワールド・イズ・マイン」は絵柄がポップじゃないし、グロいので、万人受けはしないかも。

庵野監督も絶賛していた、という話もありますので、引用元の一つではあるのかもしれません。

2016-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20160801154849

遅くなりました。

指摘の件ですがゆうきまさみ漫画版です。お盆休み実家に戻って確認しました。

17話「グリフォン<その1>」(私の持ってるワイド版だと8巻p.145およびp.149)

後藤「今まで『黒いレイバー』と呼んできたあいつの件だが……本日、本庁より通達があり奴の故障が決定した。本日よりあの黒いレイバーを『グリフォン』と呼称する。グリフォンだ」

(中略)

太田「けっ!奴の名前がわかったところでそれが何になるってんだ!登録商標をあたれば製造元がわかるって物でもないだろう。なあ山崎

山崎「あ、はあ、そうですね」

熊耳ひとつだけ効能があるわ。黒いレイバー存在感心理的実体化したこと。あれは得体の知れない妖怪なんかじゃなくて、グリフォンという名前を持ったレイバーだってことよ」

2016-08-03

[]松原利光「リクドウ」

それなりにおもしろ

高橋ツトムアフタヌーンで連載してるブラックボックスっていうボクシング漫画と、テーマとか主人公の設定とかちょっとダブった

でもこっちはちょっとあしたのジョーっぽいところもあるな

六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるもの輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。

ふーん

爽やかスポーツボクシングマンガではなく、エロスアンドばいおれんすって感じだから、万人にはおすすめできない感じかなあ

いまんところどのキャラにも感情移入しづらい

主人公空っぽに見えて得体のしれなさがあって、多分この主人公が負けても読者はなんとも思わないんじゃないかなって感じがするくらい

2016-07-31

http://anond.hatelabo.jp/20160730145353

まぁコドモは放っておいて、三十路独男人生について語ろうではないか

かいことはよく知らんが、まぁあんたの人生は辛くて苦いものらしい

でも何も考えずにただ幸せに過ごすような、薄っぺらくて甘いだけの人生が、本当に羨ましいと思うかい

辛くて苦くて寂しくて、でも他人より深く複雑で味わい深い、そんな生き方あなたの好みなのではないのかい

そんな生き方なら、時々たまらなく寂しくなることだって、あってあたりまえだ。

一つアドバイスするとしたら、自分がたまらなく弱くなったとき

増田なんて得体のしれないものに頼ろうなんて思わないことだ

孤独だって自分一人で噛みしめれば、味わいも出てくるもの

2016-07-26

なぜ書いていたのか

以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

そしてブログ文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。



その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベート人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。

特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。

自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。


ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログ文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。

社会対峙するつもりでブログ文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。

当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境社会糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。


あのときブログ文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。

あるいはブログ文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義行為であるかのようにすら感じていた。

それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。


当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境社会にあるのだ、と決めつけていた。

そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。


今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。

社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。

そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実自分身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものから乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。

現実自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。

そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。

そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。

一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。


当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。

どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。


けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。

どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。



いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。


から、あぁそうだ、自分たまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。



たまたま欲求が満たされたから、母に対するギャン泣きを止めただけで、決して自分の足で歩き始めたわけではない。


いま腹いっぱいのうちに、母がいなくても大丈夫なようにひとり立ち出来るようにすることが、今の自分がするべきことだ。

2016-07-25

もっとポケモンにハマっておけばよかった

当方34歳男のゲーマーだ。

初代のポケモンが出たとき高校生だった。ポケモンが発売され、高校教室休み時間中にポケモンプレイする連中がいたが、周りの目は「高校生にもなって馬鹿みたい」というようなものだったと思う。そういうのを馬鹿にしていたイケてる連中は、ポケベルPHSを使って友人とコミュニケーションを取り、授業中は机の下でミニテトリンをして遊んでいた。かくいう僕も、赤と緑の2本展開という初の試みから醸し出すビジネス臭に嫌悪感を抱いていた。そもそも月々数千円の小遣い、自由に使えるお金が非常に限られている中、僕はPlayStationに移行しようとする業界の流れに乗るため、必死で購入資金を工面するのがやっとで、携帯ゲームまでは手が回らなかった。電池代も馬鹿にならないし、画面の質も悪かった。今思うに、当時はまだ携帯ゲームハードルは高かったように思う。またモンスターを育ててバトルするというコンセプトは自分の好みに合わず、結局ポケモンスルーしてしまった。

その後、数々新作がリリースされるも、新作ごとに追加され、ますます手を出しづらく得体のしれない存在になるポケモンについて行けず、ますますシリーズに触れる機会を失っていった。スマブラに登場したりもしているので、何匹か名前は知っている程度のにわかだったが、特段気にもしていなかった。

そしてこの騒ぎである。コンセプトはとても興味深く、心から楽しみたいのに、心から楽しめない。どのキャラにもそれほど思い入れがないのだ。ゲームは好きだし、触れる機会はたくさんあったのに、スルーし続けていた。いろんなキャラを知っているようで、でもあまり知らない。やっぱりシリーズ通してプレイしている人や直撃世代熱狂にはかなわない。自分の好きだったゲームモンスターが街中で出現なんて、そのすごさが想像できるだけに、にわか自分がもどかしくて仕方が無い。こんなにすごいゲームが登場して社会現象になるくらいなら、もしそれを知っていたなら。もっとハマっておけばよかった。この複雑な心境、他で例えるなら、年下の近所の幼なじみアイドルとして芸能界デビュー、じっくり芸歴を重ねて日本代表する女優、そしてハリウッド進出し、もっとから仲良くしておけばよかった的な感じだろうか。

http://mogmog.hateblo.jp/entry/2016/07/25/021253

この記事とか、本当にうらやましく思う。自分がもう少し下の年代だったら、もし発売当時小学生だったらハマっていただろうか。もし発売当時大学生で、お金と友人という環境がそろっていたらプレイしていただろうか。そしてポケモンGO熱狂していただろうか。「ゲームアニメ漫画時間をかけるなんて人生無駄」なんて主張は間違っている。そのファン層が大きければ大きいほど、ファンとつながるきっかけになる。時間投資する価値は十分ある。街中で友達どうして楽しむ、自分よりも年齢の若い人たちがあふれている中を横目で見るたび、わき上がる妙なむなしさ、そしてひねくれた自分にいらだつのだった。

2016-07-24

以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

そしてブログ文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。



その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベート人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。

特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。

自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。


ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログ文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。

社会対峙するつもりでブログ文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。

当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境社会糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。


あのときブログ文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。

あるいはブログ文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義行為であるかのようにすら感じていた。

それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。


当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境社会にあるのだ、と決めつけていた。

そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。


今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。

社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。

そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実自分身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものから乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。

現実自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。

そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。

そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。

一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。


当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。

どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。


けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。

どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。



いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。


から、あぁそうだ、自分たまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。



たまたま欲求が満たされたから、母に対するギャン泣きを止めただけで、決して自分の足で歩き始めたわけではない。


いま腹いっぱいのうちに、母がいなくても大丈夫なようにひとり立ち出来るようにすることが、今の自分がするべきことだ。

文章を書く

文章を書く。特に書く事は決まっていない。


以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。

当時は慣れない土地一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。

ドロドロしたもの葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。

今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。

その後生活の拠点を移し、人間関係でも新しい要素が加わったりして、ブログを書くことは無くなった。

早い話がプライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、ブログを書きたいと思うことが無くなった。

2016-07-15

[]

今回はやわらかスピリッツ

柚子森さん その②

1話アラームを鳴らされそうなほど警戒されていたのに、2話で手を繋ぐというのは展開早すぎじゃあないだろうか。

時系列的にも、そこまで信頼関係築けている期間じゃあないよなあ?

幼女との掛け合いを描いたWEBコミックとして、他にはとなジャンの「ひゃくにちかん!!」があって、こちらは年上の学生側が男性幼女側が園児な分、「危うさ」を描くことにだいぶ注意を払っている印象(それをネタにすることも含めて)。

ただ、同性なこともあってか「柚子森さん」はそういう「危うさ」をむしろ前面に出しているコンセプトっぽいね

コンセプトが違うから一概にどちらが優れているとはいえないけれど、私としては1話と2話の構成を見る限りでは、あんまり上手いとはいえないかなあ。

でんぱ受信中!! 第13話

今回はでんぱ組MVの話。

読者がファンじゃなくても、作者のでんぱ組に対する愛を、その人なりの目線で追体験できるというのがこの漫画面白さだと思うけれど、今回はピンとこなかったかなあ。

でんぱ組MVを観たことある前提の話といった感じでノリきれなかった。

今回のを読んで、興味本位MV観てみたいかというと、私は微妙

ZZZのZ ~ねむりちゃんとおやすみ~ 第5話

5話まできて、私がこの漫画のコンセプトを誤解していることに気づいた。

メインキャラ二人を中心に、様々な状況や手段を用いて眠るっていう漫画なのね。

そこが主体で他はもう全部、ネタとして受け取ってくださいってことなのか。

深稲が授業中ほぼ眠っているのになぜ学年テスト1位なのかとか大した理由がないのね。

安眠方法漫画を通じて楽しく紹介するコメディーだというのなら、絶対もっとベター方法があった。

そよ子が深稲に興味を持ったきっかけとなる設定だからいくらコメディーだからってそこをウヤムヤにしたまま話数重ねられてもモヤモヤしたままなんだが。

しかも今回なんか、いよいよ生徒と先生まで授業中の安眠に巻き込んでんのに、深稲の言動が是のように描かれている世界観は不可解だ。

こういうコメディーだからって主役のやることは無条件で許される、みたいなの好きじゃない。

恐らく、主役の人格作りや物語運びが上手くないからだと思うけれども。

世界は優しさで溢れている。 特別編③

こういう友達間での、意味不明な取り決めってあるよね。

青猫について 第4話

現実的に考えたら女子が刀一本で大人の男をそんなバッサバッサと斬れますかいなといつも思う。

まあ、人が無残に死にまくる世界観漫画ってことは一話の時点で分かっているので野暮は承知だが。

さて、本編はいわゆるライバルキャラと、縁のある人物登場って感じだろうか。

数話後には普通に死んでてもおかしくなそうだから何とも言えないが。

青猫の振る舞いは殺し合いの目線で見れば非論理的で非合理なんだけれども、それが青猫の得体の知れなさと強さに遠因しているという表現はよろしいかと。

頭に刀ザックリは「おおっ!?」と思ったが、すぐに演出だと分かって「な~んだ」と思っている自分がいるあたり、私もこの漫画に毒されつつあるな。

お酒夫婦になってから 第47話

最近読んだ「セトウツミ傑作選」のエピソードで似たようなセリフがあったから、「僕しか見てないよ。」っていうのがギャグしか見えなくて困る。

スイカジュースとか飲んだことあるんだけれども、「お前ってやっぱり野菜なんやなあ」って気持ちにさせられる味なんだよね(有り体に言えば不味いってことなんだけれども)。

なので、スイカカクテルは私の中で正直微妙な印象。

それにしても、今回は水着回のせいなのか、心なしか嫁さんが扇情的だな。

そういえば、前この作者が描いていたのにも、軽くお色気要素あったんだよなあ。

当時は絵が荒かったかあんまり気が高まらなかったんだけれども、今は割といいかもしれない。

2016-07-14

断言しよう、チャットボットブームは去るし関連ビジネスも失敗するよ

会社名を明かせないが、業界大手ベンチャーキャピタル所属している。

主な出資先は所謂ドルレイターと呼ばれる「成長、拡大期」のベンチャーである

私自身も一回事業立ち上げ、売却した経験を持つ。

さて、そんな私も最近起業前、もしくは新規事業を立ち上げようとしている方にアドバイスをすることが多い。

そしてその中でもここ1ヶ月は会う人の3割がチャットボット系のサービスアイデアを語るのである

「やめたほうが良い」と毎回アドバイスするのだが、毎回伝える3つの点についてここに記したい。

願わくばこの記事が広まり、浅はかな「対話サービス未来」を考えているベンチャーが断念し、より可能性の高いビジネスに切り替えて欲しい。

そしてこの記事を受けても尚、私の予測を上回り成功するチャットボットサービスが出てきてほしいとも思う。

前置きが長くなったが、以下3点がチャットボットが失敗する理由である

1. ユーザーの利用シーンが無い

一番の理由がこれだ。

ここで注意したいのが、 クライアント ではなく ユーザーである点だ。

よくあるチャットボット簡単ECサイトに導入できますサービスを事例に出してみよう。

彼らはこういった切口で法人クライアントに売り込む。

「今まで大変だった顧客対応チャットボット代替できます。」

チャットボット商品アピールをすることで売上が上がります。」

確かに正論に聞こえるし、無料キャンペーンや優先登録などに興味を示すクライアントは多いだろう。

プレスリリースを出せばクライアントの問い合わせは殺到するだろう。

しかし、その先のユーザーのことを考えているだろうか?

ユーザー商品についてわからないことがあった際に、いきなり得体の知れない自動応答システムに話しかけるだろうか?

そもそも埋込み型の顧客問い合わせサービス(zopimやolarkなど)について、ユーザーの利用率が5%未満に過ぎない事例が多いことを知っているだろうか?

私もこれらの問い合わせサービスに関わったことがあるが、日本人性質としてチャットボットにいきなり話しかけるしかも想定された問答を想定通りの言い回しで)例は少ない。

ユーザーが使わなければクライアントも離れる。

無料期間でクライアント数は増えるだろう。

また、少ない額であれば導入する事例も増えるだろう。

しかし、ユーザーチャットボットを使うシーンは少ないだろうし、結果として売上にもコストダウンにも繋がらないケースがほとんどだろう。

厳しい言い方をすると、話を聞くチャットボット関連サービスは現状、ユーザーのことを考えず提供者側の視点しかない マスターベーショナリサービス」

なのである

2. そもそも自然言語処理の精度はそこまで高くない

自然言語処理簡単説明すると、コンピュータが会話を理解し適切な回答を返す処理」である

この技術は現状、正直言ってそこまで高いレベルに達していない。

言い換えるならばユーザー期待値提供できる技術レベルの均衡が取れていない。それどころかユーザーの求める自然対話レベルにはほど遠く失望させるものなのである

よく非技術者創業者流行ものが大好きなコンサルが「Deep Learningの登場で自然言語処理の精度が高まり自然対話を実現できる」とドヤ顔で語るのだが、これは大きな勘違いだ。

画像認識については、「文脈」などその対象以外の外部要因が発生することは少ない。

その為、その特徴量を見出しやすDeep Learningを使用することで精度をかなり高めることが可能である

しかし、「対象のもの」以外にも文脈や発する人間パーソナリティなど様々な外部要因が発生する対話において、特徴量見出しづらい。

特に日本語主語が省略される、漢字の読み方で大きく意味が異なる、「空気」を重視する等のハイコンテクスト文化であり、自然言語処理は難しい。

その為にDeep Learningが自然言語処理を圧倒的に成長させ、機械であることを感じさせない自然な応答」可能にさせることはほぼ不可能なのである

そんな精度をユーザーが求めていないのでは?と思うのは提供者側のエゴだ。

自然対話自分の想定していない回答が続くようであればユーザーサービスから離れてしまうだろう。

3. 対話である必要性が無い

飲食店などの予約がチャットボットでできる」系サービスも良く聞く。

彼らには必ず「それってチャットボットである必要性ってあるんでしたっけ?」質問するのだが、納得のいく回答を得られたことは無い。

対話のほうがかっこ良い、対話でできたら未来っぽい、アメリカ流行っているから、実際にそんな浅はかな考えで通用するほどビジネスは甘くない。

対話によりニーズを深掘りできる」等もよく聞くが、2で挙げた通りそんなに自然言語処理の精度は高くなく、深掘りする以前に離脱してしまうだろう。

「なぜ対話なのか」

「なぜ対話でなくてはいけないのか」

「なぜ対話サービスが従来型のリストサービスを上回るのか」

これらの質問に自信を持って答えられるだろうか。

それができない限りはビジネスは成立しない。

今すぐチャットボット事業を畳み、↑の質問に答えられる別の何かの可能性を考えたほうが良い。


以上である

チャットボットブームは、クライアントが導入した後に「ユーザーに全く使われない」と気づきその悪評が広まる、あと半年寿命といったところだろう。

そんなチャットボットだが、現状で可能性があるとしたらチャネルの1つ」として使う程度だろう。

LineFacebookメッセンジャー組み込み、「既に展開しているサービス広報役割として活用する」、「メディア記事配信させる」役割であれば優秀なツールとなるだろう。

繰り返しとなるが最後にもう一度。

願わくばこの記事が広まり、浅はかな「対話サービス未来」を断念し、より可能性の高いビジネスに切り替えて欲しい。

そしてこの記事を受けても尚、私の予測を上回り成功するチャットボットサービスが出てきてほしいとも思う。


追記


一部コメントについて返信させていただきます

BtoBでの事例

そんなステマ記事をよく反例として書けますね...

導入事例のステマ記事メディアクライアントと内容は詰めている)はこの半年で沢山出てくると思いますが、実際の導入でコストが下がった、売上に繋がったという話は決して多く出ないだろう(むしろネガティブな話ばかりだろう)と私は予測します。

>「二次元アイドルとの会話」みたいな路線なら弾けるとこあると思うよ

これは私もそう思います。ただそのサービスだけでのマネタイズは難しく、記載した通り「チャネルの1つ」としての活用だと思います


>いま成功している企業に対して、過去の時点で成長すると断言できたのかな?

私の担当案件は同僚と比べてROIが高いほうだと自負していますが、それでも100%ではありません。

当然予期できていないものもありますが、ここで挙げた3つの課題クリアできない、もしくは突破できる切口が見つからない限り難しいだろうと考えています

また同時にそのようなサービスが生まれて欲しいという期待もしています

本名で書けばいいのに、VCなら。

君なら知っていると思いますが、VCといってもサラリーマンです。

君みたいなネットタレントでも私は承認欲求が強いわけでもないので、実名で注目されることでのメリットが無いのです。

>概ね合っているとは思うがこの人自然言語処理理解してなさそうだ

私のもともとのバックグラウンドエンジニアで、セキュリティソフト迷惑メールフィルタリングシステムを開発していました。

自然言語処理業務で取り扱ってきましたが、どういった点が自然言語処理理解が足りなそうか教えていただけますか?

まり冗長にならないように書いたのですが、不足している箇所があれば修正したいのでご教示いただければ幸いです。

>1.多くのユーザーは凸る前にカタログやQ&A等を見るでしょ普通ボットはその中間でしょ。2.検索性の悪いQ&Aよりはマシな可能性は? 3.何故に二者択一よ。

カタログやQ&A等を見るでしょ」

これがなぜ対話になるのですか?なぜチャットである必要があるのですか?いきなり不明点を話しかけると思いますか?

検索性の悪いQ&Aよりはマシな可能性は?」

検索性の悪いQ&Aよりはマシレベルのものビジネスとして成立すると思いますか?

チャットボットはゆらぎも含めた大量のインプットデータ必要です。

そのメンテナンス費用考慮すると検索性の悪いQ&Aを直せと言いたいですね。

「3.何故に二者択一よ」

対話システムとしてビジネスをするのであらば、対話である必要があるのか、なぜ対話なのかといった観点必要になると思いますいかがでしょうか?

なかなかご理解していただけないようなので、この質問をさせていただきます

あなたユーザーとしてチャットボット質問しますか?まだ使ったこと無い場合質問ができそうでしょうか?」


>まずもって中身のサービスが素晴らしく、それをチャットUI(また、それが載っているプラットフォーム)をもってレバレッジかけるような感じ

私もこれは完全に同意です。

既存製品の新たなチャネルとして、そのUIがフィットするのであれば良いかなと思っています

ただ、チャットボットですという売り方では難しいと考えています

(実際チャットボットでこれから生きていくみたいなビジネス相談が多いのです。)

>ナゼに増田にとは思うが、社員ならしゃーないとも。

理解いただきありがとうございます立場上、実名発言が難しいのですが、この「チャットボットで俺は生きていく」層が多くそれに警鐘を鳴らしたい、鳴らさなければいけないと感じ増田に書きました。


LOHACOチャットボット人件費削減に成功

ネットメディアの導入事例系はマーケティング的な要素が強く、またあの記事人件費削減の根拠曖昧です。

サービス広報としては優秀だったと思いますが。


ユーザー側が求めてるサービスの質次第なんじゃないかな。未成熟技術分野だからこそ、提供者側が工夫すれば良いだけ。

工夫というのは同意です。

ただ現状、完全自由対話インタフェースを用意すると、ユーザー期待値サービスが超えることは無いと考えています

ある程度選択肢を絞らせる、スタンプを使うなど「工夫」がなければ難しいでしょう。

またその工夫でもこのインタフェースだけでビジネスとして成り立つかというと...我々は慎重に考えています

複数人が入っている部屋での稼動があると思うんだ。

アイデア面白いと思います

趣味Slack上で司会進行的に喋るBotを仲間内で開発しましたが、これは非常に面白かったです。

ただ、やはりビジネスとなり例えば1,000社が有料で導入するレベルのものかというと...

成功しそうなの教えて

そうですね、ポジティブな話もしないとですね。

個人的にはBIツール可能性がまだまだあると考えています

からあるものですが、どうもインタフェース特殊で事例が中小企業規模まで降りてこない。

Google Analyticsの焼き直しや、他の埋込み型トラッキングサービスも伸びています

コンシューマ向けだと、所謂CtoCにはまだ可能性があると思っています

炎上しましたが、個人の写真売買など「今までプロ提供してたけど素人でも提供できる、かつ流通量が多いもの」に可能性はあると思います


更に追記

うご覧になる方はほとんどいないと思いますが、最後の追記です。

予想以上の反響をいただいて驚いています

活用方法や実際の導入の声など、参考になるコメントもたくさんいただけて私自身も勉強になりました。

はてなの方から他のシリーズもやってくれとコメントを頂いたので、IoTやVRなど他のトレンドについての課題も今後「増田で」挙げていこうと思います

これらの意見をいただいても尚、ビジネス化をしていくには難しいだろうと私は考えています

それほど、私が挙げた3つの課題クリアしかビジネスとして回していくことは難しいからです。

そして、同時に未来はどうなるかわからんぞ」といった意見には賛同します。

Webアプリも「こんなもの流行るわけがない」という世論があった中で、ここまでの発展を遂げています

「若くチャレンジしようとする芽を潰すな」という意見もありましたが、そもそもこの意見を聞いて諦めるような起業家ではその先にある苦難に立ち向かえないでしょう。

もともと「チャットボットが新たなインタフェースになるんだ」と確信し強い気持ちを持っている起業家は、こんな意見を聞いても全く諦めようとはしません。

私も実際、起業前の方に「止めておいたほうが良い」と伝えたことは何回もありましたが、それでも彼らは起業サービスローンチしています

私自身もそうでした。みんなに反対される中、当時全く広まっていなかった人工知能系のベンチャーを立ち上げました。

勝手ながら彼らの信念がいつの日か実り、少しでも世の中に良い影響を与えられる存在になってほしいと思っています

VC的にはIPOか売却というゴールを期待してしまます(笑)

私が本当に警鐘を鳴らしたかったのは、どちらかというと「チャットボットが万能だ」、「チャットボットで何でもできるようになる」と伝えるメディアコンサルの方です。

口々にチャットボットだと言って誰にも使われないサービススタートアップを量産しようとしている話を聞くと心が痛みます

過度な期待をしたくなるのはわかりますが、私が挙げた3つの課題はどうしても避けては通れません。

起業家の方々が「周囲の過度な期待」に流されず、これらの課題から目を逸らさず、新しいインタフェース開拓してくださることを期待しています

上から目線のようですみません。ただ立場抜きにして1ユーザーサービス享受する1人の人間としても期待しています

最後

過激表現などを使ってしま申し訳ありませんでした。

多くの方にご覧いただきたいということもあり、こういった表現使用してしまいました。

特にけんすう氏にも良くない表現を使ってしまいました。申し訳ありませんでした。

ここにお詫びいたします。

2016-06-24

http://anond.hatelabo.jp/20160624162827

俺のまわりだとそんな得体の知れないしきたりなんか無いよ

2016-06-19

全てのRubyエンジニアはだいたい糞である

汎用系のエンジニアからRubyエンジニアとして転職して1年。

コボラー(笑)なんて言われることも多いが、この1年で出会ったRubyエンジニアは全て糞だった。

その特徴はだいたいこの3つだ。

1.テストを甘く見ている

やれテスト自動化だ、やれテスト駆動開発だの口だけ達者なエンジニアの多いこと。

そもそもブラックボックステストホワイトボックステストを分かっていない奴が多すぎ。

テストコードカバレージが100%だったとしても実際の打鍵結果でエラーは弾けることが多いのにリリースしてしまう。

そもそもテストケース表を若いうちに書く習慣が無いからだ。

ドキュメント揶揄し机上デバッグも行わない、こんな状態で「アジャイルですから」とかドヤ顔でいってしまRubyエンジニアは糞である

2.パフォーマンスを考えない

Rubyエンジニアパフォーマンスを考えない。

どのメソッドがどれくらいの負荷なのか意識せず実装を行う。

便利だから、ただそれだけの理由なのである

そもそも自分が行おうとしているソートが何ソートなのか知っているのか?計算回数を考慮した上での実装か?

便利なメソッドがたくさんあるのは知っている。

ただ、中身くらいは知っておこうよ。

eachで回してばかりだから複雑なループ対応もできない。

新人に教えたらバカにされたけど、まずフローチャート書くようにしようぜ。

3.外部ライブラリに対する絶対的根拠の無い信頼

Gemに対する絶対的な信頼感、あれなんなの?

Githubで公開されてましたんで導入しました」じゃねーよ。

結局他のGemバッティングしているじゃねーか。

得体の知れないコードをたくさん詰め込んだプログラムをよく動かせるな。

そんで都合の悪いところだけコードを読んでオーバーライドする。

影響範囲を全く調査せず、Gem絶対神話を唱える。あれなんなの?



いや、Rubyが便利なのは認めるよ。俺だってPLIとかCOBOLより書いてて楽しいよ。

インデント合わなくてコンパイルエラーとかないしな。

でもあまりにもRubyエンジニア糞すぎだろ。

エンジニアもどき量産言語だね。どれか1つでも当てはまった奴は小学校からやり直せ。

日本の将来が心配だわ。


追記

意見がたくさんもらえて喜ばしい。

文化の違いという意見もあったが、「よくわからないけどなんかうまくいく」コードだとデバッグも大変だし不具合も起きやすい。

それで納品するのはプロとしておかしい。

主語が大きい

「だいたい」とあるだろう。全てのだいたいだ。

フローチャート

ロジックを整理するツールとしては優秀。

精神論に聞こえるかもしれないが、フローチャート書いて育ったエンジニアは頭の中でロジックの組み立てと凡その演算回数が計算できるようになるよ。

カバレージが100%だったとしても実際の打鍵結果でエラーは弾ける

あー、ここは誤タイピングだわ。

自動テストカバレージ100%です、そして画面数回触ってリリースしますーっていう奴が多いってこった。

単体だけじゃなく画面使ったテストもケース表書いて網羅性を担保しないとダメだろ。

もちろん慣れて頭に入ってくれば勘所がわかるんだが、そんな属人的ものよりもケース表書くのが無難だろう。

2016-06-07

徹子の部屋

先日、久しぶりに六本木ヒルズに行った。訳も無く行った。意味も無く行った。そう、私は鬱病からである鬱病の俺にはミッションが無い。ただ、この得体のしれぬ病を治し職場復帰する事が現状の課題ではあるが、自身のありとあらゆる妄想復職への道を拒むのである。まあそれはさておき、主題に戻ろう。そう、昨日六本木ヒルズにあるテレビ朝日に立ち寄った。そこではドラえもんやらクレヨンしんちゃんやらミュージックステーションやら、TV朝日の人気番組の展示ブースが並んでいた。俺は鬱病なりにおとなしくそれらを眺め、又、来場している輩も眺めていた。時は16:00頃だったと記憶している。東京都知事釈明会見オンエアーされていて、暫くブースモニターで観覧した後その奥へ足を運んだ。するとそこには「徹子の部屋」があるではないかMSタモリとの扱いとも別格。誰が見てもあの「徹子の部屋である。そして何やらそのブース入り口に赤いボタンがある。俺は(鬱病から)何の抵抗も無くその赤いボタンを、クイズ番組回答者の様にこぶし内側で叩いてみた。すると"トゥールッル トゥルル トゥールッル トゥルル トゥルル トゥールールルール‐ルットゥー "とあのメロディーが流れてくるではないか!!徹子の部屋ブース等身大黒柳徹子と思われる人形腰かけている。そしてあのBGM。俺はこの演出萌えた。辺りを見回すと20代2人組の女の子が俺の奇妙な行動に微笑んでいた。(俺と同じ事をしたくても、恥ずかしくてやれなかったのだ)そんな周囲の二人のリアクションを見て、俺の鬱加減も急速に冷めてその奥にあるドラえもんのび太ブースに足は向かうのだが、やはり「徹子の部屋」は写メし、離婚した嫁と子供送信すべきと思い、舞い戻った。すると先程微笑んでいた20代2人組の女の子が、なんと私をアイキャッチしてくるではないか!俺はESPではないが瞬時に彼女たちの気持ちは察し得た。「徹子の部屋写メ撮ってくれませんか?でしょう?」彼女たちは小さく頷いた。そして俺は「OK!大丈夫よ。実は俺も交換条件として、俺のスマホで同条件で撮って貰いたいのさ!(←俺は独り)」見も知らずの彼女たちは頷いた。そして俺は、照れくさそうな彼女たちを、赤いボタン(BGMが流れるやつ)を数回押しながら、あたか徹子の部屋ゲストであるかのように演出し、カメラアングルは正面・背面、そして徹子目線で撮ってあげた。「上手く撮れているかからないけれど、色んなアングルで撮ったから、使えるもの使って」そう言うと二人は「ありがとうございます!」と言ってくれた。そして何より俺はこんな鬱病の俺が誰かしらの人生にほんの少しでも関われたのが嬉しかった。

恐らくそれが「徹子の部屋」何だろうと思う。

2016-05-24

将棋電脳戦について

いろいろにぎやかですね。

わたしは「人間が作り上げてしまった得体の知れない巨大なナニカに人類が力を結集させて挑む」という構図の戦いが見てみたいと思いました。具体的には、

人工知能vs棋士のチーム(門下別や、段位別、すべての棋士が好ましい)

時間制限は長め(数日から数週間)対局中は一定区域から出られない。食事持ち込み。検討自由

人工知能側は時間的制限を短くすることでなハンデとする。

棋士性格的にも矜持的にも実現しそうにはないでしょうけどね。

それぐらいの力量の差を感じる対局でした。それはそれでいいとして、勝つ可能性のある勝負にするとしたら、これぐらいはやってもいいのではないかと。どうせ将棋のようなゲームなんですし。

おすし

2016-05-06

実家で感じる不安

たまに長期休暇で実家に帰ってくると得体の知れない不安感に襲われる。

どうせみんないつか死ぬんだ、という気持ちでいっぱいになる。

不安で眠れなくなる。

みんなはどうしてそんなに実家でくつろげるのだろうか。実家のような安心感とは、なんなのか。

2016-05-05

人工知能って

人工知能に関して技術者研究者が自慢げにさも明るい未来があるように語っているけど、

核兵器の当時の開発者たちも同じような顔をしていたんじゃないだろうか。

核兵器ならばまだ物理現象として第3者がチェックすることはできるかもしれないが、

人工知能得体が知れず取り返しのつかないことになりはしまいか。

2016-05-02

上手に休みたい

GWはいえ今年は基本暦通りで、一日休日出勤があって2連休→3連休→2連休という構成になった。

どこかに泊まりで出かけるとか帰省するとかしようと思っても、5日ぐらい休み連続していないと、

移動や行った先の環境に慣れるのに時間がかかって結局疲労の方が多くなってダメージけが残ったりするので、今年はちょっと微妙な感じになってしまった。

そこで、家に居ながらにしてうまいこと気分転換して休息を取りたいのだが、なかなかい方法が思いつかない。

明日からの3連休が実質今年のGWのメインなんだけど、今のところやりたいこととしては、

とりあえず部屋がゴチャついてて居るだけで心がクサクサするレベルになってきたので掃除をするのと、

壊れっぱなしの自転車の修理をしたいのと、重曹使って掃除とかすげー見かけるけどやったことなから試してみたいなあとか、そんな程度のことしか思いついていない。

3連休初日のはずが休日出勤要請で潰された日の夜に、やってられっかバーローって気分で飲みに行った先で、

よく知らないけど顔は見たことあるなーみたいな常連のおじさんと喋ってたら、話の流れでそのまま2軒目3軒目と一緒にハシゴして得体のしれないバーで目を回しながら3時まで飲んでた結果、

翌日二日酔いで朝から吐いたり泥のように寝たりして、その流れのまま家の中でぐったりしてたらあっという間に土日を潰してしまったので危機感を募らせている。

部屋を開け放って風を通しながら掃除してるだけでもちょっとした非日常感はあるけど、うーん。

なんかい方法ないかね、やっぱ場が変わると気分が変わるから、無理やりにでもどこかに出かけてみる方がいいのかなー?

でも人多いのダメだしなー。うーん。

2016-04-28

windows絶対に7から10アップグレードしたくない理由

はてなブックマーカーには妙に多い気がする。

なんとなく気になったので理由を考えてみた。

他に何かある?

2016-04-14

互助会の人はきっと"はてブ"誤解してる

きっと"はてブ"の用途を誤解されているのでしょう。名前のせいで誤解されているのでしょう。"はてなブログ"に関連した用途しか使えないと誤解されているのでしょう。

"はてブ"とは"はてなブックマーク"の略称なんです。"はてなブログ"とは関係ない全然別のサービスでなのです。

"はてなブログ"も略せば"はてブ"になりそうなのでややこしいですね。区別するため"はてなブログ"は"はてブロ"と略されます

さて、"はてなブックマーク"ですが実はこのサービス…"はてなブログ"、ひいては"はてな"が提供するサービス以外のサイトインターネット上に公開されている全てのサイト登録コメントできちゃうんです!(ΩΩΩ<ナ、ナンダッテー

Yahooサイトも、新聞社ニュースサイトも、海外サイトも、個人のブログも、twittertweetも、どっかのアップローダ得体のしれないファイルも、ブラウザで見れるものは何でもブックマークしてコメントが付けられちゃうサービスなんです。

あなたが気になったサイト、ひとこと言いたいニュース、そうじゃないよをツッコミを入れたいブログ、どんどんブクマしましょう。

それが"はてブ"の醍醐味なのですから

2016-04-13

中学同窓会に招待された。

前回は成人式の年だったからもう10年以上昔のことだ。

苦い思い出だ。

当時の私は極度にネガティブになっていた。

ネガティブ思考にも波があったから双極性のような症状だったのだろう。

招待状には参加の返信をしたものの、当日になってドタキャンしてしまったのだ。

ドタキャンどころか、より正確を期するなら、すっぽかした、のほうが近いだろう。

得体の知れない緊張感や恐怖感に苛まれて、会場へ向かうことができなかったのだ。

当時の私は大学生だった。

現役合格はできたものの、第1志望は落第していた。

地元の、3流どころか5流くらいの大学だった。

今ならFランクとでも言うのだろうか。

スポーツ関係でそれなりに名前が通ってはいたが、学力の面ではどうということもないところだった。

実家から通えてラッキー、などと嘯いてはいものの、正直なところ、内心では大学受験に失敗したと思っていたのだと思う。

同窓会へ行って旧友に合わせる顔が無いと思ってしまったのだと思う。

あの頃憧れていたあの子に合わせる顔が無いと思ってしまったのだと思う。

取り繕うべき体面など無かったくせに、生半可な見栄を守りたかったのだと思う。

まさしく、臆病な自尊心尊大羞恥心権化だったのだろう。

結局私は会場へ行けないまま、時間けが過ぎていた。

その後、同窓会の招待状が届くことはなかった。

開催自体されていなかったのか、私だけ招待されていなかったのか、知る由もない。

そして今年は、招待状が届いた。

現在

就職氷河期ではあったもの縁故を頼って潜り込んだ中程度の会社で、大して昇進もできずにぼんくら中間管理職である

結婚はしていない。

臆病な自尊心尊大羞恥心も、未だ変わらずに胸の中を渦巻いている。

さて、私は同窓会へ出席することができるのだろうか。

2016-04-06

http://anond.hatelabo.jp/20160405102052

身近にいない女がAV出演経験あると「かっこいい」と思うらしい。

しかし身近な女がAV出てると知ると得体の知れないものへの畏怖から排除したがるらしい。

風俗は哀れみや軽蔑の的

2016-03-22

考えることをやめたい

考えることに疲れてしまった。

人の言葉些細なニュアンスや、SNSでの発言、全てがいつも自分に向けられている気がしてしまう。

誰かが「嫌われる勇気を持とう」とSNS投稿すれば、

「あぁこの人は自分から離れようとしているんだ」と落ち込む。

その想像は、親友恋人自分に近しい人に対するほどひどくなる。

特に恋人には、

隠そうと努力はしても、最後にはその得体の知れない不安をぶちまけてしまうため、

面倒くさがられて、そしてまた自分自分が嫌になる。

そうして何もかも自分と、しかマイナス方向に結びつけるから

はいつもパンパンで、嫌われる、嫌われると怯えている。

先日同僚からもっと他人に興味を持ちなよ」と指摘された。

ある先輩の変化に、私だけ気付けていなかったのだ。

ハッとした。

人の言葉を過剰に受け止め、考え、想像を巡らしているのに

結局私は他人に興味が持てていないみたいだ。

私が興味があるのは、他人が吐く悪意はなくても悪意がありそうな言葉だけみたいだ。

めちゃくちゃ生きづらい。

なぜマイナス方向に考えることだけ、人一倍できてしまうんだろう。

私は人の言葉に傷つきたくないのに。

傷つく想像なんてしなければいいのに。

心当たりはある。

学生時代いじめだろう。

でももうとうの昔に乗り越えたと思っていたのに。

なんで大人になってからこんなに苦しまなきゃいけないんだ。

もう何も考えたくない

どうやったらこ過剰反応を止められるんだろう

考えることをやめたいなあと毎日思う

2016-03-14

スナッフビデオを見て思ったこと

怖いもの見たさにネットでスナッフビデオを見た。

有名なウクライナの奴とこれの模倣犯だというロシアアカデミーなんとかというやつを見た。

自分はこういうものには耐性がある方だと思っていたが、それでもさすがに胸糞悪くなった。

じゃあ何で胸糞悪くなったのだろう?

フィクションはセーフだがなぜ現実だと駄目なんだろう。

攻撃されている対象関係あるのだろうか。

上記2つは中年男性中年女性だったが、例え対象が赤子だろうが青年だろうが極悪人だろうが、胸糞悪さは変わらなさそう。

攻撃手段問題なのだろうか。

上記2つは殴打やナイフがメインの攻撃手段だった。でも、例えば酔っぱらいが同じことをしていたら胸糞悪さは緩和されそう。

結局、明確な悪意があったり集団快楽的に暴行を加えているという要素が胸糞悪さにつながるようだ。

例えば、YouTubeでよくある、酔っぱらいが殴り合いをしている動画みたいに酔っ払いが同じようなことをしていたら、あまり胸糞悪さを感じなさそう。

フィクションではなく現実にこういう人間っているんだ・・・」という事例に遭遇した時に覚える気持ち悪さや嫌悪感があるけど、

スナッフビデオに感じる胸糞悪さも、そういう「得体のしれない恐怖が身近にはある」ということを自覚した時に生じる感情の延長線上なのだと思った。



あと、ついでだけど、調べたら増田ウクライナのやつが有名になる前のわりと初期に映像を見た人の反応があったのでメモ代わりに載せとく。(ちょっとグロいかも)

さすがに頭がクラクラした

あの事件の詳細情報を発見したので

ドニプロペトロウシクの狂人達 ウクライナを震撼させた21人連続殺人事

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