はてなキーワード: 1950年とは
贈与税は生前贈与による相続税回避の為に、1950年の相続税法と共に創設されたそうだ。ならば贈与税は相続税と同じ税率が設定されればよいのに、なぜ贈与税の方が高いのだろうか。理由を調べたがわからなかった。親から子孫への資産の譲渡は親の死を以て行うべしという価値観が税制から想起されるが、それはおかしいのではないか。以下の会話例で、親から子孫への資産の譲渡は死を待たずに生前に行った方がよいことを示す。
老人「わしは今まで株式会社の大株主をやっていたが、もう年だからわしの子供であるお前に株式を贈与しようと思う。大株主として経営に口出しをすることはなかったが、法令遵守・社会貢献・従業員の福利厚生に関してはしっかり監視してきた。お前が株主になっても引き続き会社を監視してくれ」
子供「わかった。でも、いきなり全株式をもらって大株主になるのは負担が大きいから、株式の贈与は段階的にしてくれ」
老人「そのつもりだ。次の株主総会でお前に株式を贈与することを伝えるからな」
子供「ああ。俺はまだ会社のことがよくわかってないから、俺が株式をもらってからも助言や相談を頼む」
老人「いいだろう。もし、お前が株主に相応しくないと判断したら贈与を打ち切って、株式は取締役に売却するなどして処分するからな」
この会話のように、年老いた大株主が子供と対話を重ねて株式を贈与したら、会社の取締役や従業員は安心だろう。しかし、贈与税による負担を避けるためには、親の死によって相続しなければならない。親が存命中の頃は、子供は親から相続を受ける為に耳障りの良いことを言うだろう。しかし、親が死に全株式を相続した途端に、子供の態度が豹変するかもしれない。子供が過度な株主利益を経営者に要求したり、取締役を好き勝手に選任・解任したり、株式を悪徳企業に売却するかもしれない。こうなっては、会社の取締役や従業員はたまったものではない。
上記の例では説明を簡素にするために相続財産は株式で被相続人は子供一人としたが、不動産などの財産があったり被相続人が複数人であったりしても、資産相続で争議が起こりえることは言うまでもないだろう。こうした争議を避けるために子孫への資産の譲渡は円滑になされるべきなので、贈与税は相続税より低くすべきだ。資産を円滑に子孫へと譲渡できなかったペナルティとして、相続税は高くてもよいだろう。
日本一の回数で上位の三球団(巨人・西武/西鉄・ソフトバンク/ダイエー/南海)の色を濃くして区別している。
開催年 | リーグ | セパの勝敗 | 優勝チーム | 優勝チームの勝敗 |
---|---|---|---|---|
2005年 | パ | 105勝104敗 | ロッテ | 24勝11敗 |
2006年 | パ | 108勝107敗 | ロッテ | 23勝13敗 |
2007年 | パ | 74勝66敗 | 日本ハム | 18勝5敗 |
2008年 | パ | 73勝71敗 | ソフトバンク | 15勝9敗 |
2009年 | セ | 70勝67敗 | ソフトバンク | 18勝5敗 |
2010年 | パ | 81勝59敗 | オリックス | 16勝8敗 |
2011年 | パ | 78勝57敗 | ソフトバンク | 18勝4敗 |
2012年 | パ | 67勝66敗 | 巨人 | 17勝7敗 |
2013年 | パ | 80勝60敗 | ソフトバンク | 15勝8敗 |
2014年 | パ | 71勝70敗 | 巨人 | 16勝8敗 |
2015年 | パ | 61勝44敗 | ソフトバンク | 12勝6敗 |
2016年 | パ | 60勝47敗 | ソフトバンク | 13勝4敗 |
2017年 | パ | 56勝51敗 | ソフトバンク | 12勝6敗 |
2018年 | パ | 59勝48敗 | ヤクルト | 12勝6敗 |
2019年 | パ | 58勝46敗 | ソフトバンク | 11勝5敗 |
続く。
結局のところ団塊の時代は出生率が高かったんだから、その時代の制度に戻せばいいんじゃないかな。
"1948年(昭和23年)までは、一部の例外(強姦・姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊・中絶・不妊手術などの行為は、刑法で堕胎罪となり禁止されていた。1948年(昭和23年)に優生保護法によって限定的に容認して、さらに翌年の1949年(昭和24年)に同法は改正されて、「経済的な理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり、1950年(昭和25年)以降は出生率が低下していった。さらに戦後、結核など伝染病の予防法・治療法が確立されたことで青少年期における死亡リスクが低下し多産の必要性がなくなったことも、1950年代以降に出生率が低下した要因の一つであった。団塊の世代の母親までは、産婆による出産が主流であったが、昭和30年代には産婦人科医療による出産が主流となった[8]。"
ということは、
1, 産婦人科での避妊・中絶・不妊手術を堕胎罪として、刑法で禁ずる。あるいはなんらかの処罰規定を設ける。
2. 産婆による出産を復活させる。より具体的には、助産師のみでの出産介助を前提とした産科診療とする。産婦人科医師への負担軽減にもつながる。
でいいんじゃないの?
ある時、テレビで映画「フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能なフォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公のフォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。
あぁ、わかるよ。とにかく愛されないんだ「俺たち」は。
ちなみに、製作者はフォレスト・ガンプをどう思っていたんだろうな。結論から言うと、彼らはガンプを愛したが、知的障害者は愛していなかった。監督のロバート・ゼメキスはDVDの副音声でこう言ってる。
監督が求めたのは、自分の意思がなく、状況をただただ受けいれるだけの純粋無垢なキャラクターだった。90年代の映画にしてはちょいと古くさい知的障害者像だ。
じゃあさ、「フォレスト・ガンプの時代に現実の知的障害者たちはどうだったの?」っつー疑問が浮かぶわな。そこで調べたんだが、1950年~1990年のアメリカは知的障害者にとっても激動の時代だったことがわかった。
劇中、フォレスト・ガンプ少年はIQの低さから公立小学校への入学を拒否されかけたのだが、ママが校長にファックを決めたおかげで難を逃れた。
愛する息子を守るため、裏技に手を出すのも当然だ。当時、知的障害者は施設にぶち込むのが当たり前だった。そして、施設はひどいなんてもんじゃなかった。
1965年にウィローブロック州立学校という知的障害児の施設がリークされた。
潜入リポーターが残した記録によると、4000人しか収容できないにもかかわらず、6000人にものぼる障害児が押し込められ、服を着ていない人や、ほとんど介助されず放置状態の人など、人間が生活する環境とはとても思えない状況だった。
とにもかくにも、この時代に知的障害であると判定をされたら終わり。その先に人間の尊厳はない。
1950年代には知的障害者の親たちが施設への批判を始めたという動きもあったらしいので、ガンプのママが知っていても全然おかしくない。
ちなみに、映画では校長から特別支援学校への入学をすすめられ、ママが「そんなところでタイヤの修理方法を勉強させません」なんて言い返している。
個人的には、史実に基づいたやり取りなのかという点でちょっと疑ってる。
というのも、当時の特別支援学校には簡単には入れなかったらしいからだ。教育を受けられる障害者は全体の5人に1人程度。軽度だからほいほいと入れるのだろうか。
それに、修理工の授業なんてあったのだろうか。卒業後、施設にぶち込まれるのであればそんなもの必要ないわけで。ここは有識者のコメントを求む。
血の日曜日事件のアラバマ州が舞台でありながら公民権運動をスルーしたことで、白人礼賛の保守映画と認定されがちな本作であるが、1960年代は黒人だけでなく障害者にとっても革命的な時代だった。
1963年には脱施設化の転機である「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が発表され、
1972年には、Wyatt vs. Stickneyの訴訟で、軽度の知的障害のある人たちは入所施設に収容されるべきではないという判決が出された。
公民権運動だって知的障害者に大きな影響を与えた。アメリカの障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体といえば「ADAPT」だ。(まあ、身体障害者向けの権利団体なんだが)
設立者のウェイド・ブランクはガンプのお膝元アラバマ州で公民権運動にかかわっており、その運動のノリでADAPTを設立したってわけだ。
個人的には、ガンプがキング牧師に会わなかったことより、ウェイド・ブランクにスカウトされてないほうが疑問なわけだ。
アメリカ全体が脱施設化に向けて動きはじめたのはいいが、「じゃあどうやって地域で暮らすの」というのが目下の問題だった。
ガンプは走りたいから走っていたが、現実の知的障害者たちはそういうわけにはいかない。
結局デモなりなんなりで、「地域で暮らしていいよね!」、「俺たちにだって権利があるよね!」と市民の了解を得るしかない。
というわけで長い年月がかかったわけだが、1990年に「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」という決定的な法律が成立した。障害による差別を禁止する公民権法だ。ダン中尉、政府のおっぱいは限界です的な裏事情はあるものの、いよいよ連邦政府が障害者の権利を認めたのだ。
「マイレフト・フット」、「レナードの朝」、「ギルバート・グレイプ」、「フィラデルフィア」。
90年代ハリウッドでは障害を肯定的に捉える映画がたくさん作られた。フォレスト・ガンプもこの延長線上にあることは間違いない。
革命的なのは2000年代のファレリー兄弟だろうな。いよいよ障害者ご本人が登場しちゃうんだもん。
さて、冒頭のロバート・ゼメキスの話に戻る。彼は障害を肯定的に捉える映画の企画が通りやすい状況を苦々しく思っていたのかもな。
「だって俺、興味ねーし」っていう。
結局ADA法に逆行するような、意思のない愛されキャラのフォレスト・ガンプが作られたし、世間もそれに乗った。
まあ、素の「俺たち」は苦々しく思われているわけだ。
「知的障害者」だって苦々しく思われてる、それは同じだ。それでも権利を主張してきたし、いくつかは勝ち取ってきた。
今じゃグループホームなんかで暮らしながら、地域生活をエンジョイしてる知的障害者もいる。
日本の話だけど、この前バリバラに地域で子育てしてる知的障害者の夫婦が出てたぜ。ハロー・1950年代、これが2019年だ。
だから、俺は無能な「フォレスト・ガンプ」をやめて、こいつらを参考にすることにした。権利があるんだって言いつづけてやるさ。
当然のように、俺たちにはその権利があるんだ。
1900年を1年目と内的処理していた場合、年数が2桁から3桁になる。また、年号を下2桁だけで処理していたシステムの一部で年のエントリで99をエラーコードや例外値として扱っている物があったとされ、そのようなシステムでは1999年になった途端に正当な1999年とエラーとを識別できず不具合をおこすことが懸念された。又、9が5つ並ぶ1999年9月9日にエラーが発生することも懸念された。
GPSは内部処理で週数を10ビットで管理しており、起点である1980年1月6日から1024週後にあふれて0に戻る。
年数を下2桁だけで処理していたシステムや、2000年を平年(閏年ではない)と誤解したシステムに問題が起こる。
1970年1月1日0時からの秒数が十進法で9桁から10桁になる。経過秒数を文字列表現に直してソートしたことで、「1,000,000,000 < 999,999,999」と判断してしまい、項目の新旧が正しく処理されない問題が実際に幾つかのシステムで発生した。
2000年以降も年数を下2桁だけで処理していたシステムで、かつ年を文字列で格納していた場合に、先頭が0の場合には八進数として扱われる処理系があり、その場合2008年の時点で年の処理が不正となる場合がある。ごく一部のperlで作成されたネットゲームで誤作動が発生した事例がある。
潜在的なバグが発覚した。シチズン電波時計やソニーのゲーム機「プレイステーション3」(閏年処理)、オーストラリアのクイーンズランド銀行でのシステム誤動作、ドイツジェムアルト社のICカード使用不能など。シチズンのケースでは、年の内部表現に西暦下2桁のBCDを使っていた。
GPSは内部処理で週数を10ビットで管理しており、起点である1980年1月6日から2048週後にあふれて0に戻る。(10ビットでは2回目)
1930年 - 2029年を下2桁で表現しているシステムに問題が起こる。同様のものに2050年問題や2070年問題などがある。
1900年1月1日0時からの秒数が32ビットからあふれ、NTPに問題が起こる。
Unixなど。1970年1月1日0時(Unix epoch)からの秒数が31ビットからあふれ、32ビット符号付きで処理しているシステムに問題が起こる。
GPSは内部処理で週数を10ビットで管理しており、起点である1980年1月6日から3072週後にあふれて0に戻る。(10ビットでは3回目)
HFSのタイムスタンプは2040年2月6日までしか取り扱えない。
System zのSTCK命令で取得する64ビットのTODクロックは2042年9月17日中にオーバーフローする。
2038年問題の1980年起点版。FATファイルシステムのタイムスタンプなどが1980年起点である。
1950年 - 2049年を下2桁で表現しているシステムに問題が起こる。同様のものに2030年問題や2070年問題などがある。
1970年 - 2069年を下2桁で表現しているシステムに問題が起こる。同様のものに2030年問題や2050年問題などがある。
FATファイルシステムのタイムスタンプの起点の1980年1月1日を基点として、年数を下2桁だけで処理するソフトウェアなどは、その起点の99年後(2079年12月31日)までしか正常動作しない。
2000年以降に作られた年数を2桁で表すシステムや、2100年を閏年と誤解したシステムに問題が起こる。
FATファイルシステムのタイムスタンプは2107年12月31日までしか取り扱えない。
更新されたGPSは内部処理で週数を13ビットで管理しており、この頃にあふれて0に戻る(正確な日時は未定)。
2286年問題-2286年11月20日17時46分40秒に起こる。原因は、2001年問題と同じ。
Visual C++において、3000年1月1日以降の日付処理に不具合が生じる。
エレベーターのほうが千年以上先輩らしいけどエレベーターはいつからエレベーターと呼ばれていたのだろうか?
エスカレーターの呼称のほうは最初期、こんなふうにブレていて面白い。
「リボルビング・ステアズ(revolving stairs)」 ネイサン・エイムズ 1959年 ※特許だけ。動かない。
「ステアウェイ(stairway)」 レモン・ソウダー 1889年
「エンドレス・コンベア(Endless Conveyor)」 ジェシー・W・リノ 1892年
「インクラインド・エレベーター(inclined elevator)」 ジェシー・W・リノ 1896年 ※初めての動作するエスカレーター
チャールズ・シーバーガーが1900年「エスカレーター(escalator)」 の商標を使って製品を販売し始める。
経済の奇跡(Wirtschaftswunder) - 第二次世界大戦後から1970年代にかけての西ドイツ、オーストリアの経済成長
栄光の30年間(Trente Glorieuses) -第二次世界大戦後から1973年までのフランスの経済成長
メキシコの奇跡(Mexican miracle) - 1940年代から1970年代にかけてのメキシコの経済成長
ギリシャの奇跡(Greek economic miracle) - 1950年から1973年にかけてのギリシャの経済成長
イタリアの奇跡 - 1950年代後半から1960年代にかけてのイタリアの経済成長
スペインの奇跡(Spanish miracle) - 1959年から1973年にかけてのスペインの経済成長
台湾の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての台湾の経済成長
漢江の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての韓国の経済成長
1970年代前半に、仙台市内の中華料理店「まんみ」にて賄い料理として提供したのが始まり。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E7%84%BC%E3%81%9D%E3%81%B0
発案者が思いついたのが10年前と言っていたので、
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11156573366
ただし他にも元祖を名乗る店がある。
14〜15年前ですかね。パンって、夏は本当に売れないんですよ。暑いからみんなソーメンを食べたり、おやつもスイカになったりしてね。なんとか夏に売れるパンができないかなぁと思って開発したのが、塩分補給もできる塩パンだったんです
//tabi-labo.com/287605/painmaison-yawatahama
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A2
ただし他にも元祖を名乗る店がある。
【第22巻・第213話】いま話題のおにぎらずはクッキングパパが発祥!
//cookpad.com/recipe/2831394
第22巻は1991年発売。
ご存知のとおり発祥には諸説ある。
落合「僕が帰って来たのが1981年で、前のお店を開けさせていただいたのが1982年ですから。
(中略)
1982年に魚のカルパッチョを作ったとは語られていないが、近い時期であることが示唆されている。
古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。
日本人はいつから牛の生肉や生レバーを食べるようになったのか。
焼き肉などの食文化に詳しい滋賀県立大の鄭大聲(チョン・デ・ソン)名誉教授は「戦後、在日韓国・朝鮮人が家庭で食べていたものを焼き肉店で出すようになり広まったのではないか」という。
//sankei.jp.msn.com/life/news/120428/trd12042822020023-n1.htm
「つけめん」が定着するきっかけとなったのは2000年頃からのことです。つけめんの考案者である東池袋大勝軒の店主 山岸 一雄氏のお弟子さん達が独立し始め、大勝軒系列の店が増えたこと、大勝軒の常連客から人気店になった「べんてん(高田)」、「道頓堀(成増)」といったお店が繁盛したこと、そして川越にある「頑者」が「自家製極太麺×魚粉×濃厚つけだれ」という新しいジャンルのつけめんを生み出したことが影響し大きなエポックとなりました。
//web.archive.org/web/20130622095039///www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html
プロジェクトが始まったのは86年。当初の計画では、輸出の要はカペリン(カラフトシシャモ)だった。しかし、その前年、時の漁業相らが日本を視察して方針が変わった。日本には生のサーモンを食べる文化がない。江戸前寿司にもない生サーモンの握り寿司を考案し、試食会を重ねた。
日本のイタリア料理史の中で、最大のブームとなったのは「ティラミス」と言って間違いありません。80年代半ばから評判を呼び、90年に雑誌「Hanako」で特集が組まれるや、人気は最高潮に達します。
日本の輸入量は1970年代までは微々たるものだったが、1970年代後半から増え、1980年には479トン、1990年2163トン、2000年14070トン、2005年は28150トンと急増している。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%89
1908年(明治41年)、魚の油漬け加工に必要なオリーブ・オイルの自給をはかるため、農商務省がアメリカ合衆国から導入した苗木を三重県、鹿児島県と香川県に試験的に植えた。香川県の小豆島に植えたオリーブだけが順調に育ち、大正時代の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB
//www.amazon.co.jp/dp/4478039674
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%84%E3%82%BF
単なる竜田揚げとして見れば×。
1952年(昭和28年)に創業した国立市の一橋大学そばの「三幸」が、のびたラーメンをヒントに昭和30年代前半頃から酒の肴として提供を開始したとする説や、同じく昭和30年代に武蔵野市境の亜細亜大学そばの「珍々亭」が中国の拌麺をヒントに油そばを発売したという2説が存在している。
新規企業の太洋醸造が当時自由販売化していたイモとホップを使用したイモ・ビールの試験醸造を申請して認可され、1950年(昭和25年)から新発売され、日本の市販発泡酒第1号となった
垣島在住の夫婦(夫は中国・陝西省西安出身の辺銀暁峰、妻は東京都出身の愛理)が、具材を食べるタイプのラー油を開発し、2000年(平成12年)、石垣島にて開催されたイベントで販売したのが始まりである(ただし、具の入ったラー油そのものは中国にて古くから存在している)。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B2%B9
バブル崩壊もそうだが、ただ単なる一現象が20年も効果あるなんてことありません。
リーマンショックも、ほんの3-4年で日本以外の国は完全に回復しました。
むしろ、高所得税、高法人税をバックにした日本改造計画のほうが効果がデカかった。まあ、理論的バックはケインズの方になるんだがな。
だから、朝鮮特需だけで1980年までの繁栄が築けたというのは誤りだ。ケインズ政策から新自由主義政策への転換が日本衰退の原因。
新自由主義は、自由にしたらいい。それだけで、金の量、金の循環はガン無視だ。
金の量だけやっと最近対策するようになったが、金の循環は、実際金の動きを止める富裕層、企業の懐に手をつけないとならないから見ないふりをする。
でも団塊の年少組(1950年前後)とか、浪人、留年、就職浪人組は就職シーズンにかかってた者もいたはず
さらに、すでに就職していても、就職して3年目あたりで当時としては未曾有の経済混乱と大インフレに直面だ
生活用品が買えんだの、下手すっと原材料の高騰に耐えられなくて会社が潰れただのという話も少なくはなかったはず
現代に生きてる俺らは、長期的視野でみればこの混乱期は数年で、1980年代にはバブルが来たと知ってる
でも1970年代当時に20代だった人間には、そんな未来は知らないから、本気でお先真っ暗と思った奴は結構いたはず
*
さらに少し先の話をすると、1980年代になってもしばらくは「低成長時代」だの「円高不況」だの「日米貿易摩擦」だの、さんざん暗いことが言われてた
バブル時代で世に貧困はなくなったと誰もが思うようになったのはだいたい1988年ごろかあな
*
あと石油ショック以外に、公害、米ソ冷戦核戦争の恐怖、凶悪犯罪などなどで1960年代は暗かったという傍証はウソだという反論はないの?
1945~1950年生まれの団塊世代が、冷戦に直面したのは物心ついてすぐ
昭和30年代にはさんざん「今すぐ米ソ核戦争!」みたいに騒がれてた
当時の超有名作品だから観てない子供でも内容は大まかには知ってたろう
このころはしょっちゅう地上や離島で核実験やってたから死の灰も降ってた
公害が問題視されるようになったのは1960年代後半(水俣病工場廃液説が公認されたのは1964年)
*
オイルショック(1973年)に直面した時期に団塊世代は20代前半
下手すっと就職の時期にちょうどぶち当たってる
連合赤貧だの中核革マル内ゲバだの陰惨な事件が相次いだのも団塊が20代前半の時期
「それでも未来があった」とか言うんだろうけど、団塊が20代の1970年代には
『日本沈没』や『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーになって終末論が流行
「環境汚染や核戦争で人類の将来はヤバイヤバイ」てな言説もさんざん広まった
*
いっけん関係ないかも知れないけど、団塊世代が10代の1960年代には
幼児が誘拐されて殺されてすごく騒ぎになった「吉展ちゃん事件」(1963年)とか
女子高生が殺されて冤罪疑惑が根強い「狭山事件」(1963年)
在日韓国人が差別にブチ切れて起こしたといわれる金嬉老事件(1968年)
などなどが起きてる
団塊が若かった頃「ひたすら明るくハッピー、暗い世相はいっさい無し」とかウソです
*
兄弟たくさんで汚い小屋みたいな家に住んでるとかごろごろあった
団塊世代が10歳前後で『月光仮面』の放送が始まった1958年のテレビ普及率は50%以下
テレビが見られない、裕福な友人宅に頭を下げて見たなんて子がごろごろいたはず
元田にも書いたけど団塊の7割は高卒中卒な、そん大部分は大卒就職せんかったブルーカラーや農家や
この連中が就職した当時は高度経済成長期つうても、農家が農業だけでは食えなくなったとか、炭鉱や製鉄所が閉鎖したとか、ホワイトカラー以外はけっこう悲惨な話は多いんやで
この世代の高卒中卒は、今の世代の高卒中卒と比べたら悲壮感まったく薄いでしょ。金の卵なんて言われて農村から都会に集団就職して重宝がられた時代だもの。今の大学生の就活も求人倍率的には久しぶりの売り手市場とはいえ、金の卵なんて言われるほどじゃない。
今と今後の日本の財政・人口動態を考えると、貧乏な70歳の比率は今後ますます増えるだろうけどね。
それはその通り。高齢オヤジ全般の問題なのに団塊団塊いわれるのは、「団塊世代というわかりやすい呼び名」があって、「数が多い」から。要するに目に付いちゃうし、特に名前のついてない年齢層と比べて言及されやすいんだよ。
元田にも書いたけど団塊の7割は高卒中卒な、そん大部分は大卒就職せんかったブルーカラーや農家や
この連中が就職した当時は高度経済成長期つうても、農家が農業だけでは食えなくなったとか、炭鉱や製鉄所が閉鎖したとか、ホワイトカラー以外はけっこう悲惨な話は多いんやで
次に
>・日本はアメリカに次ぐ経済大国かつ先進国くらいの勘違いをしている(20年くらい前の国際経済の感覚がアップデートされてない)
こういう時代錯誤な認識、1960年前後生まれバブル世代にもぎょうさんおるで、ほんで「今の若い奴らは俺らみたいに高級車グルメ高級ブランド品ゴルフ料亭リゾートその他に金を使わんけしからん」とかドヤ顔してる
ネット世論では何かと叩かれる団塊世代であるが、何が悪いのか本気でよくわからない
まず「団塊世代=全共闘」という偏見であるが、1945~1950年生まれであれば大学進学率は3割程度で、しかも学生運動に参加したのはその中の1割程度だ
団塊世代の大多数は高卒か中卒なのである。団塊の行動原理=全共闘メンタリティという説明一発は無理がありすぎる。
よく話題になる「団塊世代のクレーマー」の大多数は学生運動経験なんかない、うるさいクレーマーなのは世代ではなく個人の人格の問題ではないのか
●
過去に自分が仕事で接したことのある1945~1950年生まれは数人いるが、工業高校卒か、学生運動には行かなかったおとなしい優等生タイプだった
1990年代に派遣社員でNECの下請けに行ってた当時は、1945~1950年生まれだが最初期のPC98だのをいじってた経験のあるオサーンが普通にいた
1945~1950年生まれならばパソコンとか使い方がわからんのもじいさんだから仕方ないと諦めもつくが、1960年前後生まれバブル世代なのにITにうといオサーンの方がよほど問題ではないか、そーいう奴も大量にいたはずである
●
団塊世代を擁護する気はないのであるが、単に「数が多い=目立って問題視される、クレーマーとなる者も絶対数が多い」という話であれば、まさに1970年代生まれ団塊ジュニアの20年後の姿も同様であろう
というか、団塊ジュニアは、非正規雇用の貧乏独身者は多いし、ぎりぎりデジタルネイティブでもないし、ガンダムやら北斗の拳やらの1980年代文化を押しつけがましく振りかざすし、20年後には今の団塊以上にお荷物扱いされるんだろうなあと戦々恐々としている
『金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。
とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単な言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単に説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。
金閣寺は1956年に雑誌『新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統的近代文学の内の一つである。海外においては複数の言語で翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫の文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。
しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。
金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄の象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである。小説『金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行の根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである。
「美への反感」。
つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情は一言に言って地獄の現出に他ならない。
「金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくその吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。
吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身の父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺の存在を、憧れと同時に、憎悪の対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺に放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。
美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージの重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫の人生そのものをも固く包み込んでいたのである。
三島由紀夫、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。
幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。
三島の心中にいかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたかは推して知れることである。小説『仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫の心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情の存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。
ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身の感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生そのものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかりやすいものだったのかもしれない。
金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。
そして、小説『金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである。
作中における柏木のキャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公の青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要な台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。
柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割を果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉の意味は曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾は物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説の重要なテーマである、金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要なキーワードであるのだった。
飛んで、物語の後半。主人公の青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。
彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺の存在そのものを一挙に焼き払おうというのである。しかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである!
そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)
ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)
そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである。
金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木の警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである。
小説『金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。
年齢 | 男性 | 女性 |
15(2000年生)~19(1996年生) | 0.28 | 0.4 |
20(1995年生)~24(1991年生) | 2.70 | 5.00 |
25(1990年生)~29(1986年生) | 21.60 | 30.76 |
30(1985年生)~34(1981年生) | 48.60 | 58.34 |
35(1980年生)~39(1976年生) | 61.05 | 68.52 |
40(1975年生)~44(1971年生) | 64.79 | 70.47 |
45(1970年生)~49(1966年生) | 67.75 | 70.93 |
50(1965年生)~54(1961年生) | 70.37 | 71.84 |
55(1960年生)~59(1956年生) | 73.10 | 73.08 |
60(1955年生)~64(1951年生) | 73.51 | 72.33 |
65(1950年生)~69(1946年生) | 75.68 | 68.91 |
70(1945年生)~74(1941年生) | 79.38 | 62.76 |
75(1940年生)~79(1936年生) | 81.17 | 52.63 |
80(1935年生)~84(1931年生) | 80.08 | 37.25 |
85(1930年生)以上 | 69.77 | 15.34 |
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/pdf/gaiyou1.pdf
※男女の有配偶率は55~59歳で逆転。男性の平均寿命が短く、夫が年上の夫婦が多い傾向が影響していると考えられる。夫より先に逝ける可能性は低いので、女性は死別・離別前提のライフ・マネープランを。
※1977年生まれ2000年卒~1980年生まれ2003年卒の就職率が最低。35(1980年生)~39(1976年生)の年齢階層が氷河期ど真ん中と言える。氷河期×未婚率の高い都民のデータでも6~7割は有配偶。
※高齢になるほど男性有配偶率が上がっていくが、婚姻率が高かった時代の影響が大きい。また、未婚男性は既婚男性と比べて顕著に短命な傾向にあるので、未婚男性の死により男性有配偶率が上がるとも考えられる。未婚男性の短命傾向は、「独身だと死ぬ」ではなく、病気や障害を抱えた宿命的に短命な男性が「子供の父親候補」から漏れがちなことが理由として考えられる。
※詳細版
神話時代:天照大神が岩戸に隠れて真っ暗!!この世の終わりだ!
7世紀:白村江の戦いに負けてしまった!唐の大軍が攻めてくるぞ!!
19世紀:黒船キター!!日本も欧米列強の植民地にされるぞ!!
1920年代:不況で娘は身売りせんとあかん!昭和維新せな日本は滅亡や!
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1945年:大東亜戦争が敗北に終わるなんて!日本はもう滅亡だぁああああ
1960年:米ソ核戦争が起きて日本も巻き込まれるぞ!ヤバイヤバイヤバイ
第2次ベビーブーム:このままじゃ人口増加で資源と食料がヤバイヤバイヤバイ
1973年:石油ショックで高度経済成長が終わった!日本はもうおしまいだ!
1989年:今のバブル景気はまやかしだ!道徳的に堕落した日本は滅亡する!
1991年:そら見ろバブルが崩壊した!!驕った日本人に罰が当たったんだ!!
1995年:阪神大震災に地下鉄サリン事件、日本滅亡が始まったぞ!!
1998年:北朝鮮が弾道ミサイルを開発した!今すぐ戦争になるぞ!!
2100年:■■が起きた!今度こそ日本は滅亡だ!!
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無限に続く予定