はてなキーワード: 監視社会とは
Twitterやツイキャス、youtubeにニコニコ、様々インターネットサービスが誰でも簡単に使える今、副産物的にこれらのサービスの中で需要を満たすべく”職業”が発生している。
とにかくマルチメディアに様々なパーツを生産するクリエイターが、それはもう沢山集まって、お互いの需要を満たし、コミュケーションやクリエイティブな活動を楽しんでいるわけだ。
そんな職業たちの中の1つに、加工師というものがある。所謂写真の編集、フォトレタッチを生業としている人たちで、立ち位置としてはたぶん、現実だとデザイナー的な仕事内容になる。
ツイキャス主の自撮りや版権イラスト、アイドルの写真などを加工して、アイコンやSNSのヘッダーに使える綺麗なものに仕立てたりする。
自撮りの加工はともかくとして、版権イラストの加工はかなりブラックに近いグレーだ、実際に趣味でイラストを描く人が、無断でこういった”サービス”に巻き込まれてブチギレ、なんてのもよく見かける。
こういった著作権違反な事例は、例えば絵師でも無断転載からの自作宣言や、トレスといった形で散見される。
この手の問題が起きるのは、この”職業”の従事者の大半が中学生〜高校生だからだ。法的な問題など彼らは知らないし、身の回りの人以外が見ているということなど気にしていない。その結果、法的に問題のあるものが発見、拡散されて炎上、消滅といったことが起き、後には苦言を呈すクリエイターのご意見番や、魚拓の載ったまとめだけが残る。
私は現在20代後半、学生時代はインターネット黎明期であった。
webサイトの管理者は崇拝され、閉じられたコミュニティでは著作権違反の切り抜きアイコンが飛び交い、何処かから拾ってきたアニメやゲームのmidiが流れていた。BBSのユーザー用アイコンは、ユーザーの書き込み回数に応じて名入れなどの画像加工がされたアニメアイコンが提供されたりしていた。
今と何かやっていることが違うだろうか?
小学生の時分、ハード素材のクリアファイルに雑誌の切り抜きを挟み、ポスカやステッカーでデコレーションしたものを持ち寄って遊んだりもした。アニメやマンガのイラストを透かして写して、友達に見せてうまいね?なんて言われてる人が周りにいた覚えはないだろうか。
もちろん、公開してる場所が違う、インターネットは公共の場だという意見はもっともだし、著作権違反を見逃すべきだとは思わない。
トレスや無断転載は許されざることだし、無断加工なんて、時間をかけて描いたイラストがされた日にはブチギレても仕方ないと思う。
ただ覚えておいて欲しいのは、彼等にとっての遊び場は今はSNSであり彼等にとってのコミュケーションベースはスマートフォンの中も含まれるのである。
少し前に学生だけのSNSが話題になったが、閉じられ、守られ、許されながら学べる場所が今の学生たちには必要なんじゃないかと思う。
なんかおもったよりもいっぱい読んでもらえてありがとうございます。
こんなに星貰ったの初めてなのでお前ら愛してる。というのを話の枕にしつつ、コメント読んでもなんだか方向性が錯綜しまくっているので(それはもちろんむしゃくしゃしてわかりにくい文章を書いたこちらに責任がある)、話を整理する意味で、もう一度同じことを書き直すよ。
1)子育てにかかるお金を見積もり、『だから』子供を産めないのだ、という言論に違和感をおぼえる。
2)見積もった金額は『常識』を強調している。『常識的に』これくらい金額がかかる。『世間並みは』としてこういう教育やライフスタイルが必要だ、という発想。そしてそれは不可避であると主張する。
2b)また日本の現在を憂うという態度で「この国ではいまそうなんだから理解しろ」「それぞれの家庭において合理的判断をすれば子供は無理だとわかる」などという形で2の追認、補強が行われる。
3)しかし、世間にはその金額を下回る教育投資環境に家庭は存在する。2の主張は、そういった環境の家への無意識な抑圧として機能していないだろうか? また結果として2の主張する金額を満たせない全ての家庭に対する攻撃として機能していないだろうか?
4)2の主張をする人は、自らの判断を守るために(というか判断が正しかったという自意識を守るため)、その判断に従わない人たち(すなわち、2の判断よりも低所得であるにも関わらず子供を生むという判断をしたひとたち)を「子供に対する虐待である」と叩くような主張を行うことがある。
4b)テレビにおける「子沢山家族」系のコンテンツに対する嘲笑混じりのスタイルも精神的には4の系譜だと思える。
5)2の主張における『常識』『世間並みは』という感覚は、いまの日本の文化を前提にしている(たとえば、大学まで行かせるのは常識だろ、など)。しかし、その『いまの日本の文化』そのものは、全く所与ではない。意識的にせよ無意識的にせよ、日本人がそういう判断をしていまのような文化を作っただけであって、他の文化であってはいけない理由は特にない。たとえば大学を高度化しつつ卒業を難しくする、大学を諦めて就労訓練を志せるような機関を設ける、といった文化や制度づくりは可能だし、そういう国もある。いずれにせよ、いまこの瞬間の日本の文化や価値観というのは、精々が前後10年程度のもので永続していたわけではないという点について留意するべきだ。
6)5における日本の文化というのはなにも上から与えられたものではなく、常識ですらなく風潮で、その風潮を作った責任は、議論に参加している人々すべて(=この場合世間に参加、つまり国民すべて)にある。
7)6を前置すれば、いまの日本の文化を無批判に全肯定した上で『常識』『世間並みは』と言い放つことによって3のようなプレッシャーを外部に振りまくのは、非情に無責任かつ無思慮な態度ではないか? そういう文化を作った上で、文化からそれる人間を叩くのは魔女狩り的態度なのでは?
8)もちろん個人あるいは各家庭が自分の事情(例えば経済的なこと)を考慮して子供を作る作らないというのは全く自由である。その自由は最大限保護されるべきだ。
9)しかし、その自由、つまり「各々の判断で子供を作るか作らないか自由に決める」ということと、「今の日本の状況で子供を作らないのは合理的なのだ、俺達は間違っていないと周囲に喧伝して回る事によって、その方向に文化を醸成する」というのは、全く違うことだ【この部分が記事の中心論旨】。
9b)自分の判断(この場合、経済的な事情で子供を産まないなんて当たり前だ、という態度)を自己弁護するために、このような主張(2b)を無意識にするのだと思うが、結局下流叩きエンタテイメント(4b)と合流している状況に見て取れる。
9c)こうして説明しても「だからといって俺たち個人にはなにも出来ない。だから子供を産まない。それは間違ってない!」というコメントがあふれると思うけれど、「そういう判断をする」というのと「その判断をコメント(周知)すること」は違う、というのがこの記事の内容だ。つまり、件のブログ記事というのは、「こんだけお金がかかるので私は産まない!(という自己弁護)」あるいは「こんだけお金がかかるのに私は産む!(という自虐風自慢)」のどちらかなのではないのか? というか、そうとしかあれないのではないか?
10)もちろん少子化の背景として、先進国の宿痾的な問題や、経済的な問題は事実としてあるだろうけれど、それ以上にみんなが「子供を作って育てるハードルをどんどん上げる監視社会」をつくってるのじゃないのか? 「完璧な母親でないと失格である」というような幻想に苛まれてノイローゼになる女性と一緒で、自分たちで自分たち自身の社会を追い詰めてるんじゃないのか?
11)――という状況を圧縮して「違和感がある」と前回の記事を書きました。対比すれば今回のは整理されてるけれどおおよそ同じ論旨なのがわかると思います。昼ごはんは牛丼でした。
「ゴルスタ人」「反ゴルスタ人」という語句がなんとなくSFに出てきそうな感じだったので……
ヒートアップした〈巫女〉が叫ぶ――「反ゴルスタ人を探し出せ!」
2016年。ネットに覆われた地球で奇妙な戦いがはじまった。ゴルスタ人はスプリックスの統治する社会ネットワークサービスに安住し、〈巫女〉の言葉に従っていた。思想統制を拒んだ者たちは社会ネットワークサービスを追われ、中に戻るには反省文を提出しなくてはならない。その外側に反ゴルスタ人がいる。スプリックスの思想統制に反対する者たち、腕だめしにゴルスタ人の社会に潜入を試みる者たち、あるいは単なる野次馬。彼ら反ゴルスタ人は戦意を持続できないのが弱点だ。ネットに火を放って栄養を補給する〈プロブロガー〉の群体が盛んに活動し、〈ピーシーデポ〉が奇怪な契約で老人たちを束縛し、反ゴルスタ人たちの意識をそらしてしまう。反ゴルスタ人は戦いに集中できるのか? 思想を統制された若きゴルスタ人にはいかなる未来が訪れるのか? 鬼才が描く超監視社会の悪夢。
選挙でよくわからないのだけれど、改憲勢力が勝つとこんな風に憲法が変えられてしまう!
って言う人たち。そもそも憲法改正ってどんなささいなことでも国民投票して1/2の国民が賛成が必要なんだよね。
なんか、この選挙で勝たせてしまうと、徴兵制だ!とか監視社会だ!とか憲法が変わってしまって大変だ!とか言っているけど、どういう意図なのだろう。
2 もし国民投票になったら、1/2の賛成が起きて憲法改正されてしまうかもしれない
2の理由1: 何かよくわからない大衆への心理的操作やマスコミによる操作によって、本当は変えるべきでないのに1/2の賛成が起きてしまうかも
2の理由2: 基本的に大衆はよくわかっていないから1/2がなぜか取れてしまうかも、よくわかっている私たちが導いてあげないと!
3. 国民投票が必要である、ということをあまり意識していなくて、ただ今回の選挙で勝たせると憲法改正が起きる(政府なら起こせる)と思っている
4. 憲法は触ってはいけないものであるから、いじろうとすること自体がよくない
5. 国民は愚かだから憲法改正発議が出たら政府にうまいことやられて改正されてしまう
6. 何らかの陰謀
国民投票による憲法改正を1/2ではなく1/3にする、という憲法改正をして、そのあとに本丸の改正をする、ということなのかな。
これを見るとお金なくて仕方なく子ども料金で乗ったのをツイートしたら特定された高校生、を思い出す
こういう話をする時点すでにセカンドレイプなんだけどね。でも落ち度に対する対価の一例として挙げてみたかった
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なにかって、こういうの見てると、ネットイナゴが進化?しつつあるのを見てとれる気がして。
今までのネットイナゴって「は?こいつ最低だな、俺が叩きのめす」って正義感で動いてる人が多かったと思うんですわ
ところが、twitterが出てから「炎上したら面白いなあ」って気持ちで特定作業をしたり拡散作業をしたりする人、増えたよね
いや俺にはわからない神経なんだけどもね
理由は単純に「気軽に拡散、特定ができるようになった」からなんだよな
そしてその理由からだと思うんだけど、最近中高生でもネットイナゴが増えてるんだよね
なかには特定から拡散まで全ての業務を果たすプロの中学生もいる
そういうの見るとネットが現実世界にも浸透しちゃったんだなってつくづく思う
なによりすごく現実までの壁が薄いの すぐネットとリアルが繋がっちゃうの
本当は「できるわけがない」って言った時点で終わりなんだけどね
でも多分、できない。
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ネットは他人に監視される現実世界からの逃避用経路だと思ってたけど、どうやら逃げて来た人々でまた新たなリアルみたいな監視社会まみれの世界を構築してしまったらしい
もちろん俺が悪いことをしてるわけじゃないけど、すごく肩身が狭い。いや無意識に悪いことしてるかもな
現実が嫌で、他人より浮いてる存在で、だからいじめみたいないじり喰らうから、怖くて逃げて来たクソ陰キャの俺としてはね、もっと逃げ続けたかったわ
そのうち子ども料金どころか、鼻ほじったりするぐらいで晒されて、そんな感じで晒しの敷居が下がりきったらもうネットには浸れないね
要はもう逃げられないね
鼻もほじれないや
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ネットがそうなっていく様をただ眺めるだけの
ここに投稿しとくの
元増田の言い様にどうも納得がいかないので一席ぶたせてもらう。
なお、個々人が作品から何を見出すかは千差万別であることは認識しているので、この記事を読んで意見を変えろなんて言うつもりはない。
ズートピア世界は、理性によって被食-捕食関係が終わり、共存できるようになったからこそ成立している。
理性の存在は、動物が喋る/二足歩行する/服を着る/文明化してる/etc.と同レベルの、物語における大前提である。
理性/野生の対立軸は本編前にもう終わっているのだ。
もちろん、これは「過去」として本編中でも言及はされるし、“偏見”の大本にもなっているが、この過去そのものが本編中に蘇ったりはしない。
では、元増田が見出した“野生”というのは何か?― それは“偏見”である。
「肉食動物は凶暴で草食動物を襲って食べたがっている」という偏見だ。
そしてこれはズートピアにおいて一貫して存在している、理性/偏見という対立軸の一部なのだ。
「肉食動物は凶暴」なんて、「ウサギは臆病」「キツネはずる賢い」と同種の偏見と言えば分りやすいんじゃないかな。
― 当然さ!でもそれは“野生(という名の「肉食動物への」偏見)”とは別物なんだ。
草食動物だって「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろうって?
― 当然さ!まさに黒幕がそうだったろう?
― あれは薬物による凶暴化さ。野生とは関係ないよ (薬物中毒の人間が暴れてるの見て「野生だ」って言う?)。
「理性は必ずしも野生より優れてはいない」、「理性が善、野生が悪とは限らない」、「理性ばかり肯定的に扱うな。野生にも光を!」。
しかしズートピア世界においては、過去に克服された野生にしろ、偏見としての“野生”にしろ、内容的には「共に暮らす隣人(隣獣?)を襲う」というものだ。
なに? 野生は自然だから善?それは自然主義の誤謬と言うのだ。
元増田は言う。
「ズートピアはユートピアを意識しているはずなのに、ユートピア文学等を踏まえた批判/論評が盛り込まれていない!つまらん!」
さて思い出してほしい。ズートピアはユートピア/ディストピア的な世界だっただろうか?
初期案(肉食動物に電気ショック首輪等々)であれば、これはなるほどユートピア/ディストピア的世界だと言えよう。
映画があって道路があって、スマホもあるし、屋台、車、電車、etc。職業だって警官からお役人、詐欺師もいれば泥棒だっている。
では、我々の世界はユートピア/ディストピア的だろうか?―もちろん答えは「いいえ」だ。
単に、ズートピアは作品の名前であり、都市の名前であり、ZooとUtopiaの合成語である。
ユートピアの俗語的な意味、すなわち“理想郷”的な意味合いは持たせているだろうが、それだけだ。
ぱっと見、理想郷にも思えるような、動物たちの共存する大都市ズートピア。
そこにも現実の、我々人間の世界と同じように偏見があり、差別がある。そういう世界。
タイトルがユートピアのもじりだからって、ユートピア的世界観なわけでなし、なんでわざわざ関係ない批評を盛り込む必要があるのか。(もちろん盛り込んでも良いが)
ズートピアはZooという単語も含んでいるわけだが、動物学(Zoology)の観点からの批評とか盛り込むべきだと思う?私は思わない。それと同じさ。
以下のブログ記事では「野生」の原語(Biology, Biological)について示してある。(全部ではない?)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160521/k10010530181000.html
痛ましい事件が起きたわけだが
問題点をまとめると
・アイドルのマネタイズに問題がある(主に異性のファンから好意を集めて、それを換金する作業でしかない)
・ファンから巻き上げるお金に対して、ファンに対する物理的なリターンが少ない
・のめり込みすぎてブレーキの働かなくなったファンの抑止効果、役割が整っていない
・アイドルに対し、資金面、バックアップ体制の不十分だった場合、事件の事前防止が困難である
・ストーカーに対して事件発生する前に事前防止する法体制が整っていない(事件が起きてから動ける)
・異性のファンではなく同性のファンによって成り立つアイドルビジネスを作る → ももクロとかがそのような存在に近しいらしい(あくまでらしいとしか把握してないが)
・ファンに対する物理的なリターンを大きくする → 上位購入者に対する愛人化制度(うんゲスだな)
・のめりこみすぎたファンへのブレーキを働かせる → マイナンバー登録による完全監視化(こんな監視社会など牢獄でしかないな)
・アイドルに対するバックアップ体制の整備 → 各事務所連盟でのボディーガード軍団結成(実に闇の組織っぽい)
・ストーカーに対し、事前相談で動ける法整備 → 人手の問題があるのでボディガードロボットが出ないときつそう(近未来の話)
ここまでまとめてアイドルビジネスってまともなもんじゃないよな、自分から虎穴に入ってるようなものだし、分かってて入ってる分、第三者がどうこうできるもんじゃないな。
オレ、とある映像権利会社で素人(ハイアマ&セミプロ)が撮影した自然とか風景の動画を買い取る仕事してる(この時点で業界人ならバレるw)んだけど
普段は北海道の大自然とか沖縄の星空、モデル撮影とかの映像(ロイフリ素材として売る)を買い取るがメインなんだけど、
てか、普通はメールで売り込みが来るから、電話で来た時点で「お、怪しげな動画かな」と身構えるくらい。
で、よくあるのがカラオケとか漫喫でのセックス事案(らしき)動画。
無駄なリスク取りたくないから実際に動画を目にすることないけど、
相手の売り文句が「カラオケ店で制服少女が云々」「漫喫で若い女子大生風の云々」ということだから、
たぶん未成年を含む若者のセックス動画なんだろうと予想している。
(ちなみに、うちの会社では合法非合法に関わらず、ポルノ動画は一切受け付けていない)
実際、一昔前に監視カメラで撮影されたとおぼしきエロ動画がネットに転がっていることもめずらしくないし、
最近のカラオケ店やラブホは危険ドラックとかの取引場所にされないために頭上以外にも監視カメラを置くこともあるらしいから、
監視カメラの高性能化もあいまって、なかなかクヲリティの高い盗撮動画になっていることだろう。
女の方は知らぬ間にどこに被害届を出したら良いか分からんリベンジポルノ風の何かの被害にあってるんだから
監視社会というのは怖いもんだと思う。
一昔前なら野外でやろうが、どこでやろうが、その行為が大衆の目にさらされることなんてまずなかったのにな。
どのみち、中高生同士のセックス動画はどう考えても児ポ法に触れるから、
詳細はググれば判るのでここでは繰り返さないが、のうりんポスターは剥がされた。
今後この手のことは避けられないだろうなと思うので、その話をしたい。
と思うだろう。要は「どんなモノでもネットに晒される」という事だ。
例えば、政治家が酒宴でオッサンばっか集まった中で下品な冗談を言った。
現地では大受けゲヒャゲヒャ笑って女性参加者苦笑い、とかなったとしよう。
これ、新聞記者が聞いてニュースで配信されたりすると、当然批判を受ける。
Twitterなんかで「公に発言すると」問題になる社会はもう来てる。
例えば自分の嫌いな人がいて、それを公然と発言すると、問題になることがある。
正確に言えば「俺は嫌いだ」ではなくて「それは異常だ(と俺は思う)」という発言をするとだ。
これはまあ、良いことだと思う。
(いずれ「俺甘いもの苦手なんだよね」と同じニュアンスで「俺、異性愛は苦手」と言える社会になるかもしれない)
のうりんが、一地方の内輪向けの話だから、というのが通用しなかった件。
コレはつまり、「政治家が身内のパーティーで放言した」と同じレベルだ。
小規模だから、ひと駅だけだから、前にもやってるから、と言うのが通用しない。
なぜならば「ネットに紹介された時点で、公の舞台に立った」からだ。
自分からTwitterでアピールしなくても、誰かに紹介されると公の舞台に立ってしまう。
そうすると、文脈から切り離されて「その対象そのものが、正しいか?」を求められる。
株式会社やお役所なんかだと、説明責任、というやつが生まれる。
つまり「コレコレの批判があったのに、何故止めないのか?」に対する説明責任だ。
大抵の場合、強い根拠やしっかりした後ろ盾がないと、「止めない理由が無い」状態になる。
だから、「オマエのやり方に賛成だ。良くやった」という激励の電話や投書は、無駄にはならない。
悲しいかな、文句を言う人は文句を言いたいので電話をするが、賛同するひとはひっそりとテレビの前で応援したりする。
役所の担当者の前に、非難の投書が数通あり、ネット上に賛同の声が多数あると、投書が勝つ。手元の文書は強い。
「のうりんポスター」の件は、今後頻繁に起こるだろう「リアル炎上」の話だと思う。
ほんの少しの「公」要素があれば十分だ。
どんどん晒されるだろうし、晒されればそれはTwitterでアピールしたのと同等に扱われる。
(その意味でガルパンの海水浴ポスターは良く出来ている。アレを批判すると文脈上海水浴場批判に繋がるので「抵抗する理由がある」ポスターになってる)
ある程度、公人や公の場所が、政治的な正しさを求められるのは、方向性としては良いことだと思う。
本来当然配慮されるべきものが、いろいろな言い訳でナアナアに済まされてきただけだからだ。
ボチボチ、そう言うところにリソースを割いても良い頃だろうとは思う。
そして、いずれは高校生が友達に「アノ黒人が居なけりゃな」みたいな愚痴が晒される世界が来るような気がしている。
少なくとも、ネット上の発言は「Twitterは世界に公に発信している」として判断される社会には既になっている。
これが、隣の友人に喋ったら、ネットに即アップされて特定されて晒される、という社会になりそうだ。
政治家のような公人と、影響力のある私人、そして一般人というのは、それほど高い垣根ではない。
そうは言っても、法律上も判例上も「公人」はワリとハッキリ線引があるぜ?とか言いたいかもしれない。
でも「のうりんポスター」は、法律も判例も、捜査も公判維持判断も、なにもなかったんだぜ。
たった一度のブコメの放言で、社会的制裁を受ける日は、たぶんそこまで遠くない。
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一人増田アドベントカレンダーの1日目としてネガティブにお送りしました。
今日は、お仕事がお休みなのでリアル友人限定で、SNS(主にfacebook)をやっていて
日頃思っていることを書いてみようと思う。
一番多いのは、仕事の愚痴をタイムラインに載せている人が多い。
この愚痴は、仕事上差し当たりがあるんじゃないかな~と思っている人ほど、
仕事上の同僚や上司がSNS上でつながっている。また全体公開の人もかなりいる。
"仕事こんなにつらいんです!職場環境&人間関係はとっても酷いです!"
と書ける人は、よっぽど職場の人間関係が良いのかまったく影響を考えていないかの
どちらかと思う。(大体は後者)もしくは、勇気が溢れ出ている人か。
自分としては、仕事上の関係で知り合った人ととはSNS上ではつながらないのがベスト。
一時期はアカウントを別に作って繋がろうと思ったが、タイムライン上書けることが
少ないのでやめた。
そして次に思ったことが、よくそこまで自分のことを書けるなぁと思った。仕事やプライベート
がうまくいっている様子をSNS上で流しても、人によっては僻みややっかみの対象となってしまうのを
予想できていない。書くなとは言わないけど、過去の失敗を掘り起こされてコメント欄に書き込まれている状況
を見ているため、私生活を事細かに書き込むのは投稿する前に一度考えるべきだと感じた。
なのでタイムライン上に書ける内容としては、面白かった記事や写真をイイね!するくらいか食べたものを投稿する
くらいにしている。その人のことを完全知る必要もないわけだし、また知らせる必要もないと感じているから
これくらいがちょうどいい。自分のSNS上のタイムラインを見てもらってちょっとほっこりできたり、
神経質すぎるのかもしれないけども、人の目を気にしなきゃいけない日本社会ではこれくらいが一番。
東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。
もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。
でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。
何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。
そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。
(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)
シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。
ただ、ネット→マスコミ→世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。
その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存のメディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。
勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。
まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。
例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。
augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観がねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。
ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?
捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟でブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)
法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者を犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。
で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。
え、いきなり個別のブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。
そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。
当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言に意思と責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。
だから、言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。
例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。
Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任を押し付けて降ろしたのはむしろ発注者の人達だったけど。
まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?
xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。
はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。
他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)
そういう自分の発言がホントかどうかの責任を意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)
勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。
感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?
「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。
見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?
「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。
とはいえ、感情や情緒は大切にしましょうというのは、日本のシステムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。
amakanata 今回のシロクマさんの見方はちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインでごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない、という庶民の感情の健全な発露でしょ。
「ごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない」という「ネガティブな情緒」で、「庶民の感情の健全な発露」として「“世論”に直結」。
シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっと見ブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。
(本人の属性で作品の価値が上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)
amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。
ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。
ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。
監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。
信頼出来ない上司の業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。
つまり、知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。
それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通の市民の道徳的な感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、
それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来の意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。
エリートの言うことは信頼出来ないから、市民団体が監視をします、では無く。
一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚や感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。
そこには警察の捜査も、弁護士や検察官の立証も無く、過去の蓄積からの裁判所の判断もなく、法律もルールも無縁の所で、
そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的な判断が積み重なることで、「事実」になる。
それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的な市民感覚」だろう。
動機が行為を正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。
クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。
(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)
「反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。
「知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。
「反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり「専門家の判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。
模倣の判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナーや建築士や弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。
専門家でない人達の声で(途中に週刊誌や新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。
まあ、医療や災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者が批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。
(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上は個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからボカスぞ)
最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。
また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。
また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。
彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう
最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。
彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう
今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。
また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。
その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。
今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。
企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。
生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。
たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。
駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。
彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。
初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。
昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。
痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。
『美味しんぼ』は、雁屋哲の自己表現。監視社会がとうとう漫画の内容にまで干渉して変えようと動き始めた。これでまた、日本が世界からバカにされる材料がひとつ増えた。もはや福島はタブーだね。権力の失政を、「福島安全神話」でごまかし、国民を犠牲にするわけだ。
兵頭正俊
コレ本気でわかってなくて言ってるのかなぁ、RTしてる人もどうかと思うけど。
自己表現は別に構わないの。フィクションの漫画でコレは事実ですって言って書いてるのが問題なの。
そもそも、福島のタブーみたいなのを書いてる本はいくらでもあるでしょ。ノンフィクションとしてね。
皆福島が安全だって信じてるから叩いてるわけじゃないの。まぁ、鼻血が云々とか突拍子もない表現がアレっていうのもあるんだけど。
地元から大学進学と共に都会に出た人間だけど、地元志向の人に対して違和感を感じていた点は、所得でも知的レベルでもなく、たった一つ。
ソーシャルグラフとインタレストグラフを一致させようとすることだけだ。
言いかえると、たまたま近所に住んでいるから仲良くなった子や、たまたま同じクラスになったから仲良くなった子、
たまたま同僚だから話すようになった人に、積極的過ぎる「趣味の布教」を行う点。あるいは布教に応じなかった人を拒絶する点。
私は、近所に住んでいる人とは地域の話をすればいいし、クラスの子とは学校の課題やイベントの話をすればいいし、
同僚とは仕事の話をすればいいし、趣味の話をしたければ趣味のコミュニティに所属すればいいと思うのだけど、
地元志向の人は、"イツメン(いつものメンバー)"と全ての話題を共有したがる傾向にある。
だから地域・学校・職場などの枠組みにたまたま結び付けられただけの人に、趣味の一致まで求めてしまうんだよね。
趣味の押し付けはヤンキーに限らず、オタクもやっていた。地元オタクの友達関係も"イツメン"的だよね。
趣味の種類が、車やバイクの改造なのか、同人誌を描くことなのかっていう違いだけで、押しつけがましさは一緒。
これが嫌なんだよ。自分と興味関心の方向が何もかも一緒な人間を求めている感じが気持ち悪いって感じる。
子どもは、他人と自分の違いに対して傷つき感を覚えるらしいけど、成長に従って違いを受け止められるようになるという。
地元的、"イツメン"的な人たちは、いつまでも違いを受け止められない「子供」の部分が、
外見が太ろうがシワシワになろうがハゲようが、一生むき出しになっているようで、
それが美化されて称賛されている様子がなんだか露悪的なものに感じて、引いてしまうんだよ。
そして都市部でも実は地元民同士行われてる。このひとが地元に戻れば当然そうなるだろうし、でなければ地元でも浮いているんだろう。おいらが同じ人種だからよくわかる。
東京で生まれ育って、固定化された人間関係に満足してきた東京都民とは分かりあえないだろうし、
地方Aから地方Bに移住した人となら、もしかしたら分かりあえるかもしれない。そういう感覚です。
「自分と興味関心の方向が何もかも一緒な人間を求めている感じ」がとにかく嫌なんですよ。
お互いにその甘えを押し付け合って、依存し合って、監視しあって、縛りあっているんです。
グループ内で数多くの不文律が出来ていて、破ると「非常識だ」。
グループ内では同じものを好きになって同じものを嫌いにならなければならず、期待にこたえないと「裏切った」。
そして「非常識だ」「裏切った」と言われないで済むように振る舞えることが「コミュ力」だと勘違いしている。
これが嫌なんです。表面的に期待にこたえて何とかしのぐことはできますが、永久にこれを続けるのは耐え難いです。
彼らはそれが幼稚な依存関係であることに気付いてすら居ない。依存関係のことを「絆」と言い換えて美化している。
そして依存関係を自分と同じように美化しない人を批判して、仲間内の依存関係を強める道具として活用するんです。
よく出来たシステムだと思います。しかし私は短期的には耐えられますが、長期的にこれに耐えるのは負荷が高すぎて無理です。
いつも同じこと出来る仲間がいることが悪いことなのか? 都会でそういうものから開放されたのに、わざわざこんなの書くのは何でかな。少しでも羨ましいという気持ちがなかったといえるのかな。
都会に出てもなかなか解放されないんですよ。都会に居る人が皆そうではないという訳ではないので。
都会に暮らし、社会的地位や経済力を持っていても、「自分と興味関心の方向が何もかも一緒な人間」を求めている人は居ます。
羨ましいとは思えません。"イツメン"の内部では、イジメとは行かないレベルの醜悪な「イジリ」が蔓延していることも知っています。
(彼らはイジる側に居る時は「冗談」「ネタ」と言い張って、イジリを止めようとする人を「ノリが悪い」と批判します。
そして自分がイジられる側になると「酷いイジメを受けた」と言い張るか、自分より弱い対象を探してストレス解消のサンドバッグにします)
そしてLINEグループから外される恐怖、陰口を言われているかもしれないストレスと常に隣り合わせであることも知っていますから。
特に親しい友達が居ることが悪いことだとは思わないんですよ。私にも居ますし。
ただ、違いを受け入れられない幼稚さが気持ち悪いんですよ。
オレはこれまで一人で生きてきたし、これからも一人で生きていける強い(成熟した?)人間だ、と言いたいらしい。この強さの幻想は都市空間と若さがもたらす限定的なものなので、あまり過信しないようにね。
そんなこと一言も言ってないです。
ぼくはレイシストです。まで読んだ
書いてません…。
まるで監視社会かのような濃密なコミュニケーションネットワークだと、趣味部分への干渉も同じようになされるケースは結構多そうだよなぁ。無意識だったり善意だったりする場合もありそうだし。
だからこそ、その善意に対して不快感をあらわすと叩かれるわけですけど。
ただ「善意でコーティングされた押しつけがましさに対してストレスを感じる」こと自体は、
「おまえどこ中だよ」「イツメン最高」系の人でも経験あるはずなんですよね。
「自分の趣味を押し付けたいから、押し付けられることも受け入れなきゃいけない」という取引に縛られてるだけな気がする。
で、この「押し付けたい」が幼稚であり甘えだと言いたいわけです。
オキシトシンは中枢神経で働く神経伝達物質でもあり、母子の絆や、信頼や愛情といった感情、グループ認識などの社会的行動にも複雑に関わっている。
オキシトシンは、自分の嫌いな人が何かに成功した場合には嫉妬をかきたて、嫌いな人に自分が勝った場合には得意な気持ちにさせる、というものがある。
私が嫌悪しているものって「オキシトシン過剰」の一言で説明できるものかもしれませんね。
より厳密に言うと「オキシトシンの負の側面に目をつぶってオキシトシンを礼賛するスタンス」。
とりあえず私が作ったわけではないことだけは主張しておきたいです…。
http://j-lyric.net/artist/a00839f/l027f2d.html
地元じゃない人が多い大学でも企業でも同僚に趣味や共感を求めまくる人は一定数いたから地元かどうかだけじゃなさそう。ただ、人生で会う人間の数が少ないまま大人になることで一つしか人間関係が想像できないのかも
地元志向と「知人と自分の同一化を求める人間」はイコールではないのに、私の中で強固にイメージが結び付けられているのは、
地元志向で生まれつき与えられた人間関係に籠る人ほど「人生で会う人間の数が少ないまま大人になる」傾向にあるからかなと思いました。
でも確かに偏見でしたね。調べれば確実に強力な相関があると思いますが、イコールのように言ってしまったのは偏見でした。
内容自体は趣味押し付けてくる奴うぜーの域を出ないのだが、それを地元志向とか関連性よくわからん呼び名でタイトルにしちゃったのが残念な増田。まぁさすがにレイシストは言い過ぎだろとは思うので同情しとく。
「レイシストは言い過ぎ」というか、地元志向には排他性(よそもの嫌い)が伴うので、地元志向の人こそレイシストに近いと思います。
「地元愛」と「隣の県の人間が嫌い」が表裏一体だったりします。
うざい奴が決まって持ち合わせている幼稚さは故郷を離れてヨソモノとしての振る舞いが必要な環境にいれば改善されたのではないかと思わせられるって話でしょ?めっちゃわかる。
はい…。そういう話です…。
<前置き>
この案は「そもそも兄弟や姉妹という存在は子供の人権侵害なのではないか」という思考から生まれた産物です。
一人っ子と比べて兄弟や姉妹がいるという状況は、明らかに子供や親に求められる能力が高くなります。
まず子供ですが、兄や姉は妹や弟の世話。未成年に当たり前のように労働をさせている現状があります。
次に比較されてしまう状態。出来のいいほうに比べられたり年が上なんだから下なんだからとどちらか一方に負担される場合があります。
そして兄弟喧嘩、一人っ子では絶対に起こらないトラブルに対応する必要があります。
親の方はというとまずお金。一人っ子と同様に育てようとすると単純に考えて二倍の予算が必要になります。
足りない場合は年が上の子が進学を諦めて就職するなど子に負担が掛かるようになります。
次に育て方の差異。勝手の分からない上の子より下の子のほうが育て方をわかっているのでスムーズに育てることができます。
逆に上の子が手間のかかる場合は子育てもままならず、場合によっては死に至る危険な状況になることもあるでしょう。
最後に愛情の差異です。極端な例で言えば搾取用と愛玩用なんて言葉がありますが、そうでなくても人間である以上上の子と下の子を完全に平等に愛することはできません。
また上の子一人の期間があったわけですから、下の子が生まれてから上の子に与えていたように愛情を注ぐ事は上の子がいる時点で不可能です。
このように複数人兄弟がいるという事は明らかに一人っ子である場合とはまるっきり異なる状況になります。
しかしそれらが全て悪いというわけではなく、小さいうちに子の世話をすることや喧嘩によって得られる経験や比べられることによって伸びる能力等もあるでしょう。
何より少子化が加速している日本で一人っ子以外の廃止などという提案は無意味でしょう。
そこで考えたのが二人っ子政策です。
<二人っ子政策とは>
簡単に言ってしまえばばら撒きです。
後は<兄弟><兄妹><姉弟><姉妹>という4パターンにおいて発生しうるトラブルの対処法の教育をするなど考えています。
なぜ二人っ子限定なのかといえば、三人になると9パターンになって教育内容が増えてしまうため、ひとまず二人っ子として上手くいったら二・三人っ子政策に進むという事になります。
ではその財源はどこから取るのかというと、一人っ子家庭…からではありません。
徴収額はその人の状況で変動し、
未婚同棲>結婚子無し>未婚恋人有り>未婚恋人経験有り(子有り含む)
上記状態から二人の子供が生まれた時点で徴収したお金は全額返還されます。
その後は子供が成人するまである程度の補助金が出ますが、三人目が生まれた時点で補助金は終了します。
これが二人っ子政策です。
<独り身隔離金>
二人っ子政策とは少し外れるのですが同時に導入したら良いのではないかと考えているのが独り身隔離金です。
上記二人っ子政策予算徴収対象者に未婚恋人経験無しは含まれていません。
私はむしろそういう人たちには隔離金と称した金を二人っ子政策予算から出すべきだと考えています。
これはただでさえ競争率の高い婚活市場に一度も恋人経験の無いような人が含まれることを防ぐことが目的です。
それにより自然に恋人ができるような意欲と能力を持った人だけが婚活市場に残るという目的があります。
独り身隔離金は未婚恋人経験無しの人に恋人ができた時点で止まるどころか全額返還の義務が発生します。
それもあり、婚活市場には全額返還するほどの意志のある人しか来ないという事となります。
また独り身隔離金の支給額が少ないうちに行動したほうが良いという意識から晩婚化も防ぐことができます。
結婚はともかく同棲や恋人の有無なんかどうやって政府が把握するんだというごもっともな意見はあると思います。
それは監視社会のようになってしまいますが、やはり通報制度によるものが一番安価に導入できるのではないでしょうか。
独り身隔離金を受けながら恋人が過去や現在にいた場合にはその人から返還される独り身隔離金の一部を、
同棲や恋人、恋人経験を隠していた場合には追加徴収額の一部を奨励金に回します。
これにより不正を行う人達から適切な徴収を行うことができるようになります。