はてなキーワード: 読書感想文とは
小学校〜中学校の夏休み、どこの学校でも自由研究が宿題に課されていたと思う。
私はそれがひときわ苦手だった。
まず、テーマが出てこない。自分が何をやりたいかが出てこないのだ。
出てきたとしても、それは既存の実験やら本に記載されたアイデアの焼き直し。
小学校の頃は、親に渋々手伝ってもらって、テーマを一つに固定して行ったことを覚えている。
中学の頃は、統計のような資料を基にしてある種あたりまえのようなことを述べるだけだった。
そしてそのどちらも、テーマに関する考察や疑問が設定できず頭を抱えたものだった。
今になって思えば、ああいう課題は子供の発達障害(の一部)を見分けるために出しているのかもしれないと邪推している。
紋切りや媚びた文章で覆い隠されがちな読書感想文よりも、よっぽど自己発露が試されるからだ。
ちゃんと自発的に考えられるか、きちんと疑問を持ち、それに対して解決できる小柱や実験を計画できるか。
そういったことを見定めるある種のファクターとして活用できる、もしくはされていると思う。
ただそれは、研究室時代に子供の頃から矯正を放棄されていた考え方を改善されたから。
教授や先輩にミッチリしごかれたからこそ、無事論文を提出し、就職できたと思っている。
今でこそ研究テーマを自分から持っていき、質疑や討論を出来るようになったものの、
(たまに重箱の隅をつつくような意味なし質問をしていまうこともあるけれど)
配属当初はアウトプットがボロボロすぎて「君はなんのために研究をして学問を学ぶのか」と詰問された程だ。
敵がすごく長い槍を振り回すので、手も足も出せなかったのです。
この時に彼はとても悔しがりますが、それは攻撃が届かないからではなく、自分の正義が届かないからだと思いました。
しかし、そんな彼に「ジャスト・コーズ」という独特な能力が宿ります。
何でもできて便利な能力ですが、ヴェノラが「俺には正当な理由があります」と感じた時にしか使えません。
この上なく彼の正義感を表していると僕は思いました。
三章でも語られていますが、正義と力の使い方を工夫しているのでしょう。
特に五章でヴェノラが火と水の魔法を組み合わせて温かい水を作り出し、それを拳にエンチャントした場面はすごいと思います。
そんな発想がなかったので、読んだとき思わず「なるほど」と声に出してしまいました。
正義の有り方だけではなく、色々なことを学ばせてくれる『ヴァリアブルオリジナル』はとても良い作品だと僕は思いました。
「はい、読んだ時の感動がダイレクトに伝わってくるようでしたね。マスダくん、ありがとう~」
その音は俺に向けられたものですらなく、ただ手を叩いているだけのように聴こえた。
なぜそう聴こえたかというと、俺の読書感想文はあと半分くらい残っているからである。
「たくさん書いてくれたのは結構ですが、原稿用紙5枚までに収めることも条件に出したでしょう。短いのもダメですが、だからといって長々と書けばいいというものでもありません」
先生の理屈は分からなくもないけど、どうにも腑に落ちなかった。
頑張って書いてきた生徒に対して、ちょっと冷たい気がする。
「あと、本の種類を問わないとは言いましたが、マスダくんが読んだの……漫画じゃないですか?」
こうなったら俺も簡単には引き下がれない。
「漫画だって立派な読書だ。図書室にだって漫画はあるし、絵本だって漫画みたいなもんだ。だけど俺はそこから色々なものを学んでる。だから感想文だってこんなに書いてきたんだ!」
「マスダくん、あなたがその場しのぎの詭弁ではなく、本当に有意義な議論がしたくてそう言っているのなら放課後に話しましょう」
「はい、じゃあ次はツクヒ君どうぞ」
先生の奴、扱いが慣れてやがる。
たぶん、俺みたいな生徒が毎年いるんだろうな。
「まあ、仕方ないよ。サブカルを基盤に人生や社会を大真面目に語るのって結構キツいからね。よほど上手くやらないと、大抵は薄っぺらい自分語りになっちゃう」
隣の席にいたブリー君が、俺にだけ聞こえるよう小声でそう言った。
嫌味にしか聞こえないが、彼なりにフォローしているつもりなのだろう。
※ブクマが50も取れないっていう人向けです。
考察や妄想が膨らんで、このアイデアを誰かと共有したいと思う。
書いて、ドキドキ、ちょっと時間を置いてブクマ・いいねの数を確認。
それで自分の期待以下の数値だから、この記事を読んでいるのでしょう。
アイツより、あの作品より良いモノだと思うのに!
少なくともこれ位は数は稼げると思った!
…わかるよ、その気持ちは痛い程わかる。
でもね、君は何でもかんでもブクマするかい?いいねをするかい?
私はよっぽど後でじっくり読みなおしたいと思わないとしない。
中にはエンジェル投資家みたいな人がいて、ブクマ・いいねしてくれるけど。
まあ、これを読んでいる人はそういった人たち以外からも欲しいんだろう。
ツイッターやpixivで画像や漫画を検索して読んでなかったかい?
あと、自分に正直になって思い直してみてよ。
pixiv検索する時に「1000」とか「users」とか入れてたでしょ?
ブクマ数少ないから読まないで飛ばそ、って思ったことあるでしょう?
そういうことさ。
それが小説では難しいんだな。
できたらいいね、でも待ってほしい。
ミニマリズム万歳で多機能な商品が増えたからそう思うのはしょうがないけど。
好きな事で実は才能があって、生業とし成功している――レアケースだね。
作品や登場人物への萌えや想いと自分の自己承認欲求を混ぜちゃだめだよ。
だってさ、それってキャラや作品を自己肯定力の強化に利用していることじゃない?
結局、ちやほやされたいのは自分だろってなるんだけど。
わかるよ。でもさ、認められたいよね。
で、タイトルにある通りにある程度のことは教えてあげるよ。
デカルトという人が「困難は分割せよ」って言ったんだ。
言っておくけど、邪道だよ。
でも、書きたいし、書いたらコメントをくれたりブクマをくれる人が存在する。
本当に少ないんだ。身内のなれ合いかもしれない。
さて、自分語りはこれくらいにしよう。
そこで交流してると「ご祝儀」と「ご挨拶」でブクマやいいねを貰えるよ。
正直ね、お愛想笑いみたいなのなんだけど、やらざるを得ないよ。
え、私が求めているのはこんなものじゃないって?
良い商品だから売れるんじゃない。売れるから良い商品なんだよ。
ブクマ数が欲しいんでしょ?
「困難は分割せよ」だ。
ちゃんと評価されるには、自分の実力や作品の内容が伴ってないと駄目。
さて、ちゃんとお勉強するのも交流するのも面倒くさい人がいるよね。
だけどね、1000users入りタグは手に入れることはできるんだよ。
君もそういったことを知りたいんだろ。
ダイエット本でさ、栄養バランスとか健康とはとか要らない人だろ。
長期的に見たら良くないと思うよ。
条件として、他にブクマ高獲得作品がゴロゴロしている分野だとするよ。
極小ジャンルで彗星のごとく現れて、ブクマをかき集めるようなメアリー・スーは諦めてね。
さて、これはpixivのブクマかツイッターのいいねを獲得するための攻略法だ。
ブクマもいいねも一切誰にもしなかったアカウントでやったことだよ。
第一に、むやみやたらに長作を書くのはやめよう。
頑張っても5000~10000文字かな?20分前後で読めるといいね。
だって、そこまで書ける実力ないでしょう?
仮にそうでも分割しなよ。パート1と2みたいに。
その分、二話、三話とどんどん減っていくけどね。
だって頭を使うし、体力も使うんだよ。
もっと短く、お手頃だったらツイッターで文庫風の物語を上げるのはどう?
Pixivで500文字の作品とか読まれにくいけど、ツイッターなら別だよ。
あと、そういう文字数でブクマがある人は、その人がブランドなんだ。
俳句と一緒で文字数が制限されているが故に、センスと語彙力が求められる。
チャレンジしてもいいけど、気を付けてね。
あと字書きのツイートやpixivのキャプションは気を付けてね。
ある程度の知性は求められるんだ。はっちゃけすぎないで。
今はブクマ数を考えるんだ。
個人のあるがままを受け入れて欲しいなら、「困難は分割せよ」だよ。
活躍したいジャンルで「users」とか数字で検索してみよう。
素晴らしい作品が厳選されているはずだよ。片っ端から読んでみよう。
どんな話が皆の心を掴むのかな。どんな雰囲気なのかな。
原作が重苦しくて希望の光さえ見えないのに、ナンセンスギャグの話があった?
高評価であったとしたら、それは作者や作品に光るものがあったってことだ。
君には、少なくともこれを読んでいる限りは無縁の話さ。
駄目なポイントが見えてくるんじゃない?
良し悪しじゃないんだ。人気・不人気の違いが分かっただろう。
君のジャンルでは読者はこういうものが好きということが分かった。
え、難しい?無理だって?
でも、それでもOKです。キャラも独立した存在として愛でてもOK。
でもそうなったら、君は原作で活躍する姿を描くには実力不足だ。
じゃあ、どうする?パロディですね。現パロでもいかがでしょう。
書けないものは書かない方が得策です。
書いてもいいですが、それで評価してもらおうとは思わないでくれ。
高校生パロはどうだろう?アルバイトしている光景はどうだろう?
詳しく書けるんじゃないかな?
その場に置かれた時の困難や葛藤が分かるでしょ?
え、私には書きたい主題がある?そういう俗っぽいのは嫌?
それこそ相応の実力を身に着けてから「機は熟した」と発表したまえ。
これは相当の表現力が必要なんだ。全感覚を総動員させた文章が必要。
あと100ブクマくらいなら、なくても達成できるよ。
平日の昼間に投稿するのと金曜日の夜に投稿するの、どっちが有利だと思う?
あと、目立たなきゃダメなんだ。印象付けないとだめなんだ。
イベントに向けて神や大手が執筆に頑張っている時やイベント直後がいい。
投稿があってもサンプルだったりするから、文字数少ないし、ブクマも少ないでしょ。
え、汚いだって?まあ、本心を言えばそれでも君のよりもサンプルの方が読まれているよ。
でも言っただろう!ここはブクマ数が全てだと!
全員が全員イベントに行く訳じゃなく、本を買う訳でもないんだ。
そういう時にこそ上げてみるんだ。
枯渇しているから、普段なら足蹴りするような作品を読むだろう?
マナーの問題を指摘する人がいるかもしれないけど弱小の字書き程度なら大丈夫だよ。
ある程度認知されたなら止めようね。
あと、一気にブクマが増えると思ったらだめだよ。
最初の作品は30、50、数作品後に100、300、そして500越え作品ができるんだ。
別ジャンルで活躍していてもいきなり500越えは難しいんじゃないかな。
例外はジャンル創設期であるけれども、その時期は飢えてるからブクマ率高いよね。
あと、ブクマって徐々に増えるんだ。
ここは当初の意気込みと矛盾するけど気長に行こうよ。
いつかは本も出したくなるかもしれないね。
もうすぐ5000文字行くんだよね。よく読んでくれたね。
大事なことは、「困難は分割せよ」だよ。
じゃあ、それに向けてやれる努力をしようよ。
字書きは色々と面倒なんだ。変な劣等感があるし、そんで優越感もあるよね。
ワンピースがハードカバー小説本だったら今みたいに読まれてた?
『響きと怒り』とか『アルジャーノンに花束を』の語り手の表現が凄いんだ。
まあ、読まなくてもいいけど。
でもさ、物語を書き始めるとそういったことに関心が向くと思うよ。
書き始めて「たのしー!」ってなってから「読んでみるか」でいいさ。
拙いけど素晴らしい作品はあるけど発掘してもらえるかな?
あなたの読書感想文を以ってして本と作者を断罪する必要があなたのどんな部分にあるの?
本として情報を広範に伝播させる目的は個人の用途において各個人が選択肢の数量を増やし閉塞感の縮小と安心感の拡張について支払いを求める売買契約だと思うけどその契約履行で得られた情報を元にあなたは目的とされている本の内容による個人の価値観ではなく本と作者のついて自分を基軸とした意見の方向集約を狙っているの?
それは嫌悪か好意かわからないけれども売買契約による経済的均衡の関係とは別に情報の価値と実行効果の体感に勝手に付加価値をつけて作者と発行物に関係性を求めに行ってるでしょ
テロリストみたいでこわい
「それで、二人はもう主題を決めたのか?」
俺は探りを入れてみた。
この期末レポートで最も避けたい事は、テーマや内容が似てしまうことだからだ。
相対評価なんてされたら困るし、コピーを疑われて減点なんてのは最悪である。
「僕はオオザワの『不可逆性の時代』についてレポートを書こうかな~と」
タイナイの持っていた本に目を向けると、表紙に『不可逆性の時代』と書かれているのが分かった。
主題だけは決まったものの、何から取り組めばいいかなんて見当もついていないとみえる。
以前もそんなノリでレポートを書いて、シマウマ先生に「意識高い系の読書感想文」だと揶揄されたばかりだろうに。
「ウサクの主題は?」
「我は『未だ残り続ける、前世代の負債』だ。ここ50年の間に起こった大きな出来事をまとめ、現代にどのような負債を残しているか調べる。そして、その是非や責任を考察し、次世代に残さないためにはどうすべきか等を書くつもりだ」
翻ってウサクはさすがといった感じだ。
シマウマ先生が喜びそうなテーマに狙いを定め、更には方針まで既に固めてきている。
ウサクがそうしてやっと掴めるレベルだから、俺には逆立ちしても無理だろう。
そもそも逆立ちなんて出来ないし、出来たところで頭に血が上るだけに違いない。
二足歩行でBあたりをせいぜい目指そう。
俺は図書室内をのそのそと歩きながら、並ばれた本を眺めていく。
タイナイみたいに漠然と選ぼうかとも思ったが、それが複雑で面倒なテーマだったりすれば後が厄介だ。
変なところで油断をしたせいで春休みの予定が台無し……という事態などあってはならない。
「んー、これとこれを合わせて、ちょっとヒネってみるか」
そうして気になった本をいくつかチョイスし、うんうん唸ること十数分。
……まあ、自分で言うのもなんだが、センセーショナルさには欠けるな。
しかし、身の丈には合っている。
焦点を絞ったので、調べる範囲も狭くて楽だ。
後は目ぼしい資料を見つけ、あの馬面の欲求を満たす事実を抜き出していけばいい。
その事実から分析できるものを並べ、大まかな見解としてまとめれば完成である。
「はー、やれやれ」
ようやっとテーマと大まかな方針が決まり、俺は安堵のため息を漏らした。
グギュルルルル―――
だが、その吐息の音は、腹の唸りによってかき消される。
そういえば、俺は空腹だった。
課題のため後回しにしていたが、こいつに喚かれちゃ仕方ない。
「○○感を感じたくない」←無神経な表現をする脚本家を疑問視したらガキ?ガキはお前だろ
少しでも言葉を意識している人なら「○○感を感じる」という表現が拙いと気付く。
これは正誤から一段上の話。いや、正誤以前の話とも言える。
信じがたい。
モノ書きではない人でも感が重なる事を無意識に避けるのが自然だと思う。
「○○感を感じる」よりも「○○感がある」や「○○感を持つ」といった表現を好ましいとして用いる。
深く考えるまでもなく「感を感じる」という表現にひっかかるのが素直な反応ではないのか。
プロである脚本家がそこに何故ひっかからないのかどうしても理解できない。
脚本家なら「罪の意識を感じたくない」とでも書けば不自然にならないことくらいわかると思うが。
表現に疑問を抱いた場合、私は直接脚本家に問い合わせるのだが今回は連絡先が見当たらない。
問い合わせできないままでは気がおさまらない。
どこかにコメントくらいしてやろうと思い立ち検索結果を辿り、とあるまとめサイトを訪問した。
そこで脚本家として平気なのか恥ずかしくないのかとコメントしたところ
どこかの質問サイトから「○○感」は名詞だから問題ないという回答を貼り付け
どっちがガキだよ。
・故に私の指摘コメントが滑稽に見えた
重言に対して何も感じない愚鈍な奴が私の指摘コメントを否定する。
頭 イ カ れ て ん の か ?
自分の言語回路が乏しいせいで私のコメントがバカに見えるならもう救いようがないだろ。
死ねよ。死んどけよ。
こちらは、脚本家というプロが、言葉を知らない子供のような表現を
いかにもクールで理性的に振る舞う人物が発した台詞なので余計滑稽だった。
そんな事も理解せずに反論できる俺カッケー!と悦に入っているのだろうか。
間違いではないから用いても構わないという発想は
法律や規制に反していないから転売目的で福袋やチケットを買い占めるようなもの。
大袈裟な例えかも知れないが発想は同じ。
正誤から一歩踏み込んだ話をしているのがこいつには理解できないらしい。
間違っていないから、あるいは今まで咎められなかったから何をやっても良いというのは
こいつは小学生どころか胎内からやり直すべき。なんなら生まれてこなくて良い。
「感」という文字に溢れた世の中にしているのは何者かこいつは考えたこともないのだろう。
過剰な「感」に晒され刷り込まれている事にも気付かないボケナスが。
ガキ呼ばわりされるべきはこいつの方だ。
あまりに腹が立ったので、重言について触れている多くのサイトから要点を転載し
人を見下しガキ呼ばわりするそいつに○意すら沸いたので
「半○しにするぞ」とか「く○ばれ」とか罵詈雑言を連投したので
文意も汲み取らず掘り下げて考える事もできないくせに
やり込めてやろうという卑しい根性だけで返信するガキは
半○しではなく3/4○しぐらいやらないとダメだ。
目の前にいたらアゴを粉砕しているところだ。
ガキをつけ上がらせるだけなので、やはり即座に叩き○めすのが一番。
精神を病むまで殴り倒したいほど腹立たしい。そして嘆かわしい。
指摘や疑問を投げかけ好ましい表現を提示すると、どうしたわけか
あらゆるサイトで上記のようなやり取りを何度も見かけた。今回も同様の展開。
子供がやったことだから仕方ない。目くじら立てずに見過ごしましょう。
言葉の扱いに関しては改善や修正や情報共有という概念が希薄だ。
不思議でならない。
■違和感を感じる
この表現、変じゃありませんか?
〇〇感がある と言うのが正しいのではありませんか?
〇〇感を感じる
なんだか、女のお母さんになりたいとか、頭痛が痛い のような表現と同類ですかね
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12102478892
tob********さん
略
それでどのような不都合があるのでしょうか。
個人的には「違和感を覚える」だって厳密に考えれば重言風だと思います。
略
当方は「違和感を感じる」は「【1】不注意もしくは無神経の例」で
「違和感を覚える」は「【2】重言っぽいが直せない」と考えています。
■【2001625】イラっとくるから〜感〜感、カンカン言わないで
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?1671,2001625,2001894
落ち感、ゆる感などやたら感感いうキャスト?にイラッときます。
ショップなどでも若い店員の子が、やたら感感言いまくりますね。
http://girlschannel.net/topics/372134/
ファッション誌関係の人間って、アホみたいな言葉を次々作り出してドヤしてるけど、何?
抜け感とか丈感とか裾感、とかやたらと「~感」って使いたがる。
本当にバカっぽい!!
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
「危険が危ない」「頭痛が痛い」などにおける、同意語の繰り返し。
「後で後悔する」はアナウンサーも乱用。
「旅行に行く」「責任感を感じる」「馬から落馬する」「挙式を挙げる」
■筋肉痛が痛い?メディア関係者なら知っておきたい二重表現・重複表現20選
http://liginc.co.jp/life/matome-life/151543
略
7. 不快感を感じる
不愉快に思う気持ち。「―をあらわにする」「―をつのらせる」「―が軽減される」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/191081/m0u/%E4%B8%8D%E5%BF%AB%E6%84%9F/
例文
■読書感想文/『続弾! 問題な日本語』(北原保雄編/大修館書店/2005年11月3日初版第1刷発行)【1】〜【3】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1717.html
「違和感を感じる」(p.39〜)
【関連日記】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1176.html
略
重言を許容できるか否かは、言いかえができるか否かで判断するのがわかりやすい。
「違和感を感じる」は「違和感を覚える」にできるのだから許容する理由はない。
なにより違和感があるのは、前弾の『問題な日本語』ではあれほど「違和感を感じる」を使っていた
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1574723654&owner_id=5019671
のに、今回は1回も使っていないこと。
当方が見た限りでは、「違和感を覚える」さえp.27で1回使っているだけ。
ほかは「違和感を持っている」(p.105)、「違和感の生じる理由」(p.108)などを使っている。
こういうのを見ると、なんか都合の悪いことでもあったのかな、と勘ぐってしまう。
正当化しようと試みながら自分たちでは使わないという態度は矛盾している
(そもそも使う機会がない語彙なら、話は別だけど)。
急にもう冬級に寒くなってきたわよね、って
寒い日が来るたびに言ってる気がするけど、
効かないときはぜんぜん効かなくて、
すーすー風が出てる感じ。
一度会社の上の人に掛け合って
自分で灯油買うから石油ファンヒーター持ってきていい?ってたずねたら瞬殺で却下だったわ。
きっと消防法でこの建物で使う暖房器具はエアコン!と申請してあって、
まだ平日だといいけど、
貼るカイロも使ってみたいけど、
なんかチート感あるし厚着も肩こるし、
やっぱりポカポカ暖房を使いたいわね。
でさ、
その時の極夜行に一緒に犬を連れて行ってたんだけど
ピンチになったらおまえを食べるからなって覚悟をしてたんだって。
いろいろ前もって準備してた食料庫は
当初の計画とは行かなかったけど、
すごい探検だったみたいよ。
ただただ行って帰ってくるってだけなのに。
その時の一緒に同行したワンちゃんは
オレ食べられるかも?って危機感を感じていたのかしら?って思うと
そんなわけで
ぱぱっと書けたからよかったわ。
うふふ。
なんとなく気が進まなかったので、
ヒーコーだけにしました。
これ加糖なのかしら尾藤勇なのかしらって見るようにこころがけてるわ。
うわぁ甘い!ってなるじゃない。
ミカンの皮を乾燥して作って置いたのを煎じて飲むこれ私作ったの天才!って思ったけど、
何度も言うけど、
こんな普通の人が思い付くことは
だいたいはもうなされてることなのよね
ちなみに陳皮って言うんですって
私の考えはチンケね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
こういった大学の話になると、全く登場しないことで(自分の中だけで)お馴染みの北海道大学。きっと旧帝大の中では人権が与えられていないので遠慮しているのだろう。
ということで、帰省したものの朝まで寝付けなかった私が、タバコを吸いながら書いてみようと思う。完全なる自分語りとなることを許して欲しい。
生まれも育ちも北海道だったため、なんて事のない普通の市立中学に通っていた。しかしながら、赤ん坊の頃に白内症を患い、日中は殆ど目が見えず、親譲りの喘息と、アトピー性皮膚炎まで完備という、キャラメイク時のステ振りダイスが完全にファンブルっていたため、集団の中では嫌でも浮く存在になっていた。
自然光の中ではほぼ目が見えないので、通学途中に普通に電柱にぶつかったりするし、体育の授業でサッカーなんてやろうものならゴールポストにぶつかったりするし、10cmくらいまで近寄らないと顔も判別できないしで、他の人から見ればどう考えても頭のおかしいやつに見えたことだろう。当然ながらいじめもあった。小学生から中学2年生くらいまでが人生で一番きつかった(しかし小学生6年の時に面白キャラへの展望を見出し、そのおかげで幸運にも友達もいた)。
目が見えない道中はひたすら脳内にイメージを描いて妄想していた記憶がある。
そんか日々の妄想のおかげか、何故か文章能力だけはあったようで、小学生の頃書いたなんかの感想文が先生の心を打って、私に内緒で突然全文プリントに掲載されたり、中学の頃書いた読書感想文では国語の先生から「普段から小説書いたりしているの?」などと言われていたので、自分は将来文字を書いて生きていくことになるのかと思っていた。
そんな私の勉強法はというと、まず白地のノートが見えない(日中は黒板も見えない)ので、一度だけ集中して読み込んで、短期間で暗記することにしていた。なんの参考にもならなくてすまんな。人工光の中ではなんとか目が見えていたので、普通にテスト勉強などはした。
そして同じく人工光の塊であるテレビゲームが私の心の支えであった。喘息がひどくなっても、ゲームに集中していれば、なんとか発作をやり過ごすことが出来た。
ちなみに目は中学3年のときに手術を受けて人並みに見えるようになった。病院から帰る車中で見た、生まれて初めての鮮やかな景色の衝撃は今でも覚えている。
また、小学生の時から通っていた塾で出会った女の子のことを、中学から高校の終わり頃まで片思いするハメになるのだが、その子は頭が良く、とてもレベルの高い高校を志望していた。その子に出来る限り近づきたくて、志望校は少し無理をして高い所を目指したが落ち、このあたりからいよいよ根暗ロードへの扉が開いていく。
特待生だったので格安で通えるという理由だけで選び、格安で通える以外何も良いことは無かった。
例の好きな子のことはいまだに好きで、その子と話すためだけに塾を続けていた。高校二年生の時に人生で唯一告白されたときも、好きな子が居るからという理由で断った。その子は北海道のどこか偏差値の高い大学を受けるらしいということだけは耳にしていたため、その子との関係を続けたいがために、北大を目指した。というのは嘘だ。
実際のところは、高校受験に落ちたショックで完全に無気力になっていた。自分は何をやってもダメなんだと考えるようになっていた。物理や化学のテスト偏差値は当時30とかで、今思えば大学に行けるかどうかも怪しかった。特に行きたい大学も無かったし、先生からも見放されていた。
勉強に本腰を入れたのは高校三年の夏休みの終わり頃だったと思う。いよいよ将来を考えるという時期になった時、私は自分の心を支えてくれたゲームを作る側になりたいという気持ちが強くなったのだ。
そして、ゲームを作るのにはプログラムが必要だということを知り、情報工学系の大学に行きたいと考えるようになった。
そのことを塾の先生に相談したら、何をするにせよ基礎的な学問を学んだ方が良い、そのためには良い設備のある良い大学に行くべきだと言われ、東工大か電通大に行きたいと考えるようになった。
そこから毎日塾でセンター問題を解きまくった。学校の授業中も全て無視してひたすらセンター問題を解き、過去に参加した模試を何度も何度も繰り返した。
偏差値が最低のところからスタートしたのが、結果的に功を奏した。模試の過去問を繰り返すたびに必ず少しずつ点数が増えた。これが凄く面白くて、そこに自分はゲーム性を見出したのだと思う。
また、過去問を解くのに使ったルーズリーフを捨てずに毎日積み上げることにしていた。そこもゲーム化しようと思ったのだ。結果的に、自分のやったことがルーズリーフの山という形で可視化されて、それがモチベーション維持に繋がった。
そして願書を出す直前に受けたセンター模試でかなり良い結果を出し、今まで私のことは眼中に無かった担当教師も興味を示し始めた。
しかし流石に東工大には手も足も出ないだろうと思っていたので、前期も後期も電通大を受けようと思っていた。しかし件の教師にそれを伝えると、前期は北大の情報工学系を受けてはどうだろうかと勧められた。
かくして私は北大生になることが出来たのであった。
当時を振り返ると、理系志望者ながら国語と英語が得意だったため、センター対策も二次試験対策も勉強時間の配分を理系教科だけにほぼ全振りできたのが良かったと思う。
【その後】
とてもとても好きな人がいた。
けれど一つだけ、たった一つだけ引っかかることがあった。
いまになってみると、その人は私のことなど大して好きでもなかったんだと思う。
苦しくて苦しくて何度も突発的に死のうと思った。死ななくてよかった。
けれど当時はきっとわかってくれると希望を繋いでいた。
会って話すと泣きそうだし、LINEだとその人はすぐ怒るしで、手紙を書くことにした。
論文書くときの感覚が染みついているからか、1つのことを主張するのに10000字くらい使ってしまう。
研究者の皆さん、そうですよね?
手紙はめちゃくちゃ長くなった。
返事は来なかった。
同じ腱鞘炎になるのなら論文を書いてなる方がよかった。後悔していないというと嘘になる。
研究者ではない友人にこの話をすると尋常でないくらいにウケたので、ここでお焚き上げして新しい年を迎えたい。
研究者の皆さん、いくら感情的にならないようにしようと思っても、論文のノリで恋文を書いてはいけません。
■長っ 引くわ
□いやこれでもう別れるんやったら、アレもコレも伝えときたい思うて
□〇〇をやめてほしい理由 で3節 1章ある
□何が君にダメージになるねんって言われたから、「ダメージのかたち」で1章
■面白すぎる
□「どうしてほしいか」でもう1章やねんけど
なんで
ここ泣くとこやん 泣きながら書いたのに
■ええー 声出して笑うたわ
□そんなに受ける?
■真剣やのにごめん
□渡したら受けるかな
封筒に入らへんねん
■あたりまえやん
□赤入れられて書き直し言われたりして
かわいそう
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
単語を拾って、あとは適当に頭の中で作文するだけ。文法に従って読むことができない。ほとんど小学生の読書感想文レベル。文章を読んだら、「僕はこう思います」じゃなくて、「ここにはこう書いてあります」が基本だろ?そんなことセンター試験で学ばなかったのか?
読めない=書けない、考えれない、の3重苦になる。メールも仕事の書類も読めない、書けない。改善ポイントにも気づかない。そういう奴に限って、メモ帳にはぎっしり書き込んである。こういう奴は論理無視で思考が無軌道になるから、会議ではペチャクチャ喋るけど殆ど意味不明な内容になって議論を混乱させる。決め台詞は「学歴なんて関係ない」
文章を読むのは、論理8割・知識2割。論理は、高校生までの、英語・数学で鍛えられるから、この時期の勉強に手を抜いた奴は修正が難しい。学歴は本当に大事だよ。
基本的には何をやっても良く、時折とんでもない研究作品が出る事も多々あるが
そもそもまともに自分で考えて出来る子供など殆どいないため、大体は親がその大半を担わなければならない
はっきり言って、何の意味があるのだろうと子供の頃は考えていた
大人になり社会人となり、様々経験を得た今、個人的に夏休みの自由研究の目的とは何かを考えて、至った結論を持論としてまとめようと思う
まず最初に結論を書くが、夏休みの自由研究の在り方や目的は『結果』よりも『過程』が最も重視されるものであると考えている
時折凄まじく、大人でも唸るような自由研究が生まれてくるが、それはよほどの熱意を持ち元々の蓄積が無ければ出来得るものでは到底無いし、普通の小学生に求めるのは酷な話だ
そもそも大学生であっても、そんなものは卒業レポートとして提出レベルになってくる
そして『過程』を重視するのであるのならば、テーマは何でもいいのではないかと思う様に至った
正直、ここから先はかなり個人的な意見にはなるので、一般の感覚とは少し離れるだろうしこうしたものは認めないという人も多いだろう
だがしかし、飽く迄も『自由』な『研究』という名目なので、悪いことをしないのならば基本は何をしても良いと私は解釈する
さて、前置きをした所で
何を調べるのか、これが定まらないのであれば自由研究など進まない
そもそも子供の主体性を伸ばしたいという様な思惑も含まれるだろう事は自由研究という名前からして感じるのだ
ならば私は『その子が、今最も好きな事、好きな物に対して調べさせる』のはどうかと思う
そんなことは言われなくても、誰もが分かっているだろう
だが、好きなことが分からない子が大体だろう
だから、なんでもいいのだ
その子が、今一番ハマっている事を言わせて見ると良い
スポーツでも良い、料理でも良い、TV番組でも、youtuberの作品でも、ゲームでもアニメでも良い
その好きな事に対して、なんでもいいから調べてみるのだ
例えばスポーツで、野球が好きならば、変化球の投げ方を研究したとして毎日ボールを投げてみて、どうすればどう動くのか書きだしてみれば良い
最後に自分の感想を入れて締め括ればそれで立派な自由研究ではないだろうか
やるのが好きではなく見るのが好きなであるなら、甲子園などの試合を見て、試合ごとに自分の解釈を乗せて書いていけば面白いだろう
本を読むのが好きなら、作品ごとに考察を入れて、この時登場人物がどんなことを考えていたのか考えてまとめてみたらどうだろう
読書感想文と似ているが、形式に囚われず好き勝手に考えて書き出すのだ
いっそ自分で小説や漫画を1つ書いて完成させるくらいしても良いだろう
アニメも同様だ、1つの作品を一通り見て、それについて感想を述べるというのも面白いのではないか
今アニメで放送されている『はたらく細胞』を見て、各細胞の働きをまとめるという発展だってあり得る
だが私はそれでもいいと思える
例えばだ、対戦型ゲームなどで、それぞれのキャラクターの戦法を調べるなど面白いと自分は感じる
wikiに乗っていたとしても、自分で調べてまとめるというのは、十分に研究の1つだろう
実際にそれを自分でプレイして、思ったことを感想として書き込む
全部は無理ならば、いくつか絞ってそこに焦点を当てるなどすれば良い、そしてやりこむのだ
RPGであっても、どうすれば効率よく進められるか、レベル上げに適したところはどこか、この敵はどんな戦法が効くのか
wikiで調べてまとめるなり、逆にwikiに一切頼らずクリアしてみるなり、要は何をやったか一々書き出すのだ
wikiではこう書いてあった、でも自分でやってみてどう思ったか書いてみれば凄く頑張ってる感じもする
自分が調べたいと思った事柄を、自分がやりたいように調べる、あるいは作る
それをまとめて1つの成果として完成させる、十分ではなかろうか
このように、自分の好きなことを1つ、なんでもいいから言わせて見て、それに対して何か調べさせるといのが大事なのではいか
対象が何であれ、調べる、実際にやってみる、形にしてみるという『成果』が得られる
というのも社会に出て大事なのは、トライアンドエラーなど実際にやってみる、そして自分なりに考える、だと思うのだ
現状を分析し、あらゆる角度からアプローチをし、少しずつ条件をかえて進める
興味がある事柄に関してまず調べる、調べたうえで考える、立派な研究ではないか
そうやって改善していくのだ
冒頭でも語ったが、小学生などが出来る自由研究なぞたかが知れている
しかしそれを毎年繰り返していけば、年齢が上がるにつれ質は上がっていくのではと私は思う
これが私が夏休みの自由研究というものについて考えて至った持論だ
正直、実際に行うにはかなり反発があるだろう
特にゲームに関して調べましたと言えば、中身も見ずに激高する教師が多数いるのはまず間違いない
これらの研究結果という代物を受け止め、そのうえでアドバイスが出来る教師の度量なども必須になってくる
やり方も分からずテーマも決まらず、ただ自由研究をやれと言われてぶん投げられるより、好きな物に関して調べてこいと言った方が確実にやる気が高まる
ゲームだから駄目だ、などと言われず、ゲームでも良いとすれば視野も広がる
可能であれば、夏休み前などに教師などの大人がある程度誘導してやるのが好ましいのだが
好きなことを聞き出し、そのうえでどんなことをやらせればいいか、など
勿論全く興味がない物を押し付けたのでは、まず子供は絶対にやらないと断言できる
結果、夏休み終了直前に嘆くのだ
まあ、子供の興味などコロコロ変わるので、始まる頃には飽きて結局終了直後に嘆く子も多いだろうが
もちろん、既存の自由研究の様なテーマを行うのもそれはそれで良いだろう
自由研究キットを買ってやってみるというのも否定はしないし、実際にやってみるという成果が得られるのだ
だが、結局やらされてる感がある物よりは、自分の好きな物としてやらせる方が記憶にも残るしやる気も出ると私は考えている
……因みに、今の私がこれらの前提で自由研究を行うとするのなら
元々銃器類が好きなのもあるので、この際だからと各国の銃器の歴史を年代別に書き出して、どう進化していったのか表にまとめていくのも面白いなと感じている
大半がwikiなどに乗っているが、それを年代別に並べて見やすくするのだ
これはこれで中々いい自由研究になるのではないだろうか