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2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(2)

戻る→anond:20210301080105

倉橋由美子聖少女

まり男性女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的早熟少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャー知的論理的自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマサマータイムトラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。

さておき、これは近親相姦お話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。

例の文学少女から薦められて読んだことでも思い出深い一篇。

ミラン・クンデラ存在の耐えられない軽さ」

頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かないモテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞきまれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉現実適応しようとした姿なのかもしれないのだ。

それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。

あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワンカラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまタイプキャラクターが好きだ。

メアリーシェリーフランケンシュタイン

死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人ヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通フェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。

それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気山脈にて」も愛好している。

ロード・ダンセイニ「ぺガーナの神々」

架空神話ショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品基本的に短く、しょうもないオチ作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精魔法も見せてくれる。

テッド・チャン「息吹」

あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムテーマ作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。

表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙お話なのだけれども、そのロボット自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間サイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。

イワンセルゲーヴィチ・ツルゲーネフ「初恋」

学生時代自分女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎作品も同様の理由で好きだ。

自分馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。

イサク・ディネセン「アフリカの日々」

ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカ植民地で暮らす女性視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。

個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカ前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地支配者側から視点批判的に読まなければならないが、色眼鏡比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。

植民地時代アフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くから貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人満州朝鮮半島台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ

J・R・R・トールキン指輪物語

はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。

かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。

中島敦「狼疾記」

李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。

これは「三造もの」と呼ばれる中島敦私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明無意味さに対する形而上学的な恐れや不安意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年文学少女たちは、その言葉無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。

ウラジーミル・ナボコフロリータ

膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフ作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。

しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバート夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータ内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。

ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手男性心理の解剖である

新美南吉「屁」

ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供挫折を描いた小説であり、この社会弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近話題から告発した話なのだ自分がした屁の責任かぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢のものじゃなかろうか。

短いし、青空文庫で読めるのでオススメ

https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html

仁木稔「グアルディア」

遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールド未来舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学陰謀論社会関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。

仁木稔作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台ラテンアメリカ日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズ最新刊が出ないか、今か今かと待っている。

イザベラ・バードイザベラ・バード日本紀行」

明治一年日本都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。

著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異イメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識内包した、強固な偏見に根差しものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。

ハン・ガン菜食主義者」。

とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なもの嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦描写に優れる。

妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。

姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。

韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。

進む→anond:20210301080225

2021-01-25

anond:20210125174505

この増田柳美里とか植本一子とかの著者自身がめためたになっていく私小説とか読んだらメンタルやられてしまいそう。

2021-01-15

anond:20210114214645

「それ言い出したら、誰も自分以外の登場人物が出てくるフィクション書けなくなる」問題

(例)

 ・異性が登場→男性女性差別

 ・老人、子どもが登場→児童搾取エイジズム

 ・典型的ヒーローヒロインが登場→能力差別ルッキズム

 ・普通会社員が登場→職業差別作家はたいて普通会社員ではないので)

更に言えば、舞台・状況も「いま、ここ」限定。当然それを「いまその場において消費する」以外の楽しみ方は差別である

(例)

 ・居住地以外の場所が登場→地域差別

 ・生きている時代以外の時代が登場→先入観に基づく過去への偏見

 ・作者の属する文化以外の文化が登場→文化差別


まりライブ私小説ライブで聞く以外の娯楽は禁止

2021-01-09

私小説

子供が欲しいと思ったけど、夫の精子ほとんど運動していないと先月医者から告知された。

今 日、 二軒目の泌尿器科で精密検査をしたけど、やっぱりダメだった。

帰ってきた夫は、「治療は薬を飲むことからはじまる」とか「また三ヶ月後に通院だ」とか話して、

思ったより 悪い結果だったね?落ち込んでる?と聞いてきた。

自分よりも子どもを欲しがっている私の事を気にしてるのだ。

子供がいてもいなくてもいい夫は、いつもどこか楽観的で少し私を苛立たせる。

作らなかったらいつか後悔するかもしれないから、欲しいかな、夫はいつもそんな風だ。


三ヶ月前ふたりで受けた妊活ドッグは、ミカ健康体だった、卵子のも歳のわりに多いらしい。

ミカ は小さく、そうだね、と答えた。頑張れば明るく答えることもできたけど。

アスペルガー気質のあるマナブには、明るく答えると本当に気にしていないと捉えられるがちなのを、 この三年で学んできたからそうしたくなったのだ。


気分転換イオンモールに出かけてスタバにでも行こうか、 ということになった。

髪型はこれでいい?とマナブが聞いた

マナブの髪はいつもちょっとだけイマイチだ、

特に今はコロナからと、髪を切りに行ってなくて伸びかけで余計決まらない。

もっとグリースつけたら?と言ったら嫌そうにしていた、

しょうがない、ミカが落ち込んでるみたいだから言うこと聞いてやっか」

マナブはそう言ってやれやれと拗ねたような笑い方をして茶化した、

その瞬間、ミカは何もかも悲しくなってしまった。

責めてはいけないことを責めないように、

落ち込んでも仕方のないことを落ち込まないように、

必死気分転換しようとしている気持ちもなにもかも、アスペルガーには不可視なのだった。

結婚直前から毒親気味の姑とマナブトラブルに散々巻き込まれてきたことや、その辛さを泣いて訴えても、

「やりようがないんだよ」と寄り添ってくれなかったときの胸が張り裂けるような痛みが、フラッシュバックした。

2020-11-14

素晴らしくなるはずだった今日

 私は非常に気分を損ねていた。

 帰りついた自宅の駐車場に車を停めて、運転席の背もたれをうんと倒し、不貞腐れて仰向けに寝転がっていた。

 朝、私は今日を素晴らしい日にしてやろうと息巻いていた。

 喫茶店サンドイッチを食べ、たっぷりコーヒーをちびちびと舐めながら、窓際で日向ぼっこをしよう。その為にもお気に入り目玉焼きシャツを着て、人に会う予定もないのに化粧をして、車通りの少ない道をゆっくり走っていこう……。そうやって幸せの逆算をしながら、あらゆる準備を嬉々として行っていた。

 目当てだった喫茶店は混んでいたので諦めたが、いくらか離れた元酒屋のそこは空いていた。カフェスペースに先客はおらず、そっと床板を軋ませるのは、なんとも言えない優越感があった。注文が届いてからマスクを外す。なんともいい匂いだ。ピザトーストは分厚くもっちりとして、確かな食べごたえでもって私を満足させた。

 ナイフフォークを用いてピザトーストを切り分けている間、三人連れの女性客が入ってきた。やや離れた席に座った彼女たちは主婦友達らしく、子どもの話やなんかで盛り上がっている。店内のラジオと合さって、程よい午後の気だるさを演出していた。

 デザートコーヒーが運ばれてくると、プリンは直径10cmほどのボウルにたっぷりと入っていて驚いた。甘くざらついて飴がけになったそれもまた、なかなか気に入った。

 半分ほど残したコーヒーを冷める前に飲んでしまうべきか、時間をかけて舐めているべきかで悩んでいると、今度は三人連れの若い男性客が入ってきた。灰皿はないか店員に声をかけて、禁煙から外でどうぞ、マスク飲食が始まるまで外さないようになんて言われている。

 彼らは私の隣の席に座ってお喋りを始め、もう向こうの主婦の声も、ラジオの音も聞こえなかった。許容できない距離人間が増えたのが不快で、私はマスクをつけた。こうなってはのんびりとコーヒーを啜っているより、さっさと飲みきって、それから自分世界に閉じこもってしまうのがいい。そう思って一度つけたマスクをずらし、コーヒーを飲み切る。マスクを戻して背もたれに体重をかけた。

 若い男性客が言った。

一口飲む間だけマスクをずらして、すぐに戻す人はこの辺りじゃ初めて見た」

 私は眉を寄せ、それから絶望した。なんだこの躾のできていない男は。こんな人間のたった一言で、素晴らしくなるはずだった私の一日は台無しにされなければならないのか!

 男性客たちをひと睨みするが、気にした様子もない。うんざりして頭を抱える。ほんの一分、もしかしたら十五秒、忘れようと目を瞑ったがとても無理だった。不機嫌なまま立ち上がり、ごつんつんと踵を響かせてカフェスペースを出る。会計をしたが、そのまま店を出ていくのは悔しかった。

 酒屋と雑貨屋の合わさったようになったスペースをぐるりと回って、何かいものがないか探し出す。地下にワイン蔵があるのは知っていたが、ワインはあまり飲まないので降りていくのはやめた。ウイスキーと迷ったが、冷蔵ケースに珍しいビールが並んでいたので、二種類選んで買った。今日ではないがそのうち、餃子つまみにこれで晩酌をしようと決めた。その瞬間ばかりは心が晴れたが、すぐに曇ってしまった。

 予定よりも早く店を出て、帰路を辿る。本当なら服屋にも寄りたかったが、もうすっかり気持ち萎えしまって向かう気になれなかった。

 いつまでも腹が立って、悔しかった。全く不躾な男だ。あんなやつは新型の病気とは言わないから、インフルエンザにでもかかって一ヶ月ばかり寝込んでしまえ。そして金輪際喫茶店になんて近寄らず、自宅で駄菓子つまみ発泡酒でも飲んでいればいい(私は普段そうやって酒を飲むことが多いので、別にそれが粗悪だなんて思ってはいないが)。なぜ笑われなければならないのだ。なぜあんなしょうのないことが気になって仕方ないのだ。どうしてこんなに打ちのめされなければならないのだ!

 どこか公園にでも寄ろうかと思ったがやはり気が向かず、結局帰ってきてしまった。家に入る気にもなれずに、車の中に寝転がる。この空間には私一人だけだ。私をおびやかすものは何もない。本当はそういう安心感を、どこか外の世界で味わいたかった。孤独や悲しさが溢れて流れていった。

 このままで今日を終えるなんてとてもできない私は、日記を書くことにした。この自分勝手で、被害妄想的で、矮小で、傷ついた気持ちを、どこか遠くに追いやりたかった。それはそう、どこか私小説と呼ばれる物に似ている気がした。

 日記を書き終えると、ずいぶん心が穏やかになっていた。今日という日が私の頭を離れて、このたかだか二千字足らずに収まっている。この出来事はもう、私から切り離された私以外の何かで、私の興味を引くに値しないものだった。

 しかし、ここまで真面目に書いたら誰かに見てもらいたい。閲覧数がいくらかついたら報われるし、私を擁護してくれる人がいるかもなんてスケベ心も湧いてくる。くだらないと言われれば古より伝わる「嫌なら見るな」のアスキーアートを心の中に貼り付けよう。そう考えて、私は投稿ボタンを押した。

 蛇足ながら、今日という日は結局、素晴らしくもなければ最低でもなかった。スマホいじって寝ますありがとう

2020-10-11

持たざる者搾取されずに自立して生きていくには

どこかの増田が、青葉真司はラノベなんか目指さず、西村賢太のように私小説をやればよかったと言っていた。

こういう現実的進路指導には巡り合えず、きれいなことを言う弱者ビジネス養分にされるだけで一生を終えるのが底辺だと思う。

スポーツお笑い芸能ワナビビジネス養分で終わるリスクが高く、持たざる者にも可能性のある道とは言えなくなった。

前向きに頑張ろうとして自己啓発系につかまる。プロ弱者は実質ヤクザという認識世間に広まり余程フォトジェニックでないと自立は難しくなった。

では、どうすれば良いのか。

一つは「太鼓持ち」だ。モデル菅首相、寂聴秘書

トップにいるバカを徹底的に褒めあげフォローすることで、太実家子女空気のように得ていた機会を得るのだ。

ブサイク低学歴貧困などの資質は、バカの気分をよくするため優位に働く。

のちにバカをヨイショしてたという理由非難されるリスクがあるため、成功ギリギリの段階で無能への正直な気持ちを公の場で発言したり引きづり下ろすと良いだろう。

なんかこれって歴史によく出てくるやつだけど、選択肢のなくなった社会って同じようなことになるのかな。

2020-10-07

適切な増田の長さ

ネタ


問題提起


私小説ポエム
  • ある程度の文量で段落を切る。
  • 一行が長い、一段落が長いとその長さの分だけ離脱率が比例して増える
  • 渾身の長文こそ、推敲して削ぎ落とすか見やすい改行を入れる


暴露、時事


統計、まとめ
  • そも増田に向かない。ご苦労なことだと思う。
  • スクリプトとか以外は手を出さない方がいい。
  • 100項目あったとして、見られるのは1から10と99と100だけ


最後

増田に期待しても、増田に期待してはいけない

2020-10-06

他人にクソを浴びせかけるということ

この日記今日「マイ日記」というアプリで完全プライベートで書きはじめたものだが、思いのほか長文が書けたのでこのクソを人に浴びせかけるとどういう心の動きになるか、どんな文句を言われるか発達障害者ADHD)が認識の歪みを治したい半分好奇心半分で匿名ダイアリー投稿するものである

以下アプリコピペ

日記をつけることにした。このアプリタイトルをつけなくていいのが良い。タイトルは頭を使う。それはともかく、非常にダラダラした1日だった。昼夜逆転し、やる気が起きず、テレワーク始業の時間になってようやく眠気が来るという有様だった。寝てはいけないとは思いつつ、そのモチベーションが保てずAmazonプライムをダラダラ見ながらというか聴きながら就寝。

14時あたりに起きるがこの体たらくに罪悪感、金曜から返信していない取引から怒られる恐怖(実際この程度の遅れで怒る人間はいないが、見てるのに返信していないという罪悪感が被害妄想を駆り立てる)、全力を出しても生活を立ち直す未来みえない絶望などから、今やるべきことを無視してまたAmazonプライムを観る。

コンサータが切れそうなので病院を予約したが、上記理由と「黙って業務時間中に行くのは会社に悪い」という謎の罪悪感が伴ってやはり動けない。散々現実逃避でサボってたくせにである

いや、単純に億劫なだけなのを「会社に悪い」という後付の理由真人間っぽく取り繕っているだけだな。自分への言い訳だ。なんとなく頭の片隅では見苦しい言い訳だと感じつつも、結局はこの期に及んでいい人ぶりたいんだなという事実に今気づいて少し発見だった。さらに、日記でこれを赤裸々に書くことで自虐的気持ち良さにも浸っているのかもしれない。そういうのは思春期学生とき卒業しとけよ。と別の自分が突っ込んでいる。でもこれは赤裸々に書くものと決めたから。

というわけで、とてつもなく億劫だったのでとりあえず気持ちの良いことをとオナニーに逃げる。野原ひろみさんのエロ漫画でシコりつつ決め手にかけるのでエンジェル倶楽部を流し見するも結局は中途半端はところでイく。「こんな世界に生きれたら」と願った。

その後一服して遅れつつも心療内科に行きコンサータをもらう。27から36に増えた。これでなんとか動けるようになれば良いのだが…。とは感じつつも同時に薬に頼るのも限界があるという事実脳裏にへばりついている。

今日進歩はこの日記をつけようと思ったことだ。日本語おかしくてもいいので思考客観的に見れるよう、ハードルを低く設定して続けていきたい。「今日ダメだった」の一言でもいい。日記が書けないほどのモチベーションの低下がみられるという事実が記録されるからだ。(この理屈だと何も書かなくても事実として書けなかった、という記録が残ることにはなるのだがそれはあまりにもその日を思い出すきっかけがなさすぎる)

まり「頑張らなきゃ」と思わないように意識したい。てにをはや語尾の統一表記揺れなどは気にしなくていい。ここに至っては自由なのだから自分でその拙さを許せるかどうかだけだ。(とはいいつつ、見直して流石に変だと思うところはちょっと直してしまう)

しか初日で単なる思いつきにも関わらず、(あるいは初日から?)誰にも見せなくていいという気楽さから結構長文が書ける。これは意外だった。自分の中は空っぽだと思っていたが、他人相談するより吐き出すほうが向いているタイプなのかもしれない。既にもっともっと書きたいと思っているが、この気持ちが続くかというと謎である。寝て起きるとリセットされるのが常だから。むしろ家に帰ったら別のことがしたくなるだろう。そのほうが楽だから。場に気分が左右されすぎだ。自分がない。アイデンティティを得たい。

※結果、家に帰る途中でコンビニ寿司豚汁を買い、タバコを吸いこの日記追記をしている。金ないのに寿司なんか買うな自制心ないボケナスと思いつつ、追記するモチベが保てているのは褒めたい。これから深夜までサボった分の仕事も取り戻そうと思っているし。

だけど、思えば中学のころから辛い気持ちを吐き出すために絵を描いていた。僕の表現本質は排泄なのだうんこ他人ぶっかけるわけにはいかない。この年になって自覚するとは、頭が悪いにもほどがあるな。自分文章をみてすこしすっきりするのは「こんな大きいうんこした」という満足感と相似するものだろう。

からクリエイターに向いているとアールキャップなどでも診断されるが、今のエンターテイメントは数が多すぎてレッドオーシャンだし、全体的に洗練されすぎていて、上質な作品さえも話題性がないと見てもらえない。この手の診断のクリエイターとは社会不適合者の言い換えであることは理解している。

というか、クリエイターはたいてい締め切りがあって、よほどの大物であるか、かけがえのない技術がない場合クライアント要望市場を的確に把握しつつも個性を出す必要があるので、普通サラリーマンよりコミュ力や自制心が必要だと思うのだが。なぜ社会不適合な解答をするとクリエイターを勧められるのか。検査を作ってる人間クリエイティブ仕事の内実をきちんと理解しているのか?発想力や企画力必要からこれじゃない?知らんけど。レベルしか思えないのだが。

しかし、小学生のころはアホだがよく笑い、運動も好きで、友達結構いてなおかつ可愛げがあったと思うのに、どうしてこうなった理由は明白、中高時代の荒んだ生活のせいなのだが。

中学校に行くのが本当に嫌だった。不良に弄られる、遊びで殴られる恐怖に支配されていた。また、小学校時代の友人たちがどんどん環境適応していき、若干の攻撃性を帯びていくのも嫌だった。とは言っても不良になったわけでもなく、一般的にみて普通だったのだが。超個人的な細かい部分の変化だ。ちょっと口が悪くなったりメダルゲーム競馬遊んだエロくなったりしただけだ。むしろそれはポジティブなことで、健全でたくましい成長と言い換えてもいい。僕が自意識だけ肥大して、強くなれなかっただけだ。

なにはともあれここで自己肯定感自己肯定感なのかな?ともかく人格形成において何かしらの重要な要素が欠落したのはたしかだ。なにもやる気が起きなくなった。)がなくなり根暗となる。

それを引きずり高校に進学したあと友達が出来ず、マイナージャンル音楽を聴いてアイデンティティを保っていた。良さは全然わかってなかったのに、みんなにないものをもっていると思いたかった。いわゆる中二病というやつだ。実際、あんなに聴いていたのに曲の展開や歌詞などうろ覚えだ。下手するとそのジャンルの有名なバンド名も出てこない時がある。聴いていたというより聞き流していた。

三年になると優しいオタクたちが仲間に入れてくれたが、彼らのパッとしなさに内心見下していたので「僕はこいつらとは違う」と一線引いていた。客観的に見れば同じどころか僕のほうが気色悪くてヤバいやつなのに。今でも交流はあるものの、話が合わなさすぎてやはり見下している部分があるのは否定できない。というか、純朴すぎて自分社会不適合者であるにもかかわらず「社会でやっていけているのだろうか…」と最悪すぎる心配をしている。何目線なんだ。いや、最悪すぎると自虐して予防線を張るのやめたほうがいいよとまたもや別の自分が言っている。はあ。

大学に関しては楽しかったと思わないと自分が保てない。実際はコミュ障すぎてサークルでも「そこにいた」だけなのだが、それを弄ってもらえたおかげでなんとなく存在感は出せていた気がするので、青春経験した、というカウントにしておきたい。そうしないと僕の人生悲惨すぎるので。彼女はいなかったが。ただ、尊敬できる人間には少なから出会えた。うーん、こんな赤裸々な日記でも大学生活に関しては脳のリミッターが解除しきれず、曖昧擁護してしまっている。恐らく尊敬出来る人たちと同種の人間なんだと思いたい心が、まだある。

話しはエンタメに戻るが、昔も話題性重要というところは変わらないかもしれないが、私小説は排泄に近い表現ゴロゴロあるからなあ。とはいっても、詳しくはないかイメージの話だ。したり顔であるからなあ」じゃあない。しかし昔のほうが荒っぽい、素材そのままみたいな表現が許されていたのはたしかだろう。

売れる売れないはともかくとして有効データなど取れないし、今ほど娯楽が多くないのでともかく試してみようという機運と余裕があっただろうと思われる。知らんけどきっとそうだろう。そのかわり、働き方はめちゃくちゃだっただろうけど。その荒っぽさにはついていけなかっただろうから、どっちにしろ詰んでいる。というか、そもそもクリエイターなれるほど上等なクソは捻り出せない。そんな面白人間ではないし、根気もこだわりもない。

僕はどこへ向かい、どこに落ち着くのだろう。一生落ち着かないのかもしれない(むしろそれが濃厚である。なんせ学歴私立文系偏差値50程度、仕事もできない、生活破綻している発達障害者なのだから今日明日も多少の見栄と死の恐怖によって死んだように生きている。本能と少しばかりの社会性によって辛うじて生かされている。タバコを吸ってゆるやかに自殺しているが、体調が悪化するとやめてしまうことの繰り返しだ。

こんな中途半端自分でもどうか、少しでも幸せ人生になりますように。わがままにも祈らざるを得ない。アーメン

ああ、掃除をしなければ。

2020-09-30

青葉は私小説でも書けば成功してたかもしれんのに、ラノベみたいな安い商売にこだわるから失敗するんだよ

自分が何をやりたいか、ではなくて、

自分には何ができるのか、というのを社会という戦場を眺めながらよく考えることだよ

やりたいことをやったら成功した、という人は、やりたいこと=世間ニーズ、が偶然マッチしただけのラッキーマン

ちょっと才能があるくらいの凡人はそのニッチフィールドを見つけるのが大前提

それを見つけたら、自分がやりたくない、乗り気でないと思うことでも仕事だと思ってやることだよ

自分趣味時間まで自分のやりたくないことをやる、ということに抵抗感がある人はいるだろうけど、

それは仕事以外の時間を使ってでも、自分のやりたくないことだけどやれば成功するかもしれない、と思えば耐えられるはず

青葉のみならず、やりたいことをやっているから失敗する、という人は世間を眺めていて非常に多い

2020-09-18

30000字のゴミ小説)書いた

現状31000字のゴミである

小説を書き終わった直後には、フルマラソンを走り切った瞬間のような、もしくは事が終わって出し終わった瞬間のような感情の昂りがあるので、それをしたためます

フルマラソン走ったことないし、女だから出し終わった瞬間のことは分からんけど。

◆とりあえず最後までたどり着いた

最後まで行くまでは、とにかく雑でも書いていくしかない。

仕事終わりに三時間ずつ、月曜日から四日間で書いた。

ざっくりとストーリーは決めてあったが、書いているうちに細部が詰まっていって楽しかった。こうなったらこうなるだろうの積み重ね。

マジでハッピーエンドにする方策を考えた

自分で書いておいてなんだけど、ハッピーエンドが見えなかった。救いがなかった。救うために、自分で作った設定をどんでん返しでひっくり返す方法めっちゃ考えた。これが楽しかった。そりゃ最初の枠組のとおりに升目を埋めていっても、作業って感じて何も楽しくはないわな。

感情の変化を描写の積み重ねで表現するのが大変

「○○は気が変わった」の一言で済ませたくなる。とりあえずそれで済ませて先を急いだ部分もある。今後はそういう細部を加筆して詰める。

小説って、どうなってんだろうね。

結構読むけど、自分で書いてみるとまだどうなってんだろうって思う。わかんない。そう思えただけでも書いてよかったと思う。

お盆に、25000字のゴミを書いた。でもそれは私小説ぽくなっちゃったから捨てて、そのあと5000字のゴミを二、三書いて、なろうやピクシブに上げた。

まぁ、全然読んでもらえなかった。ランキングに入っている、異世界系とか、二次創作とか書けばいいのかな?と思ったけど、別に寝る時間を削って書きたくないものを書いても仕方ないよな、って自分に言い聞かせた。

書きたいと思って書き始めたものですら、途中で「私は深夜2時に、やたら人が死ぬ話を書いて、何してるんだろ…」って虚無感との戦いになるのに。

ちょっと寝かせて添削しようと思う。

2020-09-03

anond:20200903090009

お母ちゃんが恋しくなったんじゃないの?w

カウンセラーでもない奴に私小説ただで切売りする程人間出来てねえから

2020-09-01

anond:20200901225900

僻みだね。んで、みんな半ば自覚している。

「やはり、俺の青春ラブコメは間違っている」とかああいう一時期流行った私小説ラノベがその辺のオタク心理をよく捉えている。

2020-08-22

私小説が嫌いです。

小説にはストーリーを語るものと、心情を語るものがあって、私小説は心情を語るものだと思う。

どちらとも関係ない文体とか文章かいものもあるが。

まあ、私は他人の心情など知ったことではない。

でも、作家個人の心情は知ったことではないが、その時代の人がどんなことを考えていたのかという点には少しは興味がある。私小説はその時代の気取った?意識の高い?人たちがどんなことを考えていたかという歴史資料としては価値があると思うのである

さて、本題だが、なろう系小説である

なろう系小説ストーリーを語っているように見えるが、実質的ストーリーには差はあまりなくて、それよりもむしろ作者の心情を語っていると考えたほうがよいのではないかと思うのである文体とか文章かいものを完全に無視すれば、これは私小説に近いのではないだろうか。

そしてやはり、この時代の気取らない?意識の高くない?人たちがどんなことを考えているのかという歴史資料として価値があると思うのである

2020-07-18

女のクソ長文にうんざりはするけど増田なんてそんなもん

お前日本死ねとか見たかよ、あんお気持ち長文が国会で読まれるんだからうそれは増田がそういうサイト真骨頂ってことよ。

でも女もお気持ち吐くけど男もお気持ち吐くしな

なんだったら増田だけじゃ終わらずに他のサイト使って妙な文章書いてたりもするもんよ

なろうなんてその最前線よ、現実がどうにもならない人が異世界に救いを求めて都合のいいアイテム都合のいいシステムを作者なりに賢い手段を使って異世界の面々になんだとしてもらうのが作者のお気持ち長文よ。

なんだったらもっと訳のわからない文章書いてるなろう作者なんていっぱいいるからね。

から別に増田が女オタク私小説なろうになろうとなろうが男オタク妄想増田になろうとそれが人様のホームページに長文を晒してる行為なら一緒だとしか思えないのよね。

うんざりはするよ?うんざりはするけどたまにそれを見て「ほんとそれな」とか言ってる自分意見を書くこともできない去勢されたアホの為になるなら良いんだよ。去勢されたアホは感情すら取り上げられかけてるんだから、そこに感情が蘇ってくる文章があるならそれはそれで素晴らしいじゃないか。たとえそれがオタク気持ち悪いよくわからない作法の話の垂れ流しだとしても、そこに救いがあるじゃあないか

からお気持ち長文の作者が実は男でしたでもやっぱ女でした、でもそれがなろうで異世界奴隷侍らせてチンチンの思うままに進ませる文章でもいいんだよ。

規約に沿っていればね。

から奴隷の奴は最終なろうじゃなくてノクターンかもしれんな。

とにかくうんざりするのは俺の感想だし、チンチン硬くすんのも俺の感想。そしてそれが規約に沿った表現法で他者を明確に傷付ける意思が無い限りはその文章はどこでも描かれていいんじゃねえのって思うの。

2020-07-16

anond:20200716002627

フィクションを読むのは、作者の妄想に満ちた世界観を読み解いて寄り添っていかなきゃならないか結構しんどいんだよ。

設定も学園だの中世ヨーロッパ風だのありきたりだったり、主題受験とか仲間とか陳腐だったり。

作者が思いをわかってほしいのはわかるけど、その主題はたぶん先人が書いているので、文芸としての価値はあまりない。

私小説みたいに身をえぐって書いたものなら凄みが感じられるけど、そんな覚悟はもちろんない。

エンタテインメントとして楽しめれば時間つぶしにはなるのだが、それが書ければプロになってるよ。

ノンフィクションとかルポとかだったら、知らない現実垣間見れるので何がしか勉強になるのだが。

2020-06-21

日本コンテンツには「視点」がない。これは日本画と同じ


2020-06-08

設定改変が分かってるメディアミックスを観るための準備運動



 観たら絶対自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。

 しか最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。

 観た後では感情が大きく動いて今の気持ち100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。

 (ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメント映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)

 映画タイトルは『悪童日記』と言う。原作小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。

 十年以上前、私は好きな作家たまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。

 しかそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。

 (このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品映画原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画メチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画原作では構成人物もかなり別物だからだ。原作ではティムレックスティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラン博士最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)

 改変箇所について書いていきたい。

 映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親存在」「日記帳というアイテム出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。

 原作小説主人公双子少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。

 父親云々の話に戻ろう。

 主人公家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。

 描写があるという事は、書き手である主人公双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要ものけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号国名地名人名などの固有名詞ほとんど出てこない。<大きな町><さな><解放者たち>などの言葉しかからない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞役職あだ名などでしか呼ばれない。双子自身名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。

 父親は出てこない。ラスト数頁まではほとんど。

 「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフ作品はわりとどれも)に通底するテーマひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢主人公たちの無関心を示しているのだから映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しか作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファン気持ちを言わせてもらうならば。

 以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。

 原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子その男自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。

 亡命決行の日、父親国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全亡命のやり方だ。

 原作小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子別離が同時に強く印象づけられて終わる。

 それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくそ日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要位置を占めるはずだ。

 それが映画はいきなり、別れる父親から最後プレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。

 日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語からだ。

 「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。

 「彼らが巻き込まれしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。

 そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。

 とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。

 観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳パラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作文体淡々事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。

 

 もちろん、映画化された事によって現代日本の読者から想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らし風土感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。

 主人公双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。

 私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさら気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。

 だから私はこれから記憶思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義ことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう

 せめて映画ではラスト父親ちゃん地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。

☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたり証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。

2020-05-01

岡村の話

はじめにすごく飛躍した話になることを言っておきます


個人的なことは政治的なこと」といったのはフェミニズムからだが、このテーマはいまやフェミニズムの域に収まっていないと思っている。


結婚しろセクハラ」これはアウトな感覚は私にもあるのだが、それが職場政治的言説(議会や討論など)、アカデミズムの場で言われたら文句なしにアウトだと賛同する。

しかし、職場ではないコミュニケーションの場で同僚に言われたら?あるいは友人に言われたら?

仮に不快に思った私がSNSにそれをアップしたら?その言説が共感して多数にシェアされたら?

あるいはSNSで誰かから言われたら?その反論が広くシェアされたら?

もし、多数の人間社会的関係性に影響をあたえる言説が政治的言説だとすれば、この世の中の仕組みそのものがすでにいやおうなしに「個人的なことは政治的なこと」なしくみになっているんだと、思う。

(多分、もともとそんな境界などなかった。遠かっただけ。SNS政治的言説と個人的言説の距離を近づけただけだ。)


ここにポリティカル・コレクトネスとして、ありとあらゆるコミュニケーションの場を政治的正しさで塗り替えようとする言説がある。

行政統治よりも先に、個人間のコミュニケーションSNSのような一対多のコミュニケーション芸術表現私小説表現などありとあらゆるところに浸透している。

それを支持している人たちの一部は、個人的な苦悩やトラウマをなにか政治的言説に仮託しているように感じる。


これの行きつくさきはなにか。



私小説政治的文脈抜きで語ることはできず、私の日記ですら政治的である可能性がある。


奨学金返済で苦しんだ私は政治によって苦しんだのか。

40手前にもなって結婚できない私は政治的不策の積み上げによって生み出されたのか。

他人コミュニケーションがとれず、友人がほとんどいないのは私の人格障害政治的に見逃されたからなのか。

毒親に生まれたのに救済がなかったのは政治のせいなのか。

私の苦しみは政治的ものなのか。

私の人生政治的配慮からまれたのか。


違う、と思いたい。


私の苦しみは私のものだと、多分5%くらいは政治かもしれないが、残りは単なる不条理だと。

もしくは不条理是正するのが政治仕事か?


違う、と思いたい。


俺は岡村の歪んだ人生観にどうしても共感してしまう。

歪んでてもいいんだと、思わせてくれる、もしくは許しかもしれない。

あいつが断罪されている姿は俺が断罪されているようだ。

人とのコミュニケーションを拒んできたお前が共感できる言説はもうどこにも残されるべきではない、とされ、

深夜のラジオから駆逐され、

せいぜい5chか増田に行き、

それすらもやがて叩かれるようになり、

俺の人生だけ残して世の中から消えるんだろう。


死にたい

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