2020-04-02

絶対は無いが信じるものはある

私はかつて、信じられるものが欲しかった。信じられるものとは何かを考えた時、絶対に正しいことなら信じてもいいと思った。だから絶対に正しいことを探して物理やら数学やらに取り組んだ。

けれども、計算できる正しさを信じることは何か違った。もっと人間的な何かであり絶対に正しいことこそ信じられるものだと思った。

そんな折、ある小説出会う。『エンジェルハウリング』という全10巻の長い小説だ。この小説オールドタイプに巻頭詩から始まる。

かつて、地図には空白があり

空白には怪物が潜んでいた

人々は恐れ、すべての空白を知識で埋め尽くした

空白がなくなり

誰もが疑問を失う

知識に満たされ、もはや誰も問わないが

空白はどこへいったのだろう?

怪物はどこへいったのだろう?

御遣いの言葉

いつかそれを明かすこともあるのかもしれない

この詩がなぜかとても心に刺さった。この小説最初はとても退屈なのだがもそれでも続けて読む気になったのはこの詩があったからだ。

そして次第にこの物語が語ろうとしていることが分かってきた。これは、信じるものについての話なのだ。だから絶対的なものについても語られていた。

絶対に信じられるものとは何なのか?それを期待しながら読み進めるうちに違和感に気づいた。この物語は、絶対的なもの否定している。

しかし、信じるものについては私の疑問に答えてくれそうでもあった。ベスポルトという登場人物が語る真っ暗闇の世界の話が私が抱いていた疑問そのものと言ってよかったのだ。

「もしも真っ暗闇の世界で、そこに空気がなく、身動きできないとする。だがそこに、誰かがいる。君もそこにいたとして、その誰かに君のことを気づかせることができると思うかね?」

これは思考実験だ。何も見えず、何も聞こえず、動くこともできない中で誰かに自分のことを気づかせることができるかという問い。そしてこの問いを考えると、一つの疑問に行き着く。ベスポルトは続ける。

「そんな方法はない。だが、それならばそもそも私はどうやってその相手に気づいたのだろう。どうしてその相手がそこにいることを信じているのだろう。相手にわからないのなら、私にだってからないはずなのに。私が信じているのなら、信じざるを得ないなら、相手もまたきっと自分のことを信じてくれるに違いないと。それを信じることはとても難しい」

そうなのだ自分相手存在を信じているのなら、相手もまた自分存在を信じているのではないのだろうか?それが疑問だ。でも、それを信じることはとても難しい。この疑問を理解したのなら、それを信じる難しさもまた理解できるはずだ。ベスポルトはこの話を愛についての話だと結んだ。

では、これを信じることは出来るのだろうか?それが出来るのならば、きっと私が探してきた絶対的な何かは必要ないはずなのだ

結論から言えば、信じることは出来る。結局のところこの物語は、絶対的な何かは無くとも信じることは出来る、それを文庫本10冊をかけて丁寧に誠実に語る話だったのだ。

から私は満足した。絶対は無い。絶対に正しいことなど無い。けれども信じることは出来る。

なのだから地図の空白を埋め尽くさなくともよい。空白を、怪物を恐れなくともよい。私たち世界には、例え地図の空白が埋め尽くされていても、どこかに空白がありどこかに怪物が潜んでいる。無くすことは出来ないはずのそれを無くそうとするのは、絶対を求めるが故に何も信じられない賢者の態度だ。

しか私たちは隣人を信じることが出来る。信じるに値しないことに思えても信じることは出来る。それは愚者の態度に思えるかもしれないが、それは違う。愚者は疑うことなく信じるが故に信じるに値しないことを信じることは出来ない。

信じるに値しないと知っていながらも信じる態度が、賢者愚者の間にあるものであり、それがきっと愛の在りかなのだと思う。

エンジェルハウリングはいいぞ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん