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はてなキーワード: 愛についてとは

2019-10-01

ダンまち2の最終回を見た

いい最終回だった

人間女神愛について答えを出したし

そこまでもっていくまでちゃんと丁寧に描かれていてよかった

1期みたく少年マンガっぽく終らなかったけど、これはこれで素晴らしかった

最後に新キャラが映っていたから続きあるのかも

ラノベ原作なのに少年マンガっぽくてちゃん物語してるからこのシリーズは見ていて楽しい

2019-07-24

どうせ皆いつか死ぬんだから

今は愛について語り合おうよ

2019-07-22

かつみ♥さゆりを見ると精神が安定する

かつみ借金が億単位であって、さる大物の父親の三番目の愛人の子供で、さゆり電気屋の娘で、今は道化的なメイクしてるけど昔はよしもと一番の美人と言われてて、短大とはいえ音大出身で、阪神大震災ときかつみヨーロッパ旅行してたから命が助かって、かつみさゆりの命を守ってくれたんやってさゆり親が結婚を許して。

なんかこのカップル見ると愛について考えちゃう。なんか好き。昨日道頓堀歩いてたら音声流れてフフフってなった。いつまでも芸人やっててほしいね。ボヨヨン。

2019-06-24

『「男」に「男」は救えるか?』の『さらざんまい』の根本的な誤読について

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301

 タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメさらざんまい』の感想

 が、この記事の評者は根本的に本作を誤読している。

 "ここのところ、はてな匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性男性関係についての、男性書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しかゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、

 「主人公少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当ものに思える。

 しかし、その妥当性は表面的なものだ。

 本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。

 これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情恋愛境界曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。

 主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。

 だが本論が合っているのはここまでだ。

 なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…

 『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。

 第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。

 というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章しか用いられていない)。

 この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。

 さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要ものだった。では、仮に現在ブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。

 ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。

 女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動公準は「私的もの政治的もの」であり、個人的敵愾心敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。

 また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性対象にしたものだと言う。

 現在世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的女性差別と相関している。

 仮に「生きづらさ」を描く作品商業的に成功して、それが女性限定されたものなら、それは社会的女性差別と連関したものに他ならない。

 これは差別の原因だろうか、結果だろうか。

 男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別特別女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品女性対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。

 そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。

 『違国日記』は登場人物登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的連帯とは一線を画している。

 また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情資本主義全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動SNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSお気持ち投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。

 一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生

 そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢反省したという論を展開したいようだが……

 幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公ウテナシスターフッド的な関係をもっているのは親友若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?

 何にせよ、そうした感情的連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。

 例えばねとらぼ社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。

 「男性男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケア役割女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しか男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年エンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」

 「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。

 仮に感情的連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間

 さて、ではなぜこのような誤読が生まれたのか。

 一つには「インターネット感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。

 このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的ものだと、フェイクニュースの方が真正ニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計

 前述のセジウィックは有名な『クローゼット認識論』で作品センチメンタリティ属性付与することの危険を「解釈暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評用語だ。

 もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックスセックスレスが標準となった社会では、ゲイネス記号化して商品として流通やすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックスセックスレスが標準となった社会で、ゲイネス商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動SNSの利用に人生を費やす人々の姿……

 『さらざんまい』は女性顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。

 しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品解釈が「感情的気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNS論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感幻想インターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。

2018-11-20

ヤマトを沈めた奴らを許さない。

自分語りをする。

宇宙戦艦ヤマト2199TV放送された時、誰もが名前を知っている名作の宇宙戦艦ヤマトだし、とりあえず見てみるか、と思って見始めたのが俺が初めて見たヤマトだった。

衝撃を受けた。リメイクされているとは言え、自分が生まれはるか前、40年以上前アニメ元ネタになっていてこんなにおもしろいとは。

何より、宇宙戦艦ヤマトのものものすごくかっこよかった。

たった一隻で孤軍奮闘し、知恵と勇気と、禁断の兵器波動砲で様々な難所を切り抜けていく爽快感は、どこかテンプレート的でありつつも(逆を言うとヤマトが今まで私の見てきた作品に影響を与えたのかもしれない)洗練された面白さがあった。

それを彩る数々の素晴らしい音楽日本の今の実力が高い声優を一同に集めたかのようなハイクオリティな声の演技。

旧作ヤマトファンからすると色々不満点があったようだが、自分からすれば心の底から見てよかったと言えるアニメだった。

その後、昭和原作も見た。

勿論面白かったが、やはり平成生まれ自分としては、設定も作画も2199が合ってるな、って思った。

星巡る方舟でガトランティスも出てきたし、続編やってほしいな、と心の底から願った。

からこそ、2202が発表されたときは、某任天堂ゲームが発表された時の外国人の様に歓喜した。

心の底から劇場公開を楽しみにした。指折り数えてカウントダウンもした。

なのにこの有様だ。あんまりだ。

いままで公開された6章、テクニック要求されるような見ごたえのある戦闘シーンは数えるほどしかない。

2199で登場した新キャラクターが、地球ガミラスわずほとんどが終盤になるまで登場しない。

ヤマトほとんど活躍しないどころか、最新の章ではあの洗練されたヤマトフォルムに改造が加えられる。

旧作にあった空間騎兵隊古代や航空科との対立から和解もなければ、何よりあれだけ面白かった木星での前衛艦隊との対決も波動砲破滅ミサイルを打ち合うだけの戦いになってしまっている。

挙句の果て、削った尺は上から目線愛について説教じみた話が続く。

シリーズ構成福井のクソ野郎曰く「ヤマト世代には響く」話らしいが、どうも俺のように2199からヤマトの魅力を知った人間対象外だったらしい。ふざけんな。

アニメに教訓じみた話をいれるのは嫌いじゃないし、むしろ良いと思うが、それは最低限その作品がやるべきエンターテインメントを完遂した上でなされるべきじゃないのか。

本業であるエンターテインメント放棄し、愛とはなんぞやという自分語りみたいなことばかり繰り返す本作はもはやアニメですらない。

これをアニメと名乗るのは他のアニメ作品に失礼だ。

何よりこれが、俺がこよなく愛した2199の続編だということが死ぬほど憎らしい。

これから先、宇宙戦艦ヤマトシリーズの続編はまた作られるかもしれないが、宇宙戦艦ヤマト2199の続編が作られることは決してないだろう。

(2199時空のシリーズが続いたとしても、それはこの駄作の続編でしかない)

小林誠羽原信義福井晴敏。

こいつら戦犯絶対に許さない。

特にクソネトウヨ老害小林誠

ただでさえ旧作ヤマト2はカミカゼととられかねない要素を中心に様々な誤解を生みかねない要素がある。

からこそ、ヤマトだけは左右関わらず政治思想要素に最も気をつかわなければいけない作品のはずだ。

そのトップに近いスタッフ陣がTwitterで延々と右翼発言を繰り返す、こんなことが平成も終わろうかという時代に許されているのが不思議で仕方ない。

2018-10-31

BTSのジミンへ

私はあなたペンだよ。

から書くことは、もしかしたら「あんなヤツはペンじゃない」って他の人にいわれるようなことかもしれないけれど、それでも書くよ。

私はあなた反日でも構わないと思ってる。韓国人反日の人って私たち日本人の思っている以上にきっといると思う。

韓国アイドルが好きで、辛い食べものが好きで、コスメが大好き。旅行にもたくさん行った。そのときに「チョッパリ」って言われたこともある。

嫌な思いもした。どうして過去の人したことで今の私がこんな目に遭わなきゃいけないのって思ったこともある。

でも仕方ないよなって思ってた。これは国の政治が絡む話で、お互いに難しい問題を抱えている。

私が辛い思いをすることなんて本当に小さなことだし、じっとじっと我慢してたらきっと未来は少しずつよくなっていくんだって信じてたんだよ。

思想自由から、それは否定しない。でも、あなたプロだよね?成人してるよね?自分の影響力、分かってるよね?

分かっていてやったのかな。あのTシャツ。だとしたら悲しい。

例の件、「もうずっと前のことをなんで今更」っていう人もいるよ。

でも少なくとも私はそんな風には思えなかった。

私のおじいちゃんね、自分のお母さんが目の前で死んだんだって広島で。被爆して体が溶けて、少しずつお母さんの姿じゃなくなっていったんだって

前の日はおじいちゃんの妹の誕生日で、食べ物もないのにあちこちに頭を下げてお裾分けを貰って、白いご飯と、それから砂糖をなめてごちそうして、来年もっと美味しいものを食べようねって約束した次の日が、あの8月6日だったんだよ。お父さんは戦争に行って帰ってこなかったって。戦争へ行く日、お母さんと妹を頼むぞって言われたのに、お母さんを守れなかったって言ってたよ。おじちゃんは幼かったから、「お国ため」がどういうことかは全然からなかったけど、でもお母さんが死んじゃって、お父さんも帰ってこなくて、妹だけは守ろうって、必死で生きたって言ってた。妹の結婚の手配をしなきゃいけなかったか自分結婚が遅くなって、私に会うのも遅れたっていってたの、覚えてる。

日本敗戦はもちろん、あなたの国にとってはすばらしい出来事だったのかもしれないね。だから8月15日私たちにとっては敗戦の日であなたの国にとっては開放の日になって、それが韓国で祝い事になることは別に否定しないよ。慰安婦問題も双方の主張があるだろうから、私はその件に関してのあなたの国の意見否定するつもりはない。

でも、原爆を祝うの?どうして?

なくなったのは、軍人でもない、ただのお母さんだよ。おじいちゃんやおばあちゃんや、子どもたちだよ。たくさんの無害な人たちが苦しみながら死んでいったことを祝うのはどうして?

あなたは例えば、今シリアで起きてる悲惨事実によってたくさんのお母さんや子どもたちが犠牲になっていることを祝える?アメリカトランプ大統領不法移民政策によって引き離された親子を見て、「これは不法移民をした罰だから、この親子が引き離されるのはすばらしいことだ」って祝福できるの?

戦争はそういうもんだから仕方が無い」「不法移民をしているから仕方がない」という意見ならまだ許容するよ。でもそれを通り越して、祝うってどういう神経をしてるのかな。

あなたがやっているのはそういうことだよ。

そんなあなた愛について語るの?

私はBTSが好きだよ。でももう二度と、広島には来ないで。

2018-08-24

anond:20180824153631

おすすめはいっぱい有り過ぎるけど、

「月とナイフ」「愛について」「イジメテミタイ」「ドキドキしちゃう」「ふたりのかげ」「ひとりぼっち」「うきぶくろをもって」「黄金の月」かな。

特に黄金の月の、歌詞は最高すぎる。

“ぼくらが二度と純粋を手に入れられなくても”

“夜空に光る、黄金の月などなくても”

いつ聴いても泣けます。もちろん「ストーリー」も好きですよ。

2018-07-14

愛について集団で討論しだすのなんなの

こないだ職場の6人で飲みに行く機会があったんだけど、みんな酔ってくると「愛ってなんだと思う?」「結婚とは?」って語り始めて意味が分からなかった。

各々の物差しがあるだろうテーマをなんでわざわざ他人と語り合わなあかんの?それ他人の考え聞いて楽しいの?なんかの糧になるの?

みんな盛り上がってる中きょとーんとしてたら「○○さん全然喋らないですね」「じゃあ○○さんが話せるテーマしましょうよ」ってますます気持ち悪い流れになってグダグダ発言して案の定盛り上がらずお開きになった。

みんなこういうとき意見言えるの?話合わせられるの?わたしおかしいの?元々自分意見言えるタチじゃないけど、わたしおかしいのかなー。

2018-06-16

愛について

壮大なタイトルにしてしまったので、それ相応のことを書かないといけない。愛ってどういうことかなあと考える機会があったのでつらつらと自分見解を記しておきます

わたし基本的に全人類が好きです。博愛主義水瓶座なので!だれがいちばん好きかということは、あんまり考えたことがない。そもそも愛に順位をつけること自体、ちがうんじゃないかな?とおもっています気持ちはわかるのだけれど。なのでわたしの中で人間9.9割の好きな人と0.1割の苦手な人に分けられてしまう。ほんとうに大雑把な区分だとおもうけれど、これが本音です(苦手な人は可能なかぎりわたし世界から排除するので、そうするといよいよ好きな人ばかりになってしまう)それからわたしわたしの好きだという思いを許されることに快感を覚える性質なので、向けた愛を同じだけ返してほしい!という感情ほとんどないのです。向けさせてくれただけでありがとうとおもっている。返してくれたら幸福だけれど。あ、恋は別ですよ。恋は恋なので。

でも、当たり前にそうではない人も存在する。愛しただけ愛されたいと願う人たちがどこかにいるんですよね。それはすごいことだなあとおもう。わたしは昔、友達に「だれのことも好きな人はほんとうはだれのことも好きではないんだよ」と言われたことがありますわたしはたぶん、だれのことも好きではないのかもしれない。ぞっとする想像なので普段はつとめて考えないようにしているのですけれど。

しかにそれは一理あるとおもうのです。わたし思春期を過ぎてから自分好きな人が他の人と仲良くしていて嫉妬を覚えるようなこと、めったにありませんし、わたしをだれよりも優先してくれという願いもありません。そんな自分のことがさみしい人間のような気がして泣きたくなる夜もあります最近、優しいと言われることが増えたのだけれど、わたしが優しいのはだれのことも好きで、だれのことも好きではないからそう映るだけじゃないですか?すべての人を平等に見ていたらだれにだって同じ扱いができますわたしはそのことを知っています

自分いちばんにしてほしいと言ってくださる方がありがたいことにちらほらといて、それでも応えられないことをくるしくおもっています。でも、しかたないんだ!わたしは全人類を愛する自分が好きなのです。自己陶酔。それはわたしにとってだれに侵すこともできない誇りで、大切なことから。冷たい人間でごめんね。以上!モラトリアムから脱出できていない人間自己語りでした!

追記

反応が早い!これが増田

セックス以外ならしてあげたいなあとおもってしまう。あと、ひらがなってかわいくないですか?えっ怖い!?心外です!

2018-05-21

「"あい"について今日も誰か歌うよ」

AIについて~愛について

 哀についてう~た~う~よ~」

標題を小声で呟くのポイントね。

最近友達の間で真似して笑ってる。

2018-04-09

人を愛せない人間はどうすれば救われるのか?

表面的な行動ならいくらでもできる。

老人に席を譲ったり、同僚の仕事を助けたり、

病の友人に見舞いをしたり、落とし物を届けたり、

後進のためにできることをやっておく、

家族のためにサービスする、彼女サプライズして喜んでもらう、

できるだけ楽しい思い出になるように「ニコニコ仮面」を被りお調子者を演じる。

どんな冗談をどのタイミングで言えば笑いが取れるか計算する。

思っていた通りの反応。

その繰り返し。

 

だけど、俺は人を愛せない。

 

俺を慕ってくれている家族恋人、友人には本当に申し訳ないのだが、

どうしても人を心の底からしたことがない。

愛する人のために命を捨ててもいいというような境地に至ったこともない。

ただ自分のできる範囲内で「サービス」しているだけだ。

まりにも演技が上手くいってるおかげで優しいとか気が利くとか評価され慕われている。

けれども、それは全てただの行動だ。

単にそうしたほうが物事円満に上手く回っていく。

そう学習し行動してるにすぎない。

君たちは人間によく似たロボット感情移入しているだけだ。

 

もちろん、誰かが傷ついているところを見ると心が痛む。

だが、これは相手を思いやっているわけではないのだ。

誰かが傷つく可能性があるということは、いつか自分にその順番がめぐってくるかもしれない。

そういった不幸への恐怖心が俺の心を動かしている。

からこれは決して他人を思いやった心境ではないのだ。

俺が募金をしないのは、募金必要とするような大多数の不幸な人間のことまで考えてしまっては、

自分の心に生まれる恐怖心は膨大に膨れ上がり、日常生活を送れなくなるからだ。

から当然アフリカの子供たちが何万人死んでいようが俺は救おうとも考えようともしない。

ただ己の範囲内でそういった人間がいると穏やかでいられないから、

不幸な存在を消すという意味で助けるようにしている。

他人の目からはそれは誰かを思いやった心から出た善意に見えるかもしれない。

しかし、俺からしたらストレスを減らすための自分のための行動でしかない。

 

どうすれば人を愛せるのか?

 

過去聖人たちは隣人を愛せと言ってきた。

ありのままを受け入れ悟りを開けと言った。

俺は人を愛したい。

だけど愛する心が無い。

こればかりはどうしようもない。

 

目が悪ければメガネをかければいい。

耳が悪ければ補聴器をつければいい。

足が悪ければ杖をつき、車いすに乗ればいい。

声が出ないなら機械にしゃべらせればいい。

だが心が足りない人間はどうすればいいのか。

 

善意からくる行動をまねていれば、いつか答えが分かると思っていた。

誰かの喜ぶ顔を見れば、いつかこの冷めた心にも小さな芽が育つと思っていた。

だが、どれだけ待っても、芽はひとつも出ることがなかった。

元々そこに種はなかった。

 

自身、愛を信じていないのだろう。

本当に愛が素晴らしくこの世の真理であることが疑いのない事実であれば、

とっくの昔にこの地球は愛で満たされているはずだろう。

実際は今日飢餓死ぬ人間や殺される人間貧困に苦しむ人間

この地上には数えきれないほど存在する、今、この瞬間にも。

この世は地獄だ。

 

俺は単に、日本という社会、この時代に生まれ勉強することができ、

この年まで病気事故なく、成長できただけにすぎない。

俺とアフリカの子もの違いは、単に生まれ場所境遇の違いだけだ。

俺がアフリカで彼らと同じように生まれたら、今のような生活絶対に送っていない。

愛について考えるよりも、日々の生活でめいいっぱいだろう。

だが、俺はここで産まれしまい、今、ここにいる。

それは誰にも変えられなかったことであり、起きてしまたことだ。

から俺は考え続けるしかない。

愛せない人間はどうすればいいのか?

 

俺は必ず死ぬ

人間は必ず死ぬ

だが死ぬときに生きてきてよかったと、

まれてきてよかったと一度でも思うことができれば、

俺は産まれてきたことに感謝して死ぬことができる。

自分普通人間と同じように趣味仕事ややりたいことはもちろんある。

だが、それらは死への恐怖に打ち勝つだけの魅力にあふれる題材でもない。

愛だ。

人に愛してもらうのではなく、究極に人を愛する必要がある。

おそらくそれこそが死への恐怖に打ち勝つ唯一の手段であり、最も尊い行為だろう。

だが人を愛するには何が足りないのか未だに理解できない。

人を愛する人間と同じポジションに立てば何か分かると考えていた。

しかし、何も分からなかった。

余計分からなくなった。

 

愛が素晴らしいのは分かる。

どうしても愛を手に入れたい。

親になり子を持てば分かるのだろうか?

だがそんな理由で産まれてきた子が、

心の底から父親から愛されていなかったとしたらどうなる?

表面上愛しているように見えて、子もそう思い信じている。

しかしその内面ではまるで子を愛していなかったら?

誰も知らなければいいというのは通用しない。

他でもない、俺自身が知っているからだ。

 

できる以上のことはやってきた。

しかしもう手詰まりだ。

宗教哲学書、過去偉人たち、

何かを意図的に信じ込むことも試してみたがどうしてもできなかった。

愛はどこから与えられるのか。

それとも自分機能的に愛を持てずに産まれてきたのだろうか。

愛を知る人たちが眩しい。

俺はこの先ずっと彼らに劣等感を持ちながら生きていくしかないのだろう。

俺は地獄にいる。

2018-02-28

愛について学校で教えてほしかたこ

学校は『愛は大切だ』ということは教えてくれる。

しかし、『愛をどのように手に入れるか』という具体的な方法については教えてくれない。

まぁ、それは別にいい。

ただ、『愛は降ってこないから、自分で掴み取りなさい』ということは教えてほしかった。

24歳にして、ようやくそのことに気づいたんだ。

あと10年早く知っていれば、僕は女の子青春ってやつができたかもしれない。

青春テーマにした映画小説を読んでも、『出会いを待つ』という消極的行動しか学習できなかったんだ。

2018-02-07

キャラクターに対する愛について

とあるソシャゲの悩みを聞いてくれ。

いや言うほど悩みじゃないんだけど、まあ聞いておくれ。


俺は男。女友達がいる。

とあるソシャゲをどっちもやってる。

俺は好きなキャラクターとか愛着があるキャラクターに対して譲れないものがあるから

その女友達が「嫁!」とか言ってるキャラクターは好きにならないようにしてるし

「ああ、確かに可愛いよね~」ぐらいのコメントにとどめてるんだ。


男の子から(?)好きなキャラランキングとか作って遊んだりしてる。

俺の周りも結構そういう、男同士だと互いのテリトリーに対して気を使ったりしてたんだよね。


でもその女の子はすぐに「ふーん」とか、今まで「別に欲しくないな」とか言ってたのに

そのキャラを入手してストーリー読んだ瞬間「マジ嫁!かわいすぎる!最高でしょ」とか言っちゃう

その手のひら返しがなんか気に食わないんだよ。


の子が言うには「好きなキャラがいっぱいいてもいいじゃん!」っていう道理

かに、言ってる事は正論だし、正しい。正しいんだけど

こっちも全部のキャラが好きな中、苦渋で本当に好きならコイツ!って選んでるわけ。

それをね、こう、ずかずか入ってこられると気に食わないんですけど

これは俺が心が狭いだけかい

賛否どっちの意見も聞きたい・・・


ソシャゲキャラときでガタガタ言うなって思う人は

アイドルとかアーティストとか作品とか何でもいいからまあ置き換えておくれ。

2017-09-16

anond:20170915215309

消えてるって言うからもう一回書くぜ。

タイトル元ネタレイ・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」、村上春樹翻訳

映画バードマン」の中でやってる演劇

ちなみに読んだことはない。

2017-09-15

anond:20170915172224

タイトル元ネタレイ・カーヴァー「愛について語るときに我々の語ること」、村上春樹翻訳

映画バードマン」の中でやってる演劇

ちなみに読んだことはない。

2017-04-05

女性との初デートマイナス評価による、次回の約束なし

合コン後に、ちょこちょこラインして、いざ1対1の飲み会

終わった後に、次の約束をしようにも、脈無しの返信で断られたと。

まぁ、笑いあったり盛り上がるところもなかったし、噛み合わなかった。

それだけの話だけど、もう色々と上手くいく気がしない。

みんな経験している話だろうけど、色々としんどい

女性ウケ悪い内面性格的特徴は、ひたすら隠さなきゃいけないわけ?

女性ウケ悪いネガティブ発言はすべて排除して、太鼓持ちしなきゃならんの?

面白くもないのに、笑ったり驚いたり楽しそうな雰囲気作らんとなの?

こっちに興味ないのか、そっちばっか自分のこと話してたけど、

それで必死話題をふって頑張ってるワタシされても困る。

話遮れないし、聞き手に回ったら、余計しゃべらないつまらない奴扱いって訳だし。

まぁひっくるめて合わなかったってだけの話だけだけどさ。

でも就職面接以上に、内面勝負して内面で敗れてって心にキッツいし

就職面接以上に、内面隠してきれても、いずれ破綻が目に見えている訳だし。

そもそもの段階で、容姿簡単に態度変えたり、打算的だったり、

減点方式評価だったり、総合個別評価区別もしなかったり、

男に男らしさ(頼れるオス)かを求めてたり、そういう面倒くさい女性の中から

まだ、1対1で飲む事までできた数少ない合いそうな人だったのに、

それでもこうして駄目。また次は1年後とかかしらん。しんどい

それこそ就職とおなじぐらい愛について大事なんだから

総合的な学習時間なんかより、恋愛学とか恋愛論を1コマももうけたらいいさ。

学生社会人恋愛難易度の差とか、生涯未婚率の怖い数字の考え方から

女性ウケとか男女の恋愛観の違い、脈無しの対応マナーとか実技理論まで。

なんで全員で失敗して傷ついて、しか経験絶対量は数少なく、反復練習で上手になりにくいのに

なんでみんな一人でもがいてくるしまなきゃいけないん?

2017-02-09

印象。考察なし

http://anond.hatelabo.jp/20170208235429

寝落ちしそうだし消えると悲しいか更新かさねる

率直に書く。総合的な感想考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)

トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。

初見と印象が違いすぎる。

何が変わった? 私が変わった?

私のライフは零である。救いがまったくない。ほんとつらい。

今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。

今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。

嗚呼明日原作既読の友人にいろいろ質問しよう……

時系列順に。

ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます

冒頭。諸戸屋敷にいる『私』。これめっちゃ幽霊に見えた。

手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。

『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。

奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?

そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?

登場キャラクターが天の声に話しかけたりしなくない?

から最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。

てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感

初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?

『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。

諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。

『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。

あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップちょっとびっくりした。

ここで振り返ったのは過去から未来ではないけれど、どうにも諸戸から時間を感じない。(ミスリーみあるけど)

似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。

大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?

から私は、ああこれは『演劇なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇なのだと。

箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。

嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶証人として使えなくなってしまった。

『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。

箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者

初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか

『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。

対して『箕浦からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。

いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。

箕浦』はハッキリと「ぼくは幸せだよ」と胸を張って言う。

(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分心理思考記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)

初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。

深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。

『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。

初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲しか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。

諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼セリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。

しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、

諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。

諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目破壊力軽蔑目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!

ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。

子ども残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。

しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。

ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。

いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?

あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?

深山木からの荷物を受け取るのはこの後だったかしら。

秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。

ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)

原作未読であるので自分確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカット必要位置にあるのだろうか?

諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親から愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。

それがカットされたというのはものすごく重大なのではないか

ここにある諸戸は性的虐待を受けていない世界線の諸戸?

手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…

おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?

島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。

だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。

島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。

そこに現れる諸戸。

私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元存在から

で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……

それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為から

まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、

諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。

あ、それが《わたし》と『私』か。

わたし》と諸戸は同列。『私』と『箕浦』は並列に役者

五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。

諸戸からメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。

前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)

ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。

あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?

(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)

諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。

『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、

  • 箕浦』演じる《みのうら》が諸戸の手を握り返さなかった時
  • 箕浦』が寝ているところを抜け出して『私』が秀ちゃんと出会った時
  • 井戸の中で『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた時

諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。

水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。

序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的拒否られてない可能ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。

箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。

ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。

そーいや江戸川乱歩同性愛を「研究」していたんだよねえ…

それまで『箕浦』を抱きしめて必死告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。

これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。

諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?

確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。

そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。

なんというかね、性的意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすセクシャル表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。

同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。

あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。

あえて手であることがわかりやすいのなら、それは何か。

井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び

そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。

諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)

それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。

醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…

助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要いか大正解しかしイドの超自我破壊自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。

あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?

私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。

『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。

と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたかテラびっくりしたんだけど!

【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。

初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。

やっぱ諸戸亡霊なのかあああ??????って。

まだ決めていない。

少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。

それにしても《みのうら》になった『私』の生命力

佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?

わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」

ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。

箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…

座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。

ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。

そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。

諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。

今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。

2017-01-25

anond:20170125021323

あなたは、メインテーマとサブテーマ区別もつかないんですね。


えんとつ町のプペル』は夢の話ではない。

作者があとがきで、わざわざ太字にして懇切丁寧に説明してくれている部分をよく読んでみましょう。

えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会風刺

この物語のメインテーマは、夢を叶えるために行動することです。

太字したり、同じ言葉を繰り返して強調していることが、作者がもっとも伝えたいことからです。


ちなみに、例の無料公開のページには、最後にこの言葉が繰り返されています

http://spotlight-media.jp/article/370505056378315909

他の誰も見ていなくてもいい。

黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、

行動しろ。思いしれ。そして、常識に屈するな。

お前がその目で見たもの真実だ。

あの日、あの時、あの光を見た自分信じろ

信じぬくんだ。たとえ一人になっても。


それから「信じぬくんだ。たとえ一人になっても。」言葉も2回繰り返されてますからね。

まり作者は、自分孤軍奮闘で夢を叶えるために常識破りの行動してる、とでも思ってるんじゃないでしょうかね。



友情(あるいは親子愛)の物語

友情物語である側面はありますが、それはサブテーマです。

なぜなら、プペルは作者があとがき

「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。

と書いてある通り、「大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」の擬人化であるからです。


プペルとルビッチ友達になるというのは、ストーリーの「表層」でしかありません。

「そこに込められた意味がある」ということを、作者はわざわざあとがきで 懇 切 丁 寧 に 説明してくれているのに、あなたには理解できなかったのですね。


西野氏が無料公開した理由は、2000円が出せない子どもいるから、と説明していました。

こんなに野暮ったく物語テーマを易しく丁寧に説明するあとがきを書くのも、子どもに対して向けたものなら仕方ないかな、とも思ったのですが、あなたにはもっともっと丁寧な説明必要だったようですね。


親子愛についても、これもサブテーマです。

父親ペンダントを見つけるために物語は進んでいきますが、これを「マクガフィン」と言います


そして、父親について語られる描写は、次の部分のみです。

「……ぼくの父ちゃんが、その『ホシ』をみたんだ。

とおくの海にでたときにね、ある場所で、頭のうえの煙がなくなって、

そこには光りかがやく『ホシ』がたくさん浮かんでいたんだって

町のひとはだれも信じなくて、父ちゃんうそつき呼ばわりされたまま死んじゃったんだ。

でも、父ちゃんは『煙のうえにはホシがある』っていってね、

ホシをみる方法をぼくにおしえてくれたんだよ」

まり父親は煙で覆われた閉じられた狭い世界のえんとつ町(言うまでもなく現代社会メタファーですが)を飛び出して、外の世界で「ホシ」を見た(夢を叶えることのメタファー)という存在として描かれています

あとがき言葉を使うと「常識に屈せず」、夢を叶えるために行動した「モデル」として描かれているだけで、愛してくれた父親としての思い出が語られるような描写はありません。


これを親子愛の物語だというのは、「天空の城ラピュタ」が親子愛の物語だと言っているようなものですよ。


私にもお話しする相手には「下限」がありますので、あなたへのお返事はこのへんで終わりにしておきます

無視された時には、自分に落ち度がないか、少しは考えてみてくださいね

もう少しまともな反論ができるようになったら、またお相手してあげますよ。

2017-01-07

愛とは何か?

愛について考える時間が増えた

愛には種類があるということはわかった

突き詰めていくと愛とは宇宙である

2016-12-16

話題スケートアニメ個人的に思った事

思った事を書いただけ。

誤字脱字があると思います


前提として明記しておきますと、書いてる人はまだ本編を九話までしか見ておりません、しかさらっと流し見です。

書いてる人は腐女子です。

後、スケートと言う競技についてど素人です、くるくる回ったらなんか点数が貰えるのだろう、と言う事しか分かりません。


まず、本格フィギュアスケートアニメと言う点については、ど素人である私が判断付くはずもなく、なんだかくるくる回ってるなと思いました。

スゴイ!と言ってる人もいれば、駄目!と言ってる人もいる、素人には取り敢えずくるくる回ってるとしか思えない。

取り敢えずフリップやらサルコウと言うジャンプの種類は私には分からない。

ついでにスピンステップも分からない。

イナバウアーは辛うじて分かる、何か足の形がアレなんですよね、重要なのは足なんですよね?背中を逸らす事じゃなくて。

その程度なので、スケートシーンについて何か思う事はない、って言うか思えない。

んで、作中内の愛について

腐女子と言うか個人で視聴した感じですと、主人公とそのコーチはデキてるとは思いますが、あの世界では別に珍しい事では無い、苦難もないし、ただただ当たり前の事っぽい、と思いました。

そう言えば、これはBLじゃないと叫んでる腐女子が居ますね。

腐女子って結構な人が、同性愛は高尚と言うか、気持ち悪くないものであり、我々が娯楽として消費している物語(BL)は低俗ものである、と内(腐女子)外(腐女子では無いどっかの誰か)から擦り込まれてることが多いです。

GBT云々言ってる人は置いといて、BLじゃない!と主張してる人達はこの主人公コーチ恋愛同性愛認識したため、BLじゃない!と言っているのではないだろうか、と個人的に、個人的にですよ?思ってます


後十話EDであったらしいポールダンス?についての諸々なのですが。

まぁ、やっちゃいけない事はやっちゃ駄目ですよね、アウトです。

2016-12-12

ユーリスポ根臭かったらただのスポ根として切っていた

私はスケオタとではなく、アニメも各季節ごとに2~3本見れたらいい名乗り難いアニオタである

声優や絵などで選り好みするのも悪いのだが、地雷が多いのだ。

たとえ声優監督、動きが綺麗であろうと、二次創作流行ろうとも、

バレーアニメ主人公の暑苦しさで悔し泣きしながら切るほどにスポ根が嫌いだ。

最近アニメにあるドキュメンタリーものも見た後には1日くらい鬱々としているのだ。

アイドル物のアニメがどれだけ流行ろうと壁を乗り越えうようという描写が嫌いすぎて見れない。

テレビドラマのようなキャラストーリーが苦手だと言えば伝わるのだろうか(怒鳴り声が嫌なのが大きいが)


私はただ声優と絵柄、Twitterでの盛り上がりぶりだけで1話の視聴をしたのである

スポ根ものにびくびく怯えながらつけた先で、あの滑らかで美しいスケート映像を見せられたのだ。


その後に衣装音楽、採点の話を聞いていた。

数話続いても崩れない各キャラスケートシーンを見ながら、丁寧につくってるように感じた。

キャラ自然だ。強要もしない、脅しもしない、ご都合主義も使わない。

本当にスケートって綺麗で素敵なんだ。好きって思わせてくれようとしているんだと思った。

ただただ説教がましいスポーツアニメでないことに感動と感謝を私はここで語りたいのだ。


本格スケートアニメを見たかったと嘆くスケートファンを知った。

事前にアンケートをとった話、そもそも本格スケートアニメであることを今知った。

しかに1クールではあれだけのキャラ大会シーンをまとめるので手一杯だったのだろう。

競技中以外もドキュメンタリーであったなら、もっと堅苦しいアニメになっていたと思うし、

ただのスポーツアニメだとげんなりして切っていたかもしれない。(本当に趣向なので申し訳ないが)

クールならゆとりは持てたのだろうが新作のアニメオリジナルで突然そこまで作る猶予がないのかもしれない。



愛について性についてで物議を醸している人もいた。

このアニメは悩まなくてはならないとされる性別の壁が、そもそも存在しているように見えない。

あの世界観にはLGBTという単語さえないように思う。盾にしようもないほどにない。

そういうところだけは本当にファンタジー世界になっていると思う。

から私はこのアニメ賛同否定も語れないのは確かだと思う。

その点も含めて重くなくすっきりした作りになっていると思う。もちろん腐女子であることを自負した上でのすっきりだ。

深夜に放送時間を選んだのは正解だったと思うし、PV男性人数で予知する人もいたらしい。

ただスケオタだったり、事前に感づかなかった人には衝撃的なのである腐女子もかなり衝撃を受けているのでなおさらである

そう思うと本格スケートという宣伝文句は危ういかもしれない。

追記

なんか複数コメントあるけどありがとうな!

せっかくだから通りすがりスポ根臭くないアニメおすすめでも書き込んでくれ!

2016-12-11

BL」と「腐向け」の意味を再定義したい

BL=男同士の愛について書かれた一次創作

この「愛」というのは文字どおり全ての愛のことを指す。家族愛師弟友愛性愛といったあらゆる愛の形がBLに含まれる。

BLが好きです」という宣言自体は何ら恥ずかしいことではない。「愛について書かれた作品が好きです」と意味ほとんど変わらない。「男同士の」愛が好きと言うのは完全に当人の好みの問題である

例えば「風と木の詩」や「BANANA FISH」は明らかにBLテーマひとつとなっているが、ではこれらの作品を好きだと言うことは恥ずべき行為になるのだろうか?

腐向け非公式カップル二次創作

これはBLに限らず、GLNLも含む全ての二次創作が「腐向け」にあたる。

腐女子が恥じるべきは「肉体関係にない二人組を性愛込みの恋人同士だと捏造解釈する、他人セクシャリティ勝手に決め付ける」その腐りきった性根であって、「男同士に萌えしまう」という部分ではない。

そもそもこのような邪推同性愛異性愛わず大変失礼な行いであることに異論余地はないだろう。

したがって、公式カップル以外のカップル捏造し、またそれを愛するオタクNLBLGLといった嗜好に関係なく「腐女子」「腐男子」を名乗るべきである

2016-12-10

ユーリ!!! on ICELGBTの盾

ユーリ!!! on ICEがすごく流行っている。

私も友人から紹介され先日放送されていた10話まで見た。

本格スケートアニメと言われてスケート好きな友人から薦められたのですんなりと入れたし、なにより某アニメ1話はすごく綺麗に見えた。

私はスケートにあまり詳しくないが、テレビでやっていたらスケートを見るような人間で、そのアニメを見ながらあの世界はこんな感じだったのかな?と思ったりもした。

段々と違和感を感じるようになったのはいつだったか

3話までは純粋に楽しんでいた気がする。

けれど段々と恋人のような絡みが増えていく主人公コーチ不思議で仕方なかった。

ロシア人からといってなんとなく納得していたけれど恋人だのキスまがいだの結婚みたいだねなんて発言に、ずっと困惑していた。

本格スケートアニメってなんだっけ?

しかスケートをしている。

楽しいよ、たしか楽しいけれど、主役のスケート以外はカットされることも多いく、そのカットされた部分は主人公コーチの生々しいやり取りに持っていかれる。

キスまがいのシーンでようやく

「あ、これBLアニメだったんだ」

って気がついた。

で、なんですが。

このアニメBLだというとすごく噛みつかれる。

主に

BLだなんてものじゃない、もっと色々な愛について物語

・これはそういうのじゃなくてLGBTについて深く踏み込んだ作品

みたいな感じに言われる。

BLだなんて〜と言う方はまだマシだと思う。

確かに愛がテーマだと言っていたし、所謂解釈違いというような感じだ。

正直あそこまでやっていると、愛がテーマと言われても……って感じなんだけど。

問題は下のLGBTに、という方についてだ。

LGBT最近よく話題になる気がする。

今日俳優引退についてこれが話題に上がった。

LGBTはすごくデリケート話題であり、そしてもっと理解されるものだと思っている。

からLGBTを盾にされるととてもイラつく。

このアニメLGBTに括りつけている人はこういう世界になったらいいねしか言わない。

LGBTに踏み込んだ作品と言うよりはBL作品によくある優しい世界なんだよ。

誰もゲイカップル否定しない、よかったねという優しい世界

……それで?

どこがLGBTに踏み込んでるの??

もしこれがLGBTに踏み込んだ作品ならばそれに対して何かしら悩む描写が入るだろうし、一悶着あるだろう。

でもそんなのはない。

特に悩みもしないで結婚だ!おめでとう!とはしゃぐ面々にいまいち理解できない。本当に夢みたいに優しい世界だね。

色々な障害解決したり、できなかったり、そういう所があって踏み込んだ作品と言えるんじゃないか

このアニメ公式関係者ツイートからそういう意見が増えたけれど、正直BLという言葉の代わりにLGBTって言ってるだけだと思う。

そういうことを言っている人は俗に言う腐女子の人が多いと思う。

このアニメBLものと言うとすごく怒る人達は、そんな軽いものじゃない。恋愛よりももっと崇高な愛だ、という。

恋愛よりも崇高な愛って。

別に恋愛が1番上というつもりは無いけれど、わざわざ恋愛を下す必要はあるの?

正直、主人公コーチのやり取りはごく一般的恋愛としての流れだと思うんだけれどそこはどうなのだろう?

結婚指輪を買って右とはいえ薬指に付けるのは恋人くらいじゃないのか?

そしてこういうことを言うとすぐに「嫌なら見るな」という。

私はもう嫌だから見ないけれど、わかって欲しいことは一つだけだ。

BL隠れ蓑LGBTを使わないでほしい。

なぜかこのアニメを見ている多くの腐女子の方は絶対にこの作品BLと認めない。

(こういう風に言っている人が私の周りでは腐女子しかいないので、私は腐女子だけど一括りにしないで!という方がいたら申しわけない)

このアニメは崇高な愛について考えて作られたかBLなんかじゃないんだって

私は腐女子でないので、彼女達の気持ちは正直わからない。

けれどこれだけは言わせてほしい。

主人公コーチ恋愛よりも崇高な愛のあるゲイLGBTって言っているのだからゲイ認定していいよね?)って同性愛を認めているわけじゃないでしょ?

なーにがLGBTだ。

都合のいいように耳ざわりがいい言葉を使うなよ。

2016-11-30

モテ過ぎて愛がわからない

匿名から煽るくらい上から目線で書いてもいいだろう。本当はもっと謙虚振る舞うようにしたいけど、皆に読んでもらうために気にしないことにする。

さて、俺は友人と話す時、どうやったら女性モテるか、とか、今デートしている女の子をどうやったら落とせるか、という話をする。というのも、友人は女性の落とし方に精通しているのだ。高校卒業までずっと運動も出来ず、嫌みで嫌われ者で、ブサイクな上童貞だった友人は、好きな女の子に振られたのをきっかけにアンダーグラウンド努力を重ねた。その結果、現在ではどんな女性でも口説き落とすことが出来る男に変貌していた。これはモテテクニック云々の話ではなく、自分人間的魅力を身につけ、加えてそれらを上手く見せることが出来るようになったからだ。大学生のうちにモデル女優ナンパして口説き落とすことにも成功した。俺はこぞって友人のことを「この世で一番モテる男」という。だからその変貌の過程を見てきている俺は、友人とこの手の話をしたがる。相談を持ちかける。友人自身としても自分が最も熱心に打ち込んできたことに関する話だから、本当に楽しくその話に応える。

しかし帰り道になるといつも思う。これは友人が本当に話したいことではない。モテについて話すときの友人は薄っぺらいのだ。なにをどうすれば自分が魅力的に見えるのか、女性が惚れるのか、初対面の男性SEXをしたいと思うのか、清楚とビッチのそれぞれの落とし方、なにもかもを知っている友人は、どんな話があろうとコンピューターのようにすぐに答えが頭の中に出てきてしまう。そしてその解答を言うだけだ。何も面白くない、こんな話をしていてももうなにも友人は得るものがないんだ。どんな恋愛本恋愛記事を読んでも結局知っている話の焼き直しだと思うか、その恋愛記事の間違っている部分に気付くかのどちらかだ。友人はどんな女でも落とせるし、放っておいても毎週1人は新しい女性告白される。そんな恋愛スキルはとっくに身に付けた。俺の彼女に惚れられてから、もう不必要モテることもやめた。

じゃあ今の興味は何かというと、「愛」だ。愛する女性出会い、うまくやっていく方法幸せになる方法。今の興味はそこだ。語り合う相手が欲しい。全てをさらけ出して愛について話し合いたい。愛したいし愛されたいんだ。教えてくれ。生涯の伴侶となる女性幸せ人生をおくりたい。愛に飢えている。大好きな彼女が欲しい。

友人にとって結婚したい女性の条件はこうだ。

愛嬌のある外見であること

自分の頭で物事を考えることが出来ること

・広い視点から物事を観察出来ること

浮気をしないこと(俺のことを好きでいさせることは俺の役目だとしても)

価値観が合うこと

友人はどんどんモテるようになり、時間の経過ともに交際する女性スペックも上がってきた。そして、信じられないほど美しい女性とも交際をしたこともあるし、もう相手の顔が美人とか、そういう表面的なものはさほど大事じゃないと心が思うようになった!(以前は頭では理解していても心はそう感じていなかったのに!)

にもかかわらず、今の友人にはどんな女性も未熟なガキにしか思えないのだ。上記の条件を満たす様な成熟した女性出会わなくなった。美人彼女と別れてから1年近く立つが、それ以降交際したいと思う女性出会うことはもうなくなった。これまで真剣に5人の女性交際した。付き合ったときは好きだし好きになろうとしているし、相手にも幸せになってもらいたいと思っている。ところが自分基準が高くなり過ぎて、結局満足出来なくなってしまうのだ。いったい友人はどうしたらいいんだ?頭がおかしくなりそうだ。もはやどんな女性にあっても付き合いたいとすら思わなくなってしまった。童貞時代一目惚れをしたような女も、高校時代好きだった女の子も、今や俺の基準に満たないのだ。もちろん愛は育んでいくものなのは知っている。とりあえず付き合ってみればいいのかもしれないが・・・

一人になるといつも発狂する。誰か救い出してくれ。

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