はてなキーワード: 学費とは
~~~35年後~~~
「先生、先生はぼくが産まれたときにSSR以上確定だとおっしゃいましたよね」
「うむ」
「ぼくはその言葉を信じ、小さい頃から“自分は選ばれし非凡人なのだ”と思って生きてきました
しかしその結果はどうか… なんとか滑り込んだ大学では学費が払えず除籍 非正規の仕事にしかつけず、奨学金の返済すら滞る有り様
親のわずかな遺産もFXで使い果たしてしまいました これは一体どういうことなのですか」
「私はSSR以上確定と言ったがな、君は実はSSRを更に上回るウルトラSSR、USSRだったのだよ
だから君の暮らしぶりはなんらおかしくない 実にUSSRな暮らしぶりだよ ワッハッハ」
下卑た笑い声を聞きながら、私は背中に隠し持っていた手斧を右手に握りしめると、おもむろに彼の頭目掛け振り下ろした (完)
私は親からすると金のかかる子供だと思う。中学高校大学と私立に進学し、奨学金も取らずに過ごしている。しかも今までバイトはしたことがない。そのくせ金遣いは荒く、使うときにパッと散財する。お金の管理も苦手な方だ。
最近自分の預金残高を見た時、なんとなく予想していた100万円にははるかに届かない金額で唖然とした。思っていたより私には全然お金がなかった。授業料生活費その他諸々を含めれば、仕送りをしてもらっても到底安心できる金額にはならないほど。
早速いくつかアルバイトを申し込み、そのうちの一つがうまくいったため親との雑談の中でその話をしてみた。だがそうしたところ、猛反対された。なぜ学生がそんなにお金のことを気にして、100万も貯めようとするのかと。金銭感覚がおかしいと非難された。
親の経験上、学生のうちはお金のことは特に気にせず、勉学に励み、サークルに勤しみ、アフターにも積極的に参加して人間関係を広く構築すべきらしい。
私もそれはわかる。だが、お金が無くなったらと考えると無性に不安になってしまう。私や他の兄弟の学費だけではなく、高齢のペットの治療費もバカにならないし、母ももう若くはない。いざというときお金がなかったら、どうにもならないんじゃないか?
私たちは普通の家庭だが、このご時世では“普通の家庭”も一般的なものでなくなっているというのに。普通の家庭、普通の家族の位置に安住している場合ではないというのが私の考えだ。だから、私には万が一のためのお金がいる。
だが、それは間違っているのだろうか?教えてほしい。
社会人の目に私のこの考えはどう映っているのだろうか。
誰か、私に教えてください。お願いします。
父はパーフェクトクズですね。そもそも物理的にほぼ家にいないので。飲み歩いてるか外の女の家にいる
母がちょっとアレなことをいいことに、クレジットの請求先を会社や女の家に変更することもしていなかったし、
携帯で女とやり取りしているメールを隠すことも警戒することもなかったし、本当にナメてたよ
外に女がいようが飲み歩こうがクソどうでもいいのだけど、光熱費・住居費・学費など生活費は払ってくれねぇかな?みたいな
払わないなら頼むから別れてくれないかな?みたいな。お前がいると公的サポートが受けれないんだよみたいな
金銭面以外でもどクズだったよ。父は直接的な加害者ではないのだけど増田にすら書けないヤツあるし、書けるレベルのことなら、
自分が小学校4年生の時に家の中でガラスを割って踏んでしまった時に、『フーン』でほったらかしてゲームやってたよ
パートから帰ってきた母にめっちゃ怒られてたよ、父は怒られてシュンとしてたけど、自分には対してはなにも言わなかったよ
一時期飲み歩きや女遊び辞めて家にいたこともあるけどパチスロやってたよ、子どものお小遣いやお年玉をパクって
母にめっちゃ怒られてたよ、父は怒られてシュンとしてたけど、自分には対してはなにも言わなかったよ
そんなヤツが高齢になって失業したらずっと家にいるとかナメとらん?外の女の家にいけよみたいな
金が無いが加速したのは父方の両親と妹の不幸とトラブルが原因っぽいのだけど、微塵も同情する気は持てないよね
高給取りだったのに何に使ったから貯金がないんですかね?みたいな。やることやった上での『足りない、助けて』じゃないもの
でも父方のおじいちゃんはユーモアのセンスもあって博識で好きだったよ
父との関係が悪化して葬式にも参加していないし墓参りにも行ってないけど
強いて父の良かった探しをするなら、どんな時も暴力を振るったり、声を荒げたり、不機嫌な態度を見せることで
人を操ろうとする人ではなかったくらいですかね?
人として当たり前では?って感じするけど、母がその当たり前を守れる人じゃなかったので
ただ、このままだと日本という国が立ち行かなくなるんじゃないか?
社会保障費が上昇しているせいで、経済は縮小する一方だ。増税、科研費の削減、学費の増大。状況は悪くなるばかり。
本人が望むなら、最後まで苦しい尊厳死よりも、楽に早く死ねる安楽死を導入すべきじゃないだろうか。
そうすれば、医療リソースは温存されるし、他の部分で税金を使うことができる。
綺麗事ばかり述べていないで、医療倫理をもう少し真剣に論ずるべきではないだろうか。
最近だと、自殺者も多い。報道されているのは一部の有名人だけ。自殺未遂を含めると、相当数見込まれるだろう。
自殺は苦しい。絶対に痛いし、死にきれず障害が残る場合もある。友達のお父さんがそうだ。一生車椅子だってさ。
こんな事実があるにもかかわらず、政府のやっていることといえば、ただ電話で話を聞くだけ。根本的な解決になっていない。お金や安心できるコミュニティを用意すべき。
それが無理なら、せめて安らかに死ねる選択肢を用意するのが筋ではないだろうか。
少子化なんて言ったら聞こえは良いけど、未来の若者の可能性を殺してるんだ。
未来について、もう少し真剣に考えるべきだと思う。安楽死はいけない、命の選別はいけない。確かに正論だ。でも、正論が若者の可能性を殺すとしたら?
もし詳しい人がいたら、納得のいく説明をください。
元増田だけど個人的にはみんな大好き 香山リカ センセー が解説を寄せている本がお勧めだよ
https://www.amazon.co.jp/Supernormal-Untold-Story-Adversity-Resilience/dp/1455559156
心理学者メグ・ジェイ博士の『レジリエンス』に関する画期的な新しい研究です。
子供時代のさまざまなトラウマを克服し、人並み以上の社会的成功を収める多様な人々のグループの物語を語っています。
これらは、子供のように平均以上の苦難を背負っている "スーパーノーマル"であり、期待に反し、大人として平均以上の成功を達成しています。
メグ・ジェイ博士が私たちに紹介する人々は、すべてのサバイバー(生存者)です。
彼女は、サバイバーが幼少期のトラウマを克服し成功した大人の生活を構築を可能にした共通点を探ります。
そして彼女は質問をする。そのような力を開発するために何を犠牲にしたのか?
そして、生き残り、さらには生き抜いた後、どのようにして信頼され、充実した人生を築くことができるのか?
メグ・ジェイ博士は、個人的、科学的、文化的な知識と共に "スーパーノーマル" の経験に声を与え、より良い自分自身を理解し、
彼らの強みを最大限に活用するためのツールを提供し、それらを理解しようとする人のために彼らの世界への窓を与えます。
ネグレクトによって発生する問題(電気ガス水道・学費・食事・暴力)を解決しないと文字通りの意味で死ぬ、あるいはさらに厳しい立場に置かれることになる。
なので、自分自身の 主体的に動き問題を解決する『習慣』『能力』は 厳しい環境によって磨かれた感はあるよ。
同じサバイバーのみなさまにおかれましても『辛い経験も意味があったんだな』って思って貰えると幸い。
ただ、辛い経験も意味があったんだなって思って貰えると幸いと同時に『生まれつきの要素は大きい。人間には個性がある』とも思っているよ。
ストレッサーに暴露されても健康的な精神状態を維持する力(抵抗力)と回復力はストレス感受性と同じく “生得的(遺伝要素)なもの” だと思うよ。
いま辛い環境にある人が『自分自身の気合い・努力が足りないから』とは思わないで欲しいよ。
考え方・経験以前に、ストレス感受性には生まれつき個人差があるよ。足が速いとか遅いとかそういうのと同じ個性だよ。
クソな私立医科大学に行くと、教員たちが「一夜漬けはだめだぞ!」っていうのを真に受けて、ちゃんとした参考書や本を購入しちゃうのだ。それは実は間違いなんだ。
教員たちも能力がないので、ちゃんとした能力がないので、この大学にいる可能性が高いのだ。そのせいで、まともな試験問題を作れないのだよ。そんでもって、その教育の失敗を、学生に押し付けるという手法で学費をゲットするのだ。で、学生は「自分は不勉強だったから落ちた」なんて思わせることで、翌年もさっさと高い学費を払わせるゲスい集団がこの世にはいるのだ。
必要なことは、過去問をゲットして丸暗記して、国試の前に全部ロストして、国試直前に予備校の手法を身につけるということなんだよ。間違っても「うちの大学の先生に実力がある」なんて思って、国試対策だけをして卒業対策をしないなんて馬鹿な真似をしちゃいけない。
卒業試験なんてゴミです。ゴミがゴミにゴミされて、本当のゴミになり果てるなんて馬鹿のすることです。私達のやらされていることは、ただの「数年分の過去問」を再現するという作業です。たかがゴミ大学の試験です。こんなものに評価されてイキるのは無能の証明です。ボーダーを超えたら、ゴミ生成器の呪縛から開放されるのです。
我々は留年するために医学部に入ったのか。違うだろ。医者になるために、医学部に来たはずだ。医者になるには、医師国家試験を受けるまで自分を持っていかなきゃならないはずだ。全ては、ここに至る過程を重視しろ。
ps・CBT上位陣が卒業試験で留年する大学は、やっぱり何かがおかしいですよ。自分たちの能力を過信しすぎです。卒業試験を難しくして応対しても、国試の成績は上がりません。あまり変なことをすると、誰も研修医として残らなくなるからな。誰も受験してくれなくなるぞ。真面目に実習する学生を留年させる医科大学なんて、誰がいこうと思うのか。気をつけろよ。
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
ありがとう、優しくしてもらって、誰にも吐き出せずにいた気持ちが少し救われたよ。2人目を産みたい気持ちの前に、そもそもレス状態でいることも辛かったんだ。
さっき書き忘れたけど資産運用はもう実行してて、今はまだ試行錯誤してるとこ。今のままなら、多分一人分の大学の学費くらいは、運用の利益で捻出できそうかな。でもそれ以上稼げそうなら二人目も…みたいな話をしようとすると旦那の顔が強張るので、今はまだ何も言えてない。
高校卒業後は両家からの支援もろくになく、バイトと奨学金だけで生きてきた2人なので、旦那は子どもに同じ思いをさせたくないのかもしれない。私は、それはそれで人生サバイブしてる感じがして楽しかったんだけどね。その感覚を思い出しながら、転職のタイミングを考えてみるよ。
あのさあ
俺の前の増田は
って言ってるわけよ。
そこへ俺が
と言ったのよ。
「玩具を買って与えたり遊びに連れてってやらないといかんから」ってのは10万の差額分に掛かってるってのが何故読み取れんかな。
承前 : Part-2 https://anond.hatelabo.jp/20201004112526
次回 : Part-4 https://anond.hatelabo.jp/20201006121559
levels.fyiに書かれているRSUの値はvestでなくgrantベースなので、これにbaseとbonusを足しても実際に貰うことになる年収というかW-2の値とは違うものになります...
額面と手取りについてまだ扱っていなかったので、実際、重大な誤解を与えうることに気付いた。そのため今回は予定を変えてこちらを取り扱う
額面が$1Mを超えていても、実際に手元に入る額はずいぶんと減る。
サラリーもRSUを売却した収入もshort term capital gainと同税率のincomeなのでがっつりと取られる。
株価が値上がりする前にvestされてそれから一年以上経っていれば値上がり分はlong term capital gainであるが、それは通常の株式投資で得をしたのと変わらないので今回の話には含めない。
401kやRoth IRAにどれだけ入れているかにも依るが、ランクが上の方のエンジニアなら大体半分が手元に入らず消える。
額面が半分になって、しかも高い家賃やmortgage、常軌を逸した子供の学費などが取られるのである。額面から想起されるような生活はできない。
シリコンバレーで働いているエンジニアがもし読んでいれば、二つのことを声を大にして警告したい。
RSUはGrantされた時点で証券口座に出現し、特に以前に経験のない学生などは瞬時に自分が金持ちになったような錯覚さえ起こさせる。
よくあるnew hire euphoriaである。しかし、この時点では絵に描いた餅だ。
ここで注意したいのは、多くの企業で、RSUはvest時にtax withheldされることだ。
例えば、入社時に4000株がGrantされ、今年は合計1000株がVestされたとしよう。
会社はそのうち300株ほどをwithholdし、IRSに同額の現金を納付するのだ。
実際に自分で売却できるのは700株に満たない。悲しい。
さて、このwithheldされた分のRSUは自動的にW-2のBox-1に計上され、税手続きはすべて済んでいるように思える。実際すでに税負担をしたのだ。
しかし、これだけではないのだ!
実際にその株を売却した時、たとえvest時の株価と売却時の株価が完全に一致していたとしても(例えばvest直後に売却)、tax returnで報告しなければならない。多くの証券会社ではあなたの1099を配布するとき、何もしなければRSUの売却取引はcost basisがunknownになっているだろう。
これを自分でvest時の株価を調べ、差額のみgainとして報告しなければならない。
すでに課税されたし、株価は値上がりしてないから何も報告しなくてもいいだろうと思っては絶対にいけない。
実は自分も株価が値上がりしなかったときはそれをしていて、いままで特にIRSから何も言われなかったのだ。
しかし、今年はauditの対象にされたらしく、全売却額が未申告のgainとしてCP2000が送られてきた。思わず叫び声をあげるような追徴課税額である。
もちろん単なる誤解と自分の怠惰の産物であるので、すぐさま会計士に駆け込んで処理を依頼した。
会計士曰く非常によくあることだそうで、CP2000と言った直後に自分の状況を正確に言い当てた。
全部チャラになる、と頼もしい言葉をくれたが、それでも必要書類を集めなければならないので週末の予定を切り上げて現在処理中である。
https://www.buzzfeed.com/jp/reonahisamatsu/zeni-yamete
こんな記事を読んだ。
このお母さんが言ってることは正しい。間違いなく。
ただ私はこの記事を見て、また、ここ最近の芸能人自殺の件を見て、自分の過去の事を鮮明に思い出した。
自分語りする場他に無いのでこちらで失礼します。長いから読まなくていいよ。
私は毒親から生まれた。母が特にヤバい。どうヤバいかは読んでる内に分かると思う。
父親もヤバいけどマシ。父親は私が5歳の時に借金が問題で離婚した。借金の原因は母であり、父が母に耐えられなくなったというのも離婚理由の一つ。
あと他に父親のヤバい所は私が3歳の時に未成年淫行で逮捕経験有り、今もたまに何かしらで逮捕されてるくらいでしょうか。
母は嘘しかつかない人だった。
自分がいかにすごいかを毎日私に語っていた。嘘じゃないかもしれないが運動が出来て頭が良くてとてもモテたらしい。
一番よく聞いたのは、母が子供の頃芸能オーディションに応募して最終選考まで残ったのに親に反対されて最終選考に出られなかった話だ。
だから、自分は子供を決して縛ることなく何でも自由にさせてあげるんだと息巻いていた。
他には、身内や近所からこんな酷い事を言われた!と言って悲劇のヒロインを演じていた。そして、自分は正当だって話をセットで私や色んな人にしていた。
母は家事を一切しない人だった。
私は物心ついた時には包丁を握って、火を使って料理をしていた。何度も火傷したり指先を切り落とした覚えがある。ピーラーは100%切ってしまうので使うのを止めたし今でも怖くて使えない。指先が無くなったことで病院に行ったことはない。幸い、今指の形が変とか火傷の跡が目立つとかは特にない。
洗濯や洗い物は一回分でも溜まるとその晩母は発狂して私は何度も殴られ首を絞められ怒鳴られ、学校へ行く時間(朝)になるまで逃げられなかった。
ちなみに寝不足なうえにわんわん泣いてから学校に行くから瞼は毎日一重。今は何もせずに二重だが、同級生からは整形を疑われることがある。
そういえば包丁を投げられたことも何度もある(シンクに置きっぱなしだったせいで)。運良く毎回避けられたが避けなければ刺さってた。
赤ちゃんの頃はどうしていたか。ホームビデオを見る限りでは父親が家事をしていた。母は自分がしていたと言う。だから、家事も何もかもを全て私にやらせておきながら「誰があんたを育ててあげたと思ってるの!」が口癖だった。
私は何言ってんだこいつと思っていたが、ふとした時に何故だか自分が悪いかのような気になった。言われたその時ではなく、あとから何もない時に急に罪悪感に襲われた。
母は働いたことが無い。
しかし、一度だけ、試食販売のバイトをした。私が中学の時一度だけなんだけど、それを一生やってるかのように「私は働いている!」と言い続けた。
母は身内や近所に嫌われていた。
祖母や伯母は「母は昔からこういう性格で褒められたのは芸能人並みの容姿だけ、だから結婚してないと駄目なのに逃げられた」と口癖のように言っていた。(ちなみに私は父親似のブス)
母はその言葉に誇りを持っていたらしい。歳は40超えていたけどいつでも芸能人になる気満々だった。頼むからそうしてくれ、家にいないでくれと思って40超えてても応募できるオーディションを色々調べて教えたけど、行動に移されることは無かった。
近所からは、毎晩発狂してる事で心配の言葉を掛けられた事がある。その時母は「うちの子が癇癪持ちで、すみません」と言った。
母は、一度言葉にしたことはその場を取り繕うための嘘でも本気で本当だと思い込める。その晩、私が癇癪持ちなせいで近所から恥をかいたと朝まで怒鳴られた。
その晩だけでなく、機嫌が悪いと必ずその話を持ち出した。
繰り返していく内に私は自分の記憶も信じられなくなっていった。
しかし、とある近所の人は私に「あなたは普通だよ、お母さんがおかしいだけだから」と何度も言ってくれた。その一言だけが支えになった。
母はその人の事をことさらに嫌っていた。こんな酷い事を言われた、という話は主にその人からだった。
最初に出した記事から思い出したのはここです。笑 マジで関係ないです。作者さんすみません。
母には愛人がいた。
私が生まれてすぐの同窓会で会った既婚者。ダブル不倫。結果として父より長く付き合っていた。
私が成人後家出した後、「〇〇が家出した原因は愛人がいたせいなんでしょ?それがショックで家出したんでしょ?別れるから帰っておいで」とメールが来た。死ねと思った。
父は愛人の存在を最近まで知らなかった(さすがに知ってると思って私が言ってしまった)。
父とまだ離婚してない時もその愛人とは家で会ってて、私が3~5歳の時(覚えてないけど離婚前)「今、家に借金取りのヤクザが来るから猫のフリしてて」と母に言われ倉庫代わりだった部屋の扉にガムテープを貼って閉じ込められた。
私は言われた通り、にゃーにゃー鳴いて扉を引っ掻いたりしていた。
ヤクザが何かもわからない私はガムテープが張られてない隙間から覗いてみた。見えたのは知らない男の人。しかしそれはその後小学生になって初めて顔を合わす母の愛人の姿だった。
母は生活保護を受けていた。
つまり私も受けていたことになるんだけど、暫くして不正があるってなって、全額返金を求められた。と、母は話していた。
私はここの詳細はわからないけど、心当たりあるとしたら祖母と父親から充分な生活費を貰っていたことかなぁ……。生活保護費は母の夜遊び代だったので。
その時高校生だったので、アルバイトをしていた私のお金、それまでのお年玉貯金(そもそもお年玉は母に取られてたので、内密に受け取っていた僅かな分しかない)や奨学金含めて、全て生活保護の返済に充てるという事で母に没収されました。
高校生の時のアルバイト代はその後も全て没収、生活がものすごく困窮した。お昼ご飯はお弁当だったけど、時間的にも金銭的にも作れなくなって、何もない日があって友達から少しおかずを分けて貰っていた。
しかし母は相変わらず夜遊びしていた。私は夜遊びに行ってもらう方が都合が良いのでその事を問い詰めるような事はしなかった。どこに行ってたのかも知らない。
もしかしたら、嘘をつかれて、私から取ったお金も遊びに充てていたかもしれない。
高校を卒業する時、私は県外の専門学校に行かせてもらえるはずだった。
小学生の時から良いなと思っていて身内全員に勧められ、漠然とそこに行くんだって思っていて、大学の勉強はしてなかった。
中学で1年半不登校して(この時は、完全に部屋に閉じこもって母とも誰とも顔を合わせない引きこもりをした)基礎が何も分からなくなってしまったのでその時点で勉強はだめだと思っていた。
けど、丁度進学を決めるタイミングで祖父が亡くなり、遺産で揉めて学費が払えませんとなった。
私も貯金がゼロ、なら就職しかない、と思ったら担任に「もうさすがに遅くて無理です」と言われた。そして勧められたのが、高校の系列の専門学校だった。推薦できるし安く出来るからって。母は最初から最後まで可能不可能の話はせず「あんたの進路はあんたが決めなさい」とだけ言った。
私は"家から出られれば"どこでも良かった。その話を担任にこっそりとしたら、寮があるから大丈夫と言われて、じゃあそうしようと決めた。
しかし、実際は寮には入れなかった。
推薦入学の為面接があって、面接の部屋に学生は5人いたのだけど私にされた質問は一つ。
「寮に入りたいって希望してるけど何で?きみ、家近いよね?」
そんな事聞かれると全く思っていなかった(担任とのシミュレーションにも無かった)ので、とにかく本当の事は言えないから「自立する為です!」と答えた。
それに対して「親孝行した方が良いよ?」と鼻で笑われた。それで私のターンは終わった。最悪だった。
その後3年は、放課後から朝までアルバイト漬け、家には風呂に入る為だけに帰り学校で寝る、というような生活を繰り返した。帰る度に母が何か喚いていたけど黙らせた。
話していなかったけど、私は小学校高学年くらいから母の暴力に暴力で返していた。私の方が力が強いので捻じ伏せることが可能だった。生きる為とはいえ今でも罪悪感しかない。それに暴力癖は今でも抜けない。普段生活していて手が出る事は無いが、彼氏と喧嘩して手が出てしまった事がある。別れた。子供は勿論結婚なんかも無理だろう。
それで、もう卒業式さえ出れば良いって時に東京のクソボロネズミ出まくりシェアハウスを借りて、必要最低限の荷物を送って、何も言わずに家出した。
あんなに働いたのに引っ越し後の残金(卒業式の為に一度故郷と往復する飛行機代を除いて)は2万円とちょっとだった。
慌てて就活を始めたが、最初に当たった企業が「きみ田舎から出てきたの?東京は甘くないよwでも仕方ないからうちが拾ってあげるよwうちの寮に住むならね。給料は14万もあげるよ、田舎だとこんなに貰えないでしょ?寮の家賃は6万。これは東京では物凄く安い方だからね。ほら、ここにサインして」逃げました。チェーンだから名前晒してやりたいくらいだ。
心折れてシェアハウスの近くでアルバイトする事にしました。給料の支払い日の都合が良くてラッキーだった。ギリ初回の家賃が払えた。
このかん、何度も自殺未遂した。物心ついた時から死にたかった。
幼稚園児の時も友達と喧嘩ばかりして友達が悪いのにその子の顔が可愛いから擁護されて、私が悪いんだって周りに指さされて、でも幼稚園の近くに住んでいた大人(変人)が「あんたは悪くないよ!この子が悪いんだ!」と急に怒鳴ってきて、ビックリしたし周りもあいつヤベーぞ不審者だ注意しろ!みたいな感じになったけど私はその言葉で救われた。その変人がいなかったら幼稚園の屋上から飛び降りていた。
小学生の時担任に親の事相談したら「そんなわけないでしょ、いいお母さんじゃない、ちゃんと育ててくれた人に感謝しなきゃだめよ」と言われた。児相の存在も知らないから最後の頼みの綱のつもりで相談したのに最悪だった。でも、私も当時は自分の状況をうまく説明できなかった。虐待されているとは思っていなかったし。でも、なんか説明できないけど不当な扱いを受けている、そしてそのせいで自分はとても苦しいという認識だった。だからその日死ぬつもりだった。放課後、当時好きな人と少し進展があった。嬉しかったけど私は今日死ぬんだぞ、今のが最後の会話だからな覚えておけよと思った。遺書にも書いた。その晩家のベランダの柵の上に身を乗り出して後は手を離すだけのタイミングで好きな人の事思い出してしまった。泣きながらベランダをよじ登った。
中学に上がり私は引きこもりになった。理由はなんかもう狂ったから。友達が私の事褒めると、嘘だと思ってしまう。私の脳内が勝手に誉め言葉に変換してるだけで本当はずっと貶されているんだ、私はキチガイなんだ、こうなったのは親のせいだ、そんな事を思いながら母が毎日扉前で「いい加減出て来い!」と怒鳴っているのを聞いていた。
ちなみに飲食は母が夜遊びに行ってる間にした。そういえば夜遊びも近所の人に色々言われてたけどそればかりは余計なお世話、私にとっては唯一の安息の時間だから正そうとするな。食料はちゃんと買っててくれた。と言っても、ほとんどツナ缶だった。育ちざかりにほぼツナ缶とマヨネーズしか食べなかったせいか身体が成長しなかった。友達にチビを弄られる。最悪。
引きこもってる間は元気にしてた。何故ならパソコンがあったから。2chに「死にたい人が書き込むスレ」みたいなのがあって、年齢など書きこむテンプレがあってその通り書き込んだら「まだ若いから大丈夫イキロ」みたいなレスをたくさん貰った。そうなのかあ、と他の書き込み見てみたら確かに50代とかが多くて、私若っ全然余裕じゃんと思った。
それでも一度だけ「そろそろ死なないとなあ~」と思ってまたベランダの柵の上に登ったけど、やる気になれずやめた。
引きこもることに飽き、死ねないし今のままじゃマジでやべえと思って2年の2学期からいきなり登校したらマジで誰?みたいな感じだったけど誰も何も聞いてこなかった。暫く過ごして、「転校生だと思ってた。自己紹介しないから変だなって」と言われた。物珍しさで人が集まり友達に恵まれた。小学生の時好きだった人はクソヤリチンになってて冷めたけどめちゃめちゃ楽しい中学時代を過ごせた。全国の引きこもり!デビュー、意外といけるぞ!もし失敗しても気にすんな!
高校~専門学校は家出の為に働くことに必死で自殺未遂はしなかった。何度も死のうとは思ったけど世間体も気になりだして、とりあえず、家を出てから考えようって思ってた。
家出後。家出直後は紆余曲折あったが、安定してきたのは3年後頃。それまでに2回転職した。1つ目、2つ目のアルバイトははっちゃめちゃのどったばったの学生の延長みたいなノリの職場だったので死にたくなってもすぐウェーーーーイwwみたいになれたのに、3つ目は無。職場環境も人間関係も金銭面も何も不満が無かったのに、何をしても楽しくなくて、ご飯食べてるだけで悲しくなって死にたい……死にたい……とずっと唱えていた。ある日職場の先輩が死んだ顔をしていたので「死んでますね」って言ったら「うん、何もないのにね、死にたい」って突然言われた。わかる~!って返してそこから「何でかよくわかんないけど死にたいあるある」を言い合った。ちなみにその先輩は私みたいな人生は送ってない。自分で「人生順風満帆で家族大好きだし最近大好きな彼と結婚したし最高に幸せ♡」と言っていた。最高に幸せ♡なのに何でかマジで死にたくなって死にたくなる意味が分からなくて解決法も無いから本当に死のうかな?でも死んだら旦那悲しむし……と思っていたそうだ。今思えばあの職場が何か呪われてたかもしれないが、私はそれを聞いて、あっ毒親育ちじゃなくても死にたくなるんだ~!って安心した。安心したらその意味不明の死にたいもどうでもよくなっていった。
でもその職場で、ある日上司が変わった。すると職場環境が一気に最悪になった。クレーマーが激増して日々殺意しかなかった。てかマジでここにいる人間全員殺して私も死ぬ!って所謂無敵の人思考になっていた。電車のホームに飛び降りようともしたけど、それよりもなによりも殺したくて仕方なかった。殺さないと死ねないと思った。でも殺しちゃいけない事は分かってるし犯罪したことないからやり方わからなくて、とりあえずその時から信号無視する車とかを避けることをやめた。あわや死ぬところだったみたいなタイミングでちゃんと死ねば悔いなく死ねる、失敗しても保険金貰えるだろと思って死を避ける反応をしないようにした。けど、運がいいのか悪いのか全部あわやで済んでしまった。
そうこうしてる内に仕事をなんとか辞められて、今。在宅ワークをしている。
リアルで誰とも触れ合わずにいるとぜーんぜん死のうとは思わない。けど、死ななきゃなあ……と思って過ごしている。あーいつになったら死ねるんだ。
それは単に個人差あると思うというか、大半は男女とも表面的な付き合いしかしていない
なんならその友人(?)関係を維持するコスト払うメリットあるの?くらいのレベルの付き合いだからでは?
自分は困った時に助け合える友人がいるけど年がら年中会ってないし飛行機が必要な距離だし
趣味もぜんぜん違うし仕事も違うし年収も違うしあるある話もせんよ
あるのは時間と信頼の積み重ねだけだよ
具体的に少し書くと、自分は高校時代、学費自分で払ってた+進学費用自分で貯めてたので
昼飯代が勿体無くて食わなかったんだけど、友人がいつも弁当恵んでくれていたよ
みんなでどっか遊びに行こうぜってなった時もお金が勿体無くて躊躇してたら全額友人が払ってくれてたよ
でも友人の家は小金持ちどころかむしろ経済的に厳しめで週5〜6でバイトしてたよ
加えて友人はバイト代は全額自分では使えず家に生活費としていくらか入れてたよ
だけど弁当恵んでくれたし遊ぶ時は助けてくれたよ
そんな感じだったから、現在、年収が違って食の好みが違っても遊ぶ時に困らんよ
出せる方が出してるよ。それがお互い当然だから
もう一人の友人の方は特定できる要素が多過ぎるので書けることだけ書くと
通常口にしないお互いの家の事情知ってるけど、そのことで愚痴りあったり語り合ったこと一度もないよ
あと友人は常に異性がいないとダメなタイプで、まったく異性の気配を感じない自分のことを同性愛者だと思ってるよ(なお違います)
異性がいないとダメなタイプだけど武勇伝語りとかパートナーの愚痴とかいっさいなしないよ(触れてはいけない話題扱いされてる草)
だけど中学時代からいまにたるまでずっと友人で物理的に距離があるけどお互いの近況報告はお互いにしてるよ
自分のスケジュールが無茶目でも地元に帰った時は必ず時間を作ってくれるよ
ただ、セーフティーネット・ビジネスチャンスとして友人を見た場合は、
親友というよりも、ゆるく広く表面的な付き合いの方がセーフティーネット・ビジネスチャンスして機能しやすいらしいよ
【佐々木俊尚】友だち関係を広げていくことが、新しい時代のセーフティネットになる
https://www.any-times.com/blog/15755/
いろんなところでいろんな人と知り合い、その関係がだんだん輪のようにつながっていくんです。仲良くなったマンション仲介の不動産営業マンと友人になり、一緒にキャンプに行くようになりました。自家用車を買ったカーディーラーの人と仲良くなり、料理が上手だというので、引っ越ししたときのホームパーティーで料理を作ってもらったこともあります。そのうちエニタイムズでお仕事を頼んで、それで友だちになるってのもたぶん当たり前になってくるんじゃないかな。
仕事の関係か、プライベートの関係か、なんてことは、もはやどうでもいいんじゃないかと思います。仕事で知り合って、個人的に仲良くなった友だちもいる。友だちと盛りあがって、一緒に仕事をはじめることもある。会社員だって、同じです。日本でも政府が正社員の副業を後押しする時代ですよ?正業か副業か、はたまた遊びかという境界がなくなってきているんです。
そういう友だちの関係を住んでいるところ、働いている先にこだわらずに広げていくことは、新しい時代のセーフティネットになっていくのではないかと思います。仕事をしているような、遊んでいるような。そういうのって、ブラブラ遊んで生きてるように見えるかもしれません。でもブラブラしているからこそ、いろんなネットワークとつながることが可能で、実はそちらのほうがひょっとしたら安定しているんじゃないでしょうか。
ひとつの会社にぶら下がって閉鎖的な人間関係の中で生きているよりも、たくさんの仕事をしてブラブラのほうが安定している。まあ収入は安定しませんが、それでも友人がたくさんいれば何とかなるかなという安心感もある。そういう意味では、いい時代になったともいえますね。
病気なら病気だということをもっと主張するべきではないか。人が人を励ましたりするのは意図あってのことだと考えて、鵜呑みにしてはいけない。学費を出す親も、入学させた学校も、我が利益のためにあなたに関わっているように見える。頭が良くてもそういうことに気づかないと知らないうちにレールを敷かれ、それを自分で選んだ道だと思わされるかもしれない。
自分も女性なのに親からの期待度が高く、事実上自分で進路を決めることができず、大学卒業後は結果的に転職を繰り返した。自分が貰い事故で死にかけたり友人が死んだり、あれこれ人生うまく行かないなと思っていた。いつの間にか、ほとんど支援してくれない親から年金型生命保険をかけられていたことも分かった。将来は金に困ろうという大義があろうとも自分は知らされていなかったわけだ。解約させたら気分的にはややすっきりした。
それで様々な不幸どこぞの金融機関が被保険者の長命を嫌って環境工作をしているのだと思うようにしている。政治すら左右しかねない会社がある。生活保護制度も意味あっての制度だ。
あと自分の先祖の系譜を調べることも薦める。自分は先祖にいとこ婚の夫婦がおり、そもそも身体や精神が弱くなるリスクがあったらしい。そのいとこ婚も日本法ではいまだ合法なのだから。
アドバイスは求めてないと思うけど、学費含めたお金の問題をクリア出来るのであれば留年して修士課程を修了したほうが良いんじゃないかな。
①「バイオテクノロジーってカッコ良さそう。」というノリで生物系学科に進学する。(勉強はあまり出来ないのでB4でピペドとなっていた。)
②「リーマンショックで不景気確定なのに就活やりたくないよ~」と言って大学院へ進学する。
③B4時から薄々感じていたが周りの人間のレベルについていけなくなり引きこもりっぽくなる(当時は一人暮らしていたのでアパートとコンビニとATMを往復する毎日であった。)
④自分と連絡が取れなくなった指導教官が両親に連絡して心配してアパートに来て自分を連れ出し嫌々ながら研究室に行くようになる。
⑥除籍は流石にマズイので先輩から実験データをもらって何とか修論を書く。
大学院で研究に打ち込んだ事はいい経験になるみたいなことを言う人いるけど自分にはそれもない。修論の実験データも先輩からの貰い物ですし。
それでも修了しちゃえば修士号持ちになるわけで、就職する時に大卒より高い修士卒の初任給を得たのよ。
あの時は本当に大学院行って良かったと思ったよ。
理系大学院生にとって実験というのは食べて寝て呼吸をするのと同じくらい当たり前にするものである。
人間ってどうして呼吸するの?なんて日々考えてる人がいないように、毎日研究室に行って論文を読み先生と先輩の研究の雑務をし自分の研究も進めて後輩の面倒をみるのに疑問なんか持ってなかった。
でも自粛期間を経て一回立ち止まってみたら、当たり前にしていた研究室生活ができなくなっていた。自主自粛期間が6ヶ月を超えて修了出来るかも怪しくなってきたM2の、心と生活の変化を記録してみる。
コロナ前は月-土で8時には家を出て研究室に行き、9時過ぎに帰って、日曜日は一日中バイトしてたから、毎日疲れてて自分のことも必要最低限しかできていなかった。夜でも日曜でも先生からメールは来るし、後輩からも添削お願いしますメールがくる。結局は自由時間も研究室業務をしていたから、本当にメールを確認せず過ごせるのはなんとか時間を作って高校の友達とご飯を食べに行く時だけだった(同じ大学の友達はみんな同じ境遇だから、一緒に何かしてても研究室関連の連絡が来たら即対応してた)。でも、連絡にはすぐ対応しないと先生から色々言われるし、特に先輩は嫌な感じでストレスだったから、すぐ対応できるよう携帯が手元にないと不安だったし、友達がトイレ行ってる間とかに新着をいつも確認してた。とにかく時間がないから付き合える人間が限られてくるし彼氏ができてもわたしは週7で労働してるようなものだから続くわけもない。
3月末、大学は研究自粛となり、バイト先も休業し就活も終わっていたから、大学生になってから初めてなんの予定もない1週間ができた。うちは実験室に行って手を動かさないと基本何もできないタイプの研究室だから、本当にやることがない。(この時はデータも大学から持ち出せなかった)。みんなすることないから誰からもメールがこない。携帯が手元になくても、不安にならない。思い切って1日電源を切ってみたけど、次の日つけてもメールが一通もなかった。幸せを感じた。
久しぶりに2時間とかかけて料理してみたり、道具と材料揃えていろいろなお菓子作ってみたり、夜になったらYouTubeみながら毎日45分運動してみた。どうぶつの森を買って一日何時間もSwitchと向き合ったり、録画して観る時間がなかったドラマをみたり(やっと逃げ恥みれた)、Netflixに入ってずっとみたいと思ってた作品を一気に観た。1時間くらい散歩したり、zoomで高校の友人と久しぶりに話した。夜も時間あるからパックしたりストレッチしてみた。メイクも、集めてても結局考えたくなくて同じものばっかり使ってたけど、毎日いろいろな組み合わせを試した。髪も巻く時間たっぷりあるし、実験しないから好きな洋服を毎日着れる。食べる量とかは変わってないけど、生活習慣が格段に良くなったおかげでニキビとかも無くなったし、体重も減った。何より毎日肩が軽くて快適だった。
そんな日々が1週間を超え3ヶ月が過ぎ研究が解禁された頃、研究ができない体になってた。研究室に行ってた時も、全く自分の時間がなかったわけじゃないけど、気力が起きなくてせっかく1時間あってもずっと横になりながら意味なくSNSを眺めてて終わってた。もうそんな日々に戻れなかった。
研究室に行かないと人生がこんなに楽しいのに、なんで年間50万円の学費を払ってあんなことしなきゃいけないんだろう。っていうかなんで50万円払って先生の研究の手伝いと後輩の指導してたんだろう時給マイナスじゃん。マイナスなのにストレスまで多くてなにこれ。あーもう無理無理。明日こそ行こうって毎日思って寝るけど全然家から出れない。買い物とかには行けるのに、研究室に行こうと思うと家から出れなくなる。
今思えば、ブラック企業みたいなものだった。もしこれが会社だったらみんな辞めて転職しろって言ってくるやつでしょ。会社はいいね、やめて次踏み出せるから。てか辛くても長時間でもお金もらえるからいいな。研究室ってね、入ったら合わなくてもストレートで卒業したかったら耐えるしかない。やめたら就職に不利だし、他大学に移動できるタイミングも限られてるし、仮面浪人なんて莫大なお金かかるし。学科のパワハラ相談室とかあるけど、有名な教授よりどうせ卒業する生徒を切り捨てるから何の役にも立たないし。
本当なら7月から大学行けてたけど行かないでもう9月も終わって自主自粛期間6ヶ月になっちゃった。
3ヶ月の空白分を実験するのも大変なのに6ヶ月ってやばいよね。だって今から実感してデータまとめて考察して修論書くの?無理無理。
何より今更先輩と先生と顔合わせたらなに言われるか分からなくて無理。同期からは気にかけてるよって連絡くるけど、2人きりになったらわからないじゃん。
でもせっかく就職先決まったし、今週内定式もあるのに就職できないのは嫌だな。推薦じゃないから迷惑はかけないかどもう就活したくないし…。
ワイの場合、家の中の空気を読んで親の逆鱗に触れないようにうまく立ち回っていくのが自分の処世術だったので、急に自分の意見を言えと言われても戸惑うことが多かったなと。今思えば、自分の意見を言ったところで聞いてもらえる自信がなかったから、相手に流されるようにずっと生きてきた。実際、幼少期はいくら自己主張したところで聞いてもらえることなく、力でもって押さえつけられていたように思う。恐怖と暴力で支配された暗黒時代と言っても過言ではない。暴力では支配できなくなっても、経済力で支配され続けていた。社会人になってからは経済的にも独立できて、やっと親から支配される時代が終わったと思っていたら、今度は学費など過去にかけた費用などをかさに支配してきた。もう、その分のすべての費用はお支払いしますから縁切ってくれますか?と言うところなんだろうな。
...と覚悟を決めているとかなり楽になった。