はてなキーワード: 大袈裟とは
ボケなのに「ひぇー(引)」とかやめろ
引くなら引くで黙ってろよ声に出すな
絵が上手いとか小道具がすごいとかの技術に対して「おおー(感心)」って言うのもやめろ
聞く度???ってなるんだけど
しかも中高生とかならまだしも普通に仕事してる同じ年齢くらいの人が若い世代代表みたいにしてそういうの言ってて本当に凄い嫌なんだけど
もし自分に原因があって相手が怒ってる状態で理性的でいるより感情的になる事が問題解決の妨げであるとか問題解決を優先すべきだって言うのなら、原因である自分こそ理性的であるべきで相手が感情的になってようと関係ないし、というか相手の怒りはむしろ進んで思考材料とすべきだし、原因から筋道辿って自分に何かしら不備があったのなら自戒として改めたりそれを口にするなり何なりすればいいだけの話じゃん
そこでうるさく言われて嫌な気分になったら反省とか出来ないでしょ、ってなるのは自分こそ超感情優先で動いてるじゃんって思う
だって怒られてる内容/論理じゃなくてその声の大きさや怒られてるって事実自体が嫌なわけでしょ
理性では少なくとも何か自分が悪いって事は分かってんのに感情面でそれを否としてるって事なんだから超感情的じゃん理性とは真逆じゃん
自分がやった事への責任やその代償、自分が変わらない事での自分や周囲への影響より感情面優先させて意思決定すんのは普通に超感情的な人間だよ
しかも反省出来ない、って表現ってそういう自分の行動が原因になってこれから起き得る、今起こったのと同じような問題の影響の責任までその相手にあるってそういう言い方なんだよね
あんたがそうやってこっちの気分悪くさせて反省出来なくしたからまた同じ事起きるかもねってそういうの
相手の感情や相手が周囲へ配慮する、影響考えるその気持ち人質に取った一種の脅しだよね
そういうのをそこまで自己分析も言語化も何もしないまま自覚ないまま口にしてる
ていうかそもそも問題解決のための理性的な論理と問題によって影響が及んだ側の感情は対象が人間であるなら引き離すべきものじゃないし、引き離したって大方何の解決にもならないって散々言われてる事だし
実際相手の感情的な面を新たに問題の原因だと定義して自身への影響面で同じ事を繰り返さないようにだとか反省するために一定状態以上の気分の維持が必要なのにって主張してるわけでしょ
感情面の尊重を求めてる時点で問題解決の過程で感情的であるべきでない、って主張は矛盾するよね
その定義の仕方自体、元を辿れば自分が原因であるって部分を無視してて相手が感情的になるのは自身が原因だとしても嫌だけど自分が相手に感情的になるのは別にいいっていう超自己中心的で自分勝手な話だけど
たぶんそれが問題解決における近道だと思ってるから正答だと思ってて、だから矛盾も自分勝手さも関係無いって思ってるんだと思うけど
結局その近道って問題の発生から解決における道筋においての近道で、間にある自身が原因になった事での影響とそれを訴える側からの意見への受容って部分を勝手にすっ飛ばしてて、影響あった側が飛ばすのは分かるけど原因作った側がそれいらないよねホラ近道じゃんって言う傲慢さのやばさたるやって感じだよね
問題起こした人間が怒ってる相手に対して感情の出し方もその範囲も問題の解決方法もこっちで決める、こっちが機嫌損ねるような事言ったら反省なんてしないってそう言ってんだもんやっばいよ
原因に向けた怒りや悲しみの発露って言うなれば相手への訴え、手段としてのその責任への代償を求めるに至った事への倫理的説得性の補強行為なわけで、それがあったら反省できないとか言うの逆に笑っちゃう
感情的になる事が逆に説得力を欠く事になるって意見は分かるし、実際解決方法として用いる分の手段のはずの感情をぶつけるそれ自体目的になっちゃってる人もいて、そこの部分に辟易するのも理解できるんだけどでもそれはあくまで論理に対する説得性に関しての部分で、その原因が引き起こした感情に関して自体とそこへの責任を否定するものではないんだよね
正論だどうこう言ってる人はそこを同じ感情って部分で混同してると思う
教育の場だと感情に対する責任は教師相手のものからは問われない事が多いからその意識をそのまま社会出てまで当て嵌めちゃってるとかなのかな
学校なら授業料払って学ぶ権利を得ていて法的にもまだ人として未熟だとされてる以上、学校側もあるところでそれを職務としてそこで問題を解決する場合に原因となった人間への対応として説得性の部分や当人の理解や反省が優先される方法を取って行くべきって主張はある意味正解ではあるとは思うけど
それが特異な環境である事を理解しないままそういう関係感を社会に出てまで引き摺ってるのだとしたら勘違いも甚だしいなって思う
学校でも生徒間の問題は感情面の責任についてむしろ言及される傾向にあると思うけど基本的にそこで怒られる状況があるなら第三者である教師にって場合がほとんどだからそこを分けて別のものと認識してて自分が問題を起こして影響を及ぼした相手が当事者意識を持って感情面の責任も含ませ自分を責めるって状況自体理解できてないのかもしれない
実際どうかは知らないけど
普通に考えれば解ると思うんだよね
問題があってその原因が自分にあるならそこにはその責任と代償が伴うっていうのは当たり前だし
その原因に対する責任においての再発防止策のひとつが安易だけど自省するって事でしょ
自分がやった事で相手が怒っててその相関性が常識的ならそこで引き起こされた相手の感情面の問題にも少なからず責任は発生するっていうのも普通の事だし
その責任の代償として露にした感情を受ける事を相手側がこちらに求める権利は当然あるし責任に対して受け入れる義務もあるって主張も理解できるじゃん
その原因作ってそういう状況にしたのは自分で、そのせいで相手に発生した権利を認めないって意味わかんないし
別にその権利を行使された結果そこでうるせえわって思うのも大袈裟なんだよって思うのも自由だけど少なくとも感情を出す事を相手が代償としたんならその選択の自由を原因作った側が制限する、制限出来る権利があるって思ってるのはほんと頭おかしいなって思う
説得力を欠くって問題がもしあったとして、それは問題を追求する過程でのやり方の話で問題の影響に対する責任への代償とは別の話なわけだし
そもそも問題の原因とされる事が不服でありその説得性という面で納得が出来ないので責任も無く代償も必要ないって言うなら解るけど、反省すべき事だと自覚がある上で問題解決の方法が気にいらないから責任は取らない、それは責任に対して代償を求められたからって意味わかんないんだよね
その状況で相手が感情的になってる理由を理解せずそれ自体を非難するのって責任の放棄、もしくは責任を認めない、理解してないって表明だし、それじゃ反省する気なんて起きないっていうのは同じく責任を認めない、理解してない、その上それ自体の責任まで相手に押し付けるものって話なわけでしょ
自分が何言ってるかも解ってないのかなって思う
感情的になる事自体に否定的だ自分の感情なんだから原因が別にあっても自分でコントロールすべきってスタンスならそれはそれで理解も出来るけど、でもそれならやっぱり相手が怒ってる事で自分が気分悪くなった責任も自分で追わなきゃ矛盾するじゃん
ていうか問題解決の折に感情的な面を材料として捉えないのは逆に理性的にと言いつつ感情的に主観的に忌む対象を排除しているというだけで全然理性的でも何でもないんだからそういうのは中学高校生ぐらいまでにしといて欲しいって思う
そういう事言う人ってたぶん凄い主観的で共感性低めだから分かんない部分があるのかもしれないけど立場変えて一度どういうもんか想像してみればいいのになって思う
クッソ嫌いな奴のやった事のせいで自分や大好きな人や大好きなキャラが怒ったり泣いたりしててその原因作った本人が何でそんな感情的になんの?声でかいし気分悪いし反省する気もなくなるわって言ってる姿思い浮かべてもその通りだなって思うのかな
映画とかでそんな場面あったら普通にヘイト集めるためのシーンだなって感じだけど
その人が言う通り反省して貰うために気分を損ねちゃいけないから怒るとか泣いて責めるなんてそういう自分達の気持ちは二の次にして気を使ってあげないとって思うの?
泣いてる子に対してこの人の気分を害したお前のせいになるよって?
だったらそれは逆にもういっそ凄いねって思う
自分がやらかした場合の相手が感情的になる選択の権利を勝手にどうこうする根拠には全くならないけど
結局自分が原因にも関わらず相手の感情的な訴えより自分の気分を優先するっていうのはただ自分が相手の事なんて、相手が自分の行動でどうショックを受けたか、傷付いたかなんてどうでもいいってだけで、諭してくれないと、なんてそもそも何かやらかしたのは分かるけど何が問題か理解してない、どう思ったかは言っていいけど感情的に表現するのはやめてくれ、でも自分は嫌だと思って気分悪くしたら態度に表れるし反省できないよ、なぜなら感情的に表現するからってそういう話でしかないと思う
やっぱりただ自己中なだけだよ
自己中なのは自由だし自分の人生だし自分の人間関係だからどうでもいいと思うならそれでいいけど
怒る声苦手だしそういう性格だから悪いの分かってても怒られると良い方には行かないんだよって言うならそういう人もいるからって思うし否定しないけど(それでも責任に対する代償は負えよって思うけど)、その良い方に行かない原因が自分の性格じゃなく相手の人間性にあるって思うのはやばいしその歳でそこを理解できてないのもやばいなって思う
自分が言ってる事もやってる事も普通な事でむしろおかしいのは相手だって思ってる感じが
解ってないのは仕方ないけど解ってない事ぐらい自覚しなよって思う
自分で自分が何でそう思うか解ってないのに相手が問題あるって根拠なく疑いないのってすごい人としてやばいじゃん
相手によって、立場によって変わるような自分の偏った極々感情的な問題を正論だ理性的だみたいに思い込むのはやめた方がいいと思う
ていうかそれをその年代の常識みたいな顔して言うのをやめて欲しい
全然理性とは真逆の反応だし超主観的で自分勝手で傲慢で正論でもないし矛盾しまくってて馬鹿みたいだから
ほんとに
あのさー
コートのポッケにしまってたたんで入れてた鞄落っことしちゃったみたいで、
かなりショックなんですけどー。
買い物にも重宝してたのよ。
ピカピカに水洗いできちゃうポリエステルのロバートデニーロなの!
違う違うそうじゃない、
65536デニールの厚手で超丈夫なやつなのよ。
増田のお友だちが大好きな綺麗に透ける黒タイツは40デニールでしょ?
だから相当丈夫なの分かる?
20デニールとかになると逆に生々しい御御足になっちゃうわよね。
御御足とかけまして御御御付と解きます、
その心は!
どちらもおかずになるでしょう!ってやかましーわーいって
そんなことどうでも良いのよ。
でね、
よく意味分かってなかったのよね。
たぶん、
おまえ鞄落としたぜって言ってくれたんだと思う。
今になって、あっそっか!って気付いたときは
でも捨てる神あれば拾う神ありよ。
もうずっと売り切れ状態で、
お気に入りのトートバッグがリピ出来なかったのがショックだったんだけど、
サイトを見たら明日から新しい柄販売します!って言うじゃない~
可哀想なことしたなってごめんなさいなんだけど、
うふふ。
旬の筍おこわおにぎりも美味しそうだったので、
あたたたかく、とか
かたたたき、とか
おのののか、とか
搾って炭酸割りにしたなりよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
30代女性です。自衛官募集ポスターの件、元のアニメのことはまったく知らず、ニュースやそれに対する意見もごく軽くしか読んでいませんが、今回の話題に関連して思い出した話をします。
小学生、中学生のころ、体育の授業はブルマを履くことが学校の規則でした。
当時から、パンツと同じ面積しか覆ってくれないブルマという衣服について疑問に思っていました。
土のグラウンドで転べば膝の広範囲にわたって擦り傷を負い、体育館で転べば床との摩擦で火傷のように痛みました。
それ以前に、パンツと同じ形のただ黒くて分厚いだけの布を履くのは子ども心にひどく恥ずかしかった。
でも我慢していたのです。なぜなら、大人が、学校が、社会が(大袈裟でしょうか?)決めたことだったから。とても嫌だったけど、我慢してパンツと同じ面積のブルマを履いていたのです。保護者(つまりは見知らぬ大勢の大人)が集まる運動会でも、我慢してパンツ同然の衣服で運動をしたのです。
今回の話を鑑みるに、あの面積であればパンツということになるのでしょうか。
(前提となるアニメを知らないので、誤認があるかもしれません)
しかも被害者の仕事仲間の女性が男に指示して被害者をレイプさせようとしたのではないか、と疑われてる状況下で、被疑者の女を調べもしないで被害者に謝らせるとは😱— ぴよ (@piyopenta) 2019年1月11日
「生きた心地しないと」いい、「◯キロ痩せた」といい、やらかし組とされる人はまほほんへの当て付けを言ったり書いたりしないと気がすまないのかなあ。#NGT48— しいいいま (@tujiryuuma) 2019年1月13日
「ファンで悪気なかったんでしょ」
「ケガ無かったんでしょ」
「大袈裟、社会人でしょ切り替えないと」
という意見に未だ触れる事があるので絵ならわかるかと書きました。
⚠️注意⚠️
なるべく淡白に書きましたが今回の事件の様な経験の有る方は閲覧に気をつけて下さい。#山口真帆 #暴行事件 #NGT48 pic.twitter.com/clSOhNAVo0— ひと (@IMDIQpEgthBwTnK) 2019年2月5日
山口真帆さんにNGTを壊されたって思ってるのが一般人やヲタクだけに留まらず、メンバーの中にもそう思ってる人がいそうで怖い。あくまで主観ですが。— やむ (@nukonuko41) 2019年2月7日
私は自己肯定感が低い。
自信もない。
これまでに彼女はいたし、告った数と告られた数は後者のほうが多い。
童貞でもない。
しかしそれは私がモテたからではなくて、自信がなく拒絶されて傷つくのがこわくて手をこまねいている間にたまたま偶然運がよかっただけのことである。
その証拠に、30歳をすぎてからはそのような偶発的なことは一切なくなった。
所詮は学生時代や20代の若さがあってのみ成り立つものであったにすぎない。
30歳をすぎてから何もしていなかったわけではなく、いわゆる「自分磨き」的なことでできそうなことは現在も続けている。
が、一向に自己肯定感も男としての自信も高まりそうな気配がない。
過去よりも体力も筋力も経済力も仕事力も人間力も高まったはずなのに、自己肯定感と男としての自信だけは高まらないのだ。
それを何とかして埋めようと、月に1回程度「夜のお店」に行くが、いくら褒められても持ち上げられても、自己肯定感も男としての自信も満たされた気にならない。
それどころか、接客業としての癖か、相手の言動の真意を探ろうとしてしまう。
これは例を挙げたほうが早い。
「落ち着きがない→フットワークが軽い、好奇心旺盛」「マザコン→母親想い」などと、否定的な言葉を肯定的な表現に置き換えて発することがある。
これを逆算的に捉え、いくら肯定的な褒め言葉を並べられても、「真意は○○なんだな」と否定的な解釈をしてしまう。
(まあそもそもがそういう「商売」なのだからしかたないのだが)
そしてこのような卑屈な発想になってしまうのもまた、自己肯定感の低さゆえなのだ。
過去、夜のお店でのことではないが、相手の肯定的な言動を信じて好意を示したら、結果単なる私の勘違いだったという出来事があり、非常に恥ずかしい思いをした経験がある。
恥ずかしいだけで済んでいれば大きな傷にはならなかったが、あろうことかこの相手はそんな私のことを罵倒してきたのだ。
自分もまた私を勘違いさせるような言動を狙って行っておきながら、その落ち度は棚に上げて勘違いした私だけが一方的に悪であると罵ってきたのである。
この出来事は私の心に大きな傷を残した。
大袈裟な話ではなく、この時点から自己肯定感も男としての自信も失ってしまったのかもしれない。
もっとも、このような過去の苦い経験にいつまでも縛られていつまでも前を向けないのも、自己肯定感の低さゆえなのだ。
かくして、今私は自己肯定感を少しでも高め、男としての自信を取り戻したいと躍起になっている。
視野狭窄にもなっているのだろうか、自分1人で考えた結果、男としての自信を取り戻すためには、過去やろうとして失敗し苦い思い出となってしまった「狙った女を狙い通りに落とす(←落とす、ってのは表現がアレだがわかりやすいかと)」という「成功体験」をすることでしか回復できないと考えている。
心理学的には、この成功体験は「代償行為」によって疑似的に満たすことでも心の変化があるといわれているようだけど、こういうことの代償ったってねぇ。
最近またVtuberが話題なので、私が好きなVtuber「ゲーム部プロジェクト」の魅力についてひたすら語ろうと思う。
ゲーム部プロジェクトとはVtuber4人組のユニットである。都内高校のゲーム部に所属する生徒4人が、部活動の一環としてVtuberをしている、という設定。ゲーム部は4人のVtuberで一つのYouTubeアカウントを運営している。実際には株式会社バーチャルユーチューバーという企業が運営しているIPである。
ゲーム部の動画ではキャラ設定や台本が比較的かっちりと決まっている。アドリブの生放送では中の人感が透けて見えるが基本的なキャラのロールプレイは守られている。日常動画に至っては恐らくコンテが切られていて、ほぼCGアニメと同じと言える。
動画を構成する脚本、声の演技、編集、ゲームプレイングなど個々の要素のクオリティが高いため、恐らく各種のプロの合作であることが推測できる。
特筆すべきは、このVtuberたち、ゲームがめちゃめちゃ上手いという事である。ポケモン初心者の私でもゲーム部部長の夢咲楓さんがポケモン超上手いことは理解できる。(他メンバーも凄いようだが私には評価できない。でもみんな好き)
ポケモンというゲームは三ヶ月に一度、世界中の全プレイヤーの戦績が発表される。夢咲楓さんは、その中でほぼ毎回コンスタントに10位以内を取り続ける実力者である。
「美少女JKだけど実はチート級のゲームスキルを持っている」というキャラクターはアニメやラノベなどでありがちな設定だ。これまではアニメやラノベだからこそこんな設定のキャラクターを作ることができた。フィクションの世界でそういうキャラを創り出すのは簡単で、ラノベにそういう設定を一行書き足せばいい。しかし現実のプレイヤーランキングに食い込んでくるとなると話が違う。ゲーム部の画期的なところは、そんな最強アニメキャラクターを現実世界に半実在させたということである。夢咲楓は永遠の美少女JKでありながら、PGLの中に確かに実在する。そしてポケモンに人生捧げてるような世界中の並み居るガチプレイヤー達を打ち負かしてランキング上位に躍り出ている。
去年のTGSでゲーム部に会えるイベントが開催された。参加者はVRのHMDを被り、仮想空間の中でゲーム部のキャラと一対一で交流することができる。参加者には目の前にゲーム部の面々がいるように見えている。さながら握手会である。このイベントが今後も行われるかは不明だが、他のVtuberでも同様のことができる可能性は大いにある。
複数のプロクリエイターが協力し合いCGキャラクターを動かすことで、従来のニコ生やアニメとは違った価値を生み出すことができる。個人的には監督がいて脚本があってコンテが切られていればそれはもうアニメだと思っているが、ゲーム部プロジェクトはアニメの性質を持ちながらもプレイヤーランキングの中に実在しているし、生放送で視聴者と相互作用することもできる。言うなればインタラクティブな「生きたアニメ」「会いに行けるアニメ」という全く新しいコンテンツの可能性を示したのだと思う。
これは本筋から少し外れる話だが、ポケモンというゲームの性質について言及しておきたい。
数年前、googleのAlphaGOという囲碁AIがプロ棋士を打ち負かして話題となった。囲碁における石の置き方は10^360通りあり、どんな打ち方が最強なのか未だに確定していない。(ちなみに観測可能な宇宙に存在する電子の数が10^87以下とされている。)囲碁には二千年の歴史があり、競技人口もそれなりに多い。つまり人類が2000年かけて探索してきた歴史ある定石とされるものが、コンピュータシミュレーションによってあっさり覆されたということだ。それどころか人間がこれまで思いもよらなかったような強い定石がAIによってどんどん産み出されているので、世間に衝撃を与えAIブームの発端となった。
何が言いたいのかというと、ポケモンも(ちょっと大袈裟だが)これに似た性質を持つゲームだということ。約800種類のポケモン(レートで使われるのはせいぜい100種類だが)それぞれにタイプ、個体値、種族値、努力値、性格、特性、わざ構成、持ち物など無数の隠しパラメータがあり、育て方に無限のパターンがある。それらを6体組み合わせて戦術を作る。戦闘では相手のPT戦術を予測し3体を選出、各ターンで何をするか臨機応変な判断が必要となる。相手の裏をかくといった読み合いもする。PT構築の時点でメタゲームが始まっており、何のポケモンが最強なのかは誰にも分からない。酷い時は一週間単位で強いとされるポケモンが変わったりする。戦闘中はダメージ計算も必要だし(わざの威力の表れ方は毎回乱数で変わる)、上位勢の間では毎試合スクショを取って記録、環境を分析する者も普通にいる。
ポケモンをガチろうとすると考察や計算だけでなく、時間的なリソースもかなり消費する。育成や厳選にも相当の時間コストがかかる上、ポケモンを入れるボールや色違いに拘る者も珍しくない。(ちなみに色違いを意図的に作るためにはサブロムを買って外国語設定で二周目をプレイするなどの手間をかける必要がある。)そのためポケモンをガチるプレイヤーはしばしばポケ廃と呼ばれたりする。
そして、、夢咲楓さんのプレイングは可愛い顔や天然な性格、優等生な立ち振る舞いからは想像できないほど、エグい。ニコニコしながら躊躇いなく厨ポケを使うし、批判されるようなプレイングをしてでも泥臭く徹底的に勝ちにこだわる。ほぼ負けが確定した試合でも、諦めず、限りなく細い勝ち筋を必死にたぐり寄せていく姿は圧巻だ。
彼女は、そんな厳しい、そして世界中の老若男女から愛されるポケモンというゲームで、最高レート4位の偉業を成し遂げている。今現在も1位を目指して努力を重ねていることだろう。
眠れない夜キミのせいだよ~
はじめての生体認証!
つい先日近郊の銀行で口座を開設したのよ。
張り切って行った
生体認証したときは暗証番号いらないのね!とビビってしまったわ。
暗証番号無しで引き出せるって、
ヤバくない?危なくない?大丈夫なのかしら?って思うわ。
もうさ、
いつまで人類は
信号の画像をクリックしたりしなきゃいけないのよ!と面倒くさいなぁと思ってたら、
あの暗証番号入れてないのに開けちゃったんですけど!って言いそうになったわ。
これちゃんと動いてるのかしら?って思うし。
指をスキャンしたら
黒い画面に無駄にデカデカと緑色のワイヤーフレームで表示されくるくる回る指先のイメージが出てきて、
赤い丸がぽわんぽわんと点滅表示されて、
リアルタイムにコンピューターが考えて認証してるんだな感を表現している、
そんなの現実の生体認証での画面では一度も見たことないわ!ってぐらい
映画を見てる人に分かりやすいぐらい大袈裟な大風呂敷演出の生体認証システムな画面だったら
フォント大きいし
インターフェイスの作りもなんか大きいし、
全てのスケールがなんか大きいのよね。
そんなの今時Windowsでもないわよ!って思っちゃうぐらい。
チャンチャン。
なんか今日はお店の品揃えが冴えない感じね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
小学生くらいになったらこんなん子供っぽーい、扱いでアッサリ卒業してるでしょ。
滅茶苦茶に熱狂してたのが嘘のように、別のモノにハマっているっしょ。所詮は一過性。
(まあ一部のオタ予備軍な子はそのままハマりそうだけど…)
そこにどんなメッセージが込められていようが、ああそんなのあったね、とキレイサッパリ忘れ去る。
乱暴に全く無いとは言わないけど、ジャリ番が子供の価値観に与える影響なんざ微々たるものでしょ(笑)。
オタクもフェミも方向性は違うだけで、「子供の人格形成に良い(悪い)影響を与えるに違いない!」
なんて大袈裟に考えてる点は同じ穴の狢(まあ本気で言ってる人は少数派と願いたいが…)。
これを読まれている方の中で、屍臭というものを実際に嗅がれた方がどれ位おられるのか、ちょっと予想ができない。家族、友人等の死を経験し、その遺体が荼毘に付されるまで傍におられた方は複数おられるだろうと思う。しかし、そこに屍臭を意識させるような手抜きの仕事を、この国の葬祭業の方々がするとも思えない。だから実際のところ、そのような経験があっても、そこで屍臭を感じられた方はおられなかろうと思うわけだ。
私はこれまでに二度、強烈に屍臭を経験することがあった。あの臭いは、間違いなく、経験した者にとって一生忘れ難いものだ。不快だし、そう何度も体験したいものではない。そのことは体験する前から今に至るまで変わりはないのだけど、その臭いの向こう側にあるものまで体験すると、屍臭に向かう姿勢とでもいうのか……そういうものが確実に変わったような、そんな気がするのだ。人生観が変わった、などと大袈裟なことを言うつもりはないけれど、そのときの話を記録がてら書いておこうと思う。
初めてそれを感じたのは、高校に通っていた頃のことだった。私の通っていた高校は、太平洋戦争末期に空襲で焼かれるまで天守閣が建っていた場所で、四方を崖に囲まれた、自然の要塞のような高台に建てられている。登校するときには、深い谷にかけられた橋を渡ってすぐの正門を通るのだけど、学校の周囲の崖のあちこちに獣道のような抜け道があるので、授業時間中や放課後の時間には、その道を通って麓のコンビニに買い物に行ったりするのが日常だった。
時々、鉄道の駅まで出る必要があったのだが、本来のルートで行くと毎回かなりの回り道で、友人に面倒だとこぼすと、グラウンドのネットの破れ目から崖を斜行して下の道に出る抜け道を教えてくれた。春先でまだ雑草も深く繁茂しておらず、これは便利な道を教えてもらった、と、毎回のようにそこを通って駅に抜けていたのだった。
そして、夏が近付いてきたある日。一週間ぶりにその抜け道を通ると、何とも言えない厭な臭いがしたのだ。蛋白質の分解された臭い。それも、肉だけでなく、皮や毛や、通常なかなか分解されないものまで分解された挙句のような尋常ならざる臭いが、崖の獣道に立ち籠めている。雑草が結構な高さに繁茂していて、辺りにその源らしきものは見えない。日が経つ毎にその臭いはどんどん濃くなって、私の服や髪に染み付いてしまうのではないかというような粘着性すら感じさせる。私は確信したのだ。辺りの何処かの草に隠れて、何かの骸が転がっているに違いない。しかし、とにかく質・量共にそれまで一度も体験したことのない、凄まじい臭いだったので、小さな動物……鼠とか蛇とか……がただ死んでいるだけとは到底思われなかった。
道を教えてくれた友人にもこの話をしたのだが、彼は笑って取り合ってくれなかった。それに、と彼は言う。俺最近あそこ全然使わないからさ、調べる機会もないんで、まあそんなに気になるなら自分で調べればいいじゃん。ひどい奴だと思ったけれど、まあ自分からわざわざ積極的に屍臭の源を探しに行く奴もいないだろうから、彼を責めても仕方ないだろう。
もう季節は真夏になっていた。熱風と熱線が渦巻くような崖の獣道を通る度に、私は時々、わざわざ道沿いの茂みに踏み込んでみたりもした。しかし源は見当たらない。ただ、その酷い臭いだけが常に辺りに立ち籠めている。その臭いを我慢して近道をするか、遠回りして臭いを回避するか……その選択がある時点で逆転し、私はまた遠回りして駅に出るようになった。しかし、その源が何なのか、ということが、私の頭から消えることはなかった。
私は疑っていたのだ。その源が人間ではないかと。受験を意識する時期だったので、公営の図書館の勉強室にこもることが増えていたのだが、休憩を取ろうと勉強室の外に出ると各種新聞の閲覧スペースがある。行方不明者等の情報が出ていたりしないかと、必ず地方欄に目を通すことが習慣になった。成人だったら、あれ位では済まないかもしれない。女性の方が体は小さいだろうが、女性は脂肪組織が多い分屍臭もきついという話を何処かで読んだ。ということは、あれは子供なのではあるまいか……図書館で休憩する度に、私は新聞で子供の行方不明記事を探している。我ながら何をやっているんだろうと思ったけれど、もう新聞の陳列を見る度にあの臭いを思い出し、記事を探さずにおれなかった。
そして季節は晩秋になった。駅に出る日に、いつもよりも学校を出るのが遅くなった。ちょっと考えた。もう夏も過ぎたし、あの臭いも薄れているかもしれない。グラウンドのネットの破れ目は何も変わっておらず、そこをくぐって崖に出ると、あれ程繁茂していた雑草も、盛りのときの半分もない程に枯れてしまっている。私は崖の獣道を進んでいった。傾斜のきつい崖なので、スキーの斜滑降のような進路になるように道は形成されている。ターンする角に来て、ふと何気なく、いつもと違う進路の正反対、崖を斜め上に見上げるような向きに目を向けたとき。視野に初めて、あの屍臭の源が飛び込んできた。
それは一頭の犬だった。もう骨に皮が少し被っただけという外観で、その周囲には蛆なども見当たらなかった。大きな犬で、おそらくドーベルマンとかレトリーバーとか……それ位の大きさの骸だった。ドーベルマンとレトリーバーは全然違うだろう、とか言われそうだが、変色して干涸びたその骸からは、それ以上のことは分からなかったのだ。もう臭いはあまりしていない。私は急いでいたのも忘れてそこにしばらく立ち尽した。あの夏の頃、臭いの源を発見したら大声で叫んでしまうに違いないと思っていた。しかし、今のこの落ち着きは何なのだろう。本当に、自分でも驚く程に、心は静かだった。ああ、人じゃなかったんだ、それはそれで良かったけれど、こいつ、どうしてここに骸を晒していなければならなかったんだろう。野良犬というのもほとんど見ないようになった頃で、こんな大きな犬がそこらをそううろうろしているとも思えなかった。ひょっとしたら、飼い犬が亡くなった誰かが処置に困ってここに骸を捨てたのだろうか。死を看取るまで犬を飼っていた人がそんなことをするというのも変な話なのだけど、他に説得力のある理由を思いつかなかった。
あの臭いがし始めた頃から、こいつはここにあった。そして、あの燃えるような夏の間、道を外れて鬱蒼と草に覆われた中、あの強烈な屍臭を放ち、蛆等に組織をついばまれながら時間が過ぎていった。そしてその臭いも薄められ、ここにこいつはまだある。本当は埋めてやりたかったが、手元にその用意もないし、そのときにようやく自分が急いでいたことを思い出した。クリスチャンの私は十字を切り、天の国で平安と安息のうちにありますように、とだけ祈ってそこを去った。何日かして再びそこを通ってみたら、もう骸はなかった。誰かが気付いて、埋めるか他に持っていくかしたのだろうか。そこまでやってやれなかったことが心残りだったが、せめて祈ることができただけでも、少しはましだったか、と今も思う。
そして二度目。それは、ある自動車関連企業のお膝元である某県の地方都市に住んでいたときのことだった。私は単身者が複数入居している安アパートに住んでいた。よくあるプレハブ二階建の長屋みたいな造りで、外の階段で二階の並びに上がるような、室内は6畳とユニットバスみたいな、そんなアパートである。私にとってそこは家というよりただ寝る為だけの場所で、仕事が終わるとそこに入って寝て、朝はシャワーを浴びてそこを出る……そんな毎日を過ごしていた。おそらく、他の部屋に暮していた人々も、私と同じような日常を過ごしていたに違いあるまい。
そんなある日。部屋を出たときに、ふと厭な臭いがした。ゴミのせいか……と最初は考えた。私の部屋は一番階段に近い二階の部屋で、階段の真下のスペースがゴミ置き場になっていた。仮に凄まじい悪臭を放つゴミが捨てられていたら、そういう臭いを部屋のドアの前で感じることもあるかもしれない。鍵を締めて階段を降り、ゴミ置き場の前に立ってみたけれど、そもそもその日はゴミの収集日ではなかった。そこまで行く経路上に、ゴミから出た汁等がこぼれたような形跡もなかった。気のせいか、あるいは自分が臭いの源なのか……服などをチェックしてみたけれど、どうも自分ではなさそうだ。
翌日、そしてその翌日、と、その臭いは更に強くなっていく。深夜近くに帰宅して、周囲の住人の迷惑にならないように注意しながら二階の並びを歩いてみると、どうも自分の部屋から少々奥に行った辺りでその臭いが一番強くなっているような気がする。隣か、そのまた隣か……しかし、どういう生活をしていたらこんな臭いがするのか。それにしても、この臭いにはどうも心当たりが……と、そこでようやく思い当たったのだった。これは、あの臭いだ。高校の獣道で嗅いだ、あの臭いだと。明日になったら管理会社に電話しようと決めて、部屋に戻って寝た。
そして翌朝。出勤の支度をしていたらチャイムが鳴って、ドアを開けると警官が立っている。
と訊かれ、実は何日か前から……という話をして、
「あの、何かありましたか。私もここの住人なので、差し支えない範囲で教えていただけませんか」
と言うと、警官は言いづらそうに、この部屋の二つ隣で、住人の女性が亡くなられていたんです、何かご存知のことはありませんか、と言う。しかし、隣室の住人の顔もよく知らないような状況で、その更に向こうの住人のことなど知る由もなかった。
職場でその話をすると、皆さん興味本位で色々と仰る。うわー気持ち悪いねーもう引っ越した方がいいんじゃない?……まあ、よくあるパターンだ。そりゃあ、家の近くで人が亡くなっていたというのはそれなりにショックだったわけだけど、私は違うことを考えていたのだった。自分と同じように独りで暮していた人なのだろう。あの部屋のドアは結構密閉性が高いので、ああいう臭いが出てくるまでには相応の時間がかかったに違いない。その間、その人はずっとそこに骸を晒していたわけだろう。これはその女性ではなく、自分に起きたことだったかもしれないのだ。その間にはおそらく何も違いはあるまい。ひょっとしたら、私が骸を晒し、あの臭いを発していたのかもしれないのだ。そう思ったら、興味本位の人と一緒に騒ごうなどと、考えられるはずがないのだ。
皮肉なものだ。屍臭の向こうに、かつてあった生とその現状があるのを思い知らされ、そして私がそのときたまたま傍観者だったというだけで、いつ私が骸を晒す側にならないとも限らない、ということを思い知らされたのだ。私はその晩、帰宅してからその部屋の方を向いて、あの犬のときと同じように祈った。それ位しかできなかった。調子の悪いときに出喰わすことができていたら、とも思うけれど、それはもうどうしようもない。ただ、高校のときの体験に、同じ人間という更なるリアリティを裏打ちされて、私の中に今でもこのときの記憶は強烈に残っている。去年は有名人でも亡くなる人が本当に多かったわけだけど、誰かが亡くなる度に、私はこれらのことを思い出すのだ。
高校の頃、数学の授業は習熟度に合わせてクラスを半分に分けて少人数制で授業をしていた
私は教室で授業のチームだった
けど、数学用の席があり自席での授業ではなかった
ある日の数学の授業の日、机の上には水溜りができていた
水や飲み物ではない
よだれだ
まごうことなきよだれだった
見事なものだった
けど、当時うら若きJK()だった自分にはどうすることもできなかった
水溜りに侵食されていない隅にちょこんと置くのが精一杯だった
「増田さん何やってる」
と言われる
なんと返したかは覚えてないけど
「わがまま言うんじゃない」
みたいに返されたのだけ強烈に覚えている
わがままとは
以降、水溜りを見ることはなかったけど
机の上にものを置くことを嫌がった私の行動は
あいつ汚い、●●菌〜!の延長みたいな
みたいなことだと誤解されて広まって
その後はクラスに居づらかった
今更わかったところでなにもないけど
たまに思い出してはしんどくなるのでかいてみた
「○○感を感じたくない」←無神経な表現をする脚本家を疑問視したらガキ?ガキはお前だろ
少しでも言葉を意識している人なら「○○感を感じる」という表現が拙いと気付く。
これは正誤から一段上の話。いや、正誤以前の話とも言える。
信じがたい。
モノ書きではない人でも感が重なる事を無意識に避けるのが自然だと思う。
「○○感を感じる」よりも「○○感がある」や「○○感を持つ」といった表現を好ましいとして用いる。
深く考えるまでもなく「感を感じる」という表現にひっかかるのが素直な反応ではないのか。
プロである脚本家がそこに何故ひっかからないのかどうしても理解できない。
脚本家なら「罪の意識を感じたくない」とでも書けば不自然にならないことくらいわかると思うが。
表現に疑問を抱いた場合、私は直接脚本家に問い合わせるのだが今回は連絡先が見当たらない。
問い合わせできないままでは気がおさまらない。
どこかにコメントくらいしてやろうと思い立ち検索結果を辿り、とあるまとめサイトを訪問した。
そこで脚本家として平気なのか恥ずかしくないのかとコメントしたところ
どこかの質問サイトから「○○感」は名詞だから問題ないという回答を貼り付け
どっちがガキだよ。
・故に私の指摘コメントが滑稽に見えた
重言に対して何も感じない愚鈍な奴が私の指摘コメントを否定する。
頭 イ カ れ て ん の か ?
自分の言語回路が乏しいせいで私のコメントがバカに見えるならもう救いようがないだろ。
死ねよ。死んどけよ。
こちらは、脚本家というプロが、言葉を知らない子供のような表現を
いかにもクールで理性的に振る舞う人物が発した台詞なので余計滑稽だった。
そんな事も理解せずに反論できる俺カッケー!と悦に入っているのだろうか。
間違いではないから用いても構わないという発想は
法律や規制に反していないから転売目的で福袋やチケットを買い占めるようなもの。
大袈裟な例えかも知れないが発想は同じ。
正誤から一歩踏み込んだ話をしているのがこいつには理解できないらしい。
間違っていないから、あるいは今まで咎められなかったから何をやっても良いというのは
こいつは小学生どころか胎内からやり直すべき。なんなら生まれてこなくて良い。
「感」という文字に溢れた世の中にしているのは何者かこいつは考えたこともないのだろう。
過剰な「感」に晒され刷り込まれている事にも気付かないボケナスが。
ガキ呼ばわりされるべきはこいつの方だ。
あまりに腹が立ったので、重言について触れている多くのサイトから要点を転載し
人を見下しガキ呼ばわりするそいつに○意すら沸いたので
「半○しにするぞ」とか「く○ばれ」とか罵詈雑言を連投したので
文意も汲み取らず掘り下げて考える事もできないくせに
やり込めてやろうという卑しい根性だけで返信するガキは
半○しではなく3/4○しぐらいやらないとダメだ。
目の前にいたらアゴを粉砕しているところだ。
ガキをつけ上がらせるだけなので、やはり即座に叩き○めすのが一番。
精神を病むまで殴り倒したいほど腹立たしい。そして嘆かわしい。
指摘や疑問を投げかけ好ましい表現を提示すると、どうしたわけか
あらゆるサイトで上記のようなやり取りを何度も見かけた。今回も同様の展開。
子供がやったことだから仕方ない。目くじら立てずに見過ごしましょう。
言葉の扱いに関しては改善や修正や情報共有という概念が希薄だ。
不思議でならない。
■違和感を感じる
この表現、変じゃありませんか?
〇〇感がある と言うのが正しいのではありませんか?
〇〇感を感じる
なんだか、女のお母さんになりたいとか、頭痛が痛い のような表現と同類ですかね
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12102478892
tob********さん
略
それでどのような不都合があるのでしょうか。
個人的には「違和感を覚える」だって厳密に考えれば重言風だと思います。
略
当方は「違和感を感じる」は「【1】不注意もしくは無神経の例」で
「違和感を覚える」は「【2】重言っぽいが直せない」と考えています。
■【2001625】イラっとくるから〜感〜感、カンカン言わないで
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?1671,2001625,2001894
落ち感、ゆる感などやたら感感いうキャスト?にイラッときます。
ショップなどでも若い店員の子が、やたら感感言いまくりますね。
http://girlschannel.net/topics/372134/
ファッション誌関係の人間って、アホみたいな言葉を次々作り出してドヤしてるけど、何?
抜け感とか丈感とか裾感、とかやたらと「~感」って使いたがる。
本当にバカっぽい!!
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
「危険が危ない」「頭痛が痛い」などにおける、同意語の繰り返し。
「後で後悔する」はアナウンサーも乱用。
「旅行に行く」「責任感を感じる」「馬から落馬する」「挙式を挙げる」
■筋肉痛が痛い?メディア関係者なら知っておきたい二重表現・重複表現20選
http://liginc.co.jp/life/matome-life/151543
略
7. 不快感を感じる
不愉快に思う気持ち。「―をあらわにする」「―をつのらせる」「―が軽減される」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/191081/m0u/%E4%B8%8D%E5%BF%AB%E6%84%9F/
例文
■読書感想文/『続弾! 問題な日本語』(北原保雄編/大修館書店/2005年11月3日初版第1刷発行)【1】〜【3】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1717.html
「違和感を感じる」(p.39〜)
【関連日記】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1176.html
略
重言を許容できるか否かは、言いかえができるか否かで判断するのがわかりやすい。
「違和感を感じる」は「違和感を覚える」にできるのだから許容する理由はない。
なにより違和感があるのは、前弾の『問題な日本語』ではあれほど「違和感を感じる」を使っていた
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1574723654&owner_id=5019671
のに、今回は1回も使っていないこと。
当方が見た限りでは、「違和感を覚える」さえp.27で1回使っているだけ。
ほかは「違和感を持っている」(p.105)、「違和感の生じる理由」(p.108)などを使っている。
こういうのを見ると、なんか都合の悪いことでもあったのかな、と勘ぐってしまう。
正当化しようと試みながら自分たちでは使わないという態度は矛盾している
(そもそも使う機会がない語彙なら、話は別だけど)。
規模はどんなものであれ主演というのはそう簡単に立てる場所ではないし、お話が彼のもとに来たということだけで喜ばしいことなのだと思う。
本当に素敵で素晴らしいことだ。
「応援していてよかった!」
そう一度でも思えていれば、こんな記事は書かずに済んだのにな、と悲しい気持ちが溢れている。
単なる愚痴に近いものだし、努力を受け入れられないのは私の性格の問題で、内容が特定されて、推しが見つかるのは不本意だ。とはいえ見る人が見れば分かりそうだけれど。
濁しながらにはなるが、お付き合いいただけると嬉しい。
今回の主演舞台は、
「主役がいろんな人から小さな恨みをかって、殺されそうになる」
というのがおおよその内容だった。
人の気持ちがわからない。自分の発言が誰かを傷つけるなんて思わない。言いたいことが言えないなんておかしい。
そんな風に生きてきた彼は「俺のしたことって殺されなきゃいけないようなことか?!」とそれぞれの動機を聞いて怒る。
「言葉の受け取り方はひとそれぞれ」
「些細なことだとしても誰かにとっては大切なことだったりする」
と正され、最後は殺そうとしていた人たちと和解し、今後は気を付けると謝罪。
もちろん恨みだけで殺そうとしてない人もいたわけで、最後は……という話だった。
私はこの舞台を見たとき「推しの当て書きだ」と思った。殺されるのに、恨みを買ってる役なのにそう思ったのだ。
役の職業や性格が推しのこれまで演じてきたキャラクターに通ずる部分があったこと。
その時ふと気が付いてしまった。「あっ、私こういう話知ってる、体感したことがある」と。
あまりにも犯人である彼らの動機に、殺してしまいたくなったことの理由に共感できる部分が多すぎて驚いた。
私は幾度となく推しの発言で苦しみ、腹をたて、何度も好きでいることが難しいと感じてきた。
じゃあさっさとファンをやめろと言われればそうなのだが、そうスパッとやめられるほど軽く物事を捉えられないからこそ、言葉一つ一つに気持ちを揺さぶられてきたのだと思う。
とある大きな映像の作品に彼が出演した際、ゲスト出演したイベントでなにか告知があればと促され、「すごく末端の役なのですが」と自らの役を(大袈裟な表現だが)卑下するようなことを言っていて、私は幻滅した。
せっかく出演できて、役名までついてるというのに、末端の役なんて、どうしていえるのだろうか。誇りをもって仕事をしてほしいと強く思った。
出れることがすごく嬉しいこととは言っていたが、なんだかモヤモヤとした気持ちが残ったイベントになってしまって悲しい感情で終わってしまった。
それからとある舞台のアフターイベントのゲストに呼ばれ、それも急遽での出演、なのに出る回数も多すぎて、出演者から冗談で、「暇なのか?」と弄られたことがあった。
「暇なので」と彼は答えた。あぁ、そうなんだ、私はお金を払ってあなたの暇潰しを見に来てるのね、と思った。仕事一つ一つに誇りを持ってるという発言がなぜ出来ないのだろうか。
まぁそんな些細なことの積み重ねでどんどんと嫌いになっていったわけだが、あるとき私が手紙に、こうした方がいい、ファンの人はきっと喜ぶから、私以外の誰かの為にしてあげてほしい、というアドバイスを書いたことがあった。
ブログでそのことを実践してくれて、ちゃんとお手紙読んでくれてるのだと嬉しくなった。だけどそのあとの内容にまるで私の手紙は嬉しくなかったようにも捉えられる言葉をかかれて、しばらく苦しかった。
何て文章、きっと彼は「自分がその舞台を見るきっかけに携われて嬉しかった」と言いたかったのかもしれないのだが、あまりにも言葉足らずすぎるし、そう書きたかったかは彼にしか分からない。
私には私の手紙が嫌だったから、そう書いたのだろうと被害妄想的にしか読めなかった。
これは書いた私にしか届かない否定で、だからこそ、他のファンからは「今までのファンはもういらないんだ」と捉えられていて、そこもまたその要因を作ったのが私なのかと思ったし、なんというか、いずれにせよどんな形でも、言葉足らずも大概にしろと思った。
「この作品はキャストやスタッフ、たくさんの方に支えられて成り立っています」
「この作品に関わってくださった皆様のおかげです」
これは彼のよくいう言葉だ。
捉えようによってはそこにファンが含まれてるようにも含まれてないようにも見える言葉だと、私は思う。
しっかりと話してくれないと、伝わらないんだよ、言葉足らずだ、と私は常々そう思っている。
そしてどんどん彼の言葉をすべて真っ直ぐ受け取れなくなった。信用できない。どこまで本心か分からない。
全て前向きにとらえられるのであれば、彼はいい役者さんで、ファンを大切にしてるんだと思うから、いつか、その表現の部分が改善されればと願って、今までしがみ付いてきた。
そして今回の舞台の最後、千穐楽のカテコを聞いて、私は「もう彼を応援しなくてもいいな」と思った。
「この作品はキャストやここにいないスタッフさん、たくさんの方に支えられて成り立っていて、自分一人じゃできなかったのだと痛感しています」
「この作品に関わってくださった皆様のおかげです」
いつもの言葉に少し残念な気持ちになっていたら、彼は少し客席に体を前のめりにして「関わってくださった皆様の中には今日この舞台を見に、ここにいらっしゃる皆様も含まれていて、皆様がいなければ成り立たなかった」と補足した。
言葉足らずが消えた!
成長したのだ。
でももう本当は心が離れてたらしくて、全く何も思わなかった。
いや、正確には「ああ応援していてよかった」とは思わなかった。
今更前向きに、真っ直ぐ受け取れなくなっている捻じ曲がった私の心には全然届かなかった。
まるで私の、私たちファンの意見を全て掬い取ったみたいな、取り繕った言葉だと感じてしまった。
かなしい話だ。しがみ付いてしがみ付いて、無理をしていた結果。
悪いのは彼じゃなく私の方だろう。
私は彼に対し「ここが嫌だなぁ」という気持ちを濁しながら手紙に書いてしまうような悪いファンで、「もう手紙書くのはしばらくやめます」と記してみたり、リプライで「最後まで見届けられて良かった、悔いはないです」とか送っちゃうし、とにかく捻じ曲がっている最低なファンだ。最低。ほんとに最低。
私がそう書いてきてもう居なくなりそうだったから、安心してそういったのかも、私はいらないファンだもんね、と思ってしまう。
そんな厄介思考の持ち主なので、成長を見ても「そっか!」という清々しい気持ちになってしまったのだろう。
好きでいさせてほしい、好きでいたい、だから、つなぎとめる何かが欲しかった。
手紙に対してのレスポンスブログ、あのときは大きなコンテンツの2.5に出て、新しいファンがたくさんついた後だった。
だからお節介だけど、今新しくついたファンたちがいなくなってほしくなくて(ただでさえ前からのファンは離れていたので)、こうしてみたらいいっていうことを書いたのだ。
実際その新しいファンの人たちは喜んでいたし、好きになって良かったというコメントを見かけたので間違えてなかったのだと思う。
そんな反応で喜ぶ人ではないから、きっと推しからは「お節介でうるさいファン」と思われてただろうと思う。
応援していてよかった、見に来ていてよかった。
そう思った人が多かっただろうと思う。
彼の足もとに座る私は顔を見れず、目を逸らして真っ直ぐに前だけを見た。それが私の最後の視界。
本当に当て書きなのかは分からない。
そんなはずはないと思うが、この作品のメッセージを受け取って推しが変わるのなら、出会うべき作品だったのだろうと思う。
内容は酷評されていたりしたが、そういう意味で意義のある舞台だったと私は強く思っている。
物語の最後、実はまだ犯行に及んでなかった人に殺される主人公。
千穐楽が終わって、1日疲れて休んで、手紙を読んでから彼はいつもブログを書いていると思っているので、きっと今日か明日にはブログが来るはず。
それが終われば全部終わってしまう。
最後の結末が違う形になるのかはそれ次第。
インターネットが無かったら気にならなかったことも、「こんなことされて辛かった(一方的な情報)!!」って大袈裟に声を上げる人をいっぱい見てしまうせいですごく気になるようになってしまった。
何をしても人に迷惑をかけてるような気がして、自分の長所はもしかして短所だったのかなと考える。
自分以外にかけられた言葉なのに、まるで自分がかけられているように感じる。
インターネット上で「嫌なやつ」にカテゴライズされる人物像に、自分がことごとく当てはまっている気がする。
実際の生活では、仲良くしてくれる人もいるのに、私の知らないところでは、例えばインターネットでは、私の悪口を共有してるのではないかと思う。
数日前だかもう2週間ぐらいは経つか、TLに某バラエティ・ドキュメンタリー番組の動画が流れてきた。
「毒親」について。
ただその時、フォローしている既婚子持ち女性数人(いずれもお子さんは未就学児)が、
こんなの私もよくやる!」
と拒絶反応気味に吹き上がっていたのが気になりどうしてもモヤモヤが消えないので
ここのアカウントを取った。
強大なストレス源になったのは私の成人後なので、
つまり、これから書くことはあくまで元友人を含む毒親や虐待の経験談への印象を元にしている。
なので「知りもしないくせに偉そうに」と言われるかもしれないが、
そういった家庭や加害・被害の実体験者およびカウンセリング等の対応に仕事として携わっている「当事者」以外からの
「毒親」という存在そのものに対する軽視するようなコメント、感想は、少なくとも直接は書かないでもらえると嬉しい。
さて本題。
「こんなので毒親と言われたらたまったもんじゃない」と、怒りというより悲鳴のようなコメントを上げていた方々は、
(動画に対して)食事の時間が決まってるのに、作ってから「いらない」と言われてもキレたらだめなのか
感謝の言葉ひとつなければ「私はこの家の何なの」と言いたくもなる((動画内で、姉妹仲良くジュースを飲みながらテレビを見ているところへ母親が現れ、「あなた達がいるとすぐ汚れるんだから」と言いながらテーブルを拭き、「私はこの家の何なのかしら」と子どもたちを睨めつけながら言うシーンがある))がそれもだめなのか
といった点で件の動画に引っかかっていた。
うーん。
ちゃうねん。
「その動画や番組の是非については言うつもりはない」って書いたけど、
これは例の挙げ方が良くなかったのかなと少し思う。
でも虐待・毒親体験談をそれなりに見聞きしている自分には割と胃が痛くなる動画だった。
夕飯の準備ができてからご飯いらないと伝えた娘に対して母親が激昂し、その子の分のハンバーグをゴミ箱に捨てようとする。
やりすぎじゃない?
「そうすることで反省を促そうとしてる」という意見ももらったが、ビビらせるだけだと思う。
結果、その動画内ではどうなったかというと、女の子は学校から帰って母親の背中が見えるだけで「今の機嫌」が気になるようになった。
確かに自分がある種家族のルールを破った(食事の準備ができてから「いらない」と伝える)ために親を怒らせた、という
この動画の部分だけを見ると、これで「毒親」と言うのは大分大袈裟に思えるし、
毒親や虐待について幸いにもあまり見聞きしていない人には「その先」や「裏側」を想像させるようにはなっていなかったかもしれない。
でも実際にはいろんなことが積み上がってたんだと思うよ。
でなきゃ一度や二度「怒られた」ぐらいで「家族」の姿を見てビクビクなんてする?
あの動画にマイナスの反応をしていた人たちは、とても子育てを頑張ってるんだと思う。
で、頑張れば頑張るほどダメだったんじゃないかと思う部分が増える。
だから自分にも身に覚えのあることを指して毒親と言われたから拒絶反応が出たんでしょう。
ツイッターでは何度も書いたけど、
どうしようもなくイライラして怒鳴ったとか、つい手が出たとか、
そういうこと自体が(母)親には許されない、したら即毒親、と言ってるんじゃないです。
そりゃやらないのが一番だけど。
あの動画では伝わりにくかっただろうけど、問題は親がキレる基準やタイミングが判らないってこと。
虐待で逮捕された親たちも口を揃えて「躾のつもりだった」と言うけれど、
我が子が社会でやっていけるように言動や生活態度を整えていくのが躾とすれば、
毒親と呼ばれる人たちの行為は「自分(親)の機嫌に沿うか沿わないか」が基準。
子供は「社会的に正しいか正しくないか」ではなく「お母さんお父さんを怒らせないか」で行動する(しない)ようになる。
親じゃなくてもいますよね、自分の望む反応じゃなかったらキレる人。((例えばせっかく選んだプレゼントをいらないと足蹴にでもされたらそれは怒っていい。
それは「足蹴にした」ことに対して。
子供のリクエストを聞いたわけでないなら、喜ばなかったことに対してキレてはいけない。
というか、そういう場合「残念がる」のがマトモな感覚だと思うのね。
「毒」というのは「お前のために選んでやったのに!喜べ!」ということ。))
相手の自主性や尊厳を摘み取り自分の臓器のように扱うのが「毒」。
あと、「私はこの家の何なのかしら」のように、「自分がこれだけ○○してやってるのに」は危険。
友人知人に対してだって「(頼まれたわけじゃないのに)○○してあげたのに(見返りがない)」は人間関係こじらせる元だけど、
はっきり言って子供なんて子供が自分で生んでくれって言ったわけじゃないじゃないですか。((子持ちの友人も見ているところではとても言い難い))
してやってるも何も、おおよそのことは親の義務です。
件の動画への擁護(?)として「なんでも毒毒言って(母)親を追い詰めるな」というのがあったけど。
赤の他人に比べたら何も言わなくても伝わる部分が大きいけど、全ては「コミュニケーション」です。
で、コミュニケーションというのは、悲しく残酷だけど、受け取った側の認識が全てなんです。
私は最近、「そんなつもりじゃなかった」「気にしすぎでは?」と思うようなことで長年の友人を2人失いました。
「そんなつもり」かどうかは受け取った側が判定することで、
多少のエクスキューズはさせてもらえたとしても、それで許されるかどうかは相手次第。
親子も同じです。
親がどんなに頑張ったって(頑張らなくたって)子供が心を殺されればそれは毒。
友人や恋人関係で考えたらいいかもしれない。((私は恋人いたことないから知らんけど。))
毒と称される親は自分自身がそういう育てられ方をしてきたケースが多く、
親一代だけを責めてもどうしようもないかもしれない。
子育てに疲れてメンタルが死にかけのSOSでもあるかもしれない。
あるけど、「情状酌量の余地がある」ことが即ち「無罪」にはならないですよね。
なる可能性がまぁまぁあるだけで。
なんかそこをごっちゃにした感想(「母親だって辛いんだ!」)を受け取って、ツイッターでは文字数も打つのもしんどくて投げたのでした。
結局ここでも言いたいことはまとまらなかったけど。
ただともかく、「こんなので毒親と言われたらたまらない」は、個人の感想としては構わないのだけれど、
「何でもかんでも毒毒言うな」となると、痴漢やセクハラに対する「気にしすぎでは?」と言った軽視発言を想起させられて黙っていられない。
「あなたは」毒親じゃないしそんなことする親がいるなんて信じられないかもしれない、けどいるんだよ。
子供が可愛くて可愛くて仕方なくて、たまには怒ってしまうこともあるけど子供のためなら何でもしてあげたくて、子供もパパママ大好きと言ってくれる人たちには想像もつかない世界があるんだよ。
ツイッターで絵とか妄想とかなんか短い文章とか上げてる。いわゆる二次創作。2年ぐらい同じアカウントでやってる。
で、最近ツイッターをしてると、ある考えに囚われそうになる。題名の「ツイッターでの自分の居場所が無くなっていく気がする」だ。
二次創作をしているもんだから、フォローするのはおおかた同じように二次創作をしている方だ。タイムラインではみんな妄想を語って、絵をあげて、文章を書いている。(もちろん日常のツイートをする方もいるけど、今回それには焦点を当てない。大体の話で、全部が全部二次創作だ、という訳では無い)
それを見ていると、焦る。なにも生み出していない自分に価値がないように思えて来る。人権がない、といえばいいのか。とにかく今何もしてないことに焦るのだ。私もなにか発信しないと、生み出さないと、と思えてくる。
別に私は大手でもないし、そもそもイベントに参加したことはないぐらいのちょっと二次創作をしている人であるから、私ごときが何もしなくてもジャンルは盛り上がる。それは知ってる。でも、他の人の作品を見るとなんか、こう、心がモヤモヤする。私もなにか生み出さなきゃって気持ちになる。大袈裟に言ってしまえば、「私がここにいる意味がない」って気持ちになる。さっきも書いたけど「何も生み出せない自分に価値はない」って思う。何回も言うけど、私ごときが生み出さなくてもジャンルは大丈夫ってのは理解してる。理解した上で思ってしまってる。