2018-12-25

足りない事ばかり

推しが先日、初の主演舞台を終えた。

推しはいわゆる若手俳優だ。

規模はどんなものであれ主演というのはそう簡単に立てる場所ではないし、お話が彼のもとに来たということだけで喜ばしいことなのだと思う。

本当に素敵で素晴らしいことだ。

応援していてよかった!」

そう一度でも思えていれば、こんな記事は書かずに済んだのにな、と悲しい気持ちが溢れている。

単なる愚痴に近いものだし、努力を受け入れられないのは私の性格問題で、内容が特定されて、推しが見つかるのは不本意だ。とはいえ見る人が見れば分かりそうだけれど。

濁しながらにはなるが、お付き合いいただけると嬉しい。

今回の主演舞台は、

「主役がいろんな人からさな恨みをかって、殺されそうになる」

というのがおおよその内容だった。

人の気持ちがわからない。自分発言が誰かを傷つけるなんて思わない。言いたいことが言えないなんておかしい。

そんな風に生きてきた彼は「俺のしたことって殺されなきゃいけないようなことか?!」とそれぞれの動機を聞いて怒る。

言葉の受け取り方はひとそれぞれ」

些細なことだとしても誰かにとっては大切なことだったりする」

と正され、最後は殺そうとしていた人たちと和解し、今後は気を付けると謝罪

もちろん恨みだけで殺そうとしてない人もいたわけで、最後は……という話だった。

私はこの舞台を見たとき推しの当て書きだ」と思った。殺されるのに、恨みを買ってる役なのにそう思ったのだ。

役の職業性格推しのこれまで演じてきたキャラクターに通ずる部分があったこと。

とあるごとに発言する言葉言葉足らずであること。

その時ふと気が付いてしまった。「あっ、私こういう話知ってる、体感したことがある」と。

まりにも犯人である彼らの動機に、殺してしまいたくなったことの理由共感できる部分が多すぎて驚いた。

私は幾度となく推し発言で苦しみ、腹をたて、何度も好きでいることが難しいと感じてきた。

じゃあさっさとファンをやめろと言われればそうなのだが、そうスパッとやめられるほど軽く物事を捉えられないからこそ、言葉一つ一つに気持ちを揺さぶられてきたのだと思う。

とある大きな映像作品に彼が出演した際、ゲスト出演したイベントでなにか告知があればと促され、「すごく末端の役なのですが」と自らの役を(大袈裟表現だが)卑下するようなことを言っていて、私は幻滅した。

せっかく出演できて、役名までついてるというのに、末端の役なんて、どうしていえるのだろうか。誇りをもって仕事をしてほしいと強く思った。

出れることがすごく嬉しいこととは言っていたが、なんだかモヤモヤとした気持ちが残ったイベントになってしまって悲しい感情で終わってしまった。

それからとある舞台のアフターイベントゲストに呼ばれ、それも急遽での出演、なのに出る回数も多すぎて、出演者から冗談で、「暇なのか?」と弄られたことがあった。

「暇なので」と彼は答えた。あぁ、そうなんだ、私はお金を払ってあなたの暇潰しを見に来てるのね、と思った。仕事一つ一つに誇りを持ってるという発言がなぜ出来ないのだろうか。

まぁそんな些細なことの積み重ねでどんどんと嫌いになっていったわけだが、あるとき私が手紙に、こうした方がいい、ファンの人はきっと喜ぶから、私以外の誰かの為にしてあげてほしい、というアドバイスを書いたことがあった。

ブログでそのことを実践してくれて、ちゃんとお手紙読んでくれてるのだと嬉しくなった。だけどそのあとの内容にまるで私の手紙は嬉しくなかったようにも捉えられる言葉をかかれて、しばらく苦しかった。

「一番嬉しかった手紙は初めて舞台を見たという内容のもの

何て文章、きっと彼は「自分がその舞台を見るきっかけに携われて嬉しかった」と言いたかったのかもしれないのだが、あまりにも言葉足らずすぎるし、そう書きたかたかは彼にしかからない。

私には私の手紙が嫌だったから、そう書いたのだろうと被害妄想的にしか読めなかった。

これは書いた私にしか届かない否定で、だからこそ、他のファンからは「今までのファンはもういらないんだ」と捉えられていて、そこもまたその要因を作ったのが私なのかと思ったし、なんというか、いずれにせよどんな形でも、言葉足らずも大概にしろと思った。

言葉足らずなのはいつだってそうで、

「この作品キャストスタッフ、たくさんの方に支えられて成り立っています

「この作品に関わってくださった皆様のおかげです」

これは彼のよくいう言葉だ。

捉えようによってはそこにファンが含まれてるようにも含まれてないようにも見える言葉だと、私は思う。

しっかりと話してくれないと、伝わらないんだよ、言葉足らずだ、と私は常々そう思っている。

そしてどんどん彼の言葉をすべて真っ直ぐ受け取れなくなった。信用できない。どこまで本心か分からない。

全て前向きにとらえられるのであれば、彼はい役者さんで、ファンを大切にしてるんだと思うから、いつか、その表現の部分が改善されればと願って、今までしがみ付いてきた。

そして今回の舞台最後千穐楽カテコを聞いて、私は「もう彼を応援しなくてもいいな」と思った。

「この作品キャストやここにいないスタッフさん、たくさんの方に支えられて成り立っていて、自分一人じゃできなかったのだと痛感しています

「この作品に関わってくださった皆様のおかげです」

いつもの言葉に少し残念な気持ちになっていたら、彼は少し客席に体を前のめりにして「関わってくださった皆様の中には今日この舞台を見に、ここにいらっしゃる皆様も含まれていて、皆様がいなければ成り立たなかった」と補足した。

言葉足らずが消えた!

成長したのだ。

ももう本当は心が離れてたらしくて、全く何も思わなかった。

いや、正確には「ああ応援していてよかった」とは思わなかった。

今更前向きに、真っ直ぐ受け取れなくなっている捻じ曲がった私の心には全然届かなかった。

まるで私の、私たちファン意見を全て掬い取ったみたいな、取り繕った言葉だと感じてしまった。

かなしい話だ。しがみ付いてしがみ付いて、無理をしていた結果。

悪いのは彼じゃなく私の方だろう。

私は彼に対し「ここが嫌だなぁ」という気持ちを濁しながら手紙に書いてしまうような悪いファンで、「もう手紙書くのはしばらくやめます」と記してみたり、リプライで「最後まで見届けられて良かった、悔いはないです」とか送っちゃうし、とにかく捻じ曲がっている最低なファンだ。最低。ほんとに最低。

私がそう書いてきてもう居なくなりそうだったから、安心してそういったのかも、私はいらないファンだもんね、と思ってしまう。

そんな厄介思考の持ち主なので、成長を見ても「そっか!」という清々しい気持ちになってしまったのだろう。

好きでいさせてほしい、好きでいたい、だから、つなぎとめる何かが欲しかった。

はずなのに、一つも受け取れず、私は推しから去る。

手紙に対してのレスポンスブログ、あのときは大きなコンテンツの2.5に出て、新しいファンがたくさんついた後だった。

からお節介だけど、今新しくついたファンたちがいなくなってほしくなくて(ただでさえ前からファンは離れていたので)、こうしてみたらいいっていうことを書いたのだ。

実際その新しいファンの人たちは喜んでいたし、好きになって良かったというコメントを見かけたので間違えてなかったのだと思う。

そんな反応で喜ぶ人ではないから、きっと推しからは「お節介でうるさいファン」と思われてただろうと思う。

この挨拶で私以外の人はきっと幸せになったはずだ。

応援していてよかった、見に来ていてよかった。

そう思った人が多かっただろうと思う。

彼の足もとに座る私は顔を見れず、目を逸らして真っ直ぐに前だけを見た。それが私の最後の視界。

本当に当て書きなのかは分からない。

そんなはずはないと思うが、この作品メッセージを受け取って推しが変わるのなら、出会うべき作品だったのだろうと思う。

内容は酷評されていたりしたが、そういう意味で意義のある舞台だったと私は強く思っている。

物語最後、実はまだ犯行に及んでなかった人に殺される主人公

千穐楽が終わって、1日疲れて休んで、手紙を読んでからはいつもブログを書いていると思っているので、きっと今日明日にはブログが来るはず。

それが終われば全部終わってしまう。

最後の結末が違う形になるのかはそれ次第。

しかった、さようなら。大好きだった。

  • 要約 anond:20181225115941 「自分は推しにとって要らないファンだと感じてファンをやめた」

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