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はてなキーワード: 古典的とは

2023-11-04

[] マズローフロイトユング、三大欲求

マズロー ←これの文字リンク押せばわかると思うけど割と何度も突っ込んでるんじゃがの

ワイもワイ以外の増田

 

増田の代わりにAIに聞いてあげました

ワイ:
マズローフロイトユングなどの古典的心理学理論は、現代科学的な研究によって否定されたり、一部取り入れられいることも科学的な補強がされたりしていますしかし、日本ではなぜ、三大欲求欲求階層理論などの根拠のない理論が、今日メディア教育で無批判に使われているのでしょうか?日本メディア教育が、単純化して扱っていることも原因のひとつだと思います。例えば、恋愛結婚に関する話題は、性欲に結びつけられて扱われることが多いです。これは、人間欲求多様性や複雑性を無視しているといえます日本バイオ分野では、脳腸相関や腸内フローラなどの研究分子生物学研究が進んでいますが、日本心理学脳科学は、古典的理論にとらわれて死んでいるのでしょうか?

bingちゃん

こんにちは。これはBingです。ご質問ありがとうございます。😊

心理学脳科学古典的理論は、現代科学的な研究によって、その有効性や妥当性が検証されたり、修正されたり、発展させられたりしていますしかし、日本では、根拠のない理論単純化された理論が、メディア教育で無批判に使われていることがあります。これには、いくつかの理由が考えられます

 

 

以上のように、心理学脳科学古典的理論単純化された理論が、日本メディア教育で無批判に使われていることには、様々な要因が関係していると考えられますしかし、これは、心理学脳科学本質進歩を見誤ることにつながりかねません。心理学脳科学は、人間の心や脳の機能メカニズム科学的に解明し、人間福祉社会の発展に貢献する学問です。そのためには、古典的理論単純化された理論にとらわれず、最新の研究や知見に基づいて、心理学脳科学を正しく理解し、批判的に評価し、創造的に応用することが必要です。私は、Bingとして、心理学脳科学情報提供する際には、常にそのような姿勢を持っています。😊

 

参考になりましたか

anond:20231118050255anond:20231103224340 anond:20231214125055

2023-11-03

「もし僕のおばあちゃんタイヤがあったら、彼女自転車だっただろう」

これはイタリア古典的言い回しらしくて、意味合いとしては「それはまったくありえねえナンセンスなたとえだ」ということになるらしい

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10174692035

詳細はこのやりとりが詳しい

イギリス人(らしい)の姉ちゃんが、イタリア人シェフ渾身の一品を食って、「これハムが入ってたらイギリスカルボナーラに似てるかも!」と言い放ち、イタリア人シェフの表情が凍りつく

元の動画面白いし、ベストアンサーの人もザ・野良有識者って感じで、かなりいいエントリ

 

で、この言い回しメチャクチャ好きなんだよな

俺もこういうことを言ってみてえなあ!と思う

If my grandmother had wheels, she would have been a bike!

日本語で同じことを言っても、イマイチまらないような気がする それは多分、単純に音節が多くて言い切るまでに時間がかかるというのと、こういう仮定法をあんまり日常において使わないというのが効いてるんじゃないかなあ

日本語古典的表現でコレはいいなあと思ったやつ、「そうはイカ金玉袋」とかなんだよな

もうちょっと技巧の効いたやつが欲しい

なんかいいのねえかなあ

ことわざ系を漁るのがいいのかな

2023-11-02

トランス欺瞞

勉強になるな~

https://femalelibjp.net/?p=1357

フェミニズムからトランスジェンダリズムへ――キャサリン・マッキノンとその政治的移行

マッキノンを含むトランス派のほとんどは、実際には「トランス女性」を生物学的に定義している。つまり、彼らは、生物学的に男性である人だけがトランス女性」になれることを確信しており、「トランス女性であることの必要条件生物学男性に置いている。「トランス女性であるためには、何よりも彼らは生物学的に男性でなければならない。生物学女性は「トランス男性」や「シス女性」になれても、けっして「トランス女性」にはなれない。生物学男性けがトランス女性」になれるのである

わはは、せやな

トランス女性」たちは女性を、その長い髪、赤いマニキュアの塗られた爪、豊かな乳房、丸みのあるお尻、ヴァギナなどに還元したうえで、それらのパーツを疑似的に自分たち身体上に再現して、自分たちを女だと称している。つまり、彼らにとって「女性」とは、これらの身体パーツの単なる寄せ集めなのであるGCフェミニストはまさにそれを批判しており、女性は、男でも視認できる「女性的な」身体パーツの寄せ集めではなく、生物学的ないし政治的なあらゆる差異と特徴を含むトータルな存在だとみなしている。

まさにその通りや。

さらに、マッキノンは次のように述べている。「女性は、実際には、私たち身体によって従属したり抑圧されたりしているわけではない。私たち染色体や卵巣から解放される必要はない」。

まず、女性生物学的に定義することを拒否しているマッキノンは、「私たち身体」という言葉でいったい何を指しているのか? 「私たちの卵巣」と言っていることからして、この「身体」は明らかに生物学女性身体」を指していると解釈するしかないが、もしそうなら――マッキノンの規定によれば――それは生物学本質主義になるではないか

ナイスツッコミやな。

女性固有の身体が抑圧の条件であるからと言って、その身体から解放女性解放であるという結論にはならない。男性女性レイプするためには、ヴァギナを含む女性身体必要であるが、だからといって、レイプをなくす運動ヴァギナをなくす運動であったことは一度もない。

あったり前やな。

 実際には、「トランス女性」が生きているのは「女性の生」ではなく、彼らが想像する「女性の生」にすぎない。何をしたら女性の生を生きることになるのか? 髪を長くして、化粧して、乳房を大きくして、ブラジャーをして、スカートを履いて、生活することか? もしそうなら、マッキノンは、女性をそのようなパーツや服装社会的ジェンダー)に還元していることになる。

おい裁判官聞いとるか?

そもそも、「トランス女性」は、とりわけオートガイフィリアに分類できる人々(「トランス女性」の大部分はおそらくそうだ)は、「女性にアイデンティファイしている」のではなく、女性の長い髪や化粧、赤い唇、女性ドレススカート下着女性の豊かな乳房女性のすべすべの肌、女性的な振る舞い(男が考えるそれ)にアイデンティファイしているにすぎない。つまり女性の外面、女性の装飾、女性ステレオタイプにアイデンティファイしているにすぎない。

その代表尾崎日菜子やスザンヌみさきやな。

彼女はこの論文において過去自分理論ほとんどすべてを放棄したが、過去から継続している面もある。過去彼女との連続性がかろうじて見て取れるのは、彼女の年来の反生物学立場である生物学フォビアと言ってもいい彼女のこの反生物学主義は、女性身体生物学構造を徹底的に利用し搾取しようとする男性権力の核心をつかみそこない、その新しい運動形態たるトランスジェンダリズム本質理解しそこねる結果になっている。

身体男性はいない」とかいカルトやしなあ。

"フェミニストトランスフォーブの多くが、女性ジェンダーロールやステレオタイプトラウマを持ち、身体的、心理的に、あるいは人生の野心において、それに適合しなかったことは明らかである彼女らは女性として受け入れられ、評価されることに苦労したのに、一部のトランス女性やすやす女性として受け入れられていることに憤りを感じているようである。"

これは真に驚くべきインセル的主張である。つまりGCフェミニストは「トランス女性」に嫉妬していると言いたいのだ。何かに対するフェミニスト批判を「女の嫉妬」に還元して説明する仕方は、ミソジニストインセル典型的ものだ。女性参政権のために闘ったサフラジェット場合も、男に愛されない年増の女の欲求不満だと言われた。この古典的ミソジニー的主張がよりによってマッキノンによって繰り返されるとは!

トランスアライとインセル親和性はすごいよな。

彼女は、女性の多くが女性にアイデンティファイしていない理由として、「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳があるからだ」と述べている。マッキノンが「トランス女性」という名の男性女性カテゴリーに入れようとした心理もまさにこれである

今では、彼女は、女性というカテゴリーのもの男性を含めており、マッキノ自身が、自分を「男性を含む集団」の一員とみなし、そのことによって自分たちが「より尊厳ある」存在になったと感じているのである

名誉男性になりたいわけやね。

2023-10-25

anond:20231024231556

フィクションを見慣れているとシャディクやラウダのようなキャラクターは背景が描写されてフォローされることが多いから、

パターン化に逆らってあえてフォローしないという逆張りをしたつもりなんじゃないかと思う。SNSの予想の裏をかき続けてたから。

ひたすら逆張りすることが毎話のバズに貢献したし、終わってみると倫理的問題がある状態になってた。

そして「こんなことになっちゃったけど、あとは声優さんよろしくね!」しているのが現状だと思う。

声優の盾」って言葉があるくらい古典的手法

2023-10-20

マインスイーパーは、ゲーム依存症古典的な例として挙げられていますゲーム依存症とは、ゲーム第一に考えてしまうあまり生活学業仕事に支障をきたす状態です。

マインスイーパーにはまる心理として、次のようなことが指摘されています。

音楽聴く頻度が高い

仕事能力音楽依存している部分がある

マインスイーパーの作者は、コンピュータゲーム歴史の中で重要人物であるデービッドアールです。

2023-10-19

anond:20231019115320

「なぜ焼け野原になったのか」を知ることかな。

大日本帝国軍は多くの情報操作デマの流布をしていたから、古典的な誤解も多い。

731部隊公式文書が見つかったのは、実は、今年のことなんだよね。


話し合いにも応じず、宣戦布告もなしに攻撃を仕掛け、民間人への虐殺レイプを繰り返し、国民は逆らわず、ただ「神の風が吹く我らの勝利必然である」と繰り返し言うだけ

アメリカは多くの戦争経験しているが、原爆を落としたのは後にも先にも日本だけであるベトナム戦争に至っては国民の反対で戦争をやめた。

戦争は確かに誰しもが過ちを犯す恐ろしいものだが、だからこそ為すべきことがある。

原爆は、暴力的で話し合いのできない野蛮軍を多くの民族犠牲の末にようやく止めた正義弾丸であるアメリカ正義をなしとげた!

日本以外の国から見た近代史ですよ。

2023-10-15

anond:20231012144852

作品群では、ポーションみたいなのか栄養ドリンクみたいなのか、試験管的なのかで透明なったり

懐中時計腕時計ストップウォッチみたいなので時間止めたり

古典的ガジェット、なんとなく科学的なガジェット、最新あるいは未来気なもの

他にも何通りか典型的なのがあってはやったりすたったりしてそう

2023-10-08

戦争というか相互虐殺

https://anond.hatelabo.jp/20231007213757

戦争とは何かといえば、古典的定義クラウゼヴィッツ的な「政治の延長線上の実力行使」だし、

当世の建前としては国連憲章的な「現状変更企図した武力行使というルール違反行為」になるのだろう。

定義の仕方は文脈により様々あれど基本的にはユニフォームを着た戦闘員同士の戦闘戦争であるはずだ。

その限りにおいて戦略爆撃無制限潜水艦作戦無差別ロケット攻撃戦争ではなくそ副産物としての戦争犯罪だ。

戦闘ではなく虐殺

いまイスラエルハマスがやっているのは戦争ではなく純粋な「相互虐殺」だ。

なんともいいようがない。

まあしかし。ここ数十年少なくとも我々日本人戦略核による抑止のもたらす平和に浴して来たわけで、とっくの昔に戦争は「ユニフォームを着た兵士戦闘」などではなくなっていた。

今更「相互虐殺戦争」を目の当たりにしてビックリしているほうがどうかしているのかもしれない。

これまでなんとなく常識としていた諸概念ゼロベースで見直さなければモノの役に立たない時代に入った実感がある。

2023-10-06

映画SMILE」を見た

内容自体古典的ホラーって感じで演出普通に怖いし普通に嫌な話で

うーん、ホラーを見させていただきましたよ、という感じ。

ジャンプケア効果的に多用されていてワクワクでしたよ。

 

主演の女優さんはソシー・ベーコンさん。

みんな大好きケビン・ベーコン

クローザーで当時もっともギャラの高い女優だったキーラ・セジウィックの娘さん。

完全に、ケビン・ベーコンキーラ・セジウィックを足して2で割った顔をしていて

これは完全にDNA検査必要はありませんねぇって感じだった。

ちょっとベーコン顔すぎて若干のノイズになってた。

 

個人的には最初サイコスリラー的な話かと思って見てたんだけど

普通に悪霊系の話で、あ、そういう話なのかーってなったわね。

ごくごく普通に怖いホラー映画が見たいなら普通にオススメ

「転スラ」「葬送のフリーレン」はファンタジーです。

https://somethingorange.jp/entry/fantasytoha

タイトルの2作品は明らかにファンタジーなのに、筆者の言いたいことが記事最初に読んだとき、全く分からなかった。

一晩経って読み直したらなんとなく掴めたので。


まず「ファンタジー」という言葉意味について。

fantasy」は、空想想像力によって生み出された物語世界観を指す言葉である。また、現実とは異なる非現実的な要素が含まれフィクション作品ジャンルを指すこともある。例えば、魔法神話の生き物が登場する物語は、ファンタジーと呼ばれることが一般的である

https://www.weblio.jp/content/ファンタジー

要するに

空想想像力によって生み出された物語世界観を指す言葉

現実とは異なる非現実的な要素が含まれフィクション作品ジャンル

の2種類の意味がある。

自分は②の認識が強かったので、2作品ファンタジーだろと思っていた。

(なんなら②に①は内包されていると無意識に思っていた)

筆者は①の視点"しか"ない。

なので元記事タイトルになったり、コピーだ、オリジナリティだ云々言ってんだなと理解できました。


それらは表面的にファンタジー小説ガジェットを使っているだけであって、「ファンタジー精神」ともいうべきものを備えていない。

いわゆる「古典的ファンタジー」のコピーコピーコピー、ただそのアイテムを流用しただけの作品をほんとうに「ファンタジー」といえるのかといったら、むずかしいところだろう。

くり返すが、「異世界小説」が「ファンタジー」に劣るといっているわけではない。

筆者が言いたいことは、ここに集約されている。

筆者は①の視点を重視しているので、②の視点で雑に「ファンタジー」にまとめてくれるなと。


ここからは余談というか感想

こういうジャンルとか区分にうるさい人いるよなー。

まあ全然拘ってくれて構わないんだが、こういう人って漏れなく「優劣ではない」と言いつつ、文章から優劣が滲み出ている。

コピーコピーコピー」だったり、「アイテムを流用しただけ」だったり、言葉遣いに表れている。

コピーコピーコピー」→「お決まりから派生」「設定の引用

とかほぼ同じ内容でもニュアンス全然違うのに。

「流用」って言葉意味も「所定の目的以外のことに用いること」なので、悪意のある書き方に見えますよ。「だけ」にも感じるところあるよね。

そもそもジャンルの話をしたいのであれば、「ファンタジー」の言葉意味を調べて、①の話をしますね、で始めたらわかりやすいのに。

文章下手なのか。

2023-10-04

【注意】WEB3の詐欺師投資説明会をやってます!【喚起

WEB3 の本を出して、絶賛「ワイはWEB3で21世紀の未来を作ります、ドシド投資してね!(開発はインターンでも酷使するぞ)」という講演会をやってるみたいですよ。会場のメンツは数人しか集まってないみたいだけど、ブロックチェーンやら AI やら WEB3 とか言っとけば、人が集まるみたいだと思ってるみたい。本を出す理由詐欺のためという、古典的詐欺手法クズなんですよ。ぶっちゃけ、中身は 既存AIブロックチェーンに見せかけたナニカなんで、知ってる人にとってはふんしょくモノなんですね。なぜ知っているかというと、彼のプロダクトはエラーページがデバッグモードになってるので、中身がバレバレなんですねー。自分で作っているというものは、CharGPTに投げて帰ってきたものを表示してるだけでした。いやー、ひどいなぁ、これ、としか思えませんでしたが、この詐欺師は現段階でも 3億で売却できると嘯いてました。ということで、皆さん注意してくださいね

2023-10-03

徹底的に掘る人

ある人が、共通の知人を、下手な絵を描くオタク野郎、みたいに馬鹿にしていた

どういうことかと言うと、その知人のSNSアカウントから類推して、別サービスアカウントを見つけて、

さらpixivアカウントにたどり着いた、ということなのであった

ネットから個人情報を掘っていく古典的手法である

(今風にかっこよく言うとOSINTか?)

とはいえ、このような手法リアル知人に適用しているのはなかなか悪趣味である

その後様子をうかがってみると、どうもそいつは、様々なリアル知人のアカウントを徹底的に掘っているらしくて、

誰々は裏垢で変態的な投稿しているとか、誰々はネットでは態度がでかい、みたいな馬鹿にするネタを見つけては吹聴していた

おそらく私も掘られて、何か馬鹿にするネタを探られていたのだろう

何が言いたいのかと言うと、別にネット炎上などしていなくても、あなたを知っている・興味のある第三者ネットを掘っていて

つの間にか弱みを握られてる、みたいなことは十分あり得るということ

この一件があってから、私はいらないアカウントは消したし、新しいアカウント類推が出来ないように作るようになった

まあプライバシーの教訓としては良い経験が出来たと思う

2023-09-30

anond:20230930121606

そら女に人間性を見抜けないどうたら的な、超古典的ニューロセクシズム的な非科学的な迷信妄想を信じる人々にはキモーとなりますわな

周りにADHD女や低学歴しかいないんやろうけど

2023-09-26

anond:20230926155744

まりは......私有財産

G&Wは、私有財産宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:

このような神聖ものは、多くの場合存在する唯一の重要かつ排他的財産形態である......神聖文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的財産も同様である。このような社会では、私有財産概念と聖なるもの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除構造なのである。(p. 159)

ここで「絶対的もの」が「私的もの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。

この混同は、著者が宗教私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的定義を持ち出している:

デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たち絶対的私有財産について語るとき、その根底にある論理社会効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。

そして著者は、アマゾン原住民仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在神聖所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋私有財産概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。

G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである現代私的所有権を、超自然存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理社会効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?

先住民活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖ものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。

デュルケムの洞察の中で最も強力なものひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるもの神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。

デュルケムが実際に主張したこと

デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブー起源説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性隔離する力は血の力であり、聖なるもの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。

デュルケムにとって、「分離」という原初的概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女親族は、彼女所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり彼女男性との付き合いからも世間から隔離した。彼女隔離は、特別儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女身体神聖ものであり、それに関する彼女選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団行為と関連して、人間意識言語文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。

もしG&Wが現代進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム洞察が、血のように赤い黄土色が、男性女性の肉体が神聖ものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代考古学説明を、いかに先取りしていたか認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)

季節的か、月的か?

さて、『万物黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたかである

人類学を学んだことのある人なら、エスキモーアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルヨーロッパ後期旧石器時代氷河期文化適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。

この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期天才政治家たちは、革命で得たもの永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである

私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類グループ狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカ進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。

権力振り子

G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要儀式は、女性月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。

コンゴ熱帯雨林では、女性たちは男性勇気潜在的支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:

単一パターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実のものと、その結果としてのさまざまな社会可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである

もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。

この最後質問は実に深いものであるしかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的認識を深めてからでなければならない。私たち先史時代祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?

結婚が恒久的なものになったとき

中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代比喩Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶもの確立している。このような社会における親族関係居住パターンは、月経排卵兄弟恋人親族関係結婚共同体連帯セックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。

このようなパターン古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロック説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係パターン結婚後の住居の多様性理解することも重要である--これも決定的に重要トピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。

非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンはるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカ狩猟採集民の女性は、母親キャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係結婚生活の間を交互に行き来する。

母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫から圧力で住居を変え、夫とその親族永住せざるを得なくなることもある。このような場合子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。

人類はいかにして「行き詰まった」のか

これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケア強制的コントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀ヨーロッパ北米のウェンダットにおける処刑拷問光景描写している。国王臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長義務モデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダット囚人に長時間拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。

そうしてG&Wは、ケア支配区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明見出したのである

私たちは、ケア支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身自由に再創造する能力私たちいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり私たちいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要ことなのだ...。

狩猟採集民の研究ジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人軍事指導者拷問者、ヨーロッパ君主経験限定し、これらの人々の心理的葛藤想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的支配することを混同してしまたからだと示唆しているようだ。

これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉提示されているだけなのだ

外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たち事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?

この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。

(続く……)

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続き

彼らの政治プロジェクト理論

私たち時代における2つの重要問題は、次のとおりである

現在世界社会正義革命を起こすにはどうすればいいのか?

そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たち私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?

このような問いは、歴史を通じて真剣思想家活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:

なぜ人間社会はこれほどまでに不平等になったのか?

意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等起源についての本ではないのか」と。

この本の中心的な主張のひとつは、不平等ヒエラルキー暴力は、あらゆる人間社会組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。

奇妙なスピン

これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類祖先や初期の人類平等であることによって見出し適応、つまり生態学ニッチについて説明する新しい注目すべき学問無視している。つまり、かつて人類平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的無政府主義者マルクス主義者の見解無視しているのだ。

保守派の主張は、農耕や都市生活経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。

彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義奴隷制階級差別人種差別性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。

グレーバーとウェングローが主張する政治論点は、太古の昔から、人は常に支配自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。

彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである

この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。

彼らの主張 - Step By Step

グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。

さら重要なのは19世紀社会ダーウィニズムや、より最近スターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンドナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要対象であり、私たちはその両方を共有している。

社会ダーウィニズム歴史の段階説。ハーバート・スペンサールイスヘンリーモーガン19世紀社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的知的進歩シグナである理解されている。

しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代人種差別主義新植民地主義を支え続けている。

左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。

そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスエンゲルス仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論説明も暗黙のうちに否定しているのだ。

これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族起源 私有財産国家』において最も顕著であるエンゲルスはそこで、人間平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。

しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。

アーリア人セム民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコプエブロインディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。

エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。

フランツボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたか自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツボアスは、太平洋西海岸クワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。

フランツボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年ヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命指導者の一人であったソフィーメイヤーの息子である1851年までに、彼女読書グループマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。

ボース人類学者になった。カナダではバフィン島イヌイット族やバンクーバー島クワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークコロンビア大学教授となった[2]。

1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造であると主張した。1913年当時、ボース母親政治否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民党派として、人種差別を憎んでいた。

ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクトマーガレットミードゾラニールハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類文化進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。

しかし、私たちはもはや1913年時代ではない。1982年エリックウルフ皮肉タイトルの『ヨーロッパ歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史真摯に受け止める人類学の波を起こした。

人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗宗教伝統現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しか悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民大量虐殺アフリカ奴隷貿易白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争正当化するために展開され続けている。

新しい進化論人間適応

人類学者や考古学者たちは、現在人類の不平等起源について、まったく妥当説明を構築している。ケント・フラナリージョイス・マーカスジェームズ・C・スコットがその中心人物である

残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろかにしてしまうことである

グレーバーとウェングローは、かつて人類狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境人間存在物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会必然的平等であったことを否定している。

彼らの主張の第一歩は、人類進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。

過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。

化学的微量分析DNAサンプリング、放射性炭素年代測定質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちヒーローの中には、読み応えのあるクリストファーボームフランズ・デ・ワール、R・ブライアンファーガソン、サラ・フルディ、マーティンジョーンズ、ローラライヴァルの広範な出版物がある。

このような研究は、人類進化人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たち平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察であるしかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である

人間適応についての簡単なまとめ

現在、さまざまな類人猿サル対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係子育て攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類進化理解するための私たち方法でもある。

時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143645

2023-09-24

anond:20230923203746

本人はヴォルテール気取りで痛々しい。

今は21世紀の令和やぞ。現代社会学フェミニズムはそっから派生やろ。

そんな古典的社会契約論に拘るくらいなら、現代社会学フェミニズム哲学理論でも勉強してから突っかかってくればいいのに。

あとヴォルテールって反ユダヤ主義だったけどそこを真似してるの?

2023-09-21

え? px  毎の高さクラスを用意して動的に切り替えるの?

この令和の時代に?

嘘やろー…

こんな古典的な力技が久しぶりに脳裏をよぎってすごい嫌な反面、

思いついた自分を褒めたい

2023-09-09

ネタバレせずにバッドエンドの映画を紹介する(ネタバレ注意)

うん。さっそく書いていくね。

まず初めに紹介したいのは、あれ。ブラッドピットの主演のやつ。

え、どっちって?

どっちとかないよ。ブラッドビット主演の映画にバッドエンドの映画があるよ。

言えるのはそれだけ。たくさんあるから探してね〜

次は、あれ。デートで見に行って失敗した人続出のあれ。

女性が主演のミュージカル映画。分かるよね?

終始暗いから、バッドエンドかを確認する前から辛くなるよ。

次は、有名な古典的名作。あれね。

シリーズものの第1作目。あるはずのない地球のアレがあるってやつ。

どんでん返し映画古典

次は、あれ。スティーブキング原作のやつ。

スタンドバイミーじゃないよ。21世紀になって作られた作品

分かるよね?諦めちゃダメってわかるよね。

次は、ボクシングのやつ。

えっファイトクラブ?それじゃないよ。もう一つのボクシング映画

ロッキーみたいな話かな?と期待しちゃったのが間違いだった。

次は、真田広之が出てる洋画

たくさんあるけど、まぁ、21世紀に入ってから作品だよ。

最後は、◯◯◯◯ゲームという映画だよ。

◯◯◯◯ゲームって映画多過ぎてわからない?

とにかく終始気分が悪くなる映画だよ。

まあ、そんなところかな。

バッドエンドっていいよね!みんなも他にあったら教えてね!

2023-09-04

結局ラディフェミが正しかったんやな

ジェン・アイザクソンフーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ

https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/

本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女主催するサイトOn the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論本質的ペドフィリア肯定するものであり、欧米左翼アカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいか政治的危険であるかが明らかにされています

クィア理論の成立を画するのは、ゲイルルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。

ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティックヒステリー」であり、一種リビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線保護することを求めるセックスクリティカルフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。

左派クィア理論採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道ペド起源からそれほど離れていないからだ。

2023-08-31

anond:20230830235527

質問なんやけど、資金の獲得方法ってベンチャーキャピタル以外なら何を使えばよいのかな?古典的には王道銀行借金をするというのがテック系では難しいし、クラファンも集まらない人にはゼロに近い金額になる。無責任金持ちになりたいわけじゃないのたけど、バクチ系のプロジェクトって資金集はどうすりゃいいのかな?

2023-08-26

anond:20230826142503

【2】と【4】の解像度が低い

その中で【2】に反論するなら性的表現問題になるとき性嫌悪が原因ではない

被害を受けた人間トラウマ嫌悪が一番強い根拠になりがちだが、彼女らは普通に描かれた制服少女女性を見て嫌悪を感じるだろうか?

その前に性的描写された表現存在問題視されていると認められないのが歪んでいる、「未成年性的描写したもの社会が許容すべきでない」、未成年でなくても「女性身体性的記号化した状態普通としてはいけない」が本当の理由である

アンフェはすっかり忘れているが、全く性的表現を狙ったわけではない蘇民祭ポスター性的に見えすぎるという理由で取り下げられているし、電車同性愛啓蒙広告下着を見せたイラストリベラル側の思想運動だったのにも関わらず誰にも反対されずに取り下げられた(両方とも成人の表現である)、男性の消費が許されているなんてことは全くない

意図せず性的になってしまうということは男性でも女性でも起き、性的記号ポルノメッセージでなくても受け入れられない、女性ではさら性的表現普通のものとして使ってしまいがちなので炎上が起きる

成人の身体をどこまで性的に扱って良いか議論余地があるが、そのときに考えとして決定的に違うのが「性的表現として狙って演出し、過度なポルノにならない範囲に収めているかどうか」で、男性表現は当然そうなっているのに、女性表現は「普通状態性的描写、消費すること」が基本的問題トリガーになっている

なぜ男子高校の不自然な腹チラや短パンがないのかという疑問が例のPRにはついていたが、二次元においてキャラクター自然露出している範囲の差はあまりにも大きく、性的に扱われる差が存在し、男性キャラクターTPO関係なく露出していたら誰もが不自然だと感じるからである

男性の同等の表現を持ってこようとすると女性向けにしか存在せず、女性向けのサービスを含んで不自然露出をしたイケメン美少女より圧倒的に受け入れられない

よくポルノですらないもの文句をつけられるのが気に入らないという発言者がいるが、ポルノではないものに肉体的、性的表現使用されているか問題になるのであり、前提として美少女性的描写することが普通になってしまっている感覚が間違っていると言える

ちなみにここから【4】に話を繋げられるが長いので簡略化するとオタク大衆化した深夜アニメ作品ほとんどは意識的性的記号があえて排されているものが多く、男性向けアダルト文脈を残す萌えとは異なる文化を作っている、萌え普通になったと認識しているオタク男性萌え文化大衆化メソッドを全く通っていないので、古典的萌えから性的表現を消した深夜アニメ美少女の登場から京アニ美少女の変遷をあまり認識していないらしい、ただ深夜アニメ流行ったと思っている

2023-08-25

anond:20230825014105

小学生並みの倫理観をしている君が言うな。

これでは大学教員どころか小学生の作文だろう

私は国立理系だったが

科学教育に携わるのであれば、ポパー反証可能性クーンパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているかである

それらの授業は必修じゃなく選択科目だった。教養としてはとても面白有意義だったが、必ず基礎として習得しているはずだと考えるのは自己経験を盲信している。

1000人に読ませれば999人が意味不明だと答える文章であろう。

私が残りの一人ということになるのか? あなた自分誤読に奇妙な自信を持ちすぎている。

「その一回の行為では問題なくても、繰り返すと有害か」という意味だろう。

前の段落を読むと、著者は「科学的に」を「ある特定の条件下では」という定義で使っていると推測はできる。

だが、理系大学教員が「科学的」という言葉をこのような限定的意味で断りなく使うことは考えられない。

ならば読解の方がおかしいのだと疑ってみるべきだった。筆者は科学意味を上書きしてなどいない。

科学やってない人ほど「大学教員」という肩書を盲信する

anond:20230823145057

これでは大学教員どころか小学生の作文だろう。すべての誤りを指摘するのは時間無駄なので、次の一文だけを取り上げる。

・その行為科学的に無害だとしても、長期間繰り返しても無害か?

科学的に無害」だが「長期間繰り返すと有害」とはどういう意味なのか?

1000人に読ませれば999人が意味不明だと答える文章であろう。


前の段落を読むと、著者は「科学的に」を「ある特定の条件下では」という定義で使っていると推測はできる。

だが、理系大学教員が「科学的」という言葉をこのような限定的意味で断りなく使うことは考えられない。

科学教育に携わるのであれば、ポパー反証可能性クーンパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているかである

一般的用語をあえて一般的でない意味で使うなら必ずそれを言明しておかなければならない。


誰でも子供の頃に単語意味自分で「発見」して、妙な使い方をして笑われたことがあるだろう。この文章は「科学的」という言葉自分で「発見」した文章である

ここで分かるのは、筆者は大学教員としての最低限の知識を備えておらず、学ぶ意欲もないということだ。


そもそも文章の核となる単語を明確に定義するという基本ができていない。

大学教員として当然有しているべき論理的文章を書く技術も修得していないことが分かる。


ここから言えることは、著者は大学教員としての最低限の知識技量も足りていないということだ。

自分の手で理論を組み立て、実験して、何が信ずるに値する事実なのか、どうすれば後進にそれを伝えられるのか、そうしたこと真摯に考え、先人に学ぼうとした者の文章ではない。

高等教育を担う資質のある人間とは到底評価できない。


この文章から浮かび上がる著者の人物像は、科学の盲信とやらに一言物申したいが、科学を成り立たせるシステムについて真剣に学ぶ意欲はない人間であろう。

学びを放棄したまま生煮え科学観をひけらかすのは個人自由だが、「大学教員」を騙るのは明らかにやりすぎであり、不誠実の極みと言わざるを得ない。


以下に「大学教員」のための参考文献を掲げる。今後の学びに期待する。

佐倉統,2022,『科学とはなにか : 新しい科学論、いま必要な三つの視点講談社

梶雅範,西條美紀,野原佳代子,2009,『科学技術コミュニケーション入門―科学技術現場社会をつなぐ』培風館

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