はてなキーワード: 事務的とは
http://anond.hatelabo.jp/20150111103358
寝て起きたらなんだこのトラバとブコメの数。ありがとうございます。
いろいろ優しいこととかアドバイスとか言ってもらって気がついたんだけど、俺たぶん俺自身で思ってる以上にだめだわ。いろんな意味で。
正直もうこのポジで頑張れる気がしないんよ。だってすでに出来なさすぎて業務量とかめっちゃ調整(という名の減量)されてるし。もうこれ以上削るとこ無いって言われてんのね。(もちろんほぼ定時で帰ってますよ。先輩はできる人でとてもたくさん仕事取ってこれて昼休みだって食事してると電話がかかってくるような人だけど。俺戦力にならんから残るだけ会社のカネの無駄)
にもかかわらずミスが頻発。先月出来ていたルーチンが今月抜けるとか先月だめで今月出来た、と思いきや来月はまたアカンとかね。
コミュニケーションに関する業務も今は外されています。先輩のイジリと話術ありきで回ってる、サポートに徹するようなあるコミュ作業を最初は任されていたんだけど、あまりにも事務的やりとりに終始しすぎてるってんでダメ出しされて、最終的に俺が緊張で潰れてギブアップ申告したらダメだこりゃ、という判断がなされたので削られた。「そもそも用事があるときにだけ話しかけて関わりを持とうっていうのが感じ悪い」とかも言われていて、なんというかアレだ、メンバーシップ型雇用って言うじゃん? その「メンバーシップ」に明らかに入れてないし入り方がわからないし正直前述したようなイジりへの偏見と恐怖心ないまぜみたいなものがあって積極的に入る気自体がかなり失せてるんだよね。
当たり前だけど先輩からの信頼自体ももう目に見えて目減りしている。マジで計量カップで測れるんじゃないかと思うくらい明らかに減ってる。そう、そもそも他部署がどうこう言う前に先輩とのコミュニケーションが全く取れなくなりつつあるんだよ。自分がミスったのに後から気がついてその報告なり相談なりのために話しかけるとかも、今はやってるけど、当然なんだけど都度めっちゃ嫌な顔されていて、頭ではミスの報告はしなきゃならないものだってわかってるんだけど報告行為自体が悪なんじゃないかみたいな心境になりつつある。そんな状況だと雑談とか逆にできないじゃん? できないんだよ俺は怖くて。どのツラ下げて業務と関係もないアホみたいな話持ち込むんだって自分で思うから。で、自然と「俺から話しかける=ロクでもない迷惑な話題」という図式が完成して、余計に俺がしゃべる時先輩は嫌な顔になる。
あとこれは本当に自分ではよく分からないんだけど、先輩から、指示のいちいちに納得していない、素直でない人間であるとみなされている。何か指示した後、「納得してないみたいだけど」って必ず言われる。納得もへったくれもなくね? と思うことでも言われる。そう見えるらしいんだけどなぜそう見えるのか、どうしたら納得しているように見えるのかがどうしてもわからない。「そう見える」という状況で俺はミスをしたり指示の通りに作業してるつもりで実は指示から外れたことをやったりしているので、単に「見える」だけじゃなくてできもしないのにむやみに反抗してくる人間だとみなされている。最近では俺は自分でも気づいてないけど深層心理レベルでいろんなことに納得していなくてそれが表に出まくってるのかもしれないとかわけのわからないことを思い始めている。だって実際に指示と違うやり方で仕事をしたりしてそれでミスを出しているんだから俺は自分ではまともな人間のつもりかもしれないけど本当は誰の手にも負えない本物のクズなのかもしれないんだ。もしそうだったらどうしたらいいんだ。
どうしたらいいんだよ。
もう頑張り方がわかんねんだよ俺は。仕事に遅刻しないように行くというだけですごい頑張ってる感じになっちゃってて。
そして「休日はゆっくりすることに専念すべき」的なアドバイス全部に対して「うるせえそもそも俺は休日休む資格が無え何か楽しんだりする資格なんか無え」みたいな、字で書くと自分でもめちゃくちゃ言ってるなおかしいなみたいな感情が怨念みたいに湧いてきて余計に涙が止まらないのね。
だって業務量減らされてて忙しい先輩の時間もらってそれでダメなんだぞ休んでる場合じゃないだろう?
でもだからって、休んじゃダメだからって逆に家で自主的に何か努力するとか、そういうこともやってないんだ。俺はダメなんだ。
俺はかわいそうな被害者とか適材適所にアンラッキーにも外れたとかじゃなくて本当にダメなんだ。クズなんだ。だって世の中にはそもそもこの連休だって布団に入ってなんていられない人がいるわけだろう? 俺は全然恵まれているんだから、求められてることぐらいできなきゃダメじゃんか。
でも何もできてない。できる気がしない。
今日も散歩に行けなかった。晴れてたけど。やっぱり風呂に入れなくて。起きたらだいぶ日が高くて。食うものもないから買いに行かなきゃ行けないんだけど布団の中でダラダラネットしてうつらうつらして。阿呆だ俺は。腹が減ってるけど何も食物がない。洗濯したいのに洗剤が切れていて買いに行かなきゃ何もない。そもそもこんな時間から洗濯て。アホか。俺ダメだ。ダメだ。涙が止まらない。ダメだ。
疲れてなんかいないよ。疲れるようなこと何もしてないよ。
神様、神様、神様、頼むから泣いたら風呂に入らせてくれ。買い物に行かせてくれ。スーパーが閉まる前に。食わなきゃ明日起きられない、出勤できない。俺はダメだ。自力で風呂に入って買い物に行こうとする、そうしようとすることができないかもしれない気がしてものすごく怖い。俺はダメだ。ダメだ。
年末になり、忙しさが減ったので、いつもは長い文章なんて書かないのですが、書いてみます。
関東の大学でのお話です。(私が今も大学にいるのか、それとももういなくなっているのかは、隠しておきます)
うちのゼミの先生と接すると、精神的に疲弊し、本当につらい思いをします。
何かに失敗してしまうと、人格や性格の問題点をあげて否定される。
常に他人の陰口を言っている。
特に、人をアスペルガーだと言って馬鹿にすることが気に入っているようで、よくその言葉を口にします。
私だけではなく、私の先輩も、後輩も、先生のそういった言動によって精神的なダメージをうけており、
同じ経験をした人たちで集まれば、よくそういった話になります。
4年間で大学を出て行く人は、まだましな方で、
大学院に入る人は、先生と付き合う年数が増えるため、より大変そうです。
一度、先生から不当な扱いを受けた先輩から、同じゼミ生たち数人にメールで相談がありました。
「先生にこういうメールを送られて、憤っていて、おかしいと思うので、以下のような抗議の返事を先生に送りつけたいが、どう思うか」という内容でした。
その先輩は非常に傷つき、怒っており、「先生に送りつけたい」という長いメールからも、その憤りが伝わってきました。
「もし、その抗議のメールで先生の逆鱗に触れてしまい、指導が受けられなくなってしまうと自分が苦労する」という結論になったからです。
当たり前ですが、先生という立場と、生徒という立場では、力関係があります。
罵倒され、人格を否定されたことに対して、言い返してしたいと思っても、
「先生に目をつけられ、指導がないがしろにされてしまうのではないか」、
「先生という立場を利用して攻撃を受けてしまうのではないか」、という怖さがあります。
他の先生や、上の先生に相談したとしても、今度は誰が告げ口をしたのか、という話になってしまいます。
先輩たちが、「あの先生とはとにかく距離を置くしかない」と言っていたのも、そういう理由があったんだと思います。
友だちや恋人に相談して、心の傷を癒すこと、とにかく忘れること、そして先生と距離を置くこと、これしかありません。
心配をかけてしまうので、親には相談できません。また、何度も友だちに相談にのってもらうと、相手も疲れてしまうので、頻繁にはできません。
この文章では、私は、先生のことを悪く言ったりしないようしています。
とにかく、ただただ、先生がこういうことをしていて、私を含め周囲の人間がつらい思いをしていたということを書きました。
そういう風に、事務的にやっていないと、なんだか汚い内容になってしまいそうな気がしたので。
先生は不幸だと思う。学生から先生へはなかなか意見を言えないからです。
西谷は「主人公は作家の分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公が作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビのラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。
このように見てみると登場人物と作家の関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考は作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。
この点でヒックスは登場人物を作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分の嫉妬深い側面を誇張した人格を創造する、というもので、全くの新たな人格を創造するのではなく、そのベースはあくまで自分自身だとする。
これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身が名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。
登場人物は作家自身である。主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体は作家の人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家の人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。
「キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定の合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物の人格のベースは自分自身である以上、ほとんど常に作家の想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。
なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合、ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。
ヒックスは登場人物を創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックスが否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。
ここでいう「夢」はその登場人物の人格に依存して考えだされるべきものである。これは大塚が世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。
もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人の人格にしかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義が必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家が適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。
西谷がヒロインのブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。
以上のように作家と登場人物の関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家が主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待を作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。
西谷同様、筒井は「自分が作品に感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。
本格ミステリやSFなど、感情移入を必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説は存在する。しかし感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。
さて、基本的に読者の感情移入は物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。
まず榎本や水島は主人公の年代をターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベの主人公は中高生であることが望ましいと言う。同じ理由で性別も男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズやブギーポップのように女性主人公の成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生の感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。
まず作者自身をモデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。
主人公に求められる特質について、西谷、榎本、飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。
そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやすい主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である。
一方で「低スペックで卑屈、無個性、へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公のラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。
しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人的能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本や飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及は最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。
さて、筆者はこれらの各説は人物の能力と精神と倫理を区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。
能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能な行為の名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能力であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人的能力を持っていても(それが物語上必要ならば)問題ない。
次に主人公の精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情がオープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。
最後に主人公の倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子にモテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。
一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である。
Unlimited Blade Worksとかマジカッコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しかし倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。
さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初に主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難な戦略だと言える。
こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入に成功すると、自然とハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入の効果が高いという指摘だと言えよう。
西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。
そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物のギャップである。
本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味で定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。
飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面でギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物」であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。
ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレは多面的な感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。
「ツンデレ」は言動まで類型化された属性である。本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。
良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶でバイトが事務的に発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。
さて、さらに飯田はギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充的イメージと「オタク」が持つ根暗でコミュ障的イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである。
このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効に機能する。
例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的なレベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。
西谷は主人公とヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しかし主人公、ヒロイン、親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。
博士課程 Advent Calendar です(http://www.adventar.org/calendars/548)。これ書きました http://anond.hatelabo.jp/20141201200815
いくつかトラックバックが付いていたので、それに関してコメントを。
・モチベーションの保ち方について
博士課程の学生はみんな三度の飯より研究大好きモチベーション維持できないやつは進学する資格なし!!!!と言われたりしますが、それは多分あまり正確な話ではないです(ちなみに私は三度の飯のほうがよっぽど好き)。モチベーションを含め、自分をちゃんとコントロールするのは難しいので、それを三年間で身につけたら良いのかなぁと思っています。
まず、多分人間誰しもモチベーションが下がるときはあります(そうならない人は才能だと思うので大事にしてください)。そういう時に無理して研究しようとすると、研究は進まないし時間は浪費するし、かなり精神的にクるので、やめた方がいいです。私の場合は、事務的に出来る作業をやるとか、諦めて遊んだりします。
ではモチベーションを下げないようにするにはどうしたらいいか、という話ですが、2つ実践していることがあります。
1つは、短期的・中期的・長期的な目標を自分で立てること。で、ちゃんとできたかできなかったかフィードバックをして計画を立て直します。
例えば長期的な目標(= grand goal)を、◯◯という論文誌 or 国際会議に投稿する、という月単位の目標として設定したとすると、中期的な目標は、いつまでに手法を考え、実験をし、論文の初稿を仕上げるか、という週単位の目標として、短期的な目標は、この論文を今日は理解する、とかこのコードを今日は書き上げるとかという日単位の目標になるかと思います。((もちろんもっと長いスケールでも目標は建てます))
で、大事なのは、長期的な目標ほど死守する、ということだと思います。ケツカッチンだと取捨選択がちゃんとできて個人的には良いです。逆にいつまでもグダグダと手法を考えたり論文を読んだりするのは得策ではありません。諦め(=取捨選択)が肝心です。
もう1つは、先に述べたことと関連していますが、研究テーマにあまりこだわりすぎないことです。一つの分野で何十年も研究を重ねるのが素晴らしくて、ころころ研究分野を変えるのはあまり好ましくないという先入観が(私には)ありますが、その美徳を全員に押し付けるのは酷なことだと思います。何十年も同じ研究分野で研究をできるのは才能だと思うので、それができない人は、諦めましょう。面白い研究分野に移りましょう(このように吹っ切れたのは最近のことで、チューリング賞授賞者と懇談会をしたときに、飽きたら研究分野変えたらいいじゃんアホかお前は、みたいなことを言われたのでそれに後押しされたのが大きいです)。ただ、移るだけ移って勉強をして終わりではあまりコスパが良くなくて、移ったからには何本か論文書くぞ、という気概を持つのが大事だと思います。
基本的にはいつでもどこでも研究ができるので、研究室に長時間いるということはありません。その点は情報系の利点だと思います(生の実験があるところだと、実験装置のスケジューリングがあって、夜中に実験するはめになったりするらしいですね、つらい)。あと私の場合は、一日のうちで集中できる時間が限られているので、特に研究時間が少ないと思います。ヘタすると4時間くらい集中してやって終わり、ということもあります。長時間集中すると、翌日廃人になるので、継続的に良いパフォーマンスで研究をしようと思うと、このくらいの時間がよいのかなと思って今はその生活リズムで生活しています。
研究時間の話は人それぞれなので、自分の特性をきちんと把握するとよいと思います。長時間研究室にいる=すごい、短時間しかいない=クソ、という図式は、人間の多様性を無視しているので捨てたほうがいいです。自分の特性を把握して、ベストパフォーマンスを出せるように生活したらよいのです。諦めが肝心です。
24時間の使い方を自分の裁量で決められるので、趣味の時間とか取れていいですよ。このような生活を維持したいです。
・学振貰ってる場合、バイトは一切禁止。インターンとかもってのほか。通報しますた。
バイト、禁止です。TA・RAは頑張っても月数十時間くらいしかできないのも仰るとおりです。
実はインターンシップは、自分の研究計画に資する研究を行う場合ならば、いくつか条件を満たせば参加可能なのです(http://www.jsps.go.jp/j-pd/data/tebiki/h26_tebiki.pdf の p.33)。
ただし手続きはちょっと面倒臭いです。海外インターンの場合は、まず学内でインターン参加の許可を得る&海外長期滞在の許可を取る必要があります。うちの大学だと研究科レベルの教授会にかける必要があるので、ヘタしたら数ヶ月待つ必要があります。学内の許可を取ったあとは、それを学振に伝えてさらに学振側からも許可を取ります。こうして晴れて堂々とインターンに参加することができるようになります。このような手続きを踏んでいるので、少なくとも今回私が参加したインターンはlegalというわけ。
ちなみにインターンで給料をもらうと自分で確定申告しなければならないので、それもちょっと面倒です。外貨で給料もらった場合どうしたらいいのかわからんぜ...。
考えている進路はあるのですが、あまりそれを書いても面白く無いので、一般論を書きます。ただし、私はまだ仕事を経験していないので、だいたいは噂・妄想です。
進路はアカポスか企業かに分かれると思います。アカポス志望の場合は、だいたいD3の夏過ぎ頃から助教やポスドクの公募がでて、それに応募して次の4月から採用、というスケジュールが一般的なようです。また学振からお金を貰うポスドクの場合には学振と同じようにD3の4月だか5月に申請し、11月/12月に結果が出る(面接の場合はさらに遅い)ようです。優秀な方はポスドクを経ずに助教になるみたいですが、学振PDはかなり自由なので、これと迷う方もいらっしゃるようです。企業志望の場合は、一般的な企業の採用プロセスに則って就活をすることが多いようです。ちなみに、国外の場合も、時期は日本と半年ずれたりしますが、アカポスの場合は公募がメーリングリストで回ってきますし、企業の場合も公募の形を取っているものが多いようです。国内の場合は、学会などで顔を売りやすいので、就活はしやすいかと思いますが、海外の場合はなかなか大変なようです。馬鹿正直に公募に応募しても、書類審査落ちすることが多いとか。なので、中の知り合いを作るのがよい、というのを聞いたことがあります。
次にそれぞれの利点欠点を考えます。アカポスの利点は、自分の裁量が大きいということかなと。自分で研究テーマを決めて予算を取ることができます。共同研究とか自由にできます。企業だとそこまでの自由はないっぽいです。ただし、アカポスは任期があったり、ポスト数が企業と比べると圧倒的に少なかったりします。なので、多分プレッシャーは大きいです。あと引っ越しとか多そうです(良さげなポストが空いていれば全国どこへでも引っ越す可能性がある?)。また大学と企業ではアクセスできるリソースに違いがあると思います。アカポスだと好きな機器を買えたり、好きなシステムを作れたりしそうですが、全部一から作る必要がありそうな気がします。企業だと、例えばニュース配信アプリを作ってるようなベンチャーだと、たくさんのユーザにアクセス可能な環境がすでに整っていたりします。
どちらが良い・悪いという話ではなく、どちらが自分に向いているか・向いていないかという話なのであしからず。
・情報系は金回り有利そう
他の分野は知りませんが、インターンとかあるし、就職の幅もそれなりにあるので野垂れ死ぬ可能性は低そうです。生の実験とかをすることがないので、研究予算がそんなになくても最低限研究できるのもいいところだなと思います。
DC1がよく通っている研究室は、そういう指導体制・スケジューリングがうまいんだと思います。申請書を先生や先輩がちゃんとアドバイスできたり、先生が学振を見越して学生のケツを叩いてくれたり。通った人と知り合いになって、通った申請書を見せてもらったり、あわよくばアドバイスを貰ったりすると良いと思います。通ったらその分後輩の面倒を見て恩返しをしましょう。
・情報系において民間ではなく大学だからこその強みってなんでしょうか
このあたりはあまり自分でも結論が出ていないのですが、大学はカネにならないことをやってもいいところなので、そういうことを堂々とできるのが強みだと思います。例えば、理論研究を行って最終的に会社が儲かるというストーリーを考えるのは難しいので、それを仕事として行うのは難しいと思いますが(企業の利益に全くつながらないことをやってる人間に給料や研究費はあげられないですよね)、大学だと論文を書いたりすれば良いので、堂々と理論研究できると思います。また、夢を語る系の研究(こんなことができたらいいよね、こんな世界になったら良いよね)というのも、企業よりは大学のほうが気兼ねなくできるのかなと思います。
特にポジティブ・ネガティブな感情はなく、単純に大変そうだなと思います。会社の業務に追われながら博士論文を書いたり大学で博士課程学生に割り振られている仕事をこなしたりするみたいなので。ただ、博士号を取るパスが博士課程に正規で入学するパスだけになってしまうのはなんとなく健全ではないような気がするので、そういうオプションを後世に残すためにも頑張ってください。
またなにかあれば。
レイド攻略で半年くらい一緒に遊びデイリーなんかでも自然に誘い合っていた
彼はPSもあり肩を並べたらなんだって出来そうな安心を抱かせてくれた
彼と一緒にギルドを作ろーとか、何か面白い事したいよねと前向きな話もよくしていた
製産においてもあれこれしたら稼げるとか色々実践したりもした
突然何も言わずに他のギルドに入ってみたり、レイド攻略をリアフレのメンバーに混じって終わらせていたり
むっとした自分は意地悪のつもりで翌週勝手にレイド攻略をさっさと終わらせたりしてみた
何のレスポンスは得られ無いことで自分に興味が無くなってしまったのかと少し悩んだ
疑念、と呼ぶには小さすぎるかもしれない
あまりに些細な事だったが彼と自分の繋がりを見なおしてみたら普通のフレンドだなと思ってしまった
こちらはSkypeを気軽に使える環境と伝えていたけど機会が無く通話はしなかったし
おら通話すっぞ!なんてぐいぐい誘う事も、リアル話題に突っ込んだ話もそんなになかった
気の置けない中というわけではないがお互いに蛋白な性格でその必要性が無かっただけというべきだろうか
特に自分は他人と深く関わろうとせず彼もそれに近い印象だったので、このような関係に落ち着くのは妥当かなと勝手に納得した
そのうちに僕はゲーム自体続ける事に疲れ、晒されて萎えていた事もあり何も言わず姿を消した
ふと動画サイトでそのmmoが話題になっていたので色々チェックしてみた
予想はしていたけどまあ仕方ない惨状にはなっていた、結構笑ってしまった
よく絡んでいた知り合い達は今も続けてるかなと検索を掛けてみると意外なものを目にしてしまった
彼がゲーム用のTwitterなんかはじめたり、ゲーム内のコミュニティサイトでブログ記事を書いたりしていた
失礼なことだが相変わらずユーモアの無く感情が伝わらない事務的な內容が多かった、ただそれでもあの頃楽しかったなと思い出してしまった
その中に僕の事を書いた記事があり、それが今こうしてだらだら書いてしまっている理由だ
「◯◯(僕)がまだ続けていたら~」「見たなら顔だしなよ」「実は他鯖で続けてたりするのかな」
いろいろ書かれていたのを目の当たりにして、案外僕はそれなりに親しいと思われていたのではと感じた
僕に魅力があると思えないが学生時代なんかも向こうから近づいて仲良くしてくれる人がいて助かっていた
僕の場合そこで満足してそれ以上関係を進める事がなかった、相手からしたら興味を持たれていないと思わせていたかもしれない
同じようなミスを僕は繰り返していたに違いない
すまないがこの記事はここで終わる
可能性1)あなたと話す他人の50%程度が会話を合わせるのに苦労しているようならあなたはアスペだ。
可能性2)増田が話題にしている人と話す他人の50%程度が会話を合わせるのに苦労しているようならその人はアスペだ。
この二つの可能性が最も高い。
そうでない場合可能性は二つある。
可能性3)増田が話題にしている人が桝田に(密かな)敵意を持っていてストレスを加えようとしている。
これは会話を外れさせ続けるという攻撃だ。しかしこの攻撃って相当会話力もセンスも頭の回転も必要だから、可能性としては存在するけれど、無視していいほどに低い。
可能性4)センスが圧倒的にずれている。
それも補正できないほどにずれている場合だ。東京の中学生男子が福岡の60歳主婦と話しているような状況だ。
2+4で割合としては70%を超えると思う。そして2の場合も4の場合も(加えて言うなら1の場合も)、あなたが努力でできることは何もない。
二人で出かけるときなど、最低でも三日前までに相手のリクエストを確認するようにしている。
彼女が行きたいお店は事前に予約し、予約が不可能の場合はすぐに連絡して、いくつか代替案を提示しつつ相手の回答を待っている。
とにかく先手先手で事前確認を取ってばかりだ。
それの何が問題なのかというと、途中で何か不測の事態が起きても、相手が選んだ事だからと、何も感じなくなってしまっている。
たとえば、彼女が行きたいと望んだ初めて行く店が予想以上にハズレだった時、他人事なのが何となく分かるらしい。
逆にアタリの店だった時も、彼女が満足しているかどうかしか気にしておらず、俺自身が楽しいかどうかを完全に棚上げしているのも分かってしまうらしい。
とりあえず、表面的に事務的に話するだけで関わりたくないってのがほぼ本音だと思うよ男は。
女の医者が増えるけど、女性医師はキツイ仕事とかマジでしないから。すぐ逃げるのはガチ。じゃあ誰がその分仕事するの?医者の数増えたけど女は地方いくの?
それを知ってるし現在進行形でそうなってるから、女医ってのは医学会を圧迫してるなって感じてしまう。
それを知ってるから、地位と名誉と安定のために入った女性の医学生って存在が心底悪に感じる。
しかもこういうやからが、「女性のための」とか言い出すけど、お前らを支えるためにどれだけの普通の女が犠牲になってるんだ?って考えが湧かないのが不思議でしょうがないわ。
これはほぼほぼ男の医者にも通底してるよ。とくにこういうSNSでキャっきゃみたいなのはヤッパリな、ファッションなんだろ?ってことよ。
「事務的な会話」と「口説く」の二極なの!?とびっくりしたんだが
でもこういう男って結構いるよな…
好みの美人にだけ熱心にアピールして、それ以外には無関心って男
今までは年齢や性別や美醜関係なく同僚や部下に愛想のいい男性ばかりの職場だったから、
転職してそういう男が何人もいるのを見てびっくりした
「全人類の半分は女なんだから出会いなんていくらでもあるでしょ。イケメンだし若く見えるし小奇麗にしていて真面目だし」
確かに異性全員のうち、老幼の者を除き、地球の裏側まで出会いを求めて出かけるコストは掛けられないのを前提としても、なお出会える可能性のある女性は膨大な人数になるだろう。
しかし自分を含め、妙齢の男女の多くが出会いに恵まれてないと聞く。
そうなると当事者の周囲の環境というより、いや、環境さえも当事者の性格的要素が少なからぬ原因となっているのだと思う。
かくいう自分の場合はとてもシンプルで、女性のストライクゾーンが狭すぎることに尽きる(勿論男性に対しても)。
今まで話す機会のあった女性に抱いた感情は「普通」が殆どで、残りは「嫌い」or「苦手」、そして胸がときめくレベルの「好き」というのは、本当に数える程度だった。
あまりにケースが少なすぎて、その少ない記憶を辿っても、未だに自分でも好みのタイプが上手く説明できないとか、かなり終わっている。
これが幼少から現在に至るまでの、自身の人生を決定づけてきたと言っていい。
即ち人嫌いどころか、そもそも他人に対する興味や関心が極めて限定的な感じで、その流れから事務的な会話しかしてこなかったと。
そんなんだから、もし今後そのようなタイプの女性が現れたとしても、自分のこれまでの毛が生えた程度の恋愛経験(それでも皆無と比べたら奇跡と言っていい)ベースでは、口説いて結婚までこぎつけるのは無理っぽい。
逆に言えば、モテる男がモテる理由もこれまたシンプルで「女性のストライクゾーンがメチャメチャ広い」からだろう。
会話する女の多くが自分の好みの範疇だったら、「モテたい」なんて下衆な願望抜きに、たとえ些細な用件であっても相手を良い気分にさせるような「好意的な対応」を、知らず知らずのうちにやってしまうわけで(おまけに本気でやっているので、その会話にわざとらしさやあざとさがないし、場数こなせるのでコミュ力も上がる)。
まあ、人間のくせに人間に興味ない奴が今のまま淘汰されるのは種の保存的には多分正解だろうから、このまま一人で生きていくのは仕方ないのかも知れない。
そうは言っても、一人は寂しいんだよなあ・・・。
夜になると不安と虚しさで鬱になってきて、誰かに話を聞いてもらいたいけど、
親しい人間がおらず誰も話を聞いてくれないので、せめてここで吐き出すことにする。
高校中退→引きこもりから大検取って偏差値50代の四年制大学に入ったが、
一人暮らしをきっかけに引きこもりが再発して、単位ギリギリでなんとか卒業。新卒資格は棒に振った。
人生に何の目標ももてないし、社会に出て色んな人と関わるのも怖かったので、大卒後は引きこもりに戻った。
が、特にきっかけもないのだが、27歳の誕生日頃に社会復帰を決意。
とりあえず人付き合いのリハビリと、就職活動の軍資金を稼ぐためにアルバイトで働き始めた。
状況として良くはないが、最悪の状態からの改善は日々少しづつでも続いてると考えるべきなんだろう。
友達申請なんてする勇気もないのでこっそり見るだけのFacebookでは、友達3桁は当たり前、
遊びに仕事に、精力的に人生を楽しんでいて、動く死体みたいな俺とはまったく別の生き物だ。
バイトの同僚は若い女の子が多くて、普通の男なら喜ぶところなんだろうが、
コミュ力0で、若い女の子相手ではキョドってまともに口も聞けない俺には、うつ要因以外の何物でもない。
3ヶ月も経つけど、雑談などできない。事務的な会話にこっちはイエスノー返すので精一杯だ。
この年になって、やっと社会に片足を突っ込んでみて、俺の人生には何にも無いということに気がついた。
普通の人から見たら気楽なもんだと思うだろうが、自分からすれば歯を食いしばってがんばってる。
昔はあんなに楽しかったゲームも気が焦るばかりでのめり込めないし、映画を見てもストーリーが頭に入ってこない。
本なんかしんどくて読んでいられない。
出かけたくても行く場所がないし、付き合ってくれる人は誰もいない。
一人家にいて、夜中になってくるとがんばったところで何になるの?っていつも思う。
就職しても一緒だよ。
今みたいな生活がずっと続いて、そのうちに病気にでもなって終わりだよ。
お前なんて子どもの頃から友達のいないネクラの嫌われものなんだから、この先もずっと一人だよ。
女の子もお前みたいなつまんなくて気持ち悪い人間のこと好きになんかならないよ。
何が楽しくてお前生きてんの?
私はよくライブに一人で行くので、話しかけてもらったらうれしいです。誰かと話したいなーって時は男女問わず一人の人に話しかけるときもあります。でもなんつうかこう人と話したくない日もあるので、そんな日は開演直前までイヤホンしてたり本読んだりしてるので察してくれると有難いです。スマホいじってたり、ボーっと空を見てたり、公演のパンフレット見てたら話しかけていいと思いますよ。
話しかけやすいのはライブ前だと思う。始まる時間を聞いたり、ドリンクもらう場所を聞いたり、グッズ買う場所とか話しかける事務的なトピックスがいっぱいあるから。事務的な要件から話しかけてくれるとかなりほっとする。私だけかもしれないけど、「良くライブとかくるんですか」とか「友達になりたいです」っていきなり言われると、「えっ何何」ってかなり身構えてしまうので、事務的な質問して反応がよかったら、「このバンド結構前から好きなんですか~?」とか公演にまつわる話からつなげてったらいいと思う。
でもブコメにもあったように、そこで微妙な空気になると、ライブ中ずっと気まずいというのもわかる。終演後でも「終演後でもグッズって買えますかね?」とか話しかけるきっかけは無きにしも非ずだと思う。ただ終電早い人やその後予定ある人もいるから、乗り気じゃなかったり帰りたい雰囲気だしてたら、引き留めないほうがいいかも。
お酒入ってると、拒絶されるリスクはぐんと減ると思う。だからお酒飲んでる率の高いクラブとかフェスのほうが、ハードルは一気に下がる。クラブは苦手でも、デイパーティとかバンドの人がやってるイベントは比較的クラブっぽくないイベントのことも多いので、武者修行には最適かも。
頑張ってください。応援してます。
昔はコミュ力があった。
相手が言われたら嫌だろうな、苦しいだろうなという言葉は絶対言わなかった。
話の流れから2手、3手前に分かりそこに行かないように会話の誘導もできた。
会話をしなくなったというか、盛り上がるグループから少し距離を置くようになった。
その結果コミュ障になった。
コミュ障にはいろいろあるがその中でも自分は事務的な会話はできるが雑談はできないタイプになってしまった。
先日、同年代の人たちと一緒にとある作業をこなすということがあった。
そして最終日まで無難に終わり、飲み会に行こうという流れになった。
・・・。
まあそしてやってしまった。
飲み会は苦手だ。
笑いが取れない。会話が続かない。困った末についに伝家の宝刀を抜いてしまった。
そう悪口だ。
悪口は盛り上がる。
笑いも生まれる。
しかし、悪口を言われた人は傷つく。
その人には聞こえないように発言しても、いつかはその人に届いてしまうものだ。
仮に相手に気づかれなくても、後々自分を傷つける。
本当は言うつもりはなかった。
昔の自分だったら絶対言わなかっただろう。
それどころか、まあまあと諌めてすぐに別の話題を振って盛り上げただろう。
本当にそんな理由なのか。
違う。自分を守るためだ。
他人の口撃される前に、先制攻撃してしまおうという考えがあるのだろう。
糞だ。
わかってる。
他人を傷つけた時はいつもこうやって後々自己嫌悪に陥ることになるのはわかってるのに。
言われた人がどんな気持ちになるのか考えた時、胸がえぐられる。
あぁ、やってしまった。
何やってんだ俺。
コミュ力がほしい。
コミュ力がほしい。
悪口は言わないようにしよう。
しかし、また人を傷つけるだろう。
お嫁さんに、もっと自分の気持ちに素直でいて欲しい、と思っていらっしゃるんですよね。
細かい自分の都合に合わせて、せっかくの機会をフイにして欲しくないと。そのような、自己犠牲の傾向に不安を感じていらっしゃる。
そうする理由が「このくらいしないと、気持ちが伝わらない気がしてどうしても不安になる」というのも気になりますよね。
心配なさる気持ち、わかる気がします。大切な人が、些細なことで自分の気持ちを押し殺してしまうのは、切ないですよね。
私は、それほどまでに繊細に、夫の気持ちを汲むことの出来る、あなたのお嫁さんを、とても思いやりの深い方だと思います。
短い記述を読んだだけでは、お二人の関係の深いところまで読み取ることはできませんでしたが、あなたが直面している不安な状況は伝わってきました。
トラックバックに、話し合いで解決しろ、とおっしゃっている方がいます。
一理ありますが、一般的には、長い人生の経過で形成された性格の、細かい癖を直すのは、たとえ親しい間柄においてでも、容易ではありません。
長い苦労と苦痛を伴い、報われないことがあります。我慢したほうが、結果的には良い、というケースも有ります。
もちろん、指摘して納得して、それでするりと直るなら良いです。
でも、文句をいうだけ言って、ずいぶん気にするようにしているけど、それは辛いだけで、癖は直せなくって、その代わりに、お互いにそのことを話題にするのを避けるようになる、ということのほうがよっぽど多いでしょう。
どちらに転ぶかは、わかりません。
価値観を矯正することができるにせよ、できないにせよ、現状を受け入れて、共に歩んでいくことになる。それが人間関係だ、と私は思います。
お嫁さんと一緒にゆっくりしたかった、とおっしゃり、お嫁さんのことを心配して記事を書くあなたはきっと、彼女のことを思いやれる人です。
けれど誰しも、他の誰かを助ける、誰かを守る、ということを必要としています。大事にされて、守られるだけの生活は、温かくて波のない海に、ひとりでぷかぷか浮かんでいるようなものです。
お嫁さんの言葉は「このくらいしないと、俺君に私の気持ちが伝わらない気がしてどうしても不安になる」でした。
この中に、自分を犠牲にすることで、愛を伝えた実感を得る、というニュアンスはない気がします。不安だから、そのようにせざるを得ない、という意味だと思います。
生きていくためには、実感が必要です。
ちょっとしたことで良いのです。
肩が凝ったから揉んで欲しいとか、シャツのボタンが緩んでいるから直してくれとか。トマトでダシを取った味噌汁が旨いらしいなあ一度食べてみたいなあ、などと言ってみる。とか。
もしお嫁さんが許してくれるなら、仕事上の人間関係の愚痴を聞いてもらう、のも良いかもしれません。その場合は、具体的なアドバイスをお願いする、のがよいでしょう。
おそらくお嫁さんはあなたの仕事の当事者ではないでしょうから、アドバイスは実際に有益なものになるとは限りません。
でも、それでも、聞いてくれてありがとう、アドバイスをくれてありがとう、とお礼を言いましょう。
そういうことが、効いてきます。日々の生活をこなしていくための、ガソリンになるのです。
あるいは、お嫁さんがあなたを愛する機会を設ける、というのはどうでしょうか。
誕生日や、二人にとっての記念日など、何かの機会に、お互いにプレゼントを渡したり、手紙を書いたりする。
普段の事務的なやりとり、”帰りにじゃがいも買ってきて”、を越えて、相手を思いやることをするのです。慣れないとちょっと気恥ずかしいですが、夫婦だから良いのだ、と割り切ると、意外にできてしまいますよ。
気持ちを伝えることが大事です。機会はなんでも良いのです。”近所のスーパーでキュウリが一本98円だったダメだ冷やし中華の季節完全にオワタ記念の日” でも良いのです。
ラブレターを渡すことを始めましょう。相手を思いやる、そのために何かができる。それが重要なんです。
以上です。完全にブーメランでして本当にありがとうございましたが、あなたとお嫁さんの幸せを祈っています。
企業説明会の方はふつう総務人事だから営業素人さんが担当してる。
つまり営業実績のない人たちがエッラそうに熱弁奮ってドヤ顔してるわけだ。
データでしか語ることが出来ない、それが企業説明会担当者の痛い所。
だから、突っ込んだ質問をすると、「私は担当者じゃないので」と回答を濁したりするし、
逆に既に質問100問集みたいなのを何度も読み返してシミュレートしてるから事務的にだけど
回答する人はいるけど、本質的には理解してないから、まったく理解不能でも就活生はわかりました、
ありがとうございましたというテンプレ挨拶で済ませるし、その会社上司と見られる人が「質問は以上ですね?」と
質問者に水を向けるので、基本的には素人でも無難な説明会を構築できる寸法だ。
たまに土木建築系の会社のようにガチの営業担当者も来るけど、理屈っぽい話には終始感嘆するか若干不満そうに見てる。
で、パネルとかOHPとかを使った説明会形式では基本的に総務人事の人がやってるけど、営業担当者はパネルでなく熱っぽく
精神論や根性論を全面に出してるところが多いものの、実体験に基づいたエピソードばかりなので存外参考になる。
そうした所に営業のプレゼンというのが如実に現れてるように見えるわけだ。
問題は総務人事の方で、終始淡々としているし、柔和な態度や姿勢があり、また女性の担当者が陣頭に立っていることが多い。
別に女性が問題ではなくて、女性が担当者ということで就活生の気を引こうとしているだけであって、
むしろ彼女らには説明会なのに事務的な説明しか要求されていないので、どうしてもパネルやOHPが必要になってくるし、
自社か提携会社の商品で釣る作戦を取ってくる。俺は釣られた(笑)。
ともかく企業説明会で大事なことは、営業か総務人事のどちらが担当者かでわかる。
営業の苦労話とかの方がタメになる分営業担当者の話の方が大事であるのは間違いない。
でも、権限は人事担当者が持ってるのでおべっか使うなら人事担当者にだけでいい。
別に後は学歴、コネ(教授推薦も)、筆記、面接の4点だから、他は特に気にする必要はない。
それを考慮すれば、実は営業のプレゼンも大して重要でなかったりする。
正直営業の人たちの練習なんだから、それに付き合う必要もないしね。
ノート取ったり前の席でうんうん頷くのも何となく営業のプレゼンっぽくて参考にしてる。
参考にするだけで実践では使わないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20140804000142
この奥さんが他人に思えなかった。
自分と重なるであろう部分が多く、自分をちょっと振り返ってみたくなったので、増田で長文を書くことにします。
本当に長文なので、そしてほとんどの人にとってはたいした中身もない文章なので、よほど暇じゃないなら読まないでください。まじで。
高校のころまではとにかく何もかも完璧でないと陰に陽に容赦なく責め立ててくる両親に抑圧されていて、友達もいなかったし、自分というものをまともに出したことがなかった。
大学に入って自由がきくようになり、部活動に熱中するようになった。
活動の内容そのものより、自分が組織に貢献できているという感覚がうれしかったのをよく覚えている。
部のために骨身を惜しまず動いた。
一方で、無責任で頭のネジのゆるみきった同期や先輩連中が許せなかった。
でも直接文句を言う度胸はなく、一人でストレスを抱え込んではときどきあさっての方向に爆発させていた。
周囲の自分に対する評価は「よく気がついて、頼んだことはきっちり完遂するし、フットワークも軽くて、まあとにかくまじめでできるやつなんだけど、怒らせると面倒だからとりあえず機嫌を取って上手に動かしておこう」といった感じだった。
いくつかの人間関係の軋轢を経験した結果、自分の中に周囲との円滑な調和を妨げる深刻な側面があることに気づいた。
周囲の人間は自分よりもっと情緒的なつながりを大切にしているし、いつでも何もかもに対して100パーセントで動いているわけでもなく力の入れどころをうまくコントロールしながら生きているし、自分みたいに極端な滅私奉公精神で動いているわけでもなく、みんな自分の将来を少しでもよくするために大学という巨大な器の中でそれぞれにもがいているのであり、部活に熱心でないからといってそいつが何事にもだらしなくいい加減な人間だというわけではない。
何より、自分だってよく考えてみると周囲にずいぶんと失礼な言動を多々やっているのだが、周囲は少なくとも、そんな自分を「こいつはこういう性格だから」と受け入れて、ひとつの個性として尊重してくれている。
周囲が自分の考えをわかってくれない、のではなかった。
周囲を受け容れていないのは自分のほうだった。
このことに、4年かかってやっと気づいた。
同期はみんないい人ばかりで、わたしはすぐに彼らのことが大好きになった。
大学時代に比べたら、だいぶ上手に人間関係が構築できるようになってきた。
としばらく思っていた。
しかし、入社して半年が過ぎるころから、わたしは同期の中で少しずつ浮き始めた。
ここの会社は毎年の恒例行事で地域のお祭りに新入社員が何か出し物をしないといけないのだが、その出し物の内容をみんなで決めるとき、わたしは暴走した。
わたしの、無難でかつ隙のない正論づくめの提案に、当初、誰も反論する人はいなかった。
入社式では新入社員代表であいさつをさせられたりして、上司からは同期のリーダーとして何事も率先して動くことを期待されていたのでその通りに動いたのだけど、実際は同期の中で発言力がある人間が他にいて、その人の案にみな本当は乗り気だったようだった。
わたしはそのことに、全く気付かなかった。
やがてみんなで日程を合わせて練習を始め、わたしは何の疑問も抱かずに場を仕切り続けた。
ある日、たまたま残業で遅くなることになった。連絡を入れ、1時間ほど遅れて練習場に行った。
その1時間で、出し物の内容がまるっきり変わっていた。
テーマも違う、使う道具も違う、とにかく根っこから変わっていた。
わたしは2ちゃんの顔文字みたいにポカーンとしばらく固まっていたが、そんなわたしを目にしながらも、誰も、何も言わず、淡々とその新しい内容の練習を続けていた。
それでやっと、自分ひとりが周囲の感情を置き去りにして暴走していたことを悟った。
同期のやり方は、正攻法ではないのかもしれない。だまし討ちに遭ったようでいささか傷ついたのは覚えている。
けれど問題はそんなことではない。
学生時代からの課題を、わたしはまったくクリアできていなかったのだと気づき、愕然とした。
周囲がこういう行動に出ざるを得ないほどに、わたしはコミュニケーションを成り立たせるのに難儀する人間だと見なされていたのだ。
そしてさらに救いようのないことに、それにわたし自身は気づいていなかったのだ。
ちなみにわたしがどうしたかというと、さすがに黙ってその練習に加わった。
「当初の予定とは違うね」とは、このときから今に至るまで、わたしも他の同期も、誰も言わなかった。
あたかも最初からそれをやる予定だったかのように、全員が振る舞った。
親身になって面倒を見てくれていた先輩たちが、わたしと少しずつ距離を置くようになった。
仕事を覚え始めて自立に向かい始めたということだと勝手に解釈していたが、これもそうではなかった。
上司がわたしのことを露骨に煙たがるようになり、保身のために仕方なく追従するようになっていたようだった。
周囲との調和が何より大切、そう理解していたはずなのに、周囲と自分との間に生じ始めた軋みをどうすることもできなかった。
わたしは2年持たずにその会社を辞めた。
「その会社と自分が合わなかっただけだ」と結論づけるのは簡単だ。
けれども、今思えばそこは決してブラックではなかったし、日本的な一体感を過剰に強いる雰囲気の会社でもなかった。
いろいろな不運が重なっただけなのかもしれない。
本当のところは、何が一番の原因なのかはわからない。
その上司が結構なろくでなしなのは事実で、下についた人間はもれなく会社を辞めていくので今はまったく別の部署の実権のないポジションに異動になったと聞いた。
けれど、上司に恵まれずとも、同期との行き違いがあったとしても、辞めることはなかったのではないか。
孤立無援ではなかったはずだ。味方になってくれる人もたくさんいたではないか。
そういう人たちとの関係を、わたしはやはり、大切にできていなかったのだと思う。
はてなーには、こういう情緒的なつながりを過度に重視するところが日本企業の問題点だと考える人もいるのだろうと思う。
しかし現実問題、わたしのように、海外に出ていけるほどのスキルも度胸もないクズには日本の会社しか勤め先がないのだから、適応するしか選択肢はないのだ。
と考える一方で、結局ここまでつらつらと書いてきたこれもすべて「努力がすべてを解決する」「努力しなかった自分が悪い」「もっと努力していればよかったはずだ」という努力至上主義と自己責任論に基づいた考え方で、やはりわたしはまだそこから抜け出すことができていないのかもしれない。
自分に対してそのように分不相応に高いハードルを課すことが、他者への理不尽な厳しさや冷たさにつながる。
当時の自分としては精いっぱい努力はしたつもりで、それでもこういう結果になったということはやはり、不運やタイミングの悪さも重なったということも要因に挙げてよいのかもしれない。わからないのだけれど。
新しい職場でも似たようなトラブルに遭遇した。ここでは悪質なセクハラを受け、加えて同棲していた彼氏がリストラされてネトゲ廃人になったりとか、外的な要因も重なってうつ病になった。半年何もせずにいた。
この、一社目の退職から二社目に就職、うつ病、という流れの中で、わたしは両親から何度も罵倒された。
と公衆の面前で怒鳴られたりした。
気持ちはわからなくはないが、社会人になり、家を離れてから我が家の異常さに気づき始めていた自分としては、ああ、この人達ならこんなこともそりゃ言うだろうなあ、と我ながら実に冷静に受け止めていた。
要するに彼らの中では、うつ病になったのも「努力不足」なのである。
自分の弱さと向き合う努力をしてこなかったという意味では確かに、やるべき努力を避けてきたと言える。
努力の方向が間違っていたのだ。
「どんなことでも努力で何とかなる」という思考停止状態に身をゆだね、客観的に自己とそのまわりの環境について観察し、思索することをしなかった。
しかし彼らの言う「努力」とはそういうことですらなく、単に「朝起きられないのは根性が足りない」とか「気合を入れればうつ病なんてどこかへ行く」とかそういうことだった。
朝起きられないのも、割れるような頭痛も、吐き気も、そしてあの思い出したくもない深い絶望感と不安感、全身の倦怠感、そういったものはすべて気合でどうにかせよ、とのお達しであった。
正常な判断力が下がっている中でも「これは大変だ」というのは理解し、実家に戻るようしつこく言われるのを頑なに拒み、投薬と認知療法でなんとか生活できる程度には戻った。
その後就いた仕事では、即戦力として早い段階で部下をつけられた。
この部下には本当に恵まれていたと思う。
また、うつ病から立ち直ったばかりなのもあり、自分でも同じ失敗を繰り返さないように、早まったことをしてしまわないように、よくよく考えながら慎重にことを進めたのもよかったのかもしれない。
わたしより年上の人もいたし、その人とは何度か本気でやりあったこともあったが、結果的に和解できた。
これは錯覚ではなく、本当にうちの担当の仕事はうまくいっていた。
そんで今、燃え尽きかけている。
こないだ、業績が認められたのかなんかしらんが配属が変わり、見事にダメ人間ばかりの部署を仕切ることになった。
平均年齢はわたしより一回りほど上だけど、まず電話が取れない、来客の応対ができない、マニュアルに沿わずに自己流でやろうとして当たり前のように失敗して尻拭いをこちらに頼ろうとする、などなど、胃痛で病院に通うことが増えた。
比較的まともそうなのから少しずつ教育して、なんとか電話応対と来客応対が全員できるようにはなった。
わたしの力量と言うより、人材に恵まれていたのだ。
当然、同じように教育しても彼らには必要なことが入っていかない。
丁寧に10教えて、ようやく1入る、という感じで、その1を大切にしてくれるのならそれで十分なのだけどこれがまた抜ける。
また10教える。1入ったと思ったら次の日には抜けている。
この繰り返しだ。
もうなんか、わからない。
今まで他人にきつくあたって、たくさんの人間関係を壊してきた。
この人たちも、厳しく叱れば明日にはもう来ないかもしれない。
でも、この人たちは厳しく言われないとわからないのじゃないだろうか。
いや、一度だけ言ったことがある。
マニュアルに従わない人に対して
「それでうまくいくなら別にいいのだけど現にこれこれこうして失敗しているのだから改めてください」
という内容のことを言った。
彼女の返答は
「今まではこれでうまくいっていたんです」
だった。
その
「うまくいっている」
というのがあくまで社内的に一見すると波風立てずにすんでいるけれども対外的にはクレームの遠因になっていることで、つまりそれは実は
「うまくいっていない」
それで十分だと思う。
彼女も、今までのやり方を否定されていい気持ちはしないはずだ。
それでもまずは基本に忠実に動いてもらえるようになっただけでありがたいと思うし、そのほうがこちらも上司としてずっと安心できる。
わたしには、奥さんの気持ちがわかるような気がする。
こんなに頭も悪く仕事もできない(さらに言うなら、自分より年上の)人間が、のうのうと生活していることが、妬ましくて仕方ないのだ。
わたしの場合、年下なら、まだ許せる。
年上で自分よりできない人間、というのが、どうしたって、許せないのだ。
奥さんの部署の人たちがどんな人たちなのかは知らない。
うちよりはマシなのかもしれないし、もっとひどいのかもしれないし、それはわからないけど。
「目の前の人が自分に見せている姿でその人のすべてを判断すべきではない」と思う。
「仕事ができないからと言って、その人を全否定してはいけない」とも思う。
でも、あんなに痛い思いをしてきたのに、わたしはまだ、それらをやめることができない。
学生のころも、社会人になってからも、「役割」がどれだけ果たせているか。
それがわたしの自己評価だった。
「役割」を一心不乱に果たせている人はすごいと思うし、わたしもそのようになりたいと感じてきた。
そしてプライベートでも、わたしは「娘」「姉」「彼女」という「役割」に依存してきた。
自分が自分でいられているというアイデンティティ?自己同一感?とかいうやつが、内面に乏しい。
今付き合っている彼氏は愛すべきバカで、わたしは彼のバカなところを愛しつつも同時に強く軽蔑していることをもはや自分の中で無視できなくなってしまっている。
彼とは結婚の話が少しずつではあるが進んでいて、でも彼はバカゆえに職が不安定で収入が少ないということを自分で気に病んでいて、わたしは自分の食い扶持ぐらいは自分で稼げているから、いざとなったらなんとか助け合いながらやればいいじゃない、と話していたのだが、今日みたいに生理前で神経過敏になっていてしかもこんな身につまされるエントリを読んでしまったものだから、もう今の頭の中は「どうやって別れるべきか」ということばかりである。
叩かれるのはわかっている。こんな偏った価値観で他人を判断するなど何様だ、という話だ。わかっているのだ。その不毛さは誰よりわたし自身が一番よくわかっているのに、まだわたしはそこから逃れられないのだ。彼を軽蔑する自分が大嫌いだ。こんな人間と一緒になれば、彼はきっと不幸になる。そして、子どもが生まれたなら、まあ間違いなくわたしはわたしの両親がわたしにしたことと同じことをするだろうと思う。「あんな親にはならない」と決意するのは簡単だ。それで変われるなら、世の中の虐待のほとんどはなくなっているはずだ。わたしは彼や子どもに「役割」を強いるだろう。今だって、そうなりそうになるのを必死に抑えているのだから。彼に求めすぎてはいけない。適度な甘えは大切だと思うが、その加減もわたしにはわからない。あくまで事務的に淡々と接するか、べったり依存しまくるか、放っておくとわたしはどちらかになってしまう。
やはりこんな人間は異性と付き合うべきじゃないんだろうな、と書きながら改めて思った。
少なくとも子どもは産むべきではない。
今日帰ったら、彼に話そう。
なんとなく迷っていたことに決心がついた。
なんかさー、男側が恋愛に払うコストがかかりすぎてそりゃハードル上げすぎだわって思う。
そんで適当に話を聞いてやる技術で話引き出して、じゃあカフェ行こうか。みたいな話になって。
そんでデートしてそれを2~3回やって、そんで告白OKな『空気読んで(←ここまでやらせておいてスンゲーだるいことまださせんのかって感じ)』、告白しろと。
キスはいいけど胸はだめ。胸はいいけどマンコはだめ。マンコさわるのはいいけど入れるのはだめ。で最後挿入。
この4ステップがまた長い。
いやさあ。男ってかね払えば風俗で即セックス自分がしたいプレイをできる。別に愛情感じなくても性欲は処理できる。
愛情を感じたセックスができるよっていったって、我慢が長すぎる。面倒くさすぎる。二次元やAVが媚びまくってるのに何考えてるんだとなる。
しかも最悪なのはマンコが別に気持ちいいってわけでもない。そのくせ二次元やオナホで浮気浮気と叩かれる。
てめーはフツメン以下には上記ステップ踏ませてるくせに、イケメンにはノーステップ中出しビッチになってんじゃねーのかよw
女のよくわからないプライドのせいで散々苦労しないとだめじゃねえか。
本当に好きな男ならやってくれる???無理に決まってるだろ、服装あたりでギブアップだね。
最初からレベル高い男しか狙ってない???服装とかもできてスマート(女にとって都合がいいってイミでスマートって言うんだろうけど)な男しかはじめから眼中にない?
じゃあ最初から普通の男にかかわってくるなよ気持ち悪い。じゃにーずでオナって寝てろ。男だって女が無理に男社会に入ろうとするから仕方なく受け入れてヤッテルフリしてるだけなのもうすうす分かってるんだろ、男の器量のせいにしてんじゃねーよ、イケメンだけに走ってればいいじゃねーか普通の男には最低限の事務的なことだけ話してリャいいだろ。ってか邪魔だから消えろってなるわな。
女がプライド捨てて、もっとあっさりした形式にしてくんねーかな。
告白されたいとか、清潔感とか、そういうのをつければつけるほど、ヤリチンしかこねーよ。
企業が面接で自由な人材とか、即戦力とか言えばいうほど就職活動の面接が嘘吐き大会になるのと同じ。
そうなると、じゃあ学歴で、とか、じゃあ年収や見た目で、と女のほうもなるんかね。
男側=就職活動する側もそれは敏感に分かってるわな。
だから嘘吐き大会に参加する奴は盛るし、参加しない奴はニート=草食系になる。
女の高慢ちきな態度のせいで草食系になったのに、男のせいにしてんじゃねーよ。馬鹿馬鹿しい。
だからイケメンしか相手してない???だったら35歳になっていきなりわめくんじゃねーよ。仏のように何ももとめなくなったって言い訳以外はおかしいぞ。
<追記>
しかし、女からしてみれば、「付き合ってから結婚までの過程が長すぎる!!!」てなるんかな?
付き合ってるってのも遊びで付き合ってるってのが大半っつーか。付き合ってるをえさに結婚できるかもってのを餌に言うこと聞かせてるってのがヤリチンの常套手段だもんなあ。
これにハマッテしまって捨てられた行き遅れ女ややり捨てられた非処女中古女が、だけどイケメンは好きだから叩けないから、フツメンイカの男をネットで叩いてるんですかねえw
どうしたら良かったんだろう
4月から入社した後輩(女・3歳下)が俺の隣のデスクで仕事することになった。
最初はオフィスや社内システムの使い方なんかも教えたりしていたが、
直接の担当が違うこともあり、事務的な質問は徐々に減っていった。
それでも休み時間に一緒に昼飯にいったり雑談なんかはそれなりにあり
(二人ともわりとマイナーな漫画家を好きなことが判明して盛り上がったり)、
2人で話してると同僚が「お前ら付き合えば?w」なんて茶化してくるとくらいには仲良くしていた。
一ヶ月くらい前まではそれが続いてた。。
スペック。
俺:
院卒の2年目社会人。
フツメン。よく老け顔でいじられる。
変わっているとよく言われる。
職場での評判はそこそこ。
仲間同士の飲みや遊びは好きだが
後輩(Aとしよう。):
変わっているとよく言われるらしく、たしかに変わってる。
同期入社のBと仲がいい。
ある日以降突然にAの態度が硬化しはじめ、自分からは一切雑談を切り出さなくなったり、
こちらから話を振っても一向に気にかけてくれない。挨拶もしなくなった。
嫌われてるというより、苦手で近づきたくない、というような態度。
最後にまともにした会話は
A「私、今日これから女子会なんですよ〜。久しぶりに合う子もいるので楽しみです。」
俺「まだ火曜なんだしほどほどにしなよw」
だったか。
最初は虫の居所が悪いとかかなと思いつつも、2週間たっても状況が改善しない。
何か悪いことをしたのか考える。この辺でAを好きになっていた自分にも気づいた。
そんな時ちょうど、出張の関係で俺だけが参加できない職場の飲み会があったので、
サバサバ系女子で通ってる同期(Aと仕事の担当が近い。Bのことをあまり良く思っていない)に
「俺がAに悪いことしてないかちょっと聞いてきてよ。」
と依頼。翌日LINEで聴いた答えが
「本人に直接聞いてきたよ。Aは肩叩かれるのが嫌いなんだって。
確かにお前飲み会とかで時々やるよな。まあ気をつけたら?」
確かにそれをしたことは覚えている。でも一度。
それでも、少し前まで仲良く話していた人を嫌いになってしまうものなんだろうか。
肩を叩いたのはAの態度が硬化するよりも大分前だったはずなのに。
でも、どうすれば良かったんだろう。
この感情をどこに捨て置けばいいんだろう。
・年取ってからどんな美味しい物食べても体がポンコツだと不味い。若いうちに美味しい物を一杯食べておけ
今40だけど、美味いものは美味い。
ただし、脂っこいラーメンは食べたくなくなった。
・一番に出世したかったら、その時一番できる奴のマネをしろ。楽に仕事したかったら、社内の女全員に押し倒してもOK貰える所まで尽くせ。
・30年前に1年一緒に働いただけでも、一緒に働いた縁は仕事を生む。
これは不明。
・合わない奴とは付き合うな。最初合わなかったら年を取るにつれもっと合わなくなる。
誰も付き合ってくれないのは、そういうことか。。
徹夜はできるけど、次の日は寝てる。
単に朝まで夜更かしって感じだな。
・仕事はその場しのぎの繰り返し
これはまさにその通りだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140711-00000015-wordleaf-sci
この記事中で、ラジオ番組書き起こしサイト「ラジおこし」の運営者の言葉として
著作権としては、たしかにグレーといえばグレー。ただ、著作権は親告罪で、ご本人からの申し出があって初めて問題になります。削除の要望があれば、すぐに消します。
とある。ある種の定形文句みたいなもんだけど、権利者の削除申請にハードル(事務的なもの、心理的なもの、諸々含めて)があることを踏まえた上で、上手いこと逃げられているような気がしてならない。
最近のこの手のサイトに関しては、先に違法状態を作っておいて、後から権利者に認めさせる、みたいな一連の流れが出来つつあるが、もっと正統な方法では物事を進められないものか。