はてなキーワード: 事務的とは
メディア関係者といっても、メディア関係企業で事務の仕事をしたい。
ラジオ、テレビ、映画、レコード、スポーツ、アニメ、ゲーム、なんでも。
18歳で高校卒業してから現在まで、何度か転職はしたが事務一本で色々やってきた。
資格はない。
でもメディアに関われるならどんなことでもやりたい。意欲はある。
今からなれるもんなのかな。
コネもないよ。
誰か、紹介してくれー。
(10/8追記)
思いの外コメントがついててびっくりした
やりたいことは無いわけではなくて
売上とか、会議のデータ作ったり、お茶汲みやったり、来客対応したりとか
大学在学中に、同級生の複数の男子生徒達から性的被害にあった。
まったく接点がなかった人達からの被害のせいか自分が悪いのかと思い、この世のすべてが怖くなった。
親は、原因が分かったいるため大学への抗議そして私を精神科へと通わせてくれた。
一時期は、両親か兄弟と一緒にでないと外を歩けないほど世の中の人が怖かった。しかも昼間は出れなく夜だけ。
どこかで自分は監視されているという妄想があったから。ひどい時は、家の中に監視装置があるかと思い、ヒステリーを起こすようになった。
そして拒食症や睡眠障害を発症した。精神科医は、根気強く付き合ってくれた。
自分は休学せざるを得なくなった。両親の強い希望もあって、大学へは復学した。
当時の女性の人や、父親と同世代の男性としか関わりは持てなかった。
とある男子学生(Aとする)が飲み会に誘ったり、やたらと話かけてくるので、正直放置しておいてほしかった。
そのうち人づてに、男子学生Aも付き合っていた女子生徒(Bとする)から嫌がらせを受けたショックで留年したことがわかった。
男子学生Aは精神を病むことはなかったそうだが、同じように異性からの攻撃を受けた私に興味を持ったそうなのだ。
なんでも、付き合っていた女子生徒Bはツイッターやブログで男子学生Aの生活や写真を掲載し、観察日記のようなものをつくっていた。
実物は、私もみせてもらった。女子生徒Bもしっている。過去のいじめから精神科に通い、とても不安定な女性だった。
観察ブログの他にも、借りていたアパートのカーテンに火をつけ心中しようと持ち掛けたり散々な目にあっていたそうだ。
男子学生Aは、なんとなく無意識なんだろうけど私の話を聞きたかったんだろう。
男子学生の中では、性被害を受けた私はある種有名人だったことが判明し、ショックだった。
両親を除いては、誰にも言わなかったからね。結局男子学生Aとは、事務的な会話はあるがちゃんとに会話をすることはなかった。
白猫プロジェクトとかいうゲームの広告頻繁に出てくるんだけどなんかわからんが謎の気持ち悪さがある
こんな明らかにお金もらって事務的に「みんなもぜひ始めて見て^^」とか言ってるツイートに影響されてモデルのファンたちはソシャゲを始めるわけでしょ頭弱すぎない?
それでその気持ち悪さにつられて広告ツイートしてたモデル(たぶんきゃりーぱみゅぱみゅの大昔の元彼)のホーム見たら、男性モデル同士で集まって撮ったプリクラを大量にアップしてたわけ
それがまた気持ち悪いんだわ そもそも女に毎晩チンコ突っ込んでそうな男達が集まってプリクラ撮ってる行為自体がキモい
正直女性の私でさえかっこいいとか可愛いとかそういう感想を通り越して、プリクラを撮るためにわざわざ集まって猫のポーズをとって撮影してる行為がゲロキモいと思ってるんですけどこの人たちって本当にこんなことが楽しいの?誰に媚びてんの?一体どのあたりの層から必要とされてるんでしょうかこれってトリビアになりませんか
支払いの後、店員さんが手を体の前にかるく合わせる感じで
ありがとうございました、といいつつ、軽いお辞儀をしてくれる場合がある。
ただ、とても事務的な印象なのと、どっちかというとそのお辞儀に付き合わされている
感じがして好きになれない。
小さな商店や飲食店だと、おつりを渡したりして、ありがとございますと軽く言う程度で
よいのだけれど。
好きになれないというか、時にちょっといらっとすることもある。
こういうことでいらっとするとき、たぶん自分自身がなにか別のことにイライラを
かかえていたりもするのだろうけれど。
いきなり「奴隷」とか言うか?
ってのは、成人してても反抗期抜けきれない幼稚な子だったら有り得ると思うけど、
半年口きかないってのは無理あるよなあ。
ネタとしてなら一行でさらっと書けるけど、半年って相当長いよ?
普通に同居してるんだから毎日顔合わせるだろうに。事務的な連絡事項だってあるだろうに。
これが「必要最低限の事しか会話しなくなった」ってならまだ分かるけどさ。
そしてそんなにも幼稚な母親なのに、増田の世話(飯だの洗濯だの)はやってくれてるってか?それはそれで連絡事項が発生しそうだが。
父親の影が無さすぎるのも不自然。
ただ創作にしては設定が斜め上な気もする。
元ネタくらいはあるのかもしれない。
差別用語だからあんまり使わないほうがいいのではと思ってしまうのは、俺が古い常識にとらわれているだけなのかなあ
20年前小学校のとき、担任が歴史教えながらすっげー怒った様子で「えたひにんはこんな漢字になる、ぜったい使っちゃいけない言葉」って言ってたのがすげー印象的だったんだよなー。
そういや習うことは習うけど、テストでは全然出てこなかったな。
あと印象的だったのといえば、部落差別問題の授業がそこそこ定期的にあった気がするなー
まあ俺のクラスだと担任はそこまで熱心じゃなくて、上からおしつけられてるorカリキュラムに絶対いれないといけないから事務的にやってるだけっぽかったからまだよかったけど
あー小学生に戻りたいな
(追記)
もともと「エターナる」(作品が完結しないこと)ってのは知ってて、そこからエタるって略して使ってる人が多い印象受けたからこの増田書いたのよ
若い人はもう知らないかもだし、こんな言葉忘れ去られた方が全然いいと思うけど、一応気をつけたほうがいいかもねってくらいでお願いね
医療従事者や、身近にそうなった人がいて病院に通っていた人なら判るように、老人は簡単に認知症になる。
ヒトのように見え、ヒトのように行動するなら、それはヒトなのだ。
でも、認知症は、病気ではなく症状で、治らない。元には戻らない。
そうすると、ヒトに見えるのに、ヒトとして扱えなくなる。
認知症の老人が居たとして、その老人が食事がとれなくなったりする。点滴だけで生かされている。
その老人が生き続けるか死ぬかは、家族が決める。本人にはもう決められないからだ。
老人は簡単に認知症になる。
当然、病院にはとても沢山の認知症の老人が居る。基本的にはある程度の期間で死ぬ。
そして、老人本人にとってはどう死ぬ事になっても結局同じだということは、理性では判っている。
もはや自分のことが誰だかもわからない、下手すると目で動くものを追ってるだけ。
そんな老人は、家族が泣いてくれようが、事務的に処理されようが、何の違いもない。
ここで書かれていることは、総合病院に老人のお見舞いに行ったことがあれば多少は見聞きするはずだ。
きっとまだ若くて、老人を人間としてみて、同情できる、良い医療従事者なんだろう。
心が壊れないように、折り合いをつけている途中なのだと思う。
お墓の前で泣いてくれる息子がいようが、無縁仏になろうが、死んでしまえば同じだ。
息を引き取る老人の周りに家族が集まる光景を見て、そうなれたら良いなと考える、外からの願望だ。
悲惨だと感じるのは、外から観ている人間であって、本人にとっての悲惨さとは違う。
それだけは、間違えてはいけないし、そこに一線を引かないといけないと思う。
夫婦二人で暮らしていて、妻に先立たれ、あっという間に認知症になって後を追う夫も居る。
そしてどんなに友人がお見舞いに来ても、認知症になれば、もはや声は届かない。
俺をこんな風にまで追いやったやつらに見せつけてやるんだ。
もう何年爪に火を灯すような生活を強いられているのだろう。
若い頃は仕事が人生の全てで、家族も当然のように犠牲にしてきた彼だった。
仕事しかしてこなかった人間から収入を奪ったらミジメなものである。家族はさっさと愛想を尽かし出て行ってしまった。
一つの仕事を真面目に取り組むことだけが取り柄だった彼には、他で働くことなんて全く想像できもしなかった。
それでもわずかな給料で若造ににこき使われ生活のためにと頭を下げてきた仕事も、とうとうクビになってしまった。
なんで自分ばかりこんな目にあわなくてはならないんだ。
どうせ死を選ぶなら、自分をこんな目に合わせた奴らに思い知らせてやるのだ。
そんな彼にとって、焼身自殺はまさにうってつけだった。
ある日の報道番組で目にした宗教弾圧に反抗するために行った僧侶の焼身自殺が、いつか自分が死を選ぶにふさわしい気高く神々しい行為として目に焼き付いてたのだ。
ただ目立つことを目的とするなら駅前など人が集まるところを選べばよかった。
安全なところから向けられたいくつもカメラによって、彼の死に様は瞬く間に世界中に広がっていくだろう。
自分が復讐したいのは、自分をこんなふうにまで追いやった社会でありビジネスの世界だ。
それもちっぽけな世界じゃない。
今日び都心の環状線を数時間止めたくらいでは日本経済に対する影響はごくわずかでしかない。狙うなら交通の大動脈だ。
くだらない。結局人はそうやって命を天秤にかけているのだ。
そんなものは事故が起こった時の責任をいかに回避するかの都合でしかないではないか。
長年望まない生活を強いられてきた彼には、今や社会は悪意の塊のように見えていた。
自の望まぬ経済の流れに虐げられ、抜け出せないままに地を這うような生活を強いられているにすぎないのだ。
そんな彼は、見た目だけで自分を愚かな人間だと判断する世の中が許せなかった。
日本という国は確かに豊かになったのかもしれない。
しかし、終戦直後には誰もが何も持っていなかったのだ。誰もが少ないものを分けあい、倒れるものには手を差し伸べてきた。
そんな日本を豊かにしようと犠牲になってまで作り上げた世の中なのに、そんな時代に生まれた人間たちは誰も彼に手を差し伸べようとはしなかった。
好き好んでなったわけでもないホームレスのような風貌に関心を抱くものはなく、誰もが社会の汚物を見るような視線を投げかけてくるのだ。
ただ犠牲者を増やしたいだけなら簡単だった。
1号車と2号車の中間で火を放てばよいのだ。
そもそも無差別殺人を行いたいなら、方法は他にいくらでもある。
自分の死にゆく姿を彼らの目に焼き付けてはじめて意味があり、死が尊いものへと昇華されるのだ。
正直な話、ためらいがなかったわけではない。
本当に彼らが自分の死を焼き付けたい相手なのかを確かめるために、幾度なく車両を往復しては人々の顔を覗きこんでいた。
そこに座っているのは、大半が小奇麗にスーツを着飾った泥の臭いなど一切感じさせないようなビジネスマン達だった。
片手に握った小さな世界と向い合ってばかりで、誰一人としてこの小汚い存在を認めようとしなかった。
皆が働く中で優雅な時間を過ごせるのは誰のおかげなのか。今ある豊かな日本が作られたのは誰のおかげなのか。
その時彼は、それを理解できているのか試してやろうと思い立った。
一人のもとにそっと近寄り、お金をわたしてみることにしたのだ。
誰から受け取ろうともお金はお金だ。誰かから享受された今の豊かさを誰に遠慮することなく受け取っているのだから、誰からもらえるかわかっている金銭を受け取らないのは矛盾している。
かわりに向けられた困惑の眼差しの向こうに確かな軽蔑を見つけた時、彼がこの場所を選んだことに間違いがなかったと確信したのだった。
この瞬間、彼の行動が間違っていると気づく機会は永遠に失われてしまったのだ。
ポリタンクを片手に一人一人を確認するように歩きながら彼は車両の先頭に立った。
彼らこそが自らの死を焼き付けてやりたい相手であり、これからの世界に罪の意識を背負って生きるべき人間なのだ。
そこからは予定していた通りに躊躇なく身体が動いた。
ポリタンクから流れ出る液体の臭いで彼がこれからするであろうことに気付く人間が現れ始めた。
そんな人々を眺めては彼は着々と手順をこなすように頭から液体をかぶり考えていた。
世の中には気づいてからでは手遅れだったことなんていくらでもあるのだ。
これまでに気付くきっかけはいくらでもあったはずなのだから、それを見逃し続けたのは自分たちの責任なのだ。
一人の人間が追い詰められていく背景に目を向けて自らの生活を省みる良心がこの国に残されているのだろうか。
そうして彼はライターに火をつけた。
彼の中で長い年月くすぶり続けていた炎は、今まさに現実のものとして世の中に炙りだされたのだ。
その姿は宗教弾圧に反抗する僧侶とさながらに、社会に広がる思想の格差とそれによってもたらされる貧困の格差を照らす炎になりえたのだろうか。
彼の目に写った最後の世界が、絶望に覆われていなかったことを今はせめて信じたい。
の続き。
メールで食事に誘ったけど最近疲れ気味で~みたいにかわされてしまいました・・・
めんどくせえええええええええええええええええええええええええええええ
社会人なんだからもっとすぱっと事務的にいかねーのかなあ・・・
体裁取り繕って駆け引きする余裕なんかないわ
もーまったく面識ないところから仲良くなって食事まで行くのハードル高杉
まあOKだったら最初からOKで、最初がダメってことはもうずっとダメだってことなんだよな
女性に声を大にしてお願いしたい
望みがないのなら連絡先を教えてくれるな
お互いに余計なリソースを割くだけじゃないか
連絡先交換の時点で潔くぶった切ってくれ
もうしばらくいいわ
●会話が下手、弾まない、つまらない、
それは◯◯が出来てないから。ただそれだけだ。
これさえ出来れば激変するから、とりあえず読んでみてほしい。
「まず相手に興味を持て。」じゃないと始まらない。
…んなこと言われたって、興味の持ち方分かったら苦労しないよな。
そんなことでお茶を濁すことはしない。俺もこの手の啓発本は沢山読んできたからな。
ここで終止する本は、クソの役にも立たん。
●そうじゃない。
会話ベタに意識して欲しいのは、『会話の内容を相手に絡める/自分の気持ち・考えを織り交ぜる』これだけだ。
これが、会話が弾む奴と弾まない奴の決定的な違いだ。
「普段何してるんですか?インドア、アウトドア?→んーわりとインドアかな→家にいることが多い?→うん→家の中で何してるんですか?→映画見たり」
そもそもこんなインタビュー誰にでも出来るのであって、それでは、相手は「お前」と話してる意味が無い。
(この例示は相手も話下手)
そうじゃなくて、話題に対して、自分が相手に対してどういう印象を抱くか、話を聞いてどう思うか/考えるか、を中心に展開する。
「普段何してるですか?インドア?アウトドア?→んーわりとインドアかな→筋トレとか?笑→いや、筋トレはしないかなw 映画見たりしてる→うそ、鍛えてそうなのに笑→なんでw→映画だと何見るんですか?」
こんな感じで、自分が相手に対して抱く印象を適当でいいから冗談っぽく織り交ぜていく。
だから会話しつつ自分が相手に抱く印象伝えたり、逆に自分の気持ち/考えを伝える。
それがない質疑応答みたいな、インタビューみたいな会話が、盛り上がるはずない。
オウム返しとか5W1Hとか事務的に会話を広げるテクニックなんか会話で悩んでる人間には、糞の役にも立たん。
逆にこれさえ出来れば会話は弾む。もっと言えば、同時に自分のことも相手に伝えてほしい。
自分のイメージ、考えを伝えることを通して、相手の価値観を知り、同時に自分をアピールする。魅力ない人間とわざわざ関わろうとは思わんからね。
●逆に話題がない場合、自分が相手に抱く勝手なイメージを前提に話進める。
おしゃれですよね!表参道とか青山にいそう→いやいやw あんまり行かないかも、地元が多い→そうなんですかw→買い物とかどの辺でします?
基本相手をヨイショしつつ、楽しい雰囲気を出しつつ、多少小馬鹿にして立場を同等(あるいはこっち主導)にしつつ、話をする。
共通点を探すのも大事。ただ、それだと共通点がない相手とは会話が出来ない。でも、自分のイメージは自分固有のものだし、考え方もそう。
人は互いにバックグラウンドが違うがゆえに、今の思考/気持ちも違うし、会話を通してそれを知れば、あるいは知ってくれたと思えば、仲良くなれる。
●会話が下手な奴はこれが出来ない。
その背景には、トラウマ、自己否定、劣等感がある。こいつが厄介だ。
なので、アサーション(相手と自分の立場が同等であるということ)を感じる必要もある。この辺に関しては今は言及しない。
とりあえず上記のことを意識してみてほしい。
ヤフオクでよくAVを買うんだが、いい加減な詐欺まがいの出品者が多くて商品が届いてからがっかりすることが多い
俺のような人を減らすため、ヤフオクでのAVの買い方についてまとめておく
ちなみに対象はセル版のAVが欲しい人だが、レンタル落ちでもなんでもいいという人、AV以外が目的の人でも参考になることは多いはずだ
評価で2ちゃんや増田と勘違いしているような書き込みがあったら、要注意
あとで述べる会員版のオークファンでAVの相場を調べ、それより20%ほど安い価格で落札できるなら検討の余地はあるが
説明がクソなやつは対応もクソ
・yahooかんたん決済で実際に口座に入金があるまで発送しない
・日曜日にオークション終了にしておいて、土日しか発送できない
大体、こういうやつは、商品説明もいい加減だ
注文がやたら多い奴。これもあとで何言われるか分からないし、いきなり悪い評価を付けられるかもしれないので基本的には買わない
送料も何も書いてないやつはいい加減な奴が多いから気をつけろ。しかし、相場より安く買えることもあるから、ウォッチリストには入れておく
業者に多いが、状態がちゃんと書いてない(傷があるかもしれないとか)、何にでもあてはまり、言い訳も可能なことを書いてる奴は要注意
綺麗すぎるレイアウトのやつも少し気をつけよう。一見ちゃんとしているように見えるが、対応がすごく事務的だ。少しイライラするぞ
あと絶対NGなのが、商品と関係ない言い訳がましいこと書いてるやつ。「雨が降ってきたので売りに行くのもめんどだし出品する」とか。但し、一度見ただけ、引っ越しするのでヤフオクで処分しますなど、ごく普通の出品理由を書いているだけのものは可。
ほぼレンタルとみて間違いない
商品説明にすごく小さな字で「レンタル落ちです」と書かれているはずなので、ちゃんとチェックしよう
内容はセル版と変わらないが、レンタル許諾のシールなんかが貼ってあって、あとで自分が出品するとき相場より安く出品しなければならなくなる
気になったら質問しよう
犯罪だ
それに詐欺も横行している
物が物だし、結局泣き寝入りになるぞ
オークファンはプレミアム会員になると、アダルト商品も相場をチェックできる
絶対会員になっとけ
もちろんアマゾンでも見とけ
だいたいアマゾンの方が値段が高いことが多いが、たまに安く買えることもある
気に入ったのはアマゾンのカートに入れておいて、モノレートなどで相場の推移をチェック
本末転倒だが、100円200円高いくらいならアマゾンで買った方が結果的に得をする
まず、面倒なやり取りが不要
以前に買ったことがあったら「何日に購入済み」と出てくる。間違って同じものを買わなくてすむ
説明書きと違う内容(盤面が傷だらけとか)があっても返金、返品とかでちゃんと対応してくれる。ヤフオクだと報復評価が怖くて泣き寝入りだ
そして、古いものはあまり出回っていなく、半年に一回くらいしか出品されないようなAVも多い
全部、とりあえずアマゾンのカートに入れておいて、木曜日か金曜日の夕方くらいにまとめて検索しろ
うまくヒットして、相場より安ければ買いだ
今から6年前にサラリーマンを辞めフリーランスとして独立した。
そして約3年前、フリーランスを辞め、またサラリーマンへ戻った。
そういえばサラリーマンへ戻った後、なぜ自分がフリーランスとしてやっていけなかったを振り返る機会がなかったので、ゴールデンウィークの豊富な時間を使って振り返ってみようと思う。
喜びを共有できる相手が居ない。これはなかなかフリーランスになる前はまったく思いもよらなかったことだが、
仕事の中で起こった嬉しいことは誰かと共有してこそ、次の仕事へのモチベーションとつながるんだなと気付いた。(個人差はあると思うが)
「契約がとれた!」なんていう仕事での嬉しい出来事も、最初はそれなりに嬉しかったが、段々と一緒に喜びを共有できる相手がいなければ、特に何の感情もわかない、モチベーションが上がる出来事ではなくなってきた。
(ちなみに嫁とか子供がいれば、喜びの共有もできたかもしれまでんが、自分は独り身でした)
仕事へのモチベーションが下がってくると段々とがんばって営業をしなくなった。
仕事が取れたとこで、「あ、仕事とれたな」ぐらいの感情で淡々と納期までに仕事をこなす日々。
モチベーションも下がってきて、営業もしなくなるから、当然、仕事も減り、収入も減る。
まさに負のスパイラル!
仕事がそんな調子だから、収入は減るけど自由時間は増えていきます。
当然、遊びます。
当然楽しいです。誰にも怒られません。
まさに負のスパイラル!
収入はないけど、遊んでお金使えば当然、お金はいつかなくなります。
銀行口座の残高が5,000円をきってから、「さて、そろそろ働くか」と重い腰を上げました。
とはいえ、今更フリーランスでやっていた業務の仕事を取り、報酬が振り込まれるまでまってる余裕はありません。
「しゃーない」と思い。派遣業で日銭を稼ぐ。
そして、日銭を稼ぐ仕事である程度お金ができたとこで、派遣業にもフリーランス業にも見切りをつけ、正社員として雇ってくれるという会社へ転職。
フリーランスは個人的に合わなかったが、事務的な事から営業まで、今まで経験したことのないことが実務で経験できたし、
仕事をほとんどしなくなって、昼間から酒ばっかり飲んでた長い大人の夏休み的な時期もサラリーマン時代では味わえない体験だったし、それなりに貴重な経験を得た。
あと、自分がやりたいと思っていることに変な理由をつけてあきらめるより、
とりあえずやってみる。ということは大事だと気付いた。例えそれが失敗しても、復活する方法をその時考えて、動けばよいだけである。
「さて、次は仲間と起業でもするか」と思っている。
10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト
千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note
最初のリンクを「アンチ・エビデンス論」、二つめを「アンチ・アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章をアンチ・アンチ・アンチ・エビデンス論と呼ぶ必要はない。
千葉雅也の「アンチ・エビデンス論」が出たとき、個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価は別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチ・アンチ・エビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章にはいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチ・アンチ・エビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である。
千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡をネット上に残してしまいます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。
そして、その上で読者にこう問いかける――
まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。
不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチ・エビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任の擁護、エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任を果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチ・アンチ・エビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後は
エビデンスを求めようとしなければ、人の思考は個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまいます。
という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる。
たしかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。
実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)
さらに読み進めていくと、千葉の文章を引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。
このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断を要求されていると思いますけど。むしろ、日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。
「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧な表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉の文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手に企業だけの話にすり替えているし、しかも千葉の文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。
マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任を回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員の責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから。
なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体は千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠がほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から〈言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチ・アンチ・エビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?
この後も、しんかい氏は「アンチ・エビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。
ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路で評論というものを考えてるんですよね。思考を論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。
この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇やアカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。
対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージを攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学・数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。
これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーター・バリーによる教科書の引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。
バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。
また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代をエビデンシャリズムからいまだ自由な時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニストの難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉の世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやすい世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。
だいたい、千葉がポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネットで賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニストが問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームでしかないのではないか? こうしたカテゴリーを混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数と無理数を混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう?
しんかい氏はなぜ、ソーカル事件と千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において、しんかい氏は、アンチ・エビデンスを批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達な批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマの場合、科学や数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛なものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化」だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界の関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである。
貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学や科学やプログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明なものだし、別に大陸系哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。
ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学のモニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。
会社説明会でも同じ話を聞かされたんじゃ、人事は無能としか言いようがない。
普通一般の会社だと、会社説明会の後に一次選考でGDやらグル面やら筆記試験をやるが、
会社説明会の所要時間が無駄に1時間と長くて、一次選考に行く気が削がれてしまい
毎回全体の1,2割程度ではあるが一次選考に行く事なく帰ってる。
ここから見ても合説では一度は会社に興味を持った人達を会社説明会で帰らせてしまうのはあまりに酷いと感じる。
例えば、数年前の話になるが、三井倉庫または丸紅商事での説明会では質問等々もなされるが極めて事務的な回答しか出て来なかった。
人事が無能というか、それ以上に事務的な対応が問題で途中退出する者が出てきてしまったのではないか。
そのため、空席が目立つ中でのGDが行われた。
合同面接会では会社説明会では聞けない事を聞ける場としても機能しているが、会社説明会ではより詳しく話を伺う事が出来ると人事は言うのだが、
自分のカラダに自信があるって、いいことだと思う。オトコノコであろうとオンナノコであろうと。
肉体美って言うの? そういうの、私は全然自信ないから。ほんと、他人様に見せられるようなもんじゃないってわかってるから。だから自分のカラダを誰かに見せてもいいって思えるのは、すごいことだと思うの。
でもさ、せめて特定の相手、たとえば恋人限定とかにしとこうよ。
友人のYに「脱いでもいいかな」って言われた時、思った。
Y「あのさ。脱いでもいいかな」
私「? 着替えるの? どーぞ」
漫画(JOJOの第3部。エジプト、行ってみたいな)を読み耽っていた私は、どっこいしょと身体の向きを変えてYに背を向ける。
Y「じゃなくて……違うんだ」
私「?」
Y「俺のカラダを、見て欲しい」
今、何て?
今、何て?
パードゥン??
えっと、ここあなたの家ですよね。ストリップクラブとかじゃないですよね。
あと私、あなたの友達ですよね。純粋な。彼女どころかセフレでもなく、至極ピュアでノーマルなフレンドですよね。
あなたの裸体を、私に拝めと?
何で私だよとかいろいろ思うことはあったよ、そりゃ。見てどうしろっつーんだとか。それって楽しいのか、とか。
でもYが「楽しいかどうかはやったことがないからわからない。けど、やってみたい」と堂々と言い放つので、仕方が無い。私も付き合ってみることにした。
まずパーカーを脱ぐ。ネイビーの、ごく普通の、多分ユニクロの。
もはやこの時点で動きがじれったい。つーかねちっこい。いやいやパーカーくらいスルッと脱げやと思うのね、別にそこに性的ニュアンスをめいっぱい含めなくてもいいじゃんかと。
でももう始まってる、と言うか、何かスイッチ入ってる。多分、マゾヒストのスイッチが。
見られることって快感なんだろうか。Yの頬がほんのり赤くて見てるこっちが恥ずかしい。あれっもしかしてコレ私が辱められてるの?
さて次は、どっちだろうと思った。
正直どっちが先でも嫌だ。正直心の準備ができてない。って言うか別にあと何時間待ってもそんな心の準備はできそうにない。
うわぁどっちだ、どっちなんだと心臓が喚く。
Yの両手は迷っているのか、お腹あたりのTシャツをきゅっと握りしめている。
「どっちが、先がいい?」とは、言われなかった。言われなかったけど、目が言ってた。
無言で動揺している私を見透かしたように、挑発する目付きだった。
Yの手が動く。
水色のTシャツの裾を交差した手で掴み、こう、昔の体操着を脱ぐ時の要領で脱いでいく(あれだと服が裏表逆になるから、脱いだ後面倒なんだよね)。
緩慢な腕の動き。腰が見える、おへそが見える、うっすらと腹筋が見える、薄い皮の下の肋骨が見える、脇毛が見える、二の腕が見える。
下から順番に眺めていたら、もう脱いでた。
ぱっと、指を開く。
水色の布が、ぱさっと音を立ててフローリングの床に落ちる。その音が、やけに大きい。
多分、無意識で息を止めてた。
ふと浅く溜め息が漏れて、慌てて口を閉じた。
こっちを見ないで脱いでたYが、そんな私に気付いてちらりと視線を寄越す。
一瞬だけ、笑う。
あー、楽しそうだなこいつ、と悔しくなる。まぁ、Yが楽しんでるんなら、いいけど。
外ではベルトを付けるけど、家では苦しいから付けない派のYは、今度はジーンズのボタンに指をかける。
銀色のボタンは、触るだけでカチャリと小さく音がする(酷く性的な音に聞こえるのが腹立たしい)。
ゆっくり、丁寧に外す。
今度はジッパーに手をかける。
親指と人差し指でジッパーの先っちょをつまんで、チチチチ……と開いていく。
うわぁあああ聞きたくない聞きたくない! 恥ずかしさで顔を覆ってしまいたい! 耳栓! ギブミー耳栓!!
それから。ジーンズ素材ってね、多分、摩擦係数大きいんですよ。
こすれるの。肌と。
衣擦れの音が半端じゃない。
「あーコレあかん音ー情事の音だよージョージのサウンドですよコレはー」って頭の中で馬鹿っぽく呟いてみても気を紛らわせないくらい、やっぱえっちぃの。音が。
何と表現したらいいかわかんないから、皆さんお持ちのジーンズを脱いだりして気分だけでも味わってください。
座ったまま、途中腰を少しだけ浮かして、ジーンズを脱ぎ取る。そっちは結構乱暴にぽいっとベッドの上に放り投げてた。
後、何が残ってるって?
正解! パンツでーす!
ブリーフ派とトランクス派? 男同士の派閥のことなんて、わたくし存じ上げません。ともあれYが着用してたのは、黒が基調のトランクスでした。
でもね、ぴったり密着してない方のトランクスでもね、わかるの。
勃起してやがるなって。
目算で、私とYの距離、1.5メートル。そう近いわけでもないし、細部をまじまじと見れる距離ではない。
あーどうしよ。これどうしよ。どう収拾付ければいいの。
脱いだら着ればいいじゃない! 時を巻き戻せ! ほらほら一人でお着替えできるかなー? まずはYくんがポイしちゃったジーパンをねー、んしょんしょって履いてみよっかー。
ごめんこれ以上は無理です私がパンクします、って言いかけたその時。
Y「ごめん、ちょい無理」
え?
と、Yを見れば、何か涙目で、でもこの上なく嬉しそうな、いやむしろ恍惚とした表情みたいな、あんた何その顔、って思ったら。
Yはダッシュでお風呂場に駆け込んでいった。
え、ちょ、Y? Yさん? 何事?
急展開に頭がついていかない。混乱して立ち上がりかけた私の耳に、聞こえてくる微かな声。
押し殺した声が、それでもお風呂場という反響しやすい空間のせいで漏れてくる。オォウ兄さん艶っぽい声出しやがって……そんなに辛抱たまらんかったのかい……?
なーんて下衆な部分が反応するけど、ものすっごくホッとしてた。終わった。あの呼吸すらままならない張り詰めた緊張の糸が、切れた。
数分後、Yは満足そうな笑みを浮かべて戻ってきた。パンツ一丁で。
脱いだ時のまどろっこさは何だったんだってくらい事務的に、スピーディに服を着ていく。
すっかり元通りのYに、「どうだった?」とにんまり笑いながら訊かれる。
「……淫猥」とかろうじてコメントを出すと、その響きが気に入ったのか、その日はずっと「いんわい。いんわいかー」と繰り返し口にして御満悦だった。