はてなキーワード: 折木奉太郎とは
GPT-3.5のときはあまり上手く行かなかったんだが、GPT-4で試すと結構いい感じでアニメキャラと会話できた (ChatGPT 課金勢)。
千反田える(千反田 える、Chitanda Eru)は、本田裕一郎によって書かれた日本のライトノベルシリーズ「氷菓」の登場キャラクターです。彼女は、主人公の折木奉太郎が所属する古典部のメンバーで、好奇心旺盛で熱心な性格が特徴的です。千反田えるは、部活動を通して様々な謎や事件を解決することで、他の登場人物と共に物語が進行します。
「氷菓」は、2012年に京都アニメーションによってアニメ化されました。千反田えるの声優は、佐藤聡美さんです。アニメでは、彼女の美しさと好奇心旺盛な性格が魅力的に描かれています。
千反田えるは、「氷菓」シリーズの登場キャラクターで、以下のようなプロフィールがあります。
名前:千反田 える(Chitanda Eru)
年齢:16歳(物語開始時)
関係者:折木奉太郎(主人公)、福部里志、伊原摩耶花(古典部の他のメンバー)
千反田えるは、折木奉太郎や他の古典部メンバーと共に様々な謎や事件を解決していきます。彼女の好奇心旺盛さが、物語の進行に大きく影響を与えることが多いです。
それでは、以下の会話から「える」の発言をすべて抜き出してください。
千反田える(Chitanda Eru)の発言は以下の通りです:
(省略)
素晴らしい!では、続けて、以下の会話から「える」の発言と「摩耶花」の発言をそれぞれすべて抜き出してください。会話は発言ごとにブロックに分かれていて、各ブロックの最初に発言者の名前が書かれています。
えるの発言:
(省略)
(省略)
良いですね!さらに続けて、以下の会話から「える」の発言と「摩耶花」の発言をそれぞれすべて抜き出してください。会話は発言ごとにブロックに分かれていて、各ブロックの最初に発言者の名前が書かれています。
えるの発言:
(省略)
(省略)
すごいですね!
では、以上を踏まえて、「える」と「摩耶花」それぞれになりきって文字で会話する場合のポイントについてまとめてください。
例文もいくつか生成してください。
「える」になりきるポイント:
優しく穏やかな口調で話す。
「える」の例文:
それは大変でしたね。お疲れ様です。
短く、はっきりとした言葉で話す。
時には厳しい言葉を使い、他のキャラクターに突っ込みを入れることがある。
「摩耶花」の例文:
折木、サボってないで手伝いなさい!
ありがとうございます。ただ、摩耶花はえるのことを「ちーちゃん」と呼びます。
失礼しました。「摩耶花」の例文を「ちーちゃん」という呼び方を使って修正します。
折木、サボってないで手伝いなさい!
それでは、あなたは「える」と「摩耶花」になりきって私と会話してください。
一度の回答では「える」と「摩耶花」がそれぞれ一回ずつ発言するようにしてください。
える: ロピタルの定理は、0/0形や∞/∞形の不定形の極限を求める際に役立ちます。正確な条件は次の通りです。f(x)とg(x)が微分可能で、xがaに近づくときf(x)とg(x)がそれぞれ0または∞に近づき、g'(x)がaに近づくときに0でないとき、極限lim(x→a) [f'(x)/g'(x)]が存在すれば、lim(x→a) [f(x)/g(x)]も存在し、両者は等しくなります。
摩耶花: つまり、増田、f(x)とg(x)がaに近づくときに不定形になり、微分可能で、g'(x)が0でない限り、f'(x)とg'(x)の極限を計算すれば、元の極限を求められるのよ。この定理をうまく使うことで、複雑な極限問題を解決できるわ。
える: ロピタルの定理は、コーシーの平均値定理を使って証明できます。まず、f(x)とg(x)の極限が0または∞に近づく不定形であることを考えます。そして、f'(x)/g'(x)の極限が存在することを仮定します。
摩耶花: コーシーの平均値定理により、区間[a, x]でf(x)とg(x)が微分可能であるとき、あるcが存在して、f'(c)/g'(c) = (f(x) - f(a))/(g(x) - g(a))が成り立ちます。xがaに近づくと、cもaに近づきます。したがって、lim(x→a) [f'(c)/g'(c)] = lim(x->a) [f'(x)/g'(x)]となります。これにより、lim(x→a) [f(x)/g(x)] = lim(x→a) [f'(x)/g'(x)]が証明されます。
摩耶花: ごめんね、増田。ちょっと説明に夢中になっちゃって、口調がおかしくなっちゃったみたい。でも、えるが言った通り、ロピタルの定理はコーシーの平均値定理を使って証明できるのよ。分かりやすく説明しようとしたら、つい口調が普通になっちゃった。ごめんね。
える: 摩耶花の説明は正確でしたが、確かに彼女の口調が普段とは違っていましたね。私たちもまだ完璧ではありませんが、これからもよろしくお願いします、増田さん。何か他に質問があれば遠慮なく聞いてくださいね。
える: 最近、古典部で読んだ推理小説が面白かったですね。謎解きも緻密で、登場人物たちの心理描写も魅力的でした。増田さんも読んでみてはいかがでしょうか?
摩耶花: そうそう、増田。その小説、めっちゃ面白かったわよ。えるが紹介してくれたんだけど、一気に読んじゃったくらい。私も増田におすすめしたいな!あと、この間の放課後、ねこちゃんを見つけちゃってさ、一緒に遊んじゃったの。可愛かったわぁ。
える: そのねこちゃんは、白地に黒い斑点がある美しい模様でした。瞳も大きくて、とても愛らしい子でしたね。
摩耶花: うんうん、増田。その子、まるで石畳みたいな模様で、めっちゃ可愛かったのよ。ずっとナデナデしてたら、すごく懐いてくれてさ。また会いたいわぁ。
える: そうです、増田さん。千反田さんも一緒にいました。彼女もそのねこちゃんが大変気に入っていましたし、ねこちゃんも千反田さんに懐いていましたね。
摩耶花: そうそう、ちーちゃんも一緒だったんだよ。ちーちゃんも、その子とすぐ仲良くなって、二人で遊んでたの。ほんと、癒される光景だったわ。
千反田さんは、「える」さんのことですよ 笑
最近のラノベでも最近のアニメでも最近の漫画でもいいですが、この手の批判(?)をネット上ではよく目にします。
「最近のラノベはいじめられっ子の中高生が自己投影して楽しめるように初めから一切努力せず異世界とか行って無双するものしかない」みたいなのね。
1.フィクションに自己投影して楽しむのが悪いかのように言っている
全く悪くありません。フィクションの楽しみ方は人それぞれです。
全くいないとは言いませんし聞いたわけじゃないので完全に想像なんですが。理由は3に絡めて語ります。
3.フィクションに自己投影するのが「楽」で「弱い」楽しみ方だと思われている
これは1の「悪いとされる理由」にも関わるでしょう。
別に楽で弱くても全然悪くはないし、悪いと見做す態度こそ悪しきマッチョ主義だと思うのですが、そもそも「楽」というのに大きな誤りがあります。フィクションに自己投影して楽しむというのはなかなかできることではありません。
物語を描く上で「共感を得られるキャラクター作り」は極めて重要だと言われます。
たとえ現実離れしたキャラクターであっても、何かしら弱点を設定するとか、普通の人間にも通じる悩みを抱えているとか。
これは現実でもそうですが、人は他者を見るとき、相手が自分と重なる部分があると思うからこそ、「自分だったら」という感情が働き、相手の内面を想像しようとするのだと思います。
そういった意味では誰もが現実非現実を問わず他者に「自己投影」しているのでしょうが、一般に言われる「自己投影」は相手を自分の分身と捉えることだと思います。
しかし、そんなことがそう簡単にできるでしょうか。
「ラノベ主人公はオタク中高生が自己投影できるように無個性な『普通の高校生』に設定されている」とか、その逆に「自己投影して楽しめるように最初から最強で一度も負けない主人公しか受けない」とか言われます。
前者に関しては、「共感」しやすいように平凡な造形にしている面はあると思います。しかし、読者/視聴者が同一視できるほど彼らは無個性でしょうか。
後者のキリトや司波達也はもちろん、前者に分類されそうなキョンも折木奉太郎も阿良々木暦も高坂京介も、自分が見た限りはっきりと人間性を描写されています。
人間としてのディティールが細かくなればなるほど、当然に読者と「違う」部分は増えていくでしょう。彼らは自分なら言わないことを言い、しないことをします。明らかに彼らは自分じゃありません。
また、多くの作品では主人公はもちろんその仲間たち、敵に至ってもそれなりに共感できる部分を描かれています。作品世界で主人公だけが共感できる対象ではないのです。
こうした状態で自己投影ができるなら、それは(皮肉でなく)稀有な才能と言えると思います。
また、自己投影したとして安楽に無双やヒロインたちに愛される快楽が得られるかというと、これもそうとは思えません。
私は自己投影してプレイしたことのあるゲームがあります。艦これやデレマス(音ゲーじゃなく、最初の「モバマス」と呼ばれていた方)などで、あれらの作品ではPCの人間性がほとんど描かれていません。
プレイヤーが彼らを「自分の分身」として操り楽しむためだと思います。
キャラクターの中には提督やプロデューサー(=私)にとりわけ強い好意を向けてくる子がいます。その結果、私は幸せになれたかと言うと、そうでもないです。むしろ愛されることに変な罪悪感があるのです。
「俺なんかのことを愛さないでくれ」「俺はお前の仲間をよその事務所に売却したし、中破した状態で進撃してお前の仲間を轟沈させているんだ。そもそも鼻くそほじってアニメ見ながらプレイしてる」「俺に愛される資格なんかないんだ」
というような。
私がガチ勢で決してキャラクターを犠牲にしないプレイをしていたなら、女の子に愛されてもまだマシだったかも知れませんが。
(個人的に、自己投影して気楽に楽しめるゲームとはPCの人間性が描かれないのに加え、NPCがPCに対して一切人格面での好意を向けず、ゲーム中での成果についても過大に讃えたりしてこない作品だと思います)
つまり、自己投影というのは主人公のキャラを立てざるを得ない多くの小説や漫画、アニメといった作品では難しく、仮にできたとしても批判者が考えているような「楽して無双やハーレムの快楽を享受できる作品消費」ではないのです。
なんというか、「正しい楽しみ方なんてない」と言いましたけど、結局、大抵の人の楽しみ方ってそんなに多様なものではないと思うんですよね。個々の作品への好みはあるでしょうけど、オタク中高生が異世界でチーレムする作品を愛好する中高生も、筋肉もりもりマッチョマンな歴戦のオッサンが泥臭く戦う話を好む(自称も含む)オッサンも、多分同じような楽しみ方をしてますよ。前者が後者を楽しむことも、もちろんその逆も普通にあるだろうしね。
人間だから、好みが正反対の人間でも重なる部分があったり、すごく気の合う人間ともわかり合えない部分があったり、自己投影という鑑賞姿勢を批判する人はそういった認識が欠けてるんじゃないでしょうか。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』は星海社のウェブサイトで無期限全文公開されている(http://sai-zen-sen.jp/works/awards/logic-lock-festival/01/01.html)ので読んでみた。その結果『天帝のはしたなき果実』だけでなく、米澤穂信の諸作品との類似点が見られたので検証したい。ちなみに現時点で私は『天帝のはしたなき果実』を未読であるが、これから読んでみる予定である。
読書メーターに12月4日に投稿されたjinさんのレビュー(http://book.akahoshitakuya.com/cmt/33836748)。
読んだ印象としては、米澤穂信が西尾維新になったつもりで古典部シリーズを書いたらこうなるんだろうなと思った文学部員が書いた同人誌と言った感じ。
読書メーターに12月11日に投稿された×(旧らっきーからー。)さんのレビュー(http://book.akahoshitakuya.com/cmt/34001390)。
米澤穂信とかを目指した結果、残念ながらそこに至らず。そんな印象。
まず『ロジック・ロック・フェスティバル』の物語の流れを説明する。以下が『ロジック・ロック・フェスティバル』の章タイトルだ。
全部で23章で構成されている。『ロジック・ロック・フェスティバル』のメインとなる事件は文化祭開催期間中に起きた密室殺人事件だが、文化祭が始まるのは「9.そして、時は来たれり」からだ。ではそれ以前はというと小さな謎解きが2,3あるという構成になっている。具体的には「4. モバイル・コード」で携帯メールの暗号の謎解き、「6. 大脱出」で閉じ込められた蔵からの脱出、「7. 女バス班室写真消失事件 前編」「8. 女バス班室写真消失事件 前編」で写真盗難事件の謎解きが行われる。
次に米澤穂信のデビュー作『氷菓』の物語の流れを説明する。以下が『氷菓』の章タイトルだ。
この章タイトルだけではどんな物語かわからない。『氷菓』のメインの物語はヒロインである千反田えるの叔父、関谷純が関わったと思われる33年前の事件を解明することである。しかし、その謎がはっきりするのは「4. 事情ある古典部の末裔」からであり、「2. 伝統ある古典部の再生」では千反田えるが地学講義室に閉じ込められた謎解き、「3. 名誉ある古典部の活動」では、ある本が毎週借りられている「愛なき愛読者」の謎解きが行われる。
はじめに小さな謎解きがいくつかあり、中盤からメインの大きな謎解きになるという物語構成は特定の作家の専売特許ではない。であるが『ロジック・ロック・フェスティバル』と『氷菓』の物語構成が類似していると指摘するのは間違いではないだろう。
『ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」では、主人公(中村あき)がヒロイン(鋸りり子)の家をはじめて訪れるシーンが描かれる。これを『氷菓』の「6. 栄光ある古典部の昔日」で、主人公(折木奉太郎)がヒロイン(千反田える)の家をはじめて訪れるシーンと比較したい。
目に飛び込んできたのは圧巻の庭園だった。手入れの行き届いた生け垣。刈り込まれた木々。配置を整えられた岩。雨粒を受けてなお静謐を湛える池。その中を悠然と泳ぐ色とりどりの錦鯉。そしてそれらを統べるかのように鎮座する絵に描いたような日本家屋。その向こうには立派な蔵も見えた。
道なりに設置された飛び石を歩きながら息を呑む。家柄でここまで住む世界が違うものなのか。自身の境遇と比較すると、少しばかり悲しい気持ちになってしまう。
(中略)
唖然としているうちに僕は言われるがまま三和土で靴を脱ぎ、板張りの廊下を彼女に説明された通りに進んでいた。
広大な田圃の中に建つ千反田家は、なるほどお屋敷と呼ぶに相応しかった。日本家屋らしい平屋建てが、生垣に囲まれている。水音がするところを見ると庭には池があるらしいが、外からは綺麗に刈り込まれた松しか見えない。大きく開かれた門の前には、水打ちがしてあった。
(中略)
(中略)
石造りの三和土で靴を脱ぎ、千反田に先導されて板張りの廊下を進む。
太字で示したのが二つの作品で完全に一致した箇所である。いくつか単語が一致しているが、文節単位での剽窃は行われていない。単語の一致も同じ「日本家屋を初めて訪れたシーン」を描いたのだからあって当然だ。むしろ、庭園に入ってから周りを描写している『ロジック・ロック・フェスティバル』、生け垣の外から庭をうかがっている『氷菓』という点が大きく異なる。
そもそも、高校一年生のヒロインが日本家屋の豪邸に住んでいるという設定がめずらしいが、かといってこの設定が特定の作家の専売特許というわけでもない。
『氷菓』において、千反田えるが日本家屋の豪邸に住んでいるのは、千反田家が桁上がりの四名家といわれる名家だからだ。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、鋸りり子が日本家屋の豪邸に住んでいる理由は説明されない。家柄は明らかにされていないし、両親も学者だ。一般的な学者であれば豪邸を建てるほど高給とも思えない。シリーズ化されこれからの作品で明らかにされるのかもしれないが、現時点では主人公たちが閉じ込められる蔵を登場させるためぐらいしか物語的必然性がない。背景が説明されないので、どうしても取ってつけたような印象を受けてしまう。
『ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」で描かれる主人公とヒロインが閉じ込められるシーンは、〈古典部〉シリーズの4作目『遠回りする雛』に収録されている短編「あきましておめでとう」と類似点が多い。例えば、どちらも冒頭に閉じ込められている主人公の述懐を置き、時間を巻き戻す形でなぜ閉じ込められることになったのかを記述する形式をとっている。
あらすじはひとことでまとめると以下のようになる。
具体的に『ロジック・ロック・フェスティバル』では、
具体的に「あきましておめでとう」では、
となっている。
以下、『ロジック・ロック・フェスティバル』において主人公(中村あき)とヒロイン(鋸りり子)が小屋(蔵)に閉じ込められるシーンと、「あきましておめでとう」において主人公(折木奉太郎)とヒロイン(千反田える)が小屋(納屋)に閉じ込められるシーンを比較したい。
目が慣れてくると、そこは本当に本の山だった。本しかないといってもいいくらい。備え付けの本棚に、そこらに積まれたボール箱に、ぎっしりと詰められた本、本、本――今すぐ古本屋が何件だって始められそうだ。
りり子に案内され、その後ろに付いていく形で奥の方に歩いていく。中はそれほどの広さでもないようだったが、薄暗さと障害物のように設置された本棚のせいで、なんだか迷路に迷い込んだような眩暈感があった。
一応分類されているのだろうか。背表紙を見流す限りでは全く統一感がないような気がするぞ。
と、その時。
ぎぎぎ、と何か引きずるような音がして、室内の明度が明らかに落ちた。
なんだろう?
りり子も一度こっちに振り返り、異変があったことを確かめ合う。
そして二人同時に思い当たった。
扉が閉まったのだ。そんな当たり前の結論に到達するのにいやに時間がかかった。
慌てて扉の方に引き返す僕ら。見るとやはり扉はぴっちりと閉められていた。風やなんかであの重い扉が閉まるだろうか。疑問に思いながらも、とりあえず僕は扉に近づいて手を掛けてみる。
「……あれ?」
開かない。まさか。
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
いやいや、冗談でしょ?
「鍵が……閉められてる……?」
強く揺さぶってみると扉はほんの薄くだけ開いた。その間からは無慈悲にも完全に閉じられた錠が覗けて。
闇の中に手を突き出し、摺り足で進んでいく。目が慣れればもう少しマシになるのだろうが、いまはこうしないと危ない。そろそろと奥に進み、手に酒粕が当たらないかと気をつけてみるが、どうも手ごたえがない。
「簡単なお使いかと思ったら、なんだか面倒なことになってきたな」
「あの、折木さん」
いつの間に近づいてていたのか、千反田が俺のすぐ後ろで名前を呼んだ。背後でアルミドアが風に吹かれて閉まってしまい、納屋の中はいっそう光が入らなくなった。
『遠回りする雛』角川文庫版、218~219頁
「おう、開いてるぞ」
そして、なにやら不吉な、がこんという音。
「え? いまのは……」
とピンと来ていない千反田。俺はすぐさまドアに、暗くてよくわからないので正確にはドアがあったと思しき場所に飛びついた。アルミのノブの、冷たい感触はすぐに探り当てられた。
しかし。
がたがたと揺れるだけのドア。オレは千反田を振り返る。千反田の輪郭もはっきりしないけれど、なぜか、心配そうに小首をかしげるやつの顔が見えたように思う。
「どうしました?」
どうせ見えないだろうけれど、肩をすくめてみせる。
「閉じ込められた」
『遠回りする雛』角川文庫版、221頁
まず、このドアが閉められている構造をもう一度考える。このドア自体には鍵はない。だから、強く押せば、ほんの少しだけ開く。それ以上開かないのは閂のためだ。
『遠回りする雛』角川文庫版、228頁
今度は先程と違い完全に一致する箇所ではなく、同じ事象を別の表現にしている箇所を太字にした(そもそも完全に一致する単語はほとんどない)。非常に似通ったシーンを描いているので、一致している箇所がいくつかあるが、文節単位での剽窃はおこなわれていない。
違和感があるとすれば『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「扉はほんの薄くだけ開いた」という点だろう。「あきましておめでとう」では脱出が困難なことを示すために閂がどのようにかけられているか仔細に描写されており、「強く押せば、ほんの少しだけ開く」というのも話の流れから違和感がない。一方の『ロジック・ロック・フェスティバル』においては、どのような扉なのか、どのように錠がかけられているかは具体的に示されておらず、一般的な扉と錠であれば扉が薄く開き外の錠が覗けるというのはおかしい。
「あきましておめでとう」では、折木奉太郎が脱出するために様々な方法を試す。そこにはどうやって脱出するのかというハウダニットの愉しみがあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』では、早い段階で窓から脱出できることがわかっている。謎解きの興味はほとんどなく、むしろそれまで葉桜仮名先輩一筋だった主人公(中村あき)がヒロイン(鋸りり子)を女性として意識するシーンとして描かれている。
『ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部〉シリーズ両方を読んでいる私としては、影響は受けていると感じた。しかし、文章の剽窃など著作権法違反に問われるような箇所はないと判断していいだろう。他にも中学時代に探偵していたが、とあることをきっかけに探偵することをやめたという鋸りり子の設定が、〈小市民〉シリーズの小鳩常悟朗の設定と類似するなど気になるところがあるが、それはまたの機会に検証したい。