はてなキーワード: 必然性とは
ぶっちゃけコンビニみたいに数百円の買い物しかしない上に買い物袋も持参しない客に、丁寧な接客をする必要も必然性もないよ。つり銭とか投げ捨てて渡してやるくらいでいいくらい
なるほど。意見は一旦受け止めた。
それならば、そのように伝えればいいだろう。
「事実」は今まで日本社会でそのような形でここまで運営されてきた、ということだ。
お前がそれは間違ってる、どうのこうの、等と言ってもその「事実」の前には単なるお前の「意見」にしか過ぎない。
逆に言えば、「事実」は人を確実に納得させられるものではない。
「事実」はそれまでの経験則であって、100%正しい、というものではない。そんなものは存在しない。
上の薬の例でも、究極的に素粒子反応まで完全に理解する、という事実がない限り(そうであってもその先にさらなる不定性があるかも知れない)
100%誰かを納得させることなんて出来ないのは承知の上である。
例えば仕事で何か役割を振るとき「なぜ必要なのか」を問われたら答えられる必要がある。
それはわかる。もちろんわかるが、このようにやってきた結果、
今までこれくらいの売り上げがあったから、やってみてくれ、と言えばいいだろう。
ただ、必ずしもそういう全体的な答弁ばかりになるはずもない。
あるプロジェクトがあってそのための仕事がある。それらは小さく分解されていて、有機的につながっているはずだ。
例えばコピー取りにしたって、何かの会議で必要だからとるわけだ。
何も伝統でコピーするのが決まりになっているわけではないだろう。
意味があってやっているはずだ。
というのと、
「とにかくやれ」
というのでは聞く側の受け取り方が異なるだろう。
前者なら、「なるほど。だから迷惑をかけないようにちゃんとやらなければ」と思うだろうし。
後者なら「なんでやんなきゃいけないんだよ」と思うだろう。
言いたいのは、必然性があってやっている事を「伝統」だからという言葉で「何も考えず」片付けてしまうことが問題なのだ。
https://twitter.com/makotosaito_v3/status/278295239465254914
(専門家として)社会に必要なインフレ目標はゼロ金利離陸後に導入すべき。ゼロ金利時導入では、期待インフレ・名目金利の上昇で滞留日銀券を日銀が回収せざるをえず、大規模売りオペか準預高利付与で資金捻出(厳しい引き締め政策)する必要が生じるから。
https://twitter.com/makotosaito0724/status/400035025648775168
金融調節で政策金利を誘導する状況と、貨幣市場の需給均衡で市場金利が決まる状況は、経済理論ではかなり前から厳密に区別されている。日本の金融論の教科書がその区別に無頓着だっただけ。ナンチャラ論争も無頓着の表れ。『金融技術の考え方・使い方』『NLAS マクロ経済学』では区別している。
インフレ期待が上昇すればタンス預金をしてたら勿体無いのでタンスから日銀券が掘り起こされて、一部は消費に回され、一部は銀行に行くってのは分かる。
消費に回った分はその支払を受けたお店が、インフレ期待が高くなればお金のままでは持っていたくないのでやはり使うか銀行に持っていくだろうというのも分かる。
そして、消費者やお店から日銀券を持ってこられた銀行もインフレ期待が高くなった状態では目減りする日銀券のままで持っていたくないので、最終的には国債に投資しようとするだろう。
しかし、市場にある国債の量は銀行が国債を欲しくなったからといって増えたりはしないので(他の銀行だって日銀券よりは国債を持っていたいのは同じ)、
銀行は日銀券を日銀に返す代わりに、日銀の保有する市場に出ていない国債を貰おうとする、ここまでは分かる。
一つ目は、仮に日銀が、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換したとして、確かに売りオペが起きていることになるがこれは引き締め効果を持つのか?という点。
銀行はタンス預金から蘇って持ち込まれた日銀券を国債と交換しているが、これによってどこかの企業にしていた融資を回収にまわったり、あるいは予定していた融資を減らしたりする必要はない。
また、銀行による国債への需要増に応じた分だけ日銀が国債を市場に供給するに留まるので、国債価格低下(金利上昇)ともならない(なる必然性がない)。
(インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下(金利上昇)は起きるだろう。垂直な市場への国債供給曲線に対して需要曲線が左シフトする。それはタンス預金やそれの日銀による回収とは関係なく起きることである。)
上記の話は、日本銀行がバランスシートが縮小することを嫌って準備預金の付与金利を引き上げて対処した場合も基本的に同じである。銀行が融資を減らしたりすることはない。
二つ目は、そもそも日銀は、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換する義務があるのか?という点。
日銀は銀行から国債を売ってくれと言われた場合に、果たしてそれに応じる義務はあるだろうか。無期限の負債であるというのが、日銀券の大きな特徴なはずだ。
確かに市場価格は大切だ。日銀が市場価格と乖離した高い値段で国債を購入することには問題がある。利益供与行為だ。しかし、日銀が市場価格を提示されたからといってそれで国債を売らなければならない義務はないはずだ。
日銀が銀行券を引き受けてくれないとなれば(日銀券と国債の交換に応じてくれないとすれば)、銀行はインフレ期待が高くなった状態では目減りする現金を持っていたくないので、何らかの形で使うしかなくなる。
そして、それを受け取った人も同じくそのほとんどを使うしかなくなり、そしてまたそれを・・・と続くことになる。いわゆるホットポテト効果である。
最終的には経済活動が活発となってそれによりGDPが増え、取引需要が増えて必要とされる日銀券の量が増え、タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に需要されるところまで経済規模が拡大することになる。
このようなケースでは、厳しい引き締め政策となるどころか、タンス預金の存在は非常に景気刺激的なものとなる。
確かに、この二つ目のケースは危険をはらむ。タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に人々や企業に持たれるほど取引需要が増えるまでGDPが上昇する前に、供給力が限界になるパターンが考えられるからだ。
この場合、インフレが昂進するだろう。しかし、これは経済が活況過ぎるということなので引き締め策が求められることになること自体には何ら問題はない。
問題があるとすれば、インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下が大きくて、売りオペを十分にするだけの見合いがないという点になるだろうが、
これは滞留日銀券を日銀が回収するための大規模売りオペが厳しい引き締め政策になってしまうという議論とは明らかに異なる。引き締めが出来ないという問題だからだ。
しかも、滞留日銀券にともなうその問題を抑えるだけなら、銀行の融資を抑制したりしない日銀券と国債の交換という一つ目のパターンを重視するだけでいい。
うーん、期待インフレ率が高まれば滞留日銀券の日銀還流で強制的に引き締めが起きるから、利下げでその影響を相殺できないゼロ金利時には期待インフレ率を高めるな、って論理はまったく分からん。
今年のNSC(吉本のお笑い養成所)の入学者数は東阪合わせて約800人。
そのうち何人がお笑いで飯を食えるようになるのか知らないが、おそらくその多くは「お笑いが好き」だから芸人を目指したのだと思う。
でも、今の時代、わざわざプロを目指さなくとも、ネット上でいくらでも自分の面白さを人に発信できるはずだ。
大喜利がやりたければTwitterで面白いことをツイートしフォロワーを増やせばいいし(恐山なんかはその典型だろう)、文字だけで物足りないならYouTubeやニコ生で発信すればいい。現にそういったネット界でのちょっとした"人気者"はたくさん出てきていて、それは"お笑い"という既存のジャンルの枠組みには必ずしも当てはまってはいないが、テレビのみが娯楽のほぼすべてだった時代に比べるとその多様性はすごく増した。
そんな時代にあって、彼らがわざわざお笑いの養成所に入る理由とはなんだろう?
私の勝手なイメージを膨らませると、彼らの大多数はまずネット文化にあまり馴染みがないのだと思う。
一部の老人の見立てと違い、いまの若い人は全員がネットに熱中しているわけではないし、ネット用語で言うところの"DQN"や"リア充"とでも呼ばれるような、非バーチャルな現実社会のコミュニティ(地元や学校の友達など)こそが自分の居場所だという「旧世代からの常識的な生き方」をしている人がやはり多数だ。
ネットばかりしているとその事実をつい忘れてしまうが、僕らはバーチャル空間に生きているわけではないし、少なくとも肉体はこの現世に存在している。幸か不幸か僕らはこの忌々しい社会システムの上でしか満足に生活を送ることができないのだ。
一部の若者がNSCに行ってしまう原因の1つには、そもそもそういったネットの可能性があることをあまり知らない、あるいは知っていてもあまり興味を持っていない、ということが大きいのだと思う。
そしてもう一つ、プロのお笑いを目指さなければいけない理由があるとすれば、それはやはり「スターになれるから」ではないだろうか。もちろんNSC(あるいは類似する養成所)の生徒の中にはネットを自分の基盤とし、まとめブログを読み、ニコ生の可能性を知り、Twitterやブログで自分の思いを発信していた人も少なからずいるだろう。
しかしTVなどの旧メディアに比べると、ネットというのはまだまだ発展途上だ。あるいはもう限界が来ているという見方すら出来るかもしれない。各自が好きに情報を取捨選択し、パーソナライズされてしまうこのシステムの中では、インターネットはどうしても自分本位の世界になりかねない。
マスメディアの在り方こそが正しいとは口が裂けても言わないが、少なくともネットに比べれば限りなく一元的で最大公約数な価値を提供していることは確かだ。
「TV界のスター」に比べれば、インターネットの人気者はやはりあまりにニッチすぎる。「明石家さんま」や「ダウンタウン」を知らない日本人は少ないが、うちの祖母は「ダ・ヴィンチ・恐山」なんて絶対知らないし、個人的にはニコ生界のスターなんて名前すらわからない。
そこに個人的嗜好を超えた善し悪しをつきつけるつもりはない。ただ純粋な事実として、そこには明確に規模の違いがある。一番の根本的な差は、彼らの活動がお金の発生するビジネスであるかどうか、即ちプロかどうかという部分だ。
もちろんテレビの衰退なんてものが叫ばれる中、インターネットの可能性にかけるのも悪くない。しかしこの世界はまだまだ黎明期であって、たとえばニッチな方向に行ってもそれ以上の発展はないし、なにかしら盛り上がりがあったとしても、今のようなムーブメントはいつ消え去ってもおかしくない。そんな道を目指してしまうと、いつのまにか砂上の楼閣が崩れさって、砂漠のまっただ中で迷子になってしまうかもしれない。
どちらにしろ、若い彼らがなぜプロを目指すかと言えば、"お笑い界の頂"には他では見られない景色があるからだろう。
わかりやすく言えば、金は儲かるし、人にちやほやされる。そして社会に影響を与えられるような存在にまでなる。何よりもTVに出てるお笑い芸人はとても楽しそうに見える。
しかし既にお笑い界は飽和状態、新しい人材をわざわざ求めるほどの理由がない。
世に出るための第一歩として、まずネタで評価されるというのが芸人の王道だが、たとえば代表的なピン芸(一人芸)に見られる「フリップネタ」なんて、Twitterでネタツイートしてるのと何が違うのか。
別にフリップに限らずそれは言える。たまたまお笑い産業という物があるからその中で職業として追求できる余地はあるが、初めにも言った通り、もはや今の時代その枠組みに入っていかなければならない必然性も低い。
つまり僕はお笑い養成学校の生徒なんですけど、こんなことしてていいんでしょうか?
もっと今までにない別のルートで世に出た方が、より自分のやりたいことを追求できるんじゃないか?
たとえば「バラエティ的な価値観が全てじゃない」と世の学生に伝えるにしても、もっと他の方法があるんじゃないだろうか。
でもやはり、よりポピュラリティの高い地位を獲得することで、容易に(もちろんしがらみはあるんでしょうが)自己表現が達成されそうだという期待がある。
松本人志という人が自分の撮りたい映画を撮れてるのって、そういうことじゃないですか。
すごい叩かれてるけど。
……何も映画監督になりたいと言ってるわけではないんですよ。
同じネット上で活動するにしても、ネット上の有名人か、ネットに限らない有名人かというのは、よくも悪くも、かなり大きな差があると思う。
そして僕は後者を選択したい。
しっかし、まったくもって感動のない商品ですね。
なんか、appleが面白くない企業になったのは、今にはじまった話ではありませんが、
電子書籍ぶーむ とはなんだったのだ。
なんかどこも似たようなものばっかりだしやがって
何か 全体的にダサい ておもうのは、僕の主観・感性なんだろうか?
じゃあ、お前もっとカッコイイものつくってみろよ!ていう話は、どっかの棚の引き出しにでもいれておきます。
音が良い。ていうのに対して反論する人は、低音が・・・
とかそういう話かもしれないが、以外と
もっと、カッコイイスピーカーていうのは、でてくるのかもしれない。ておもったんだ。
やったら高い、100万とかするような高級スピーカーとかじゃなくて。
美しい機械からの方が、美しい音がでそうだ。ておもうのは、たぶん、間違いじゃない。
は、appleに市場を破壊されて、淘汰されたり、新しくされて
変革の時期。まあ、そんなのいわなくても、今更書かなくても誰でもわかるわ。ておもう。
パッとしないよね。
あと、誰も突っ込まないから言いたいんだけど、
PS4、個人的にはあまり期待していないが、
ある程度は、売れるんだろうなぁ。
PS3ぐらいは、売れるんだろうか。
だけど、今後もそうかと思うか?て思えばそうでもない。
ス・ゴ・イ アイデアの種やら、デザインやらがあるて確信している。
だけど、会社全体なのか今と昔では社風が変わったのか知らないけど
外資が資本に入ってきた会社て何かコストカットして短期的利益をだしたり、していくうちに
長期的なものづくりしにくかかったり、上司の指示に従わないと、
査定が悪くて、半沢じゃないけど、出向とか、
よくわからないキャリアなんとかていう部屋に入って、自分の新しい転職先探せとか
結構厳しいていうか、
おいおい、女神転生じゃないんだよ。現実は、仲間はどこにいるんだ。
無理無理!て思って、独立したり、どっか別の会社に転職したり、
ひっそり、会社で波風立てずに仕事ができる人になってしまったりするのかなぁ
ていう事は、経営者だろ?社長だろ。 頭取は、一部の銀行だけみたいだな。
スティーブ・ジョブスじゃないけど、取締役会でクビになるぐらいの覚悟で、
多分いないだろうし、いない方がいい。
ただ、グローバル・地球全体で通じるようなものがでてきて欲しいておもう。
答えらしきものがでてくるとしたら、
同じようなものがでてくるていうジレンマていうか、必然性があるような気がしてしょうがない。
だからといってマーケティングがいらないかといえば、そうでもないともおもう。
ソニーのウォークマンて何か高校生ぐらいをターゲティングにしているのか知らないが
ただし、シリーズWは除く。あれて、走ったり、水泳もできるからも
ダッシュマンだよな。ておもうのは、俺だけか。
PSVITAは、子供向けぽくない。新型がやや大学生ぐらいのもんか?ておもわなくもないようなデザインになった印象。
DSi、Wii、3DSて万人向け【老若男女】ぽいデザインだな。ておもう。
なぜ、3DSLがでないのか、あの宣伝好きのI社長に問い詰めてやりたい。
まったく面白くないくせに、なぜか社長が恒例で開発陣にインタビューしている
話は変わって、ドスパラが、GooglePlayランキングから少し落ちてきた。
そろそろブーム終了のお知らせなんだろうか。
ダウンロードが減ってもプレイしている人が減らなきゃいいのかもしれないが。
という結論も起承転結もない文脈で終わりたい。
無くても死なないものは、無くなる時は速い。
当たり前だけど、
戦争がない今の日本は、花火のように散っていく流行が好きなんだと思う。
平和だよな。
もっとも、流行が散って、職を失い、希望を失い、絶望の中で死んでいく
じゃあ、中国、韓国、北朝鮮て平和なのか?て聞かれて、100%賛同する人てどれだけいるんだか。
合法的に民から、税や米、麦を強奪していく強欲な人達がいるのは、
有史以来変わらないんだろう。
何が言いたいんだか、わからなくなってきた。
だが、何か書いてて、認識が誤っている部分があるかもしれないが、
正しい認識を持つという事は、人として絶対的に正しいと思う。
わかった上で、正論を唱えるのか、その場で合わせるのか?
より高次元で考えるなら、正論を唱えて変化するのか?て考える方が得策だとおもう。
話がめちゃくちゃになりっぱなしのエントリー
ただし、庶民からは嫌われがちな人が使うお金の使い道てなんだろうな?
とかいろいろあるんだろうけど、
スイスの高級時計ていう選択があるんだな。ていう事をなんかテレビみてて思った。
オシャレなアイテム。
だけど、おもうに、やつら競争していない。
独走している。競争相手がいないじゃん!ロレックス・オメガとか。あんまり知らないですが。
どっちがいいて比べるものじゃないでしょ
てすげーおもう。
さっき、書いたことと矛盾してるのかもしれない。
日本は、ごちゃごちゃしているところから、秩序のある街から、様々だし、
プライドないのかよー
ブラックジョークいうなら、
の対は
あまくだり
かもしれない。
というか、スポーツて見てて面白いてあんまり思わないからかもしれん。
東京オリンピックをしている最中に、何か別の事をしていたいとおもうタイプだ。
合間、合間の暇そうな時とかに・・・
以前は、面白い事したいて思っていたが、
カッコイイ事したいて同時に思う。
その合反しそうなところで両立できれば、
きっと、新しい何かがでてくる
特に男なら
ておもう。
終わってないでしょ。
「なんで?」より適切なフレーズとして認められたワードは出てないわけだし、そういうフレーズがあるともないとも結論が出ていない。
・そもそも注意喚起をするレベル(初めてのうっかり、もしくは年に一回レベル)なら「注意しろよ」で終わって良い。
・多発するようならばメモやカレンダーなどの具体的方策を一緒に考える
・部下自身に改善策を提案させてそれをチェックするのも良い
ではダメなの?
そもそも、対応策が「フレーズとして認められたワード」でなければならない必然性ってなんなの?
http://anond.hatelabo.jp/20130903091459
数日前でしょうか、ITメディアでドランゴが女子マネ&弁当作戦でエンジニアさん達の早朝出勤を促していると聞いて、
面白いアプローチだなぁと関心してたのですが、はてぶコメ見てたら「女性差別」とか「気持ち悪い」とか
中には「これ法律違反してね?」とかとにかく不評コメが多くてびっくりした。
ドランゴの企業文化とか問題対処のアプローチの仕方とかいろいろ変わってて面白いなと脳天気にみてたんですが、
批判してるひとはネタで切れてるんでしょうか?それともマジギレなんでしょうか?
やめてくださいよ!
寒いんじゃ。
殺すぞ!
イメクラなりキャバクラなりはそれが好きなおっさんだけで連れ立って
僕は別にドワンゴで働いているわけじゃないですが、似たような業界で働いている身として今回のドワンゴの対応の内情とか勝手に想像して
(中略)
上記のように、
バッサリ中略させてもらいました。
結局主張の筋に必要なのってこの3行だけだよね。
(あんた「話のウエイト選択がおかしい」「お前の話は聞いてらんねえ」ってよく言われない?)
つまりはこれだけ、
元の記事読んだだけの他業種の人間でも「ドワンゴはエンジニアに早出社を求めてるんだな」ぐらいわかるよ。
そこで「なんで早出社求めるんだ!理由を言え!」なんて反論はついてねーだろ。
誰も聞いてねえポイントを長々語るんじゃねえよ。
エンジニアってのはお前のように焦点定まらない駄脳でも勤まるのか?
これで大抵のブラック企業でしたら残業についてはノーコメントのくせに午前10時までに出社しない社員には罰金とか
そういった罰則規定で早朝出勤を促そうとします。
でもまともな人なら「ふざけるな!」となりますよね。
そして優秀なエンジニアでしたらそんなブラックな職場にはおさらばしてグーグルやらFBなどの外資に転職すればいいわけです。
つまりドワンゴ側としては「エンジニアにはできるだけ早く出社してほしいけど、
でもそれは罰則による強制ではなく、本人たちが自発的に早く出社したくなるようなモチベーションを生み出す仕組み」が必要になってくるわけです。
この段も実はまるまる省略できたよね。
強いて書くにしても「エンジニアの早出社モチベーションをあげるために、」の1行でいい。
うん
だからよお
ドワンゴがエンジニアに早出社させたいのはわかってるし、別にそれはいいんだよ。
批判がついてたポイントはそこじゃないだろ?「早出社させようとするな!」じゃないだろ?
その”解決法”、手段が、キメエ・おっさん趣味・寒い・セクハラじゃん
て言われてたわけだろ。
早出社させたいのはわかった、
なんでそこで「女子マネ&お弁当」になるのか?って言われてんだろ。
焦点じゃねえとこにダラダラダラダラ20行近く使っておいて
じゃねえよ。
なにがどう「以上の理由により」なんだよ。
これっぽっちも繋がってねえし女子マネである理由の説明になってねえじゃねーか。
お前がドワンゴを擁護して批判に反論するなら
そこを述べないと話になんねーだろ?
はなから外部に理解されない内輪に秘するべき奇習なら外部に出さなきゃいいだろ。
ドワンゴとしては「こんなことやっちゃう俺たち面白いwww」と思ったから得意げに宣伝したんでしょお?
だから「きめーよ」「さみーよ」「セクハラやめろよ」つってんだよ。
その金でエンジニアに早出社手当て出すなりリフレッシュ設備や豪華な仮眠設備なり設置すれば?
エンジニアもそれなりに楽しんで出勤してきているし、
なんでそんなことがわかるの?
みんながあの女子マネージャーのコスプレしてる成人女性(プロ)から弁当もらうきっしょいイメージプレイを楽しんでるの?
偉いオッサン主唱の新制度の撮影だったら使用人は付き合わざるを得ないよね?
基本的にセクハラだよね?
思ったんでちゅか。
語尾に(小並感)てつけとくといいよ。
つうかもー別にドワンゴの寒い社内制度なんかどうでもいいんだけど
お前の悪すぎる頭、無駄なことばっかり長々喋って焦点を外す脳味噌のほうに興味が湧いている。
お前一体どんな仕事してるの。
エンジニアってのはそれなりに論理的でスマートな脳みその持ち主がなると思ってたんだが
お前みたいな話がとっちらかるウスラボケでも勤まるの?
ニコニコで最初の何話か見て、特に1話目の絶望感とかすごくて、
いい感じのダークファンタジーなあと思って見てたんだけど、
絶望的な戦力差でありながら巨人に対抗する人類が見所だったのに、ここで不思議パワーかよ、と。
特に、巨人の疑いをかけられた主人公、それを庇うヒロインや親友がピンチ!って時に、
主人公がまた、不思議パワーで体の一部を巨人化してピンチを打開ってところで完全に冷めて、それ以降見てない。
「あー、仲間を思う心で質量も実力差も覆してしまう、ライトなノリなのね。おもいのちからってすげー。」
って感じ。
作品の評価の良し悪しの一つに、「悪い裏切りがないか」かがある。
夢オチ、
これらは皆、悪い裏切り。
主人公の巨人化にも作中における必然性があるのかもしれないが、
少なくとも不思議パワー(悪い裏切り)があることは間違いがなく、
どうにも見ることができなくってしまった。
夏になると思い出す。つき合っていた彼氏が戦争について肯定的だった。
でもどういうロジックでそういう立場だったのか、ぼんやりとして思い出せない。
19歳当時、私は絶対に、戦争はないほうがいいと思っていたから
彼の言っていることなんて理解しようとも思わなかったせいだろう。
彼は東大の学生で、政治学を学んで学者になりたいと言っていた。
戦前の軍部の司令官や、戦後の警察について好きで、とても詳しかった。
「戦争はあるべきで、やらなきゃいけないと思うよ」と言っていた。
私が、「関係ない人も巻き込まれて死ぬのに?」とか、「それがあなたの大事な人だったらどうするの?」と言うのを
駄々っ子をあやすように「いやあ。あったほうがいいし、やらなきゃいけないんだよ」と言っていた。
どういう立場だったんだろう。
軍・警察オタ(たぶん)だからか、大学一年生にありがちな選民的な意識の高さゆえか。
頭の良い人だったので、政治学的な大きな必然性とか必要性からあんなことを言ってたのだろうか。
今見てきたけど、これって、もともと近隣にプログラムがあったらそれを利用できる。という条件がプログラム言語に負荷されていて
近隣にコピープログラムがあったら、自己をコピーできるコピープログラムを持たないプログラムが生まれるのは当然では?
1 近隣にプログラムがあったら利用できるという命令セット
3 プログラムが長くなったり、短くなったりする可能性がある命令セット
の3つの条件があれば、3の条件により2のコピープログラムからコピー命令がなくなることは、言語体系上当然
その上で1の条件があるんだから、パラサイト種が生まれるように言語体系を作ったんだから、生まれるのは当然。
自然科学として、パラサイトが生まれる事の必然性をゆうなら、1と3が自然発生することを証明しないといけないけど、それを定理として組み込んじゃえば、そりゃぁ生まれる。
映画「奇跡のリンゴ」が好評のようです。私も見てきました。感動しました。
いっぽう、はてなのニセ科学批判クラスタ界隈では、この映画を見ずに「奇跡のリンゴ」のモデルになった農法を批判するのが流行っているようです。追従礼賛ブクマもたくさんついています。
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20130609/1370789361
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20130612/1371052702
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20130618/1371549428
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20130619/1371611793
これらは映画に対する評ではないのですが封切りに合わせたエントリーですから、映画を観てきた身として、これらの評を読んで???となってしまうところを指摘しておくのも悪くないかと思います。
まず、映画は何も農法を学ぶために観るものではありません。「奇跡のリンゴ」でいえば、阿部サダヲ、菅野美穂、山崎努、音楽:久石譲といった顔ぶれで観にいく人も多いでしょう。またもちろん、作品に100%のめり込めなくても観にいきますし、感動もできます。この映画はそういう映画です。「海上自衛隊全面協力!」という宣伝文句にあまり良い感情を持てない人間でも「灰原哀が出てるなら」で映画館に足を運ぶことはあるでしょう。
「感動している人間は思考力が落ちて大事なことを色々と見落とし、判断を誤るからです」とわざわざ赤字強調で書いている人もいますが、感動したからといってそうならない人間のほうが圧倒的多数です。アクション映画で感動した人がみな現実と混同するかといえばそんなことはありません。
「実話と銘打ってるから危険」――は? 映画「大脱走」は実話に基づいており、観た人は《多少は》本当はどうであったか気にするかもしれませんが、本格的に調べようとはまずしないでしょう。「実話に基づく」は基本的には映画を楽しむ際の参考として機能するだけです。また、シネコンだと関連書籍置いて売る、ということもあまりないかと思います。もちろん本屋では積んでありますが、映画見て出たところに本があるのとでは影響はかなり違うでしょう。
さて、映画「奇跡のリンゴ」についてはYahoo!映画の次のようなユーザーレビューが参考になるかと思います(固定URL表示できないので、投稿時間で示します):
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id344360/
2013/06/15 01:25:41
とは言え、僕自身鑑賞前は
突っ込んだ内容を想像していましたがさにあらず。
と簡単に思わせないところがよかった。農薬を使っている農家の方を
悪者に仕立て上げたら嫌だなとも思って見ていたのですが
この映画では、既存の農薬を使った農法を批判する箇所はほとんど全くと言っていいほどありません。まわりの農民、池内博之、笹野高史、ベンガルらも実はいい人です。
冒頭のナレーションでは
とあって、菅野美穂が農薬で苦しんでいる場面へと繋がります。しかし、このナレーション、言い換えると、農薬を使って作ったリンゴでも食べるのは安全、ということです(1980年代前半までだとこう言い切ってしまうのは言い過ぎではないか、という気もしますが)。
同様に、無農薬リンゴの利点について何か語られる、ということもありません――さいごの「おいしい」という以外には。
はっきりいって、この映画、主人公がなぜそこまで無農薬に固執するのか、という点では弱いと思います。ここまできたからにはもう止められない、というような言葉が何度となく語られますが、それは本人たちの事情です。
これらの点は製作側が、木村農法に対する批判をある程度知った上でつくったからではないか、と私は推測しました。今後、もし木村農法を批判するのであれば、映画のこういう姿勢を知っておかないとズレたものになります――というか上の批判はその典型。
言葉をかけなかった木だけ実らなかったというくだりは本人の書籍にもあるそうですが、映画でこういう「奇跡」だけいくつか押し出して「科学的説明」はほとんど付けないというのもダブル・ミーニングで、双方に配慮してるからだと思います。
映画全体でも、雄大な岩木山、リンゴの花の可憐さ、などの風景や原田美枝子、伊武雅刀らも含む家族愛、隣人愛が一番印象に残りました。人によってかなり違いはあるでしょうが、「無農薬のすばらしさ!」がまず刻印される人はそんなにいないと思います。(もちろん、そういう人もいるでしょう。ただ、映画館でみた客層でいうと、最初からそう思っている人が自らの信念を確認するケースの方が遥かに多そうです。)
ということで、映画を見ずに批評したり、それに追従ブクマを付けたりする人がおそらく想像してないことを述べておきます。
この映画見て、「無農薬」という言葉にそれほど影響されずに単純に、津軽りんごいいなぁ、食べたくなったなぁ、という私みたいな人はけっこう存在するのではないでしょうか。つまり、この映画が大ヒットすることで、木村氏だけでなく、(おこぼれとも言えますが)他のりんご農家にとってもプラスに働く可能性もそれなりにありそうです。―――もしそういうことになれば、それは既存の農法に対する批判を抑え、まわりの農家も良い人として描いたスタッフの心遣いのたまものでしょう。
最後は私からのお願いです。「農薬は安全」という人は、中国等の農薬やTPPについても必ず触れていただけないでしょうか?
良い映画でした。
読んでないけどハイペリオンなんて駄作もいいところだと思う。
別にSFじゃなくてもできるし、僕の中ではエンダーシリーズと同じくほとんどラノベとして分類されてる。
世界がひっくり返される感じ。
それまでの前提がすべて崩れ去ることがないSFはSFじゃない。
変な感じ、変な手触りがいつまでも残る。
と言っておきながら例を挙げようとするとイマイチ浮かばなくて好きなSFは「夢見る宝石」とかなんだけど。
ぜんぜん途中から違う話になってるところがすごい。
ドラスティックさ。
映画ならフロムダスクティルドーンとかクライング・ゲームみたいなもの。
ぜんぜんサイエンスじゃないけど、僕がSFに求める感覚はそういうものなんです。
といいつつほとんど小説として質が高いティプトリーが好きだから困るんだけど。
小説として質が高くてSFにする必然性がまったく存在しないのに面白いのは困る。ヴァーリイのブルー・シャンペンとか。
ラファティのつぎの岩につづくはSFだかなんだかもうわからない。
変な話としか言い様がない。
違和感とか驚きが好きなんです。
ヴォネガットも別にSFというフレームいらない。本人が自由にやった結果としてSFになっているだけで枠組みはどうでもいい。
星新一はそこらへんを追求していたと思うんです。
本人もそんなに深くは考えていないんだけど、「変な感じ」を。
星新一に関連した話で言うと、ショートショートの広場1の前足のない犬の話とかはSF感がある。
新井素子は構成が緻密すぎて、我々の知っている世界を超えたなにか違う世界になっている。
過去の作品に言及せざるを得ないのは、それを超えた作品が出てこないからなんだけど、
体力とか社会環境とか必然性が揃わないとよい作品はできないのかもしれない。
どういう状況になったらいい作品が作られるようになるのか知りたい。
浮気しないこと、相手を裏切らないことは、自己だけじゃなくて相手の満足にも影響を与えるっしょ。
裏切らない人間は、相互的な信頼を損なわないように自らを律してる。それも含めて「自己満足」って言ってしまうなら、浮気してる奴だって自己満足。さらには世の中の人間の動悸で自己満足以外の者はない、って話になって、取り立てて「浮気しないことは自己満足」と言う必然性もなくなる。
それに、ばれないようにやれば裏切ったことにならない、とかいう奴がいるけど、それはさっきも書いた通り、「裏切ってない」んじゃなくて、「裏切ったのがばれてない」だけ。相手を眠らせてレイ◯して、相手が気づいてないからOKって言ってるのと同じ。
喩えで物事を語るというのは、たいてい下らないバイアスや偏りがあるものだけど、処女厨が絶賛しているこの喩えは特に酷い。(画像がはれないのでよそのサイトへのリンクで申し訳ないが)
http://livedoor.3.blogimg.jp/vipsister23/imgs/d/b/db1284c7.jpg
これを見て「うまい」とか言ってる奴の気が知れない。
ここで女性をクッキーに喩える必然的な理由はない。これがクッキーじゃなくて1万円札や金塊だったら? みんなの手を渡っていようが何しようがみんな欲しいって言うだろ?
女性をクッキーに喩えるなら男性は何になるんだよとか、きもい奴ひとりが触ったのと魅力的な異性多数が触ったののどっちを選ぶかとか、家族や気になる異性が手渡しで渡してくれたクッキーなら食えるけどそれってこの比喩に当てはめると家族や好きな人の相手なら大丈夫ってことになるんじゃね? とか、突っ込みどころありすぎてキリがない。
なぜこういうことになるかというと、この比喩が「妥当でない」からだ。
喩えは、都合がよいものを都合がよい状況に当てはめ、好き勝手に捻じ曲げることができる。現実に則さない、本来なら適合しないそういうわけのわからない比喩を持ってくることで、話を混乱させ、煙に巻き、自分の主張したいことへ誘導するという目的で。比喩の内容を正しいと思わせることで、自分の主張をあたかも正しいと錯覚させる。
他にも、女性を便器に喩える例がある。女性が便器なら、処女は単に未使用の便器だ。他人が使った便器は使用しないのか? みんな普通に使ってるだろ? この喩えに乗っかるなら、処女厨は新品で購入した自分専用の便器しか使わない、家のトイレは他の誰にも使わせない、ってことになる。
そしてこの比喩に対して、男性は何に喩えられるのか。便器の中に入るものといえば当然、尿や便である。処女は未使用の便器にすぎない。女性を便器に喩える人間は、男性は尿や便であると認めていることに他ならない。
俺はこれまでまともに芸術に触れたことが無いので、これは飽くまで俺の想像でしかない。
奇抜なものから誰にでも美しさが分かるものまで、すべての芸術において、それが生まれて来なければならなかった理由がある。
むしろそういう動機に裏付けられていることが、芸術であるための必要条件であるように思う。
こと前衛芸術の分野は人に理解されないことが多いので、芸術=意味不明みたいな残念な図式が多かれ少なかれ生まれてしまっているように思うが、そこにつけ込んで
みたいなことを考えてるエセ芸術家以外は、必然性を持って制作に当たっているはずだ。
一般的な美的センスに訴えかけてくる作品については、そんなに構えなくても、自分の感性に従順であれば良いだろう。
なんだかよく分からない、その芸術家独特の世界観に依る作品、前衛的な手法を持って表現される作品についてはそうではないと思う。
普通の感性しか持たない人間がただ見ただけでは「意味がわからない」という感想しか生まれてこないのではないか。
見た人間に意味が分かろうが分かるまいが、必ずその芸術作品には何かしらの真意が込められている。
特殊な人間の考えることを普通の人間が完全に見抜くことはほぼ無理だと思うが、せめてその意味を探ろうとすることくらいは出来る。
俺が芸術作品を見るにあたって必要だと思うのはそういう姿勢だ。
というか普通に暮らす上でも「なんだかよく分からないものに対して多少なりとも理解しようと試みる姿勢」って必要というか、あったほうがいいよなあと思う。