意味を知りたい、見つけたい、という欲求がある。こういったことを人間が抱くようになったのはいつからだろうか。食べることと寝ること、そして子孫を繁栄することからは、そういった疑問は生まれないだろう。なぜなら、食べなければ死んでしまうし、寝なければ疲れつづけて動けなくなるし、子孫を残さなければ種が止まってしまうことを我々は先天的に知っている。そこには必然性があり、問う必要がないのだ。
おそらく、「娯楽」や「想像」がそれを生み出すのだと思う。つまり、生きることにも死ぬことにも、必然的な影響を及ぼさないこと。たとえば、原始人だったら、星空を眺めてみる。自分で、または仲間と一緒に、夜空に浮かぶてんてんはいったい何なのだろう、この世界はどこまで広がっているのだろう、そして、自分たちは何者なのだろう、なんのために生まれてきたのだろう、というパンドラの箱を開けてしまうのだ。そこに答えを見つけることができたとしても、それは「自分はこう思う」といった程度である。だからこそ、本当の「意味」を知りたくて、人間は科学を発展させ、この世にある不思議を具現化し、意味を定義してきた。
僕はものごとを自分の手のとどかないところまで含めて考えてしまうことがある。自分が生きれるのは多くとも70年ぐらいなのに、宇宙のはじまりから宇宙のおわりまで、気になってしまうのだ。
ものを作るときに思うのは、これを作ったところで、多くの人間に見てもらっても、どうせ地球も太陽もいつか無くなるし、宇宙も最終的にはひとつの点に集結する。だから意味ない。という脳内の(負の)思考プロセスが誕生してしまい、作業が滞ることがしばしばある。
これ、よくない。まず、自分は「残す」ことを作ることだと思っている節がある。そして、地球人を信用していないところがある。自分の作品はもっと動物とか、虫とか、はたまた宇宙人に見てもらいたいなんていう欲求がある。馬鹿だと思われるかもしれないが、人間よりも確実にわくわくするのだ。
残すことが作ることの最大の意義ならば、意味はないだろう。ただ、その最大の意義は、科学の根拠によって成り立っている。地球が太陽に飲み込まれること、宇宙が一点に収縮すること。それは人間が発見したことで、多くの人々は「その通り」だと思っているだろう。つまり、自分はそういったみんなが「正しい」と思うことに囚われているのである。
つまり、先程言った「自分はこう思う」ということが全てなのだ。いま世の中にある考えに囚われすぎると、そのなかでしか動けなくなる。自分は思っている以上に何かによって考え方が固着しており、不自由な状態になっている。
自分はこう思う。
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ものをつくるということは少なくとも「残す」ことよりも、その場にいる人に「みせる」ことの方が大切なのだろうと思い始めている。そして、宇宙の始まりから終わりや地球の始まりから終わりのような大きな話よりも、自分の長くて短い人生のようなことを考えていきたいと思う。
・・・が、どうなんだろう。そうは考えられない。だって、自分は地球の一部だし、宇宙の一部だと思うから。他人も自分みたいなもので、友だちや、家族や、いつも寝ている布団や、いつも使ってるシャーペンだって、昔を生きた百姓だって、ましてやこれから生まれるベイビーだって、自分なのだ。しかしこれは話すと厄介なので、言葉にしたいのだが、この問題をここで処理するのは今度にしよう。自分は自分という存在を肉体で境を作ることが苦手なのだ。君と僕はどこかで互いに影響し合っているのだ。それは密な関係でも、ほんのささいな関係でも、まるで関わりなんてなさそうでも、きっとどこかでつながっている。と信じたい。
だれか教えて下さい。答えなんてないかもしれないけど、あなたがどう思うか、教えて下さい。
言いたいこと、訊ねたいことが、よくわからない。 もうちょっと文章推敲してわかりやすく書いて欲しい。 でも、とりあえず、残すためにモノを創るという動機は不純だと思う。 モノ...
ありがとうございます、 自分は映画を作っています。自主映画です。まだ、大学生ではありません。 今まで数本つくってきました。 だれのために作っているのか、なんのために作って...
あと、もっと本読もうと思います
人間以外の何らかの知的生命体について考えてしまうのは、思考上のトリックに過ぎない。 「慣れ」と言ってもいいのだが、過剰な敷衍が発生してしまっている。 それは死後の世界に...
ありがとうございます、 まずここでま自分の考えについて知らない誰かが言及(具現化)してくださることに、素直に感動しました。インターネットすごい。 まさに、おっしゃる通り...
それだったらシンプルにニーチェ読むと良いと思う。 最近は、「ニーチェなんか中学生まで」みたいなくだらない事を言う奴がいるので一応言っておきますが、本気で言っています。 渡...