はてなキーワード: 最期とは
このキチは自分と少しでも意見が合わない人間に対しては非常に攻撃的になり「エアプ」「無能」「死ね」などと言った引用RTを繰り返すため、多くのユーザーから避けられてブロック・ミュートの対象になっている。
俺は、こいつの挙動や心情に一切影響を与えたくないためいいねやRTすらしたことない。もちろんフォロー、フォロワーになったことすらない。ただ、観察をしている。
そしてこのキチが最近また別アカのとある投稿に対して引用RTをしていた。こいつは嫌われ者なので、基本的に引用RTされても無反応するのが鉄則なのだが、今回は引用元がリプライを返してきた。多分だがキチとはほとんど面識はないだろう。
客観的に見てこのリプライは煽りなどの意図はなく、まだ建設的な意見交換をしようとしていた。キチもまだ標準的な態度で応答する。
ただ、引用元が反論(というと語気が強いが意を唱えてるだけ)をするとキチが理論的な返しができないため焦ったのか、いきなりヒートアップ。勝手に引用元にレッテルを貼って、勝利宣言しようとした。
しかし引用元は追及の手を緩めない。キチは完全に逃げ腰だ。結局ズタボロにされて捨て台詞をはいてトンズラした。
今まではこのキチが暴れてる時は「こら、キチ君が可哀想じゃないか!」とお友達が擁護にしに来ていた。俺から言わせればこいつらのせいでキチがのさばっていて益々孤立してるんだが。お友達は無理矢理な擁護をして、相手の過去ツイの不手際を掘り起こして泥試合に持ち込んで、「どっちもどっちという事で手打ちにしましょう」と勝手に仲裁していた。
しかし、今回はこのお友達がほとんど擁護に来なかった。キチに分がなかったからかもしれないが、それは今回始まったことではない。一体彼らに何が起きたのか。
おそらくだが、お友達はキチ擁護に飽きたのではないだろうか。自分の進退をかけてかばう相手でもないということに今更きづいたのだろう。悲しいかな、Twitterだけの友達なんて居なくなっても日常生活に全く影響ない。
キチは嫁や子供がいなく孤独だ。彼の闇はどんどん深まりつつある。1人の人間が孤独に蝕まれる様はある種の娯楽だ。おれはお前を最期まで見届けてやるからな。
あー本当に「考えて喋ってるふりしてるだけ」なんだなあ……まあキャバクラとかの技術もこれと同じなんだろうな。
遠目に見ていると完全に誤魔化されているんだけど、本人からしたら「僕の話ちゃんと聞いてくれてる!嬉しい!」なんだろうな。
でも冷静に考えると一部が完全にデタラメなんだよね。
「君の手を離さないよ ずっとそばに居るから」という部分は、ポケモンがポケモントレーナーに対する忠誠心や愛情を示しています。
こんなのあったか?
スゲーよ。
知らない奴は騙せそうなラインで知ってる人間からすれば嘘っぱちすぎる。
アカシア知らん人からすればほぼ同じ歌詞に見えるだろうけどこの2つはぜんぜん違うから。
生き物同士の関係において「どんな最期が待っていようと」⇔「もう離さない」というのは矛盾してる。
何故なら喧嘩別れがあるし、たとえばバイバイバタフリーなんて明らかに神回だけどあれは物理的に手を離したことで実現したわけで、ポケモンとの絆を歌っているのに永遠の束縛関係は違うんじゃねって一瞬なる。
「そういった過去が確かに存在したこと」だったら、未来に何が起きても変わらない。
この歌詞は「ポケットモンスターという作品とともに歩んできたあの思い出は、いつか「ゲームなんてくだらねーよなー勉強と投資と子育てしようぜー」になっても消えないんだよ」という意味。
たとえそこで昔ポケモンマスターだった人が「ポケモンwwwwwだっさwwwwこんなの大人になってもやってる奴知的障害者wwww」とか言って回ったとしても、子供に新作のポケモン買ったりしてるうちに「またやってみるか。GOぐらいだったら」となったときにちゃんと過去で待ってるよって意味だから。
「特等席で 僕の見た君を 君に伝えたい 君がいることを 君に伝えたい」の部分が完全に双方向になっていて、「君がゲームを楽しいと思って遊んでいるとき、ゲームはそれを楽しんでいる君のことを見ていたよ」っていう意味で、それぞれが「楽しいという気持ち」で確かに結びついていたことが、思い出という特等席でずっと変わらずにそこにいるんだって意味なの。
アカシアはね、今ポケモンが好きな人だけの歌じゃないの、昔好きだったけど今プレイしてない人も、おとなになった今は子供だましと見下している人も、全部全部ひっくるめて「一度でもポケモンが好きだった時間がある人」全員に向けて歌っているわけ。
ポケモンシリーズという長い時間の中、ずっといっしょに居た人もいれば、途中で離れた人、途中から入ってきた人、離れたあとずっと戻ってこなかった人、色んな人がいるけど、それでも誰も仲間外れにしないよ、だって君の中にも思い出の中のポケモンがあるんでしょ?って語りかけてくる歌なの。
この優しさがしみるわけよ。「25周年ありがとう!昔から好きだった人大好きだよ!裏切り者は黙って指くわえてろ」みたいな態度じゃなくて、「一度でも好きだった人に、その好きだと思ってくれた気持ちを思い出した欲しいな。今でも元気だよ。いつでも帰ってきてね。思い出の中にだけでもいいよ!」と言ってくれる歌なの。
それを歌詞に落とし込めるBUMPも凄いけど、BUMPにそんな歌詞を書かせたのはポケモンというコンテンツが取り続けてきた態度なんだよ。
肌感覚ではあるが、最近どうも子を持たないような風潮がある気がする。
調べたところ、子を作らずに夫婦共働きをする生き方を、最近は「DINKs」と呼ぶらしい。どのくらい一般的な言葉なのかは馴染みがないため解らないが。
私は40年近く、そのDINKsと呼ばれる生活を続けてきて、つい先日還暦を迎えてしまった。
しかしながら、正直DINKsという道を選んだことを後悔している。
子を持たない選択をした20代の自分の価値観や知見と、実際にそのまま突き進んだ先にいる60代の自分の価値観や知見との間に大きな乖離があった為だ。
平易に言えば、若く経験もない20代の頃に考えていた「合理的な選択肢」は、そこから40年近くの人生経験を積んだ60代になってから見えてきた「真に合理的な選択肢」ではなかったということになる。
2.フルで共働きが可能なので、経済的にも余裕のある生活ができる
・上記の結果として、金銭的・時間的に余裕を持つことができるので、例えば趣味に時間を割くことができるとか、いい家に住めるとか、車を持てるといった形でその恩恵を受け、実生活における充実度は上がるものだと考えていた。
・趣味に打ち込む時間が多い分飽きも早い。たまに打ち込むからこそ長く続く趣味になるのだと、飽きてから気が付いてしまった。
・そもそも60代にもなって増田をしている時点で、どれだけ余暇を持て余しているかは察することができるだろう。
・子供の成長や受験・結婚など、子の人生における成長過程はその1つ1つが親の人生においても大きなイベントになる。
→子を持たなかった結果、そのようなイベントが少なく、起伏の少ない人生を送ることになり、総合的な満足度は低くなると気が付いた。
・最近よく耳にする「コスパ」という概念に当て嵌めるならば、低コストではある一方で低パフォーマンスな人生になり、総合的にはむしろ子を持った方が充実した良い人生を送ることができたと思う。
・2人で働き、子に使う分が浮いた結果手にしたお金の使い道など、精々いい家に住む、家具や車を買う、趣味の道具を揃える程度であった。
→正直お金は余る一方なので、共働きと子なしで収入を増やし支出を減らしたところで仕方なかったと、今になって思う。
・この生活をしていて、周りの人々から「お子さんは?」と訊かれることが非常に多かった。その度に社会通念に反した自らの選択の合理性の説明を強いられる上、結局は価値観の相違に帰着する為、腑に落ちない顔をされるか、「成程」と適当な相槌を打たれて終わるのみである。
特に、親の死に際に「孫が見たかった」と言われたのはかなり精神に応えた。親には子を持たない選択について話していた上、それなりに理解してもらえていたのだと思っていた分、最期に親との隔絶を突き付けられたのは相当に苦しいものがあった。
ただ、これは増田が若かった時の価値観に依る部分があると思うので、今の若い人であればそこまで周りに精神を削られることはないのかもしれない。
・まだ60代で比較的身体は動くと思っているが、これが70代や80代になってもお互いで支え合うのは正直苦しいと思う。
なお、子供を介護要員として捉えるのは利己的に映るかもしれないが、増田自身も親の介護に奔走していた時期がある。
則ち、「親を介護し、子に介護される」というところまでが1つのサイクルなのではないかと最近になって思う。
・子を持つようになると、皆家庭内のことで忙しくなり、暇な私と休日を過ごしてくれることはなくなる。
また、子育てという共通の話題を持たないことによる疎外感は存外大きかった。
・20代、30代の頃は学生時代や職場の友人とこの先も仲良くやっていくことができると考えていたが、実際は友人がどんどんと家庭の時間を重視し、私からは離れていった。
・一番苦しいと感じているのがこの点である。子供を持った方が良かったと、気づいた時にはもう遅いのだ。
・40代も近くなり、身体的に出産が難しくなってから急に結婚や子作りに取り組むようになる人を見たことがあると思う。これも歳を重ねるうちに上記のデメリットの大きさに気付いた人の末路だと考えている。
かくいう私も、40代に差し掛かる頃に妻と最後の話し合いに臨んだことがある。その時点ですでに子を持たない選択をしてから10年以上が経過しており、既に周囲にも十分に喧伝していた手前、自らの選択を撤回できずに進んでしまった。
あの時に柔軟な選択肢を取ることができれば、或いは違った状況だったのだろうか。時すでに遅しと理解しつつも、やはり考えてしまう。
・DINKsに魅力を感じている人はもう一度よく考えて欲しい
→DINKsによる経済的・時間的なメリットは、結局そこまで享受できない。
→一方で、DINKsに踏み切る際に意識していなかったデメリットは40代以降に顕在化し、気が付いてからはもう取り戻すことができない。
・20代での想像と60代になっての実感は相当にギャップがあるということを20代のうちに知っておきたかった
→今これを読んでいる人の中に子を持たない選択をしようとしている人がいれば、考え直して欲しいと強く思う。
1.毛沢東
死者4000万人以上
中国共産党の指導者。無謀な大躍進政策により中国全土で3000万人以上が餓死した。その責任を取って辞任するも権力の座に返り咲くため文化大革命を引き起こす。中国全土を巻き込んだ暴力革命で1000万人が殺された。チベット侵略に伴う虐殺で100万人が死亡した。彼の犠牲者は天文学的数字であり、もはや正確に知ることは不可能である。また、貴重な文化遺産、歴史的資料、儒教道徳も文革で破壊されてしまった。
2.コロンブス
死者3000万人以上
イタリア出身の征服者。アメリカへの到達を果たし、そこで手厚く歓迎してくれたインディオを虐殺・奴隷化した。彼の征服を皮切りに白人によるインディオの大量虐殺が始まるのである。アメリカ征服の死者が余りに多すぎたため地球の気温が低下したという説すらある。アメリカではインディアンが現在もなお人権侵害に苦しめられている。
3.スターリン
死者2000万人以上
ソ連の独裁者。ソ連の支配を快く思わないウクライナ人を粛正するため、土地や家畜を奪い人工飢饉を引き起こし1000万人を餓死させた(ホロモドール)。極度の人間不信であった彼は常に暗殺やクーデタを恐れ、秘密警察を駆使して自国民1000万人以上を虐殺した。スターリンに虐殺された人数は天文学的であり、これも正確に知ることは不可能だ。
死者2000万人
ベルギー国王。コンゴに広大な私有地コンゴ自由国を所有した。貪欲な彼は現地民から莫大な税金を搾り取った。払えない者は手足を切断するなどの残忍な方法で殺された。余りの残虐さから国際非難を浴びたため、国王は保証金と引き換えに私有地を手放し、コンゴはベルギー直轄植民地となった。
5.コルテス
死者1000万人
スペインの征服者。アステカ王国を滅ぼした他、現在のメキシコで広大な土地を征服した。彼の残忍な虐殺や搾取で多くの尊い命が亡くなった。アステカ最期の国王クアウテモックも財宝の所在を吐かせるために足を焼く拷問にかけた後、絞殺された。
5.ピサロ
死者1000万人
スペインの征服者。アンデスの大国インカ帝国を征服した。皇帝アタワルパを誘拐、莫大な身代金を払わせた上で絞殺した。財宝目当てのための虐殺は多くの犠牲者を産んだ。皇帝の身代金を巡る争いで殺された彼も死の間際に自分の悪行を悔やみイエスに許しを乞うたと伝えられるがその真偽は不明である。
7.習近平
死者600万人 現在進行形で増加中
中国共産党の指導者。専門家の助言を無視して、武漢で両会を強行。いわずと知れたコロナパンデミックを引き起こし、世界中で600万人が亡くなった。この数値は現在も尚更新されている。
8.チャーチル
死者300万人
イギリス首相。イギリス植民地であったベンガルで飢饉が発生。適切に対処すれば大量餓死は防げたが、インド人に対して差別感情を抱いていたチャーチルはそれを放置したため、大量の犠牲者が出た。この飢饉は幼少期のアマルティア・セン博士に衝撃を与え、後に彼はノーベル経済学賞を受賞した。
死者200万人
カンボジア共産党の指導者。文明を否定した極端な農業中心政策を実施し、知識人を中心とした大量虐殺を行った。また、チャム人、華人、ベトナム系などの少数民族も虐殺された。彼の暴政は現在に至るまでカンボジアの発展を阻害している。
10.メンギスツ
死者100万人
エチオピア共産党の指導者。エチオピア革命で帝制を打倒し、皇帝ハイレ・セラシエ1世を殺害した。エチオピア人民共和国の大統領に就任した彼は反対派への粛正、飢饉などで100万人以上の犠牲者を出した。
余談だが、ロシア、ラオス、エチオピア共産党が政権を取った国では君主は殺害されている。君主が命拾いしたのは政権が長続きしなかったカンボジア、皇帝が身の危険を感じて事前に亡命したベトナム、国王が出国している内に王政が打倒され、その政権も共産党に打倒されたアフガニスタン、政治的な利用価値を認められた満州国皇帝溥儀だけである。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
酒、飲みまくるやつも。
タバコ吸いまくるやつも。
身体売りまくるやつも。
それがなきゃ「とっくに死んでる」からそれやって延命してんだろ。
その結果―
その「延命行為」の積み重ねによって「不治の病」になったなら、それはもう「妥当な寿命」だろ。
身体をぶっ壊す「害」にすがらなきゃすぐにでも自分を殺めたくなるほど追い詰められていた人間ならば、害が導く病はむしろ正当な「借金返済」だ。
だからそれを無理に治療する行為は「借金の踏み倒し」だし不誠実。
僕はそう考える事にしたよ。
散々、死を保留にしてくれた親切な死神が「命の収穫」に来たならば ごねず騒がず潔く魂くれてやったらいい。
十分、人生の醍醐味味わえたしお別れのあいさつもできました、つって。
「アル中」や「肺癌」や「(NOT薬害)エイズ」の人間は、皆そうやって穏やかに最期迎えたらいいよ。
彼ら、彼女らは酒とタバコと爛れた性に「生かされていた死体」だったんだ。
20代で酒の飲み過ぎで痛風予備軍と診断されてなきゃ、自分もそういう壊れ方をしてたかもしれない。幸い、あと15年くらいは健康に生きられそうだ。
身の回りに明日、明後日死んでもおかしくないほど壊れている「運の悪い(?)」人間がいる。
しかし、それはむしろ「十分死神を待たせて延命した人生」と捉えるべき。
アルコールとタバコとセックスは死神のお迎えを先延ばしする為のチケット。
運悪いながらも必死に生きようと頑張ったんだな。チート技使って。
「こんな役立たず人間今すぐ死ぬべきだ」という理性とモラルを必死に遠ざけ、生存本能に従った。
素直に死神の鎌に狩られるもよし、無駄な抵抗をして死ぬもよし。
どのみち、もう残り時間はない。
さようなら。運が悪い人。
コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシア・パーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏。居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアンの文化も守り続けた。
・ブラック・ケトル
シャイアン族の酋長。白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺でカスター指揮下の第7騎兵連隊に無抵抗の女性、子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。
・シッティング・ブル1831~90
ラコタ・スー族ハンクパパの戦士。若い頃からレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアンの聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージ・カスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダに亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動を扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。
ラコタ・スー族オグララの戦士。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。
ラコタ・スー族ハンクパパの戦士。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。
ラコタ・スー族の戦士。クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。
・ゴール1840年頃~1894
ラコタ・スー族の戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年に降伏した。
・レッド・エンド1797~1881
ダコタ・スー族の酋長。兄を白人に殺されたことへの報復にスピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダに亡命し、現地で亡くなった。
・ジョゼフ酋長1840~1904
ネズ・パース族の酋長。平和主義者であり、キリスト教に改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術で白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。
・リトル・ウルフ1820~1904
シャイアン族の酋長。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍に降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。
シャイアン族の酋長。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に参加。米軍に降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。
・ヴィクトリオ1825~1880
アパッチ族の酋長。1879年居留地から脱走し、アメリカ・メキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争)しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。
・ナナ1810年代~1896
アパッチ族の戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年に降伏した
アパッチ族の女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争に従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年に降伏し、翌年病死した。
・ジェロニモ1829~1909
アパッチ族の戦士。1851年メキシコ当局に家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛な戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年の連邦政府の強制移住に抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。
クリー族の戦士。飢餓に苦しめられ、1885年メティ(カナダ先住民と白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。
・ブコナイゲシク1830年代~1916
オジブワ族の戦士。1898年頻繁なインディアン逮捕や森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った
・デニス・バンクス1937~2017
オジブワ族の人権活動家。1968年アメリカインディアン運動AIMを設立。デモや選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアンの人権問題を国際的に周知させるきっかけとなった。後者は州兵、FBI、戦車、ヘリコプターを動員させる大事件となった
・ラッセル・ミーンズ1939~2012
ラコタ・スー族オグララの人権活動家。アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕や殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなくインディアンのための活動に生涯を捧げた
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・タスカルーサ~1540
ミシシッピ先住民の首長。スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。
・オペチャンカノウ1544~1646
ポウハタン族の酋長。ポカホンタスの叔父。1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次・第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。
・ササカス1560~1637
ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺、奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争で白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ王戦争で白人に虐殺されることとなる。
・ポペ1630~1692
プエブロ族の魔術師。スペインの宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人を駆逐したプエブロ族は独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペインに降伏した。
南部タスカローラ族の酋長。白人の土地侵奪、奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。
アベナキ族の酋長。フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争、グレイ・ロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父は戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた
ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人の貪欲な土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ王戦争1765~66)。メタカムは戦死、遺体は戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人の勝利に終わった。
・オブアンディヤック1720~69
オタワ族の酋長。英名ポンティアック。交易を制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合し攻撃をしかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府は政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。
ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争で白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人を訪問した際に拘束され処刑された。
チェロキー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族へ同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中に心臓発作で亡くなった。
・リトルタートル(1747~1812)
マイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バルム大佐を戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦で勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、戦死者600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北し降伏した。
ショーニー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦、セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北した。
レナペ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた。
・エグシャワ1726~1796
オタワ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、フォールン・ティンバーズの戦いで負傷した
・テカムセ1768~1813
ショーニー族の酋長。白人の侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争でイギリスと組んでアメリカと交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争で敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領に就任するが、わずか31日で病死した。
マスコギー族の戦士。1811年の大地震を白人と戦えというメッセージと解釈し、交戦派レッド・スティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争で活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領に就任、インディアンへの弾圧・虐殺を行った。
・メナワ1765~40頃
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後も土地割譲に同意した酋長を暗殺するなど強制移住に抵抗し続けた。
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争で活躍、バーントコーンの戦いで米軍に勝利した。
ウィネベーゴ族の酋長。白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。
・ブラック・ホーク(1767~1838)
ソーク族の酋長。白人の土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。
・オセオラ1804~38
セミノール族の戦士。強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部はフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカに降伏していない
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争で活躍し、デイドの戦いで100人の米兵を戦死させた。
・ビリー・ボウレッグス1810頃~1859
セミノール族の酋長。オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争を継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍に勝利した。
・バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃
コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復に1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。
・ワルカラ1808~55
ユート族の戦士。その知恵と武勇から「砂漠のナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教徒入植者と対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。
・フレチャス・ラヤダス
ヒカリラ・アパッチ族の戦士。シエネギラの戦いでアメリカ軍を破った
・カミアキン1800~1877
ヤキマ族の戦士。白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏を拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒んだ。
・レスキ1808~58
ニスカリー族の酋長。白人の土地侵奪に反発し、ピージェット湾戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。
・テカムタム?~1864
アサバスカ族の酋長。鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。
・カイルーク
モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された
・ヌマガ1830~71
パイユート族の酋長。白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860年パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人と部族の平和のために生涯を捧げた。
・マヌエリト1818~93
ナバホ族の戦士。1860~66年までアメリカ政府の土地収奪と強制移住政策に抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。
ティンパノゴス族の酋長。モルモン入植者と対立し、1865年ユタ、パイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた
・マンガス・コロラダス1793~1863
アパッチ族の酋長。1830年代家族や同朋をメキシコ人に虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉の最中に捕らえられ、処刑された。
・コーチーズ1805~1874
アパッチ族の酋長。マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。
ダコタ・スー族の酋長。白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。
カイオワ族の酋長。第一次アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。
カイオワ族の戦士。第一次アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年に逮捕され、投身自殺した。
カイオワ族の戦士。ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。
・ローン・ウルフ1820頃~79
カイオワ族の酋長・交渉によりウォーレンワゴン・トレイン襲撃で逮捕されたホワイト・ベア、ビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナ・パーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオワ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない
シャイアン族の戦士。強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールズバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人に勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマ性から白人から酋長であると誤解された。
ラコタ・スー族の戦士。ララミー砦からモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍は道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウドは居留地に入り晩年はキリスト教に改宗した。
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。
・ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府の平和交渉に当たった。
モードック族の酋長。居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワード・キャンビー少将が殺害されたため、インディアン戦争で米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏し絞首刑に処されたキャプテン・ジャックの遺体は見世物とされた。
モードック族の戦士。モードック戦争に加わり、サンドビュートの戦いで勝利した
コマンチ族の酋長。スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。
・ペタ・ノコナ1820頃~1864
コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシア・パーカーを誘拐、妻とする。1860年ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。
道長は『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルとも言われています。
そんな「平安貴族の代表格」である藤原道長ですが、晩年は「ある病気」に苦しめられながら最期を迎えたことが知られています。
糖尿病と言えば、現代では有名な生活習慣病の一種です。病気としての知名度が高まったのはつい最近のことですが、その病気自体ははるか昔から存在していました。
そして平安時代の貴族は白米を主食としており、食事も豪華なものでした。藤原道長も、その溢れる栄華を象徴するように美酒美食に明け暮れていたといいます。
彼ら平安貴族は、食事における盛り合せの美しさや品数の多さを重視していました。現代のように、栄養バランスを考慮しようという頭はなかったと思われます。
例えば、道長は「蘇」という、古代のチーズと呼ばれる食べ物を好んでいたといいます。
もっともこの蘇は、チーズといっても発酵はしておらずキャラメルのようなものだったため、非常に高カロリーでした。
手作りの蘇
その蘇を、道長はハチミツや甘栗と一緒に食べていたといいます。
しかし、100グラムで400キロカロリーはあったとされる蘇を、そんな風に好き放題に食べるような生活を続けていたのでは、身体がどうにかなってもおかしくありません。