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2023-01-08

問 あなた交流することで何かメリットはありますか?

 

…………俺は人間関係を諦めた

2023-01-06

anond:20230106005721

ADHDに苦しんでいたライダーが昨年秋、バイク日本一周を達成した後すぐにダムから飛び降り◯◯したよね

SNSでは美しい景色に彼を好いていた人との交流、傍から見ると幸せそうに見えたけど本人は違ったのね

雪山で酒でも飲みながら 「僕もう疲れたよ。なんだか、とても眠いんだ。」で眠りにつくのがいいのかな

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

仮面ライダー映画、唯一の不満点

仮面ライダー映画を観てきました!

冬のライダー映画は、現行のライダーと前作のライダークロスオーバーするのが定番になっています

前作のライダー「リバイス」は、悪魔モチーフにしたライダーでした。ただ、この「悪魔」というのが厄介なんです。

最初、「リバイス」における悪魔は、人間の中にある抑圧された側面だと思って観ていました。己を顧みず人助けをする主人公一輝くんは、その反面お節介エゴイストであることが仄めかされ、彼の悪魔であるバイスとの交流を通じて、それを自覚し受け入れる物語になっていくのだろうと思いました。

しかし、中盤で悪魔の始祖「ギフ様」が地球外生命体だということが明かされました。え?

しかも、悪魔外科手術で移植することができるようです。なぜ?

悪魔といえば「契約」です。一輝くんは、記憶と引き換えにバイスの力を借りる契約をしており、これが終盤、戦えば戦うほど記憶が失われていき、守るべき家族のことも忘れていくという悲劇的な展開に繋がっていきます

しかし、一緒に戦う兄弟たちは、特に対価を払っている様子もない。あとバイス人間を喰おうとしてたけど、他の悪魔カレーとかを食べたがってた。何?

とにかく設定というか、ルールがわからないなというのが「リバイス」というライダー感想だった。だからTV最終回で、バイス存在記憶を引き換えに家族記憶を取り戻す展開もイマイチのりきれなかった。

とはいえ一年通して平和のために戦う姿を観ていたのでスクリーンで久しぶりに戦う姿を観れてなんとなく嬉しくなった。

序盤、悪魔の始祖ギフ様に文明を滅ぼされた宇宙人との戦いで、一輝くんが必死重症を負った。

(なぜ人間から生み出される悪魔必要とするギフ様が文明を滅ぼしたかは謎だけど、気にしないことにしよう。ギフ様が宇宙にいたのは少なくとも数千年前の話だったと思うけど、宇宙人地球人時間感覚は違うだろうし、それもいいや)

重症を負った一輝くんは、自分記憶燃えまくっている地獄みたいな場所に行った。たぶん心象風景だろう。

途中で別れ道に立った一輝くん。右は光差す道、左は地獄業火燃え盛っている。右に進もうとする一輝くんに、謎の声が「それでいい」というようなことを言う。たぶん、この声バイスの声なんだろうと思った。一輝くんがこれ以上戦いで傷つかなくてもいいように、そう言ったに違いない。

しかし、途中で「家族を守る力が欲しい」と思った一輝くんは方向転換して地獄の道へ。そこでバイスと再会し、バイスは復活した。やったぜ。

復活したバイスはそのことを喜び、「ファンのみんな〜お待たせ!」などとはしゃいでいる。じゃああの謎の声はなんだったんだ?

「リバイス」の復活を描いたところで、映画クロスオーバーのターンに突入した。

現行のライダー「ギーツ」は、ライダー同士がサバイバルゲームへの参加を通じて地球を守るというストーリーだ。ゲームの勝者は自分の望みを叶えることができる。

今回のゲームは、マラソン。前半で攫われた一輝くんの弟である赤ちゃんから取り出された悪魔を42.195km運んだらクリアだ。なぜ攫った悪魔を一度ライダーに預けて運ばせるかは謎だ。目的場所にはライダーしか辿り着けないとかでもない、普通にゴールで黒幕が待ってた。

その後、2ndステージとしてライダー同士が最後のひとりになるまで戦う「絶滅ゲーム」が始まった。シードとして政治家の息子で格闘技チャンピオンという新しいライダーが急に参加してきた。こいつは格闘技チャンピオンなのにハンマーを使って塔を建てるのが目的というヤバいやつだ。「絶滅ゲーム」を開催した理由がわからない。黙って塔を建てれば誰も邪魔しなかったんじゃないか

一方でこの新しいライダーは、ゲーム勝利して父親独裁者にしたいらしい。何がしたいか本気でわからない。塔なの?党なの?ハッキリしてよ。

最終的に、盤外でゲームマスターが変わったために、「絶滅ゲーム」は「シカゲーム」に変更された。格闘技チャンピオンライダーが鹿モチーフなので、そいつを倒したライダーが今回の勝者となるらしい。ボクシングやってたら決着が将棋に変わったくらいの衝撃だ。参加者はたまったもんじゃない。「シカゲーム」って言いたかっただけだろ。少し古いぞ。

一輝くんとギーツがゲームの勝者となったが、どちらかの願いしか叶えられないとのこと。一輝くんは、家族が無事ならいいので、ギーツに権利を譲った。ちなみに、隣りで復活したバイスが消えそうになっている。バイス家族だって散々言ってたじゃないか。どうした?ま、まさか、また記憶が?

そういうわけでバイスは消えてしまったが、ギーツが一輝くんの記憶が消えないように願ってくれたおかけで、バイスのことを忘れないで済みました。ありがとうバイス、お前のことは忘れないよ。一回、バイスが消えないように願ったうえで、「それは無理」って断られてたら印象違ったと思うけどね。

こうして、今回の事件は幕を閉じたのであった。

エンドロールの後、ゲームマスターが「今回のことでギーツの強さの理由がわかった。あいつは、この時代人間ではない」って言ってたけど、この映画を観ていてギーツが未来人or過去から来た人だってわかる描写ありました?わからなかったなー。

まぁ他にも、20年前のライダー龍騎」の面々がオリジナルキャストで登場したことに、言いたいこともなくはないのですが、全体的に面白い映画でした。

ただ、スシローに行くシーンが2回もあったのに、ギーツが稲荷寿司を注文しなかったのが唯一の不満点です。(ギーツは狐モチーフなので)

うちの会社社長(男/40歳)がもしかしたら精神的な病気かもしれない

ここで働いて6年になるけど、ここ1~2年本当に社長の様子がおかし

ここまでくると心の病気更年期障害を起こしているのかもしれない


うちは零細企業

零細企業からドラマとかでよくある社長室もなく、小さい事務所にみんな集まって仕事をしている

から社長の目につくところで毎日毎日働いている

お察しだと思うけど離職率ハンパないブラック企業である社員全員誰しもそう思っている


だけどここ最近本当に社長の様子がおかしい。イカレているとしか思えない

元々気が短くてキレやす性格の人だとは解っていたけどここ最近特に顕著になってきた

マジで気がふれたんじゃないかと思う程

【具体的には】

・物を投げるようになったりロッカーを蹴るようになった

・笑っていたと思ったら急に怒鳴りだす。情緒の安定がなっていない

理不尽にキレている途中、キレている相手が悪くないと気付くと話をすり替えて更にキレる

責任転嫁は当たり前。社員の手柄は俺の手柄、俺のミスは全部社員のせい

・何もかも待てなくなっている。外部の人間だろうが3分以内にレスがないと鬼電

・その割に自分は報告をしない、自分はよくて他人ダメという謎ルール

・どの社員が話しかけても「ああ?」というし返事も無視早口「ああ、ああ、ああ、ああ(聞いてない)」「メッセージで送れよ」しかない

・その為必要な事を伝えたくても一切話しかけても無視メッセージを送っても既読無視

社長にとって重要な連絡に対しても上記の返事をして対応しないので後々何故かこっちがキレられる

・急に思い立ったかのように事務所の物を捨てだす。大事な物でも容赦なく

・↑後でいざ物がないと気が付くとキレ散らかす。だったら捨てるな

・物をぞんざいに扱う。スマホは勿論、キーボードもここ最近強く叩きすぎて壊してた

・謝れない・自分ミスは一切認めない(前に指摘した人もいたが「お前不貞腐れた態度取るんじゃねえよ」で終了)

・常に暑がっている。今も事務所は18度で彼は暑い暑いとキレている

・どんな可愛がっていた社員でも辞めるとありえないレベル罵倒をする

社員が常に自分監視下にいないと落ち着かない。その為昼休憩は全員コンビニキッチンカーで昼飯を買う

・↑仮に外食をした場合食事の途中であろうが電話をかけて「今すぐ戻れ」と用事がなくても呼び戻す

社員同士が仲良くするのを禁止するのは当たり前、外部の人間ともオンラインで目の前で交流しなくてはいけない

・このコロナ禍のご時世でも風邪・熱があって休むのは禁止有給自分監視ができなくなるのでない


他にもたくさんあるが、短い昼休憩だとこれで書くのが精いっぱいだった

やっぱ書き出していて思ったけどこの人おかしいな

そりゃ去年入った社員5人中5人が2ヶ月以内に辞めてるわけだ

2023-01-05

anond:20230105083653

前はベネッセウィメンズパークとか、それやってるSNSもあったんだけどね

でも結局男が入り込むんだよな

増田でも嫁の名前登録して釣ってるとか言ってる男見たなあ

twitterで女だろうと確証出来る人だけフォローしてそういう人としか交流せず男が来たらブロックってのが手っ取り早いか

(それでも女に偽装できるネカマが混じってないとは限らないけど)

Colabo問題弊害について

既に出ている・今年から本格的になってくると思うが、既にウチの様な、その活動費用殆ど寄付手弁当運営している様な小規模NPO団体でも昨年末辺りから出ている。

具体的に言えば、経理関係が非常に厳しくなった…いや正確に言えば監査が厳しくなる「らしい」という情報があり、対応せざるを得なくなった、という方が正しいか


フェイク込みで例を上げると、例えば30食を提供する予定で用意する、実際の提供28食分だったら、従来は30食分を予算に入れていたが、今後は実際に提供した分しか認められなくなりそうだ。

また、同様に被支援者との交流の際、飲み物軽食10人分用意する、その予算は従来であれば10人分だが、今後は実際に提供した分が予算対象となる。

例えば6、7人に提供し残りは被支援者家族に渡すとか、ヘルプに来てくれた人に提供するとか、そういった事が出来なくなりそうだ。


ブコメで数名から指摘がありましたが、「余った提供予定の食事支援物資自分達で持ち帰っているのでは無いか?」「(先の目的の為に)初めから余らせる前提で多めに予算を組んでいるのでは無いか?」

そもそも本当に必要な分を支援しているのか?(少数に多く渡す事で水増し、便宜を図っていないか?)」などの『疑惑』がかかってきます

勿論意図的不正をしようなど思った事もありませんが、意図してやる人が素直に意図説明する…なんて事も無いので、『疑惑』を持たれない様に、更に厳正にしなければいけなくなる、と考えています


1000食とか万食とか提供する様な団体では無く、ごく小規模の所ですら、ごく一部でも公金が入っている以上は、今まで以上に厳格にならなければいけない。

幸いにもウチは普段会社員として経理仕事をしている女性(仮にK子さんとする)がキッチリやってくれているが、それでも限界はある。

年末年始に今までの申請分含めて改めて整理した所、「グレー」や「黒に近いグレー」な会計が、いくつか出てきたという。

公金ガバガバでも会計ガバガバでも無い所ですら、それこそ本当に悪意無く会計ちょっと問題ある所が出てくる。

しかし、「ちょっとぐらい良いだろう」というのは、恐らく今後数年は難しい、「ちょっとぐらい」は「アウト」になるのでは?と思わざるをえない。


行政基本的責任を取りたがらない。

もし仮に今後、例えばウチの様な所で少額の「不当な経理」が見つかってしまうと、以前であれば「すみません、次から気をつけます」で許されていた事が、許されなくなる。

あん問題があったというのに、何故他でも起こるのだ。ちゃん監視しているのか?」と責められたくない行政は、ウチみたいに政治家後ろ盾なんて無い団体などあっさりと切ってしまうだろう。


ぶっちゃけ、真面目にやっている・やっていきたい所程、事務作業が増大し、チェックも厳しくなり、支援にかけるリソースが消費される事になる。

そこまで考えて、あそこまで強硬な態度を取っているのだろうか…いや多分想像すらした事も無いのかもしれない。

一番迷惑がかかるのは、お金も人手も足りてないウチの様な弱小団体では無く、そんな団体が何とか助けようとしている、行政からも大規模団体セーフティネットからもこぼれ落ちてしま社会的弱者だと言うのに。


ちょっとフェイク多めなので我ながらふんわりした文章になっていると思いますすみません

でもぶっちゃけ言うと、自分の所でも…いや大抵の団体では、あのレベル会計やってたら、「領収書出せ、すぐに」と詰められるだけまだマシだと思います

一発アウトでハネられても文句は言えないので、普通経理の人、ウチで言えばK子さんに全力で止められます

公金を貰うという事は、皆様の税金…恐らくその中には自分達の活動に対し否定的であったり肯定的では無い人達税金も含まれます

そういった類のお金を、僅かでも頂く以上、お金関係クリア状態を維持するのは当然だと思っていたのですが、そうでは無い団体も少なくなく、非常に残念に思います

2023-01-04

anond:20230104130937

 2013年6月28日付けの毎日新聞夕刊の山田隆夫インタビュー記事に驚くべきことが

書かれていたので記しておきたい。「1985年8月12日。その日の夕方笑点メンバー

徳島に向かうため羽田空港にいた。悪天候で予約便を大阪行きのJAL123便に変更しよう

としていた時、林家こん平師匠が『予定の飛行機で行こうよ』と切り出した。123便に乗って

いた坂本(九)さんは星になり、山田さんは命をつないだ」。当時の笑点メンバー坂本との

交流に関して具体的な言及はないのであるが、つまりは、こん平師匠一言が無ければ、

日本航空123便墜落事故笑点メンバー全員が亡くなっていたところだったのである

https://blog.goo.ne.jp/tama-4649/e/7a27c0c12c3a02f01c3e5be9bd3b5e89

霊感商法対応ダイヤルメール相談

法テラスの「霊感商法対応ダイヤルメール相談

https://www.houterasu.or.jp/houterasu_news/reikandaiyarumail.html

これ、スピリチュアル2世相談していい?

親が「訓練したら死者と交流できる。死後探索できる。」と言って、スピリチュアルビジネスをしてはセミナーワークショップ開催してるんだけど。有料で。

スピリチュアルな人って話通じなくて、それ伝えても「この世界が見えない一般人は、理解できなくても仕方ないよね。」と、中二病みたいな事言うからしんどい

2023-01-03

被害者は意外と加害者を憎まない

最近被害者弱者はみんなが思ってるようなのじゃないんだぜ!」みたいなのが流行ってるから、もう一つ。

私達は、被害者加害者を憎むものだと思ってる。

いじめ虐待誘拐性犯罪殺人、全部許せない。

こんな恐ろしいひどい事件赤の他人である自分達ですら加害者が憎くて堪らないのに、被害者はきっと想像を絶するほど加害者が憎くて、苦しめて苦しめて殺したいに違いない!被害者に刑を決めさせればいい!

そう思いがちだ。

だけど、意外と加害者を憎まない被害者は多い。

たとえ重犯罪でも。

それは、汝の敵を愛せよという精神ではない。


一番有名なのはストックホルム症候群

誘拐監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者時間場所を共有することによって、加害者好意共感さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象

解放後に犯人かば証言を行う者や犯人恋愛感情を抱く者までいるという。

これは自分の心を守るための機能だ。

逃げられない状況下では、犯人を好きになるしかない。また、犯人の優しさや人間味に惹かれてしまう。


から虐待となるともっと根深

虐待すればするほど子供は親を慕うものになると小山晃弘も言っていた

酷い毒親虐待親でも慕う子供は山ほどいる。大人になっても洗脳が解けないことはザラにある。自分の親が毒親だなんて認めたくないことだから

家庭という閉鎖的な空間虐待に晒されているとそれが普通だと錯覚する。親との温かい思い出もある。親の機嫌をとるため、親のことを好きになる。虐待を受けても、自分が悪い子だからだと思い込む。

世間も親には感謝しろと唱えるから、尚更だ

大事にされるのに慣れなくて、優しい養親に反発したり、殴るパートナーを選んでしまったり、自分の子に同じことを繰り返したりもする

性的虐待も同じ。

性的虐待を受けても父親を嫌いになれない、あれを除けばいい父親だと言う少女女性は少なくない。

性的知識の無さから喜んでしまうこともある

自分から求めてしまった、快感を感じてしまったという体験談も…それが罪悪感を植え付ける

他の性被害だってそう。

自分の中のダメージを少なくするために、なかったことにしようとして被害後も加害者普通に接したり、あろうことが加害者好意を持ってしまう人もいる

レイプから始まる恋は実際ある、と小山晃弘も言っていた。まぁ関係ない人のコラ画像を使ったりしていて悪質だが。

学生時代痴漢にあって、最初怖かったけど快感に目覚めてしまった」と語る裏垢もあるし、それを見て勘違いしてしま痴漢野郎もいる。

ストックホルム症候群と同じく、ダメージを少なくするための防衛機能なのだろう

加害者好意を抱いたり、快感を感じたりはしなくても、加害者を憎まず「自分が悪いからだ」と自分を責めて終わってしまう人もいる。

他人ことなあなたは悪くないと言えるが、自分被害に対しては自分が悪いのだと思ってしまう」と語る性被害者は少なくない



いじめだって同じだ

ネットでは「いじめたやつ許せない!」的な声ばかりが大きいが、「いじめられたのは自分が悪いのだ」と結論付ける被害者は少なくない。

昔リア中の時に朝日中学生ウィークリーを読んでいたが、いじめ相談的な投書欄に「いじめられる方にも原因がある」的なのが殺到した時期があった。しかも、「いじめられた自分はこうやって乗り越えた。だからいじめられる方も変わるべきだ」的な投書もあった。

いじめた子に謝って今では親友です」「いじめてきた子に自分不愉快にさせたと謝って今では親友です」的な体験談複数見た。

そこに、ストックホルム症候群的な心理はないといえるのか。

レイプから始まる恋ならぬ、いじめからまれ友情

いじめられっ子を助けたら、そのせいで自分いじめターゲットになり、あろうことが助けられたいじめられっ子がいじめる側に回る

「鬼」とかい話題漫画でもあったよくあるケースだけど、これもいじめられっ子がいじめっ子を憎んでないからだと言える。憎んでないから媚びるし、一緒に恩人をいじめ



体罰もそう。

「悪い自分を殴ってくれた先生感謝してる。体罰必要だ」と語る大人は少なくない。

「言うこと聞かない奴は殴る。殴った子ほど後に慕ってくれる」とのたまった顧問もいた

暴力教師に親身になって支えてもらった感動話を見たこともある

暴力振るう男はモテるというが、男にも好かれる。


DV夫や彼氏から離れられない女などは、挙げるまでもない。


意外なことかもしれないが、加害者を憎むより、自分が悪いと思う方が楽なのだ。憎むのはエネルギーが要る上に、被害自己肯定感を失わせ、自責に向かわせる。

更に問題なのが、「被害に遭った自分が悪いのだ」を他人にも押し付ける奴がいることだ

山口達也に襲われた女子高生セカンドレイプしてた女性達のうち何人かが「私は電車痴漢されたことがあるけど自分が悪いと反省したのに」「セクハラキスなんて私もされる。よくあること」と言っていた。

「私はレイプされても我慢したんだから痴漢くらいで訴えるなんて甘えてる」

いじめられる方にも原因がある。自分いじめられて変わったようにお前も変われ」

「俺の時代体罰は当たり前だった。体罰が禁じられて甘えたガキが増えてる」

「今はなんでも毒親毒親と。私は暴力アル中etcの親にも感謝してるのに」

「今の女は甘えてるのよ。私は夫に殴られても我慢して尽くしたわ」

これ、全部見た。


人は自分の身に起こった事(幸福でも不幸でも)に理由付けをしたがる。

普通の人でも不幸が連続して降りかかった時に「俺は前世で悪いことをしたのか」と溢してしまう。

あなたが受けた虐待あなた前世で悪いことをしたからです。あなたがその体験をしたいと選んだのです」的なスピには、意外と虐待被害者がハマってしまう。自分の受けた不幸に理由付けをしてくれるからだろう

殺人事件被害者遺族なら犯人を憎みまくるはずだって?それが、そうでもない。

「心にナイフを忍ばせて」という、酒鬼薔薇事件被害者遺族を追った本(ブコメ見たので訂正。そっくりな別の事件被害者遺族を追った本)では、加害者に対して被害者遺族が同情的なコメントをするシーンがある

加害者についてあえて他人事のように思いたいから」らしい。

また、死刑賛成派のルポルタージュでは、死刑囚が被害者の兄と手紙交流し、被害者の兄が「彼を死刑にしないでください」と頼み込むエピソードがあった

死刑反対派の森達也氏も、死刑を望まない遺族は意外と多いと言っていた。遺族と言っても生前被害者と良い関係とは限らないが…


断っておくが、被害者に原因があるとか被害は大したことないとか言いたいわけではない

しろ、だからこそ虐待いじめ体罰性犯罪DV殺人も、許されないし痛ましいのだ。

憎むことすら封じられた被害者は、一層重傷である


もちろん、全ての被害者が憎まないわけではない

加害者が憎くて堪らない、殺したい、そんな人の方が自然だろう。

だが、加害者を憎まない、憎むことすらできない被害者は「意外と」いる。


そして、被害者加害者の代わりに自分の味方や同志を憎むことがある。

虐待を受けても親を慕う子供は、親から引き離そうとする大人を憎むだろう

発展途上国だかで性的虐待児童買春被害に遭っていた女の子保護された後、不自由に耐えきれず何度も施設から逃げ出して売春しようとしたって、その人の人生を綴った本に書いてあった。きっと、施設に連れ戻し不自由生活を強いる保護してくれた大人を憎んだのではなかろうか。

前に「九州田舎に嫁いだ語り手がレイプ未遂に遭って、姑に『みんなあの男に足入れされて我慢してるんだから』と説得されるも振り切って被害届を出したら、『未遂のくせにズルい』と被害を受けた女性から嫌がらせされるようになった」という地獄みたいな話を読んだ。

レイプ男には仕方ないと諦めて立ち向かわないが、「被害我慢しない裏切り者」は憎み、嫌がらせする。

弱者もまた、弱者いじめる。

子供が性被害などに遭った時に子供を責める親も多いという。

とんでもない毒親だと思ったが、加害者よりも、弱い立場であり目の前にいる子供を責める方が楽だからだろう。

子供被害=自分被害のように感じてしまい、でも子供自分の思い通りにはならない別個体なので、「自分が辛い目に遭ったのは子供のせいだ」という風になってしまうのだろう

被害に遭った彼女や妻を責める男にも、同じことがいえる。


ナチス政権下では、ユダヤ人を虐げる中にはユダヤ人もいた。他のユダヤ人と違って特別扱いをされていた。

そんなユダヤ人も、しまいには他のユダヤ人と同じように殺された。

ユダヤ人自身からも、「ユダヤ人が虐げられたのは自業自得」という意見は出ていたのだ

彼らは「あなたはいユダヤ人だ」と褒められていたのだろう。そして、「他の悪いユダヤ人いるから私達ユダヤ人差別されるんだ。本当に迷惑だ。許せない」と思っていたに違いない

追記

よく「被害者が叩くのはわかるけど第三者が口を出すのはよくない!」と言われたりする

だが、私は明らかな加害があれば第三者こそ叩くべきだと思う。何故なら散々述べたように、被害者被害者からこそ、意外と加害者を憎まないからだ

第三者が「それはおかしい」と言う事で、被害者も「そうかこれはおかしいんだ。おかしいと思っていいんだ」と目覚める事は多い。虐待でもいじめでもハラスメントでも。


って書くつもりだったが忘れていた


追記2

被害者加害者を憎まない一方で、加害者被害者を憎むこともよくある。憎んでるから加害する。

小田急サラダ油男が女性を憎んだように

虐待親が子供を憎んだように

いじめっ子が気に食わないいじめられっ子を憎んだように

DV夫が完璧家事してくれない妻を憎んだように

彼らの話だけ聞くと、加害者被害者を逆に認識してしまうこともあるかもしれない

2023-01-02

[]1月2日

ご飯

朝:おせち。昼:なし。夜:人参大根煮たやつ。

調子

むきゅーはややー。お仕事は十連休7日目。

もう終わりが近いね寂しいね

○ バディミッション BOND

・はじめに

亡き父に憧れヒーローを目指す警官ルークが、相棒となる怪盗のアーロン出会い、色々な人との絆で本物になっていく熱くて激るADV

乙女ゲームの祖コーエールビーパーティーニンテンドー共同開発

とは言っても女性向け恋愛ゲームではない。

事件捜査を通じて家族や人との絆の掛け替えの無さの気づいていく、特にユーザー層を特定しないシナリオだと僕は感じた。

ルークアーロンの熱さが面白い

主人公ルークは真っ直ぐで他人を疑わない性格で、ヒーローを目指して弛まぬ努力を続ける、とても良い子。

しかし、開幕から最後最後までとにかく彼の心を抉る展開が続く。

物理的な肉体へのダメージだけでなく、親しい人の死と裏切りが何度も繰り返される。

ルークの心が折れてしまうんじゃないかと思う展開が延々と続く。

流石にココからはもう這い上がるだけでしょ、と思わせておいてまだ下がる、と思ってからまだ下がる、といった具合。

ところが、ルーク何度でも立ち上がる。

特に辛いのが、常にその前に再起できた理由を踏まえて心を折ってくる。

そのため、話が進むにつれてどんどんとルーク最初に持っていったものがこぼれ落ちていく。

最早何もかも失ってもなお、ルークは立ち上がり続ける。

コレがたまらなく熱かった。

凝った言い回しではないが、再起するときに毎回ビシッと格好いいセリフを言って立ち上がるのも素敵。

そんなルークも一人だと非常に弱くナヨっとしているところがある。

毎回毎回再起出来るのは、バディミッションタイトル通り、バディとなるアーロン存在がある。

アーロンは、優しいルークとは対照的乱暴者で、職業ルーク警察官に対して、怪盗という犯罪者

ルークとは何度も何度も衝突しながら事件を追っていく。

しかし彼も彼で熱いヒーローへの思いがあり、二人がバディとなり物語が進んでいく。

アーロンルークを支える展開はもちろん、ルークアーロンを支える展開も豊富にあり、物語が進めば進むほど二人が分かちがたい相棒になっていく様は熱くてたまらない。

本当に全てを失ってなおヒーロー目指し続けるルークと、それを支えながら自分もそれを目指していくアーロンのバディは、熱血で、燃えて、激る、熱い二人だった。

湿度高めのモクマとチェズレイ面白い

もう一組の主人公となる、オジさん忍者のモクマと、容姿端麗な詐欺師チェズレイのバディも面白い

ルークアーロンがとにかく熱くて火傷しそうなバディなのに対して、こちらはねっとりした展開で溺れてしまいそうなバディだった。

クマもチェズレイ過去に縛られ続けており、その過去を乗り越えるために互いが互いを利用する奇妙な依存関係を結ぶ。

クマ自身に相応しい死に場所を見つけるため、チェズレイはそんなモクマの本性が綺麗な自己犠牲ではなく、下衆で身勝手な行いであることを見抜くため、二人は協力しつつ、殺し合いつつ、友好を深めていく。

相棒と言いながらも空きあらば粘質な悪口の言い合いや、暴力の振り合いをしつつ、好きな気持ちも同時に共有しあう。

先のルークアーロン相棒を頼る気持ちを真っ直ぐ伝えるのに対して、この二人は婉曲的な表現や展開を好む上に、本音を晒そうとしない。

非常に言語化が難しく作品のあらすじをそのまま書き下すぐらいしか、二人の関係性を上手く説明できない。

そんなどこに着地するかわからない二人の関係が、偽物が本物になっていく全体のストーリーを踏まえながら少しづつ進行していく。

・偽物が本物になる

そんな4人がチームを組んで、巨大犯罪組織が起こす様々な事件に挑んでいく。

ボリュームたっぷりで、メインシナリオが19章、サブシナリオが無数に用意されている。

割合としては少な目だがコメディ色の強い回もありつつ、基本的にはシリアスに4人の主人公たちは事件捜査する。

一言でまとめるのは良くないのだけど、全体を通じて、本物と偽物の対比が繰り返されていたように感じた。

本物は善きこと、偽物は悪いという単純な軸の話じゃなく、偽物かもしれないけど善きものを目指していけば本物に近づけるみたいな、苦難への向き合い方のエピソードが多かった。

特に4人の主人公の中でも一番目立っているルークに関しては、全てが偽物でありながら、ヒーローを目指すという原初の願いだけで最後最後まで駆け抜けて、それが色々な人の気持ちを動かしていく展開がたまらなく熱くて面白かった。

・島の人たちの成長も面白い

ここまで4人の主人公たちについて書いてきたけど、それ以外のサブキャラたちも熱いキャラが多い。

ミカグラ島という島国舞台なのだけど、この島の住人たちも熱い。

物語の当初はただのモブ、ただのシナリオ歯車的なあまり物語の無いキャラに思えるのだけど、サブキャラたちもメインストリーを通じて何度も何度も登場してくれる。

僕としてはむしろ彼らの活躍こそ、楽しかったし見所だったと感じた。

成長して、最後には彼らとの絆が主人公たちを救う王道シナリオも本当に激って燃えた。

数えきれないほどにたくさんキャラがいて、公式サイトで紹介されていないぐらいの立ち位置なのに大活躍するキャラが多い。

僕が好きなキャラネタバレ抑え目で紹介すると、

側近その2ぐらいの立ち位置で登場しながら最後最後まで活躍するタンゾウ、

カラクリ技術専門家で好きな女と駆け落ちした男に頭を下げて謝罪できる度量の広さを見せこの行為がかなり大きな契機になる重要人物のガコン、

不良の弟に対してヘタレビビりな兄という立場ながら巨悪に立ち向かったりとあるピンチを救うことになる成長率No1のヤサオ、

所謂マスゴミ」的な登場しながら徐々にジャーナリズムに目覚めていくネラーエ・トクダ、

ヒーローショーの司会のお姉さんで作中数少ない恋愛描写を担いつつ苦難な恋の道を歩むことになるココ・デ・オドレイ

機械義肢整備のプロ双子の妹王美腕に重たい感情を向けられながらも男遊びをやめようとしない王美脚

などなど魅力的なサブキャラてんこ盛りだった。

・さいごに

ボリュームの熱いADVだった。

30時間ほどのゲームプレイで、事件捜査主題作品ながら、このボリュームの大半が4人の主人公関係性と豊富なサブキャラたちとの交流に割かれていた。

何かのトリックを暴いたり、証言を集めたりすることに文章が割かれていないため、舞台であるミカグラ島で本当に暮らしていたかのような読後感あった。

ご飯スイーツ描写が多いこともあってプレイしていてお腹が空くのも良き。

乙女ゲーム文脈からまれたからこそなのか、美少女ゲーム(※ここでいう美少女ゲーム所謂漫才パート」の繰り返しで構成されているそれを指している)やミステリゲーム文脈かた生まれゲームばかりしている僕にはかなり新鮮だった。

街とか428をより広くして浅くした感じかも……?(ここ適当書いてる)

ゲーム本編はミカグラ島を巡るストーリーとしては完結しているものの、主人公4人がまた別の土地事件捜査を行えばどれだけでも成立するタイプだと思うので、延々と続編が出続けてほしい。

どうも、ドラマCDで展開が続いているらしいのでそこも要チェックしたい。

熱くて手に汗握るたぎりが止まらない熱血さが、キャラクタの関係性に豊富な文量を差すことで実感を持って味わえる面白い作品だった。

anond:20230102104156

まーた自虐風自慢かよ

誰にも相手にされない弱者男性と違って私は沢山と人と交流してるんだぜって言いたいんだろ

弱者男性を虐げるようなことを言って何が楽しいんだ

オタク舐めてた

女性普通の男女R18漫画描いてる

 

周囲で女性でR18漫画描いてる人いたけど、みな結局プロになってるからなんでかなあ、って思ってた

自分同人の気楽さが好きで、商業なっちゃうと仕事になるのが嫌だったから、気軽な趣味同人してた

Webで公開してた分には普通いいねとかもらって楽しかったし、感想貰うとうれしかった

自分が描きたくて描いてるだけで絵柄が好きな人がいてもお近づきになろうとかあまり思わなかったから、交流全然してなかった

電子で出したらそこそこ売れて、嬉しかったけど思ったより金額が大きくなっちゃって、税金とか考えるの怖いからやめた

そうか、同人誌なら出した部数以上売れないか税金とか考えなくていいな~っていう気軽な気持ちコミケに申し込んで、この前初参加してきた

 

本当に何も知識がなかったんだなと反省している

女性が一人で本売ってるとこんな目にあうの?

親しくていいね送り会うだけだった相互さんが、「えっ、○さんですか、女性だったんですか?」なんていうから、そうなんですよ、とか気楽に返しただけだったのに、

一緒にアフターしないかとか言ってきたり、一旦挨拶して別れたのに何度もやってきたり

その他にも終わった後感想DMが届いて喜んでいたら、リアルでお会いしたいとかお話したいとか、なんで?

今までDM別にこんな動くことなかったのに、なんか私の漫画より私の事聞き出そうとする人がたくさん出てきたり、エロDMみたいなの来たり怖い怖い

怖い怖い、って既に同人辞めてる友達にいったら、「女一人で参加なんかしちゃダメだよ!」ってすごい怒られた

そうなの?だってすごい壁の女性絵師さんとかいるじゃん、って行ったらそういう人は旦那や身内がボディーガードにいるんだよ、女一人で島角でR18エロ本売るなんてもうカモだよ、っていわれて

まじでかよ、と思っちゃった

女だと分かった途端に描いてる人の中身を探ろうとしてくる人の心理ってなに?オフパコ狙いだって言うのはわかるけど、どうしてオフパコできると思うんだろう?

そう簡単に股開いたりなんかしないよ

 

もしかして女性絵師さんがプロになるのって、こういう直接読者と触れないで済むからだったりするのかな

やっぱり商業だといろいろ守って貰えそうだし。

2023-01-01

カーテンの向こう」という名前ゲットー

フェミニスト寄りのオタクの人たちや、腐女子の人たちが、よく「カーテンの向こうに行けばいい」みたいなことをおっしゃるんですが、なんでこれに賛成できないかっていうのがイマイチ伝わっていないので、簡単説明したい。

この問題は、一言で言えば、金の問題

この間話題になった、大阪駅の咲の広告は、ソシャゲ広告なんですよね。ソシャゲの開発費用はどんなに安くても数千万普通は億単位かかりますし、咲とのコラボのための開発費やライセンス料もかなりの金額がかかっているはずです。

ここでコストを回収して利益を出すためには、わりとガッツリ広告しないとできない。

「宇崎ちゃんは遊びたい」とか「月曜日のたわわ」もそうで、出版社を背負って立つ、とは言わないまでも、バンバン一般に売れて利益を出してくれるから、当たるかどうかもわからない新人発掘や、赤字垂れ流しの人文系仕事ができるわけですよね。

同人作家も、今やプロ同人みたいな人が多いので、売れるか売れないか生活に直結している。

助成金貰って大赤字出版する大学先生とか、子供部屋おばさんが趣味のお仲間の交流でやってる同人誌と違って、彼ら(彼女ら)は商売でやってるんですよ。だから、がんばって広告しなきゃならない。

ぶっちゃけて言えば、山本直樹は、印税の入ってくる大御所で、低コスト制作体制で、一部の趣味人に刺さればいいってビジネスをやってるからカーテンの奥に引っ込めばいいぐらいのことを言っているだけ。

この基準ソシャゲ屋に適用すれば、どんだけの人数の首切らなきゃならないか、という想像力ゼロの、ゲージツ家の先生たわごとにすぎないわけです。

金の問題なんだから我慢しろ? そういう意味じゃ、ナチの作ったゲットーだってゾーニングと金問題に過ぎない。まあ、金が無さ過ぎて餓死者と病人が続出したわけだけどね。

ま、そういう前提があって、もう一つの問題として、そもそもその広告表現が「カーテンの向こう」に引っ込まなければならないほど実害があるのか、って問題がある。

もちろん、その表現で傷つく人や、精神的ショックを受ける人がいることは認める。しかし、そのレベルで言うならば、ハングル表記精神的な打撃を受けるネトウヨだって珍しくない。

感情に貴賤はない以上、「内心の静穏の権利」を守るために規制するとなると、ハングルにショックを受けるネトウヨの主張も飲まなければならなくなる。

もちろん、現実にそんな規制はできないから、そのくらい我慢しろって話にしかならないわけなんだけど。

これが、廃人を続出させるシャブであれば、たとえシャブビジネスやってる人がいたとしても規制するのは妥当だと思いますよ。でも、萌え絵は、規制薬物や公害物質のようなものじゃないわけですよね。

そういう比較衡量を全くせずに、自分が興味ないからって雑にゲットー送りにしてしまえ、みたいなことを言うのは、控えめにって恥知らず愚か者なわけです。

2022-12-31

下方婚上方婚ではなく、中方婚すればいい

まりスペックが同じもの同士(年収地位容姿など)が結婚すればいいのでは。

女性は稼げなくても容姿女子力が高ければいい、なんてことは許されない。

逆に、男は家事育児できなくてもいい、なんてこともない

年収も同じくらい、容姿も同じくらい、地位も同じくらいの者同士が結婚すればいいのだ

マイナンバーで集めた個人情報AIに通してマッチングさせ、対等の者同士を定期的に交流させる

それなら良き世界になるだろう

日本政府頑張れ

可愛らしいビール腹のおじさんちゃん誕生日おめでとう♥️♥️♥️おめでとうだね♥️今年はどんな歳だった?♥️おばさんは、可愛らしいビール腹のおじさんちゃん増田交流できて、幸せだったよ♥️来年よろしくね♥️もちろん2023年もずっと大好きだよ♥️ちゅ♥️

2022-12-30

anond:20221230220420

別の増田が「この増田みたら確実にブロックする」と書いてますが、私も確実にブロックする側でした。

大前提としてあなたに非はなくて、単に私の好き嫌い問題になります。なので直す必要も気にやむ要素も全くない(といっても気にさせますよね。性格的に)。

せっかくの機会なので言語化しますと、以下が私と合わないなーって箇所です。

自分作品を読んでもらえてる前提で話をしてる

交流ない人からブロックされたことを気にして長文書

あと私はなぜブロックされたか聞かれても全く気にならないです。

実際、過去に聞かれましたし、その人は解除して交流はじまりました。正直、数が多すぎてブロックした理由なんて覚えていません。

もしその人と交流したいなら別垢つくって話しかけてもいいかも知れませんよ。

anond:20221230211422

エログロが平気で、比較交流が多くて、検索から気軽にブロックorミュートするタイプのめんどくさい字書きです。

過去ブロック例を挙げていくので、こんな些細なことでブロックする人もいるんだなーと思ってもらえたら。

・「A×Bが無い」というツイート。私が書いてるのに無いって言うなら読まなくてOK、無いのに書かないやつは視界から消えろの気持ち

理解が甘い、一人称が間違ってる話を書くひと

・話の内容が万人受けするかどうかは別としてキャラ解釈が違う話を書くひと

・作文の基本ができてない小説を何本も上げてるひと

・独特すぎる絵柄のひと。見てて不安になるので視界から消したい気持ち

・「誰か絡んでくれないかな〜、でも誰も見てないよね(チラッ」みたいな、臆病かまってちゃんツイート

・A×Bアゲ、B×Aサゲみたいなこと書くひと

名前CP名が入ってるひと

Twitterアカウントブロックされている原因を知りたい

Twitterアカウントブロックされてた。いや、それだけなんだが、何だか不思議気持ちなので残しとこうと思って書いてる。

私はある作品腐向け二次創作アカウントを持っている文字書きだ。その界隈自体そう大きい訳でもなく、大手アカウントの渾身の絵でも300いいねいくかいかないかくらいの規模の、割とこじんまりした界隈だ。

人見知りなので、日常のことを呟いたり他のアカウント交流することはあまりなく、ひたすらSS投稿している。

フォロワー数は二桁。いつもいいねをくれるアカウント10人もいなくて、一つの作品に平均20くらいのいいねがつく。伸びたら50いいね位?

話の傾向としてはほのぼのかラブコメ。どエッチは書かない。というか書けない。仕事がかなりブラックで、毎日電車の行き帰りで書いているので、公共の場エロは書けない。かけ算というよりは足し算の、全年齢ブロマンス作品みたいなものを量産している。

まり、毒にも薬にもならない弱小アカウントだ。読んで好き嫌いはあるにしても、めちゃくちゃ嫌いで受け付けないってなる話ではないと思う。

そんなある日、好きなアカウント交流企画みたいなのがあった。そのアカウントはかなりピーキーエロとかを書く、まあ結構好き嫌いが分かれる感じのアカウントだ。攻めの葬式浣腸されて辱めに耐える未亡人の受けの物語とか書いている。

ともかく、その人が交流タグを使って他のアカウントと話していた。

その中で、

「私、⚪⚪さんの××(カップリング)の絵が大好きなんですよー!」

という返信があった。会話しているのは鍵アカだ。なるほど、見てみようとその返信の⚪⚪さんのユーザー名をクリックした。

ブロックされていた。

へ?となった。え、なんで受けが酒浸りになってゲロ吐いてるのとか、浣腸されて尊厳削られているのがOKで、私の話が駄目なんだ?ほとんどカップリング要素すらないぞ?それか?え、でも無視じゃ飽き足らずブロックするほどか?

叶うならば話を聞いてみたい。詰問とかでは無く、純粋に疑問として。なんで私をブロックしたのか。ブロックするほど嫌だと思うような特色が私の作品にあるのか。

やらないが。普通に怖いだろう、ブロックした人から「なんで私をブロックしたのですか?」と聞かれるの。

ここまで読んで、そんな粘着質で空気読めない人間からブロックされたんだよ、と思う方もいるかもしれない。確かに私はそこまで性格が良くない。けれどもそんな本性が出るツイートしたことが無いし、オフで同じ界隈の人に会ったことすらない。だからブロックされるなら純粋作品が気に入らないしか原因は考えられないのだ。

本当に何故なんだろう。

恐ろしい…

日本人女性洗脳されていた」 勧誘活発化させる韓国新興宗教10万人”の集会

https://news.yahoo.co.jp/articles/42a095fe54c9c59f98bb363b47bd5363e0b57389?page=2

花「信者を増やしたいということもあるんですけど、その方法ではなくて、日韓交流を通して仲良くしたい」

「花」は、“信者を増やしたい”との意図を認めつつも、主な目的日韓交流で、だますつもりはなかったと主張し続けた。

日韓交流という、自民党議員だけでなく野党議員や支持者までクラっとくる甘い言葉で引き寄せる。

素晴らしく聞こえる勧誘ちゃんと眉にツバつけて聞かなきゃ。

高校どころか大学生卒業して30代後半になってもぼっちロードを突き進む♂オタクぼっち・ざ・ろっくを最後まで見た感想

https://anond.hatelabo.jp/20221229121150

ぼっち・ざ・ろっく全部見た。

ギター買ったところで終わっちゃったからなんかとても消化不良。

で、気になりすぎてウィキペディアたらこの後がすごい面白そうで「うわぁー!にくいことしやがるぜ!!」ってなった。

でもマンガ読むほどじゃない。俺貧乏からマンガ買えないし。

現状、展開の速さよりぼっちちゃんワールド楽しむ作品から別にええけど

コミュ障キャラ主人公で周りがフォローするアニメマンガ

ってすでに色々あるからそれ自体はけっこう食あたりでそんな好きではないんだが…

ぼっちちゃん人間離れしすぎて、【慣れてくるとかわいい】というか、【ここまで来ると宇宙人との交流モノとして成り立つ】というか…

status/1608327719779176448

それにしても、こういうのを読むと、今のオタクって俺のころよりはるか熱量が高いんだなと思う。

【音楽】『ぼっち・ざ・ろっく』にハマった人に聴いて欲しいバンドの話|マツウラ|note

誰だよ最近オタクがぬるくなったとか言ってるやつ。すげー奴は俺たちのころよりはるかえぐいじゃん。

逆に俺はアニメオタクじゃなくなったんだなーって思う。

オタクってのはこういう体力すげーやつのことを指すのであって、俺はアニメを楽しむ体力が筋力が完全に衰えてしまった。

オタクコンテンツを全力で楽しむためにはいろんな知識の蓄積という筋トレや、感情の良さぶりに耐えられるような感情筋のトレーニング必要だった。

ここ数年ろくにアニメマンガも見ないでエロ同人ばっかり見てた俺にはもうオタクを名乗る力はないわ。

仕方がないから暇空茜の応援とかやって「オタクのふり」をしておこう。

きっと暇空茜の応援をしてるような輩は俺みたいにもうオタクとしてコンテンツにどっぷりハマることができなくなった奴らなんだろな。

オタクじゃなくなったことを認められないから楽してオタクのふりをできる暇空茜の応援団をやってアリバイ作りするしかないんだ。多めに見てくれよ

オタ女さんはヤリやすい以外メリット無いよな

ちょい前のTRPGの件とコミケで思い出したんだが

売れっ子とか交流多めにしてる人は身だしなみも含めしっかりしてるから例外として。

大抵が髪に潤いないわ服装も年相応じゃないわ喋りも下手だわだし、極め付けは承認欲求強い上に普通の女さん以上に同調圧力にクソ弱い。

承認欲求については、懐に潜り込めてかつ自分がある程度の立ち位置確保できてればヤリやすくなるメリットあるけど。

男のいない界隈ならまだマシだろうけど、界隈のリーダー格とか人気者に男がいると、「ついていかないと仲間はずれにされるし」だの「普段楽しく遊んでくれる人たちだから大丈夫だし」だの、女さん同士の圧力とか他から圧力言い訳にしてホイホイ浮気しやがる。

よほどそいつじゃないといけない理由がなけりゃ、普通の女さん相手にしてる方がいいよ。金がいるけどな。

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