はてなキーワード: 1994年とは
今、日本には1兆3,000億円ぐらいのバイオ市場があります。これは人口当たりにしますと米国より多いんですけれども、内容を見てみますと、その8割ぐらいがライセンスイン、あるいは輸入ということになります。日本は、見事にバイオの世界では張り子の虎になってしまいました。どういうことかというと、日本のバイオ産業の人たちが、1980年代の第一期バイオ研究開発競争のときに、この技術をプロセス技術だと認識したわけです。ところが米国は、もう1980年からバイ・ドール法を成立させて、これからの国際競争は知的財産だということを認識しておりました。バイオにおいてもこれはIP(知的所有権=Intellectual Property Rights)のゲームだということを認識していたということになります。
例えば1980年に日本の企業25社が遺伝子組み換え技術でアルファーインターフェロンをつくっておりました。ところが今、日本の市場で組み換えアルファインターフェロンを売っているのはたった2社。米国のシェーリングプラウ社とスイスのホフマン・ラ・ロシュ社、この2社です。彼らは物質特許を持っている。ですから日本の企業はどんなに安くつくろうと市場から駆逐されていったわけです。
日本のバイオ産業が20年間を無駄にしたのはどういうことかというと、IPの競争だということを認識しなかった。安く、納期に間に合って品質が良ければ勝てると思ってしまったんです。これは、ゲームのルールの設定に関与できない、極東の一小国としてのいつもの悲哀ですけれども、米国が国際ルールのグランドルールを変えるときには、必ずそれを認識して早めに対応しないと常に負けてしまうということです。日本の特許庁がこれに対応できるようになったのは1994年からです。ですから15年近く私たちは違うゲームをやってしまったんです。米国は、大きなグランドルールをデザインをしながら国際競争の質を変えてきたんですけれども、日本は15年間そこを無視してしまった。そこに大きなポイントがあります。
日本の医薬品業界でもやっとこの失敗がわかってきたのですけど、バイオ機器業界みたいな弱小業界にこれを理解する人間がいるかどうかです。
対磐田リーグ通算対戦成績16勝5分22敗で迎えた第30節ジュビロ磐田vs清水エスパルス
ジュビロ磐田はヴァンフォーレ甲府と静岡ダービーの試合結果によっては今節で降格が決まる。
清水エスパルスサポーターにとっては今までの屈辱を晴らす一戦でもあった。
実際には試合開始前にはヴァンフォーレの引き分けは確定しており今節で降格は免れていたが…
磐田サポーターの間では、Jリーグ設立時に磐田の前身であったヤマハ発動機がJSL一部(当時)屈指の強豪であったにもかかわらず、「市民球団」を標榜する清水に参加権をさらわれた、という意識が未だに根強く、清水戦を特別視する人も多い。一方、清水サポーターはサッカー王国・清水としてサッカー文化が根付き各年代に代表選手を送り込み“サッカー王国”といわれる静岡を牽引してきたのは清水という自負がありJリーグ参加チームで唯一“サッカー王国静岡・清水”という名前のみで参戦できたことを誇りに思っている多くのサポーターがいる。
Jリーグ加盟に際して、ヤマハサッカー部も当初は初年度からの加盟を目指そうとした。しかし、清水市(現・静岡市)からも市民組織のクラブチーム・清水FC(エスパルスの母体)が結成され、Jリーグ加盟を目標に立てていた。
だが全国大会の出場歴が全くなく、資金や選手補強などの面で劣る清水FCに対し日本サッカー協会のプロ化検討会は経営資金力強化、並びに当時は静岡県に複数のチームを加盟するのは時期尚早ということでヤマハサッカー部とのチーム統合を提案するが、ヤマハはあくまでも単独チームでのJリーグ参加を目指すとしてこれを拒否。
またヤマハ自体もプロチーム設立へ向けた法人化の手続きや、ホームスタジアムの整備などの準備面で清水に遅れをとったのが災いし、結局初年度参加メンバーから落選することになる。ヤマハはこの後1992年に地元企業やマスコミ団体などとの協力によりプロ化を念頭に置いた「株式会社ヤマハフットボールクラブ」を設立し、1993年にジャパンフットボールリーグからJリーグ昇格の権利(2位以内)が与えられる準会員制度の適用第1号(他日立→柏レイソル、フジタ→湘南ベルマーレ)となり、その年のリーグで準優勝してJリーグ昇格を決めた。
この時点においては清水エスパルスサポーター側にはジュビロ磐田に対する対抗意識はなかった。
しかしジュビロ磐田側にとってはJリーグ加盟を奪われたと思われていた。
経営面や施設面で不備があったにもかかわらず…。
1994年4月6日初めての静岡ダービーが行われる。この試合は清水エスパルスが勝利した。
しかし、5月18日から1996年4月27日まで8連敗を喫する。
さらに、1997年にはジュビロ磐田が清水エスパルスよりも先にリーグ優勝をした。
このあたりから清水エスパルスサポーターに対抗意識が芽生えてきたようだ。
ちなみに初めて「蛍の光」を清水エスパルスに歌ったのが1994年5月18日。以後ことあることに歌うようになる。
年間チャンピョンを決めるチャンピオンシップにて清水エスパルスがジュビロ磐田に負け初の年間優勝を逃す。
「俺達は清水が滅ぶまで戦い続ける磐田を見て死ね」の横断幕を掲出する。
「A name of kingdom IWATA と 今までの獲得タイトル」を記した大型フラッグを掲出する。
「A shame of kingdom SHIMIZU と Empty?」を記した大型フラッグを掲出する。
「ジュビロ磐田と清水エスパルスのエンブレムを天秤に載せた」大型フラッグを掲出する。
ゲーフラでは「J2 死水」や「ROAD TO J2」などと掲出
この事件により清水エスパルスとジュビロ磐田のコアサポ間で行われていた交流がなくなる。
「降格?嘘だよね?バーカアホメガネとジュビロくんの絵」の大型フラッグを掲出する。
「ジュビロ磐田のフラッグに穴をあけJ2」と記したフラッグを掲出する。
「J2 チャレンジ 一年生」「格下」「A Shame of Kingdom?(笑)」「片道切符の島流し」などとゲーフラを掲出する。
「勝利は続くよどこまでも」を合唱する。
Yahooニュースのコメント欄にいろいろ書かれていたので増田してみました。
今回の出来事について当然賛否があることでしょう。
馬名 | 性 | 生年 | GI級競走 | 功績 |
---|---|---|---|---|
スペシャルウィーク | 牡 | 1995年 | 4勝 | 当時世界記録の獲得賞金10億9千万 / 内国産種牡馬として初めて海外GI勝ち馬を輩出 |
ダイワスカーレット | 牝 | 2004年 | 4勝 | 37年ぶり牝馬の有馬記念優勝 / 12戦連続連対・連対率100% |
ブエナビスタ | 牝 | 2006年 | 6勝 | 史上最多タイの4年連続GI勝利 / 中央競馬最多の19戦連続一番人気 |
ヴィクトワールピサ | 牡 | 2007年 | 3勝 | 日本馬初のドバイワールドカップ優勝 |
ゴールドシップ | 牡 | 2009年 | 6勝 | 二冠馬(皐・菊) / 史上初の宝塚記念連覇 |
ジャスタウェイ | 牡 | 2009年 | 3勝 | 国際レーティングで内国産馬最高の130ポンド / 国際レーティングで日本馬史上初の単独1位 |
モーリス | 牡 | 2011年 | 6勝 | 短距離馬では史上3頭目の年度代表馬 |
オジュウチョウサン | 牡 | 2011年 | 4勝 | 障害最多タイのJ・GI4勝(連勝) / 障害重賞最多8連勝 |
グランアレグリア | 牝 | 2016年 | 6勝 | 史上初の古馬芝マイルGI完全制覇 |
デアリングタクト | 牝 | 2017年 | 4勝 | 史上6頭目の中央競馬牝馬三冠 / 史上初の無敗牝馬三冠 |
イクイノックス | 牡 | 2019年 | 6勝 | 国際レーティングで日本馬最高の135ポンド / 当時中央競馬歴代1位の獲得賞金22億1544万円 |
馬名 | 性 | 生年 | GI級競走 | 功績 |
---|---|---|---|---|
ウシュバテソーロ | 牡 | 2017 | 3勝 | ダートのドバイワールドカップ優勝 / 中央競馬歴代1位の獲得賞金22億1567万円 |
バイオの今までの数年の動向と現状、そして進路について思うことを書いてみたよ。
受験生やバイオ系の学生さんに進路を考える点でちょっとでも参考になればうれしいよ。
数年前までバイオがとても注目されて、クローン技術、移植医療、ヒトゲノム計画、遺伝子組み換え食品などが
有名になったよね。
では今はどうかと言えば、そんな言葉見る影もない・・。
あれだけ騒いでいたマスコミ連中は「これからはナノテクの時代」などと別なことをほざくようになって、
バイオなどどこ吹く風・・・。当時、理工学系の学部で最もレベルが高かったのは紛れもなく「バイオ系学科」だったのに、
いまは最もレベルが低い学科に成り下がってしまっているみたい・・・。
受験生の間では、
クローン羊ドリーの誕生によってクローン技術が世界で騒がれ、はたまた脳死患者からの日本初の臓器移植、あるいは、
世界規模で行われていたヒトゲノム計画の激化、夢のような食品を作ろうと考え出された遺伝子組み換え食品、まさに
それと同時に「バイオは倫理観が伴う非常に難しいもの」と倫理性も問われるようになったんだ。
例えば、「クローン技術や遺伝子組み換えは自然が作ってくれた生物の存在を根底から覆すものだ!」って
非難を浴びたし、「脳死患者からの移植は倫理的に問題がある」ってお偉い方は慎重だったし、
ヒトゲノム計画は、「それによって人の遺伝子が分かることでその人の人間的な価値まで判断されてしまう!」
なんて言われていたんだ。
これを読んでいるみんなもこれらのことは知っている人も結構いるだろうね。
倫理観まで問われるってことはそれだけバイオが注目されていた証拠でもあるよね。
じゃあ、あれから数年経った今はどうかって言うと、悲しいけど全く言われなくなっているよね。
それともバイオはみんなを幸せにしたからもういらなくなっちゃったってこと?
繰り返すけど、1990年後半は紛れもなくバイオブームだった。
でもこの言葉って罠がある。
あくまで1990年後半はバイオ"ブーム"ってわけで、バイオの時代が来たっていみじゃなかったんだよね。
ここに大きな問題点がある!マスコミ連中が報じる「これからは○○の時代」って言葉には注意が必要なんだ。
(2)それを大々的に報じる
(3)そして世間がそれに食いついてきたら「これからは○○の時代」って報じる
と言うやり方があるんだよね。
だから「これからは○○の時代」と言われても本当にその時代が来るかどうか誰にも分からないよね。
確かにそれを報じた時やその数年後はその○○が注目されるけど、それ以降はまた別な◎◎が注目されるようになって、
「これからは◎◎の時代」ってふうに話題がすり替わっているものなんだ。
では、この前後で科学の世界ではどういったブームがあったかを振り返ってみよう。
年代 | ブーム |
---|---|
1985~1990 | バイオブーム(利根川先生のノーベル賞がきっかけ) |
1989~1994 | 地球環境ブーム(→農学部の大幅な改組) |
1995~1998 | 大型基礎研究施設ブーム(SPring-8、スーパーカミオカンデ、地球シミュレーター) |
1998~1999 | ITブーム(正確にはIT革命ブーム) |
1996~2000 | バイオブーム(クローン技術、移植医療、ヒトゲノム計画、遺伝子組み換え食品) |
2000 | ヒトゲノム計画のドラフト(概要)が完了 |
2000 | ITバブル崩壊(IT不況へ、しかし近年持ち直す) |
2001 | (このあたりからバイオが騒がれなくなる) |
2002~ | ナノテクブーム |
2003 | ヒトゲノム計画が完全終了(しかし世間はすでに見向きもしなくなっていた・・・) |
あれあれあれ??!1985~1990年にもバイオブームがあったんだ~。
実はこれ、利根川先生がノーベル賞を取ったことを機にかなり盛り上がったみたいなんだ。
当時バブル経済まっただ中で、いろいろな企業もこぞってバイオの研究をするようになっていたんだ。
電機メーカーが線虫っていう虫の脳神経を調べたり、神経細胞が伸びていく方法を利用して半導体の
でも、バブル経済が崩壊したらそれらのメーカーもバイオの研究をやめちゃったんだ。
バイオの研究って他の分野の研究とは違ってきちっとした方法論が確立されていなくて手探りでやるから、
本業で稼ぐのが一番ってことで電機メーカーは撤退しちゃったんだ。
その次の1995~1998の大型基礎研究施設ブームっていうのは主に物理学の世界で、宇宙とか素粒子
(原子を構成しているもの)を研究するのには大型の研究施設が必要ってことで各地に建設がされたということだよ。
当時マスコミ連中が言ってた言葉は当然「これからはITの時代」。
2000年にヒトゲノム計画のドラフトが完了したことで、当時マスコミ連中はバイオの倫理について大騒ぎしたんだよね。
でも、これを境にだんだんとバイオが騒がれなくなっていったんだ・・・。
これとは対照的に2002年くらいからナノテクがだんだんと報じられるようになってくる。
2003年にヒトゲノム計画が完了したときにはもう誰も世間の人は見向きもしなくなってしまっていたんだ・・・。
何でだろうね・・!?
2つ目は同じことの繰り返しで真新しさがなくなってしまった場合。
1つ目にあたるのは、ヒトゲノム計画だね。
当時は人の遺伝子が全部分かれば、病気の原因も分かるようになるって注目されたけどそんなことは全然ないよね。
結局、遺伝子解読したから何が分かると言えば、その遺伝子の配列が分かっただけ。
それ以降には全然進まない。
だってどの遺伝子が原因は結局は実験をしてみないと分からないものだから。
ヒトゲノム計画は学問的にも産業的にも利用価値がなかったってわけ・・・。
ヒトゲノム計画の時にアメリカのある企業ががんばっていたんだけど、終了後はこの計画にあまり意味がないことに
ヒトゲノム計画はそんな程度だったみたいだね。
2つ目の理由に当たるのは、クローン技術や脳死移植、遺伝子組み換え食品だね。
その後はあまり技術的な革新はないから(クローン技術はその対象を広げたけどそれ以上はないし)、マスコミ的には
何かフタを開けてみるとあっけないよね・・・。
それにしてもいろいろなブームがあったんだよね(皮肉/苦笑)。
ブームってのは確かに山があって頂上まで行ったら後は滑り落ちるだけってのは分かる。
でも科学の世界ってそんな短期間で語れるようなブームで動いているわけ!?答えは「それは正しくない」よね。
今まで言ったように科学の世界のブームは単純にマスコミが作り出しただけで、実際の科学の研究はもっとコンスタントに
行われていて、確かにある分野が注目されるときはあるけどそのあとは見向きもされなくなるなんてことは変なことだよ。
だって見向きもされなくなるってのはその研究が価値がなかったってことが分かったってことなんだからね。
でも、世間の人はそういうたった数年のブームにのせられてしまうし、多感な受験生なんてそれだけを信じて進路を
「これからは○○の時代」ってフレーズに載せられてその○○の分野に入学しても自分がいざ研究や就職を
しようとするときには世間は完全に見放していたなんてことになったら、いったい何のためにその分野を
バイオの研究者は生物をどのように解析するか?それは文字通り「ただやみくもに」って言葉がぴったりな方法なんだ。
びっくりしたでしょ?ぼくはバイオの研究の問題点は3つあると思っているよ。
1つ目は、生物学の研究方法では他の分野(特に物理学や化学、工学)のように原理原則を見いだそうとは
されていないこと。だから生物学の研究方法はまるで『錬金術』のように「訳の分からない遺伝子をやみくもに入れてみたら
どうなる?」とか、「この薬品とこの薬品を入れてみたらどうだろう?」ってふうに原理原則を見いだそうとせずに、
結果さえよければそれでいいって感じでやっているのが現状なんだ。
錬金術ってのはみんなが小学校・中学校で習ったと思うけど、昔の人は金属ごとに違う原子でできていることを
知らなかったから、鉄やアルミニウムから金を作ろうと必死にいろいろな方法を試していたんだ。
これらの原理原則を知っている現代の人から見ればバカバカしいことだけど、残念ながら生物学の研究は現在でも
2つ目は1つ目とも関連があるんだけど、生物学の源流が『博物学』であるから、その博物主義的な発想から
抜け出せないところ。みんなも博物館に行けばいろいろな昔のものが陳列してあってどの時代にどのようなものが
あったかよく分かるよね。でもそれが分かったところで今の自分の生活には活かせないでしょ?それと同じで生物学も、
その対象が動物・植物から細胞・分子レベルにまで移ったのに、やっていることは昔の生物学者がおもしろい生物種を
追い求めて野外を駆けめぐったように、今の生物学者も同じ発想で遺伝子や細胞の中で働いているタンパク質を
発見することに全力を注いでいるよ。そしてそれに名前を付けて陳列して「どうだ!オレはこんなにたくさんのものを
発見したんだぞ」って威張っている状態なんだ。
だから、そこから一般的な原理原則を見いだすことはないし、それを何かに役立てようって雰囲気も全くないんだ・・。
表向きは生物学は理系に属しているけど、理系らしさの証でもある数学・物理学・化学を駆使して数理的に
解析するなんてことは絶対にない。
そういった解析をしている学者は生物学者ではないんだ(苦笑)。
確かに生物と言えども自然界に存在するものはすべて物理化学的法則に縛られているから、その方向からの
解析が必要になるはずだけど、生物学は博物学の流れを持っているからそのような部分には生物学者は
見向きもしないんだ。
文系でも経済学や心理学、社会学では数学を結構使うから、生物学者は文系以上に
それだったら何のために大学入試で数学や理科をやってたんだよって感じだよ。
しかも、生物学の研究には多くの機械を使うけど、生物学者は機械の原理や中身の動作については
全く分かっていないんだ。機械のボタンを押せば何か分からないけど目的の研究ができるってふうにしか
機械を捉えていないから、機械がうまく動かないときは自分で直したりせずに修理を頼むんだ。
その間はだたぼぉ~って待つだけなんだ(笑)。他の理系の研究ではまず考えられないことだよね。
大事なのは、世界のバイオ機器を支えているのは電気工学と機械工学で、この2つがなければバイオは
ダメになるということ。でもバイオの人たちは、自分の研究が電気工学と機械工学に支えられていることに
全く気づいていないんだ。それなのに自分達だけでバイオの研究をしているって勘違いしている部分がヤバいんだよね。
バイオの人間はもっと発想を変えて、理系らしくすべきだと思うけど、みんなそんな意識はなくて毎日朝から晩まで、
続きは
※この話は実話を元にしていますが、あくまでフィクションです。
当時は、勉強しながらよくラジオを聞いていた。友人たちがよく聴いていたのはAM放送のほうだったのだが、音質も悪くて、トーク主体の番組が多い気がしてどうも性に合わず、俺はもっぱらFM放送を聴いていた。
あの頃の大阪のFM放送といえば、5年前に開局した80.2MHzのFM802が斬新な放送スタイルで一大ムーブメントを形成しており、FMが流れている店は大体FM802にチューニングされているといった風潮だったが、洋楽主体とはいえ、基本的にチャートインするようなメジャーな楽曲ばかりを流す802は俺には物足りなかった。
なにしろその頃の俺はYMOを経て電気グルーヴを聴き始めた頃で「テクノ」と名のつく音楽に飢えていたからだ。
ネットもない時代。サブカルに半分足を突っ込んだ引っ込み思案の中学生には情報もないし、それを補う行動力もない。しょうがないのでCDレンタルで、とにかくそれっぽい音楽を、BUCK-TICKやカシオペアや姫神、ようするにシンセが使われている音楽ならなんでもいい、といったところまでストライクゾーンを広げて、片っ端から聴いて、なんか違うよなあ、と思いつつ、飢えをしのいでいた。
そんな時、周波数75MHz付近にラジオ放送欄に存在しない局が存在することに俺は気づいた。
音質はかなり悪く、兄から受け継いだ馬鹿でかいラジカセのアンテナを限界まで伸ばしてようやく視聴可能というその謎のラジオ局は、だいたい19時頃から受信可能になり、深夜3時頃にぶっつりと止まる、明らかに海賊ラジオ局なのだが、俺はすぐさまその局に夢中になった。
なにしろ、その局は、俺が全く聞いたことも無いようなレイブ系テクノばかりをCMもトークも無しにノンストップで延々と再生しつづけるという、まさに狂気のラジオだったからだ。
それからというもの、家に帰って飯を食うと、勉強と称してそのラジオを聞くのが日課になった。
そのうち、音楽の合間に海賊ラジオの主とおもわれる若い男のコメントが一瞬はさまれる事に気づいた。
彼は「○○MHz、バンブーラジオ」とだけボソリとつぶやくとすぐに次の曲をかけた。
バンブーラジオのレイブ系テクノの垂れ流し(いわゆる今は中古CD屋で100円以下で叩き売られているジュリアナ系コンピのようなノリと思ってもらえば良い)は、それほど当時の俺の嗜好に合っていたわけではなかったが、TUTAYAで借りたチックコリアよりはよっぽどテクノっぽかったし、中には心の琴線に触れるような名曲もあったのだ。
その度に俺は、この曲は何という曲なのか、どこに行けばこの曲が入ったCDを買えるのか、切実に知りたかったが、なにしろ曲名を読み上げもしないバンブーラジオなのだ。それを知ることはできなかった。
そんなある日、いつものようにバンブーラジオをかけると、珍しく人の声がした。おそらく生放送で、バンブーラジオ局の主とその友人とおもわれる若い男が二人で楽しそうに会話している。
「FM放送なんて簡単だって、日本橋でパーツ買ってきて、ちょっと改造したらええだけやん。3万もあればできるで」
みたいなことを言っていた。俺は、個人でFMラジオを開局するという、そのとんでもない発想に興奮し、乗り気でない友人に替わって、自分にその方法を教えてもらえないものか、とすら思った。
「そうだ、リクエスト受け付けてみるか」
と言い、おそらく主の自宅の電話であろう、電話番号を読み上げた。
俺の胸は高なった。「同じテクノの好きな人間と話すチャンスかもしれない!」
電話番号をメモしたものの、しかし、実際に電話をかけるとなると、躊躇した。俺は無知なただの中学生で、しかも主のかける曲名、ましてやそのジャンルが何というのかすらまったくわからなかったからだ。(当時はディスコでかかるような曲、という程度の認識だった)
リクエストしようもないし、そもそも俺が知りたいのは、いつもかかる曲の曲名のほうなのだ。
そんな質問をするために自分が電話していいものか…さらに言うと、携帯もない時代に、固定電話のある真っ暗な居間に降りていって、見知らぬ、それも違法めいた事をしている男に電話をかけるというのも、何かすごく悪いことをするような感覚があった。もし電話しているところを厳しい母親に見つかったら、と想像すると、俺の興奮は急速に冷めていった。
正確には一回だけ鳴ったが無言電話だった。もちろん犯人は俺ではない。
そのうち、主とその友人も飽きてしまって、元のノンストップ放送に切り替えた。
残念な気もするが、まあ、また機会もあるだろう、俺はそう思って納得することにした
バンブーラジオはその後も放送を続けていたが、やがて、いつもの時間でも休止していることが多くなり、放送があっても、まったく関係ない、違う個人運営のラジオ放送(素人くさい女DJがJ-POPをトークの合間にかけるといったもの)を中継していることが多くなった。
季節は冬になろうとしていて、受験本番の日が近づきつつあった。
ある時、習慣でバンブーラジオにラジオを合わせると、聞き慣れたレイブテクノが聞こえた。
ああ復活したんだな、良かった。
と俺は思い、そのまま聴き続けたが、合間にいつも主がはさむ「○○MHz、バンブーラジオ」の名乗りに変化があった。
俺は驚愕して、眠い目をこすりながら放送を聴き続けた。深夜2:00頃だろうか、音楽がふいにフェードアウトし、主のボソボソ声に切り替わった
「最近忙しくて、ちゃんと放送ができなくて申し訳ない。この放送は、○○(大阪の地名)から放送してるんですが、なんかどうも電波が岸和田あたりまで届いてたらしいですね。どれぐらいの人が聴いてくれていたかは知りませんが、今までありがとうございました。」
「放送を辞めるのは、神戸に引っ越すからで、そこでも放送を続けるかは正直わかりません。やりたいとは思ってますけど、設備の問題もあるので。」
「ではそろそろお別れです。スイッチを切ったら、屋根のアンテナ外して、これでバンブーラジオは本当に終わりです。」
そして、数秒のブザーの後、放送は止まった。ヘッドフォンからはホワイトノイズが流れていた。
あの時、電話しとけば良かったなあと俺は少しさびしくなったが、実は、その時にはそれほど感慨はなかった。
なぜなら、俺は既に電気グルーヴのテクノ専門学校シリーズを手に入れて、自分の好きな音楽がクラブ系テクノミュージックというものであることを知ることができており、またテクノ専門学校のセールスがそれなりに良かったのか、ソニーミュージックの海外インディーズレーベルを中心としたリリースラッシュ(AphexTwinやBlack Dog、デトロイトテクノ系アーティストなど)もあって、大きなCDショップに行けば、簡単に好きなテクノミュージックが手に入るようになりつつあった。
なので、好みの合わないレイブ系のラジオが終わっても、わりとどうでも良かったのだ。
それから1ヶ月もしないうちに、1.17 阪神・淡路大震災が起こった。
俺の家の被害はガスが止まったぐらいで大したことはなかったが、尼崎に住んでいた叔父一家が被災するなどして、大混乱だった。親戚全員の無事が確認された後、俺が真っ先に思い出したのは神戸に引っ越したバンブーラジオのことだ。
ラジオで読み上げられる無数の被災者の名前を聞きながら、俺はバンブーラジオの主の無事を祈ったが、もちろんそれを確かめる方法はなかった。
その後、志望校に合格し、春から始まる高校生活を前に、期待と不安で宙ぶらりんになっていた俺は夢を見た。
大阪の電気の街、日本橋に入学祝いのお金を握りしめて、FM放送のための機材を買いにいく夢だった。
何故か、ピエール瀧とバンブーラジオの主が同行してくれて、俺に色々とアドバイスをくれる。
棚に並べられた、無線機の列を眺めながら、俺はこれから始めるFM放送の構想にワクワクしている。
目が覚めた。そして、朝日の中、それが夢だとわかった時、本当の寂しさが襲ってきた。
俺の好きな音楽を一緒に楽しめる友人は、本当は一人もいないのだ。
中学の友達にAphexTwinのAmbient Worksを聞かせても曖昧な笑みを浮かべるだけなのだ。そんなわけのわからん音楽よりこれ聴けよ、と渡されたカセットテープにはボンジョビとミスターBIGが90分詰まっている。trfじゃないだけマシだけど、俺にはこの良さがさっぱりわからないのだ。
同じように、誰も、誰一人、AphexTwinの初期アンビエントの空気感や、カールクレイグの無機質なマシンドラムの良さなどわからない。
俺はどうしようもなく一人だった。そしてそれは、春から始まる進学校での高校生活でも同じだろう。いやもっとひどいかもしれない。
夢で訪れた日本橋の無線ショップに、俺は1週間前に実際に行っていた。自分もFM放送を始めればあるいは、と思ったのだ。
膨大な機材に圧倒され、マヌケにも「FM放送をしたい」と馬鹿正直に店員に告げた俺は、表情を一変させた店員に「それは犯罪だからね。帰ってくれる?」と追い出されたのだった。
幸いクラブ系ミュージックはその後、ファッションの文脈を得て一大ムーブメントを巻き起こした。送信機の代わりにシンセを買って宅録するようになっていた俺にもその手の友人が何人もできて、俺は一人ではなくなった。
ブームが終わって、俺が挫折して、シンセを全部売り払った今でも、彼らとの親交は続いている。
彼らとたまに昔話をする度に、俺はバンブーラジオを思い出す。向こうは俺のことなんて知らないだろうけど、今でも俺にとってバンブーラジオの主は、音楽を好きになって最初に出来た頼もしい先輩で、そして大切な友人だからだ。
皆がオフラインになった冬の夜、決してチューニングできないどこかの周波数で、あのアッパーでどうしようもなく頭の悪いレイブテクノが、あの時のままノンストップで流れ続けている。
俺は、まだそういう夢を見ている。
追記:海賊放送と書きましたが、バンブーラジオが本当に違法だったのか、実は知りません。でも電波が飛んでる範囲からして、当時のコミュニティFMに許された範囲は超えていたように思う。あと、念の為書いておきますが、この文章に違法行為を助長する意図はありません。不正電波ダメ・ゼッタイ。いい子は各種法律守ってネットでやりましょう。
半年前の4月22日、日共の志位和夫委員長に直接質問できるという企画があったので参加した。録音しておいたものの文字起こしがやっと済んだので取り敢えずここにupしてみる。
まず状況を説明する。志位氏が演説した(http://www.youtube.com/watch?v=1MHJQph-JOQ)後に、場所を移して若い人達と語らうという企画だった。10代から20代の若者が100人余り入った会場で、手を挙げて当たった人と志位氏が一問一答するという具合に進んだ。その中盤に私が発言できた。以下が司会者(司)、私、そして志位(志)のやり取りの全文。「やっぱり、」とか「あのー、」「まぁ、」といった句は省いてある。
私:あ、いいですか?
志:こんにちは。
私:あ、こんにちは。1,2分ですよね。
司:大丈夫ですか?
私:あ、大丈夫ですよ。端的に、二つ…あー一つ、お願いします。
人間って、論破しても動かないと思うんですよ。いくら正論言っても、人間を動かすのって、論理と感情だと思うんです。で、感情の前には、論理ってすごく弱いと思うんです。いくら・・・平和が大事だっていうのは私も心からそう思います。そのためにはどっかが先陣きって軍縮を進めていかなければならない、そしてそれができるのは9条持ってる日本だ。その論理はとても筋が通ってるんです。
でも、対して、「・・・でも、こないだ実験やった北朝鮮、なんか飛ばした北朝鮮(※)怖いし、自衛隊まだ要るんじゃないかなぁ。」という感情による一言で、論理ってふっ飛んじゃうんです。例えば、もっと言うと、「もし、共産主義が、共産主義社会になったとしたら、俺やる気保てそうにないし、やっぱり資本主義社会でいいや。競争原理社会でいいや。」という意見の前に、私あんまり頭良くなくて、的確な反論がまだ出せてないんです。どうお考えですか?(私微笑む、会場からも笑い)
志:北朝鮮の問題ね。それは、さっきもちょっと話したけれども、北朝鮮の問題をどうやって解決したらいいか。解決の方法を考えた場合にですね、それは戦争できるか、っていう問題なんです。戦争できると思いますか?(聞き取れず:ダイカイシニマッテ)
実は北朝鮮の問題、実際に戦争になりかけたことがあったんです。最近で言いますと1994年なんです。そのときは核兵器問題で大変な危機だった。それで、実際に、アメリカ軍事力行使の瀬戸際まで行ったんです。そのときに、当時の韓国の大統領の金泳三さん、クリントン大統領に直接電話して、そして「絶対に戦争はしない。もしアメリカが戦争をしたとしても、韓国軍は一兵たりとも動かさない。」こう言ったんです。何故かというとね、今、朝鮮半島で実際に戦争が起きたら、これはもう、ソウルから35キロ先が国境線ですから、これはもう凄惨な地上戦になるんです、間違いなく。南北のおびただしい人命が奪われる。だからですね、1994年の核兵器の危機のときに、いわば、韓国の当時の大統領も地獄の底を見たんです。戦争やっちゃったら大変だと。で、これはやめようと。アメリカも、そのときにクリントンは色々考えたけど、やっぱこれは戦争という選択肢は無い、と。ということで、そういう方向に動いていったんです。そういう流れの中で六カ国協議という流れがずーっと出来上がってきて、ともかく北の問題は様々ある。例えば、ロケットの発射は問題です、それから核兵器の実験も問題です、私も厳しく批判する。しかしその批判のし方は、外交的な、非軍事のやり方で、北朝鮮にとって、あなた方の本当にいい道は他の道はないでしょうということを、説得してやっていく以外に無いんです。(聞き取れず:ワカイカンガエテ)そういう方法で問題解決していくのは唯一の道だし、それしか方法は無いんですよ。
ですからね、そういう心配がある方にね、じゃあ戦争できますか、って訊いて下さい。戦争できると思ってる人は――北朝鮮もできると思っていない。韓国も絶対できない。戦争は嫌だと。アメリカもやれると思ってません。中国も絶対押さえようとしている。日本だって、朝鮮半島で戦争起こったら困るでしょ。どの国だって戦争をやらないわけで、実際戦争できませんよ、朝鮮半島で。だからね、その現実をポンとぶつけて。だから北朝鮮で問題があるっつたらね、すぐ軍事で身構えて、ロケット弾だーつって、ああいう軍事で身構えることが一番悪いんです。ああいうことが起こっても、冷静に、外交的手段でどう事態を前に進めるのかっていうことを考えるのが政治の役割だっていうのを、是非言って欲しいなと思うんです。私たちの平和外交っていうのは、何か理想論言ってるんじゃなくて、現実に戦争できないですもん、朝鮮半島で。戦争できないんだったら平和でやるしかないんです。というやり方で、是非お友達に話してほしいな、と思います。
それと、共産主義ね。んー、これはちょっとね、話すと長くなるんですけれども。(会場から笑い)
私:そうです、そこなんです。詳しくはこれに書いてあるから読んでくれ、って「共産党宣言」を渡したって読まないですよね、そういう人は。(会場から笑い、そうだそうだの声)
志:そうですね、これ色んな反論の仕方あると思うんですけれども、これはやっぱり一分や二分で共産主義について分かってもらえるかっつったら、そう簡単にはいかない。ただ、逆に訊いてですね、それじゃあ君は資本主義という制度が未来永劫続くと思うかと、訊いてみて下さい。人間の社会って言うのは、かつて昔むかしは、どの社会も原始共同体っていって、原始的な共産主義社会ですね、それが奴隷制に変わっていく、封建制に変わっていく。資本主義が生まれたのはせいぜい500年位前。この資本主義になって、この資本主義っていうのは、やっぱり儲け第一主義でしょ。儲け第一の、必ず貧困や格差や失業や、様々な矛盾が避けられない、そういう社会なんですね。こっから先もう進まないんだろうか。そう思えてくる。人類にはこの悩み多い制度は最後の制度だって、そういって反論してみてください。そうすると変えられるかもしれない。
それからもう一つ、是非言ってほしいのは、ソ連のような社会は、われわれは、共産主義でもない、社会主義でもない。これはソ連が色んな、チェコスロバキアに侵略したりアフガニスタンに侵略したり、その度ごとに私たちは大論争やって、その覇権主義と闘ってきた。ソ連が崩壊したときに、まぁあなたは、まだ、歳から言ったら、
私:いや、もう30近いっすよ。(会場笑い)
志:まぁそのソ連が崩壊したときにですね、我々はもろ手を挙げて歓迎するっての声明を出しましたけれどもね、そのくらいソ連のやり方ってのは社会主義と縁がないやり方だった。あれはレーニンのときまでは色んな道を歩みながら社会主義の道を突き進んでいましたけれども、スターリン以来はそういう道から脱線してね、社会主義から無縁の専制主義の国家に変わってしまったって、私たちは把握してるんです。これは、そういうことと戦ってきた党なんです。ということを話していただきたいと思います。
それでですね、いくつか反問を投げかけてみて欲しいな、と思います。もう一つ反問という点では、私たちの理論の基礎はカール・マルクスでしょ。カールマルクスがやはりこういった科学的社会主義ってのを具合においてるんです。マルクスって思想家がですね、もう古くなったって思うか、って訊いてみて下さい。そうすると、うーんって考えると思いますよ。今、マルクス主義の講座あったら言ってきてるかもしれないけど、イギリスのBBCが今世紀、20世紀の最大の思想家は誰かっていうことを調査するとダントツで1位、カール・マルクスって名前が挙がるんです。やっぱりね、マルクスがやった資本主義の深い分析と、その分析の中から新しい未来社会が生まれるという理論に対して、今でもその力を否定することはできないですよ。
ですからそういうお友達に対してですね、一つの方法がですね、例えば北朝鮮の問題が出てきた、そのときに「戦争できると思うか?」共産主義の問題が出てきた、「資本主義が終わりだと思うか?」それから、ソ連は社会主義だった?「違うんだよ。」一言でポンと返してですね、それで、そうしますと向こうは考えますでしょ。考えたらその後、大いに勉強したことを話してもらいたい。結論から言っても、中々色んな感情を皆持ってるんだから、言葉だけでは分からない、色んな感情もたくさんあると思うんです。あなたの言うとおりだと思います。理屈で大体わかっても気持ちが動かないとダメだ、本当そのとおりだと思います。それをやるには一定の、ダイアローグが、対話が必要です。すぐに、はい分かったと、皆が分かくらいだったら苦労しないですね。(会場笑い)ですから、その対話が必要だけれども、対話のやり方が、ポンと相手に疑問を投げかけるというやり方で、大いに対話して、結論を出していく、そういう風なやり方で!
※この日の9日前、2012年4月13日午前に北朝鮮が「人工衛星の打ち上げ」と称してロケットを発射した。発射のおよそ2分後に空中で爆発し、破片は黄海上に落ちた。北朝鮮が発射計画を発表したときから、国連安保理決議1874号等に違反していると各国から中止要請が出ていた中での強行だった。(参考記事 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB%E7%99%BA%E5%B0%84%E5%AE%9F%E9%A8%93_%282012%E5%B9%B4%29)
志位氏の発言後半部分の「(聞き取れず:ダイアロードガ)」とした部分を「ダイアローグが」に訂正。はてブでご指摘いただきましたwacokさん、ありがとうございました。まだまだ私は学習が足りないようだ。
http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded
1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。
1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発
1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用
1916年2月16日~1916年12月20日 ベルダンの戦い
1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点
1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞
1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニのローマ進軍
1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行
1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)
1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日」
1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップ(ウルグアイにて)
1932年 ワイマール共和国崩壊
1934年10月27日 毛沢東の長征
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1942年9月13日~1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)決行
1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判
1951年 朝鮮の人口?
1954年6月4日 西ドイツがワールドカップで西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」
1956年10月29日~1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争)
1959年1月1日 キューバ革命の勝利
1961年10月27日 チェックポイント・チャーリーでの対峙(ベルリン危機)
1964年8月2~4日 ベトナムでアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)
1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争)
1970年4月 カンボジア侵攻
1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件
1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争)
1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)
1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発
1985年3月11日 ミハエル・ゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任
1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)
1990年8月2日~1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争)
1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸
2000年1月1日 ミレニアム
2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)
2005年8月29日 ハリケーン・カトリーナ ニューオリンズを破壊
2008年10月 金融危機
2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故
2012 ?
10分どころか、6時間くらいかかったorz
それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。
(調べてみたら、どちらもM7クラス)
- 1994年3月、八王子市立石川中学校の卒業式で、掲揚されていた国旗を降ろして、減給処分。
- 1995年3月、八王子市立石川中学校の学級通信で国旗掲揚を非難したため、訓告処分。
- 1999年3月、八王子市立石川中学校の家庭科の授業で、国旗及び国歌に関する法律はオウム真理教のマインドコントロールと同じであるというプリントを配布し、校長の学校運営を批判したことにより、訓告処分。(この処分に対しては、2001年に「教育行政の教育現場への不当介入」として訴訟を起こすが、2004年5月に敗訴)
- 2000年2月、多摩市立多摩中学校の家庭科の授業で従軍慰安婦やジェンダーフリーをテーマに授業を行い、校長の職務命令に従わなかったため、減給処分。(この処分を不服とし、2004年に訴訟を起こすが一審二審共に敗訴している。)
- 2003年3月、調布市立調布中学校に異動。通勤時間が往復で4時間かかる勤務地への配属は不当として、2004年に訴訟を起こす。
- 2005年3月、立川市立立川第二中学校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立を拒否したため、減給10%・6ヶ月。
- 2005年4月、立川市立立川第二中学校の入学式で、国歌斉唱の際に起立を拒否したため、停職1ヶ月・ボーナス0。
- 2005年12月、大阪市の『すわって示そう戦争反対!12・23』で講演
- 2006年3月、立川市立立川第二中学校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立を拒否したため、停職3か月。(この処分を不服として訴訟を起こすが、2009年3月に棄却される)
- 2006年4月、『4.25改憲と共謀罪に反対する集い』で講演
- 2006年12月、多田謡子反権力人権賞を受賞。
- 2007年3月、町田市立鶴川第二中学校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立を拒否したため、停職6ヶ月。
- 2008年3月、東京都立南大沢学園養護学校の卒業式で国歌斉唱を拒否したことにより、停職6ヶ月。
- 2008年4月、東京都立あきる野学園に異動。
- 2009年3月、東京都立あきる野学園の卒業式で、君が代不起立により停職3ヶ月。
キチガイすぎるだろこいつ。
こんなのがクビにならない事が逆に怖いわ。
http://d.hatena.ne.jp/what_a_dude/20110508/p1
1994年から所得税減税してるから1997年に消費税増税しても1993年比で増収にならなかったと書いてあるんだが、
前年比でみれば96→97で消費税増税+特別減税廃止(=所得税増税)なんだから
97年に前年比税収増えてないのは増税と同規模の減税のせいってことにはならないだろうに。
所得税も消費税も増税したけど不況で増えませんでしたってことになるはずで。
消費税増税に触れるならその数年前からの所得税減税に触れろと言いつつ、その減税が打ち切られたのをスルーするのはミスリード狙ってるんだろうけど、高橋洋一を批判しておきながら同じように詭弁を弄するとは深淵にのぞかれてるな、この人も
あの頃何考えてたんだこんなもの作るなんてよっぽどの暇人だよまったく
http://maps.google.co.jp/maps?ll=35.366988,139.853189&spn=0.014208,0.01929&t=k&z=16
新日鉄大分 第1高炉 5,775 2009年8月2日(世界最大)
新日鉄大分 第2高炉 5,775 2004年5月(世界最大)
http://maps.google.co.jp/maps?ll=33.26668,131.642218&spn=0.00706,0.009645&t=k&z=17
新日鉄名古屋 第2高炉 (1979年4月13日休止、後に解体)
http://maps.google.co.jp/maps?ll=35.035847,136.869478&spn=0.006914,0.009645&t=k&z=17
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新日鉄室蘭 第2高炉 2,902 2001年11月(北海製鐵)
http://maps.google.co.jp/maps?ll=42.343733,140.997655&spn=0.012482,0.01929&t=k&z=16
日新製鋼呉 第1高炉 2,650
http://maps.google.co.jp/maps?ll=34.220701,132.543751&spn=0.006982,0.009645&t=k&z=17&layer=c&photoid=po-30799108
住金鹿島 第2高炉 (1973年3月、2007年5月-休止)
http://maps.google.co.jp/maps?ll=35.9346,140.685339&spn=0.011536,0.019054&t=k&z=16&lci=com.panoramio.all
住金和歌山 第4高炉 2,700 1967年3月(2009年7月11日吹き止め)
住金和歌山 新第2高炉 3,700 建設中・2012年度後半火入れ予定
http://maps.google.co.jp/maps?ll=34.239267,135.131621&spn=0.028808,0.038581&t=k&z=15
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神戸製鋼神戸 新第3高炉 2,112 2007年12月16日
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JFE京浜 第1高炉 4,907 (2004年3月23日-休止中)
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JFE倉敷 第3高炉 5,055 2010年2月11日(4次)
http://maps.google.co.jp/maps?ll=34.488023,133.726873&spn=0.011195,0.019054&t=k&z=16
JFE福山 第3高炉 3,223 1994年8月(3次)2009年2月-休止
JFE福山 第4高炉 5,000 2006年5月14日(4次)
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宇部興産伊佐セメント工場、太平洋セメント重安鉱業所、住友大阪セメント秋吉鉱山
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香春太平洋セメント
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たまにストビューとか写真とかあったりする。のでちょっと追加してさらす。
元がテキストべた書きなんで見辛いのはかんべん。なおソースはウィキペディア
これを追加しておこう。
http://maps.google.co.jp/maps?ll=35.522726,139.896469&spn=0.439256,0.488205&t=k&z=11
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
ttp://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1268140927/
356 名前: 日出づる処の名無し Mail: sage 投稿日: 2010/03/10(水) 07:10:39 ID: NZGcCsfL
というか我が党にブーメランとして突き刺さるよね。密約。
359 名前: 日出づる処の名無し Mail: sage 投稿日: 2010/03/10(水) 07:23:56 ID: s25x3FB6
»356
うん。密約の内容を全然知らないor興味ない人でも、数十年前の実害のなかった
日米間の外交条約の瑕疵をそこまで大袈裟に取り上げる潔癖さで、オノレの党の
それと、一般人でも事情に詳しい人なら当時の状況を鑑みれば、核の持込があっても
不思議じゃないよなくらいは考え付くのに、総理や外務大臣経験者が党内にいながら
ぼけーっと今まで何もしてこなかったわが党の無能さにも愛想を尽かしそうです。
360 名前: 日出づる処の名無し Mail: sage 投稿日: 2010/03/10(水) 07:27:28 ID: Uz0Xg9k6
»356»359
これのことかな
475 名前:Trader@Live![sage] 投稿日:2010/03/10(水) 05:54:24 ID:QCZm9C3t
529 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 00:26:06 ID:???
>○羽田孜
>なお、一九六九年の佐藤・ニクソン密約の真相いかんというお話でございましたけれども、
>これはもう再三私どもの先輩たちがお答えしてきておりますように、
>御指摘のような密約が交わされたとの事実はないということであります。
1994年 羽田内閣 小沢一郎 鳩山由紀夫 菅直人 岡田克也
ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/129/0001/12905120001018a.html
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
ttp://journeytoforever.org/jp/foodfirst/report/hunger/12myths.html
神話その1
膨張した世界人口を養うだけの食糧が足りない。だから食糧増産が必要だ。
* インドでは、2億人の国民がお腹をすかせていたとき、6.25億ドル分の小麦・小麦粉と13億ドル分の米が輸出されていた(1995年)。
* 典型的な飢餓地域のバングラデシュでは、国民全員に2,000カロリーを供給して充分な量の米が生産されている。野菜・果物・豆類など他の食品を加えると、全国民を余裕を持って養うことができる量の食糧が生産されている。また肥沃な沖積土と水資源に恵まれたバングラデシュでは米だけで2倍も3倍も収穫量を増やす可能性があると推測されている。
* ブラジルでは、7,000万人の国民が充分食べられなかったときに、130億ドル分の食糧が輸出された(1994年)。
* アフリカでは、2億1,300万人が飢えるサハラ地方の国々が盛んに食糧を輸出している。1960年代末から70年代初頭に西アフリカ諸国が史上最悪の干ばつに襲われたときも、12.5億ドルもの食糧が輸出され続けた。1982~85年の干ばつのときもこれらの国からの食糧輸出は続いた。
* 先進国のアメリカでは、3,000万人が充分な食糧を確保できず、アメリカの子供たちの8.5%がお腹をすかせており、20.1%が飢餓に面している。一方、代々アメリカ政府と農家は過剰生産に頭を痛め、1995年にアメリカ政府は300万トン以上の穀類を海外に輸送するのを援助している。
世界の食糧供給事情は「過剰」の一言につきる。今日の世界では小麦や米などの穀類だけで全人口に毎日3,500カロリーを提供できる量が生産されている。野菜や豆、ナッツ、根菜、果物、草食の家畜肉、魚など他の食品も加えると、一人当たりに毎日4.3ポンド(約1.95キログラム)の食べ物がある。穀物と豆とナッツが2.5ポンド(1,133グラム)、果物と野菜が1ポンド(453グラム)、肉と牛乳と卵も1ポンド(453グラム)ぐらい。毎日食べていると太ってしまうほどの量だ。問題は多くの人があまりにも貧しくて、食べ物が目の前にあるのに買うことができないこと。世界で一番「餓えた」国にも国民全員が満腹になるだけの食糧がある。それでも飢餓が続き、餓えた国々から食糧や他の農産物が輸出されている。
(Hunger is real; scarcity is not.)
なぜ今の30代は「助けて」と言えないのだろうか
ttp://d.hatena.ne.jp/Imamura/20091111/help
今の30代が生まれたのは、1970年から1979年です。親は高度経済成長を支えた世代であり、がんばるほど明日が豊かになるという実感を持って生きてきました。ローンを組んで家を建て、将来の昇給をあてにできた世代です。
一方その子供たち、今30代を迎えている人々は、1990年ごろのバブル崩壊を10代で迎えています。このタイミングはなかなか絶妙でした。不景気になり始めたころ高校や大学に通い、いよいよ社会に出ようという90年代後半には不景気が本格化していました。
「就職氷河期」は1994年の流行語大賞で、この年に就職活動をしている大学生は(浪人してなければ)1971年生まれ、いま38歳です。
親は高度経済成長世代、先輩はバブル世代で、不景気な社会でのロールモデルにはなりません。今の30代は、すっかり不景気になった社会へ出てきた最初の世代になりました。景気がよい時代に社会に足場を築いておくことができず、といって社会へ出る前から不景気を前提にした準備もできなかった世代です。
そしてそのまま、年を取るのに合わせ、その場その場で生き方を探っていくことになりました。
自分が生まれた年の、親の年齢を計算してみるとびっくりします。30代で家を建てて子供(つまり自分)もいるのがふつうですが、今の30代ならば成功した人でないと家を建てるなど無理でしょう。
でも当時の子供の多くは漠然と、努力次第で自分も大きくなったら父親のようにサラリーマンとして会社勤めをし、終身雇用に支えられながら、30代になったら郊外の新築に住むことができると考えていたのではないかと思います。少なくとも自分はそうでした。
このような、将来像と現実とのギャップが最も大きい世代が、今の30代なのだろうという考えに至りました。
だからこそ、あるべき姿になれていないことを自分の責任と感じてしまう傾向が強く、安易に「助けて」と言うことに抵抗が強いのではないかと考えています。
ttp://tameike.net/comments.htm#new20100107004608
○今日は藤井財務大臣が辞意表明。普通、医者がダメだといっても「俺は元気だ」と言い張るのが政治家というものであろうに、これから予算審議という直前に財務大臣が、記者会見で「自分は病気だ」と言って辞めるのは、相当に奇妙な事態といえる。もちろん今回の予算編成の経緯を振り返ってみれば、藤井氏が「やってられねえ」と思うのも無理はない。
○ここでふと思い出すのは、2007年10月7日の「サンプロ」が取り上げた「自由党の政党助成金問題」である。自由党は、2003年に民主党に合流した際、政党助成金を含む13億円を政治団体に寄付している。本来であれば、国に返還しなければならないカネであり、藤井氏は当時の自由党幹事長で、資金管理責任者だった。そのことを予算委員会で追及されるのを怖れてのことだとしたら、東京地検の小沢包囲網はかなり本気だということになる。
○でも、それって何の法律で裁くのかが分からない。そもそも政党助成金を含む政治改革四法案は、1994年に細川政権が作ったもの。要は小沢さんが自分で作ったようなものだから、それに関する「裏技」は百も承知のはず。この勝負、どうなるんだろう。いずれにせよ、年明けしてから一気に政治の流れが加速している感があります。
政権交代から約100日。「こんな筈ではなかった」「やっぱり」「意外に」など評価は様々。
こういった評価をぶつけられる機会は2010年夏の参議院選挙ということになろう。
民主党を中心とした3党連立政権に対する信任投票の意味合いが大きいことは疑いない。
ただ,選挙結果とその後の政治風景を想像しておくのも無益なことではないと考え,駄文をしたためることとする。
1 民主党単独で過半数確保
(1) 民主党関係者の悲願。社民党,国民新党などに気兼ねをする必要のない政権運営が可能となり,数の上では相当に安定した政権となる。この場合,国民全体の意思としては「3年間は民主党に任せた。3年間の政治運営があまりにもひどかったら下野してもらうけど。」と受け取られるだろう。
(2) 社民党・国民新党にとっては内心面白くない。社民党が持っていた連立離脱カードがほぼ無価値となる。普天間基地移設問題が参議院選挙前に片付いていないなら,この問題に対するスタンスの違いから社民党が連立から離脱することも十分ありうる。
(3) 自民党は解党の危機に直面する。二大政党制による政権交代が健全な民主制に必要であるとしても,将来の与党候補が自民党でなければならないという必然性はない。
(1) 非自民・非共産というのは1994年の細川連立政権のときの枕詞。相当古い。民主党からみると,自民党・共産党は連立政権を組む相手とはならない。民主・自民の大連立? 福田元首相時にそんな話もあったけど,つぶれた経緯を考えるとありえない。自民党の一部議員を引き抜いて過半数がとれるかどうかの泥仕合がはじまる。過半数を押さえられれば「ねじれ国会」という最悪の事態は免れる。ただ,気を遣うべき勢力が多く,政権運営は今以上に不安定となろう。
(2) 社民党・国民新党が発言力を確保できるかは選挙の結果次第。
(3) 公明党も政権に加わらないと参議院の過半数はとれないだろう。公明党は中道政党であるが故に民主党連立政権に加わることは十分ありえるとみる。
(4) 自民党は民主党の多数派工作に対して防御しきれるかが鍵。あるいは,政界再編を仕掛けるか?
3 民主党単独で過半数には足らないが,3党で過半数
現状維持。社民党の連立離脱カードは意味を持ち続ける(ただ,あまりにも理不尽な行動をしつづけると,公明党を取り込みにかかる可能性はありうる。)。
4 3党で過半数には足らないが,公明党を足せば過半数
これらの想像を踏まえつつ,民主党連立内閣への評価を踏まえながら来年夏の投票行動を決めるのはいかが。
追記
最近マークアップエンジニア志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去のHTML(特に90年代以前の仕様)を読んだことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「マーク・アンドリーセンをどう思う?」と聞くと、「アンドリーセンって誰ですか?」という答えが返ってくる。「ヨスケの独自要素で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔のHTMLを見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「とほほでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、HTMLを体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題仕様ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといて標準化団体ごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。HTMLは、もう長いこと(90年代の早い時期から)インターネットの王者としてあらゆるWeb関連技術の上に君臨してきた。だから、Webを作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
HTMLは、表・画像・フォーム・音楽・デザイン・フレーム・動画など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、HTMLを読まずして現代のインターネットは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、HTMLを読むことは欠かせない。また、単に読むだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、HTMLを包括的・体系的にとらえることによって、現代のインターネットそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、Webを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔のHTMLをほとんど見たことがないという人や、あるいはHTMLそのものもあまり見ないという人のために、これを見ればHTMLを体系的に理解でき、現代インターネットの成り立ちや実相までをも包括的にとらえることができるようになる、7本の仕様を紹介する。
ここで紹介するHTMLは、いずれも後のWeb業界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、HTMLという標準のありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、HTMLというのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、体系的に理解できるようになる。そしてそれが、世界のインターネット利用シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、第一次ブラウザ戦争前のHTMLをひとまとめにするところから始める。
80年代末にティム・バナーズ=リーの発明したHTMLというメディアは、その後『HTML 1.0』(1993年)『HTML+』(1994年)『HTML 2.0』(1995年)などの仕様で次第にそのスタイルを確立していき、マーク・アンドリーセンが一大産業として発展させた後、『HTML 3.0』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
ブラウザ戦争前のHTMLは、これ1本だけ読めば良い。このHTMLに、戦前のHTMLの全ての要素(属性)が詰まっている。このHTMLを見れば、HTMLのインターネットの王者としての風格、スターという存在の大きさ、作者以上にブラウザが重視される「産業」としての側面、お尻Pから終了タグ省略可へ・文字情報から画像付きへと移り変わった技術革新の変遷など、戦前のHTML史やWeb業界のありようが全て分かるのだ。
このHTMLの魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『HTML 3.0』の魅力を知るには、まずは読んでもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも読めば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『HTML 3.0』を見て驚かされるのは、現在のHTMLと比べても全く遜色ないところである。破棄されてから14年の時が経過しているが、現代人の読解にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえばHTMLというものは、今から14年前、つまりこの『HTML 3.0』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『HTML 3.0』は、HTMLという標準が到達しようとした一つの極みである。それゆえ、HTML史というものは、『HTML 3.0』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られたHTMLで、『HTML 3.0』の影響を免れたものはないからである。
iモードが世界のHTML史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに小さなものである。日本人というのは、「日本の技術が世界に影響を与えた」というと、なぜか鼻高々と聞いてしまうところがある。「日本はガラパゴス」という言葉は聞いたことがあっても、「それって日本人が過小評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかしiモードは、真に日本のHTML史を塗り替えたサービスの一つである。特に、このサービスの後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
iモードは、ドコモのメインストリームだったポケットベルが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたPHS流行後すぐの時期、そんなポケットベルに取って代わって、日本で最も輝いていた携帯サービスであった。それゆえ、広末に見蕩れた世界のHTMLファンたちは、iモードのWebサイトを見ることによって、失われかけていたWeb制作の魅力を再発見することにもなったのである。
iモードは、没落したHDMLに変わってモバイルWebの命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。海外のモバイル陣営が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を切り捨て、日本の後代へと引き継いだ重要なリレー第一走者としての役割を、HTML史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取った日本の若きWebデザイナーたちが、2000年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、モバイルWebは鮮やかな発展を遂げる。だから、もしiモードが存在しなければ、HTMLの様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんなiモードHTMLのバージョンはいくつもあるのだが、中でも特に多くのHTMLファンを――取り分け日本の若きWebデザイナーたちを魅了したのが、この『Compact HTML』である。この仕様の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたW3C Noteであろう。HTML史において、これほど拡張多く適当なディテールで構成されたNoteは他にない。そのためこのNoteは、これ以降無数に手本とされ、真似され、拡張されることとなるのである。
正字正仮名の影響を受けた日本の若き日記書きたち――言うなれば「CSSコミュニティ」――が頭角を現す直前のW3Cで、HTML史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の仕様が誕生する。
この時期、情報技術の進歩によって、HTMLにもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った国際化、全く違ったアクセシビリティ体験を生み出すことに成功したのが、この仕様『HTML 4.0』を勧告したWorld Wide Web Consortiumである。
『HTML 4.0』は、HTML史において最も革新的な仕様の一つとなった。この仕様に初めて触れた当時のWebデザイナーたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのないマークアップがくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しいHTML体験を、そこで味わうことになったからである。
W3Cの果たした一番の功績は、テクノロジーとHTMLを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えばそこでは、「スタイルシート」という新しい技術のデザインと、それでレイアウトされたページが閲覧者に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しいHTML体験を生み出すことができたのである。
この仕様『HTML 4.0』には、そうしたテクノロジーとHTMLとの融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、HTMLはここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「CSSコミュニティ」がWeb日記業界に論争をもたらすのは、2000年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、1947年生まれの非政府組織で、IECとも協力した生粋の工業標準化団体であった国際標準化機構が、この仕様『ISO/IEC 15445:2000 (ISO-HTML)』によって成功を収めたことである。
このHTMLは、単にJIS的に標準化しただけではなく、文化的な意味においても、フラットでリニアな構造の力を広く世界に知らしめることとなった。この仕様の成功によって、世界の人々は、レベル付けされた見出しの魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて見出しのレベル分けが世界のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように使う状況を育んでいくのである。
またこの仕様は、CSSコミュニティそのものにも大きな影響を与えた。この仕様の成功に刺激を受けた才能ある若きコミュニティ住人たちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名サイトを生み出していくからである。
それらが相まって、やがてCSSコミュニティは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『ISO-HTML』なのだ。
『HTML 4.0』で繁栄の足がかりを築いたW3Cは、この仕様『XHTML 1.0』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたメタ言語も、W3C勧告のの一つであり、また『HTML 4.0』を作ったSGMLの改良でもあった、Extensible Markup Languageであった。
この勧告は、史上最も商業的に成功した仕様となる。そのためこれ以降、この勧告にならって商業的バズワードを盛り込んだ仕様が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きな商業的話題を集めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの意見は、やがて再びW3Cに還元され、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この仕様がきっかけとなってW3Cにもたらされた意見は、HTMLという言語を変革させていくことになるのだが、それに伴って、HTMLそのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬW3Cの手によってなされた。ここで『XHTML 1.0』の成功によって手にしたメンバーをもとに創設した文書マークアップの開発集団「HTML Working Group」が、より魅力的な拡張性を追求していく中で、やがてM12n(モジュール化)という技術の開発に至るのである。するとそれが、これまでのHTMLを一変させたのだ。
M12nは、HTMLに魅力的かつ効果的な特殊語彙を、DTDでしかも複雑怪奇にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に世界から見捨てられていった。そのため今では、M12nの使われているHTMLを探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『XHTML 1.0』がWeb業界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
2000年代以降、繁栄を謳歌したW3Cは、しかしその栄華の大きさゆえ、00年代中盤に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な仕様はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が5年は続いた00年代の後半になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代のHTML WGメンバーたちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代のHTML WGメンバーとは、マイクロソフトやモジラ・ファンデーション、オペラらに代表される「ブラウザベンダ」と、無関係な編集者たちであった。
彼らに共通するのは、文書構造に不必要なものなら全て――とるに足らないガジェット的なものまで含めて――残らず切り離そうとする「オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだったHTMLの些末な要素にスポットを当て、それを別仕様に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った草案を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として00年代の後半に登場したのが、XHTML2 Working Groupだ。
XHTML2 WGは、特に99年に最後の草案が作られたこの仕様『XHTML 2.0』によって、オタク的なHTMLの楽しみ方が、一部のマニアだけにとどまり、それ以外の多くの人たちには受け入れられないことを証明してみせた。この失敗が、デ・ファクト的な新生HTML WGにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けたWeb WorkersやDOM Level 3 Eventsといった、次世代のWeb標準たちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、第二次ブラウザ戦争の集大成ともいえるこの仕様である。
『HTML5』は、HTML史においては『HTML 3.0』と同じような意味を持つ。つまり、それまでのHTMLの要素が全て詰まっているのだ。この仕様を見れば、それ以前のHTMLの歴史というものが全部分かる。
『HTML5』には、HTMLのあらゆる要素が詰まっている。ここには、『HTML 3.0』のような歴史的な仕様としての「総合性」があり、『Compact HTML』のような「実装の実在さ」がある。『HTML 4.0』のような「マルチメディアとアクセシビリティの融合」があり、『ISO-HTML』のように「セクション構造の魅力を全世界に知らしめ」た。また、『XHTML 1.0』のように「バズワード的に成功」したのはもちろん、『XHTML 2.0』が別仕様に押し出した「オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこのHTMLは、『HTML 3.0』と全く同じ意味合いを持っているのだ。HTML史というものは、『HTML5』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られるHTMLで、『HTML5』の影響を免れるものはないであろうからである。
以上、これさえ読めばHTMLを包括的・体系的にとらえることができる7本の仕様を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、歴史的に重要な仕様は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「素数の分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた仕様は、いずれも「読むことによって他の仕様にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『HTML 3.0』を読んだならば、ブラウザ戦争前夜の独自HTML拡張に自然と興味がいくだろうし、『Compact HTML』を読んだなら、iモードのそれ以外のバージョンのHTMLも見たくなるだろう。CSSコミュニティについてもそれは言えるし、『ISO-HTML』を読んだなら、このHTMLを流行らす土壌ともなった「フラットでリニアな構造」というムーブメントにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『XHTML 1.0』はXMLオタクになるきっかけになるだろうし、『XHTML 2.0』はその他の「オタク的なXML EventsやXForms」の仕様も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『HTML5』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこのHTMLは、完成度があまりにも高いために、これを見た後に他のHTMLを読むと、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの仕様を読むことによって、HTMLをさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの仕様を読むことによって、HTMLを包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな助けとなるはずだ。
上に挙げた仕様への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「HTMLを体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
高校時代に読んだこのサイトによって、「リソースとは何か」ということを、ぼくはを知った。
「HTMLはSGMLの応用だ」ということが、このサイトを読むことでよく分かる。何気なく見ていた省略記法でも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
世界がCSSコミュニティの何に驚かされたかといえば、それはやっぱり精緻に書き込まれた正字正仮名にだ。ノジタンの日記には、HTMLの本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くの日記で多くのコミュニティ住人に、言及されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、とほほ氏がHTMLというジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた感想のいくつかは、このサイトに書かれていたばけらさんとの「スタイルシート論争」を参考にしたものなのだ。
これらのサイトを読めば、どんなHTMLが素晴らしく、どんなHTMLがそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あのCSSコミュニティ住人の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
ICU 620人 350人(56.5%) 270人(43.5%) 1校
上智 2160人 1322人(61.2%) 838人(38.8%) 0校
慶応 6145人 3920人(63.8%) 2225人(36.2%) 5校
早稲田 8880人 5880人(66.2%) 2000人(33.8%) 5校
法政 5850人 3965人(67.2%) 1920人(32.8%) 3校
中央 5410人 3694人(68.3%) 1716人(31.7%) 3校
立教 3685人 2575人(69.5%) 1110人(30.5%) 2校
明治 6205人 4421人(71.2%) 1784人(28.8%) 3校
青学 3132人 2285人(73.0%) 847人(27.0%) 1校
そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、
建前上は、一発勝負の受験の弊害を排したり、多様な学生を集めるためのものだが、有効に機能しているとは思えない。
推薦組、とくにAO入試組の低学力が、各大学で問題になっているのだ。
私の知る限りでも、早慶レベルの学校に、それより偏差値が10以上下の大学の付属校から成績不良で大学に上がれなかった
生徒が推薦やAOで数人入学している。基本的にAO入試というのは、アメリカで行われている試験制度を採り入れたものと
いうことになっているが、アメリカの場合は、SATと呼ばれる統一学力テストの点数も評価したうえでのセレクションが原則だ。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/174705/より抜粋
2009年の大学の実力で読売新聞が収集した一般入試、推薦入試の
http://www.wasedajuku.com/wasemaga/unipro-note/2009/07/post_461.html
たとえば中京大学は、
AO10名、指定校732名、公募623名、付属・系列218名。
一般入試への占める割合が、51.34%
かなり激しい偏差値操作です。
ちなみに名城が59.29%で中京と比べればかなり割合が増える。
推薦入試枠がなければ、名城と中京の偏差値が入れ替わるかもしれません。
ちなみに総合大学で、割合が高いのは、
このへんの大学は、推薦枠を広げれば偏差値を上昇させることができる大学。
(あえてしないのは、在学生の質が落ちるからだと思われる。)
悲しいことに私立大学の偏差値でトップにたつ慶応、早稲田大学は一部しか公表せず。
一般5割、推薦4割、AO帰国1割って感じ。
今は一般入試の枠を減らしてセンター利用枠に替えているので純粋な三教科型の一般枠はもっと減ってるはず。
http://www.waseda.jp/kyomubu/hyouka/2005houkoku/2005_03_01_01.pdf
一般入試 611名 51.6%
内部推薦 250名 21.1%
指定校推薦 213名 18.0%
AO入試 109名 9.2%
帰国入試 1名 0.1%
政経法商なんて一般募集は半分以下にして、一部はセンター利用で東大一橋落ち拾うようにしてるけど残りは全部推薦AOにまわした。
1990年 1060名 1100名 1000名 840名 1000名 540名 480名 420名
1992年 920名 950名 ↓ 900名 970名 650名 ↓ 380名
1994年 ↓ 900名 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
1998年 ↓ ↓ 900名 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2001年 800名 750名 800名 820名 960名 590名 410名 355名
2004年 500名 350名 500名 640名 700名 500名 450名 330名
2007年 450名 300名 ↓ 440名 700名 500名 500名 330名
2008年 450名 300名 460名 440名 700名 500名 500名 360名
ーーーーーーーーーーーーー------------ ------------
増減 -610名 -800名 -540名 -400名 -300名 -40名 +20名 -60名
90年比 (58%減) (73%減) (54%減) (48%減) (30%減) (7%減) (4%増) (14%減)
早稲田の学生の半分が一般入試を経ないで入ってくる現状だとこれからは
っていう風な区別の方がより重要になってくるんじゃない?w
というか学部間の学生の差が、昔以上にかなり均質になっているのは間違いない
(ttp://www.admissions.keio.ac.jp/exam/ippan.html参照)
試験科目数別の定員
3教科~ 1270名 ←一般私大
1、2教科 2650名 ←Fラン入試www
0科目 2235名 ←推薦馬鹿w内部w裏口www
慶應法 一般460(36.5%) センター100(7.9%) /A030(2.4%)/指定校160(12.7%)付属420(33.3%)
慶應経済 一般750(62.5%) /付属450(37.5%)
慶應文 一般580(72.5%) /公募推薦120(15%)/ 付属100(12.5%)
慶應商 一般700(70.0%) /指定校150(15%) 付属150(15%)
慶應理工 一般650(61.9%) / 指定校195(18.6%) 付属190(17.6%)
慶應SFC 一般550(61.1%) /AO200(22.2%)/ 付属150(16.6%)
慶應医 一般66(60%) / 付属39(39%) /帰国1(1%)
見れば分かる通り、慶応法とか試験通らないで入ってくる奴が半分以上で酷い。
指定校は基本、成績にばらつきがあって、真面目だが、一般では入れるとは思えない印象。
付属は多すぎて、特に一般では難関の学部に限って、付属枠が大きいため、多少
馬鹿でも希望の学部にいけてしまうらしい(法や経済は極めつけ)
ちなみに・・・
ttp://www.admissions.keio.ac.jp/topics/info_20070731.html
世界史Bの出題範囲は1500年以降を中心とし、日本史Bは1600年以降を中心とする
2009年度入試からは、筑波大学(社会・国際学群)および、一橋大学で廃止。
筑波大学と九州大学は、2000年度に、国立大学初のAO入試を導入した大学であるが、
「AO入試組」の学力不足・入学後の学業不振を理由に、見直しを決定。
「2005、2006年度に一般入試とAO入試で入学した学生の成績を比較したところ、
授業が進むに従い、AO入試で入学した学生の成績に低下が見られた」
「AO入試で入学した学生の成績がほかよりも低い傾向にあった」
「センター試験を課す学部では目立った差がなく、基礎学力の不足が原因と判断、廃止を決めた」
「(AO入試では)しっかりした学力を身に付けているかどうか判断できない」