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はてなキーワード: 黄金時代とは

2024-03-11

anond:20240229034138

21世紀に入ってから批判的な文脈で語られることが多かったFFが高評価を受けて嬉しいわ。

しかスクエニ最後の切り札FF7リメイクからね。90年代黄金時代リアルタイム経験した者としては感慨深いね

ちな、PS5持ってないんでプレイはしてない。

2023-12-26

anond:20231226002929

ポテチは箸が最適解に近いからな。

ネトゲ黄金時代から語られてきたライフハックだ。

もう一つの最適解候補は、粉々につぶして袋から口に流し込むスタイル

2023-11-18

anond:20231118211850

当時は、モンゴルの脅威を理由帆船戦艦輸出で栄えたオランダ黄金時代でな

ドイツは原料木材を売って大儲けしてたんやで

一方、イタリアは、元が滅亡したので軍事予算芸術に振り替えて栄えた

2023-11-14

人間万事塞翁が馬

ある元野球選手プロ野球人生

 ドラフト5位で某地方球団入団

球団黄金時代を築き、中心メンバーに。

監督が退任し、球団は低迷。

黄金期の監督GMとして戻ってきて、高年俸理由放出

東京の人気球団に移籍

球団監督暴力団問題で辞任

→新監督就任コーチ就任を乞われ、引退(2000本安打まで88本を残して達成できず)

→(中略)日本代表監督就任

最初所属した球団をクビになったのは不幸だったが、結果的に、人気球団に移籍したことでその後に繋がったし。

不祥事の割を食って2000本安打を達成できずに引退したのも不幸だったが、それによってコーチとしての経験を積めて、結局は日本代表監督

…何があるかわからん

2023-11-08

漫画界における三大〇〇編 の最高峰をいいかげん決めるべき。

漫画全体の評価ではなく、〇〇編や〇〇戦 における最高傑作を決めるときが来た

俺が既に2つ決めた。異論は認める

ハンターハンター キメラアント編

言わずもがな最高傑作

一個が…修練の末、届き得る限界。それを卓越した希有な事例といえよう、褒めて遣わす

スラムダンク 山王

スポーツ漫画最高傑作

才能のダンクではなく、修練の末に得た普通ジャンプシュートで締めるという美しさ。大好きです

ノミネート候補たち

ハンターハンター グリードアイランド

ものすごくおもしろいがキメラアント編がノミネートされているので外した

はじめの一歩 ブライアンホーク戦

ものすごくおもしろいがしっくりこなかったので念のため外した

惜しくもランク外😔

ベルセルク 黄金時代

面白いカタルシスが皆無なので外した

ワンピース 空島編

全ての伏線登場人物たちの思いが大鐘楼を鳴らすことに収束する構成カタルシスは素晴らしいが、

途中の玉の試練などダレる部分も多いので外した。あと反対意見が多そうだから

  

あと1個君らで決めていいよ。というか教えてくれ

上で挙げたのは少年漫画ばっかりだけど、そうじゃなくてもいいよ

いやぁ、漫画って本当にいいもんですね

2023-10-10

誰も矢沢あいについて語らない

冨樫くらいとは言わずとも、もう少し休止中の作品行方心配されても良いと思うの

間違いなく日本漫画黄金時代を作った一人だよ。ワイは「天使なんかじゃない」が好きだな

NANA完結しなさそうとか、この世の不条理すぎる

2023-08-23

オール・ザ・マーブルズ!#10

私は普通人間だったけど━━━

自分にできることはすべてやった

後悔はないわ

この3年間がわたしの━━━

私のためらいなき黄金時代だった

2023-08-13

日ロ共通米国黄金時代世界バービー人形原爆を与えた

8/13 RIA Novosti

Золотой век США дал миру куклу Барби и атомную бомб

ドミトリー・コシレフ

香港出身映画評論家アリス・ウーは 活字面で大喧嘩 :ここアジア私たちハリウッドの傑作「バービー」に会えて喜ぶべきだった――これはスクリーン上のフェミニスト饗宴だ。 むしろ韓国フェミニズムにとってひどい場所で、選挙戦が行われているが、候補者たちは親フェミニストに同情していると疑われるのではないかと疫病のように怯えている。 こんな映画は要らない。

中国はどうですか? そこでバービー人形が注目されなかったわけではないが、ピンクの服を着た人形に命が吹き込まれ映画が公開週末に1億6,200万ドル興行収入をあげ、大量の記録を打ち立てたアメリカのような状況ではなかった。 中国でのこの人形は、地元の大ヒット作 2 作に大きく遅れをとっていまし た 。 1 つは「嵐の王国」です。これは、私たち時代よりずっと前に、実際に国家形成に関与した多くの中国の神々についての物語です。 何千人ものエキストラ技術者、壮大な効果、少なくとも空中に飛ぶ無数の矢の響き。 2番目は「長安」で、唐の時代の偉大な詩人についての物語です。 最高の技術品質を備えた 2 つの作品さらには戦争と詩。これは高級です。 そして、ここには子供の頃からなんとなく馴染みのある海外ブロンドが、私たち世界における女性役割についていくつかの判断を下しています

誰かが、「世界平和」とは、アメリカ映画芸術的責任を軽減したその他の作品で、考えられるすべての文化を押しつぶすことだと恐れていました。 まあ、心配する必要はありませんでした。 中国アジア映画市場は少なくともアメリカ映画市場と同じくらい大きいため、今日ハリウッドにとってグローバリズムはほぼ逆に見えます。 そしてハリウッドはそこで何かを売らなければなりません。 そして、問題が発生しました。フレーム内で、バービーは 入れました 北京版で南シナ海領土地図を手に が、映画ベトナムフィリピンで上映禁止になりました。 しかし、これらは細かいことであり、重要なことは、この復活した人形アジア人にとって興味深いものではないということです。

しかし、米国住民にとって、それは貴重なものであり、その理由はかなり予期せぬものでした。 アメリカ人の誰もこれが傑作だとは言っていないことに注意してください。 さらに、フェミニズム観点から言えば、少なくとも西洋人にとっては、ここには特別なことは何もありません。テロや狂信もなく、ボスガールは新しいものではありません。 このような映画に対するアメリカ人の反応という点では、喜びと悲しみが入り混じった別のものが感じられる。

人生下り坂になっている人々は喜ぶべきです。 そして、映画評論家たちはこのことについて 極めて率直に書いており/*/ 、ロサンゼルスニューヨークといった民主党領域ではそもそも生活悪夢になっていると述べている。 そしてここ - バービーあなた自身のもの、親愛なるもの祖母からの贈り物、国の絆と価値あなたピンクドレスを着て映画館に来て、あらゆる方法で日々の恐怖から休憩することに友達同意することができます。 今はウイルス、そしてトランプは負けた女子スポーツチーム、そしてニジェール、そしてウクライナ、そして言うまでもなく中国に対して失礼だ。 そして地球上の気候は非常に悪いです。 一般的に、人々を追い詰めて、リラックスさせてください。

/*/ https://www.theamericanconservative.com/barbie-and-the-triumph-of-the-feminine/

正統派リベラルを含む平均的な西洋人自分自身をどのように感じているかというこのテーマは、どういうわけか私たちには理解されていないままです。そうです、それは単に不気味です。 そして私たちはどう感じているか。 控えめに言っても違いはありますさらに、それは適切で有能な比較によってのみ明らかになりますしかし、私たちけがこの比較社会学に達していないのです。

そして、彼らは他のいくつかの理由米国で動揺しています。 ここで面白い偶然が起こりました。同じ日にそこで2本の新作映画が公開されました。「バービー」と、アメリカ原爆の父の伝記映画オッペンハイマー」です。 そしてそれらは今日アメリカ人の心の中に溶け込んでいて、誰かが冗談を言っているのではないかと思えるほどになっているようだ――これがひとつ映画だ、バービンハイマー。

冗談面白くありませんが。 私たちアメリカは、世界爆弾バービー人形を与えてアメリカの世紀に入りました。 今は何ですか? つまり中国人は大太鼓に乗っているのだ。 彼らは恐れもせず、幸せも感じません。

ここで、オッペンハイマーと彼のチームが 1945 年 7 月 16 日に爆弾を爆発させ、化学デュポンのチームがプルトニウム生産従事していたことを思い出さなければなりません。 そして 1959 年の春に、同じデュポン社の関心によって作成されたプラスチックからプラスチック人形が作られ始めました。 それ以来、世界中で平均して毎分 100 個が販売されています (ちなみに、そのうちの何個が中国製造されているかは興味深い問題です)。 しか一般的には、それは私たち黄金時代夜明けでした。

そう、 。 この事実に反応しているのは映画評論家ではなく、アメリカ環境活動家タイラーハーパーです。「加速する軍国主義と無制限の消費」がプラスチックと微量のプルトニウム地球汚染したとき、こうして新しい時代が始まったのです そして、これらの痕跡は、人類が自ら墓場に追い込まれときでも残る可能性があります

一般に、地球上で跡形もなく過ぎ去るものは何もありません。私たちがどれほど若かったか爆弾が爆発し、世界中でバービー人形が大量に売れました。 そして今、中国人や他のアジア人は気にせず、そこで生活を送り、自分たちの神や詩人についての映画を見ています

2023-07-04

anond:20230704223351

JPOP黄金時代に比べたら市場自体が縮小してんだから売り上げも落ちてるだろってことでしょ

2023-06-11

ルマンは2014~16年あたりのハイブリッド黄金時代がよかったな

今やってるみたいだけどあの時みたいな面白さは残ってるんだろうか

2023-05-29

岸岸(ガンガン)行こうぜ!

臥薪嘗胆

太郎氏岸田にはここが踏ん張りどころ。

小生のような歴史マニアとお父上くらいしかそう願っていないかもしれないが

岸田翔太郎首相誕生を心から願っている。

40年後あたりかな。

岸田翔太郎首相と岸信千代首相が交代で政権運営し、片方が総理の時はもう片方が主要閣僚となる岸岸(ガンガン時代

今度こそ日本が勢いを取り戻すんだ。

岸岸(ガンガン内閣は憲政史上、隈板(ワイバーン内閣匹敵するスクウェア黄金時代を築いて欲しい。

2023-05-08

「得意な分野」って皆あるもんなのか?

俺はないぞ。

7歳ぐらいの時に「コロコロボンボンどっちかしか買わないからね」って言われてボンボン選んで、それからずーっとオタクやってきたけど別にオタク分野に詳しい自信はない。

インターネット世界テレビゲーム世界中途半端二股かけてたからどっちも詳しいってほどじゃないし、一個ぐらい完全に追ってた何かがあればいいのにシリーズ物って飽きちゃうから本当に全部通しでやったのもキングスフィールドぐらいだ。

これでシャドウタワーもソウルシリーズも全部やってれば良いんだが、捻くれて途中からPCゲーム至上主義なっちゃったからブラボデモソやってねーんだよな。

つうか熱帯嫌いだからダクソでも対戦してねーしCO-OPも嫌いだからそれ推奨っぽいDLCはなんか冷めて途中までやって辞めたしな。

FLASH黄金時代ネットとかちょっと話だけ分かるけど、別に詳しいって訳でもないし、侍魂とかでさえ先行者のページ見て笑ったぐらいであと何載ってたか知らねえのよな。

ニコニコ初期の頃も「ふーん」って遠巻きで見てただけだしな。

その割にはネットめっちゃ時間吸われて特に人生でなにかやってたかと言われると何もやってねえ。

虚無しか残ってねえ。

その虚無も得意ってほどじゃなくてさ、本当に虚無な人ってマジで天井のシミを数えてずっと暮らしてるみたいな感じじゃん。

ヒミズ主人公みたいな?

あれヒミズであってるっけずっと寝てた主人公漫画って。

ここで検索もせずにタイピングを続けるのが俺ですよ。

この辺のメンタルの強さというか、ちゃんと生きることに対して完全に諦めきれる所が得意な気がする。

っと思いきや一日パチや競馬に張り付いてる奴らに絶対勝てないからね。

なんなのアイツらマジでメンタル無敵じゃん。

鋼鉄なのかスライムなのか知らんけどノーダメすぎるだろ。

痛覚遮断スキルか?

いや本当さ、なんか皆気軽に「お前の”練”を見せてみろ」みたいに言うけど、ねーだろ普通

普通の人って「得意分野」とか持ってないもんじゃね?

持ってるのが当たり前みたいに言う奴ら怖いよ。

現実ソシャゲ程度にはゲームバランス調整してるとか思ってんのか?

スキルなしネームド無数にいて平気で人生ガチャからボトボト溢れてくるスーパー虚無ですがなにか?

2023-03-19

anond:20230319135025

CGIゲーム罪と罰++ 二律背反ホスティングをしていた

Flash動画黄金時代BUMP OF CHICKEN天体観測やKのような動画を作りたいという想いが強くあったことを今でも懐かしく思う。

PSPコンポジット端子AVケーブルカラオケ店のディスプレイモニタAVアンプへ出力して歌ったのだ(後にJOYSOUNDがこの学生文化に気づいてアニソンボカロ曲積極的配信DAMがそれに追従する)。これらの学生文化からニコニコ生放送でもカラオケ配信をするようになり、そこから歌ってみた文化興隆する。

懐かしい!マジで何者なんだ

今の40代オタクがボクの師匠プログラムCGDTM師匠のおかげ その2

https://anond.hatelabo.jp/20230319133934 の続き

2000年代後半

そもそも前述のオーディションの告知すらDTM magazine以外で見たことがなく(実際はもう少し色んなところで告知していたのだろうけれど観測範囲ではDTM magazineだけだった)、ネット上で注目されるのはロイツマガールからニコニコ動画投稿される初音ミクのIevan Polkkaを待つ必要がある。
実は初音ミクのIevan Polkka以前に初音ミク自体は注目されていたのだが、それは深夜アニメブーム文脈藤田咲ファングッズという需要であり決して初音ミクの可愛さやら革新性がDTM文脈評価されたっものではなかった。
実際に当時のKAITOMEIKO立ち絵更新されたのは初音ミクブーム以降であって初音ミク登場時点でもまだ扱いは非常に小さい。

この時期に触れて置かなければならないのはニコニコ動画誕生だろう。実際のところ2000年代半ばの項で触れなければならないのだけれど、現在ニコニコ動画として成立するのは2000年代後半からなのでココにする。
御存知の通り当初のニコニコ動画違法動画アップロードサイトであり、何なら当時話題であったYoutubeから動画を引っ張ってきて字幕を流すという方式であったため、Youtube側に違法動画が溢れ、負荷も高まりすぎたためBANされるという全くもって褒められない頭のおかし犯罪サイトだった。ドワンゴもそれを自覚していて運営ドワンゴだって黙っていた。

VIPPERニコニコ動画移住が促進されるのは前述したパートスレ問題2ちゃんねるまとめサイト問題による嫌儲勢の興隆によってニュー速VIPスレ執拗に荒らされるという事態が起き、YoutubeBANからMAD動画ブームが萌芽し始めて面白いコンテンツニコニコ動画へ増えてきたからであった。
その初期では違法動画アップロードのノリで無編集動画がアップされていたが次第に編集の手が加わるようになりMAD動画へと変化していった。代表格はアイドルマスターの「tUNAK M@ster (THE iDOLM@STER アイドルマスター インド版)」や「るろうに剣心英語版(フタエノキワミ、アッー!)」など。

ほぼ同時期にはMikuMikuDanceが登場、次第に増えていくボカロ曲(カバー曲)へMikuMikuDanceによるダンス動画を付けるなどの動きが発生。それらがボカロ曲絵師によるカバーの依頼、次第にモーショングラフィックス化が促進され今日のようなボカロMVが生まれるようになった。
その当時を振り返れば、Flash動画黄金時代BUMP OF CHICKEN天体観測やKのような動画を作りたいという想いが強くあったことを今でも懐かしく思う。あなた師匠がボクたち世代にそうさせたんだ。

livedoorねとらじ勢はニコニコ生放送登場とともに移住する。
livedoorねとらじ時代からカラオケ配信などの動きがあったものニコニコ生放送登場直前くらいか版権曲へ対して勝手字幕をつけて(当時は違法に)アップロードするニコカラという動きが発生し、この動画ニコニコ動画から(当時は違法に)ダウンロード携帯動画変換君(FFmpeg)によってPSP向け動画へ変換し、実際のカラオケ店で歌うという学生文化が生まれた。
当時のカラオケにはアニソンはもとよりボカロ曲なんて配信されていなかったので、PSPコンポジット端子AVケーブルカラオケ店のディスプレイモニタAVアンプへ出力して歌ったのだ(後にJOYSOUNDがこの学生文化に気づいてアニソンボカロ曲積極的配信DAMがそれに追従する)。これらの学生文化からニコニコ生放送でもカラオケ配信をするようになり、そこから歌ってみた文化興隆する。
歌ってみたニコニコ生放送の影響は計り知れないが負の側面もあり、livedoorねとらじでもあったような過激化が一部で促進され、配信しちゃいけない女の子の柔らかい2つの丘を見せちゃったりしてBANされるのも跡を絶たなかった。
結局、人気取りのために手っ取り早く女の子という要素を売りに全面へ出すと女の子要素を強く訴えることでしか評価を貰えないため次第に過激化していくのだ。livedoorねとらじ時代(約20年前)から何にも反省してないヤツは結構居たし、今のYoutube LiveやTikTokでも居るのでそういうのやめておきなと言いたい。10年前と20年前の失敗を繰り返すな。エロであれ悪ノリであれ何であれ犯罪を伴う過激化はダメだ。合法的過激しろ

歌ってみたキーアイテムであったPSP、実はMikuMikuDanceとも関係があり、MikuMikuDanceでのボカロダンス動画ダウンロードし、同様に携帯動画変換君によってPSP向け動画へ変換し、ダンスコピーして踊るということへ活用された。小型であり物理ボタン再生停止逆再生スキップなどが可能であったためダンス練習に丁度良かった。そうつまりこれの流れが踊ってみた文化の萌芽であり、PSP踊ってみたでもキーアイテムであったのだ。
当時のPSP、実は学生に対して物凄く影響を持ったガジェットで、当時の学生文化に疎い世代には信じられないかも知れないがPSP本体を所有しているのにPSPゲームソフトを所有していない女子学生が居たくらい学生の間では物凄く評価が高かったのだ。その影響度合いは当時のiPod以上と言って過言じゃなく往年のAppleファンには信じて貰えないだろう。

このあたりに来ると当時学生であった自分からしてもオタクへの風当たりは非常に改善されていた。
未だに自分の姉などはオタクへ対して少々嫌悪感があるようだけれど、学生時代から部屋に引きこもって続けていたことが仕事になっている現状を見て「アンタあのままじゃ犯罪者か何かになると思ってたけど今はそれが仕事だもんねぇ世の中わからないわ」などと諦めた感じでたまに言っている。
そんなの当たり前の話なのだ。ボクは師匠たちに憧れて今のような大人になった。師匠たちがどんなに迫害されても面白いモノを作り続けてくれたからこそボクたちは師匠のようになりたいと思った。モノを作る人が何かを変化させ、何も生まれない世界は何も変わらないんだ。ボクは師匠たちの手によって変化させられモノ作りをするようになった。

かにボクたちの世代オタク迫害ほとんど無くなった無くした、でも迫害されてきた師匠たちがモノ作りを辞めなかったからこそ今のボクたちはあるんだ。
今でも覚えてるよ!粗いのに精緻ドット絵面白いテキストサイト発音制限の中で奏でられるFMサウンド、低処理性能で実現する疑似3Dブラウザゲームあめぞうスレッディングシステム夢小説ツクール吉里吉里HSPアナタ達が作ってくれたモノなんていくらでも挙げられる!
憧れさせてくれた師匠たちへありがとうございます!と深々と頭を下げたい。


そしてボクたち世代を見て憧れてモノ作りをしたいという新しい世代の子が現れているのなら作り手としてこれほど嬉しいことは無い。


P.S.まりにも書きすぎて3/4削った。つまりこのエントリは1/4まで圧縮してるので何かのきっかけがあれば補足するかも知れない。

今の40代オタクがボクの師匠プログラムCGDTM師匠のおかげ その1

ゲッサンでどうやら同世代が当時を振り返る漫画を連載開始したようなので、別視点で語らせて貰おうか。

1990年代

めぐり合わせが良かったのかパソコン通信終焉期に同世代としては比較的早期にパソコンを手に入れ、パソコン通信をやっているお兄さんたちからプログラミングを習うようになる。
このお兄さんたちは今の40代、公開されているプログラムの改造についてフォーラム質問したこときっかけに、会話の中で自分小学生であることがバレてしまい、お兄さんたちは面白がって僕にBASICとCを二次関数も知らない小学生へかなり丁寧に教えてくれた。

お兄さんたちは次第に「これからインターネット時代だぞ」「大学にはJUNETがあって」などと教えてくれるようになり、インターネットやUUCP、TCP/IPWWWなどの知識小学生に詰め込むようになり、指導される言語PerlHTMLが増えたもの我が家にはまだインターネット環境がなかった。

Windows 95我が家に導入されるタイミングインターネット環境も敷かれ、ここでCGIゲーム出会いプログラミングへのめり込んでいくこととなる。
師匠たちの教えは素晴らしく当時のCGIゲームの主要開発言語はPerlであったため何も不自由なく改造がはかどり、負荷を高めても叱られが発生しにくいCGI対応ホームページスペースを提供してくれているプロバイダを探すこともよくやった。

2000年代初頭

その初頭(02年くらいから)にAdobe Flash方面で大きな動きがあり、いわゆる「FLASH黄金時代」を迎える。
Adobe Flashの派手に動くアニメーション音楽に衝撃を受け、そして我が家PCビデオメモリの貧弱さに絶望をした(お年玉全額投資した上で親に拝み倒してビデオメモリいっぱい積んでるPCへ新替した)。

2000年代以前もMML(Z-MUSICなど)でDTMを軽く触る程度やっていたものAdobe Flash自由自在マルチメディア感へ完全に影響され、本格的にDTMCGへ手を出すようになる。

当時主に使っていたDAWSinger Song Writerで、これは当時の師匠たちの主な環境ミュージ郎であったため影響を受けた弟子である自分DAWにおいてSinger Song Writerしか知らなかったという意味合いが大きい。結局、手に馴染んでいたMMLを完全に排除するまではいっておらず併用する形でDTMをやっていた。
当時のインターネット音楽事情を振り返れば今だから言えることだが、BOSSエフェクター回路図などがネット上に出回っており、おそらく電気関係を学んでいたであろう師匠たちの手によってミニ四駆改造を主とした電子工作の手ほどきを受けていた自分師匠たちから渡されたエフェクター回路図によって自作し、最終出力をMTRなどでレコーディングするという手法を取っていた。
当時のソフトエフェクター音楽素人自分でもわかるくらいに品質が悪く、何なら最終段をPCM音源出力するわけでなくFM音源でのみ仕上げるときは疑似ディレイや疑似デチューンなどの手法によってエフェクター表現するしかなく、ソフトエフェクターハードエフェクターを超えられないことが常であった。

Adobe Flashでは主にMotionSWFとSodipodiを利用して作成しており、Sodipodiは後にInkscapeとして派生していくことになり今でも使用しているが、MotionSWFはSWiSH2が登場すると直ぐに乗り換えた。MotionSWFは連番画像を事前に生成する必要がありActionScriptの扱いにも難があったためだ。
Adobe公式でLiveMotionというFlashアニメーションというのをリリースしていたもの学割が効くとは言え高価で、師匠世代の方々は学割が使えないのでSWiSHを使っていたこともあり影響された。
このあたりにTVアニメなどで使われる背景動画モーショングラフィックスという技術の括りに入るものと知る。まぁつまりモーショングラフィックスとは静止画アニメーションさせる技術総称なのだ

この時点で自分中学生自分の肌感覚だがこの時点でがまだ「オタク」へ対する風当たりは強く、中学校でもイジメ殆ど変わらないであろう扱いは散見されており、自分の姉たちからオタクっぽい趣味は良くないよみたいなことをよく言われたものだった。
まぁ姉たちも思春期だし、部屋にこもってパソコンへ向かってフヒヒとか言ってたり、電子工作で謎の機械作ってたり、Marshallのジャンクアンプをどこからか拾って来て修理してる弟は気持ち悪かったんだろう。

ただ運良くも両親が身体デカく産んでくれたおかげで、自分自身イジメられた経験がほぼ無く、というか面白ものを生み出すオタク友達イジメる不良が大嫌いだったので思春期だったこともありやり合っていたというのが実情だった。
なにせ一次産業家庭の生まれだったので早朝は実家の手伝い、親父の男子たるものスポーツくらい出来なければという保守的思想によって野球部所属し、帰宅後も実家の手伝いをしていたため身体が鍛え上げられる環境だったのだ。ツルんで威張り散らかし調子に乗ってタバコや酒をやるようなナヨナヨした不良に喧嘩で負ける道理は無い。
親父や教師たちは自分正義感溢れる少年だと思って度々喧嘩をしても大目に見てもらっていたが、実際のところはオタク友達が「イジり」に遭ったことに腹を立てて「俺たちに構うんじゃねぇ!」と思春期自分が怒っていただけだ。
ただこの不良たちとも仲直りをした。時代ビジュアル系バンドインディーズバンド流行り、そして青春パンクが注目され始めるとき。そんなときエフェクターアンプ自作修理し軽音楽部の部室へ持ち込んでいたので軽音楽部にたむろする不良たちが「えっ増田ってアンプ作れんの!?」となるのは別におかしな話じゃない。
不良たちもそのような状況でオタクグループをイジるのがバカバカしくなったのか次第に何かやるとき絡むようになり自分の通う中学校からイジメが無くなった。

イジメという娯楽はモノ作りという娯楽に勝てない。
イジメを根絶する力をボクは師匠たちから学んだ。今の世を見れば不良の一部はオタク側へ吸収されてしまっているし、そのような流れを作ったのは自分世代へ憧れを抱かせた40代になった今のアナタたち師匠だ。

2000年代半ば

Flashの影響が落ち着いてきたあたりでインターネットには新しいコンテンツ配信システムが注目される。インターネットラジオだ。
これは爆発的に普及し、当初個人サイトだった「らじちゃんねる」は「ねとらじ」となりつつも個人運営では負荷処理が追いつかずlivedoor譲渡されlivedoorねとらじになる。
奇しくもほぼ同時期に2ちゃんねるでは若年層が新しく設置されたニュー速VIP板へ集うようになりVIPPERインターネットラジオ配信をほそぼそと始めるようになった。
この頃のニュー速VIP板は明らかに自分と同年代が集っており、Flash黄金期の影響を如実に受けておりクリエティティの発露が著しく様々なネタスレが生み出され安価スレはその代表格で、更には涼宮ハルヒの憂鬱を発端とする深夜アニメブームからクリエティティは極限まで達しSSスレゲーム製作スレなどが大いに賑わうようになった。

そして負の側面も表に出るようになり女神スレや女VIPPERによるインターネットラジオ配信定番化すると、ニュー速VIP板内でのパートスレによるスレdat落ち問題視されるようになり、女VIPPERヘイトを集めるようになった。
それ以前から2ちゃんねるでは主に801板住民による板違いスレ違いや同性愛サロン板での荒らし問題視されており、女VIPPERによるインターネットラジオ配信によってBLファンであることが多いことが明らかとなっていたため、ニュー速VIP板内でも女VIPPER特に腐女子に対して風当たりが著しく悪くなった。
そこでパートスレを嫌うVIPPER腐女子へのカウンターとしてふたば☆ちゃんねるから2ちゃんねるへ輸入されたくそみそテクニックから作られたAAを使って女VIPPERによるインターネットラジオ配信スレを埋めるという連投荒らしをするようになる。

この動きは当の801板住民へも影響を与えたのか、801板では同人サイト作成奨励されるようになり、それ以前から評価の高かったYahoo!ジオシティーズ携帯勝手サイト魔法のiらんど同人界隈で注目され同人サイトの開設が爆発的に増えた。
しかしながらこの動きにも負の側面があり、同人サイト運営を行っている主に学生内で無断転載ホームページ素材サイトから直リンク問題が発生。Web系の技術者やホームページ素材サイト運営からヘイトを加熱させるという現象が起きてしまった。
特に怒り狂っていたのはいわゆるツクール系のゲーム製作者・ゲーム素材サイト運営者であり、当時のゲーム素材はまだGIFなどのドット絵素材が多かったため当時の携帯電話と相性がよく、同人サイト運営する学生無断転載直リンクするという行為に走ったのだった。

当時のHTML/CSSにも問題があった。携帯電話各社でHTML/CSS仕様が違い、自身同人サイトを彩りたい学生からすると携帯電話によって表示にバラつきが起きることは悩ましいことであり、画像素材はそのバラつきを最小限に留めることが可能である
さらに言えば魔法のiらんどなどで利用者が使えるストレージサイズが小さいという問題もあり、装飾にストレージ容量を消費すると自分イラストSS投稿できる量が減るといった悩みがあって直リンクへ手を染めていた。
もっと言えば当時の学生はあまりにも送信量が多いとプロバイダレンタルサーバレンタルホームページ事業者からホームページ運営者が怒られたり、送信従量課金契約場合は実際にホームページ運営者が実費を負担していたという事実を知らなかったのも無断転載直リンクへの拍車をかけていたと思われる。
現在社会人となっっているであろう同人サイト運営していた学生だった者はおそらく今まさに素材サイト管理人金銭負担させていた事実を知って驚いていると思うが、何故あんなにも注意され、素材差し替えなどで当時は嫌がらせと思うようなことをされたのか?を理解していることだろう。管理人は怒って当然なのだ

そのような状況を傍目から見ていた自分2ちゃんねる内の様々な製作系板やスレなどへ常駐し、HTML/CSSスレなどで素材提供などをし、更にはCGIゲーム罪と罰++ 二律背反ホスティングをしていたが、当時のDTM雑誌であるDTM magazineで1つの告知記事を見る。それが「プロ歌手デビューオーディション(VOCALOID中の人採用特典付き)」だ。
うつまりこれKAITOMEIKOデビューしたオーディションであり、当時の2ちゃんねるDTM板でVOCALOID評価はそこまで高くなく、たいていは「ボコーダ/ボーカルシンセの代わりにはなるのではないか?」程度の評価だったのだ。
様々な音楽制作雑誌でもVOCALOIDの扱いは非常に小さく、例えば当時のPC雑誌定番特集だったフリーソフト100選みたいなノリでVSTプラグイン100選の中にVOCALOIDボコーダ枠で入ってるくらいの極々小さないであった。むしろ登場時に言及していた名無しが評価の仕方は別としてVOCALOIDに触れているだけでもスゴイまである


https://anond.hatelabo.jp/20230319135025 へ続く

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

2023-02-03

地方紙老害ムーブがいい加減目に余る

テレビは娯楽の王様子供の夢だったのに最近は元気がないなァガンバレ!」みたいなコラム新聞の一面にあってさ

「ああこの筆者は自分田舎勝ち組家父長おじさんとして生きてきたから、何も覚えてないんだろうな」って、本当悲しくなった

今みたいに、テレビモニタースマホいくらでもあって、好きなものが好きなだけ見ていられる時代ならともかくさ

昔のテレビって、チャンネルから始まって、家父長制文化を担う最たるものひとつだったと思うんだけど

親父の趣味に付き合わされて、見たくもないプロレス野球を嫌々見てた家族なんか、それこそ山ほどいたろ?

ボキャブラ天国で散々ホモいじりを主導してきたタモリが今キャンセルカルチャー対象にならないのだってマジで不思議なくらいじゃん?

かにそういう良くも悪くも大らかで、いろんな人の目を集められた時代からこそ、デカくて面白いコンテンツテレビで楽しめたこともよくわかるんだけど

まりからあんサヨク面してたメディアも、結局はおっさん中心で回ってたわけ

オールドメディア黄金時代」なんて、振り返れば所詮そんなものだった

しかもそういう過去真摯に向き合って反省するならともかく、当のおっさんたちは「二度と訪れないであろう古き良き時代」と、まあノンキに考えてるだけなの

そりゃ来るわけねえだろ、そんな認識してたら

からフェミの皆さんもいい加減考え改めた方がいいと思うよ

メディアサヨク自分の味方だなんて簡単に思わない方がいい

ちょいと女に媚びたって、上にいる重鎮がこれだもの

知れてるよマジで

2023-01-04

[]1月3日

ご飯

朝:おぞうに。昼:なし。夜:おぞうに。

調子

むきゅーはややー。お仕事は十連休8日目。

探偵撲滅

・はじめに

日本一ソフトウェアミステリADV

巷を騒がせている100名近い連続殺人を続行中の八つ裂き公に対抗すべく、優秀な探偵所属する探偵同盟の中でも選ばれし13人が孤島に集まり検討会を開く。

そこのなぜか探偵としてはまだバイトで駆け出しな主人公が参加することになるが、その孤島は既に八つ裂き公による殺人舞台になっていた。

理想探偵外道探偵などのコードネームを持つ優秀な探偵たちの中に八つ裂き公が居るとしか考えられないシチュエーションに、主人公無能探偵の二つ名を授かり捜査を始めるのだった。

あらすじだけ見るとダンガンロンパフォロワーな感じだが、所謂新本格ミステリ」の文脈の色が濃く出ている。

・大量に出てくる出てくるだけの固有名詞面白い

西尾維新のアレね。

一言で終わらせるのは勿体ないので紹介する。

「6大グループ企業『十傑』」

モナ・リザオルタナティブ事件

「史上最凶の護衛伊草弟切」

みたいな格好いいけど、別に後々登場する訳ではなく、その時々に味付けのためだけに登場するだけ。

こういうのを格好良いと思う回路が出来ているので格好良いと思った。

(とはいえ、それをやり続けてる西尾維新本人は別格なんだよなあ、零崎はじめてえ……)

幻想的な描写を交えながらホワイダニット誘導するような文章を重ねながら物理トリック一本背負い

北山猛邦のアレね。

一言で終わらせるのは勿体ないので紹介する。

文体とある特殊設定が相まって、現実虚構曖昧になる描写が多い。

その割にハウダニット重視の謎解きが多く、ホワイダニット最後最後まで重視されない。

そのハウダニットも、古き良きな趣で、思わず

||「よっ! 氷!」||や

||「糸さまー! こっち向いてー!」||や

||「きゃー自殺を他殺に隠蔽ちゃーんー!」||と

声援を上げながら楽しくプレイした。

前例のあるトリックからダメと言っているんじゃなくて、トリックは見せ方であり、それがゲームになることによって斬新…… さは特にいか

まあまあ、十角館再放送は何度観ても楽しいからいいじゃん。

(北山のアレもこの作品も十角館再放送ではないが、新本格とは根本的にそうだと言っている)

人間が生きる意味を問う哲学宗教に関する問答

浦賀和宏のアレね。

一言で終わらせるのは勿体ないので紹介する。

探偵というジャンルがこれを想起させるのか、本質的物語はそこに行き着くものなのかはわからないけど、そういう問答のシーンが長尺である

面白い面白くないは、正直別にどちらとも思わなかったという答えになる。

ただ、割と真っ直ぐな回答なので、シンプルだなあとも思った。

クローズドサークル内の描写ほとんどで、市井の人々の描写が無い点が悪い意味で狭く感じた。

もう少し広いところで議論した方が、具体性をもてて僕のこのみだったかもしれない。

(浦賀オタク描写のことを、生死感を問答する際に重要一般的市井の人々の描写だと思ってるわけではない)

・身も蓋もない展開

矢野龍王のアレね。

一言で終わらせるのは勿体ないので紹介する。

殺人事件最後の生死感を問う部分はやりたいことがハッキリしていたのだけど、迷宮彷徨いデストラップ四苦八苦するところは身も蓋もなかった。

仕掛ける側も、解く側もなんでもありだし、死体がないなら疑うのもベタ中のベタすぎて、はは…… ってなる。

商業的な事情の水増しを感じるが、小説よりは、ゲームの方が複数人制作ということもあって、水増しが納得できなくはないのが、なんとも。

(矢野龍王は水増し力を鯨統一郎から学ぶべきだったんだよなあ、いや水増し力というか、それを批判されても動じない心というか)

女性体臭にまつわる描写エッチ

関田涙のアレね。

一言で終わらせるのは勿体ないので紹介する。

ゲームトイレのシーンがないとかお風呂のシーンがないとか難癖を付けるの嫌いなんだけど、この作品は難癖とかではないです。

というのも、序盤はお風呂トイレがある場所で休憩しているしそれらを利用する描写がある。

物語が進むにつれ野宿を繰り返してるから

風呂我慢している描写がある。

しかも、冒険が進むにつれ気温が上昇しているという描写もあるせいで汗をかく描写も多い。

さら匂いに関するトリックや、匂いに関する長けた能力を持った人もいるため、体臭言及するシーンも多い。

こうなると常日頃から、そのような単語検索してはPixivブックマークを肥やしている身としては居ても立っても居られない。

しかし無いもの無いのだった……

(関田涙の蜜の森の凍える女神の凍えるシーンの詳細な描写二次創作をどれだけ探しても見つけられなかったことを思い出すなあ)

(なお、そのようなジャンルの僕のオススメ作家さんは緑茶みちさんとイソポティラミスさんです)

・さいごに

清涼院流水が好き。

てらいなく、本当に好きなんだよね。

僕にとってあの時代は「黄金時代」だったんだ。

から、流水を好きな人のことを好きになっちゃうんだ。

上京してから、同郷の人と会ったとき、妙な連帯感を感じるアレだよ。

(いや僕学生時代と同じ街で暮らしてるから知らんけど)

2022-12-06

anond:20221206140928

スポーツでもそうだし、今年のミスアメリカ予選でミスニューハンプシャーに選ばれたのは

ロングヘアのカツラかぶった醜い肥満体の男性(心は女性だと自称している)だったよ。

だらしない肥満のまま出場しても「女装男なら選ばれる」となると、体型を絞って大会に臨んだ女性たちはやってられないだろうね。

アメリカ女装男は超イージーモード日本アメリカリベラルにならってトランス権利拡張されると、女装男の黄金時代来るぞ。

2022-12-01

おばさんになって楽になったこと。

 自分が女だということを自分否定しなくていいんだ! と、ある日の仕事中に思いついて、雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。まあ、心の中でだけ……。その時私は90代くらいの女性接客中だったのだが、無意識子供時代のようにくねくねヨナヨした女々しい喋り方で話していたのだ。もちろんちゃん敬語だったけど。こういう、男だったらオネェと呼ばれ、若い女だったら「あざとい」や「ぶりっ子」と呼ばれ蔑まれ攻撃されるような喋り方で、おばさんが喋るのは何ら問題ない……問題はないのだ……!

 幼稚園時代までは、誰に教わったわけでもないのに非常に女々しい言葉遣いで喋る子だった。それは、「〜だわ」「〜よ」とかいうやつじゃなくて、ほんと例えるならオネェキャラの人みたいな、何を喋ってもクネクネしてる感じのあの喋り方だった。

 だが、小学校中学年以降になると、同世代男子女子黄金時代ジャンプに影響されまくって育った世代だったので、みんな極めて口が悪かった。いとも容易く「死ね」「殺すぞ」と言い放つような。しかバリバリ活躍する女性が形だけでも持て囃されたからだろうか、逆にぶりっ子というのは死ぬほど嫌われたものだ。同性からも、異性からも。そんな時代だったので、自分の身につけた喋り方で通すのは、肩身が狭すぎて無理だった。しかし、女子ですら一人称にわざと「おれ」を使うような中で、一緒になってオラオラした喋り方でイキリ散らすのは、自分には合っていないのに何だか強くなったような気がしてちょっと快感だったのも本当だ。

 それから十年くらいして社会に出た。五歳くらい年上の女性上司一人称彼女自身名字を使っていた。それが当時の意識高い系人達の間での流行りだったのだ。それに加えて、語尾は「〜ッス」とか。オッス、ウッスと野球部柔道部男子みたいな話し方を若手の女子社員もする。そんな様子にもしかしたら上の世代上司や先輩たちは眉を顰めていたかもしれないが、だからといって女子達は負けなかったというか、そもそも怖いものなしだった。

 まだ入社して間もないある時、会社食堂で休んでいたら他部署に配属された同期の女子社員の大声がホールに響いた。


「ふっざけんじゃねーよ、テメェ!」


 怒りの一言ではない。あくまでもじゃれ合い、猫パンチのようなものだとわかる声色だった。その同期は同じ部署の同期男子二人と会話中だったのだ。それには、歴の長いパートのおじさんとおばさん達がヒソヒソした。だが、その時の私は、年配の人が差別的なのは仕方ないと思った。思いつつ、内心、すごくフェミニン服装を好む同期が言葉遣いでは今どき男子でもしないような粗暴さなのが気になっていた。でも、私だって同じような言葉遣いをしていた。就職難の時代に運良く職にありつけたのはいものの、職場は食うか食われるかの修羅場だった。そんな環境で生き残る為に男よりも男らしく粗暴にワイルドに振る舞ってうざいオッサンお兄さん上司や先輩達と戦いながら働くのは当然の権利とまで思っていた。


 ……けど、そうやって肩肘張って生きる事にいつの間にか疲れていた。子供時代のようにクネクネヨナヨした女々しいだけの自分に戻りたい。いつの間にか、そんな風に思っていたのかもしれない。


 おばさんとなった今の私には誰も強さを求めていない。誰も私を強いとも偉いとも賢いとも思っていない。おばさんっていうのは、非力で愚昧でどうしようもない、ウルセェだけの取るに足らないヤツだと素で思われてる。そんな私が女々しい言葉遣いをしようが誰も何も思っていない。なんなら、接客する時は人当たりが良いのがプラスになるというか、しょーもないヤツなんだからせめて人当たりくらい良くあれみたいな感じで、昔理想としたのとはかけ離れたしかただけど、なんか肯定されてる気がする。

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