はてなキーワード: ディテールとは
2日目
5:00
6:45
着替える
7:30
朝食のレストランを遅めの時間にしているため、小腹を埋めるためおやつを買う。
7:45
買ってきたおやつを軽くつまむ
8:15
手荷物検査の手前でハッピーエントリー通行証&宿泊証明書の確認が入る。
8:20
2日目は通常のワンデーパスポートなので、色々手配する必要がある
今回は
・上記スタンバイパスの時間に合わせてロイヤルバンケットのモバイルオーダー
を手配する。
DPAは乗車時間を選べるが、スタンバイパスおよびプライオリティパスは早い時間からの先着順のため、狙っている時間になるまで待つことに。
8:30
アトラクションはスタンバイパスもプライオリティパスも一向に時間が動かないので、一旦撤収。
8:35
しかしスタンバイパスもプライオリティパスも一向に時間が動かない。
8:45
9:00
9:20
DPAは購入後そのDPAを使用するか、1時間後にならないと次の購入ができない。
9:50
TVメニューから支払い用の二次元コードを表示→スマホのWebブラウザで決済
手荷物は部屋に置いていけば回収して預かってくれる。(やはりWebブラウザから依頼をかける)
アプリ内で手続き出来るとなお便利なのだが、「部屋で手続きする」必要があるんだろうな。
11:30
11:35
1日目に乗車効率の悪さを書いたが、この時に実感した。
・1台ずつの出発
・4人乗り
12:00
食べ物がセットメニューしかないのは使いにくいので、オペレーションがこなれてきたらバラ売りして欲しい。
12:45
別エリアへ移動
13:00
13:20
シングルライダーで乗車
妻子には先に行ってもらう
13:45
いつ食べてもうまい。
妻子に先に行かせて、食べながら待ってもらってた
14:30
プライオリティパスで20分ほど。プレショー2回待ちくらいか。
15:00
ビアカクテル
そのまま飲み歩き
15:20
15:40
DPAで乗車。
ラストの東京、鉄オタは新幹線のディテールでCG映像であることを見破るとのことだが、
俺は新橋のサラリーマンなので、複数の建物・道路が省略されているところで見破った。
そして弊社のビルは綺麗さっぱり消えていた。
16:00
16:20
16:25
16:35
16:40
16:45
DPAで乗車
17:00
18:40
チェックアウト時に預けた荷物を回収。
ロビーで待てとのことでロビーのソファに腰掛けるが、2分ほどで荷物を持ってきてくれた。
18:50
19:00
19:05
帰る
以下の文章は、作者の創作か、もしくは現実の話を書いたかどちらかを判定し、その理由も詳しく説明してほしいです。
(全文コピペ)
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この文章は創作である可能性が高いと思われます。その理由を以下に説明します。
文章全体にわたって、出来事や会話、心情の変化が詳細に描写されています。特に、心情や夫婦間のやり取りがリアルかつドラマチックに表現されており、脚本的な構成を持っていると感じられます。これにより、フィクションとして読者に「物語」を提供する意図が感じられます。
例えば、「探偵を使ったが無駄だった」「ボイスレコーダーで不倫相手との会話を聞いた」などは、典型的な物語のエスカレーションで、登場人物の心理が少しずつ追い詰められていく様子を強調しています。
文章の流れが綿密で、プロットに沿った展開が繰り広げられています。特に「6月初旬から10月中旬まで」の詳細な時間軸に沿って進むため、まるで小説やドラマの一章ごとに新しいイベントが発生するかのように区切られている点が強く創作らしさを感じさせます。
また、緊張が高まる最後の場面においては、「自殺をするしかない」という結論に至るまでの主人公の葛藤が重々しく描かれており、読者を感情的に引き込む意図が見受けられます。
夫のキャラクター像(熱しやすく冷めやすい性格、サークル活動への熱意、淡々と離婚の手続きを進める姿勢など)や不倫相手の描写(献身的で理想的な女性像)は、シンボリックであり、典型的な物語のキャラクターに見えます。現実では多様な人物が存在するはずですが、ここでは物語としてわかりやすいキャラクターが展開され、読み手が各登場人物に感情移入しやすくなっています。
最後の部分で、主人公が「自殺」というウルトラCを計画するという発想や、それによって夫と不倫相手に「現実を見せる」という結末は劇的すぎて現実にはやや不自然と感じられます。こうした劇的な結末の導入は、小説やドラマなどの創作において、物語を盛り上げるために使われる手法です。
上記の理由から、この文章は創作である可能性が高いと考えられます。
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逆に現実の出来事を書いていたとしたら、その理由は見つけられるでしょうか?
現実の出来事を描いた可能性があると仮定した場合、いくつかのポイントが理由として挙げられます。
文章全体を通して、感情の移り変わりや細かい行動が具体的に記録されています。日常的な場面(例えば「夫婦の口喧嘩」「母への電話」「探偵に依頼する」など)や日常に寄り添った心理描写(「夫の言動が気になり始める」「相手女性のSNSアカウントを眺め続ける」など)は、現実の経験から生まれるもので、作り話ではここまでの細かさを再現するのが難しいと考えられます。
文章中の対話には、現実的で人間らしい反応や表現が含まれています。たとえば、夫が「俺のこと好きじゃないんでしょ?」と尋ねた時の、主人公の否定できなかった場面や、「サークルに来ないでほしい」と言われる場面など、言葉の端々に日常的で素朴なやり取りが見られ、これらは現実に経験したからこその表現かもしれません。
また、普段は仕事の疲労から離婚話を避けたり、デートや旅行の費用負担についての細かな記述も、日常生活に即した具体的な描写であり、現実の出来事を反映しているようにも思えます。
主人公は夫に対する複雑な感情を持ち続けています。好きだと思っていた夫の関心が他に向いたことで初めて動揺し、自分の気持ちが整理できない状態に置かれている様子は、現実にありがちな感情の揺れを感じさせます。例えば、カウンセリングで「好きなところは出てこないが、離婚したくない」という発言や、相手女性のSNSアカウントをチェックし続けるなど、混乱と依存がリアルに表現されています。こうした複雑で矛盾を含む感情は、創作よりも現実に基づいている可能性が考えられます。
作中の主人公は、事前に計画を立てず、衝動的に行動し、後悔を繰り返しています。例えば、喧嘩の最中に勢いで「離婚届を持って帰る」と返答したり、夫に対して「1ヶ月だけ時間が欲しい」と頼んだり、不倫の証拠をつかもうと探偵を雇ったが成果がなかったことなど、行き当たりばったりで結果的に何も進展しない行動が続いている点は、現実における人間の不完全さや衝動的な行動を反映している可能性が高いです。創作であれば、こうした無計画な行動を細かく描写するよりも、物語を進めるための筋が優先されがちです。
文章の終盤にかけて、主人公の感情は不安定さを増し、最終的に「自殺」という極端な考えに至りますが、その決断が唐突ではなく、過程が細かく描かれています。夫への不満や裏切られた感情、不倫相手への嫉妬など、積み重なったストレスによって自己否定や自殺念慮に至るプロセスは、心理的にリアルであり、実際の出来事としてもあり得るかもしれません。人間関係の破綻が原因で心理的に追い詰められる例は多く、現実の状況でこのように冷静さを失ってしまう可能性も考えられます。
現実の出来事だと考える場合、この文章は、複雑でリアルな心理描写や日常的なやり取り、無計画さ、そして極端に壊れていく心理過程がその証拠になると言えます。
ヤンサンだけは、当時欠かさず購読していた俺が書かないと、という義務感から書いた。
異論は受け付ける。順不同。
この作品を世に遺せたことだけでも、ヤングサンデーという雑誌が存在した価値がある。世界規模で暴力と正義を等価値に描いた、怪作にして超名作。マクロな視点のテーマ性や劇的なストーリー展開と、市井の人々のエゴをディテールたっぷりに描いたミクロな視点の描き込みの両立が天才的。「宮本から君へ」はモーニング連載だが、この作者で一作だけ選ぶならこれだと思う。
「のぞき屋」の頃から片鱗が見えてはいたが、変態的なキャラクター造形と淡々とした描写が素晴らしい。そして前作からの画力の進化にも驚く。海外でも評価が高い。この作風はスピリッツ連載の次の怪作「ホムンクルス」へと繋がっていく。
ヤンサンは、山田玲司を育てた雑誌でもある。個人的には『アガペイズ』の方が圧倒的に好きだが(最高傑作だと思う)、知名度や重要作品としてはこっち。オタクがモテ男に変身していくHowToマンガの側面もありつつ、純愛を志向することでバブル期の軽薄な恋愛観へのアンチテーゼになっているメタ的な作品。ちなみに作者はヤンサン廃刊後、「山田玲司のヤングサンデー」という人気のYouTubeチャンネルを運営していて(後から出版社公認に)、マンガ評論がかなり面白い。
共著の「サルまん」を除けば、これが相原コージの最高傑作だと思う。白土三平的な王道忍者マンガと、「勝手にシロクマ」「コージ苑」的な不条理ギャグと、「サルまん」的な実験的アプローチとを高度に融合して、両立どころか鼎立させた奇跡的な作品。
遊人は、青年誌エロマンガにおいて未到達だった性表現の境地を切り拓いたので、漫画史的にも取り上げる必要がある。散漫なストーリーはともかく、今見ても女の子の絵が抜群に上手いし、性的描写のお下劣さが限界突破している。新宿の風俗店にイラストが無許可で使われ続けてて可哀想。
最初はベスト10作品にしようかとも思ったが、逆に絞るのが難しかった。
冬物語、シーソーゲーム、SOMEDAYなど。ヤンサンの看板作家だとは思うが、これといった新規性は感じられない。
どれも安定した名作揃いで、ほぼ外さないのが凄いのだが、逆に言うとヤンサン時代には、まだ突出した作品がない。
他誌で『ブラックジャックによろしく」があるからなー。名作だが、ドラマ化されるまでは割と知られていなかった。
アオイホノオ、おやすみプンプン、Dr.コトー診療所、クロサギ、イキガミ、土竜の唄などの名作・人気作が、廃刊と同時に他誌へと移転している。本当に、こんな良い作品が集まってた雑誌を廃刊にするとか、何考えてんだよ……。
よくある不条理ギャグと思わせつつ、後半からの哲学的なヤバい展開。しりあがり寿の弥次喜多に通じるところがある。
長尾謙一郎の作風は、ヤンサン以降の「ギャラクシー銀座」などで完成されたので入れなかった。
ちなみに作者は、最新作ではギャグを完全封印して、爽やかな青春空手マンガ「三日月のドラゴン」を書いていて、これもめっちゃ面白い。
前身の「少年ビッグコミック」からの移籍だし、代表作は他誌で『あずみ』があるからなー。
ここは、かなり迷ったが、入れなかった。作者で入るとしたら、「へうげもの」「望郷太郎」かな。しかし、とんでもない傑作SFになる可能性を秘めていた度胸星を未完結で打ち切った当時の編集部の罪は重い。
喜国雅彦は独特すぎて扱いづらい……。「月光の囁き」はシリアス路線で作家史的には価値があるが、基本的にギャグ漫画。どうなんだろう。
忘却のサチコでブレイクした阿部潤、帝一の國などで知られる古屋兎丸、さそうあきらなども、漫画家としての初期は、この雑誌で育てられたという印象が強い。
百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画『熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。
結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。
理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。
腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。
この作品は、主人公が田舎の高校に入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である。
この水族館部というのは愛媛県の長浜高校に実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的に作品の舞台にしたようだ。
まず、水槽が多すぎる。
実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。
全国募集で部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。
しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。
水生生物を飼ったことがないと想像しづらいかもしれないが、水槽の管理はなかなか大変だ。
生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルターも掃除しなければ目詰まりしてしまう。さらに水槽のガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽の場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理も必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。
こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。
百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。
この作品は主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽を管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物や水槽管理の知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。
また、登場人物の水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ。
主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問の先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテールや知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)
水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲに愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。
それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手に自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである。
少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由が想像以上にぼんやりしているのは悪い意味でリアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズが特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館の地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。
ここまで長々と語ってきたが、この作品の水族館部描写の問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクトの希薄さ」に集約できそうだ。
漫画のリアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。
創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実の存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。
これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣な手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。
手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。
水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実のデートでも定番スポットだし、漫画やアニメ、ドラマで描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい。水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。
しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。
以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である。
なお、論評するなら最終巻まで読んでからにしろと言われそうな気もするが、連載形式の漫画にそれをする必要性はないと思っている。
読んでて長ったらしく面白くもなかったので、『「長ったらしい」「面白くない」と不評なので簡潔かつユーモラスにしてください』と書き添えてchatGPTに放り込みました。ご査収ください。
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うちの彼氏も、ほんに「おもんない」んですえ。
彼はんはお医者様で、忙しゅうてややこしいのはわかりますけど、どうにも話が続きまへんのやわ。「今日は何食べはりました?」って聞いても「美味しかった」言わはるだけ。ほんでこっちが「何が美味しおす?」て必死に広げようとしても、話がそこどまりどす。
たとえば、こんなふうに話してくれはったらええんどす。「〇〇いうお店で、前菜が特に美味しゅうて、盛り付けもほんに華やかどしたえ。次、一緒に行きまひょか?」これで「ええなぁ、行きたい!」ってなりますやろ?
お仕事のお話でも同じどす。「疲れた」だけで終わらんと、「今日は手術が長引いて、ほんにしんどかったけど、患者さんが無事でホッとしましな」って感情をちょこっと添えてくれたら、うちも「お疲れはんどす」って声掛けしやすうなりますのや。
ほんでもって、映画やお趣味の話も、説明だけやのうて「こう感じたんや」て部分が肝どす。たとえば「映画のラストにびっくりしまひたえ」とか「新しい趣味に挑戦しておもろかったわ」て。そしたら、こっちも「わかりますえ!」って会話が盛り上がりますやろ?
それに、日常のちょっとした失敗話も立派なお話の種どすえ。「手術室でスリッパ履き違えて、ほんに恥ずかしゅうおす(笑)」なんて話してくれたら、笑いも生まれるし、親しみも湧きますどすえ。
結局のところ、うちが求めてるんは「おもろい話せえ」やのうて、感情やディテールをちょこっと加えてくれたら、それだけで会話がぐっと楽しゅうなるて話どす。
私は看護師で、彼氏は医者です。忙しいのはわかるんだけど、どうしても話が広がらなくて、なんだか盛り上がらないんです。もちろん、私が求めているのは爆笑必至の話じゃなくて、ただもっと楽しく会話をしたいだけ。でも彼の話し方は、いつも事実を伝えるだけで終わってしまうから、こっちが広げようとしても無理があって...。だから、私と同じように感じている女性は多いと思う。
おもんない男性のために、もう少し具体例を追加します。趣旨は増田さんと同じ。
ただ「美味しかった」とか「◯◯を食べた」だけじゃなくて、もう少しその場の雰囲気や料理の特徴を伝えてみるのがいいかも。たとえば、「◯◯っていうレストランで、前菜の△△が特に美味しかったし、盛り付けもおしゃれだったよ。次は一緒に行こうか?」みたいに話してもらえたら、「それ良さそう!一緒に行きたい!」って感じで、もっと話が広がるし、共有できる気がするんですよね。
ただ「疲れた」とか「忙しかった」だけで終わるんじゃなくて、もう少し感情を交えてくれると嬉しいです。例えば、「今日は手術が長引いて疲れたけど、患者さんが無事に回復してくれてホッとしたよ」って言ってくれたら、こっちも「お疲れ様!」って自然に声をかけたくなるし、共感しやすい。何があってどう感じたかをちょっと話してくれるだけで、会話がぐっと親密になるんですよね。
ストーリーの説明だけじゃなくて、どう感じたかを話してくれるともっと良いんじゃないかなと思います。例えば、「昨日見た映画で、ラストの展開が予想外でびっくりした。自分だったら同じことはできないなって思ったよ」なんて言ってくれると、私もその映画に興味を持てるし、同じように感じたら「わかる!」って話が盛り上がりますよね。感想をシェアしてくれることで、感情的なつながりができて、会話がもっと楽しくなります。
ただ「やった」だけで終わらせずに、「最近、新しいコースに挑戦してみたんだけど、思ったより難しかった。でも、景色が綺麗で良かったよ。今度は△△に挑戦してみたいんだけど、どう思う?」みたいに挑戦や感想を交えて話してくれたら、こっちも「それ面白そう!」とか「頑張ってるね!」って話しやすいし、応援したくなりますよね。趣味って、一緒に楽しむチャンスがあるだけで、もっと話が弾むと思います。
いい話のネタになると思うんです。例えば、「手術室に入る前にスリッパを履き違えて、ちょっと恥ずかしかった(笑)。でも誰も気づいてなくてホッとしたよ」なんて話をしてくれたら、完璧すぎないところに親近感を感じるし、笑ってリラックスできる時間が増えます。こういう小さな失敗をユーモアに変えて話すと、会話が軽くなって楽しい雰囲気になりますよね。
当日の出来事だけじゃなくて、準備段階での期待や計画も共有してくれたらもっと楽しいです。例えば、「今度行く◯◯、景色が綺麗で評判なんだって。早朝の景色が最高らしくて、行くのが楽しみだよ。どこかおすすめのスポットある?」なんて言われたら、一緒に楽しむ気持ちになれるし、「そういうところ行きたいな!」って自然に思えます。
もう少し掘り下げて話してもらえるといいですよね。例えば、「昨日、スーパーで買い物してたら財布を忘れてて、焦ったけど店員さんが親切に待っててくれて助かった」みたいなちょっとした出来事も、話題にしてくれると会話が弾みます。そういう何気ない話こそ、実は一番リラックスできるし、会話を続けやすいんです。
結局、面白い話をしろっていうプレッシャーをかけたいわけじゃないんです。少しだけ、話に感情やディテールを加えてくれると、会話がもっと楽しくなるんです。会話って、情報交換じゃなくて、感情を共有して一緒に時間を楽しむものだから、ちょっとした工夫で会話の質が変わると思います。
朝起きると僕はまず煙草を吸って、それから歯を磨いて用を足す。用を足しているとオナニーがしたくなる。シャワーに入ると尿意を催す人がいるように、僕は便座に座ると、もっと言えば尿意を催すとオナニーがしたくなる。
その日はなんだかひどく人肌が恋しくて、湧き出る自慰欲を抑えつけてスマホでサイトを見始めた。いい具合の時間に出勤している女はたしか千人以上いたはずだ。この世は終わっているなと思った。サイトには気になった女を保存する機能があって、僕はその中から少し前に保存した女を見繕った。彼女らが投稿する写メ日記は普通におかずとして使えるので定期的に女を漁るような習慣ができていた。
十九時から予約したが、一時間前に確認の電話をかけるともういけるとのことだったので十八時半からにした。十八時二十分頃にホテルに入って、部屋番号を伝えるためにまた電話をかけた。何回呼んでも来る前の不安と高揚感というのはなくならず、気を紛らわすためにソファに腰掛けながらノルウェイの森を読み始めた。しかし気分が落ちるような気がしてすぐにやめた。結局ノックが聞こえたのは十九時前だった。大体いつもこんなものだ。
率直に言おう。不細工だった。いや、顔面偏差値というものを真剣に公平につけるのであれば大して下になるような女ではなかったが、四十から四十五の間に収まるような顔だった。
女は冒頭からフランクな調子で話しかけてきた。昨日(今日の未明)に面倒な客が来ただのこの間沖縄に出稼ぎに行っただの一通り話されたあと、シャワー浴びよっかと言った。彼女は服を脱いだあとに「照明って好みあるしホテルによって違うからむずいよねー」と話しながら枕元にあるコントローラーをいじった。写メ日記通り、彼女はいい身体だった。出るとこは出ていて、引っ込むところは引っ込んでいたが、程よい肉付きがあった。そこだけが救いだった。身体を洗われ先に部屋に戻った。ベッドサイドの両脇にあるランプと入口近くのダウンライトが部屋を薄暗いオレンジ色に染めていた。
ベッドに寝転び、薄めに色がついた度付きサングラスを外して枕元に置いた。薄暗い部屋に戻ってきた女の顔がのっぺらぼうみたいに見えてよかった。女は僕のとなりに寝転ぶと、はじめよっか、と言って仰向けの僕の上から抱きついた。軽くキスをして「嫌なところない?」と聞いた。顔が近づくとディテールが浮き彫りになり、少し不快感を感じた。「なんでもどうぞ」と言うと女は乳首を舐めはじめ、そのまま陰茎に手を伸ばした。僕は刺激とよい想像で補完された裸体を用いて陰茎を勃たせるように努めた。女は乳首から口を離すと、勃起した陰茎に唾液を垂らし手で擦り始めた。
少しすると女は「二回イケる人?」と僕に聞いた。「まあイケるよ」と言った直後に、なんとなく反射的にイケると言ったことを悔やんだ。女は「何でイく? 裏オプでもなんでもいけるよ」と言った。お前ごときと追加料金払ってまでセックスするわけがないだろうと思いながら少し考え「じゃあ口で」と言った。それから女は陰茎を口に含んだり手で擦ったりを繰り返した。僕は口でと言ったが、女はあまり好きではないのか出すまでの八割方の時間、乳首を口で弄りながら陰茎を手でしごいた。途中でパイズリを挟んだが、疲れたのかすぐにやめた。今までそこそこの人数の風俗嬢を相手にしてきたが乳首舐めが最も下手な女だった。バキューム乳首舐めとでも言おうか、前戯が下手な男を相手にする女とはこういう気持ちなのかと思った。
結局女の手によって僕は果てた。精液はみぞおちのあたりまで飛び散った。軽く深呼吸をすると乾いた唾の不快な匂いが鼻腔を刺激した。女は素早くティッシュを回収すると僕の腹と陰茎を軽く拭いた。それから谷間あたりに残っているローションを洗い流そうとシャワーを浴びにいった。僕の腹と陰茎は、拭ききれていないローションと精液と唾液とが合わさって半乾きになったものに覆われていた。眼鏡を掛け直してスマホを見ると十九時半を過ぎた頃だった。時間はまだ三十分以上残っていた。女と入れ替わりで浴室に入った。ボディーソープを使って洗い流したが、微妙にぬめりが残っているような気がした。バスタオルでそれらを拭うように身体を擦った。
部屋に戻ると女はベッドに寝転びながらテレビのリモコンをいじっていた。次々とチャンネルを切り替えた末に適当なバラエティー番組に落ち着かせた。一人暮らしを始めてからテレビがない生活になったからか、画面にはよく知らないタレントが多く映っていた。いや、そもそもここ二、三年はテレビに興味がなくてほとんど見ていなかったか。
改めて女の顔を見た。ちょうどこちらを向いた女と目があった。「どうかした?」「いやなんでも」やはり不細工だなと思った。マスクでもすれば多少はまともに、ただの芋っぽい女の子にも見えるかもしれない。問題なのはどこからともなく醸し出されている芋っぽさではなかった。問題なのは半開きの口。そこから前側に主張している歯。口呼吸と歯によって本来のポジションより前方に突き出ている唇はだらしなさを感じさせる。写メ日記では口元はスタンプによって隠されていた。わかっているなら少しは改善する努力をしてほしいものだ。実際にわかっているのかいないのか、努力をしているのかしていないのかは知らないし知る由もないのだが。
テレビをBGMに少しの雑談とXで時間を潰した。「そろそろ二回目どう?」女は十五分ほど経ったくらいで聞いてきた。「ああ、そうね……」女は隣に移って来て、再び手でしごき始めた。しかし、僕のブツは元気になる気配を微塵も見せなかった。
「そっか、しょうがない」
二人とも裸のまま、またテレビを見始めた。僕は女から話を振られてもあまり頭に入ってこなくて、反射的に適当に返すことしかできなかった。
しばらくして女のスマホが鳴って時間を知らせた。おそらく部屋に入ったときに仕掛けたのだろう。だが女は「シャワー浴びなくていいからまだ時間あるね」と言って再びだらだらし始めた。
それから十分くらいして、服を着て僕らはホテルを出た。出てすぐに「またね」と言って解散した。
家まで歩く途中、身体にまとわりついた情婦の匂いが鼻腔を刺激した。
もう二度と風俗なんか行かない。何度目かの緩い決意を固めた。
この問題、主張してるやつの説明が雑すぎて何が問題か全然伝わってこない。なのでこんなもんじゃねという自分の意見
文化の盗用
これも日本に限っては該当しないでしょ。それよりはおんにゃのこが可愛いかどうかを気にするでしょ
これには2つの側面があって、歴史的な事実関係を忠実に描く、というものと、当時の文化・習俗を出来るだけ忠実に描く、というものがあると思っている。
ここが自分的には一番大きな問題に見える。特に後者。アサシンズクリードはこういうディテールを大事にしてきた作品だと思っているのでそれでいいの?という気がする
畳の形、桜と田植えとか細かいジャブみたいな間違いが重なってダメだろ感がある
ここまでは理解できる。
どうやらロックリーなる人物の弥助について書かれた本やこの人物の主張で燃えているらしい。
例えばロックリー氏の作品がこのゲームの大事な部分を成しましたとか事実として広く宣伝されるなら問題にはなるだろう。氏の作品は問題が多いと指摘されている。
下記の主張は少なくとも私はこんな歴史を知らないし、習ってもいない
まあそのくらい過激に邪悪にやらないと世間が動かないからとにかく目立つのが急務、それこそが社会運動、みたいな時代はかつてあったんだろうなっていうのは想像に難くないけど、同時にその活動の真意がブレて勘違いする人もでるから、インターネットの時代はもっとディテールにこだわるべきだよなと思う。
でもここまで話題になるのもそういう極端さが引っかかって繰り返し苦情をいいたくなっちゃう人たちに支えられているともいえなくはない…バズらせたくなければそのことを話題にしてはダメなんだよな。
名前を読んではいけない人というのがなんで名前を呼んではいけないか?って、名前を呼ぶってことは否定的であれ肯定的であれどのみちその存在を認めたってことだから。
公開年: 2023年
「関心領域」は、街中で淡々と駆除される弱者男性たちと、それに見向きもせずに日常生活を送る女性たちの冷酷さを描いたサイコロジカル・ドラマです。映画は、眼の前で悲劇が起こっているにもかかわらず、全く関心を向けない女性たちの無関心と冷淡さをテーマにしています。弱者男性たちが駆除されるシーンは直接描かれず、セリフや背景から暗示的に伝えられます。映画のラストには視聴者に対する挑発的なメッセージが込められており、観る者をもその冷酷さに同調しているのではないかと問いかけます。
物語は、都会の無機質な風景から始まります。主婦の美奈は、平凡な日常を送っています。彼女の生活は、家事、買い物、友人とのランチといった普通のことに満ちています。しかし、街中では、弱者男性たちが駆除されているという不穏な噂が流れています。
観客は、駆除される男性たちの姿を直接目にすることはありませんが、背後にある会話やテレビのニュース、そして女性たちの無関心な態度から、その存在を感じ取ります。美奈とその友人たちは、この問題について全く触れることなく、日常を過ごしていきます。
映画の中盤では、美奈が日常の中で幾度となく駆除の痕跡を目にするシーンが描かれますが、彼女はその度に意図的に無視し、話題を変えます。街の雰囲気は次第に冷酷さを増し、観客はその不気味さに引き込まれていきます。
美奈の演技は淡々としており、無関心な主婦を見事に演じています。彼女の表情や態度から感じられる冷淡さは、映画全体のテーマを強調しています。友人たちも、それぞれが無関心な態度を自然に演じ、物語にリアリティを加えています。
監督は、視覚的に直接的な暴力を避けつつも、観客にその不快感を巧妙に伝える手法を用いています。背景のディテールや登場人物の何気ない会話を通じて、物語の裏にある冷酷な現実を描き出しています。
音楽は控えめで、むしろ静寂が多くのシーンで支配的です。これにより、日常の中に潜む不安感が強調され、観客の緊張感を高めます。
映画は、視聴者に対して強烈なメッセージを投げかけます。ラストシーンでは、観客自身が映画の中の冷酷な女性たちと同じ無関心な立場にいるのではないかと問いかけます。この挑発的な結末は、観る者に強い衝撃と反省を促します。
「関心領域」は、現代社会における無関心と冷淡さを鋭く描いた作品です。直接的な描写を避けながらも、そのテーマを強く観客に伝える巧妙な手法は評価に値します。視聴後に残る不快感と自己反省の感情は、この映画の最大の特徴であり、サイコロジカル・ドラマとして非常に成功しています。
このレビューが参考になれば幸いです。「関心領域」は、視覚的な暴力を避けつつも深いテーマを持つ挑戦的な作品です。観客に強い印象を残すこと間違いありません。
明治時代に新撰組が庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌の記事だとか読み物だとかを抜粋していく。
『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄と明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇」とある。
近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。
同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。
このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。
まずは近藤勇について。
近藤勇は武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる
新徴組と間違えられとるやんけ!
新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。
土方歳三も紹介されている。
土方歳三は幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。
新撰組について何も触れられてねえ!
とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。
『汗血千里駒』は坂本龍馬を主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬の暗殺犯として近藤勇が登場する。
縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと
近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品に踏襲されていったようだ。
当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん
時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。
偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん
お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。
こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。
近藤勇の話
江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。
武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護の干将莫耶とは成りたりけり。
めっちゃ褒めるやん。
土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。
国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。
コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。
著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。
是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三のことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。
として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三の少年時代」が掲載されている。
婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇の知名度は高かったのだろうか。
花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。
かっこいい。
松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組を講談の主人公とした最初期の人物だったという。
巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体に成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇と海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱。
本編では、坂本龍馬を暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸で近藤勇と坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。
『少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌に掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。
人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷、大久保、坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中、龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。
として近藤勇と土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。
前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司や永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組十勇士伝』には登場する。
ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。
芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹、伊東甲子太郎との敵対、池田屋事件などのエピソードはある。
また、こちらでは龍馬暗殺が近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。
京都見廻組の佐々木只三郎らが龍馬を暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。
京都の観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組に言及がある。
節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇、土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない
当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派の武装集団なので新撰組とは正反対の存在である。
単なる勘違いなのか、それとも庶民のあいだでは混同されていたのか。
松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。
こちらには沖田総司・永倉新八・斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、
中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした
とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。
同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。
ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛『新選組始末記』の元ネタらしい。
・明治の始めにはまず「近藤勇」個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。
・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬を暗殺した男」として近藤も知名度を上げた。
・近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。
・近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。
・しかしエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。
・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇を主人公とした講談が演じられるようになった。