はてなキーワード: 1994年とは
アニメはアニメとしてそこにあり、作り手の事も作画スケジュールの事も何も知らずに純粋に楽しんでいた
ある回でヒロインのパッフィーの髪がもっさりしていた事に気づく。この作品から「今回の作画は云々」とうだうだとボヤくようになる。
20話をすぎた辺りからの予告編の手抜きを目にして「…今頃製作者は大変なんだろうな」というふうに「アニメ製作のスケジュールは云々」と業界事情をやたらと邪推するようになる。
第14話の「禁断のダンス? 最強呪文はどこだ!」で「絵が命であるはずの、この話で作画に難があるのはなってない、非常に残念だ」とかボヤくタチの悪い作画厨と化す。そんなボヤキもアメリアの乳で抜いたらきれいさっぱり消え去ったが。この回でビデオが擦り切れるほど抜いた。
今風にいうと「もっと評価されるべき」と吼えまくっていた気がする。やれ「チドリさんがメインヒロインだ」とか、「こういうアニメがヒットするべき」だのとか、ゲームを買いもしないで偉そうな事をほざいていた。後のドッコイダー信者である。
1994年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 村山 1995年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 村山 1996年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 橋本 1997年------●+--------+--------+--------+--------+--------+ 4位 橋本 1998年--------+●------+--------+--------+--------+--------+ 6位 橋本 1999年------●+--------+--------+--------+--------+--------+ 4位 小渕 2000年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 森 (この年から自公連立) 2001年--------●--------+--------+--------+--------+--------+ 5位 小泉 2002年--------+--●----+--------+--------+--------+--------+ 7位 小泉 2003年--------+--------●--------+--------+--------+--------+ 10位 小泉 2004年--------+--------+●------+--------+--------+--------+ 11位 小泉 2005年--------+--------+------●+--------+--------+--------+ 14位 小泉 2006年--------+--------+--------+----●--+--------+--------+ 18位 小泉 2007年--------+--------+--------+----●--+--------+--------+ 18位 安倍 2008年--------+--------+--------+--------+------●+--------+ 24位 福田・麻生 2009年--------+--------+--------+--------+--------+--------● 30位 麻生 (中略) 2020年●------+--------+--------+--------+--------+-------- + 1位 ?
自公政権っていままでなにしてきたんだ…?
http://anond.hatelabo.jp/20090420031928 を補足してみる。
運営資金確保のための措置だろうし、おかげで大概のCDがいけるようになったけど、googleやamazonが買ってたら、また、違った結果になったかもしれない。
情報元:
http://anond.hatelabo.jp/20090406010744 にプラスする形で。
【据え置き】
【携帯】
※発売日はすべて日本国内の発売日
※http://anond.hatelabo.jp/20090406014202を受けて、ネオジオポケットを追加
※http://anond.hatelabo.jp/20090406022111を受けて、スーパーカセットビジョンを追加
>医療記録はSolomon Radasky以外にも多数ある。数千や数万にものぼり、人体実験の記録は手紙だけしかないという状態で「同じような「入院記録」が幾つあっても同じ」と言えますかね?
言えるでしょ。なんで「言えない」と考えるのか解らない。
>アウシュビッツで無事に生き延びたユダヤ人の子供達がいるので納得のいく説明ではありませんね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AC
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/Mengele.html
>絶滅収容所なら、移送なんかしなくても殺したらいいんじゃないかと問うてるんですよ。
ソ連軍がすぐそこまで来てるのに?
>あなたは意図派ではないんですね。
意味が不明。
>知らなかったんですか、知っていたけど今はそんな論争は無いと言うんですか、どっちですか。
継続中の論争は知らない、てこと。
>今の日本のwikiでも偽造の疑いなんて書かれてますけど、これはまだ論争があると思った方がいいんじゃないですか?
ケンプナーはすでにノルテの提出した疑問等に答えたりしていて、疑惑は解消されてるね。様々な歴史家が歴史資料として使用している。
>引用先をよく見て下さい。その発言は載っているのが1994年発行の「Le machine dello sterminio, Auschwitz 1941-1945」という本で1989年発行の「The Machinery of Mass Murder at Auschwitz」とは違うのがわかります。
だからそれはイタリア語版てことじゃないの?
相続税の対象にならない国債を作って、老人にお金を使ってもらおうという話である。しかし、現在、市中に滞留している紙幣の大部分は、個(老)人のタンスではなく、企業の金庫に存在している。
企業会計がガラス張りであるならば、そんなお金は存在しない。したがって、唯一ガラス張りになりえない個人のタンス預金にあるという分析になり、それを引っ張り出す為に無利子非課税国債という考え方が出てくるのであろう。だが、大本の、企業会計がガラス張りであるという仮定が間違っている。
そもそも、無利子非課税国債とは、記名紙幣に過ぎない。無記名で済む紙幣の方が、はるかに節税に適している。個人を対象とする国債の売り上げが低迷している事を見れば、個人がお金を持っていないという事に気が付きそうなものなのだが、個人がタンス預金を持っているという事にしておかないと、これまでの大企業優遇政策を改めさせたくない勢力にとっては都合が悪いのであろう。
過去の変動10年債の発行額を並べてみた。(各回の発行条件の告示を一枚ずつ開いて縦書きの官報形式pdfから集計。→http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/kojinmuke/contents/outline/hendouTop.html)
第1回(2003年3月) 3,835億1176万円
一覧してわかるように、2005年4月にピークを作ってから、現在はそのピークの値の1.35%程度の出来高にまで減少している。国民に知られたくないらしく、このデータを取るには、発行回数毎にpdfファイルを開いて、漢数字表記の該当部分を読み取らなければならなかった。元データには、検索性も一覧性も無い。
サブプライムバブルのピークは2008年の8月であるが、リストラや派遣の増加によって、国債の購買力の減少はとっくに発生していたのである。
ちなみに、消費税収入 http://www1.mof.go.jp/data/index.htm
は、http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/20060301-10.html のデータに加えて、
1990年度 48,700億円
1991年度 49,440億円
1992年度 49,680億円
1993年度 54,580億円
1994年度 57,400億円
1995年度 57,480億円
1996年度 60,480億円
1997年度 93,047億円(税率3%の場合の仮定税収55,828億円)
1998年度 100,744億円(税率3%の場合の仮定税収60,446億円)
1999年度 104,471億円(税率3%の場合の仮定税収62,683億円)
2000年度 98,221億円(税率3%の場合の仮定税収58,934億円)
2001年度 97,671億円(税率3%の場合の仮定税収58,602億円)
2002年度 98,115億円(税率3%の場合の仮定税収58,869億円)
2003年度 97,128億円(税率3%の場合の仮定税収58,277億円)
2004年度 99,743億円(税率3%の場合の仮定税収59,846億円)
2005年度 105,834億円(税率3%の場合の仮定税収63,500億円)
2006年度 104,633億円(税率3%の場合の仮定税収62,780億円)
2007年度 102,719億円(税率3%の場合の仮定税収61,631億円)
2008年度補正後 102,540億円(税率3%の場合の仮定税収61,524億円)
2009年度予算額 101,300億円(税率3%の場合の仮定税収60,780億円)
となる。
2005年度に、過去最高だった1999年度をわずかに越えたが、以後、消費は減少傾向に移っている。この減少傾向は、個人向け変動10年債の売り上げ減少と、軌を一にしていると考えられる。
個人向け国債を買うお金は、個人の経済活動の余力であり、その余力が、個人にはもはや存在しなくなりつつあると考えるべきであろう。特に、失われた10年以降の若年層~中年層は、正社員になっていない層がほとんどであり、経済的余力はもとより、日本の特徴であった加工貿易のための技芸すら受け継いでいない。
四千万世帯のタンスの中には現金がうなっているという妄想で政策をこねくり回している暇など、どこにも無いのだが、信念で突っ走るつもりであろうか。
淀川長治がキネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画のリスト
1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)
1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ)
1961年 素晴らしい風船旅行(アルベール・ラモリス)
1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ)
1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ)
1968年 2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
1974年 フェリーニのアマルコルド(フェデリコ・フェリーニ)
1975年 ザッツ・エンターテインメント(ジャック・ヘイリー・Jr)
1976年 トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー)
1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ)
1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏(ルキノ・ヴィスコンティ)
1987年 グッドモーニング・バビロン!(タヴィアーニ兄弟)
1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン)
1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ)
1990年 フィールド・オブ・ドリームス(フィル・アルデン・ロビンソン)
1991年 シェルタリング・スカイ(ベルナルド・ベルトルッチ)
1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ)
事実や数字を覚えることは記憶の無駄使いだと主要なコメンテイターは言った。
ベストセラーWikinomicsの著者であり、ネット世代の擁護者であるDon Tapscotによると、グーグルやwikipedia、他のオンラインライブラリの存在は、学校におけるふるめかしい暗記が役立つ場所を無くしてしまった。よりよいアプローチは、子供達に、オンラインで入手可能な知識を処理し応用するようなクリエイティビティについて考えさせることだ。
Tapscottは言う「知識の泉は教師ではなくインターネットになった。子供は歴史を学ぶのは、現在の世界や物事が何故こうなっているのかを理解するためであるべきだ。それには全ての日付を知る必要は無い。ヘースティングスの戦いについて知るのに、それが1066年にあったことを覚える必要はない。グーグルで簡単に、それがいつだったのか調べられるし歴史の中に位置付けることができる」
Tapscottは自らのアプローチが反・教育であることを否定する。新しい事を知るのは以前よりも重要になっているのだと。「光速で新たな情報を処理する必要のある世界では、子供達はかつての何倍もの基盤となる知識を創造しなければならない。だからこそ、事実や数字を覚えるのは時間の無駄なのだ」
Tapscottはネット世代”という用語の言い出しっぺであり、それは彼の1998年のベストセラー「Growing Up Digital」で初出した。 Tapscottの観測は、彼の最新の書であるGrown Up Digitalの中の、1978 年から1994年の間に生まれた12の国の8000人の研究に基づいている。彼の観察はイギリス(British)の教室における伝統的な教育を削減し学習の個人化の傾向と一致している。
学校はますます個別学習や、いわゆる「濃縮活動」へとむかっており、生徒は自分のペースで学習し、最も興味のある事に集中するようになっている。
例えばBerkshireのAt Wellington Collegeではティーンエイジャーは教室の前から教えられるのではなく、大きなテーブルの周りに座ってセミナーのスタイルで議論をする。
Tapscottは、今日普及している教育のモデルは工業の時代にあわせて設計されたものだと信じている。このような方法は、大量生産経済に向いていたのだろう。デジタル経済におけるチャレンジやネット世代の脳には向いていない。
彼は、若い人々の頭脳は、両親たちと違った風に働いていることを示唆する。デジタルの浸透(そこでは子供達がネットサーフしながらメッセージを送ったりMP3プレイヤーで音楽を聞いている)は、クリティカルシンキングの技能を発達させるのに役立だてると論じた。
彼の視点は誰にでも受けいれらそうなものではない。……(他の人の意見なので省略)
もっと知識を増やさなきゃって言ってるのに「うらやましい」と言ちゃうのはなぁ。
1993年 若草物語 ナンとジョー先生(1987年に放送された、『愛の若草物語』の続編), 機動戦士Vガンダム
1994年 七つの海のティコ(1994年3月20日放送の9話まで)ハウス食品の一社提供だったのはここまで
1994年 七つの海のティコ(1994年4月17日放送の10話から)
タイトル |
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監督 |
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公開日 |
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時間 |
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配給 |
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備考 |
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天空の城ラピュタ |
宮崎駿 |
1986年8月2日 |
124分 |
東映 |
となりのトトロ |
宮崎駿 |
1988年4月16日 |
86分 |
東宝 |
『火垂るの墓』と同時上映 |
火垂るの墓 |
高畑勲 |
1988年4月16日 |
88分 |
東宝 |
『となりのトトロ』と同時上映 |
魔女の宅急便 |
宮崎駿 |
1989年7月29日 |
102分 |
東映 |
おもひでぽろぽろ |
高畑勲 |
1991年7月20日 |
119分 |
東宝 |
紅の豚 |
宮崎駿 |
1992年7月18日 |
93分 |
東宝 |
平成狸合戦ぽんぽこ |
高畑勲 |
1994年7月16日 |
119分 |
東宝 |
耳をすませば |
近藤喜文 |
1995年7月15日 |
111分 |
東宝 |
同時上映『On Your Mark』 |
もののけ姫 |
宮崎駿 |
1997年7月12日 |
133分 |
東宝 |
ホーホケキョ となりの山田くん |
高畑勲 |
1999年7月17日 |
104分 |
松竹 |
千と千尋の神隠し |
宮崎駿 |
2001年7月20日 |
125分 |
東宝 |
猫の恩返し |
森田宏幸 |
2002年7月20日 |
75分 |
東宝 |
同時上映『ギブリーズ episode2』 |
ハウルの動く城 |
宮崎駿 |
2004年11月20日 |
119分 |
東宝 |
ゲド戦記 |
宮崎吾朗 |
2006年7月29日 |
116分 |
東宝 |
崖の上のポニョ |
宮崎駿 |
2008年7月19日 |
101分 |
東宝 |
全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育のスタートが1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。
うぃきぺでぃあによると、
1972年(昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS「報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。
1977年(昭和52年)??1978年(昭和53年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)
学習内容、授業時数の削減。
ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。
自社さ政権で社民が与党にいた間は日教組が与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年、週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。
1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党が政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?
未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。
小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとりは日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。
ただ70年代に日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党の責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。
文部科学省の資料。場所はここ。
> 政策関連情報 > 審議会情報 > 調査研究協力者会議等 > 子どもを守り育てるための体制づくりのための有識者会議 > (第2回)配付資料 > 資料5??7
1 (1)自分より弱いものに対して一方的に(2)身体的、心理的な攻撃を継続的に加え(3)相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。(文部省1994年)
2 集団内で単独または複数の成員が、人間関係の中で弱い立場にたたされた成員に対して身体的暴力や危害を加えたり、心理的な苦痛や圧力を感じさせたりすること(都立教育研究所)
3 単独、または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃または言動による脅し、嫌がらせ、無視等の心理的圧迫を反復継続して加えることにより苦痛を与えること(警視庁保安部少年課1994年)
見直されてるはずなんだが、最新のソースがみつかんない。
んで。
「被害者が深刻な苦痛を感じているもの」が「いじめ」なわけだから、さまざまある。
拳で殴られても「友情の証」とか言っちゃう男の子もいる。
聞こえよがしに悪口言われて自殺考えちゃう子もいる。
どれもこれも「いじめ」だから、客観的に見ると「そんなことでいじめ?」ってことも多々ある。
昔だったら「いじめ」とは思われなかったことが、今は「いじめ」になるってこともある。
逆に「どう見てもいじめだろう」ってことが、狭い範囲のグループの中では黙認されていることもある。
何が「いじめ」かは、集団と個人との関係性がおおいに関連している。
ただ一点「いじめ」には共通点がある。
「相手を傷つけたい」と思って、なんらかのことをやるわけだ。
「いじめる奴」ってのは。
誰でも持ちうる感情だと思うが。
それが瞬間で終わる奴は「いじめ続けたり」しない。
「他者を傷つけたい」と日常的に思っていて実行する奴。
「いじめをやる奴」ってのは、そういう奴だ。
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
「海の向こうでは今『せんそう』(湾岸戦争)が起こってます。
なんで人は殺し合うんでしょうね・・・」
というようなことを言ったのがそれで、その時はとにかく
「遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こってるんだ・・・。」
くらいにしか感じなかった。
「平和そのものの天気」と「遠くにあるおそろしいもの」がひどく対照的で違和感を感じた。
父はある日「すごいお土産だぞ」と、
灰色でかわいくて格好いい形をした機械を持ってきた。
あの頃、飛行機を巧く操縦できる奴は神だと思った。
機体を傾け、緑の輪をくぐる。静かな着地。
少し経ち、マリオカートやぷよぷよを持った友達の家に皆が遊びに行くようになる。
スト2はみんな持ってた。↓R↑LYBXA。
おれらはもっぱら「ファミコン」。
もう、昔何やってたなんてそのくらいしか思い出せない。
信号機を自在に操れる熊の親父とか。
クラスで元気のいい女子が「スナックがかっこいい」だの同級生を
テレビでは米不足米不足うるさかった。
小3か小4の頃。そーりだいじんは
「名前の読みにくい徳川家康の子孫」や「眉毛ぼーぼーの爺さん」で、
なんとなく面白く感じていた気がする。
暗闇の中、ベッドから飛び起きて「何事か」と
この頃の記憶は割とある。
「バブルが・・・」「バブルのせいで・・・」と大人がよく言っていた。
なんか今苦しんでる(ように大人が見える)原因のようなものなのかなあ、
と漠然とした理解しかなかった。
バブルなんかよりも目先のジーンダイバーとか恐竜惑星の方が重要だった。
フルハウスとかアルフの方が大切だった。
横取り40万とか嘘つき四択とかヤングチームとかNGワードとかの方が
自分で自分を褒めたいアトランタオリンピックはよくわからんまま終わった。
男子は全員ポケモン。「ミュウの出し方分かった・・・!!!」と、
どこかで聞いた情報を興奮気味に話す奴とか。
ペラペラのキャラがラップするゲームをやっていてすごくおしゃれに見えた。
6年時、その「機械」を持っていること自体がある種のステータスだった。
田舎だったから特に。
余談だが、「1984年度」生まれは1991年=小1、1992年=小2、
と一の位が学年なので西暦を言われると何年生だったかがすぐ分かって便利。
そして俺たちは人生の中で最もださく恥ずかしい時代を迎えた。
例のあれの時は「赤い実はじけた」中1だったが
「あんたと年が近いのにあんな残酷なことするなんてねえ・・・怖い時代だねえ」
なんてよく大人から言われた。一方おれらは、
ナイフで生きた屍を切り裂いたり脳天をショットガンで撃ち抜くことに夢中だった。
気が付けばクラスの男子のほとんどがあの「うすっぺらでCDを入れて遊ぶ機械」を持っていた。
一時期、どこでも買えなくてイライラしていた。
一番強かった奴(モンスター系統図の完全な情報を持っている奴)は
と言われていて羨ましかった。学校では出来なかった。
ていうか誰もパソコンなんて持ってなかった。
グレイとかラルクとか、「なんとなく格好いい」ものが増えてきた。
あの日までカウントダウンしておびえていた。
結局あの日(月)はなにもなかった。
地域振興券使わしてくれ使わしてくれとずっと言っていた。
卒業間近、学校で「インターネット(PC)」の学習をするための教室が出来た。
家のボロパソがメモリ64MBだったからか「超」最先端に感じた。
数回しかなった情報の授業中、
好きなバンドを検索すると掲示板のようなものが結果の上位に出てきたのでクリックした。
口汚く罵倒されていて身が震えて泣きそうになった。
ハンドルネームを誰もいれていないのが非常に不気味だった。
俺たちは何かを得たし、間違いなく楽しく生きていた。
ミレニアムだの新世紀だので盛り上がっていたころからだ。
どこに行ってもカチカチやってる奴が増えたのは。
最初、ちらほらと増えていく「カチカチ病」に違和感を持っていたが
田舎なのに、7??8割は所持していた様に思う。
auじゃないやつが心底羨ましかった。
小遣いが多かったのか料金親持ちだったのか知らんが、
docomoってだけで「裕福な家庭死ね」なんて思ったものだ。
高2の運動会前日。遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こってるようだった。
開会式でも全くふれなかったのが今思うと印象的だった。
「CDを小さいデータに変換してパソコンにたくさん詰めこんで、
ということを説明するのは当時、骨が折れた(今もあまり変わってない気がするが・・・w)。
マッキントッシュを作っている会社が白色でかわいくて格好いい形をした機械を世に出した。
全く流行らなかったし、説明しても誰も興味を持ってくれなかった。
「MDの方が格好いい」「“えむぴーさん”だっけ?オタクくさいね」
なんて言われたり。俺は流行らないと思った。
「パソコンに音楽を取り込む」こと自体が一般人にとって非常に抵抗のある行為だという感覚は理解出来たから。
W杯。休み時間の談話室(テレビがある部屋)の盛り上がりがすごかった。
「複素数を知らないこどもたち」
「常時接続が安く使える時代突入」+「工学部・情報系学科の知人との出会い」で、
その知人は「本名出して私生活を晒しまくる」ウェブサービスを教えてくれた。
本名・顔写真・所属している(していた)集団と私生活全部暴露。
今でこそ「知人以外には非公開」が多いけど、
当時はとにかく誰も彼も晒しまくり。俺は使うのに気が引けた。
携帯さえあれば、とりあえずコミュニケーションには事欠かない。
そのころ「文中にやたらと下線が引いてあるブログ」
を目にすることが多いのに気付いた(それまで気付いてなかっただけかもしれんが)。
シンプルで、どことなくおしゃれなデザインだが書いている内容は気持ち悪いものが多い気がした。
その頃大学内で「それっぽい」奴は「萌えってどういう意味?w」だの
「お前の時代来たぞw」とかからかわれていた。
ホリエモンだの球団再編だの買収だのヒルズだのセレブだの勝ち組だの負け組だの格差だの、
なんとなくカオス。
いつの間に「無職」の状態を「ニートやってるんでw」なんて明るく言えるようになったんだろうか。
就活は、売り手市場なんて実感はなかったが内定先は大手メーカー。
「ブラックを避ける」という消去法で選んだ。
家ではリモコンで遊ぶ奴が急増。
ファミ通の売上チャートを見て(10年前から毎週見てるが)頭がくらくらした。
他はサブプライムローンがどうこう、原油高がどうこう、環境が、民主党が、
・・・食品会社に行った知人はえらくストレスを抱えている様子だった。
相変わらずの原油高は鬱陶しい。台湾もなんか変。
そう言えばちょっと前は、遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こっていたようだ。
傍観していた人がその動画を撮ってアップしたりそれが罵倒されたり。派遣がどうこう。
俺はこんな感じだが、他の俺「たち」はどうか知らない。
俺は約150万人いる「1984年生まれ」の中の一人に過ぎない。
大学ではADSLになってブログだのmixiだのでどうでもいい自分語りをしていた人間だ。
それだけだ。
「謝らせてもらえませんでした」って言い方は傲慢か!? - caprinのヲタ更正日記
ここを読んでぼんやりと思い出した。知らない人はこのコピペを一読してから読むことを薦める。
802 :おさかなくわえた名無しさん :06/03/10(金) 17:32:24 ID:s2RHsW2o
上にコレクションについての話がありましたけど
私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした
鉄道模型でしたけど
かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが
毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい
留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました
帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました
残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです
でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり
今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって
あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが
夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい
かえって私が苦しくなってしまいました
これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです
こういう場合ってどうしたらいいんでしょう
わたしが小学校一年生のとき、わたしは大阪に住んでいて、世間様は1994年だった。今と変わらず本馬鹿で、本しか好きなものがなくて、友達がいなくて、でもよく笑う子だった。友達の居ない子供のする遊びはどこの世界でも似たようなもので、わたしはずーっと文房具を集めていた。実家は小遣い制だったし、遊びで金は減らないし、本は無限に親が買ってくれた。金の使い道がなかった。だから、文房具を集めていた。かわいくて小さいやつ。きらきら光るラメのペンや、かわいいメモ帳やレターセット、キャラクタの形をした消しゴムや、持ち運べる鉛筆削りなんかを、これまた自腹で買ったお道具箱に入れて、大事に保管していた。
で、年の変わってから二週間ほどのある日、また新しい文房具を、ちょっと遠めの文房具屋まで歩いて行って、帰ってきて、自分の机の引き出しを開けると、お道具箱があるべき場所に、空白があった。
ものすごく慌てたことだけ覚えている。
部屋中を探し回ったことも覚えている。
泣いていたかどうかは覚えていない。
母が帰ってきたとき、お道具箱のことを知らないかと尋ねると、彼女はこういった。
「なんで怒るの? あんた、地震の被害者がかわいそうじゃないの?」
彼女の一番大切な、結婚前に父からもらったネックレスはそのままだったし、一年に一度、今調べればネットに「超高級旅館」と紹介されているような旅館に泊まれたりもした。要するに金はあった。なんで私の文房具だったのかわからなかった。
母に対する感情は、なんというか、たぶん、普通の人がヒットラーのユダヤ人殺しまくっていた人にむける感情に近い。「こいつ人間じゃなかったんだ」という驚きが一番大きい。なんだろうな、うまくいえないけれど、信用できないというか、死んでしまえというか、そういう分かりやすい黒い感情じゃない。違うな、やっぱり一番適切なわたしの心の中身は驚愕だったし、母はわたしの理解できる人間ではないということだった。
そしてこの人と一緒に住むには、わたしは好きなことをやめなくてはならないということがよくわかった。
何年か、彼女の好きなように生きてみた。嘘笑いと言ってる自分でもつまんないジョークで中学まで生きてみた。つまんなかった。そのとき「神様、24歳まで自分が心底命をささげられるものが見つからなかったら、そのときは25歳の誕生日に自殺します」と思った。そのぐらい生きてることはどうでもよかった。中二病だと笑えればいいんだけれど、わたしは今もって当時のわたしを笑えない。
今、わたしはマンガ本や同人誌をこれでもかというほど集めている。何冊あるかは分からない。数えられないし数えたくもない。全部自分のバイトしたお金で買っていたし、バイト代から生活費だって出していた。
先日、高校進学や中学進学を機に離れていた親から連絡があった。
「また一緒に住もう」と。
そして彼らは、また、こう言った。「でもあなたの本は邪魔だから、全部捨ててきてね」。
物より人間関係は確かに大事だろう。親子の情は大事だし、親は尊敬するべきなのだろう。でも何かがわたしに言うのだ、「あなたの大事なものが大事だと理解できない人は、あなたもを大事にしない人だよ」と。わたしの友達や恋人は、わたしのオタクでどーしよーもなくウザい面や、頭の悪い面を知ってて放置している。それが嬉しい。矯正しようとしない。どうでもいい存在だからなのかもしれない。でもその距離が嬉しい。
育ててもらった恩もある、大事だと信用しなければならないと頭では思っている。でも、まったく信用できないわたしが確かに居て、その存在は無視できないぐらいしっかり育ってしまっている。そしてその存在を親に告げるときは、彼らと離れるときだ。
早く、他人になりたい。
(すみません、踏ん切りがついたら自分のブログに載せますので、しばらくここに置いてください。あとちょこちょこ訂正しました。)
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株式会社カルチャーブレーン(CULTURE BRAIN INC.)は、主にコンピュータゲームを製造、販売している会社。1980年10月5日設立。
本社は東京都葛飾区宝町2丁目30番16号。東京事業部および第二本社(登記上本店)は東京都江東区亀戸3丁目47番17号。
代表作に飛龍の拳シリーズ、スーパーチャイニーズシリーズ、ウルトラベースボールシリーズなどがある。
目次
[非表示]
* 1 主な開発タイトル
o 1.1 アーケード
o 1.2 ファミリーコンピュータ
o 1.3 スーパーファミコン
o 1.4 プレイステーション
o 1.5 セガサターン
o 1.6 NINTENDO64
o 1.7 ゲームボーイ
o 1.8 ゲームボーイカラー
o 1.9 ゲームボーイアドバンス
o 1.10 ニンテンドーDS
* 2 関連項目
* 3 外部リンク
主な開発タイトル
* 飛龍の拳スペシャル ファイティングウォーズ(1991年6月21日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター(1992年7月31日)
* 飛龍の拳S ゴールデンファイター ハイパーバージョン(1992年12月11日)
* スーパーチャイニーズワールド2(1993年10月29日)
* スーパーチャイニーズワールド3(1995年12月22日)
* コンピュータ脳力解析ウルトラ馬券(1995年5月26日)
* 動物キャラナビ占い2 個性心理学+恋愛占いパズル(2003年9月18日)
* プロ麻雀「兵」シリーズ 女流雀士に挑戦??私たちに挑戦してネ!!??(1999年11月2日)
* 忍たま乱太郎64 ゲームギャラリー(2000年4月21日)
* スーパーチャイニーズランド1・2・3(1996年9月13日)
* スーパーチャイニーズファイターGB(1996年12月28日)
* 忍たま乱太郎GB えあわせチャレンジパズル(1998年6月19日)
* スーパーチャイニーズファイターEX(1999年12月24日)
* 女流雀士に挑戦GB ??私達に挑戦してネ!??(1999年12月17日)
* ハムスター物語GB+マジハームの魔法少女(2002年8月9日)
* フェレット物語 ディア・マイ・フェレット(2000年4月28日)
* 「アカギ」 ??闘牌伝説/闇に舞い降りた天才??(2006年3月3日)
* おしゃれプリンセス2+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年12月20日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー(2003年9月26日)
* かわいいペット!ゲームギャラリー2(2004年12月17日)
* 仔犬といっしょ! ??愛情物語??(2003年8月1日)
* 昆虫の森の大冒険 ??ふしぎな世界の住人達??(2005年8月11日)
* スーパーチャイニーズ1・2 アドバンス(2004年6月24日)
* スウィートメルヘンのケーキ屋さん+動物キャラナビ占い個性心理学(2002年11月1日)
* ツインシリーズVol.1 めざせデビュー! ファッションデザイナー物語 / かわいいペットゲームギャラリー2(2004年8月12日)
* ツインシリーズVol.2 おしゃれプリンセス4 / 恋愛占い大作戦(2004年10月22日)
* ツインシリーズVol.3 昆虫モンスター(ムシモン) / スーチャイラビリンス(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.4 ハムハムモンスターズEX / ファンタジーパズル ハムスター物語魔法の迷宮1+2(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.5 わんわん名探偵EX / 魔法の国のケーキ屋さん物語(2004年12月10日)
* ツインシリーズVol.6 わんにゃんアイドル学園 / 仔犬といっしょスペシャル(2004年12月10日)
* ツインパズル「1.きせかえわんこEX 2.レインボーマジック2」(2004年12月17日)
* ハムスター物語3EX、4、スペシャル(2003年11月28日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(1)「わんにゃんアイドル学園」(2003年12月26日)
* 魔女っ子クリームちゃんのごっこシリーズ(2)「きせかえエンジェル」(2004年3月25日)
2006年 1,376人 / 4位
2005年 1,630人 / 4位
2004年 1,716人 / 4位
2003年 1,790人 / 4位
2002年 1,779人 / 4位
2001年 1,870人 / 3位
2000年 1,794人 / 3位
1999年 2,008人 / 3位
1998年 1,829人 / 3位
1997年 1,654人 / 3位
1996年 1,514人 / 3位
1994年 1,795人 / 1位
1993年 1,775人 / 1位
1992年 1,840人 / 1位
1991年 1,818人 / 2位
1990年 2,620人 / 1位
ソース:IMMIGRANT VISAS ISSUED TO ORPHANS COMING TO THE U.S.
http://travel.state.gov/family/adoption/stats/stats_451.html
07 :名無しさん@八周年:2007/08/06(月) 13:01:48 ID:IPg1UWNb0
オランダ サンティン・アムステルダム市長 (1994年内務大臣)
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦
したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から
追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の
功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分
をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。」
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産
して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジ
ア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して
重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床
に伏した日である。我々この2つの日を忘れてはならない。」
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れ
て逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで将来のそれぞ
れの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教
育をおこなってくれたのです。」
「日本はどんな悪い事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した
時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはと
てもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、
あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取
り返すことができずマレーシアは独立したのだ。」
- 元々は材木商である「佐久間屋」に由来して「佐久間町」と言う地名であった。材木商は大火のたびに莫大な利益を上げており、火除けの町秋葉原らしい縁起である。現在でも秋葉原駅東側に「神田佐久間町」、「神田佐久間河岸」という地名が残っている。
- 後にこの地に勧請される「鎮火社」を人々が秋葉社と呼んだことから秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)と呼ばれるようになる(上記参照)。
- 1888年 - 秋葉社が松が谷に移転。
- 1890年 - 日本鉄道の鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長。当初は旅客の扱いは無く、秋葉原貨物取扱所として駅の南を東西に流れる神田川から駅東側に割り堀を引いて水上貨物輸送への窓口となっていた。駅名をつけたとき「あきはばら」と誤植されるが訂正されずに今に至る。
- 明治中期から大正時代にかけ、秋葉原周辺は鉄道・都電など交通の便が良く、そのため、特に卸売業が発達し、秋葉原駅近辺に青果市場も開かれた。
- 1925年 - 秋葉原駅~東京駅間の開業により東北本線が東京駅まで開通。
- 1932年 - 御茶ノ水駅~両国駅間が開業し、秋葉原は乗換駅になった。
- 1935年 - 神田青果市場が設置される。
- 1936年 - 鉄道博物館(のちの交通博物館)が東京駅から中央本線万世橋駅(のちに廃止)の駅構内に移転する。
- 戦前から戦後にかけて - 地下鉄(銀座線)・都電・国電と付近で多くの鉄道・軌道路線が立体交差をしていたことから、鉄道・交通に関する子供向け絵本に、未来都市の象徴として秋葉原が描かれることがあった。
- 1945年の第二次世界大戦後 - 神田地区の闇市で当初電機学校(現在の東京電機大学)の学生のために販売していた真空管やラジオ部品など電子部品の店舗が総武本線ガード下に集まって、今日の電気街の基になった。
- 1960年代 - 高度成長と連動する形で、テレビや洗濯機、冷蔵庫など家電製品の販売店が多くなり、大阪日本橋のでんでんタウンと並んで日本有数の電気街の地位を築く。
- 1980年代 - ファミコンの普及に伴って、各種コンピューターゲームソフトを扱う店が増え始め、ゲーム関連の専門店も登場する。
- 1989年 - 神田青果市場が大田区(大田市場)へ移転。跡地は駅前広場・駐車場を経て現在の秋葉原UDXビル・秋葉原クロスフィールドとなる。
- 1990年代 - 家電製品の郊外型量販チェーンストアの台頭で、家電売り上げが減少。その種の電化製品販売を縮小してパソコン及び関連商品を扱う店が増える。
- 1994年頃 - パソコンパーツ(いわゆる「自作PC」の部品)を扱う店舗が増え始める。
- 1990年代後半 - コンピューターゲームの中で、美少女やアニメを扱ったものに人気が特化していき、秋葉系・オタクといわれる存在が注目されはじめる。
- 1997年7月 - 秋葉原駅前広場を会場にコンピュータ関連展示会「インターネットショーin秋葉原」が開催される。以後2001年まで毎年開催され、1999年からは「AKIBAX」の愛称がつけられるなど、秋葉原の夏の一大イベントとなる。
- 2000年頃 - メーカー製コンピュータの販売が縮小し、代わってアニメ・同人誌系などの店舗、いわゆる「オタクショップ」が増える。
- 2002年頃 - 秋葉原駅電気街口周辺にアダルト関連グッズ(AV・おとなのおもちゃなど)を販売する、いわゆるアダルトショップが進出。
- 2002年6月 - 安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(通称千代田区環境保護条例)が制定。秋葉原のほぼ全域が路上禁煙地区に指定された。
- 2005年8月24日 - つくばエクスプレス秋葉原駅が開業。同時に、同駅東側に車寄せや駅前広場も整備された。
- 2005年9月16日 - 秋葉原駅構内の、旧貨物駅跡地にヨドバシカメラマルチメディアAkiba・タワーレコード秋葉原店が開店。
- 2006年3月9日 - 神田市場の跡地に秋葉原UDXビルが開業。秋葉原クロスフィールドがグランドオープン。
- 2006年5月14日 - 交通博物館が閉館。博物館は2007年、さいたま市に鉄道博物館と改称して移転予定。跡地の今後は未定。
- 2006年6月2日 - 仮称TX秋葉原駅開発ビルが着工。阪急電鉄がつくばエクスプレスから同社の駅周辺の用地を借り受けて建設・運営するターミナルビルである。2008年4月に開業予定。阪急系列のホテルremmがテナントとして入店予定。
- 2006年10月16日 - 都内で初めての区営有料トイレがJR秋葉原駅にオープンした。
- 2006年12月22日 - 2002年以降休止していたAKIBAXが「AKIBAX2006」として復活開催。
- 2006年12月31日 - JR駅ビルにあったアキハバラデパートが閉店。