はてなキーワード: 西洋人とは
「あげる相手の喜ぶ(喜ぶっつか欲しがってる)ものにしろよ!」みたいな意見を見かける
続けて「要らないモンもらったって、どうせゴミになるだけだ!」みたいなのも
でもさ、それって欲しいと思ってたものをもらったことが、ゴミになる原因か?
相手が欲しい物を手に入れる確実な方法って、現金以外にないでしょ?
相手の欲しい喜ぶ物っつったら現金だわ、なんで現金渡さないの?
あなたはその意見そのものが「プレゼントは儀式である」という肯定をしてるから出てくるんでしょうが
ついでに長く付き合っていけるものなら気持ちと一緒にいれて嬉しいねってことで
すぐになくなるものよりも肌身につけれるやつがいいとかいう話になんの
わかる?
それができない貧乏なら他人からもらおうなんて考え方今すぐやめろ貧乏の元だ
よっぽどよっぽどよっぽどよっぽどよっぽどよっぽどよっぽどよっぽどよっぽど
だからプレゼントは全身全霊こめてお前は俺がいないとこの素晴らしさに気づかなかったであろうという
俺の贈り物を大脳皮質に焼き付けてやるという想いをこめて渡す儀式に
単に自分が食べたかったピザを渡されて美味しいデブぅ!幸せデブぅ!みたいなのは到底プレゼントとは言えねえから
最初から現ナマくれデブぅだからパパ~お金ほしいデブぅ~だからそれは分かったかクソトンチキ乞食どもが
クッソつまらんプレゼントしかもらえないだろうがボケが、このタンカスが
だいたい黒人だよな
アメリカ人にも中華系からヒスパニックから中東系からいろいろいるんだけど、だいたい日本人の扱いとアメリカにおける黒人の扱いが対比される
なんとなーく「南欧州や中東の人間は一応日本人よりはレベル上」扱いの感じを持ってしまうのは気のせいか?
アメリカがパリ協定脱退して移民もむやみに受け入れないことにしたのは、他の国の面倒を見る体力が国になくなったからで
国内がギスギスしてるのは、ただ生活がきつくなってきていてストレス過多になっているから
アメリカのやり方にも問題はあったが、アメリカの代わりがつとまる国がなく、
アメリカが下駄を履かせてたから国が成り立っていたけども、アメリカが引きこもったら真っ先に国ごと崩壊するところは結構ある
なんだろう、コネで無理やりメンバーに混ぜてもらってたボンクラポジションっていうんだろうか・・・
自分たちの国家を持てる民族人種試験みたいなもんがあったら軒並み落第点でクルド人から見下されるレベル
ああ、サウジアラビアとか日本とか韓国とかアフリカのあのへんとか
アメリカ抜きの日本は普通にインドネシア相手に緊張するレベルだと思うのだけど
中東から日本の港湾に運ばれてくる石油タンカー守る手段がまだ確立されてないんじゃね?
新幹線で焼身自殺されるだけで大騒ぎになるとしたら、テロから身を守る手段ないよね
国土面積のうち、人が住むことが出来るエリアだけ抜き出したら実は欧州の小さい国と変わりません
欧州にとっても北米にとっても、もう東アジアの商取引は中国メインで東京にミサイルが落ちてもそれほど世界経済は混乱しないように思う
ただ有事になったら、前兆はあると思うけど、エコノミスト2017の表紙で「日本にキノコ雲上がることあるで」的な表紙だったし、核攻撃するなら出来れば関東だけにしてほしい
ジャズミュージシャンの日野某が中学生をコンサート中にビンタした。
たまたま著名人が起こしただけでこういった体罰が問題になることは平成の世になってからでも星の数ほど起こっている。
法律的にも社会のコンセンサスでもアウトである事は分かり切っているはずなのに減ってはいるが無くなる気配は無い。
西洋社会では体罰は絶対悪であり行えば壮絶なリンチすら受ける。
西洋人は知に優れ世間知を尊ぶ社会を作った。知に優れるからそのような社会的には理性に頼らないルールが必要な事を理解し実践している。
エコーチャンバーのような問題はまさに現代西洋社会を象徴している。
世間知の世間の範囲が個人の社会的地位により個別に隔離された結果で世間知が尊ばれている証左だ。
日本も西洋社会を模しているはずだから体罰を行なえば悪であり社会的制裁を受けるはずだ。
しかし日野氏の件にしても同様の理由で体罰を行なった件にしても世間で絶対悪である認識は無い。
私も絶対悪だとは言い切れないし体罰についての議論は紛糾するのが事実だ。
自分だって音楽のプロなら客前でふざけてる中学生のガキをどつきたい。
戦前の日本は全てが知に基づいた社会ではなかったのだ。情に基づく美しさを範とした江戸時代の慣習も当然残していたし現代も消えていないのが今も体罰が行われる証左だ。
大岡裁きは現代でもそこにある情の美しさは否定出来ない。現代日本の社会問題のほぼ全てが知で規定されるべきルールを情や儒が侵犯した結果だ。
日本の方針は今もこれからも日本的な僅かな良いものを部分残してあとは西洋を模倣します、といったもののはずだ。
政府首脳関係者も日本会議とかそっち系のグループに所属しそういった活動を行なっていると聞く。
安田理央さんの「大きな胸はどう呼ばれてきたか」という文章が素晴らしい。是非読んでいただきたい。
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous01
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous02
http://blog.heart-closet.com/news/history_of_voluptuous03
安田さんの文章でも前提とされているし、知っている人も多い話だと思うけど、江戸時代の銭湯は混浴だった。昔の人はハダカを恥ずかしく感じなかったのか? 異性のハダカに欲情しなかったのか? という疑問が浮かぶが、どうもそうらしい。昔の銭湯のお湯は熱く、湯冷ましのため男女とも服を着ずにハダカで家に帰ったというから相当なものだ。また夏は道にタライをだして行水の習慣もあった。
明治時代になって、西洋人から男女がハダカで混浴したり、公共の場所にハダカでいることが破廉恥だと非難されたため、政府により街場の銭湯の混浴は禁止される。しかし田舎の温泉宿などは、いきなり浴場をもう一つ増やす財力が無いので、ロビー活動をして混浴という状況を許してもらう。その後世情により徐々に男湯女湯の区別が作られては行く。しかしガチの混浴の習慣はいつまで残っていたのか?
1961(昭和三十六)年、押田氏が栃木県の鬼怒川温泉に投宿したときのことである。同氏は同僚と飲んだ後に二度目 の入浴のため大浴場に向かう。時間も遅かったので先客は誰もいず、一人湯船につかっていると、やがて脱衣場の方から声がする。そして二十代から五十代 の女性七、八名が、浴場に入ってきたというのである。いずれも仕事がはねた 仲居さんたちである。人数的にも圧倒され、湯船から出るに出られなかったと押田氏は当時を述懐する。
1960年代まで田舎では、特に裸は恥ずかしくなかった可能性がある。観光旅館ではなく、地域の共同浴場なども混浴が残っているケースは多く、70年代のドキュメンタリー番組で「若い人は気まずい」という解説とともに紹介されていた記憶が自分にもある。
ハダカはともかく、ムネはいつから恥ずかしいのだろうか? 昔の海女さんや炭鉱で働く女性は、男性のように上半身ハダカだったらしい。これもどうやら1960年代、女性の間にブラジャーが普及するのと平行して、恥ずかしいという意識も広まっていったようだ。
しかし女性が一旦胸部にブラジャーをつけると単に美しく見せるだけではなく、それとは別の副次効果が現れる。先の井上章一氏の言葉を応用すると「ブラジャーをつけだしたその後に、女性は胸部により強い羞恥心をいだくようになった」と言える。こうして、従来は羞恥心の対象外だった女性の胸部が質的に変化する。昭和三十年代には普通に見られた、街頭で母乳をやる女性たちも、授乳室の中に隠れるようになる。
いずれにしても上記のことから、女性のハダカを見て男性が興奮するのは、決して本能などではないことは容易に推理できる。欲情する気持ちは、文化により形作られた、女性が羞恥心を感じている様子に引き出されるもの、あるいは国家権力に規定された禁忌を破ることによる興奮なのだ。そもそも男性が女性に欲情することが自然なのかどうかもわからない。橋本治さんの受け売りだけど、森鴎外の時代、男子大学生は硬派と軟派に分かれていたが、硬派とは下級生男子に欲情するもの、軟派は女性に欲情するもので、鴎外は性暴力の被害を恐れナイフを携帯して通学していたという。
【国辱的なフェイクニュース】をまた放映したイギリスBBC - Togetterまとめ
これについて、(自分を含め)大半の人が放送自体を見ず(見れず)にあれこれ語っているようなので“番組を実際に観た”という人の感想をいくつかまとめてみます(リンクをたくさん貼るとスパム認定されるのか投稿しても公開されないのでtweetへのリンクは一部のみ)
youtubeで上がってたのを消される前に見たけどそこまで偏向した内容では無かったよ 一方的に決め付けるって言うよりはStacey Dooleyが困惑しながら話を聞いていくって感じで一応は事実を報道してたと思う 日本社会の最も下賎な部分だから見た西洋人は反感を抱くだろうけど最近は海外でもオタク文化に詳しい人は多いから 漫画規制にまで発展するほど炎上するような事は無いと思われる
【@masillo氏】https://twitter.com/masillo/status/837637116125306880
今日わりとおこっていて、全員が当該の映像を見ないまま伝聞でわるぐちをどんどん言うというのがどうして起きてしまうんだというかんじです https://t.co/1FFca3cKmv— タマキ (@masillo) 2017年3月3日
@masillo “In 2014, they decided that they should make it illegal to POSSESS child pornography.“ 2014年、日本人は児童ポルノの所持を違法とするときめた— タマキ (@masillo) 2017年3月3日
@masillo “it was illegal to distribute it and produce it, sell it, but to have it on your laptop and watch it was no problem.”— タマキ (@masillo) 2017年3月3日
@masillo それまでも配布、生産、販売は違法だったけど、自分のノートパソコンにあるだけ、見るだけなら問題なかった— タマキ (@masillo) 2017年3月3日
@masillo 最初の最初でそういうふうに言ってて、それならまとめの最初の人が言ってることとちがわないのに、なんでこんなことになってしまうの。あとインタビュアーの人のヘッダー画像は動画の内容とは関係なくて最後までべつに出てきません。— タマキ (@masillo) 2017年3月3日
【@mishiki氏】https://twitter.com/mishiki/status/838064860701171712
ステイシー・ドーリーの“Young Sex for Sale in Japan”について、幾つかまとめを。①取材されていたJKカフェに良い印象は持ちにくい。あと着エロについても擁護し難い。実在の児童の人権を侵害しているんじゃないのと言われれば、両方そうなりえると思う。— 未識@🐠🏭技術書典2 お-03 (@mishiki) 2017年3月4日
②疑似ロリAVは、女優の演技や画像加工の話だし、マンガ・アニメについては「紙とインク」なのだが、「子供のように見えるものは何で合ってもダメ」というところで、一貫性を絶対に崩さない人達がいることが改めてよく分かった。ここで蒙を啓く、eye openする方法はよく分からない。— 未識@🐠🏭技術書典2 お-03 (@mishiki) 2017年3月4日
③ペドフィリアに対しては、存在も欲望も妄想もとにかく全て否定されて、社会生活上、子供に無害なように生きていってもらうというよう選択肢は、存在してないらしい。「自分に生きる権利があるじゃなくて虐待されてたとか言ってくれればいいのに」などというのは実にひどい発想だと思った。— 未識@🐠🏭技術書典2 お-03 (@mishiki) 2017年3月4日
全体として、このドキュメンタリーが「フェイクニュース」かと言われると、「悪意故または誤解故の印象操作はあるが、嘘は吐いてない」と思う。はっきり誤りと思われるのは、「30代以下のほぼ半分が非正規雇用だからJKカフェが収入源として必要悪になっているのでは」という部分くらい。— 未識@🐠🏭技術書典2 お-03 (@mishiki) 2017年3月4日
2014年まで児童ポルノは禁止されていなかったみたいな危ない物言いも、嘘ではないように文言が選ばれている。なのになぜ妙な印象を受けるのかだが、これはスクリプトを書いた人の理解と、表で喋るステイシーの考えが一致していないからなのではないか、という疑念を持っている。— 未識@🐠🏭技術書典2 お-03 (@mishiki) 2017年3月4日
http://anond.hatelabo.jp/20170305024848
私が見た限りでは“番組を実際に観た”という人はだいたい同じトーンです。@mishik氏は上にまとめた以外にも番組内容についてかなり詳細に言及していて、誤解や偏見が見られる点については厳しいツッコミを入れていますが、それでも「捏造」「フェイクニュース」という見方を否定しています。
私もまだ放送を観れてないので上の方たちの感想が正しいと断言することはできないのですが、“番組を実際に観た人”の感想を見る限りtogettreのタイトルは誇張されたものであり、現時点では『【国辱的なフェイクニュース】をまた放映したイギリスBBC』というまとめ自体がフェイクニュースという可能性が高いと考えるのが妥当なのではないかと思います。
本件に限らず日本のオタクカルチャーに対する諸外国(特に欧米)の偏見は酷いと思いますし、それが不十分な取材や偏見に基づく報道によって助長されていることも否定できないでしょう。それ自体は批判されるべきことであっても、だからといってデマ紛いの手法によって反感や悪意を煽るのは本末転倒ではないでしょうか。
まことしやかに言われているけど、それは本当の話なのか?
……と思ってWikipediaを読んでみたら、起源がいくつもあって定説はないと書かれていた。
そりゃそうだ。道にあるウンコを避ける目的なら、もっと単純な構造の靴があるはずだ。
足を高くするゲタとか、厚底ブーツみたいな靴を作った方がいい。
で、ここからが本題なんだけど、日本人は「ハイヒール=うんこ避けが起源」という説に飛びつきやすいのではないか?
日本人はやっぱり西洋文化を忌避して、それに対抗意識を持ってしまう。
だから西洋文化を受け入れながらも、一方ではそれをバカにしたり、いちゃもんをつけて見下すという傾向に陥りやすい。
「ハイヒールって、うんこを避けるために作られたんだぜ。( ^∀^)ゲラゲラ」
というのは、日本人が特別にこの説を信じて吹聴したがる傾向があるのではないか。
例えば西洋人も、われわれ日本人と同じぐらいのレベルで、この説を採用してハイヒールを笑っているだろうか?
もしこの笑いが日本人だけに多く見られる傾向ならば、これは「自国が偉くてすごい。外国は劣っている」というナショナリズムの問題にもつながっている。
(※ 以上は勝手な憶測です。西洋の事情に詳しい人がいたら教えてちょ)
美術館勤務経験があって英仏独伊のうち2か国語以上できる人材を時給1240円で募集する国立西洋美術館(https://togetter.com/li/1082006)を擁護するはてカスども
id:timetrain なんとなくお嬢様向け枠で既に内定済みなんだけど形だけ求人出しとかないとコンプライアンス的にうるせーから出した、という気もするんだけどどーだろ。
id:QJV97FCr 高スキルを要する難しい仕事だからって儲かるわけではないからなぁ
id:akikonian マルチリンガルがエリートっていうの、日本人の外国人(西洋人)コンプレックスの裏返しのような気がする。/学芸員って大学で単位取ってコネさえあればいけるから特別エリートでもなんでもない。
id:amd64x64 言語スキルがあることはエリートとは限らないから仕方ない。ネイティブ話者が多ければ学力とすら思われない。
音楽も、セリフも、ストーリーも、悪くはないがうまくマッチしていないような気がする。
ただ、やっぱり好き嫌いが別れるのは絵によるところが大きいと思う。
美しいか醜いかと言ったら、100人中100人が美しいと言う美麗さだ。
ただ、映画の絵としては特異と言わざるを得ない。
主人公が絵の中心にいないのだ。
背景を美しくみせるための、添え物に過ぎない。
絵に人間賛歌がないから、あんなに練られたストーリーも、セリフも、一つの作品としてまとまらないのだ。
正確には、背景を美しくみせるというのもちょっと違う。
あの映画の絵では、背景ですら、光を、風を、雨を、それを表現するための手段にすぎない。
見えないほど雨が画面を曇らせる。
画面の半分が空。
思い出したのは、歌川広重だった。
中でも、広重は、雨そのものを、雪を、光を、描き、人物も背景もその添え物という新しい表現に挑戦した。
今では、紙も絵具も変色して、容易には気が付かないと思うけど、雨が、光が、雪が、主役の作品を残してる。
版画という、数々の制限の中だからこそ、ストレートな工夫が目に入ってくる。
日本人の目には、「へぇ、面白いなぁ」だが、当時の西洋人には衝撃だった。
おそらく、「君の名は。」も同じに映るだろうと思う。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
突然だが、私は外見にコンプレックスがある。
私は一重(ひとえ)、それもかなり腫れぼったいタイプの一重だ。生まれてからずっと、自分のまぶたを呪い続けてきた。
一重が嫌で仕方がないので、私はアイプチ(まぶたを固定するノリのようなもの)を利用して二重を装っている。
毎晩寝る前にアイプチを使って二重を作り、そのままの状態で寝て次の日はアイプチを落とし、さも生まれつき二重であるように装って生活を送っている。
この習慣を続けたおかげでまぶたにクセがつき、前日アイプチしなくても次の日も二重で朝を迎えることができるようになってきている。
※アイプチを使いすぎるとまぶたの皮膚が伸びて老後酷いことになるそうだが、数十年後にはもっと安く簡単に整形手術が受けられるようになっていることを祈って今はゴリ押ししている
…と、私の話から入ってしまったが、本題はもっと別のところにある。
「(若い)日本人のほとんどは一重であるはずなのに、テレビに出ている若い人のほとんど全てがキレイな二重なの、おかしくね???」
と思っている。悶々としている。
(1)歳を取るとまぶたの脂肪が落ちて皮膚が薄くなるため、生まれた時は一重の人物でも歳を取って二重になることは結構ある。つまり、年齢層の高い二重の人は多い(はず)
(2)男性の一重or二重が重要視されることは女性と比較して少ないので、テレビに出てる人でも一重の男性は結構多い。
(3)ただしジャニーズを見れば分かるが、女性ウケを狙う「若い」イケメン男子のほとんどは二重まぶたである。
ということをツッコミをさけるために先に断わっておく。
私はまぶたにコンプレックスがあるので、コンプレックスを意識し始めてからずっと他人のまぶたに注目して生きてきた。だからこそ言えるのだが、ほとんどの若い日本人はやはり一重まぶたなのである(ちなみに私は大学生なので、基本的に若い日本人のまぶたの傾向しか分からない)。これは男女両方に言えることで、どう考えても一重まぶたの人が多い。私の主張に疑問を持つ人は一度小学校や中学校の卒業アルバムの個人写真をざっと見てみればいい。化粧も整形もしていない少年少女のほとんどのまぶたは一重のはずだ。
それでもって若い女性の多くは私と同じようにアイプチを使って二重まぶたを装っている。言い忘れていたが、アイプチは完全な一重まぶたの人のみが使うのではなく、奥二重の人が綺麗な二重に形を整えるのにも用いられるので、今では結構多くの若い女性がアイプチやこれに準ずる化粧品を使っている。さらに、男性がこのアイプチを使うこともある。整形手術をせずとも誰でも二重まぶたになれるのだから、かなり便利(?)な世の中になったのだ。
別に独自に客観的な統計をとったうえで、その分析結果に基づいてこの主張をしているわけではないのだが、少なくとも女性に関しては間違いないと胸を張って言える。くらい明らか。
是非ともこの日記を読んだ方は、テレビに出ている人物が一重まぶたであるか二重まぶたであるかを意識してテレビを見てほしい。別にテレビでなくとも、電車の中の広告やSNSのタイムラインに流れてくる画像の人物のまぶたに注目してほしい。びっくりするほど二重まぶたの人物で溢れ返っているはず。
さて、ここまで読んだ読者にはきっと「そりゃあ多くの視聴者が見るテレビなんだからウケの良い(と思われる)二重まぶたの人物を多く起用するのは当たり前のことじゃないか」と考える人もいらっしゃるだろう。確かにその考えは至極真っ当で、私だって一重が嫌で二重に憧れてアイプチを使っているわけで、多くの人々が二重まぶたを美しいと感じているのは事実だろうし、テレビ番組は視聴率を取りたいわけだから一般に美しいと思われている二重まぶたの人を積極的に起用するのは理に適っている。その通りである。間違いない。
しかし一度立ち止まって考え直してほしい。
我々が「二重まぶたは美しい」と考えるようになるのは、幼いころからテレビや雑誌で二重まぶたの人たちばかりを見ているからではないか?
我々がもとから「二重まぶたは美しい」と考えるのではなく、メディアによって「二重まぶたは美しい」という選好を植え付けられているのではないか?
我々が日本史の授業で目にする平安時代の絵巻物や江戸時代の浮世絵の「美人」はみんな一重まぶたではなかったか?
我々が「二重まぶたは美しい」と考えるようになったのは西洋人が身近になった明治以降のことではないか?
そして私のように、一重まぶたにコンプレックスを抱き、様々な化粧品を試して必死に二重まぶたを装おうとしている人こそ一度考えなければならないのは
世の中のトレンドを作り出すことで私腹を肥やす薄汚いブタ野郎が、「まるでそれが普通であるかのような空気を作り出す」ことで、消費者の行動を一つの方向に導くことがある
ということだろう。ブタ野郎の手のひらの上では踊りたくないのはきっとみんな同じ。
普通に考えて、多くの日本人が一重まぶたであるにもかかわらず、二重まぶたの人ばかりが日本のメディアに出ているのは異常ではないか?
これを言うと陰謀論臭くなって嫌なのであまり言いたくはないし費用対効果の点から現実味はほとんど無いのだが、この状況、化粧品会社や美容外科業界、タレント業界とメディアが結託してしたりしないか?政治学には「非決定権力」やルークスという人が唱えた「第三の権力」という概念がある。興味のある方はぜひとも調べてみてほしい。
※私は「二重まぶたの人がテレビ画面を占め、それを見る我々一般人がそれを普通だと認識している」この状況が異常であると主張しているだけで、二重まぶたの人をテレビから引きずり出せとか一重まぶたこそが真に偉大であるとか言いたいわけではない
自分で書いていて着地点が分からなくなってきたのでこの辺にしておこう。
一重まぶたには一重まぶたの、二重まぶたには二重まぶたの良いところがあるわけだから、それぞれの良いところを認め合える世の中になればいいなぁ。
二重まぶたの女性しか出てこないテレビ、普通の人はおかしいと思わないのかなぁ。
普通だと思われていることに、常に疑問を投げかけられる人間(消費者?)でありたいなぁ。
ああ、二重まぶたになりたい。
―――――――――――――
追記
実はこの日記、私が初めて匿名ダイアリーに投稿したものだったのだが、予想以上に反応がきてとても驚いている。
読者の方のコメントを拝見して、なるほどと思うことも多かったので、いくらか追加で書き記しておこうと思う。
確かにこれは少し誇張が過ぎていた。あと、地域性によってまぶたのパターンが大きく変わることは恥ずかしながら考えてもいなかった。
北海道・九州・沖縄あたりでは縄文系の顔つきの人は多いだろうし、二重まぶたの人も多いはずだ。ちなみに私の居住圏は、恐らく弥生系が最も多いであろう関西地方である。そのため、私の脳内サンプルにはある程度のバイアスがあることは断っておかなければならない。バイアス絡みでいえば、私自身が「日本人の多くは一重まぶたである」と意識し過ぎた状態で脳内統計を取っているせいで、無意識的に実数よりも過剰に一重まぶたの日本人の数を計上している可能性もある。
ただ、これらのバイアスを考慮に入れた上でもやはり私は身の回りの人は一重まぶたが多いと思うし、テレビの中の人(特に女性)たちは二重まぶたが多いと思うのだが、これは私の頭がおかしいからそう思うのだろうか。
思った以上に一重の人口が少ない説を唱えるコメントが返ってきたので不安になってciniiとgoogle scholarで適当に論文を調べてみたのだが、一重or二重まぶたの人口比に関する学術論文は見当たらなかった。ということで私は正確かつ客観的な統計データを持っていないし、恐らく手に入れることが出来ない(一応文中でも断っているのだが)ので、断定的な主張をおこなうのはまずかった。一応お詫びしておこうと思う。
③二重の極みについて
このタイトルで日記を公開するわけなので、ある程度この反応があるであろうことは予想していた。
確かに彼女たちは一重まぶたである。もっとも、彼女らは膨大な女性芸能人の中のほんの一握りのケースであることは言うまでもない気がするのだが。さらに言えば、私は「テレビに出ているほとんどの女性」と述べているだけで、「テレビに出ている全ての女性」とは書いていない。
⑤私が本当に主張したかったことについて
コメントの多くが「一重まぶたの人はそんなに多くない」という趣旨のものだったので、私としては少しうーんといった感じ。譲りたくはないがあえて100万歩譲って、日本人の51%が一重まぶたで49%が二重まぶたであるとしよう。しかしテレビで我々が目にする日本人の多く、少なくとも半分以上は二重まぶたではないか?私が本当に主張したいことは、明らかに現実と乖離している風景がテレビに映っているのに、我々がそれを異常とも思っていないのはおかしくないか?ということだ。もうひとつ挙げれば、そのように異常なものを異常と思わないように世の中が動いていることが怖くないか?ということだ。
東アジアの不可解さを感覚的に理解したいのならば、柿(Kaki)と杮(Kokera)の違いについて知るのが最も近道だ。
日本人は秋になると甘味の強い「柿(Kaki)」と呼ばれる濃いオレンジ色のフルーツを楽しむ。
このフルーツを天日で干してドライフルーツにして楽しむことあり、これを「アンポンタン(日本の方言で知的障害者を指す)」と呼ぶ地域もある。
(日本の伝統的菓子は、このドライ柿以上の甘さにしてはいけないという不文律がある)
一方、迷信深い日本人は、新築の建物を建てると「杮(Kokera)」と呼ばれるモンスターを駆除すると称して、何らかのイベントを催す。
すなわち、人が入る前の建物には必ずコケラという怪物が住み着くので、これを多数の来客者による迫力で追い払おうとするのである。
私たち西洋人には、この Kaki と呼ばれる漢字と、Kokera と呼ばれる漢字は全く同一に見える。
しかし、高度な形象文字の文化圏の住人である日本人には、これらの文字は全く別の文字であることが明らかだという。
京都市に住む Keiko Wanatabe (78) が嘆息して言うには、
「近頃、日本が好きといって外国人さんがたくさん京都にお見えになりますけど、
Kaki と Kokera の違いもわからずに日本をわかったつもりになってもらっては困ります」
このように、日本人には極めて微小な差異に対する感受性が受け継がれている。
私たち西洋人には「ワビ・サビ(Wabi and Sabi)」や「萌え(Moé)」は深遠で理解に及ばぬもの、というイメージがあるが、
それは無理からぬことで、こうした概念は日本人の持つ独特な「差異の感性(sense of disctinction)」に依るものなのである。
フランスの偉大な哲学者アレクサンドル・コジェーヴは、日本の持つ独特な感性体系を「日本的スノビズム」として称揚したが、
この点において私たち西洋人がこの多神教的精神性を感覚的に理解するのは、不可能か、
あるいは少なくとも数多くの障害が立ちはだかっていると言えよう。
私たち西洋人は日本人の持つ奇異な性文化 --- 例えば Gokkun や Bukkake --- を受け入れつつあるし、
Baby Metal のような「萌え(Moé)」に対する強い渇望も存在する。
それ故、私たちはゆっくりと、しかし確実に日本的「差異の感性」を身に着けつつあると言えるし、
彼らが西洋発祥の文化を上手く取り込んで世界の TOYOTA を作ったように、
あっけなかったな。
やっぱり"ただの狂った"ネトウヨか。
目的を遂げても遂げなくても
奴はそうした気高い志とは無縁で
本当に罪深い連中だと言わざるを得ない。
障がい者大量殺害、相模原事件の容疑者はネトウヨ? 安倍首相、百田尚樹、橋下徹、Kギルバートらをフォロー
http://lite-ra.com/2016/07/post-2447.html
そもそも、今回の事件に関しては、「容疑者はネトウヨ」というほうがまだ事実に近いのではないか。
たとえば、容疑者がツイッターでフォローしていた有名人を見てみると、安倍晋三、百田尚樹、橋下徹、中山成彬、テキサス親父日本事務局、ケント・ギルバート、上念司、西村幸祐、つるの剛士、高須克弥、村西とおると、ネトウヨが好みそうな極右政治家、文化人がずらりと並んでいる。
また、その中身も、最近、右派発言が目立つ村西とおるの「米軍の沖縄駐留は平和に大きく貢献している、米軍がいればこその安心なのです」という発言をリツイートしたり、「在日恐い」「翁長知事にハゲ野郎って伝えて!!」といった、ネトウヨ的志向がかいま見えるツイートも散見される。
奴は、自民党のJ-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)にいた
という説もある。真偽はわからない。
だが、自民党のJ-NSCが奴のようなネトウヨサポーターを利用し
歓迎していたのは事実だろう。
事件を起こす前までは。
奴は「障害者なんていなくなればいい」と言っていた。
かつてドイツ第三帝国は、
少なくとも知的障碍者や身体障碍者など20万人を殺害して殺した。
T4作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
生きるに値しない命
そういう意味で言うなら、奴は
ナチス的な心情にも感化されていたとも言える。
ちなみに「ナチスに学べ」と言っていた麻生太郎の所属党である自民党は
「ネット対策特別チーム Truth Team」を作り、現在も運用しているが
「謝罪したい」と謝意を表明した相模原市障害者施設刺殺事件容疑者よりも
彼らはおそらく本気でそう思っているし
そして近い将来それを実行するだけの政治力が今の彼らにはある。
障がい者抹殺思想は相模原事件の容疑者だけじゃない! 石原慎太郎も「安楽死」発言、ネットでは「障がい者不要論」が跋扈
http://lite-ra.com/2016/07/post-2449.html
戦後最悪レベルのとんでもない凶悪な事件だけに、容疑者の異常性に注目が集まるが、残念ながら容疑者の“弱者を排除すべし”という主張は現在の日本社会において決して特殊なものではない。
石原慎太郎は、都知事に就任したばかりの1999年9月に障がい者施設を訪れ、こんな発言をした。
「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって……」
「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
ほとんど植松容疑者の言っていることと大差ない。舛添のセコい問題などより、こういった石原の差別発言のほうがよほど都知事としての資質を疑いたくなる。しかし、当時この発言を問題視する報道は多少あったものの、そこまで重大視されることはなく、その後、4期13年にわたって都民は石原を都知事に選び続けた。
何年も前の記事だけど、ふと思い出して訳してみた。
ノーセックス・イン・ザ・シティ:日本に住む外国人女性の気持ち
Reannon Muth
「女性教師に長くいてもらうのは大変なことなんだ。」東京で英語教師になって初出勤の日、私の上司はこう告げてきた。「大抵の場合、6ヶ月以上はもたない。」私は驚いて、登録教師のリスト(30人―全て男性)から目を上げた。
「いや。日本で、という意味だ…。」彼は肩をすくめた。「東京は独り身にはつらい街なんだ…西洋人の女性にとってはね。分かるよね…。」
彼の後ろの壁にかかっていた写真をちらりと見た。四人の中年の白人男性。みんなひげを生やして禿げかかっていた。同じような歳の取り方で、垂れ下がった髪がメタリカのメンバーに似ていた。そして全員が、モデルのようにほっそりした身体の、厚化粧をした美人の日本人女性に抱きつかれていた。
問題を抱えることになるとは思えないけど、と私は思った。
私が魅力的な美人だったからそう思ったのではない。私は美人からは程遠い。スリムで中背、薄茶色の目とそばかす。良く言えばかわいい、悪く言っても並程度。でも私は競争相手が持っていないものを持っていた。長くて自然なウェーブのかかったブロンドの髪。その上私はバイリンガルで、旅行にも慣れていて、大卒だった。
でも日本に来てから数週間の内に、不可解なほどに、もどかしいほどに、自分自身が透明人間になっていることに気がついた。
スターバックスのかわいいバリスタ達は私に見向きもしなかった。自転車に乗ったビジネスマン達は私を無視して走り去っていった。大学生達はボソボソと謝りながら急いで私から遠ざかって行った。天気のことを話したり、道を聞いたり、何か話すきっかけを持とうとした時はいつもこうだった。彼らは挨拶すらしてくれなかったのだ。本当に。
「積極的にならないと。」と日本人女性の友達はアドバイスをくれた。「日本の男はシャイだから、あなたから行かないとダメよ。」だから私はバーでもバスでも、男性達には誘いかけるように微笑んだ。レストランのメニューや、地下鉄の案内の読み方を聞いたりした。
「何かおすすめの本/ドリンクはありますか?」本屋で隣に立った時や、バーで隣に座った時には、このおなじみの台詞で男性達に尋ねていた。でも魅惑の眼差しや会話のきっかけなんてものは、相手が私を見てくれなければ効果がない。彼らが私と完全に目が合うのは、うろたえた表情を向ける時だけだった。まるで「私が将来産む子供達の父親になって。」と、たった今私がお願いしたかのような表情だった。上司が言っていたことは正しかった。独り身の西洋人女性が日本に住むのはつらい。でもどうしてなんだろう?
アドバイスを求めてインターネットを見てみると、デートできない西洋人女性というのは国外居住者の間ではおなじみのキャラなのだと知って驚いた。国外居住者が集う掲示板での、孤独な独身女性の書き込みの多さを見た限りでも明らかだった。
深刻な問題のように思えたのだけれど、多くの女性が話すのをためらっていた。議論するには難しいテーマであるのも無理はない。その国の50%の人たちを極端に一般化することになるし、より悪く言うと、レイシストか男嫌いの俗物女のように思われてしまうからだ。
国外居住者と日本人との間で同じように広まっている見解なのだが、実のところ日本人男性は西洋人女性に魅力を感じてはいるのだ。付き合うために行動する度胸がないだけで。国外居住者達の間では、アジアにいる西洋人女性はジェニファー・アニストンのようなものだった。強くて、自立していて、積極的で、はっきり物を言う。遠くから見とれるには興味深い存在だが、実際に話しかけてみようとする男性はいない。西洋人女性は違いすぎて、異国すぎて、デートの相手にするのは事実上不可能と思われていた。
Y染色体を持つ国外居住者達にとっては話は別だ。女性の国外居住者達が土曜の夜を一人で、ラーメンのどんぶりに涙をこぼしながら過ごす一方で、男性達はキープしている女性達と我が物顔で飲み歩く。彼らはそうやって過ごしていた。
アジアに行ったことのある人ならば、弱々しくてガリガリに痩せたベトベトの髪の白人少年が、完璧にメイクしてミニスカートをはいたアジア人の女の子と手をつないで歩いているのを見たことがあると思う。こんなことは世界の他の地域では決して起こらない。アジア以外の場所では、バービーはケンと結ばれることになっている。不完全雇用で人付き合いの苦手な、日本刀コレクターの隣人、ケビンとではないのだ。でもアジアでは、デートのルールがあらゆる論理や進化の法則に反している。アジアでは、オタクは王様なのだ。
立場が違っていたらよかったのにと願ったとか、そういうことではない。ほとんどの場合で、私は彼らを喜ばしく思っていた。彼らは自分の国にいた時にはデートの予定を書き込むこともできなかっただろう。でもアジアでは高嶺の花を勝ち取ったのだ。彼らはまさにサクセス・ストーリーそのものだ。魔法の抜け道を使って、有利な条件の元で高根の花とデートしているとはいえ、誰がそのことを非難できるだろうか?西洋人女性にとってのそのような涅槃の地が存在するならば、きっと私もそこへ移住するだろう。
時折、カップルを見て「彼女は本当にあの男と付き合っているのだろうか?」という疑問がかき立てられることはあったが、なぜ日本人女性が西洋人男性を(オタクっぽいのでさえ)魅力的なデートの相手候補と見ていたのかを理解するのは簡単だった。彼らは一つの物事に対して、真っ直ぐで広い心を持っていた。彼らはメガネ越しの西洋の目で、恋愛関係を対等な協力関係として見ていた。それは、昔ながらの了見の狭い日本人男性には、まだできていないことだった。西洋人男性達がガールフレンドを大切に扱って、お互いが二人の関係に満足しているのを見て、それが分かってきた。彼らの思いがけない行動や奇妙な言葉遣いが、翻訳で多少失われて、伝わらなかったとしても何の問題があるだろうか?社交的でない人も、愛し愛されてしかるべきなのだ。
でもうらやましいと感じないようにするのは大変だった。私が毎週末、クラブのダンスフロアに一人で立ち向かっている一方で、バカっぽい外国人男性達が上手にナンパして電話番号を交換し、最初のデートの予定を決めているのを見た時は、特につらかった。彼らは駄菓子屋ではしゃぐ子供達のようだった。日本人女性はグルメ向きのトリュフチョコレート。一方で西洋人女性は、容器の底に溶けてこびりついた三年物のトッツィー・ロール。日本人男性達はたぶん私達に気後れしていた。外国人男性達は私達を気兼ねなく無視するだけだった。
でも私は出会いを求めてアジアに来たわけではないのだ。いつもそう自分自身に言い聞かせていた。ここに来たのは、日本語をマスターして、自分の国とは大きく異なる文化を楽しみたかったからだ。でも生活を日本に移すことが、恋愛生活を故郷に置いてくることを意味するとは予想もしていなかった。東京での生活を存分に楽しんでいたとはいえ、公平な取引だったとは思えなかった。
外国人女性の恋愛には成功話がほとんどないと言っているわけではない。知人の何人かは日本に来た後、夫または婚約者を連れて帰国して行った。でも彼女達は少数派だ。ほとんどの西洋人女性は一人で日本に来て、ずっとそのままだった。
とある金曜の夜、仕事からの帰り道の途中、自分がもう日本に九ヶ月いることに気がついた。この逆境に打ち勝ったことを内心喜んだ。上司が間違っていたと証明したのだ。でも重い足取りで帰宅し、『The Office』の再放送を見ながらセブン・イレブンの寿司の残りを食べるという、いつも通りの夜を過ごしていた時、何のために頑張ってきたんだろうと疑問に思った。魅力がなくて、誰からも求められない、最低で、女性扱いすらされない。ずっとそう感じてきた。短いスカートをはいた時や、ぴったりとしたトップスを着た時でさえ、男性達はちらりと見るだけだった。いやらしい目を向けるような建設作業員でさえ、私に対しては退屈そうで無反応だった。自分が火星人になってしまったように感じた。そしてすごく、すごく寂しかった。外国人女性達を、デートのチャンスがある輝かしい境地へ連れて行ってくれる最後の船に乗らなかったのは、もしかすると間違いだったのかもしれない。
元記事:No Sex in the City: What It's Like to Be Female and Foreign in Japan - Vagabondish