はてなキーワード: ローマ字とは
毎日、奇妙なメールが届くのです。毎日毎日、15時ちょうどに。
そのメールには題名がなく、本文はいつもアルファベットが一文字だけ。
差出人はいつも同じ人。
無視しようとしたら、題名に日本語で「あなたは今日、ドブにハマって服が汚れます」と書いてありました。
なんだか気になって本文を見ると、「それを回避したいならば、今日の新聞を読んだのちに出かけてください」とある。
よくわからないまま新聞を開いてから、夕食の買い物に出かけました。
特になんともありませんでした。
次の日以降もメールは届き続けましたが、内容は以前の『題名なし・本文一文字』に戻っていました。
それらのメールは毎日手動でゴミ箱送りにしていましたが、また「あなたは今日、ドブにハマって服が汚れます」が届きました。
本文には「それを回避したいならば、今日の新聞のなかの好きな記事をひとつ選んで、それをノートへ書き写してください」とある。
そんなバカなことできねーよ、と無視して夕食の買い物に出かけました。
その帰り道、足が何かに引っ掛かって見事にドブへハマり、洋服が汚れ、食料も無駄になりました。
『あのメール、ひょっとして未来を暗示しているのか?』と思いました。
以降、『題名なし・本文一文字』に混ざった『ドブ回避』メールには真剣に対応しました。
ただ、要求が日に日にどんどん難しくなっていくのです。書き写せ系の指示ばかりで、毎日量が増える。しまいには、
『今までに学んだ小中高の全教科の教科書と辞書を全部探し出して、それらの全ページを一字一句残さずイラストも写真も書き写してください。ただし制限時間は明日朝まで』
無理です。さすがに無理です。ていうか教科書とかもう保管していないし。
無理だから、手近にあった雑誌を一冊、書き写しました。それでも充分しんどい。
次の日、朝になっても特に何もありませんでした。
あー要求はこれでクリアしたのかな、と息をついたとき、宅配便が届きました。
差出人の名前は、さてどこかで聞いたような名前です。あまり記憶にない。そういえばこんな親戚もいたかな。
今夜はこれを焼いて食べようかな。そう思いました。
その日は、15時を過ぎても例のメールは届きませんでした。珍しい。買い物に行っても何もなし。
夕食の時間、メニューには焼きマツタケが加わりました、昼に届いたものを焼いたのです。
マツタケをほおばった瞬間、口の中がしびれました。すぐに吐き出しましたが、全身がしびれて寒気がして、床に倒れてしまいました。目の前が暗いです。
助けを呼ぼうとポケットからスマートフォンを引っ張り出しましたが、何者かに取り上げられてしまいました。
その人物が言うのです。
「最後の指示、ちゃんと守らなかったでしょ。適当なことするからこうなるんだよ?」
冷や汗が出て呼吸が苦しくなってきました。
「毎日メール送ってあげてたのに、それだって無視するからこうなるんだよ?」
この人は誰なんだ?顔を上げるのすらしんどくなります。声が出せない。
「アルファベットを一文字ずつ順番につなげていって、ローマ字読みすれば答えになる」
は?そんなことわかるわけないじゃん。どうやったらその方法があったってわかるんだ…よ…
「その答えがわかれば、今日のこの出来事が回避できたんだよ?それをしなかったから君は、答えがわからなかった。そして君はまもなく死ぬ。自業自得だね。これは自己責任だよ?」
ていうかお前、誰だよ…
その疑問が、僕の最期でした。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
社会保険関連の書類を見ていて、元号の略称として使われるアルファベットに思いを馳せる。
明治以降は、M、T、S、H、Rの5つ。
明治の前の慶応がK。その前は元治のG、その前は文久のB。ここまではかぶってない。
その前の万延がMで明治とかぶるので、文久以降かぶらないようにしてるものと仮定する。
調べてみると過去「い」から始まる元号は無かったけど、S50やH15のようにI11とか書かれると判別が非常に難しいので実務上使いたくない。Oも同様。
残ったのは、AUEと、N、Y、W、Z、D、P
「じ」あたりをJで表記するかどうかも難しいところ。ローマ字は難しい。ヘボン式だと「ふ」もFになる。
「う」から始まる元号も過去にはなかった。「う」自体は元号の読みとしては2音目や最後で最多出現なのに。
宇宙元年とか宇宙天皇とかどうだろう。22世紀くらいに。宇宙世紀。
日本人全体の(PCの)ITリテラシーが低いという話だと思うが、大きなハードルの一つにIMEがあると思う。欧米圏ならキーボードの入力からダイレクトに入力できるのにCJK(中国語・日本語・韓国語)はいちいちモードを切り替えて入力する必要がある。これは初心者がメモ帳ではなくvimから初めてるのに等しいので、最初に突破する関門としては厳しすぎると思う。CとKと比べてもローマ字の習得が必須なのに加えて、日本語の漢字かな交じりと同音異義語の多さからIMEの変換精度の問題が大きく、数段厳しさを増していると思う。単に文章を打つという行為でここまで考えなければいけないのは、初めてPCを操作するのに多くのことを学ばなければいけない初期段階ではあまりにも厳しい障害のように思える。
携帯やスマートフォンのみ操作できる人とというのも、そのへんのハードルの高さが一因となってるのは間違いないと思う。多分正しく日本語を打つ段階で心が折れてる。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
うん、で返信を始める話を見ていて思い出したことがある。文章の最初に名乗るということだ。
これだけだとピンとこないかもしれないが、私にとってはかなり違和感のあることで驚き、疑問に思った出来事だったので、思い出しながら書いていくことにする。
最初に気付いたのは、社内報を製作していた時のことだ。社員に投稿をお願いするコーナーがあった。
毎号掲載のお馴染み企画なんだけど、目的は社員紹介とか交流で、内容は趣味や旅行、食事会などさまざま。次号に寄稿する社員を今号の掲載者が指名してリレー形式で続けていくものだった。
大体同じ部署や支所、同期などに回していく人が多いんだけど、長く続けていくと「もう出たよ」という人が増えて行ったり、頼みやすさから、新入社員などの若手に偏ってくる。(そこからいきなり部長クラスに飛ばす猛者もいる……もとい良い雰囲気の職場も多く、案外スムーズに回っていた)
そうするとある時期から、本文頭に「こんにちは、新入社員の〇〇です!」のように名乗る投稿が見られるようになった。
掲載事項は上から順に、所属、氏名、写真、本文である。だから最初に見たときに「いや本文で名乗らなくても氏名すぐ横に書いてあるからわかるんだが」とびっくりしたのをよく覚えている。
"その人らしい"原稿を尊重する意図から、校正は誤字や文字数調整(もちろん了承はとる)だけにとどめ、できるだけ原文ママの掲載を基本としていたので、最初はそれでよしとした。次号からも似たようなものが見られたのはおそらく、前号を参考にしたからだろう。
だが、限りある誌面で、目的は社員の紹介だ。書くことがなくて文字数が少ない分には構わないが、最高でも100字(大体2~3文)しかないのに、なぜそんな無駄なことをするんだろうととても疑問だった。空白を埋めるにしても不自然すぎる。在籍期間の少ない社員にも過去号を参考に渡したため、掲載内容や誌面イメージがわかないということもないはずなのだが。
そんなこんなで、氏名は隣にあり被るので誌面の都合上掲載しませんよ、という方針に変更となったのだった。ちなみに、その後も本文に氏名を書いて「これが自分だ!」と主張してくるような社員はいなかった。
複数人でやりとりするDiscordサーバーに、いつも最初に名乗る投稿者がいた。
いやそのすぐ上に名前あるからわかるんだけど??と私はその時も謎だった。
あまりに理由が分からなかったので本人に尋ねてみると、「周りもそうしている」とのこと。
周りって?と聞くと、「バイトやサークルのグループLINEとかではみんなそう発言している」そうなのだ。
その例でいえば、理解できる。表示名が苗字どころか名前のローマ字だけ等だと誰が発信しているか分かりづらく、「●●学科△年の××です」と最初に名乗るのはスムーズな連絡のためには必要だと考えられるし、納得できる。
付け加えるように「メールとかもそうでしょ?」と言われたが、そりゃメールはメールアドレス(もしかすると表示名かもしれないが)→タイトル→本文→文末に送付主情報だから、先に名乗るのが親切の場合はもちろんある。これも分かる。
でもすぐ上に、メッセージを受け取る側がその人だと認識できる状態の表示名があるのにわざわざ名乗る意味とは?と訊いた時に、「確かに必要ないね。そういえばなんでだろう?」と本人も分からないようだった。本当にいつもの通りに文章を送っただけなんだと思う。
そういえば、先に話題にした社内報でも、名乗りで始まり「よろしくお願いします」で終わる文章はあった。あれもメールの形式に則ったものだったのかもしれない気はしている。
正直に言えば、どちらのケースも必要(もしくは求められているもの)・不必要なものの判別がついていないし、TPOに合わせた行動ができていない結果だなと厳しいことも思っている。もちろん間違ってはいないし、特にSNSグループのやりとりなんて文字数制限もない。それこそ"個性"にも見え得る一文、それは確かにそうなのだけど。
が、ともあれ、自分にとって身近なLINEなどのグループ内やりとりや、実際に使ったことが無いビジネスメールを模したつもりの投稿をみるに、これは現代ならでは"最近の若者”の文化なのではとも思うのだ。グループ内メッセージがある環境で育ってきたSNSネイティブな世代、というか。まぁ手元の具体例は一桁しかなく限られたものなんだけど。でもこれ、実は他でも見られるものなんじゃないかなって。
彼らが今後社会人になって、ビジネスメールに普段から触れていく状況になったらどうなるんだろう、ちょっと興味がある。これが普通になるのかもしれないよね。
……まぁ個人的には、近い場所で同じことを繰り返すのは無駄という思考(これは誌面作成や校正からの職業病に近いと思っている)を持っているし、結論や理由が簡潔にまとまっている文章が好きなのでこういうのが気になってしまうだけかもしれない(この投稿が冗長なものなのはどうかご容赦願いたい)し、否定的な気分ではあるんだけどね。それがこれからの文化ならば「そういうものなのか」と受け止める柔軟性はもっていたい。多分私はやらないけど。
夫婦別姓は選択肢を増やすだけで別姓にする選択肢を選ばない人には無害だとする論がある。選択肢は多ければ多いほど良いのだと。現在ある制約を緩くして選択肢を増やしていく思考実験をしてみよう。
選択的夫婦別姓が達成された世界であっても田中さんと鈴木さんが結婚した時には田中さんは田中さん、鈴木さんは鈴木さんに留まるだけであり新たな姓を作ることはできない。新たな姓を作ることができる世界だとどうなるだろう。田中さん鈴木さんが結婚して同じ超合金という姓を名乗ることも、田中さん鈴木さんがそれぞれ超合金さんと木材さんになることだってできる。選択肢を増やすのは良いことだ。多様な名前の楽しい世界になるだろう。
新たな姓を自由に設定できる世界では更にややこしい制約が発生することだろう。どんな文字を使えるのかという制約だ。現行法では子供の名前に使われる文字に関して戸籍法が定めている。
とあり、この常用平易な文字というのは戸籍法六十条において以下のように定められている。
戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
一 常用漢字表(平成二十二年内閣告示第二号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
二 別表第二に掲げる漢字
これを鑑みるに、姓が自由に決められる世界では次のような制約が発生するだろう。
新姓を設置できる新たな世界は素晴らしいが現状では常用漢字プラスアルファとカタカナひらがなしか使えない。これは不便だ。新姓をつくる際に使えない文字が存在するのは不便だ。外国人と結婚した際にその外国人の姓を名乗ることを決めた場合であれば発音が違うのに無理矢理カタカナを使うことを強制される。不便だしアイデンティティーの喪失につながるだろう。
文字制約を緩めるのは非常に難しい問題だ。どこまでの緩和を認めるのか。ローマ字も良いのか、漢字は簡体字も含めるのか、アラビア文字も許すのか。現状世界中の文字を一手に扱え最も普及しているものとしてはUnicodeがある。最新のUnicodeに含まれる文字は全て許すとすれば制約はかなり緩まると考えられる。新姓も子の名もUnicodeに含まれる文字なら許されるというように変えれば自由度は格段に上がるし選択肢も増える。選択肢の多い世界は素晴らしい。例えば㍻㍍くんという名前も合法だ。人種に配慮した名前の付け方もできる。👋🏿くんも👋🏻ちゃんも存在可能だ。多様性に配慮し選択肢の広まった素晴らしい世界だ。
夫婦別姓、新姓の自由を手に入れ、文字の選択肢の自由も手に入った世界になったは良いが未だに問題は残っている。別姓を名乗っていたのに同姓にした場合、またはその逆、または新姓を名乗りたくなった場合はどうするのだろうか。現状の世界では戸籍上の氏の変更には家庭裁判所の許可が必要だ。そして裁判所法第七十四条には「裁判所では、日本語を用いる」とある。せっかく文字の自由を手に入れたのに日本語以外の文字だと問題が起きてしまう。より選択肢の多い自由な世界を手に入れるためには家庭裁判所の許可の要請を廃止するか、裁判所法を改正する必要があるだろう。
面倒なのでこの際どちらも変えてしまおう。戸籍の氏の変更に家庭裁判所の許可は必要ないし、裁判では日本語を使う必要もない。素晴らしい世界だ。選択肢が増え世界は良くなった。
野口雨情(のちに「かっぱの碑」になる詩をかいた)小川芋銭(その碑に絵をよせたかっぱばっかり書いてた画家)
住井すゑ(「橋のない川」という当時有名だったのを書いた。奈良生まれだが芋銭となかよく近所づきあいしてた)
https://www.hns.gr.jp/download/20190608mizunoijinlist.pdf 水の偉人137人
https://www.planetkk.net/%E8%9B%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%9C%80%E8%BF%91%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%812-%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%82%92%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86%E3%80%82/ 水郷地帯には「~~新田」という地名の形で人名がよくのこっている
おわかりのとおり自分は小学校の高学年だけ茨城県にいた人間なのだが、
移住先で高校だの大学だのが建物も文化財指定をうける程度のふるさで、その開校した初代校長とかが偉人になってるケースもけっこうみかけた
ダムとかで人がいなくなると文化がなくなるって反対する人がいるのは
こういう地域特有の土地に結びついた偉人のいいつたえもまるごと消えるからなんだろうな
土地とそこに住む人がなければ思い出してもらえない偉人がたくさんいるんだろう
持っている中で一番よく使うのは金のしおり。薄い金属できれいなやつ。金のしおりとググると出てくる。昔はマットな感じの黒いしおりも売っていたけれど今は分からない。
大きさと厚みが文庫本にちょうどよく紐がしっかりしていて、本から落ちにくい気がする。(たまに落ちるけど)
貰い物なので当時の値段は分からないが今楽天で見たら440円くらいから買える。
種類によって大きさが違うので自分が挟む予定の本をイメージして買ったほうがいい。ミュシャのデザインはデカかった。自分の持っている気球デザインは文庫にちょうどよい。
紙に跡が付くのは気になったことがない。
トラバにある平等院鳳凰堂しおりは多分これと同じところが作っている。
金属製パート2。土産物屋でよく売っている、長方形のオーソドックス型でなんかステンドグラス風のもの。
地域の有名なものが描かれていて、その名前が下にローマ字で書かれている。「kokeshi」とか。
多分色々な観光地で同じしおりが売っている。可愛いからオッケー。
学生時代、友達からこのしおりをお土産で貰った。私のしおり好きはここが原点である。
とても気に入って使っていたがなくしてしまった。数年後に本の間から発掘されたが劣化してメッキがハゲてきていたので泣く泣く捨てた。
その後似たようなしおりを自分でも買ったしおみやげでも貰ったのだが、どうもしっくりこない。大きさや紐の長さによって使い勝手が変わる。
ありとあらゆる観光地で売っている薄くて細長い竹に絵が描いてあるもの。紐は2色のピロピロしたものが付いている。
ひこにゃんと箱根のかまぼこ柄を持っている。絵以外は全部同じ作り。
観光地の土産物屋でしおりを探すと大抵これが売っている。ひとつ持っていれば充分だと思われる。
私は本から紐が長く出るのが嫌なタイプなので、文庫本には使わぬ。もっぱら漫画やハードカバーに使う。少し大きめサイズの漫画にはちょうどいい。ハードカバーは本に紐が付いているものあるので、紐があれば紐を使う。
青森の土産屋で買った。薄い木できていてリンゴの形がくりぬかれている。装飾はそれだけで木の優しさと紐の赤さが可愛いくてよい。買った当初は木のいい香りがした。
私は本を並行で数冊読むタイプで、自分の中で3番目くらいの立ち位置。3冊目にこれを使うくらいの感じ。
高村光太郎記念館で買った。
革なので厚みがあり、挟んだまま数日放置すると跡がつかないか気になるので長期間の使用や持ち歩きの本には向かない。
光の文字が箔押ししてある。
この文字は光太郎が住んでいたオンボロ小屋にある便所の扉の明かり取りとしてくり抜いたもの。
中尊寺で買った。けまんという仏具?の形をしたありがたいしおり。
紐が軟弱。仏具っぽい装飾が綺麗だが、そのぶん頼りない感じで、本から落ちやすい気がする。
仏具としても使えます、と書いてあったので仏具が欲しい人にもおすすめ。
いい感じの紙にいい感じの言葉といい感じの花が印刷してあるものが8枚セットで売っていたので買った。
本屋でくれるしおりを太らせたくらいの大きさ。紙のしおりが好きな人には良さそう。
スカイツリーなんかにある食品サンプルの店に売っている。ベーコンや生ハム、スライスチーズなどがある。
https://www.ganso-sample.com/item/
(オリジナル小物の項目を横にピョコピョコすると見られる)
面白いし可愛いけれど厚みがありでこぼこしているので実用的かと言われるとあまり……。しかしつい人に自慢したくなる一品。
主張が激しく挟んだページがすぐに分かるので、例えば漫画など、すぐに続きを読む際に使うのに適している。逆に挟んだまま本棚にしまう等すると跡がつくと思う。
お土産で生ハムを貰って使っていた。生ハムが好きなので見ているだけで笑顔になるしおりだった。しかし紛失した。多分本に挟んだまま古本屋に売り払ってしまった。
悲しかったのでスカイツリーに行って焼きベーコンを買い直した。ちなみに焼いていないベーコンも売っている。
凝りすぎた形、大きさが使いづらいものは持っていても使わなくなる。
色々なしおりを使って思うのは、その人の使い方や好みによっておすすめのしおりは本当に違ってくる。私は紐が出ない方が好きだけど、出る方が好きな人ももちろんいる。
自分がよく読むサイズの本を想定して、どんな使いかたをするのかをシミュレートして買うと失敗が少ない。
A5のワイドサイズの漫画なんかに使うなら大きめがいいし、文庫に使うなら文庫と同じ長さみたいなのはちょいと使いづらい。
ちょっと挟んでトイレに行くくらいなら厚いほうが挟んだページが分かりやすくて使いやすい。挟んだまま数日持ち歩くようならそんなに厚みがないほうがいい。
好きなシーンに付箋をはりつけたまま数年放置したら貼ったところがペタペタになったので、付箋を栞代わりにする場合、数日で剥がし、放置はやめたほうがいい。
旅先で買うのもおすすめ。かさばるものでもないので持ち帰りがしやすく自分へのお土産によい。
ちなみに文庫本の持ち歩きについて。
布製のブックカバーを買ったことがあるが、表紙を守れてもサイドがノーガードなので汚れる。鞄の中でページの間にペットボトルが挟まって開き癖がついたり、ペットボトルに付いた水滴が小口なんかについたり、あまりよくなかった。
厚みを調節できないカバーも持っていたが、表紙と裏表紙をカバーに差し込むのが下手くそで、やはり本を傷めた。
昔CDショップで貰ったフライヤーに折り線が書いてあり、そのとおりに折るとCDジャケット柄の紙の文庫カバーになるものがあって、おしゃれで気に入っていた。使い回すうちにボロになってしまったので世の中のフライヤーすべてが文庫カバー仕様になればいいのにと思っていた。
今はCDショップでCDを買ったりフライヤーをもらう時代ではなくなってしまった。
10数年くらい前に角川文庫で2冊買って応募すると文庫ポーチをが必ず送られてくるキャンペーンがあった。
文庫ぴったりサイズで上に紐が付いていて巾着みたいなもの。シャカシャカした素材で、生地と生地の間に綿?が入っているのか、ちょっとふんわりしていて本の持ち歩きにはとても良かった。
しかし10年くらい使い続けてへたってしまい、今はファスナーで閉じられる文庫カバー(Amazonで600円くらいで買った)を文庫ケースがわりに使っている。カバーとしては使わず、紙のカバーをつけた本を包む道具として優秀。