はてなキーワード: 常用漢字表とは
> 「他」にそんな読み方ない
慶応年間に生れた漱石は「他」を「ほか」とも読ませていて、昔からある読み方なのは確かだと思われるけれど。
以前の常用漢字表には「ほか」という読みがなかったと言っても、そもそも常用漢字はあくまで「目安」でしかなく、日本語を規定するものでもない。
現に、『改訂 新潮国語辞典』(昭和52年 改訂第4刷発行)にも、「ほか」という語の、当用漢字(当時)音訓表には記載されていない字として「他」が書かれている。
常用漢字表 https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/pdf/joyokanjihyo_20101130.pdf
もともと言葉ってそういう性質のもんだぞ。独擅場→独壇場とかもそうだし。
「他」だと思う
「他」と書いて「ほか」って読むことね
「他」にそんな読み方ないのに、社会に出たらみんな普通に使っている
(ちなみに役所やちゃんと日本語知っている人は「ほか」と読ませたい場合は「外」と書く)
読み間違いの多い漢字の話題になったときも、「他」が出てきたの見たことがない
日本人の9割以上、間違っていることに気づいていないんじゃないかと思う
「凡例」とか「重複」とかでキャッキャキャッキャ騒いでいる場合じゃないだろ
「ほか」ってタイピングして変換すると「他」が変換候補に出てくるのもどうかと思う
よく使われているからって間違った文字を変換できるようにしていいものなのか
IMEとかgoogle日本語入力とか、なんかそういうの作ってる会社には、正しい日本語を守っていく義務もあるんじゃないのか?
いや、正しい日本語を守るとか大層なこと考えなくてもいいが、間違いを広めないというポリシーみたいなもんは持っててほしいんだけど
(追記)
なんかコメントで「他」は訓読みで「ほか」と読むって辞書に載っている、て書かれていて、そんな馬鹿なと思って調べたら、
平成 22 年に常用漢字表の改正があって、「ほか」と読むことが認められたらしい
(ただし、改正に伴う通知により、法令でも、法令以外の公用文でも、「ほか」とい う読みで「他」という漢字は用いないこととされている)
それは知らんかった
ただ、もともと「他」に「ほか」と読むのは間違いだったのに、みんなが間違えているからもういいよねって感じで、常用漢字にしたり、辞書に載せたりするのはどうなんだ
はてブのみなさんのなかに複数、「記事の指摘内容」自体は正しいものと鵜呑みにされている人がいることにやや危機感を覚えたので、逐一検証していきます。
準拠する用字用語ルールブックは、記事内では残念ながら指定されていないので、現物を所持しているという点で増田に都合の良い、2016年3月24日発行の『記者ハンドブック 第13版第1刷』を使用します。
なお、2022年3月に「記者ハンドブック」は第14版が出ているのですが、スタイルガイドは別に新しいものが日本語として正しいといった性質のものではなく、またたかが6年で様変わりするようなものでもないので、気にしないことにします。
厳密な話をするなら、増刷のたびに微妙な改訂があったりしますしね。
なお敬語や文法等の指摘は、表記集である記者ハンドブックの範囲外だと思われるので無視します。
また、面倒なので「【誤字】_カテゴリ別」のシートのみを対象にします。
誤用第1位として挙げられていますが、1位になるのも当然で偽ルールです。記者ハンドブックでは「比喩表現には「例え」、仮定表現には「たとえ」、「喩え/譬え/仮令/縦令」は常用漢字表外のため使用禁止」です。
これは正しいルールですが一方で記者ハンドブックには「「まぜご飯」など書き分けが難しい場合には平仮名書き」とあります。必ずしも正誤判定を行えるルールではありません。
例えば
などは、「調べて区別を付ける」ことは可能だが、調べるまでは「混ざっていて区別のつかない」状態を描写しています。
判定は難しいですが、記者ハンドブックは「混じる」の用例に「異物が混じる」を挙げていることも踏まえると、誤りとは言えません。
書き分け基準は正しいですが、『亘る』は常用漢字表外なので『わたる』と平仮名で書きます。
同上。『穿く』は常用漢字表外なので『はく』と平仮名で書きます。
同上。『窺う』は常用漢字表外なので『うかがう』と平仮名で書きます。
記者ハンドブックには「「料理を皿にのせる」など使い分けに迷う場合は平仮名書き」とあります。用例を見ても「猫を膝に乗せる」/ 「家畜を列車に載せる」などは違いがわかりにくいです。
の2点が揃えば「乗る」、2点に反すれば「載る」、片方だけ満たせば書き分け困難として「のる」とするのが妥当に思えます。
そうすると、
は「載る」ではなく「のる」に校正するのが正しいでしょう。
「押さえる」は「物理的圧迫」だけでなく、「確保する」「つかむ」も含みます。そうしないと「要点を押さえる」などが説明できません。
また「物理的圧迫」でも例外として柔道用語では「抑え込み」です。
要約すれば、「抑圧・弾圧・柔道」が「抑える」、それ以外が「押さえる」とするのが正確でしょう。
また、
- 持って帰りたい気持ちを抑えて
は「抑制」なので間違っていません。
これも記者ハンドブックに「使い分けに迷う場合は平仮名書き」とあるようにはっきりとは分けられません。
ただし、少なくとも誤用指摘をされている
- エアコンの効いた
等に関しては記者ハンドブック中に「冷・暖房が効いている」があることから、誤用指摘のほうが間違っていると言えるでしょう。
「沁」は常用漢字表外であり使用禁止。すべて「染みる」で問題ないのが記者ハンドブックルールです。
記者ハンドブックルールでは「敵う」/「適う」を区別しませんが、そもそもどちらも常用漢字表内の読み方に「かなう」がありません。平仮名書きが正しいです。
記者ハンドブックルールでは「散りばめる」/「鏤める」はどちらも誤用ではありませんが、「鏤」は常用漢字外なので使用禁止です。
表記統一のルールとしてひらがなで「ちりばめる」と書くのが正しいルールになっています。
「牡蠣」/「柿」は同音異義語です。牡蠣を柿と書いたら誤りです。しかし「かく」ならば、絵に対しても書に対しても両方に使える、ただの多義語です。「書く」「描く」という2単語があるわけではありません。
多義語も書き分けを行うことで、意味確定が楽になり読みやすい文章にはなります。しかし、「絵を書く」と書いたところで日本語として間違いにはなりません。あくまでプラスワンの基準と考えるのが妥当でしょう。
また、「書く / 描く」の書き分けルールくらい、多くの現代日本人の共通認識になっていれば、強い理由がない限り逸脱しないほうが良いといえるでしょうが、
でも「湧く / 沸く」の違いならどうでしょうか。そんなもの日本人のほとんどは意識していませんし、言語感覚は人それぞれで多様です。何かしらの書き分けを行うことによる読みやすさの向上は、仮にあっても微々たるものでしかありません。
共同通信の配信文などはその性質上個性を抑えた画一の文体が好まれますから、ルールを極めて細かいところまで定めることに意味が出てきますが
一方でオモコロのような個性が売りの媒体では、時にはルールから逸脱することもあるライターの言語感覚を反映させて、自由に書き分けることの方がよっぽど重要です。
記事の冒頭、
にマジレスすると「メディアの違いを理解せよ」ってやつですね。
そして、フォーマルな画一文の校正として見ても、『オモコロを校正する』は、準拠するスタイルガイド・用字用語集・辞書・文法書が指定されていないこと、および常用漢字表外の漢字の使用について明らかに無頓着であることがかなり気にかかります。
記事の著者は「普段、仕事で小説を読んでいます」と主張していますが、この人に仕事で校正してほしくないな……というのが本音です。
このブコメで異体字は「斉斎などの異体字は統合すべきだ」というようなブコメがいくつかある。異体字への認識が根本的に欠けていると言わざるをえない。
【斎・斉】
「斉」を「斎」の略字だと思っている人がいますが、どちらも常用漢字表にある別字です。斎がサイなのに対し、斉の読みはセイ。ただし、サイトウという姓には斎藤さんも斉藤さんもいます。俳優の斎藤工さんは、映画監督としては本名の齊藤姓で活動。「齊」は斉の旧字です。#そっくり漢字 pic.twitter.com/fgzBeAYj13— 日経 校閲 (@nikkei_kotoba) March 14, 2023
この日経新聞校閲アカウントの説明が簡潔にまとまっているが、「斉」「斎」ともに常用漢字表にある別字なのだから斎を斉にしろという主張はめちゃくちゃなのである。
「『希ガス』が『貴ガス』に変更されたし『貴重品』も『希少品』も似たようなものだから『貴族』を『希族』と書き換えても問題ないだろう」とか主張したらめちゃくちゃ言うなと思うだろう。「斎の字を斉に統合しろ」というのはそのくらい無茶苦茶な主張だ。
同じにするべきだと主張するならば、ひとまず「斎場」「書斎」を「斉場」「書斉」などと表記するようにして広く一般に同じ字だとみなされる状況を作るところから始めるべきだ。
公用文作成の要領
丁目の漢数字とアラビア数字について
東京都住民基本台帳事務質疑応答集63には以下のことが書かれてあります。
住民登録法のもとでの先例である「住居表示に関する法律の施行に伴う住民登録の取扱い」(昭37 ・5・29 民事甲1448 号通達)による住民票上の横書の場合の記載例は,アラビア数字となっている。
これは,横書の場合は,そうした表記が慣習であり,能率的であることから取られた措置であると考えられる。
したがって,固有名詞という概念からすれば,漢数字による表記をすることが適当と考えるが,便宜上アラビア数字による表記をしても差し支えない(参考:昭38 ・7・9民事甲1947 号回答)
https://oreooreooreo.seesaa.net/article/201303article_11.html
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通達により、便宜上「第1三共ビル」とされている場合もあるので、
夫婦別姓は選択肢を増やすだけで別姓にする選択肢を選ばない人には無害だとする論がある。選択肢は多ければ多いほど良いのだと。現在ある制約を緩くして選択肢を増やしていく思考実験をしてみよう。
選択的夫婦別姓が達成された世界であっても田中さんと鈴木さんが結婚した時には田中さんは田中さん、鈴木さんは鈴木さんに留まるだけであり新たな姓を作ることはできない。新たな姓を作ることができる世界だとどうなるだろう。田中さん鈴木さんが結婚して同じ超合金という姓を名乗ることも、田中さん鈴木さんがそれぞれ超合金さんと木材さんになることだってできる。選択肢を増やすのは良いことだ。多様な名前の楽しい世界になるだろう。
新たな姓を自由に設定できる世界では更にややこしい制約が発生することだろう。どんな文字を使えるのかという制約だ。現行法では子供の名前に使われる文字に関して戸籍法が定めている。
とあり、この常用平易な文字というのは戸籍法六十条において以下のように定められている。
戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
一 常用漢字表(平成二十二年内閣告示第二号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
二 別表第二に掲げる漢字
これを鑑みるに、姓が自由に決められる世界では次のような制約が発生するだろう。
新姓を設置できる新たな世界は素晴らしいが現状では常用漢字プラスアルファとカタカナひらがなしか使えない。これは不便だ。新姓をつくる際に使えない文字が存在するのは不便だ。外国人と結婚した際にその外国人の姓を名乗ることを決めた場合であれば発音が違うのに無理矢理カタカナを使うことを強制される。不便だしアイデンティティーの喪失につながるだろう。
文字制約を緩めるのは非常に難しい問題だ。どこまでの緩和を認めるのか。ローマ字も良いのか、漢字は簡体字も含めるのか、アラビア文字も許すのか。現状世界中の文字を一手に扱え最も普及しているものとしてはUnicodeがある。最新のUnicodeに含まれる文字は全て許すとすれば制約はかなり緩まると考えられる。新姓も子の名もUnicodeに含まれる文字なら許されるというように変えれば自由度は格段に上がるし選択肢も増える。選択肢の多い世界は素晴らしい。例えば㍻㍍くんという名前も合法だ。人種に配慮した名前の付け方もできる。👋🏿くんも👋🏻ちゃんも存在可能だ。多様性に配慮し選択肢の広まった素晴らしい世界だ。
夫婦別姓、新姓の自由を手に入れ、文字の選択肢の自由も手に入った世界になったは良いが未だに問題は残っている。別姓を名乗っていたのに同姓にした場合、またはその逆、または新姓を名乗りたくなった場合はどうするのだろうか。現状の世界では戸籍上の氏の変更には家庭裁判所の許可が必要だ。そして裁判所法第七十四条には「裁判所では、日本語を用いる」とある。せっかく文字の自由を手に入れたのに日本語以外の文字だと問題が起きてしまう。より選択肢の多い自由な世界を手に入れるためには家庭裁判所の許可の要請を廃止するか、裁判所法を改正する必要があるだろう。
面倒なのでこの際どちらも変えてしまおう。戸籍の氏の変更に家庭裁判所の許可は必要ないし、裁判では日本語を使う必要もない。素晴らしい世界だ。選択肢が増え世界は良くなった。
俺に無断で俺を含めたみんなの物事を勝手に決めるんじゃない______。
学校でよくある話だが、声のデカい奴らの意見がクラスの総意のように扱われることがある。
わかったわかった。お前らが団結したのはわかった。B組の絆もわかった。だけど、それを俺にも押し付けるな。
とにかく、私には嫌いなことがある。
1つは、花言葉を“語られる”こと。
もう1つは、今日は〇〇の日だという“話題を振られる”ことだ。
だが、さも当然、私もそれに納得するものだという前提を持ったまま、その話題を振られるのがなによりも嫌いだ。
例えば、日本の園芸協会みたいな、とにかく花言葉を管理している団体(知らんけど)が、バラの花言葉が“愛”や“美”であると決める。そうか。勝手にやっていてくれ。
だが、誰かが私に対して「バラの花言葉は“愛”なんだよ」と話しかけてくる。
私はそれに同意していないし、私がバラに対して持っている権利、否、すべての人間がバラに対して等しく持っている権利を、団体という一部の人間によって侵害された気分になる。
私にそれを押し付けるな。
〇〇の日も同様だ。例えば2月22日をネコの日として盛り上がる。いいじゃないか。
だが、私に対して「今日はネコの日なんだよ」と2月22日に話しかけてくる。馬鹿言え。私がネコに対して持っている権利を侵害するな。私はそれを認めていない。
「みんなのもの」に対して「一部」が定めたルールを「みんな」に適用することが、非常に苦手なのである。
前置きが長かった。本題に入る。
私は塾でアルバイト講師をしていたことがあった。基本的になんでも教えるのだが、特に国語の授業を担当することが多かった。
そうすると生徒に漢字に関するアレコレを言われることがある。
答えは、“生”もしくは“下”だ。純粋な質問なら答えるし、自慢したい風ならば、わざと知らないふりをして生徒に言わせる。
だが、それは限定的な話だ。
そして常用漢字表の“生”の音読みは「ショウ」と「セイ」が、“下”の音読みは「カ」と「ゲ」が載っているだけであり、ほかの漢字と大差ない。
つまり、こいつらは「訓読みで読みの数を稼いでいる」のである。
例えば“生”は、「苔生(む)す」と読めるが、これは常用漢字表にはないし、“下”は「ひく(し)」など、おおよそ“低”のような感じで読むことがしばしばある。
そして“生”や“下”以外にもそのように色々な読み方(特に訓読み)をできる漢字は無数にあるわけである。
訓読みは「漢字の日本語での意味」を出発点としているから、どこまでが訓読みでどこからが意読かは判然としない。
したがって、どの字が一番読み方が多いか、などというのは、そもそも成立しない質問なのである。
多様な読み方ができるはずの漢字に対して、「文科省が設定した常用漢字」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
また、筆順の話もしておきたい。
筆順なんてものは文部省(当時)が設定したものであり、しかも、文部省ですら、参考であって絶対の基準でないと明言している。
そもそも、現代の筆順があるのは、単に「そういう順番で書くと伝わってきた」からである。
字というよりも図のニュアンスが強い甲骨文や金文などから当時の筆順を判別することは難しく、また、仮に史料から筆順を解析できたとしても、一定の基準があったかもわからない。
完全に推測なので根拠はないが、当時の人は特定の筆順を持たずに、その場その場で書き(描き)やすい順番で書いていたのではなかろうか。
日本において文部省(当時)が国語を教える上での筆順を策定する際には、流派によって筆順が違う字も多く論争があったというし、日中で筆順が違う漢字も多い。
また、常用漢字以外には筆順が設定されていないという現実もある。
もちろん、私は筆順が不要という論者ではない。
漢字を書く際の大原則(上から下、左から右、など)を理論でなく体で体得することは非常に重要で、それこそ教育漢字の筆順を習得することでその後の漢字も自然な筆順で書くようになることができると思うし、
しかし、筆順の問題を出題するような学校や塾のテスト、特に、テレビのクイズ番組は本末転倒であり、無意味と言わざるを得ない。
多様であるはずの筆順に対して、「文科省が設定した基準」が、唯一絶対の真実かのように、私に向かってくる。
これが嫌なのである。
いわゆる異体字というやつで、現代の活字文化で目にすることは少なくなってしまったが、手書きではよく見られるものである。
当然だが、文字の絶対的に必要な要件は、“意味を伝えること”である。私たちは本質的に意味を伝えたくて文字を紡いでいるはずである。
したがって、字形も当然“同じ字として認識できる範囲で”揺れていいはずである。
もちろん、学校の漢字の書き取りで異体字を書くのは勘弁してほしい。そこは国の定めた基準に従ってほしい。しかし、それ以外の場面で漢字が基準と違ったとしても、とやかく言うのはどうにかしてほしい。
伝わることに意義があり、伝わったから正しい字形を指摘できるのだろう。じゃあいいじゃないか。
当然だが漢字は漢字を使う皆のものであり、文科省が完全に管轄できる存在ではない。
しかし、子供たち(否、塾で対面するのが子供というだけで、大人の大部分もそうだろう)はそれを唯一絶対の真理として内面化している。
子供のうちはそれでいいだろう。一度型に嵌めて教えたほうが色々考えやすい(それでも筆順を徒に問うようなテストには反対だが)。
しょーもない漢字の雑学本やら、漢字のクイズやら、最近だと特にバラエティ系Youtuberのクイズ企画/学力テスト企画に顕著だが、大人たちが無意識的にこの基準を唯一絶対の真理かのように誤解しているさまは、見ていて虫唾が走る。
11月11日はポッキーの日。これはいい。ポッキーはグリコが完全に管轄しているから。
ながらくイライラしてるだけで理由について考えたことなかったけど、花言葉とか〇〇の日と同じなんだなって気づいた、だいたいそういうお話。
ーーー追記あれこれーーー
〇その1
当たり前だが私は瞬間湯沸かし器ではないので、他人に花言葉/〇〇の日の話題を振られたからと言ってブチ切れるわけがないし、たぶん不愉快な表情一つせず、無難な会話を続けることができる。
〇その2
誤読してほしくないが、常用漢字や教育漢字の否定をしたいわけではない。それが必要だから存在していることはわかっている。ただ、それを“ただ一つの真実”かのようにすること、
つまり“それ以外を誤りである”とするような態度に対して非常にイラついているのである。多数の正解を認められないことにうんざりしているのだ。
〇その3
花言葉は例が悪かった。バラが美の象徴であることは(記事と矛盾しているが)私は実は了承している。漢字という伝統を受け継ごうという意欲を見せている私がバラの花言葉(というか花のもつイメージ)に反対しているわけがない。
もっとこう、バラがn本の時はこれこれこういう意味で~、とか、〇〇は色によって意味が変わってX色では~、とか、明らかにその品種“伝統”がないよな?みたいな花とか、そういうタイプの花言葉を私は了承していないのである。
了承していないだけなら問題がないが、そうした“話題を振ってくる”のが苦手なのだ。
〇その4
この話題は、誰もが経験したことがある「お前の普通を俺に押し付けるな」という話題に決着する。
子供に顕著だが、自分の常識は他人にとっても常識だと思ってしまうことがある。子供は平気で友達の名前に代表される固有名詞を説明なしに会話にぶち込んでくる。
これには理由がある。ピアジェの発達理論に従えば2~7歳の子供は自他の認識の区別がつかないらしい。
だからかくれんぼで目をつむれば他人から自分の姿が見えていないと思うし、自分の知っている友達は当然会話の相手も知っていると思っている。
子供ならかわいらしいが、大人にこれをやられると「自分への配慮を蔑ろにされた」気がして腹が立つだろう。
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/shoiinkai/iinkai_21/pdf/shiryo_3.pdf
重いが、この文化庁の資料の8ページには下が点三つの「糸」を「いろいろな書き方があるもの」の例として上げている。
増田が筆書に色んなパターンがあるのを知らないのに、まるで他人が無知かのように言うのは良くない。
追記:こっちも重いが常用漢字表の8ページを上げた方が良かったな。http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/pdf/joyokanjihyo_20101130.pdf
「改」っていう字さ、「己」の最後はねなくてもいいらしいよ
あと別に「木」の二画目ってはねても大丈夫らしいし、「女」の二画目が飛び出ても大丈夫らしいし、「牧」の「牛」もはねていいんだってさ
”しかし,当用漢字字体表と常用漢字表が60年以上にわたって示してきた字体・字形に 関する考え方は,十分に理解されているとは言い難い。現在の社会生活においては,この 考え方が理解されていないことによって,本来は問題とする必要のない漢字の形状における細部の差異にまで必要以上に注意が向けられ,それが正誤の基準とされたり,漢字を手 書きするときの習慣と印刷文字の習慣とが理解されず,どちらかの字形が誤ったものであ るとみなされたりするなどの状況が生じている。”
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/shoiinkai/iinkai_16/pdf/shiryo_3.pdf
だってさ
結論から言えば、「令」の字の下は「ア」「マ」どちらでもよい。
両者は同じ字だ。
「令」は、活字では「ア」のようになるが、
手書きでは「マ」と書く。
もともと手書き「マ」だったのだが、
活字「ア」を目にすることが増えたため、
「ア」(だけ)が正しいと思って(誤解して)いる人が多い、
というのが現状。
同じ字なんですよ。ご了承くださいね」というならわかる。
でも別に間違いではない。趣味の問題。そう書きたいなら書けばよい。
「「マ」は間違い」と言い出すと面倒。
「戸籍は「ア」になってる」とか言い出す。
だが、手書きで「ア」と書くのは間違いではないし、本来「ア」が正しい。
まあ、当人が言うんだから、と筆耕の先生が手書きで「ア」と書くことになる。
それで間違いではないし。
ただ、そうこだわる時点で「ア」「マ」を別字だと思ってるわけで
その人は誤解をしている。
わかった上で「ウチの字は「ア/マ」だ」と言っているならいいんだけど。
●参考
「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(文化審議会国語分科会)の概要
間違いがあったら指摘よろしく。
洞道(とうどう、英語: cable tunnel/英語: service tunnel)とは、通信ケーブル・ガス管・送電線などの専用管路トンネルのうち、
特に敷設・撤去・保守作業用に人が立ち入れる管径のものを指す。常用漢字表外の訓読みのため、とう道との表記も一般的。
1925年、東京都中央区に開削式で作られた電信用通信線管が日本で最初期の洞道とされている。
地上に影響を与えないシールド工法式としては1963年に東京都港区白金に作られた電話線用管が最初とされている。
インフラを支える施設だが、NTT(旧電電公社)が敷設したものだけでも総延長は600kmにもおよび、うち40%が敷設から40年近く
もともと「かわゆし」という古語があり、
そこから「かわいい」あるいは「かわいそう」という言葉(もちろん和語)が生まれました。
よって、どう書くのが正しいのかという規範はありません。
常用漢字表などの現代正書法に従えば、「かわいい」「かわいそう」と仮名で書くのが正しい、
ということになります。
よって、公用文や学校教育、新聞などでは「可愛い」「可哀相」という表記法は用いられません。
ただ、個人の言語活動でにおいては、この場合どのような表記法を用いても非難はされません。
漢字の意味にこだわって、「かわいい」を「可愛い」、「かわいそう」を「可哀相」と書き分けても
いいでしょう。