はてなキーワード: ギリシアとは
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
わたしは列車に乗っていて、窓の外には故郷のつまらない景色が続いていく。たしかにそれはわたしがよく使った通学路のようだった。それは昭和初期の映像のように、或いは水墨画のように一切の色彩を失っていて、瘴気すらも漂う鬱々しい景色が延々と続いていく。
トンネルに入った。いったん暗転したかと思うと、突然に開けた場所に出る。すると列車はどうやら巨大なダムのような、円状の石造りの壁面に沿って走っている。眼下には低きに碧い湖が広がっており、窓から望む向かいの壁面には一面に黄やオレンジを基調とするカラフルな家々が立ち並び、そこからさらに右へ進むとギリシア風の白と青の街並みが広がっている。それらの街は圧巻であり、ぴかぴかと光るように鮮やかだった。夢のなかで、わたしはこれが夢であることを認めており、夢においてこれほどまで明瞭な映像的演出がなされていることに驚かされた。
目を覚ますと、白くほのかに昏い部屋には真白のベッドに横たわるわたしと、無機的な秒針の音だけが残されていた。飲みかけにしていたコカコーラ・ゼロを喉へと流し込むと、ぬるくなって気の抜けた、嘘のような甘さが口のなかに広がった。ちらちらと雪の舞う日曜日の昼下がりのことだった。
「戦前・戦時中の日本と同類の好戦的な国家から、大規模テロ攻撃を含めた軍事的な攻撃・脅威を日本に加えられた場合に、どのように対応するか?」についての政軍略プランについて。
「平和憲法に殉じて、無抵抗を貫いて大人しく殺されるべきである」や「逃げるのが可能な人間から先に逃げればよい」から「今のうちに憲法を改正してシビリアンコントロール体制を整え、即応できるように準備しておく」や「米軍無し日本単独でも戦えるだけの国軍として軍事力アップ」まで、何でもよいから忌憚のない意見を聞きたい。
一つ想定されるのは「外国が日本を武力攻撃することはありえない。だから備える必要は無い」と主張して議論を避けるというケースである。しかし、私は少なくとも一つ、場合によっては日本への武力攻撃をも辞さない国家の心当たりがあるので、これについては「『日本が他国から武力攻撃を受けることはありえない』というのはありえない」と言っておく。その日本への武力攻撃をも辞さない国家とは、アメリカ合衆国のことである。
「何を馬鹿な」と言われるかもしれないが、アメリカという国家は、それ以前は友邦であった国家や地域であっても、ひとたびアメリカ自身の理由が生じれば武力攻撃を厭わない国家である。私の言うことが嘘だ と思うならば、イラクその他の国家や地域のことを思い出せばよい。
現在の日本においては軍事・国家安全保障に関する問題を論じる場合、左右を問わずア・プリオリに「日米が再び戦争になることはありえない」と前提してから議論が行われている/行われてきたように私には見える。例えば「北朝鮮や中国やロシアが日本を攻撃するか否か」のようにである。しかし果たして、そうだろうか?北朝鮮や中国やロシアの他に、日本を武力攻撃する可能性のある国家として、アメリカ合衆国の名前は挙げられ得ないのであろうか?
少し前は「アメリカの覇権が衰えつつあるのだから、これからの日本は、もっと中国に接近するべき」というような主張も見かけた。今でも見かける。もしかしたら今後の政局次第では、日本に親中政権が樹立して、中国への接近が実現するのかもしれない。その場合に日本で起こると考えられるのが、アメリカのインテリジェンス機関によるクーデター工作を通じた親米の傀儡政権樹立作戦(このようなクーデターは昔のギリシアで実際に起きた)、親中派日本人への暗殺テロ作戦などである。こうなれば、中国も同様のことを仕掛けるであろう。その後に待つのは何かと言えば、米・中によるインテリジェンス工作を受けて駒となった日本人同士で行われるテロ合戦や軍事衝突という内戦であり、それらを一挙に『解決』するために行われる空爆などの大規模軍事攻撃である。もちろん「そうなった場合には、中国と新たな同盟を結んでアメリカと戦争しよう」「軍事的な実力差があって負ける可能性は高くても、アメリカと戦争するべき」「アメリカに対して再度のカミカゼ攻撃も辞さない」とかいう意見も、それはそれで一つの意見である。
何にしても「場合によっては、あっけなく日本が戦場になることは起こり得るのだ」という認識に基づいた上での意見や議論が聞きたい。先の選挙では立憲民主党や共産党は議席を減らしたが、彼ら野党だけでなく与党もまた、早晩このような議論を迫られる日が来る。それを有権者は注視している。「考えたくもない嫌なことだから、議論を避けて誤魔化す」という手法をとる政党や政治家は、必ず見抜かれる。仮に平和憲法に殉じて無抵抗を貫くと主張するにしても、きちんと無抵抗主義の実行に伴うと想定される死者数や損失を明示した上で「たとえ殺されても無抵抗を貫こう。国民である貴方も大人しく殺されて下さい」と政治家や知識人は主張するべきである。選挙の勝敗だけでなく、理念を提示することも政党や政治家には求められると言うのであれば、それが筋であろう。それは軍事力の増強を主張する側も同様であり、武力により応じる場合に想定される死者数や損失を明示した上で「それでも武力で戦う方が、国家全体では少ない損失になる。だから、たとえ死ぬ可能性があろうとも戦争になれば、国民である貴方も戦って下さい」と主張するべきである。繰り返しになるが、嫌な話を誤魔化さないで欲しいのである。
「戦前・戦時中の日本と同類の好戦的な国家から、大規模テロ攻撃を含めた軍事的な攻撃・脅威を日本に加えられた場合に、どのように対応するか?」についての政軍略プランについて。
「平和憲法に殉じて、無抵抗を貫いて大人しく殺されるべきである」や「逃げるのが可能な人間から先に逃げればよい」から「今のうちに憲法を改正してシビリアンコントロール体制を整え、即応できるように準備しておく」や「米軍無し日本単独でも戦えるだけの国軍として軍事力アップ」まで、何でもよいから忌憚のない意見を聞きたい。
一つ想定されるのは「外国が日本を武力攻撃することはありえない。だから備える必要は無い」と主張して議論を避けるというケースである。しかし、私は少なくとも一つ、場合によっては日本への武力攻撃をも辞さない国家の心当たりがあるので、これについては「『日本が他国から武力攻撃を受けることはありえない』というのはありえない」と言っておく。その日本への武力攻撃をも辞さない国家とは、アメリカ合衆国のことである。
「何を馬鹿な」と言われるかもしれないが、アメリカという国家は、それ以前は友邦であった国家や地域であっても、ひとたびアメリカ自身の理由が生じれば武力攻撃を厭わない国家である。私の言うことが嘘だ と思うならば、イラクその他の国家や地域のことを思い出せばよい。
現在の日本においては軍事・国家安全保障に関する問題を論じる場合、左右を問わずア・プリオリに「日米が再び戦争になることはありえない」と前提してから議論が行われている/行われてきたように私には見える。例えば「北朝鮮や中国やロシアが日本を攻撃するか否か」のようにである。しかし果たして、そうだろうか?北朝鮮や中国やロシアの他に、日本を武力攻撃する可能性のある国家として、アメリカ合衆国の名前は挙げられ得ないのであろうか?
少し前は「アメリカの覇権が衰えつつあるのだから、これからの日本は、もっと中国に接近するべき」というような主張も見かけた。今でも見かける。もしかしたら今後の政局次第では、日本に親中政権が樹立して、中国への接近が実現するのかもしれない。その場合に日本で起こると考えられるのが、アメリカのインテリジェンス機関によるクーデター工作を通じた親米の傀儡政権樹立作戦(このようなクーデターは昔のギリシアで実際に起きた)、親中派日本人への暗殺テロ作戦などである。こうなれば、中国も同様のことを仕掛けるであろう。その後に待つのは何かと言えば、米・中によるインテリジェンス工作を受けて駒となった日本人同士で行われるテロ合戦や軍事衝突という内戦であり、それらを一挙に『解決』するために行われる空爆などの大規模軍事攻撃である。もちろん「そうなった場合には、中国と新たな同盟を結んでアメリカと戦争しよう」「軍事的な実力差があって負ける可能性は高くても、アメリカと戦争するべき」「アメリカに対して再度のカミカゼ攻撃も辞さない」とかいう意見も、それはそれで一つの意見である。
何にしても「場合によっては、あっけなく日本が戦場になることは起こり得るのだ」という認識に基づいた上での意見や議論が聞きたい。先の選挙では立憲民主党や共産党は議席を減らしたが、彼ら野党だけでなく与党もまた、早晩このような議論を迫られる日が来る。それを有権者は注視している。「考えたくもない嫌なことだから、議論を避けて誤魔化す」という手法をとる政党や政治家は、必ず見抜かれる。仮に平和憲法に殉じて無抵抗を貫くと主張するにしても、きちんと無抵抗主義の実行に伴うと想定される死者数や損失を明示した上で「たとえ殺されても無抵抗を貫こう。国民である貴方も大人しく殺されて下さい」と政治家や知識人は主張するべきである。選挙の勝敗だけでなく、理念を提示することも政党や政治家には求められると言うのであれば、それが筋であろう。それは軍事力の増強を主張する側も同様であり、武力により応じる場合に想定される死者数や損失を明示した上で「それでも武力で戦う方が、国家全体では少ない損失になる。だから、たとえ死ぬ可能性があろうとも戦争になれば、国民である貴方も戦って下さい」と主張するべきである。繰り返しになるが、嫌な話を誤魔化さないで欲しいのである。
かつて趣味で小説を十年近く書いていた者だ。俺も理系だが、理系は歴史を学ぶ上で決して弱みではない。むしろ、物事を大局的に眺め、出来事の意味や結果をロジカルに考えるうえでは助けになるし、論理的な文章も得意だろう。なので、自信をもって執筆に向かってほしい。
とはいえ、いきなり中世ヨーロッパを舞台にした小説を書くのは難しい。農民であれ騎士であれ、生活の細部を思い描こうとするだけで筆が止まってしまう。朝起きて顔を洗い、用を足して食事をする、その半時間のことなのに細部がさっぱりわからず、筆が進まない。ありがちな悩みだが、深刻な悩みでもある。
仮に十年前の日本を舞台にした小説を書こうとしても、「当時はスマホが既にあったか」「はやっていた音楽は何だったか」「あの事件はもう起きていたか」など、俺たちの記憶は甚だ頼りなく、資料に頼らざるを得なくなる。ましてや、生まれる前の出来事など仮定に仮定を重ねた蜃気楼のようで、資料なしでは立ちすくんでしまう。よくわかる。なので、俺が読んで面白かった本を共有したい。
ところで、増田は世界史を勉強したいと述べているが、どうも「小説を書くための中世ヨーロッパの知識が欲しい」と「知識欲から漠然と世界史について学びたい」が混在しているようだ。ブクマやレスを見ると、その両方に対する回答がある。俺は、ひとまず前者について答えたく思う。後者については、中央公論社の「世界の歴史」シリーズか、講談社の「興亡の世界史」を読んで、そこから気になったキーワードからどんどん広げていくといいと思う。なお、俺は前者しか通読していない。
さて、過去の世界を生々しく想像するためには、俺は四つの視点が必要だと考えている。数理的視点、物質的視点、非物質的視点、それからエピソード的視点だ。以下、それぞれについて述べる。各々の視点に応じて、手に取るべき書籍は異なってくる。
さらに、この四つの視点があると、頭の中で歴史の知識を整理するのに役に立つ。少なくとも俺にとってははやりやすい。
過去の世界は偉大なようだが、人口は現代よりも少なく、都市の規模は小さく、穀物や工業製品の生産量も少ない。そういうわけで、もしもタイムスリップして中世の大都市を眺めたとしても、その小ささに俺たちは意外さを覚えるかもしれない。確かに現代にも通用する芸術作品はあるかもしれない。時代は異なるが、ピラミッドや紫禁城のような壮大な建物もあるだろう。とはいえ、庶民はそんな生活とは無縁であったはずだ。パリの城壁は今や環状線であるが、今のパリの都市圏はそれを越えて広がっている。
さて、小説を書く上ではリアリティが必要になる。それを支えるのが数の感覚だ。例えば、ある国家の人口がどれくらいで、即時に動員できる兵士がどれくらいで、都市と都市の距離がどれくらい離れており、移動速度はどれくらいか。集落の規模はどの程度か。船舶で運べる量は。モデルとする時代の数字をおおよその知っておくことで、明らかに不自然な描写は減らせるだろう。このあたりについては「銃、病原菌、鉄」や通史的に世界の人口を扱った書籍が助けになると思う。細かいことは気にしなくていい。オーダーが合っている程度で充分だ。数字を確かめるだけなら、ウィキペディアだけでもいい。これは英語版を併用することを薦める。
要するに衣食住の細部だ。先ほど騎士や農民の一日を想像するのが難しいと述べた理由はこれになる。増田が必要としているのはおそらくフランシス・ギースの出しているシリーズだ。都市や農村、城の生活が細かく書かれている。
他に、当時栽培されていた植物や動物については、「世界史を変えた50の○○」シリーズもいい。ある素材が手に入るか入らないか、あるいは知識の有無だけで国の命運が変わるというのは、たびたび起きてきたことだ。中世ではないが、例えばヒッタイトで鉄の製法が独占されたこと、柑橘類で長期航海の敵、壊血病が防げるとか、そうしたことだ。
また、具体的な書名はいちいち挙げられないが、図版の多い図解○○のようなシリーズも良い。もし、増田が視覚的にものを考えるタイプならなおのことだ。慣れていくと建築や芸術の○○様式というのが何となくわかるようになってくる。
加えて、児童書も侮っては行けない。専門家が監修した子供向けの本は、えりすぐりの内容を含んでいる。仮に含まれていないとしても、これだけは伝えておきたいという基礎知識は抑えてある。これは立花隆が言っていたことだったと記憶しているが、なじみのない分野を学ぶためには基本的な内容の本を三冊読むといいそうだ。なぜなら、本当に大事なことはその三冊すべてに書かれているからであり、結果的にその分野の基礎を身に着けることができる。
これは当時の人間が何を知っており、どんな風に考えていたかを指す。直接は物質として残らない、人の頭の中にあった知識や文化にまつわることだ。当時の科学知識、価値観、法律、迷信などもここに含めてよい。
さっき中世人の朝を想像するのが難しいと述べたが、昼以降の社会生活を想像するのはこれでさらに難しくなる。
たとえば俺は異世界ファンタジーをあまり読まないのだが、中世には叫喚追跡という風習があった。当時のイングランドの自由市民は犯罪が生じた場合には、その犯人を逮捕・処罰する義務を負っていた。隣保組織の長は角笛を吹き、大声で喚声をあげながら犯人を追跡しなければならず、また周囲の住民もその指揮に従って追跡に加わることが義務付けられていた。しかも、この協力を怠った住民に対しては制裁が課せられる。寡聞にして、こういうファンタジー小説は読んだことがない。
ここまではいかないにしても、海外文学を読むとなじみのない、ちょっとしたジェスチャーや迷信に出会うことがある。欧米だと、指を交差させることで幸運を祈るし、ロシア人は今でも扉越しに握手をすることを嫌う(宇宙ステーションでさえ)。この辺にリアリティは宿る。ジェスチャー関係なら、中世とは少しずれるが「常識の世界地図」が面白い。
法に関しては詳しくないがが、習慣や生活については先ほど述べたフランシス・ギースの本が参考になると思う。価値観では「中世の秋」がいいだろう。科学史については、増田は理系だから「磁力と重力の発見」を薦めたい。難易度はかなり高いが、知識がいかに科学になっていくかを肌で感じられる。
当時の職業に関しては、未読だが「十三世紀のハローワーク」がいいらしい。
キリスト教・宗教史に関しては、聖書のエピソードの概略や聖人伝を知っているといい。絵画が好きなら名画で学ぶ○○といったシリーズがたくさん出ている。ただし、聖書がわかったからと言ってキリスト教がわかったことにはならないので注意。
これは著名な人物の伝記に関する話だ。あるいは、当時の人々が親しんでいた物語も含めてもいい。こういう偉人の伝記や小話をたくさん知っていると、歴史好きの物知りとしてマウントを取ることができるが、その出来事が世界史上でどのような意味があったかを語れなければ、自己満足で終わり益は少ない。とはいえ、興味深いのは確かで、プロットの参考になるかもしれない。
このあたりの知識のためには、児童書も含めて伝記を読みあさることになる。または、ハプスブルク家の歴史だとか、各国史だとかを扱った新書を乱読する。絵画に興味があるなら、これも名画で見る○○のようなシリーズがおすすめだ。
当時の人々に身近だっただろう中世の騎士の物語については、ブルフィンチがアーサー王伝説、シャルルマーニュ伝説をまとめている。それとは別に「マビノギオン」も面白い。とはいえ、いきなり原典に当たる必要はなく、入門書を読めばいい。
ギリシア・ローマ神話は呉茂一の本が細かいところまで網羅しているし、ホメロスもオウィディウスも岩波文庫に入っているが、呉茂一の本は初心者には細かすぎるし、原典に当たるのは趣味の領域だから、小説を書くなら入門書で充分だと思う。同様の理由で、「史記」だとか「ローマ帝国興亡史」なども趣味に属する。当時ならではの視点は面白いが、鵜呑みにできない誤謬もあるだろう。
もちろん、単純に上記の分類にすべて本が収まるわけではない。大抵の通史・各国史はこれらを兼ね備えている。
以下、何となく面白かったものを思いついたままに書く。「中世ヨーロッパの歴史」「十二世紀ルネサンス」「ケルトの水脈」「西ヨーロッパ世界の形成」(ただしこの本は著名な王の事績がほとんどの載っておらず、当時の価値観や考え方についてのページがほとんどで、そこがアマゾンで叩かれている)。それから、隣人からの視点として「「イスラーム」から見た世界史」「アラブが見た十字軍」など。
書き洩らしているかもしれないが、今のところ思いつくのは以上だ。
他に、中世を舞台にした小説・映画もおすすめだ。難解だが読み応えのあるミステリ「薔薇の名前」、SFだが「異星人の郷」がいい。「大聖堂」は未読だ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」はコメディだが細部の正確さは中世映画随一であるとのこと。毒のある笑いに抵抗がなければおすすめ。
中世風の舞台を描くために中世について勉強する。素晴らしいことだ。俺は敬意を表する。それに読んでいるうちにどんどん楽しくなってくるだろう。何かを知る、これは純粋な喜びだ。
だが、小説を書く以上、ある程度は想像力で補わないといけない。ある場面を書く際に必要な情報があるとしても、そもそもその資料は存在しないかもしれない。研究者でさえわからないことは多い。俺もこれだけ読んできたが、わからないことだらけだ。むしろ、疑問が深まった感さえある。細部も忘れてしまった。増田はぜひ自分で本を買ってメモを取るなり線を引くなりしてほしい。読み飛ばさず、時間を掛ければそれだけ得るものも多いだろう。
もっとも、描写に困った場合は、該当シーンを省いてしまうのも手だ。小川哲がどこかで述べていたが、ある歴史SFを書くときに、細部を省略したシーンがあるという。ストーリーにあまり関わらない部分を省くのは、立派なテクニックだ。読者だって中世建築の細部について延々読まされても困るだろう。
もうひとつ忘れてはいけないのは、増田は研究者になろうとしているのではなく、小説を書こうとしている、ということだ。知識は目的ではなく、手段だ。これを忘れてしまうと、他人の設定の粗を探したり、中世なのに価値観が現代的なのを揶揄し始めたりする。こうなると、物語世界を素直に楽しめなくなる。
大事なのは歴史的正確さよりも、読者を喜ばせることだ。そういう意味では、演出として火薬が出てきたっていい。あるいは、読者が感情移入しやすくするように、人を殺してなんぼの武将ではなく、戦争で人を殺すことをためらう武将として、描写する必要がある(ドラマの戦国武将がやたらと戦争を嫌い、優しいのはそのためだ)。異世界ファンタジーの読者が読みたいのは中世ではなく、中世っぽいものだ。そもそも中世ヨーロッパ風なのに唯一神を信じていないファンタジーは多い。
そういう意味では、本を読んでもその知識が直接生きることは少ないかもしれない。くれぐれも、読者に向かって知識をひけらかしてはいけない。あるシーンの正確さのために資料に当たるのはいいが、その成果を延々披露しては読者のストレスになるだけだ。もちろんそういう衒学的な歴史小説もあり、固定ファンはついているが、ネット小説の読者には少ないだろうし、ネット小説の肝であるPVを稼ぐことにはならない。これはいい悪いではなく、ネットと書籍の媒体の差だと思っている。
また、レッドオーシャンの中世ヨーロッパ風ファンタジーに飛び込むのなら、正確さよりも作者の専門知を活かしたものの方が(ブクマで書いている方もいるが)読者の目に留まりそうである。そして、くどいようだが、これだけおすすめの本を書いてきたが、読者が欲しいのは正確な知識ではなく血沸き肉躍る物語である。
だが、作者にとっての最大の危険は、どんな物語よりも過去に起きた事実の方が面白いのだと気づいてしまうことだ。この罠にはまると、どんな小説も所詮作り事と思われて素直に読めず、何を書いてもむなしくなってしまう。言い換えるなら、創作欲が知識に殺されてしまう。増田には、これに一番気を付けてもらいたい。
それを防ぐには、面白い小説を読み、面白いものを書くこと、これに尽きる。先行作品としての中世ファンタジーを愛し、数多く読み、繰り返し読むこと。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
1位15個のギリシア人ってなに?w